おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その7。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-31 20:34:19 | 奥州街道

 「奈良川」を越えて宿内へ。ここにも「地蔵」が置かれています。
    
・・・
また、ここ地蔵尊の立てられている位置は、奥州街道芦野宿の町外れで、城下・宿場の入口(出口)になる。このことから河原町の地蔵尊と考え合わせ、様々な災厄を自分たちの生活の域内に入れない役目もあったと思われる。・・・

宿内。静かな街並み。

桝形? 

                屋号の入った石灯籠。
「紙すき屋」。「屋根屋」。

こちらが本格的な桝形になっています。
    

宿場の中心地。

(14:56)かつての本陣跡が「石の美術館」(「STONE PLAZA」)になっています。
    

            「芦野石」を用いたしゃれた建物。

「なす(那須)屋」。

 さっきの「遊行庵」でこの酒屋で勧められたお酒がおいしかった、というので、お店の中に。
 地酒などなかなか手に入りにくいお酒を扱っているとか。ご夫婦でお出迎え。試飲したりして、栃木のお酒「姿」を購入しました。要冷蔵とかのお酒。保冷剤をあてがい、丁寧に新聞紙で何重にも包み、コメントまで書いてくれましいた。
 さっそく帰宅して飲みました。口当たりがよく、ワイングラスが合いそうなお酒です。あっという間に飲んでしまいました。

 さっきの「遊行庵」で二合ほど飲んだばかりですが、宿内を見物。
 「仲町道標」

 「奥羽街道」の下に右側「越堀鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル」、左側「白坂ヲ経テ白河ニ至ル」 と刻まれ、右側面は、「南ハ伊王野ヲ経テ黒羽ニ至ル」、「黒田原ヲ経テ小島ニ至ル」と刻まれています。
 それぞれ、下に里程が刻まれているようですが、判読できず。

「丁子屋」。    

旅館も経営?  

    
               那須の名木 平久江家のしだれ桜 平成6年11月3日指定
                推定樹齢  400年
                幹回り  252cm
                樹高     18m
                                               那須町

    

那須町指定建造物 平久江家門及び構え 旧平久江家
 この門の建築は、棟門の一種で、この地域における比較的上級武士の門構えである。
 平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一段高い地に家屋敷を構えていた。
 当家は、分家筋にあたり、幕末には家老職を勤めた人物も輩出している。
 構えは枡形の形式をとっており、武家屋敷特有のものといえる。
 この門及び構えは、当時をしのばせるものとして貴重なものである。
                                   那須町教育委員会

「しだれ桜」。

屋敷内のようす。

 その先、左手には朽ち果てたような屋敷門。

「那須歴史探訪館」への道の右手に。「柳独逸文庫」。

「探訪館」から宿内を見下ろす。

裏手からの「歴史探訪館」。    

 (15:09)そろそろ時間が。「芦野仲町」バス停へ。といっても、まだ宿内をうろうろして、バス停に着いたのは、15:40。

 前回と同じように、「黒田原」駅まで出て、そこから帰京という寸法。待っていると、老夫婦がバス停に。やはり「奥州街道」を歩いている方。すでに「東海道」など四つを歩き終え、「奥州街道」が五街道の最後だとか。千葉の方のようです。
 今日は「大田原」から歩き、今夜は「黒磯」で泊まり、明日またここに戻って、「白河」まで、とのこと。
 不思議と今まで会った旅人は、皆、「東海道」「中山道」などを終えての方ばかりでした。それも異口同音に「中山道はよかったですよ。」と。

 「ここから白坂まではコンビニも食べ物屋さんもありません。バスに乗る前に調達した方がよろしいですよ。自販機もあまりないし。」ということはお話ししました。 

 今回は、3組・4人の旅人とお話ししました。それと「遊行庵」の若い女性スタッフ、「なす屋」の若夫婦。計7人。それぞれ有意義でした。前回名刺をくれた「丁子屋」のお隣、「那須通信建設」の社長のWさんに会えなかったのは残念でした。

 次回、「奥州街道」の旅もいよいよ最終回。「白坂」駅から「白河宿」まで。距離的にはもそれほどかからない行程です。これでやっと三つ、制覇になるかどうか。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その6。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-29 16:22:36 | 奥州街道
 この場所は奥州街道歩きでは、ぜひ立ち寄りたかったところです。思ったよりも小ぶりながらよく整備され、西行法師の歌碑や芭蕉や蕪村の句碑などもあって、さすが「歌枕」の地だけのことはあります。今でも田んぼの中にあります。

『奥の細道』より。(芭蕉は「殺生石」についでここを訪ねたようです。

又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此(の)所の郡守戸部某の此(の)柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此(の)柳のかげにこそ立(ち)より侍つれ。

