おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その6。サイクリングロード。北総線・新柴又駅。

2020-06-30 21:14:41 | 沿線歩き

       江戸川の堤を北に向かいます。サイクリングロードが続きます。

        遠くにスカイツリー(↓)。  

河川敷には野球場が続きます。  

「海から14.25㎞」表示。

グランドではラグビーの 練習中。  

「海から一五㎞」表示。  

のんびりと歩いていきます。      

遠くに北総線の鉄橋。  

土手下が自動車道路。

左下に「佐倉街道」が見えてきます。

「親水さくらかいどう」となっています。

「親水さくらかいどう」側から土手を見上げる。

 佐倉街道が江戸川の土手にぶつかる手前には、「水神」と大きく刻まれた石碑とすぐそばに「善兵衛樋(ひ)」があります。
 この辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、1878(明治11)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 1924(大正13)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、「水神」碑です。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。

 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。

この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。

「北総線」の鉄橋が近づいてきます。

   「北総鉄道」。

 北総鉄道は、その設立の経緯から千葉ニュータウンの建設と密接なつながりを持ち、その社史は千葉ニュータウン建設の歴史の一部でもある。また成田空港と都心部のアクセス手段は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の成田エクスプレスおよび、それまで京成本線を経由していた京成電鉄のスカイライナーが担ってきたが、北総鉄道の保有する北総線が、成田スカイアクセスの一部区間を担うことになったことも、千葉ニュータウン建設の歴史と共に重要な要素となっており、千葉ニュータウン開発が収縮した後は、沿線開発と空港連絡鉄道としての役割が同社の歴史となっている。 
 千葉ニュータウンの建設は1966年に千葉県が構想を発表し、1969年に都市計画を決定した。1970年に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。そのような動きにより、2004年7月に、行政改革の一環として行われた特殊法人の見直しに合わせ、住宅・都市整備公団が鉄道事業から撤退することになったのに伴い、「開発」の名を社名より外して北総鉄道株式会社とし、「北総・公団線」と呼ばれた路線名も「公団」を外して「北総線」とした。 
 2010年7月17日より、北総線を経由して都心と成田空港を結ぶ成田スカイアクセスの開通により、第二種鉄道事業者として京成電鉄が運行するスカイライナーやアクセス特急が北総鉄道の線路を利用することになり、京成電鉄から得られる路線・施設使用料収入が収益改善に貢献し、2012年に債務超過状態を会社設立から40年かけて解消した。 

 北総鉄道は、首都圏の通勤路線の中でも、運賃が際立って高い。これは、元々の建設費用が高く付いたことと、千葉ニュータウン事業計画の未達(当初の計画人口34万人に対して2017年7月末時点の人口は97,965人)による利用の少なさに由来する。中距離の運賃設定は、JR東日本(大都市近郊区間)はもとより、大手私鉄と比較しても高額になっている。 
 さらに、乗継割引が若干あるものの、直通先に京成電鉄、東京都交通局(都営浅草線)、京浜急行電鉄と事業者が連続することから、都心部や京急線との間を利用する場合は事業者ごとにそれぞれの運賃が加算され、トータルで更に高額となる。 
(参考)新鎌ヶ谷駅 - 品川駅間の運賃 (2019年11月現在)
東武アーバンパークライン(船橋駅)、JR横須賀・総武快速線経由: 680円
北総線・京成押上線・都営浅草線・京急本線経由: 1150円

 北総鉄道の定期券の割引率について、1か月有効の通勤定期券の割引率は30%である(都営線まで乗り継ぐ場合は3社線割引で京成・北総線分は5%引きとなり割引率は33.5%となる)。6か月有効の定期券で割引率40.15%となり、平均して週5日以上利用しない場合は、普通乗車券や回数券の単価のほうが安価となる。 
北総線内にある駅の定期券売り場では、京成電鉄が発行する京成カードのみではあるがクレジットカードによる定期券購入が可能である。ただし、定期券が高額なため、定期券売り場には「京成カードで定期券を購入される場合は、カードのご利用可能枠をご確認下さい」という旨の掲示がある。PASMO定期券で北総線の定期券を発行した場合、万一紛失しても再発行が可能である。 
 なお、沿線の印西市・白井市では過去に「北総線通学定期券助成」制度を設けていた(有効期間が2010年7月16日を超えない通学定期券のみ有効だった)が、後述の値下げ実施に併せて定期券の割引率も引き上げられたため終了した。 

 成田スカイアクセス開通後は、北総線の線路で京成電鉄が空港アクセス列車を運用しているため、北総鉄道に線路・施設使用料収入が見込まれることから、沿線市町村・一部県議会の議員は、北総線の運賃を引き下げるよう関係機関などに求めている。 
 北総線沿線自治体の市民有志は「財布落としても定期落とすな」と言われると国会でも指摘された北総線の高額な運賃の現状、および成田スカイアクセスの運賃が、北総線沿線利用者の高負担で支えられている現状を改善する事を目的として、有志グループ「北総線の運賃値下げを実現する会」を結成し、北総線の運賃値下げを求める住民運動を起こした。 
2010年5月、沿線住民ら5人は国を相手に、京成への運賃認可取り消しを求め提訴した[17]。2013年3月26日「運賃設定に問題は認められない」として東京地方裁判所は原告敗訴の判決を下した。原告は控訴したが、2014年2月19日に東京高等裁判所は控訴棄却、2015年4月21日に最高裁判所も同じく上告棄却としたため、原告敗訴が確定判決となった。 
・・・ 
 印西市は北総鉄道の株主であり、同市の板倉正直市長は千葉ニュータウン鉄道が京成電鉄と北総鉄道から徴収する線路利用料の格差に着目して、株主として運賃引き下げを求めている。 

(この項、「Wikipedia」参照)

「新柴又駅」方向。

案内図。上が西南方向。

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その5。小岩市川の渡し跡・関所跡。「小岩菖蒲園」。

2020-06-29 20:09:44 | 沿線歩き

                   小岩市川の渡し跡・小岩市川関所跡
 江戸時代の初め、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井(さかさい)の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へ向かう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治8年(1875)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
 江戸から佐倉へ向かう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
 江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊与田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川御番所という」とあります。これは幕府の設けた関所のひとつで、常時4人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年に廃止されました。

1880年代のようす。↓が渡し場。

2010年代のようす。対岸に旧道の痕跡あり。 

そこから土手下を振り返る。

対岸を望む。

京成電車の鉄橋。

鉄橋の向こうにある「小岩菖蒲園」へ。

江戸川河川敷に広がる小岩菖蒲園は、地元の方から寄贈された花菖蒲をもとに、区が回遊式の庭園にしたものです。約4,900平方メートルの菖蒲田には5月から6月に約50,000本の花菖蒲が咲き誇り、都会のオアシスとして都内名所の一つになっています。菖蒲田周辺にはさまざまな野草がみられます。(「江戸川区」HPより)

   解説板。

    

訪問したときは、まもなく満開を迎える頃でした。

            

三々五々、見物の人々が。

京成線鉄橋の北側に広がる。

対岸(国府台)には、「和洋女子大」。

             

 

              

周囲には、紫陽花が植えられ、目を楽しませてくれます。

         

     

             

小さいながらも草原もあってちょうどいい遊び場、休憩場所に。

   無料駐車場が完備。

              

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その4。古代東海道。伊与田の道標。佐倉街道。

2020-06-26 20:36:58 | 沿線歩き

                 「古代の東海道」東側を望む。「上小岩遺跡通り」。

西側を望む。

環七と新中川にはさまれ、この道沿いにある「葛飾区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。上が南。

 「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。

「上小岩遺跡」解説板。

上小岩遺跡は、区内で最も古く大きな遺跡とされ、現在の北小岩6、7丁目付近と推定されています。この地域はもとの上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡とよんでいます。
 上小岩遺跡は、昭和27年に当時の小岩第五中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査によりこの遺跡が古墳時代前期(今から1600年前)を中心とする低地の集落遺跡であることがわかりました。
 出土品は、弥生時代中期のものが発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。とくにS字状の口縁をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことがうかがえます。          昭和63年3月 江戸川区教育委員会

江戸川駅に向けて進む。

踏切を渡って北側に。北からの緑道と交差。

「上小岩親水緑道」。

この緑道沿いに、この辺りに住んでいた古代人の生活が絵画に描かれています。ただし、古墳、集落跡など定住生活をしていたという遺跡・痕跡がまだ発見されていないそうですので、あくまでも想像の世界。しかし、古代から人々の生活があったことは事実で、「古代東海道」が通っていたのもそういう前史があるからでしょう。

「上小岩親水緑道」について、一度記事にしたことがありますが、この機会に改めて。

 旧佐倉街道が江戸川の土手にぶつかる手前、「水神」と大きく刻まれた石碑は、すぐそばにある「善兵衛樋(ひ)」とかかわりがあります。
 この辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、1878(明治11)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
 この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続いています。とても気分のいい道筋です。京成電車の線路にぶつかるまでの遊歩道です。途中には、ベンチがあったり、草花や木々が植えられ、流れには、魚も泳いでいました。ところどころ、モニュメント風な大きな石組みが無造作に置かれています。
 当時からの通称は、「北小岩川」。下水道の整備に合わせて親水緑道としたそうです。さらに、このあたりでは、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が見つかっているために、古代の歴史をテーマに整備した、とのこと。
 小岩保育園近くには、古墳時代の遺跡の発見にちなみ、当時から江戸時代までのこの付近の人々の生活が絵画で表現されています。そういえば、道の所々に置かれたマンホールには、古墳時代の土器が描かれています。
 静かな住宅の間を抜けるように続く流れに沿った道。かつてのように、近在の水田に水を供給したという面影は全くありませんが、地元の住民の憩い・潤いと今でもなっていることは、すばらしいことです。
 

マンホールの絵柄。

(2009年4月 投稿)

ガード下の画。

 真ん中の画は、「茅の輪くぐり」。カヤで作った大きな輪を八の字にくぐり、災厄をはらう神事。すぐ近くの北野神社(北小岩3丁目)で行われる年中行事。「茅の輪くぐり」は別名「夏越大祓(なごしのおおはらい)」とも言われ、毎年6月30日頃に行われる夏越しの行事。北野神社で使用される「茅の輪」は、直径約2.5メートル。江戸川沿いでカヤの刈り取りを行い、少しずつ束ねながらひとつの輪に仕上げ、境内に設置します。