  田一枚 植て立去る柳かな

 注:芭蕉は、現在の「遊行柳」という言い方ではなく「清水流るゝの柳」と記しています。当時は、西行法師の歌から名付けられた呼称でした。

    

遊行柳の由来
 遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。
 その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明3年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、
   おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは
とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。
別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。
 それ以来、遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。
 これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
 なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。
 これは西行の
   道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ

の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。
 代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明18年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅(ほうたく=先人の行跡)が偲ばれている。


解説板。    

遊行柳
 諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現われ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
 いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。

                          那須町教育委員会

芭蕉句碑
   
                   田一枚 植て立去る 柳かな  芭蕉 

蕪村句碑
          柳散清水涸石処々  蕪村   (柳散り清水かれ石ところどころ) 

西行歌碑
          道の辺に 清水流る 柳かげ 志ばしとてこそ 立とまりつれ

 謡曲「遊行柳」と朽木柳
 謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
 夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞いを通して念仏の利益を見せる名曲である。
 朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。

                                            謡曲史跡保存会

那須の名木・遊行柳」平成6年11月3日指定 幹回り90cm 樹高10m

    

    

正面のあぜ道から振り返って望む。
 大型バイクで乗り付けた二人の壮年が降りて行きました。

足元にはイヌタデ(赤まんま)が群生。

 (14:43)再び「遊行庵」に戻ってきました。地元野菜の即売所が併設されています。


実はこんな大きさ。

前回訪れた「芦野宿」へ。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その5。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-28 22:43:32 | 奥州街道
 (13:30)「板屋」を抜けると、国道を横切って右手の峯岸への道となります。

    

右手の山際に「峯岸館兵従軍之碑」「峯岸館従軍者の碑」。

 戊辰戦争の時、黒羽藩は官軍として戦ったが、藩領であった峯岸近隣の集落の農民がここに設けられた峯岸館で洋式の軍事訓練を受けて各地に転戦、戦功を挙げたその顕彰碑のようです。

    
                                  振り返って望む。そのうち忘れ去られる運命?

(13:37) 国道に合流して今度は右に入ります。
    

右手から来る道がおそらく旧道。

「べこ石の碑」が右手に。

 びっしり約3.500字が刻まれています。
    

べこ石の碑
 この碑は嘉永元年(1848)10月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠恕が撰文建立したもので、全文19段、約3500の文字を刻した碑文である。
 長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。
 この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形が臥牛に似ているための呼称と思われる。
 この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として貴重である。

                                 那須町教育委員会

べこ石の碑文の全文が解説板に載っています(省略)。

べこ石の碑と時代背景
 べこ石の碑が建立された嘉永元年(1848)の時代は、外国船が日本近海にしばしば来航し、通商を求めた時期にあたり、これに対し幕府は「外国船打払令」をもって対抗し、その後講和策が講じられている。国内では、大塩平八郎の乱や渡辺崋山・高野長英らが投獄された蛮社の獄を経て、水野忠邦による天保の改革が始まり、尊王攘夷思想の高まりとともに幕藩体制が崩壊に向う時期にあたり、徳川幕府にとってまさに外患内憂の時代といえる。
 碑は芦野宿の問屋職であった戸村忠恕(ただひろ)が晩年中風の身をもって、人倫道徳の本道を衆庶に教え論すために撰文したもので、路傍の石に彫らせ、建立したものである。
 戸村家は黒羽町須佐木の出身で、元禄年間(1688-1704)芦野に移り住み、酒造業を兼ねた。明治天皇の東北・北海道御巡幸に際し、三度行在所になった名家である。その元は佐竹の一族で、佐竹氏の秋田移封の時、帰農し須佐木に定住した一族である。
天保 8年(1837) 大塩平八郎の乱
天保10年(1839) 蛮社の獄
天保11年(1840) 天保の改革始まる
天保13年(1842) 異国船打払令を改め、薪水給与令復活
天保15年(1844) オランダ国王開国を進言
          フランス船、琉球に来航。薩摩藩に限り、琉球対仏貿易を許す
弘化 3年(1846) 海防の勅論、幕府に下る
          幕府、外船来航を奏上
          米使ピッドル浦賀に来航、通商を要求する
弘化 4年(1847) 島津氏、琉球を英・仏に開港
          信濃善光寺付近で大地震
嘉永元年(1848) べこ石の碑建立
嘉永 3年(1851) 朝廷、国難を七寺七社に祈願。再び海防の直論、幕府に下る
嘉永 6年(1853) ペリー浦賀に来航。開国
安政元年(1854) 日米和親条約調印。日英・日露和親条約調印