江戸川駅。

駅前の商店街―佐倉街道(市川街道)。

商店街案内図。

「カフェワカタケ」店先にある「伊与田の道標」。安永4(1775)年建立。

伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいます。

安永4年(1775)建立。銘文は正面に「是よりあさくさくわん世おん(浅草観世音)道、伊与田(伊予田)村中」とあり、側面にはそれぞれ「右舟ばし迄三り(里)、いちかわ道」「左にいしく(新宿)道、いわつきぢおんじ(岩槻慈恩寺)迄七り」と刻まれています。原位置はやや北によった旧観世音道の入口にあり、その後糀屋商店前に移設されて保存されていましたが、平成17年(2005)に現在地へ移設されました。

京成線のガードをくぐる。

「御番所町跡」解説板。
御番所町とは関所前の界隈のことですが、京成江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分を区史跡として登録しています。ここは佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』(1828年成立)の「伊予田村」の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。角屋、筑前屋、清水屋などの旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などがならんでいたと伝えられます。角屋は近年まで同じ場所で旅館を営業していました。江戸川につきあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。
道標は今も原位置にあり、道路の様子も昔をしのばせます。そのほかにも、江戸川の川岸にあった常燈明(宝林寺)や関所役人中根平左衛門代々の合葬墓(本蔵寺)など当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。

この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っています。

正面が元佐倉道(旧千葉街道)。

ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。

 

突き当たりが江戸川の堤。

 

佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹で、坂東三十三観音霊場十二番の札所。

案内板によると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。 
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち 
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 」

小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
 もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
 この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
昭和9年(1934)の江戸川改修に当たり、宝林寺に移されました。

                                     1880年代のようす。元佐倉道と佐倉道と合流し、江戸川を渡る。

                                     2010年代のようす。江戸川の改修で渡しへの道や街並みは、河川敷の中に。

 

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その3。高砂団地再開発。鎌倉かなえ通り。柴又街道。

2020-06-25 19:35:45 | 沿線歩き

              京成本線沿いに歩きます。

高砂駅南側の商店街。

線路沿いの道は住宅地。

高架は「北総線」、下に京成本線。

右手に大きな公園。

線路南側一帯に大規模な再開発計画が進んでいます。かつては5階建ての都営住宅がたくさん建ち並んでいたところです。それらが高層アパートに変わり、さらに「Google」でも再開発を待つ空き地が目立ちます。

高砂地区開発協議会(創出用地地区勉強会)の活動について(「葛飾区」HPより)

都営高砂団地では、平成21年から開始された建替え事業により、従来3~4階建て程度だった住棟を10~12階建てに高層化したことから、広大な用地が創出されることとなりました。この建替えに伴い創出される用地(創出用地)を高砂のまちづくりに活かしていくため、創出用地地区勉強会を発足し検討を行っています。
 創出用地地区は、平成23年度に高砂地区開発協議会が作成した『高砂駅周辺まちづくり方針』においては、防災性や住環境の向上を図るまちづくりとして「創出用地ゾーン」と位置付けられ、「住宅整備とともに生活基盤となる商業、医療・福祉施設が複合したまち」等と表現されています。

「高砂北公園」。

5年、10年と来ない間にまるっきり様変わり。

 

空き家になった棟。                

店舗なども1階部分にありましたが、すっかりなくなりました。どこに移転したのでしょうか?

再開発を待つ。

                        

この団地には知人も住んでいて、かなり以前、何度か訪問したことがあります。下町色満開の団地風景でしたが、今後はどうなっていくのでしょうか?

1970年代のようす。団地が広がっています。

                     

 

成田空港に向かう「北総線」が離れていく。

「葛飾区 総合教育センター」。旧明石小学校。

用水路跡の道。

橋名が残っています。「かまくらはし」。

 近世の新田村。「新編武蔵」に、「昔相州鎌倉郡ヨリ源右衛門トイヘルモノ。来リテ開發セシユヘ。此名アリト云」と明記されている。また村内から曼荼羅が掘り出されたため、曼荼羅村の別名もあった。

線路の向こうを望む。

○の地点。(「今昔マップ」より)

踏切を渡ります。高砂方向。

踏切右手の一画に。

この辺りは鼎橋跡。青面金剛像は道標になっていて「右面 右江戸みち奥戸渡し迄半道 左面 橋向左矢切渡しみち」。「小合溜」からの引き水路で「大堰枠」で「東用水」と分岐した「小岩用水」に架かっていた橋が「鼎橋」。

鼎の足が3本であることから、3という数を表すことがある。  

                                     1880年代のようす。○付近か? 三叉路になっているような印象。

右斜めの道(道標では左)を行くと、柴又方面に進み、左斜め(道標では右)を行くと、奥戸の渡しに着く。

                                        2010年代のようす。位置がすこしずれていますが。

中央左の斜めの道が「小岩用水」。              

                                

線路の向こうに続く。

線路脇の解説板。                         「小岩用水の沿革」。

小岩用水は、小合溜井(現在の水元公園)を用水源とする上下之割用水の主要分水路です。江戸時代の中期享保14年(1729)、8代将軍徳川吉宗の幕府勘定方であった井沢弥惣兵衛は利根川の旧河道を締め切って小合溜井を設け、中川・上下之割用水を整備しました。                                         上下之割用水は東葛西領50余村を潤す灌漑用水で、岩槻橋を経て大堰で小岩用水を、新宿村と曲金村境付近で東井堀、さらに細田村と奥戸新田付近で西井堀と中井堀を分流しています。小岩用水は下之割と呼ばれた現在の江戸川区方面への主要用水路でした。                                              当時の葛西領は上下之割用水と西の葛西用水の2大用水の本・支流が縦横無尽に走る水田地帯で、葛西3万石の米どころとなっていました。また畑地では小松菜などの野菜が作られ、大消費地江戸を支える農村地帯として重要な役割を担っていました。                                                  近代に入って都市化の進行と共にともにこれらの用水路は次第にその役割を減じ、戦後は工場や家庭からの排水が流れ込む排水路となっていきました。昭和39年(1964)4月、葛飾区移管され、その後下水道の完備とともに緑道として整備されて現在に至っています。

南に向かう用水路跡。

「鎌倉かなえ通り」。

             

「柴又街道」にぶつかります。

  

「食べログ」で「柴又街道がスイーツ街道な件」として紹介されています。

 葛飾区の金町から柴又、江戸川区の小岩と縦断する柴又街道。実は葛飾区や江戸川区を代表するスイーツの名店は柴又街道沿いに揃っています。スイーツに関しては都心に敵わない印象の葛飾区ですが、ご紹介する柴又街道沿いのスイーツ4軒は都心の名店にも負けない魅力を持っています。車で回って食べ比べても損は無し!? 
・・・
柴又街道を移動してスイーツ巡りいかがでしょうか?
北から金町の「ラ・ローズ・ジャポネ」、柴又の「い志ゐ」、新柴又の「ビスキュイ」、京成小岩の「ラトリエドゥシュクル」とご紹介しております。都心の一流ホテル出身のパティシエたちが下町葛飾エリアに新風を巻き起こしているのかも知れません…。

左手が「京成小岩駅」方向。

小岩駅ホーム。

       

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その2。曲金村(高砂)。用水路跡。立体交差事業。

2020-06-24 20:07:12 | 沿線歩き

               京成線のガード。この道路はかつての用水路跡。

これは「東用水」跡の道路。

小合溜から「大堰枠」で分岐した水路は、京成電車の高架線手前で二つ(「東用水」・「西用水」)に分岐します。京成線の北側。右が「東用水」左が「西用水」。どちらも京成線をくぐる。葛飾区内の用水路跡はほぼ探索済みで、ブログにも掲載。「河川痕跡」(カテゴリー)。

                                                                          1880年代のようす。○が分岐点。分岐点の上の道は新宿から分かれた「佐倉街道」。

中央に、「中川」を渡し舟で渡り、柴又帝釈天へ通じる道がある。

                                                                          2010年代のようす。→が撮影位置。中央の川は「新中川」。

「高砂橋」を振り返る。

もう一つの用水(「西用水」)跡。

火の見櫓。

「スカイライナー」が通過中。

「京成高砂駅」。

駅前のようす。

              正面の高架線は、「金町線」。

A:京成本線 B:北総線 C:金町線 (上が南方向)

地名の由来 
【高砂】1932(昭和7)年まで「曲金」とよばれていました。曲金は約620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名です。明治時代になると、地元の人から読みにくいなどといわれました。そのため1932(昭和7)年に葛飾区が誕生したときに、それまで使われていた小字名(村より小さい単位の地名)の中から一番縁起のよい「高砂」を地名にしたのです(曲金村高砂という地名がありました)。なお、駅の名前は地名より早く、1913(大正2)年に曲金から高砂に変更されています。(「葛飾区史」HPより)

中川(旧・古利根川)がこの付近で大きく曲がっていたことによるとか。直角に近い角度ならまさにさしがね。
 「金」は「鐘」とも記す。

墨田区に「鐘ヶ淵」という地名があります。

「隅田川」は西から流れてきて、ここで大きく流れの向きを変えて南へ向かっていく。ここが鐘ヶ淵。その形が大工道具の指矩(さしがね)を思わせるというので、“かねが淵”の名で呼ばれるようになったと伝えられていますが、他説には、ある寺が移転する際、ここで梵鐘が川に落ちて沈んだままになっていることが由来とも。かつては綾瀬川が合流するところで、船人にとっては難所でもあり、その意味でも有名なところだったのです。

                     1880年代のようす。「曲金村」という表示。

墨田区鐘ヶ淵付近。

同上。↓が綾瀬川との合流地点。

この踏切は「開かずの踏切」としていつも交通渋滞。車はここを避けて通るため、細い道に入りこみ、交通事故も。早く高架駅にしてほしいところ。

「連続立体交差事業の??!」。

残念! すっかりかすれてしまっています。

          

 

 

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その1。「環七」。メトロセブン。新金貨物線。

2020-06-23 21:03:20 | 沿線歩き

今回からは、青砥駅から高砂~小岩~江戸川(京成本線)、「江戸川」の河川敷にある「小岩菖蒲園」に寄り、土手を歩いて、北総線「新柴又駅」、そして青砥駅まで戻る、という沿線歩きの記事。約19,000歩。

ちょっと古い地図ですが、A=青砥、B=江戸川、C=新柴又。○が高砂。江戸川河川敷に「小岩菖蒲園」。 (「今昔マップ」より)

6月6日(土)晴れ。午後。

高架下を進みます。

「環七」を横断。「青砥橋」が右手に。

近年になるまで足立から葛飾地域の「環七」部分は未開通でした。
○の部分。

 昭和20年代。この付近はまだ田んぼがあって、農道が道路として使用されていました。

かつてのあぜ道跡。左手が用水路跡。

           正面奥が「環七」。

              