                              那須町教育委員会

「峯岸」バス停。

(13:40)みごとな土蔵造り。

集落を振り返って望む。

集落の外れ、右手に「岩倉右大臣歌碑」。

「みちのくの 鄙のはてまで あきらけき 御代の日彰を 傾かぬぞなき」。明治天皇の行幸に同行した岩倉具視の歌が刻まれています。

そこから「峯岸」集落を望む。

(13:46)「甦る豊郷」碑。

行く先の右奥に「遊行柳」が見えてきます。

(13:49)国道沿いにある「遊行庵」に到着。
    

 「芦野仲町」バス停の発車時間までまだまだありそう。ここで「季節の野菜カレー」とお酒を飲んでしばし休憩。店内は土曜なのに誰もいなくて、静かにJAZZが流れています。「遊行柳」はすぐそこなので、JAZZを聞きながら40分ほど、のんびり。

「遊行柳」入口。田んぼの中にあります。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その4。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-27 20:50:59 | 奥州街道

「寄居」集落のようす。

土蔵造り。屋根は赤茶けた色合い。

 ここではこうした朱塗りの屋根や塀が目につきます。
    

(12:14)「寄居本郷」バス停。

「道標」。

 「寄居」は「下野国」最後の間の宿として賑わっていたようですが、今は静かな街並みです。
    「常夜燈」。

「寄居」を振り返って望む。

 (12:21)再び国道に合流します。

 「白坂」宿から「芦野宿」までの区間。「国道294号線(旧奥州街道)」の整備・拡幅(直線化等)工事によって旧道は寸断され、丘陵と平地(田んぼ)の間にあった集落同士を結んで進んでいた旧道は、ほとんど消滅してしまい、集落内に一部残っているだけのようです。

路傍にある古い石塔群。その付近に旧道? 

 歩道沿いにある植樹が鳥の姿に刈り込まれています。
    

遠く「寄居」方向を望む。

左手が旧道? 

国道脇の小高い塚・墳墓? 振り返って望む。

けっこう長く続く道(信号機はまったくない)。

左手に常夜燈。新しいもののようですが。

その脇の道が旧道? 

(12:40)「平田」バス停。裏手は「三ヶ村公民館」。

左手にある「板屋」という間の宿へ向かいます。

(12:45)火の見櫓のもとに「五輪塔」。
   
                                          「道標」。

左の道を入ると「脇沢」。

古い馬頭観音碑群。  

ここにも朱塗りの屋根のおうち。

 小さな集落を抜けて田んぼの脇の道を進みます。路傍には「馬頭観音」などが。
    

「横岡」「高瀬」? を振り返って望む。
 右手に「高徳寺」。もう少し進んだ、写真の右手後方に「手つかずの奥州街道」道があるとか。

再び田んぼ沿いの道。

坂道を進むと「板屋」地区。

 (13:10)坂道を登り切ったところに「板屋の一里塚」。
    

解説板と馬頭観音など数碑。

那須町指定史跡 板屋の一里塚
 奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長9年(1604)5月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の三ケ所がある。板屋の一里塚は、日本橋から44里(176キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西二ケ所に残存し、当時の面影を残している。

                            那須町教育委員会

どの部分が塚なのか、左右とも判然としません。坂を削って切り通しにしたために、塚は高い位置になっています。

来た道を振り返って望む。

行く先を望む。けっこう急な坂道。

集落の中心地に入って行きます。

坂下にも「一里塚」の解説板。

 (13:14)右手に「諭農の碑」があります。この先の集落にある「べこ石」と同じく、芦野宿の問屋を務めた戸村忠恕が記したもの。
    

諭農の碑 
 板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。
 べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。

                         那須町教育委員会

隣には雑然とした花屋さん? 

    
    集落内のようす。                       集落ごとに火の見櫓。

「板屋」バス停。

土蔵造りを改造した「第六分團機具置場」。

振り返って望む。

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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その3。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-26 20:08:38 | 奥州街道
 今度は、国道から右手に入ります。すぐ右手には「瓢箪」の形をした「瓢石(ふくべいし)」と道標を兼ねた石碑があります。

    

「瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁」。

 (11:47)しばらく進むと、左手の田んぼの傍らに「初花清水」の石碑と解説板。
    

初花清水と瓢石 寄居 
   ♪いざり勝五郎 車にのせて
   引くよ初花 箱根山

 これは那須町近在の田植え歌であり、盆唄であり、追分でもあり、誰もが知っていて、唄った歌である。また、酒宴の興にのって、中村歌右衛門もどきのこわ色をはりあげて、
  「ここらあたりは山家故、紅葉のあるのに雪が降る」
という、いまでこそ知る人もすくないが、ラジオもテレビもない明治から大正の、なつかしくも忘れがたい「初花」のせりふである。
 「いざり勝五郎」――歌舞伎名題「箱根霊験躄(いざり)仇討」という芝居は、寄居大久保にも深い関係があって、わが里には、ことさらに近しく親しく迎えられたのである。