田んぼ(○)。昭和30年代に入り、あっという間に宅地が進みました。「大日本機械工業」(光自転車)という大きな工場の跡地に当時都内でも有数の公団住宅ができ、周囲にも一般の住宅が建ち並びました。↓は中川を越す「水道鉄管」橋(現在はない)。冒険好きな子はここを渡っていました。


 東京都道318号環状七号線

 東京都大田区平和島を基点に、世田谷区、杉並区、練馬区、北区、足立区、葛飾区などを経由して江戸川区臨海町に至る主要地方道(都道)。 
「東京都市計画道路幹線街路環状第7号線」として整備されたことから、環七通り(かんななどおり)あるいは環七(かんなな)の通称で呼ばれる。 23区内を環状に廻る一般道としては本道路が最も外側に位置する。 

 ・・・1985(昭和60)年1月、葛飾区青戸八丁目から奥戸陸橋までの区間(京成本線との立体交差の関係で工期が延びたため)が供用開始されたことで、当初構想から58年後に全線開通となった。 

「環七」に地下鉄を通す計画があります。

以下、「鉄道計画データベース」HPより。

エイトライナー・メトロセブン
 エイトライナーとメトロセブンは、環八と環七という環状道路の地下に鉄道を通そうという計画です。葛西臨海公園-亀有-赤羽-荻窪-田園調布の約59.7kmを結びます。国土交通省では、両路線をあわせて「区部周辺部環状公共交通」という名称で呼んでいます。開業予定時期は未定です。

エイトライナー・メトロセブンの概要
 東京都心から約10km圏を走る環状鉄道計画です。エイトライナーが「環八」、メトロセブンが「環七」の地下を走り、両線は赤羽で接続し直通します。導入空間の道路が異なるため「エイト」と「セブン」と別の名称になっていますが、実質的に同一路線に近いと言えます。
 メトロセブンは、葛西臨海公園(JR京葉線)-葛西(メトロ東西線)-一之江(都営新宿線)-(JR総武線新駅)-青砥(京成本線)-亀有(JR常磐線)-北綾瀬(メトロ千代田線)-六町(つくばエクスプレス)-西新井(東武伊勢崎線)-赤羽(JR東北線)を結びます。全長は28.8kmです。
エイトライナーは、赤羽(JR東北線)-志村三丁目(都営三田線)-上板橋(東武東上線)-東武練馬(東武東上線)-平和台(メトロ有楽町線)-練馬春日町(都営大江戸線)-練馬高野台(西武池袋線)-井荻(西武新宿線)-荻窪(JR中央線)-高井戸(京王井の頭線)-八幡山(京王線)-千歳船橋(小田急線)-二子玉川(東急田園都市線)-上野毛(東急大井町線)-田園調布(東急東横線)の30.9kmです。
エイトライナーは、さらに蒲田を経て羽田空港に至るという構想もあります。田園調布-羽田空港間は、東急多摩川線、蒲蒲線(計画中)、京急空港線が担うことになりますが、それを含めれば、葛西臨海公園-羽田空港の総延長73.4kmという壮大な鉄道路線になります。


 そもそもエイトライナーとメトロセブンは、それぞれの沿線自治体が推進する別の計画でしたが、1997年に両促進協議会が連携することを確認。「エイトライナー・メトロセブン合同促進大会」を開くなどして、協力して建設を推進しています。そのため、導入空間の道路名が違うだけで、実質的には一つの路線です。国土交通省の運輸政策審議会答申第18号でも、両路線をまとめて「区部周辺部環状公共交通」と呼んでいます。
 エイトライナー、メトロセブンとも事業化はされておらず、開業予定時期などは未定です。東急多摩川線への乗り入れも考慮して普通鉄道の計画が基本ですが、スマートリニアメトロを導入する議論もあり、確定していません。事業費は、普通鉄道の場合で1兆229億円、スマートリニアメトロの場合で9377億円と概算されています。

・・・

エイトライナー・メトロセブンの今後の見通し
 答申第198号では、「事業性に課題があるため(中略)事業計画について十分な検討が行われることを期待」としたうえで、「需要等も見極めつつ中量軌道等の導入や整備効果の高い区間の優先整備など整備方策について、検討が行われることを期待」と記されました。
 すぐに着工できるような条件が整っているような表現ではありませんが、優先的な整備区間を見極めて事業性を整えれば、着工の可能性はありそうです。
その優先整備区間についてですが、費用便益比を重視するなら、田園調布駅-荻窪駅間が最も優勢で、次に荻窪駅-赤羽駅間、赤羽駅-亀有駅間、亀有駅-葛西臨海公園駅間という順序になります。要するに、田園調布から時計回りに整備していく形になります。
 それでも採算面で不安があるため、答申でも指摘された「中量軌道等の導入」が検討されるとみられます。中量軌道等としては、リニアメトロのほか、モノレールや新交通システムも候補に挙がりそうです。ただ、これらは東急多摩川線への乗り入れができないため、羽田空港方面へのアクセス性が下がるという難点があります。
 その羽田空港アクセスですが、蒲蒲線 (新空港線)ができれば、田園調布から京急蒲田駅での乗り換えだけで羽田空港に着くことができるようになります。すると世田谷区、杉並区方面からエイトライナーを使った空港アクセスが可能になり、この新線の有用性は高まるでしょう。そのため、エイトライナーの整備は蒲蒲線の動向次第、という側面もあります。
 何しろ約60kmにも及ぶ長大路線のため、着工から全面開業までの道のりは遠いものがあります。1兆円規模の事業費がかかりますので、実現するにしても、数十年先を見据えたプロジェクトになることでしょう。・・・

 

その代替路線として京成バスによって「シャトルセブン」が運行されています。なかなかの人気路線です。

シャトルセブン(環七シャトル)

 東京ディズニーリゾートより葛西臨海公園駅に向かい、葛西臨海公園駅からは環七をひたすら北上し、葛西駅・一之江駅を経由し小岩駅・亀有駅方面へ急行運転する。愛称は「シャトルセブン」。2007年4月1日に1年間の予定で試験運行を開始し、利用者が定着してきたことから2008年も増便の上で試験運行を継続することとなった。この試験結果が良好だったため、2009年から本格運行に移行した。

 2018年1月14日から新小岩駅 - 東京ディズニーリゾートを結ぶシャトルセブンの派生系統となる特急バスが運行を開始した。

(この項、「Wikipedia」参照)

「中川」を「高砂橋」で越えます。

下流方向。

 現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部は古利根川(利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正・昭和に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ(西へ向かうもうひとつの河道は現在の古隅田川)。 
この水系整備により、島川・庄内古川より東京湾河口までが中川として扱われ、合わせて古利根川、元荒川、綾瀬川なども中川水系とされた。 
なお庄内古川は、江戸時代以前の渡良瀬川の権現堂川より下流の流路を流れた。渡良瀬川の下流は古くは太日川と呼ばれた。太日川は江戸時代に整備され現在の野田市関宿・幸手市西関宿から南流する江戸川となり、庄内古川とは吉川市付近で合流した。松伏町金杉と吉川市上内川の境界周辺に庄内古川の流路跡となる旧堤防が残されている[6]。 
中川の河口部は現在の旧中川を流れて東京湾へ注いでいたが、荒川放水路の開削に伴い河道は分断され、現在の旧中川が切り離された。

(この項、「Wikipedia」参照)

旧中川。

中川(古利根川)が明治末の荒川放水路開削によって分断され、中川は荒川沿いに流れるようになり、西側の部分が取り残されてしまいました。現在、上流は江戸川区・墨田区、下流は江戸川区・江東区の区界となっています。

振り返ると、遠くにスカイツリー。

「新金貨物線」を越えます。

新金貨物線の旅客を目指す葛飾区が、新年度予算で事業化のための調査費を計上します。10年間で100億円を積み立てる基金や専任部署も新設して、旅客化実現へ本気を見せてきました。

新金貨物線とは
新金貨物線は、新小岩信号場と金町駅を結ぶJR総武線の貨物支線の通称です。大正15年に新小岩操車場とともに建設され、東京臨海部と千葉方面との貨物輸送を担う路線とされてきました。
しかし、武蔵野線、京葉線の開業により、貨物列車が南流山~西船橋~蘇我間を経由するようになったため、新金貨物線を経由する列車の本数は近年少なくなっています。地元・葛飾区では旅客化を求める声が高まっていて、2018年度には区が基礎的な調査も実施し、「新金貨物線の旅客化検討資料」として公表しました。

電車とライトレールの2案
資料によりますと、旅客化が検討されている区間は、新小岩駅~金町駅の7.1km。現状は電化単線で、複線化用の空間が確保されています。旅客化の検討では単線のままで、途中駅に交換設備を設けます。
貨物列車の運行は存続するという前提で、旅客列車の車両は通常の電車とライトレールの2案を候補としています。
・・・
新小岩駅と金町駅は、総武線、常磐緩行線との乗り継ぎを考慮した位置を想定します。所要時間は10駅で22分、7駅で17.7分となっています。
概算事業費はライトレールが約250億円、電車が約200億円と試算されています。

画像:葛飾区「新金貨物線旅客化の検討資料」
国道6号線とどう交差するか
旅客化のための最大の問題点は、国道6号線との交差です。ここを踏切とすると、国道の渋滞発生が予想されます。立体化するとなると巨費がかかります。
検討案では、踏切ではなく交通信号とし、道路側の交通信号にあわせて旅客列車を通過させ、道路交通への影響を抑える構想を示しています。
ただ、貨物列車(「旅客列車」の誤りか)が走行する場合は、鉄道が交通信号で道路と交差することは前例がなく、構想の実現には高いハードルがあります。

(この項、「」HPより)

以前、「新金貨物線」の沿線歩きをしています。(ブログに投稿済)

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青戸3丁目都営住宅広場。思いがけない発見。

2020-06-22 21:33:08 | じじばばがゆく

               団地の一画にこんんもりした林、そして満開のタチアオイ、紫陽花が・・・。

立ち寄ってみます。

タチアオイ。

             

こんなに花々が咲きそろう広場があるとは思いませんでした。よく手入れされています。

色とりどりの紫陽花。

      

広場があり、ラジオ体操の会場にもなっているのでしょうか? 朝礼台のようなものも。藤棚もあります。

       

小高い丘状にしつらえてあって、灌木も植えられています。

散策道の足下には椎の実が散らばっています。

たくさんのタチアオイが小道沿いに。

足下には小さな花々。

                        

小さくても大輪を咲かせる。

 

     結構眼を楽しませてくれます。

ガクアジサイ。別名「隅田の花火」。
ガクアジサイ(額紫陽花)の一種で、色々な品種改良の結果、登場した新種。 日本人の独特の洒落っけがあり名前が面白い。 周りの装飾花が八重であり、夜空に打ち上げられる花火をイメージした名前に由来する。  

ご婦人がせっせと手入れをしていました。梅雨入りの、夕暮れ迫る、ひとときでした。

今日のような梅雨空。もっと紫陽花が紫陽花らしく映えるでしょうね。        

 

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京成上野駅~青砥駅。その13。補足編。市松人形「人形松菊」。貸本屋「楽文堂書店」。

2020-06-19 20:02:41 | 沿線歩き

                            「人形松菊」。

青砥駅近くにある「市松人形」のお店。以前から気になっていたお店です。

雛人形・市松人形の松菊へようこそ 

松菊では一般的な人形から個性的な人形へと研究を重ね納得のいく作品づくりを心掛けております 
また、自由に着せ替えができる裸市松人形も取り扱っております。更には市松人形以外にも江戸雛や 
木目込み人形などの江戸人形を部品から製造しています。また,松菊では、年間100体以上の修理を、 
手掛けています。ガラスケースの修理も承ります。ぜひご相談ください。

江戸市松人形とは

 日本の人形とは平安時代に新生児の無病息災を祈るため、枕元に置いた天児や這子と呼ばれるものが原形ではないかといわれ、京都で発祥したものです。
その後、江戸時代となり諸大名が参勤交代の折に苗字帯刀を許された人形師たちが随行し,その弟子たちが各地に人形を普及させました。更に元禄年間には江戸の 町人文化が発達し幾多の名士の指導のもとに多くの職人が技術指導を確立してそれぞれの雛人形、五月人形、市松人形、風俗人形などを作り、江戸人形の伝統の基礎を気づきました。
当時爆発的な人気を博した歌舞伎役者「佐野川市松」の若衆姿を再現した人形がこれまで続いている市松人形の由来です。
人形に切りの粉を固めた桐塑の生地に胡粉を塗り重ねることで、生き生きとした表情を創り、目玉はガラス、頭髪は人毛や絹糸を用いて、 衣裳は古いちりめんなどを着せて自由に着せ替えができるのが特徴の日本の伝統的な人形です。

裸市松人形
 
松菊では、自由に着せ替えができる江戸衣裳市松人形の製造も行っています。

市松人形の為の着物。

人形師紹介

菊地之夫‐Yukio Kikuchi‐ 東京都伝統工芸士 昭和32年 葛飾 青戸 生れ
略歴 松菊は、先々代かせ、現在の墨田区東向島で菊地人形製作所として発足。昭和53年には、青戸にて製造を一本化し、数々の修業を経て、五月人形・ひな人形等の製造法も身につけ、現在その技術を磨き、伝統の技法により一品物の人形を手掛けている。

(この項、「人形松菊」HPより)

「歴史資料室」も設置されているようです。

久々に通りかかったら「貸本屋」さんが取り壊されることに。既に更地になっています。 

 取り壊される直前の写真。

子供の頃は漫画本、長じて小説などを借りに行きました。1日10円だったかいくらだったか。病弱な旦那さんと元気な奥さんの二人で経営。中学から高校、大学の頃までけっこう乱読気味で、江戸川乱歩、横溝正史とか小説雑誌、「ガロ」(注1)とか少し背伸びをした本などせっせと毎日のように借りに行きました。ちょっと本屋さんで買いにくい小説なんかも取り置いてもくれました。そのうち、ご主人が亡くなって店も閉めました。その頃には、自分で本を買ったり、近所に公営の図書館が出来、そこで借りたりしてすっかり縁遠くなりましたが、奥さんが年老いてもお一人で生活していたようです。鉢植えの花々をせっせと世話をしていました。「月下美人」(注2)というすてきな花もありました。いつしか姿が見えなくなり、そのうち家を取り壊す張り紙がされました。

注1「ガロ

『月刊漫画ガロ』は、1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。大学生など比較的高い年齢層の読者に支持され、独創的な誌面と伝説的経営難の中で独自の路線を貫き漫画界の異才をあまた輩出した。創立者は白土三平、初代社長兼編集長は、青林堂創業者の長井勝一(ながい かついち)。1998年からは青林堂の系譜を引き継いだ青林工藝舎が事実上の後継誌『アックス』を隔月で刊行している。 
『ガロ』は先見性と独自性で一時代を画し、単なる漫画雑誌には止まらない足跡を出版界に遺した。また、独自の作家性を持つ個性的な漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれ、『ガロ』出身ではない作家でも「あの作家はガロ系」としばしば表現される。彼らの作風は、海外のオルタナティヴ・コミックの作家たちとも親和性が高い。 

日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』は、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者の長井勝一と漫画家の白土三平により1964年7月24日に創刊された。誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っているほか我々の路すなわち「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあった。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥である[3]。題材・内容とスケールから連載する場所がなかった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的だった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。 
長井勝一は後年「執筆者が7人以上いないと雑誌と認めてもらえなかった」と創刊時を振り返っており、水木しげるや白土三平が複数の名義を使い執筆者を水増ししての創刊だった。当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて刊行された。雑誌のロゴも白土が発案し、レイアウトのほとんどを白土が構成した。表紙のレイアウトは週刊誌『朝日ジャーナル』を意識した。『ガロ』に触発された手塚治虫は虫プロ商事より『COM』を創刊、『カムイ伝』に対抗した『火の鳥』を連載する。ともに全共闘時代の大学生に強く支持されていった。 
1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた。新人発掘にも力を入れていた当時の青林堂には、毎日のように作品が郵送で届き、多いときには2日、最低でも3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れた。 
『ガロ』は商業性よりも作品を重視しオリジナリティを第一としたため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表できた。また、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。こうしたことはそれまで漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

注2「月下美人」。サボテン科クジャクサボテン属の常緑多肉植物。夜に咲き始め翌朝までの一晩でしぼむ。 

     (「Wikipedia」より)

すでにすっかりなくなってしまったんでしょうか?

貸本文化は江戸時代からのようです。

江戸時代、出版技術の発展による刊行物の増加や写本の流通量の増加によって、一般大衆にも読書の習慣が広まった。江戸時代の庶民にとっては、本を買い求めて読むよりも、貸本屋や行商人から見料を払って読むのが一般的であった。長友千代治は、『きのふはけふの物語』の「ものゝ本売に下」という記述から、貸本屋の誕生を寛永はじめ頃と推定し、元禄頃になると貸本中心の行商本屋が出現したと指摘している。 
貸本屋は、版元からの直接購入、貸本屋同士の売買、貸本類仕入所などからの購入、貸本屋自身による作成の4つの方法で商品を揃えた。江戸時代の貸本屋大野屋惣八の扱った蔵書を見ると、人情本・洒落本・滑稽本・草双紙をはじめ、井原西鶴や曲亭馬琴といった有名作家の作品、軍書や兵書、浄瑠璃本や実録本まで、そのジャンルは近世文学全般に及んでいる。 
 20世紀初頭から、貸本屋は江戸川乱歩や手塚治虫を始めとする数多くの大衆小説家や漫画家の作品を刊行して読者層を増やし、怪奇漫画や貸本劇画などの新しい文化を生み出した。 
 戦後、小説や漫画単行本、月刊誌を安く貸し出す貸本の店が全国規模で急増した。のちに登場するレンタルビデオ店の先駆的な存在である。貸本の店は大衆娯楽小説や少年漫画などの単行本、成年・少年・婦人雑誌などを提供する場として1960年代初頭まで日本全国にあふれていた。1940年代末からは漫画を中心に貸本の店専用書籍も刊行され、『墓場鬼太郎』(『ゲゲゲの鬼太郎』の原型)などを生んだ。 
 1950年代後半からは図書館の充実、図書全般の発行部数の増加、出版社が販売する雑誌の主軸が月刊誌から児童や庶民でも安価に購入できる週刊誌へ移行した事などにより、一部の店舗が一般書店に転向したほかは急速に減少、1960年代半ばに店舗を持たずに各家を回る巡回式貸本業がいったんほぼ消滅し、貸本専用書籍も1960年代をほぼ最後に後を絶った。 
 現在貸本の店は小規模で経営する店舗が少数存在するのみである。「貸本」自体は、無店舗経営で本を宅配する業者などの誕生や後述する大規模ビジネスへの移行の動きなど、新しい段階へと移行する兆候を見せ始めている。しかし、現在の貸本は、ほぼ通常の販売用の書籍・雑誌のみになっているため、著作権者側から目を付けられるようになった。2006年、貸本には著作権者が貸与権を行使して使用料を徴収するようになった。以後、漫画を中心に新しい動きが広がっている。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

少、青年期の読書体験としてはずいぶんお世話になりました、感謝。感謝。 こうして昔ながらの文化も消滅していくのでしょうね。いや、新しい形態で継承されていくのでしょうか。

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京成上野駅~青砥駅。その12。曳舟川親水公園。白鳥。水戸街道。青砥。

2020-06-18 20:28:15 | 沿線歩き

                       「曳舟川親水公園」。

隣接する白鳥との間に、かつては曳舟川(葛西用水路)が流れていた。この川は、江戸時代に用水路として開削された。また、荷物を載せた舟を土手から縄を引いて運ぶということが行われ、江戸時代の流通の一つとなっていた。これが川の名称の由来となっている。その様子は歌川広重作の浮世絵「名所江戸百景 四ツ木通用水引きふね」で描かれている。高度経済成長期は、生活雑排水や近隣に多かったメッキ町工場の排水の影響で、水質が極めて汚染され、悪臭がただよっていた。1989年(平成元年)に、下水道網が整備されたこともあり、曳舟川は埋め立てられ現在では曳舟川通りと曳舟川親水公園となっており、せせらぎや多くの植物を見ることができる。
 曳舟川の名称が付けられた区間は、江戸期に開削された葛西用水や亀有上水の水路を利用しており、昭和4年の荒川放水路の開削による川筋の分断のために早くから自動車道に改修された。 
江戸期の後期から明治の初めごろにかけて行われた曳舟は、一種の水上交通機関ではあったが、舟を曳く動力が陸からの人力であるため、馬とか籠などの陸上交通機関の要素も含まれたものであり、当時曳舟は異色の交通機関として人気があり、江戸市中から下総、水戸方面へ行く、多くの旅人に利用されている。 
排水規制等によって、水質は改善されたものの、葛西用水の一部区間の公園化や葛西用水からの取水ができなくなったことにより、現在の曳舟川は支流も含めて埋め立てられ、水路は荒川に合流する手前にほんのわずか水面が残っているのみ。 
葛飾区の区間は、人工的な水の流れをつくり、曳舟川親水公園となり、自然の川を再現した区間や、シャワーを備えた親子向けのプールになった区間もある。また墨田区内では、流路上に作られた道路が「曳舟川通り」と名付けられている。

 

(この項、「Wikipedia」参照)

「曳舟親水公園」から少し入ったところにある「末広湯」(葛飾区宝町1-2-30)の男湯には「曳舟川」のペンキ画が描かれています。

「曳舟川親水公園」案内板。亀有~お花茶屋~四つ木

四つ木方向。

 以前は、水路が2つになって並行して流れていました。現在、中央が遊歩道(親水公園)に、水路は道路になっています。

曳舟川親水公園は、江戸時代以来の区西部の主幹用水である。昭和28(1953)年に、西側の古上水堀と東側の中井堀の一本化工事が開始された。第1期工事は、お花茶屋から南の四つ木の国道6号線付近まで、第2期は、お花茶屋から亀有五丁目までである。この工事で、2本あった水路が1本となり、両側には幅10mの道路が造られた。古上水堀である曳舟川の名前のみが残ったため、かつての景観がわかりにくくなっている。両水路とも荒川を越えた墨田区では、道路として残っている。

古上水堀と中井堀を隔てていた堤(昭和33〔1958〕年5月) 

曳舟川埋め立て工事(昭和63〔1988〕年)。

(この項、「」HPより)

「お花茶屋」駅の南側付近でも2つの水路をへだつ堤のようなものがあった記憶があります。

(「今昔マップ」より) 

曳舟川の周囲は、田んぼばかりでした。お花茶屋駅の先からJR(国鉄)常磐線の線路が見えたほどです。

岡田タイヤ」の工場跡? 

 正面が広くなっていて、その奥にはそれほど高くない工場の建物がありました。その前を通るたびに、正門の中の奥まった独特の様子を興味深く覗いたものです。たしか駅伝が盛んで、いろいろな大会に出ていた会社だったような記憶があります。その工場がいつしか立ち退き、大きな跡地になりました。曳舟川が親水公園として改修されたのを機会にでしょう、その区域が、バスのロータリーと公園になりました。

青砥駅方向に向かいます。線路の北側は「白鳥」。

  1966(昭和41)年にそれまであったいくつかのまちを再編してできました。地名は、昔、白鳥沼という大きな沼があったことからつけられました。江戸時代、この辺りでは、徳川将軍家が鷹を使って鳥などをつかまえる「鷹狩り」が行われました。また、大正時代のはじめごろまで白鳥沼には多くの鴨や白鳥がいたといわれています。 

注:「今昔マップ」や「歴史的農業環境閲覧システム」を見ても「白鳥沼」は確認できず、一帯には田んぼが広がる。

水戸街道(国道6号線)」にぶつかります。

 旧水戸街道は日光街道「千住宿」から分かれ、「曳舟川」に架かる「水戸橋(現在もあり)」を渡り、亀有村(葛飾区亀有)から「中川の渡」を渡ると、最初の宿場が「新宿(にいじゅく)」(葛飾区新宿)となります。この先の金町手前で現在の水戸街道(国道6号)と合流します。江戸市中から水戸方面に向かう旅人は千住宿を経由するコースではなく、浅草から大川橋(現在の吾妻橋)を渡り、小梅(向島1丁目)で曳舟川の土手道を北上する通称「裏水戸街道」を通り亀有までのコースが近道で利用者が多かったようです。
 また、江戸時代末期には四ツ木~亀有間の「曳舟川」を「曳舟」が運行しており、コース途中での「曳舟の遊覧」も楽しみで大変人気があり、賑っていたようです。

 国道放射6号線(水戸街道)は、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の復興事業で計画されたもので、「三つ目通り」からの延長工事として計画されました。さらに、昭和3(1928)年に言問橋が完成し、国道6号は起点の日本橋と繋がりました。また、 狭い曳舟川土手道に変わる「小梅通り(当時の名称は「改正道路」)」も造られましたが、「曳舟川」が埋め立てられ、道路化されので、東武線ガードの手前で終わる、中途半端な広い道として存在しています(「本所高校」脇の道)。

 昭和14((1939)年には葛飾区側の6号線工事と合わせ、葛飾区と墨田区を結ぶ「新四ツ木橋」に着工しましたが、太平洋戦争が勃発したため、昭和18に工事は中断されました。終戦後の復興に伴い、中断していた新四ツ木橋(注)の架橋工事が再開され、昭和27(1952)年に完成し、国道6号はようやく葛飾区まで貫通しました。

橋(赤い線)はまだない。

(「今昔マップ」より)

 注:開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。 
 その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。 

案内図。

右手に葛飾区役所。すばらしい桜並木になっていますが、曳舟川から分かれたかつての用水路跡。          

高架線に沿って進みます。

高架下は月極駐車場。 

まもなく「青砥駅」。

大きくカーブして青砥駅へ。電車もぎしぎし音を立てて曲がります。                      

          

 どうしてこんな急カーブなのか? 船橋駅から大神宮下駅までもそうですが。かつて投稿した記事を再掲。

・・・

42 「青砥駅」・幻の線路跡?
2009-04-30 18:31:59 | つぶやき

 京成電車が京成本線(上野線)「お花茶屋」駅から「青砥」駅に向かうとき、かなり急カーブとなって青砥駅に到着します。そこには、あまり知られていない歴史があったようです。(今となっては真偽の程は確かではありませんが。)
 青砥駅は、1928(昭和3)年、日暮里 - 青砥間開通時に、押上線との分岐駅として開業し、1931(昭和6)年、日暮里~青砥間が本営業を開始しました。実は、それまで、立石駅(押上線)~高砂駅間に、駅は設置されていませんでした。 
 もともと、京成電鉄は、1909(明治42)年、「京成電気軌道」として創立されました。古くから参詣者を集めていた、成田山新勝寺への参拝へ、東京から向かうための鉄道事業(具体的には押上~千葉~成田間の電気鉄道)でした。そのために、「京成(東京~成田)」と社名を命名しました。
 1912(大正元)年には、帝釈天(今では「寅さん」で有名な)へ向かう「帝釈人車軌道」(線路上の車を人間が引いて走る?)を買収、本格的な鉄道事業を始めます(今のJR金町駅から柴又駅まで)。 
 次第に東へ東へと線路敷設工事が進捗して、1921(大正10)年には押上から千葉まで全通します。さらに、1930(昭和5)年、押上~成田間が全通します。こうして、本来の目的が完成しました。 
 しかし、当時、押上は、都心に行くには大変不便な位置にあるため、京成は、当初からの狙いである、押上から隅田川の向こうにある浅草まで、線路を延ばす画策をします。けれど、政財界を巻き込む「疑獄事件」を起こして、東武鉄道にその権利を取られてしまいます(東武鉄道は浅草まで乗り入れ。)。
 そこで、鉄道敷設の権利を持っていた他の鉄道会社を買収して、権利を得て、上野・日暮里から高砂までの路線を敷設し、都心まで乗り入れることになりました。
 この計画が持ち上がった時、葛飾区青戸町の南地域には駅はありませんでした。土地の古老の話ですと、今の東立病院辺り(現在の青砥駅の少し南西側)に、臨時停留所みたいなものがあって、電車が来ると、手を挙げて停めて貰ったとか。
 もともとは、京成としては、お花茶屋駅(ことによると、一つ日暮里寄りの「堀切菖蒲園」駅)から直接高砂駅までの線路を接続して、高砂を押上線との分岐駅にする計画だった。
 そこで、今の青砥駅付近の地主が立ち上がり、自分の土地を提供して青砥駅を新設することを要請した、その結果、青砥駅が出来たということです。
 1931(昭和6)年青砥~日暮里間開業。1933(昭和8)年、日暮里~上野公園(現・京成上野)間が開業し、上野から成田まで貫通しました。
 話は、余談ですが、来年・2010(平成22)年4月には、今の北総鉄道(高砂~日医大)が成田空港まで延長され、「成田新高速鉄道線」として、開業となります。同時に新型スカイライナーの投入によって、大手私鉄では最高速度となる160km/h運転を実施する予定です。40分くらいで、日暮里~成田空港間を結ぶとか。そのために将来的には、上野線を全線高架化することになるようです。
 こう見てくると、直進で進む押上線に比べて、青砥駅から分岐する上野線(京成本線)は、かなりきついカーブになっていて、たしかに不自然な感じがしないわけでもありません。また、青砥・高砂と二駅続いて、押上線と上野線の分岐駅があるのも不必要な感じがしますが。
                                  写真は、お花茶屋駅付近から続く直線道路(通称「高砂橋通り」)で(今は、水戸街道で分断されていますが)、高砂橋を通って、高砂駅まで至る道筋です。もしかしたら、この道路が幻の鉄道線の跡なのかもしれません。右手が、青戸公団住宅です。
 もし、そうだとしたら、青戸の現在も、ずいぶん違った発展の仕方があったかもしれません。青砥駅設置のもっと詳しい事情が知りたいものです。

・・・

 今回改めて調べてみましたが、よく分かりませんでした。上の記事も真偽不明、根拠薄弱なものになってしまいました。

ここで立石駅付近で通った「水道みち」に再び遭遇。「金町浄水場」からの上水道が道路下にある(はず)。    

 

それにしても急カーブです。上下線で高架が分かれているので、高い!

押上線と合流。立石駅方向。

「青砥駅」。

地上駅だった頃の青砥駅。(「葛飾区史」HPより)

《補足》「青戸」という地名

 青戸は古文献において「青津」「大戸」「大津」などと記されることもあり、表記が青戸に定着して以後もしばらく「おおと」と発音されていた。戸は、渡し場・船着場・埠頭つまり湊(水門)のことであり、江戸、水戸、奥戸、松戸、登戸、坂戸、清戸も同じである。このことからも分かる通り、この地は古来、大きな港を抱えた土地であったようである。 
正応元年(1288年)、この地を領していた青戸二郎重茂が葛西氏の代官として奥州平泉の中尊寺を訪れた記録がある。また、青戸七丁目の環七通り沿いにある葛西城址(中心部は環七通りが貫いており、わずかに残された部分が御殿山公園と葛西城址公園となった)が鎌倉幕府の引付衆であり、この地を領していた青砥藤綱の邸宅とされるが真偽は定かではない(京成電鉄の青砥駅の表記が町名と異なるのはこの伝承に由来する)。                      中世の青戸は前述の葛西城から大量の土器類が出土したことなどから葛西地域の中心地であったと推測されている。 
戦国時代、葛西城は山内上杉氏、後北条氏などの支城の一つとして使用されていたようである。

(この項、「Wikipedia」参照)

 

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京成上野駅~青砥駅。その11。「綾瀬川」。「堀切菖蒲園」。お花茶屋。

2020-06-17 20:31:03 | 沿線歩き

                         「綾瀬川」。

かつて、汚れきった川として、1980年から15年連続で全国の一級河川水質ランキングのワースト1位にランキングされ、2010年の調査でも2年連続で日本一汚れた川、まさに黒く濁った「どぶ川」とされましたが、流域の生活用水、工業・農業排水の改善、下水道の整備等によって大幅に改善され、清流が戻りつつあり、今日も浚渫作業船が活躍しています。

                                                                                                                                                                                                                                                                                  

1880年代のようす。荒川放水路開削によって分断。「隅田川」に注ぐ←部分が現存。

                                                                          

2010年代のようす。中央の荒川によって流路は荒川沿いとなり、←が元綾瀬川。「墨堤通り」に架かる橋が「綾瀬橋」。

 

振り返る。

頭上は首都高、遠くにスカイツリー。

 

葛飾区堀切に入ります。ビルのところに「菖蒲園」の絵柄。

なんといってもここは、「堀切菖蒲園」。ちょうど見ごろになっています(6月17日)。が、沿線歩きをしたのが、5月24日でしたので、まだ時期が早かった! そこで、3年前、6月16日に訪問したときの写真を再掲載します。

        

              

  

たくさんの種類の菖蒲が色とりどりに咲いています。なかなか見応えがあります。

数多くの江戸菖蒲(200種6000株)を鑑賞でき、とのこと。

(以下、「Wikipedia」参照)
 江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信・歌川広重の浮世絵に登場する。
歌川広重 名所江戸百景「堀切の花菖蒲」
 戦前まで、この近辺には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。
 昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。

明治後期のようす(「今昔マップ」より)。
 ○が菖蒲園のあったところ。上にある園名が記されている。ただし、「戦前まで」とあるが、「今昔マップ」ではすでに昭和初期には上記の園名は見当たらない。
 まだ「荒川放水路(現荒川)」が開削される前で、東武線が荒川放水路によって西側に大きく線路変更される前の線路になっている(まだ上野に向かう京成線はできていない)。
 北西から南東、斜めに流れる水路は「旧綾瀬川」(後に、「荒川放水路」の一部になってしまう)。東側に流れる用水路は葛西用水・曳舟川。

2000年代(「同」より)。○が「堀切菖蒲園」。


         全景。園内の四阿から。今年もマスク掛けで鑑賞。

ここは、荒川氾濫の時は3mの浸水。↓の線。線路も浸水?

京成「堀切菖蒲園」駅。

荒川の対岸には東武線の「堀切」駅があります。かつては同じ村落だった。

線路脇の商店街を進みます。

「平和橋通り」を歩道橋で越えます。

そのすぐ脇を京成電車が通過します。

千住大橋駅から続いた高架線がここから地上線。少し進んでから振り返る。かつてはこの付近は台風などがあると水浸しになり、線路だけが浮いたようになりました。

お花茶屋駅方向を望む。

行き止まりなので、少し迂回します。線路と道路に挟まれた狭いところに建物。 

踏切を渡って反対側へ。

「お花茶屋」駅前に。右手がホーム。

駅前の商店街。色んなお店があります。

「Ohanajaya Station」。

 地名の由来
江戸時代、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が鷹狩りに興じていた際に、腹痛を起こした。その時、名をお花という茶屋の娘の看病により快気したとの言い伝えがある。この出来事により、現在の地名を賜ったとされている。 

(この項、「Wikipedia」より)

 

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京成上野駅~青砥駅。その10。東武線・牛田駅。葛飾北斎「富嶽三十六景」。堀切橋。「荒川放水路」。

2020-06-16 21:12:20 | 沿線歩き

                      京成関屋駅。

すぐ隣に東武線の「牛田」駅があります。近接し、京成から東武への乗換駅なのに異なる駅名なのはなぜ?

・出没!アド街ック天国 『~京成関屋~』 2009年9月12日(土)21:00~21:54 テレビ東京

牛田駅
東武伊勢崎線の駅。
昭和7年に開業し1日に平均して約2万人が利用するという、またこの「牛田」という名前は江戸時代の用水路「牛田圦り」の名がつけられたとのこと。


京成関屋駅
昭和6年に開業し1日に平均して約2万人が利用するという、またこの「京成関屋」という名前は江戸時代の景勝地「関屋里」からその名がつけられたとのこと。

これだけではわかりにくい。そこで、ネットを調べると、
牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の ... - 歴史と散歩とポタリングと
rekisanpota.blogspot.com › 2014/06 › blog-post_13」に歴史的経過や両社の確執など、詳しく掲載されていました。

その末尾の文章を引用させてもらいます。

・・・

時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)

時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。

・・・

注:京成関屋駅の開業は1931年12月。牛田駅の開業は1932年9月。

 冨嶽三十六景 隅田川関屋の里
関屋の里とは、現在の千住仲町から千住関屋町付近を示し、江戸時代には風光明媚な土地として知られていました。江戸の人々は、帆掛け船の行き来する隅田川と、桜の咲く穏やかな自然に恵まれたこの一帯を「関屋の里」としてとらえ、冨嶽三十六景以外にも、江戸名所百景、隅田川八景、江戸名勝図会「関屋の里」(右図)など数々の浮世絵に描かれています。とくに、桜の咲くなかでくつろぐ人々が画題となっています。
こうした美しい場所であったこともあり、「関屋巣兆」として知られる俳人建部巣兆(たけべそうちょう)の庵、秋香庵(しゅうこうあん)も関屋の里に結ばれました。

「隅田川関屋の里」では、疾走する馬と右端に見える高札場、とくにそれ以外のものは描かれていません。生い茂る草を水平線として富士山が見えます。高札場としては現在の千住一丁目と千住仲町との千住小橋南側(現在の千住仲町側)の高札場が知られていますが、この「隅田川関屋の里」に描かれた高札場とは異なるものです。
ここで人馬が走る道は、石出掃部介の新田開発によって元和2(1616)年に築かれた掃部堤(かもんづつみ)、現在では墨堤通りとよばれている道です。
『江戸名所図会』に、「此辺を関屋の里という」の添え書きとともに、掃部堤が描かれています。(上画・『江戸名所図会』氷川神社と掃部堤)
画の中央は千住仲町の氷川神社(千住仲町48-2)です。境内には、関屋の里から移設された関屋天満宮も描かれています。掃部堤から氷川神社に至る道は、現在ミリオン通り商店街といわれる通りになっているものと考えられます。この交差点には庚申塔が祀られ、集落との分岐点となっているようです。
冨嶽三十六景「隅田川関屋の里」に描かれた地点はこのあたりだと推察されます。掃部堤を進んで日光道中を横切ると、現在の千住緑町付近にあたる「牧の野」とよばれた低地が広がっていました。千住町が茅場として使用していた地域で、浮世絵には、この茅場が描かれていると考えられます。
北斎は他の浮世絵師と異なり、関屋の里の嫋々とした風景をとりあげず、疾走する馬をとりあげ、堤防に生える松、茅の茂る遠景という力強い風景を描いたといえます。

「武州千住」。                   

 現在では台東区域からの作品になりますが、描かれた当時は、荒川区分の小塚原・中村町の地域にあたっていたため、「千住」と表記されています。
「武州千住」はどこ?
千住といっても、宿場の賑わいは描かれず、馬を曳く農夫、釣りに興じる二人と、牧歌的な風景が描かれています。馬の背につけられている運搬具は、駄付けモッコ(だつけもっこと)、「スカリ」などとよばれる道具で、大宮台地では畑のドロツケに使われます。土や堆肥など、運ぶ形にこだわらず詰め込めるものの運搬に使われるものです。そうしたことからこの画で運ばれているものは、野菜ではなくて草・・・、このあたりは江戸近郊のため下肥を多用し、草を刈って堆肥を作る習慣がほとんどないので、馬の飼料として刈った草なのだと思われます。
手綱には替えのわらじが結び付けられており、意外と遠方への往来がうかがわれます。
画面左の端にほんの少し見えるのは、稲藁を積んだ「稲ニオ(藁 ボッチ)」で、晩秋に作られその藁は冬から春の間に少しずつ使用して、通常夏場にはなくなります。富士山には真っ白に雪がありますが、北斎は季節と雪の多少については、あまり厳密ではないようなので、緑の草や、腕を出した農夫などの全体的な様子から、現在の五月ごろを示していると考えてみました。
農夫と馬の向こうには、大きな堰枠(せきわく)がみえます。これは元宿圦(もとじゅくいり)に設けられた元宿堰とよばれる堰枠で、隅田川の水が用水路に逆流しないための役割を果たしていました。元宿とは、この圦のある集落の名称です。大きな堰枠は用水管理の役割はいうまでもなく、千住方面から、西新井大師や武州江戸六阿弥陀の参詣の折に通る大師道、熊谷堤の通過点でも、千住の絵図(部分)に描かれた堰枠 高田家絵図があり、とても目立ったためか、いくつかの絵図にも描かれ、ランドマーク的な役割も担っていたと思われます。
従って、釣りをしているのは元宿圦、遠くに見えるのは、隅田川ということになります。現在の住所では、千住桜木1丁目と2丁目の境、帝京科学大学入口交差点付近にあたります。

(明治17年迅速側図)赤矢印 馬と農夫が進む方向、青線 浮世絵に描かれた視界。

(この項、「足立区」公式HPより)

(「」HPより)

「従千住花街眺望ノ不二」は「日本堤」(土手の通り)付近になっています。

二つの線路に挟まれた小さな商店街を抜け、京成線のガードをくぐります。

「荒川」に架かる堀切橋を渡ります。下が東武線、上が京成線。

「堀切橋」からの京成線。

        

振り返ると、遠くに「スカイツリー」。

右手前方は、首都高。

この付近は、荒川放水路の開削で大変貌した地域です。足立区側にある「隅田水門」と解説板にその一端が。

「隅田水門」の説明板。
この水門は、荒川と隅田川を結ぶ水路(荒川―旧綾瀬川―隅田川)として二つの川の流れを調節する。荒川は、北区岩淵水門付近から明治末期から大正中期にかけて開削された放水路。都内の治水事業としては最大級。旧綾瀬川は隅田川に流入していたが、荒川沿いに流れを変え、中川も荒川をはさんで分断された。また田畑や寺社、街並みなども移転・廃絶を余儀なくされた。


「荒川放水路(現「荒川」)」開削以前の地図(大正8年)。東に曲がり今の「荒川」中流付近を通っていた東武伊勢崎線が、荒川放水路開削のために現行のような線路になった。
当時は「堀切」駅はなかったようで、下の方(南側)に「鐘ヶ淵」駅が見える。また、京成電車(上野~青砥)はまだ開通していなかった。

 この荒川放水路(現荒川)もこの北側で大きく迂回していますが、その理由が千住の宿(市街地)を避けるためだった、とか。

放水路建設の背景
明治43年の洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。
荒川放水路のルート候補は、主なもので4つありましたが、治水上の効果や実現性、宿場町として栄えていた千住町を迂回するなどの背景から、現在のルートが採用されました。

○上流部
広大な荒川河川敷の北岸(熊谷堤)に寄せて蛇行部をショートカット

○中流部
千住町の北を迂回する形で隅田川から離れ、綾瀬川から中川へ通じる流路に沿わせて中川に連絡

○下流部
中川横断後は中川沿岸の市街地を避け、やや東にふくらませて中川河口に導く

(この項、「」HPより)

 

(「今昔マップ」より)

←に注目。荒川放水路開削前とその後。東武線が大きく西にずれて直線化。左図に「牛田」という地名あり。

(「同」より)

左図○にまだ東武線「牛田」駅はない。堀切橋(↓)は現在よりも下流にあった。右図の「新荒川橋」は首都高の橋。

 

千住側を振り返る。

              

     上流方向。左手が北千住方面。

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京成上野駅~青砥駅。その9。「千住大橋」駅付近再開発計画。旧日光街道。やっちゃば緑道。

2020-06-15 20:35:44 | 沿線歩き

                     「千住大橋」駅付近再開発計画。

 千住大橋駅周辺地区では、株式会社ニッピ・株式会社リーガルコーポレーションの大規模工場敷地の土地利用転換を契機に、平成15年8月に千住大橋駅周辺地区まちづくり連絡会を設立し、地域の皆様と株式会社ニッピ・株式会社リーガルコーポレーション・独立行政法人都市再生機構と足立区が協働してまちの将来像について検討を重ねながら、まちづくりに取り組んでいます。
 これまで、平成18年4月に「足立区画街路第11号線」を都市計画決定しました。また、まちづくりの目標である「うるおい・活気・安全なまち」の実現に向けて平成18年11月に「千住大橋駅周辺地区地区まちづくり計画(PDF:1,123KB)」を策定し、平成19年4月には「地区計画、用途地域、高度地区、防火・準防火地域」を都市計画決定しました。
主なまちづくりの進展として、平成22年12月にJ街区「株式会社ニッピ本社ビル」が竣工、平成24年2月にC街区「オーベルグランディオ千住大橋」が竣工、平成24年4月に「千住大橋さくら公園」が開園しました。また、平成25年6月にかつら並木通り(足立区画街路第11号線東西部)、平成26年2月にはかつら並木通り(足立区画街路第11号線交通広場)の供用を開始し、平成26年3月に「千住大橋駅周辺地区まち拓き記念式典」を開催いたしました。平成26年4月にはA街区の商業施設が開業して賑わいが増し、平成27年3月には千住大橋駅付近の京成本線高架下の道路に歩道が整備され安全性も向上しました。そして平成29年3月に千住隅田川テラスの全面開放がされるなど、当地区のまちづくりが進んでおります。

(この項、「足立区」HPより)

・株式会社ニッピ

 1907年(明治40年)4月1日、大倉組皮革製造所、桜組、東京製皮、今宮製革所が合併して設立された。資本金500万円、所在地は東京府南足立郡千住町大字千住中組。前身の1社である東京製皮は、1874年(明治7年)に弾直樹と北岡文兵衛(三井系)が設立した「弾北岡組」を1900年(明治23年)に改組したものである。 
主力製品・事業
コラーゲン 再生医療ゼラチン 牛海綿状脳症検査キット 皮革 化成品・・・

・株式会社リーガルコーポレーション

合名会社大倉組皮革製造所、合資会社桜組、福島合名会社及び東京製皮合資会社の各製靴部門を統合、各種靴の製造、販売を目的とし、東京市京橋区鎗屋町(現 東京都中央区銀座)に日本製靴株式会社設立。
1903(明治36)年 2月、本店を東京府南足立郡千住町中組(現 東京都足立区千住橋戸町)に移転。
同地に本社工場を新設し、同年5月軍靴の生産を開始。945(昭和20)年10月
終戦により民需靴に全面転換。主にグッドイヤーウエルト式製法による紳士靴の生産、販売開始。
1958(昭和33)年 8月わが国で初めてダイレクトバルカナイズ式製法を導入。1960 (昭和35年)より同製法による安全作業靴の生産、販売を開始。1961(昭和36)年11月アメリカのブラウン社(現 クラレス社)とリーガル・シューに係る技術導入契約を締結。「リーガル」ブランドの各種紳士靴の生産、販売を開始。

 久しぶりに「千住大橋」駅に来てみて周囲の様変わりに驚き。時々、電車の車窓から再開発が進んでいるようすが見えていましたが。

                    1970年代のようす。大きな工場が建ち並んでいる。

                2010年代のようす。工場跡が整地され、再開発を待つ。隅田川のスーパー堤防も工事中。

2012年頃の駅前のようす。対岸には、高層マンション。

現在のようす。 

「日光街道(国道4号線)」を渡ります。

その先、交差する道が「旧日光街道」。以前、「日光道中」歩きで紹介しました。街道歩きの初日はここからでした。

   

    かつての商店名がずらり。

・・・

そこを横切ってさらに高架下を進みます。

ここで行き止まり。高架が続きます。

 迂回して進むと、左手に「やっちゃば緑道」。

 中央卸売市場・足立市場への引き込み線跡。JR北千住駅の南方からの引き込み線が廃止されたあと、足立区が整備して緑道にしたものです。

 

ここも以前、紹介済みです。

「やっちゃば(場)」とは「青果市場」のこと。そのせりのかけ声の「ヤッチャ~」から、ヤッチャバの名が起こったといわれています。
 現在の足立市場は「水産物専門の市場」となっています。元々は旧日光街道沿いに立ち並んだ町並みが、「やっちゃば」だったところのようです。京成千住大橋駅の東北側の旧日光街道沿いにに広がっていました。

JR線のガードをくぐって関屋駅側に出ます。

左手はJR線。

ここで京成線に近づきます。線路沿いに。

振り返る。

ここで左折して京成線のガードをくぐります。

右手に京成線。

この先、以前見つけた線路跡がまだそのまま残っていました。東武線からの引き込み線。工場の中に入っています。

 

こちらの写真は、2009年5月に投稿したもの。

岡田商事という鉄骨解体業者の敷地内。

                      

 

(「今昔マップ」より)

 

道路を挟んだ左手に東武線。

京成線のガードの向こうにはフットサルのコートなどの施設が広がっています。                       

まもなく京成関屋駅に到着。

 

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京成上野駅~青砥駅。その8。「奥の細道」矢立初めの地。「千住の大橋」言い伝え、あれこれ。

2020-06-12 19:47:23 | 沿線歩き

                     「奥の細道」行程図。

「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」。

 

千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ

行春や鳥啼き魚の目は泪

是を矢立の初めとして、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送るなるべし。

『奥の細道』の本文を少し付け加えると、

 彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
・・・ 

 『奥の細道』の終着は大垣ですが、ここでは、

「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 、
 
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

と詠んでいます。

 千住と大垣ではそれぞれ、「行く春」と「行く秋」、「船をあがる」と「又舟にのりて」として、始めと終りに対称的な表現にしています。

 なお、「行(く)春や」の句は、本文執筆時にここに入れるためにつくられ、初案は「鮎の子の白魚送る別れかな」であったと言われています。魚市場があったことから「鮎の子・白魚」が句中に。

碑の裏面。

江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著した俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄2年(1689)3月27日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上がり場であった。千住は寛永2年(1625)三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。

街薄暑奥の細道こゝよりす  菖蒲園 

注:「街薄暑(まちはくしょ)」=街中が薄暑(初夏の頃の、うっすらと汗ばむほどの暑さ)に包まれていること。夏の季語。芭蕉の旅立ちは弥生。季節が少しずれています。「奥の細道」がここから、という意味で用いた? 

      

「おくのほそ道 旅立ちの地」

川沿いのテラスに下りると、千住にちなんだ解説板が並んでいます。

「千住の大橋と荒川の言い伝え」。

・大橋と大亀

千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。
この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。                                      千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「・・・・中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。ずっと以前から川の主と言われる大亀が棲んでいて、その棲家が橋の川底にあったので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、苦もなく打ち込めました。しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ、最大の注意を払いここを通り越すとほっとしたそうです。

・大橋と大緋鯉

千住の大橋から十数丁遡った対岸の”榛木山”から下流の鐘ヶ渕にいたる注意木を棲家としていた大緋鯉がいました。大きさは少さな鯨ほどもあり、緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟で川を往き来する人々の目を楽しませていました。人々は大川の御隠居と言って親しんでいました。     ところが大橋を架ける事となり杭を打込み橋脚を作っていくと脚と脚が狭くて大緋鯉が通れなくなり、大緋鯉が榛木山から鐘ヶ渕へ泳いでくると橋脚にその巨体をぶつけてしまいます。橋がグラグラ動いて立てたばかりの橋脚が倒されそうになります。                                                 橋奉行は付近の船頭達に頼み大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしましたが、ものすごい力を出して暴れ回り思うように捕獲できません。櫓で叩いたり突いたりしましたが捕えられません。とうとう鳶口を大緋鯉の目に打込みましたが、目をつぶされただけで網を破って逃げ去りました。                               しばらくの間緋鯉は姿を見せませんでしたが、片目を失った緋鯉は目の傷が治ると、以前にも増して暴れ回り橋脚によくぶつかり今にも橋が倒れそうになります。こうした事が続いては困るので橋脚を一本岸辺に寄せて幅を広く立替え、大緋鯉がぶつからずに泳ぎ回れるようになり、舟の事故が無くなりました。                      その後も緋鯉の大きく美しい姿が人々の目を楽しませてくれた事は言うまでもありません。

 

             「千住橋戸河岸」。   ・川蒸気の登場  ・架橋と変遷  ・明治43年下町の大水害
        

初代北斎の画。

 

        

「河番付」。「隅田川」は行司役。         「橋番付」。こちらも「千住大橋」は行司役。

初めの千住大橋の橋杭材は伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくい高野槇(コウヤマキ)の材木を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたという根強い言い伝えがある。当時の古い川柳にも 
「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」 
と詠まれた。実際、流されてしまった後も住民たちが槇の杭を拾い集め、火鉢にしたり、仏像に加工して守り神として祀るなど、半ば伝説化していた。その後の調査によってこの高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認され、前述の千住小橋の橋上から、その遺構を確認することができる。水面に浮かべられたブイが場所を示している。

 

    

 

「千住大橋際御上り場」。将軍家、日光門跡など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際、御上り場である。将軍家が千住近郊の鷹狩場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用されていた。

御上り場までの絵図(左上)
絵図によると新大橋(1698年架橋)があって永代橋(1698年架橋)がないので、この5年間に書かれたものと思われる。水路を主に陸路も書かれている。この時代は川の名称が定まっておらず、浅草近辺では浅草川となっている。千住では千住川と呼ばれていた。

千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着くようす
この図は小金原で行われた鹿狩りに向かう将軍が千住に到着するようすを描いた図です。描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。当時の将軍は12代将軍の家慶でした。

「旧記」

住掃部宿の役人、高尾家の由緒書です。千住大橋架橋伝承をはじめとする高尾家の来歴について記されており、千住大橋についての記述もみられます。普請奉行が伊奈備前守忠次、橋杭の槇の「御手伝」として伊達政宗の名前が記されています。      

       ???

 富嶽三十六景「従千住花街眺望ノ不二」千住浮世絵顕彰碑

葛飾北斎(1760-1849)は富嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関谷の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いています。富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として次代を担う子供たちに伝えるため、画題の対象地と想定される付近に顕彰碑を建立しました。

位置的には違うようで、ここでいう「花街」とは浅草田圃・新吉原をさす、という説があります。

緻密な描写で日光道中(奥州道中)沿いの景観を描いている。猩々緋(しょうじょうひ)の附袋を被せた鉄砲と毛槍の隊列は国元へ向かう盛岡藩(南部藩)の行列と考えられている。画面奥の塀に囲まれた整然とした家並みは花街、遊郭である。近景の右方向へ進む大名行列、中景に稲刈りも終わった田圃、遠景の花街と富士、この三層をまっすぐに伸びた畦道が結ぶ。その真ん中で休息をとる二人の農婦が面白そうに行列を眺めている。

※山谷(東京都台東区)
…日光道中から、板塀に囲われた新吉原(吉原遊郭)を手前に富士を望む。手前の緑地は遊郭への通路となった日本堤であろう。『江戸切絵図』には、吉原遊郭から北東へ日光道中に直接向かう道があり、図中で女性が座って行列を眺める道と一致する。表題は千住となっているが、隅田川右岸の浅草山谷町付近からの風景と推測される。

(この項、「」HPより)

 

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京成上野駅~青砥駅。その7。「三河島水再生センター」。隅田川。スーパー堤防。大橋(千住の大橋)。河岸。

2020-06-11 19:48:51 | 沿線歩き

              隅田川方向に進みます。

 

「隅田川」に架かる鉄橋。

町屋駅方向を振り返る。

 幾分カーブしているところが「藍染川」流路跡らしく感じます。右手には「荒川自然公園」。この公園は、「三河島水再生センター」の水処理施設の上部空間にあたります。
 「三河島水再生センター」は、1922年(大正11年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場。

 (以下、東京都下水道局HPより)

 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設
 大正11年3月の設立当初から稼働した赤いレンガ造りの喞筒(ポンプ)室は、水再生センターのシンボル的な施設でしたが、平成11年3月に別系統のポンプ施設に切り替え、引退しました。
 旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)施設は、「わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、高い歴史的価値が認められ、また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物が、旧態を保持しつつまとめて残る点も、近代下水処理場喞筒場施設の構造を知る上で貴重である」と評価され、平成19年12月に国の重要文化財(構造物)に指定されました。・・・

 三河島水再生センターの下水処理方法は、散水ろ床法をかわきりに、昭和9年には、パドル式活性汚泥法(鋼製の水車を回転させ空気を取り入れる方法)、昭和34年に散気式標準活性汚泥法を採用し今日に至っています。

 かつては、下水処理システムが開放施設だったため、電車内にも悪臭が漂ってきましたが、現在は、まったくそういうこともなく、上は公園として近隣住民の憩いの場所となっています。

ここで隅田川の堤に出て、「千住大橋」まで回り道をして進みます。                                         遠くに「千住大橋」。

上流方向。京成線の鉄橋が。

 両岸とも堤防の大改修と再開発が進み、高層マンションなどが出来ています。下水道の整備と生活・工業用水の流入もなくなり、川も浄化され、きれいになりました。昭和30年代ころは、ここから下流は、鼻をつく悪臭漂う隅田川でしたが。

 

            

変化する堤防の役割とスーパー堤防整備

・・・東京都は、隅田川など東部低地帯のカミソリ堤防をスーパー堤防に代表される土でできた河川堤防に改築していくことにしました。土の堤防は、大地震にみまわれても大きな損傷を受けることがなく、仮に損傷しても土でできているために応急措置が容易に行えます。さらに、現在のカミソリ堤防を取り除くことができ、人々が河川に身近に接することができるようになります。・・・今回完成した南千住北地区は、河川背後地のマンション建設や周辺道路の整備などの住宅開発事業と一体となって整備することができました。

左岸が「千住大橋駅」付近。

「スーパー堤防」上では親子連れや犬を連れての散策、のんびり自転車、など楽しんでいます。足下には草花が。

                 

京成線の鉄橋上流には、まだカミソリ堤防が残っています。

「カミソリ堤防」の例。―東京今昔物語 (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ )より―

ここで土手を離れ、「千住大橋(大橋)」に向かいます。遠くに「スカイツリー」。

千住の河岸」解説板。

 江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
 材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化2年(1845)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。

 

「千住大橋」=「大橋」。

 最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。 
 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。 
 伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたと言われる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱を使って綱引きをして、吉凶を占う行事があった。 
 架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。 
 千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ。なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。 
 その後、明治19年(1886年)に[1]二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。

(歌川広重作『名所江戸百景』より「千住の大はし」)

(この項、「Wikipedia」参照)

 「千住大橋」碑。

 ”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
 奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、30余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。

 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973)、新橋がそえられた。

 昭和59年(1984)3月 東京都

隣に歌川広重作『名所江戸百景』より「千住の大はし」のレリーフ。

 

「親柱」。

 千住大橋の上流側には親柱が一部残されていて、平成17年(2005年)1月に橋全体の塗装補修工事が行われた際に、合わせて親柱の復元改修が行われました。電灯が再設置されるなど架橋当時をできるかぎり復元したものです。

千住大橋は日光街道の出立口。ちなみに、隅田川に架橋されている橋で、「はし」はこの「千住大橋」と「新大橋」の二つ。あとの橋は、「ばし」とにごる。

1880年代のようす。2010年代のようす。

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京成上野駅~青砥駅。その6。「藍染川通り」再訪。「花の木(橋)」交差点。都電荒川線。

2020-06-10 20:45:49 | 沿線歩き

                       「藍染川西通り」。

 この「藍染川」通りは一度歩いたことがあります。そのときの投稿を再掲。(2013年9月)

 藍染川は日暮里の高台、文京区側を流れていた谷田川(藍染本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架線付近までトンネルで分水、排水路として大正7(1918)年に造られました。昭和35(1960)年に保健衛生上の問題などにより全面トンネル化され、現在は道路になっていますが、トンネルを流れる藍染川幹線は三河島水再生センターで下水処理をされ隅田川へ放流されています。
 「大正2年、東京市下水道設計による最初の工事に着工(台東区龍泉二丁目付近)」と東京都下水道局HPにありましたから、かなり初期の頃に造られたことが分かります。

 今回は、その藍染川通りを日暮里から町屋までたどってみました。すべて暗渠、京成線高架沿いの、ほぼ直線で広い舗装道路となっていて、痕跡はほとんどありません。 

ここからスタート。「さくら水産西日暮里店」の店の横。「藍染川幹線」の上にお店があるような印象。このごついコンクリート製のものはかつての橋の一部? 
横から見たところ。
その幅に沿って道路のようすが異なる。いかにも開渠だったころの名残り。

JR貨物線の踏切を越えると、京成線高架沿いに直線で進みます。

(「今昔マップ」より)

(左図)京成電車がまだなかったころ。↓が暗渠になる前の「藍染川」。
(右図)現在。京成電車は藍染川に沿うように建設されたことが分かります。

町屋駅にかけて、京成線の高架下には小さな工場や商店がありました。それらもすべて撤去されています。

どういう工場だったのでしょうか。「禁煙」の表示や人名が残されています。

工場の名が。

・・・

今回歩くと、ガード下はきれいになり、壁も塗り替えられてかつての名残りはまったくありません。

「こばと商店街」。

「新三河島駅」。

「明治通り」を渡ります。ガード上に「新三河島駅」のホーム。

この先は、「藍染川通り」となります。

来た道を振り返る。

以前と同じうちが健在でした。

                           

「花の木橋」交差点。暗渠になる前は、大きな橋が架かっていたようです。

京成線のガードは今時珍しい印象。                  鉄骨の組み合わせが絶妙。

「藍染川通り」に面したトタン葺きの平屋のおうち。

京成「町屋」駅。千代田線や都電荒川線の乗換駅。

都電が通過中、上が京成線。

        

地域に愛され続ける唯一の都電
 都電荒川線は東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋~早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが満載です。                              

東京さくらトラムについて
 東京都交通局では、「東京さくらトラム」を都電荒川線の愛称として決定しました。
これまで以上に皆様に愛され、親しんでいただけるよう、都電や沿線の魅力を国内外に広くアピールしていきます。

(この項、「」HPより)

 最盛期(1955年頃)には営業キロ約213km、40の運転系統を擁し、一日約175万人が利用する日本最大の路面電車でしたが、モータリゼーションの進展や営団地下鉄、都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していきます。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると、再建策の一環として1972年までに廃止されることになりました。1974年に唯一、荒川線の存続が決定して現在に至ります。 

(「Wikipedia」より)

 この「荒川線」が存続したのは、                                      ①三ノ輪橋~早稲田間の9割が道路と分離された専用軌道のため、道路渋滞の影響が少なかったこと          ②並行する道路がなくバスによる代替輸送が難しかったこと                           などから、地元の強い要望を受けて1974(昭和49)年に永久存続が決定しました。元々は2系統の路線を一体化して「荒川線」が誕生しました。
 他の路線については、ほとんどの区間が併用軌道(道路上に敷設されている)で、交通渋滞に与える影響が大きく、地下鉄やバス転換が容易であったために廃止されました。

注:荒川線の前身は、「王子電気軌道」という私鉄でした。

線路沿いにバラの花が満開。 

          

 一度、「早稲田」から「三ノ輪」まで乗ったことがあります。車窓風景や乗降客のようすなどけっこうな乗り心地でした。今度、沿線を歩くということを企画してみたい。

 

人種的平等、そしてそれをさがしもとめる人々を、私たちは支持します。(「Google」)

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