 奥州街道はこのあたりさびしい山道である。暮れかかる崖下の道辺に旅の男がしゃがみこみ、女がおろおろとしていた。
 山仕事を終えて帰る人が、これを助けて寄居の里へ連れてきてやり、庄屋徳右衛門に事情を話してあずけた(『芦野小誌』には大島四朗平とある)。
 飯沼勝五郎その妻初花といい、兄の仇を求めて旅をつづけ、棚倉から豆沢を経て来たのだ。箱根権現に願かけて、どうしても仇討をとげたいのだといったが、駆落者ではないかとも思われる――徳右衛門は、しかしせんさくはしなかった。
 勝五郎は、足腰が立たなかった。これでは江戸を過ぎてもまだはるかな箱根にはとうてい行けないだろう。徳右衛門は、大久保の先のところに小屋を建てて二人を住まわせてやることにした。ここなら街道往来の旅人が見える。もしかしたらその仇が通るかもしれないと、二人ににも話した。二人は鍋かまを借りて、ここに住んだ。たべ物は少しずつだが、山働きの里人たちがとどけてくれた。
 崖のすみから、きれいな清水がわいて流れていた。
 初花は勝五郎の回復を日夜、神仏に祈った、が――思うようではなかった。
 足腰が立たない勝五郎は、初花が、御礼かたがた徳右衛門方へ仕事の手伝いに行っている間、たまに通る旅人の中に仇を求めながら日を過ごした。手もち無沙汰になると、すわった岩に小柄で無心に瓢を刻んだ。大小さまざまの瓢が、道の面や崖の岩肌に紋様のように彫られた。
 わき出る清水で洗う初花の顔はきれいで美しかった。
 往来の旅人からは仇は見つからなかった。
 勝五郎、初花は、ここを旅立つことにした。
 徳右衛門も、それがよかろうと、勝五郎のために箱車を作ってくれ、小金もわずかだが初花にくれた。「わしは四朗兵衛の下司下郎。よなべに作ったこのわらじ。足が立ったらはかしゃんせ(義太夫の語り)」と、大島四朗兵衛は、わらじを勝五郎に贈った。
 二人は深く礼を述べ、本懐成就を誓った。
 勝五郎をのせて初花が引く車が、やがて一里塚のかげに消えた。

註○「箱根霊験躄仇討」については、『歌舞伎辞典』(434ページを参照されたい)。
 ○いざり勝五郎・初花についての点描的言い伝えは、寄居・山中・木戸でも聞いたが、話の中で一つしかないものが、どこにもあったりして混乱する(たとえばお礼においていった刀が、山中にも木戸にもあった)。
 ○初花清水の石標は昭和三年、芦野青年団が建てたが、私が見たときは倒れて田のあぜのところに頭を埋めていた。(現在は清水の傍に建っていた)
 ○瓢石は、現在拡幅された道路ぞいの崖に、だれが刻んだかただ一つある。詩心豊かな人の作であろう。この瓢石はおそらく三代目なのか。すっと前にはあたり一面、道路まで大小さまざまの瓢が彫られていたのだという。
                   

そこから旧道を望む。右手は崖。

田んぼの向こうには国道294号線。

振り返って望む。中央に「初花清水」。

路傍の石塔群。

(11:51)右手の路地を行くと、石切場があります。

芦野石
那須町芦野地区の国道294号線に沿った約10キロの地域では「芦野石」という安山岩が産出されます。



 準硬石なので加工しやすく、石塔、墓地外柵、倉庫、石垣、石塀、門柱など、様々な用途に用いられてきました。
 現在では、建築、公園、広場等の公共物にも使われています。

■芦野石の成り立ち
 今から130~90万年前「更新世」前期。現在の福島県天栄村の羽鳥湖の近くで大噴火が起こりました。この爆発に伴う火山灰や軽石が大量に降ったあと、大火砕流が現在の白河市やこの芦野地域を覆ったようです。その結果、こんにちの「芦野石」となる地層が出来上がった、と研究者たちは考えているようです。
 この芦野火砕流は、降下火砕物の上に厚さ10m以上の「溶結凝灰岩」として重なっているのだそうです。
 国道294号線(旧奥州街道)を那須町芦野から、福島県白河市方面に向かうと、国道沿いに何ヶ所か、この「芦野石」の採石場を目にすることが出来ます。

■赤目白目
 芦野石には「赤目」と「白目」の2種類があります。普通那須で見かけるのは白目(灰白色)です。
 同種の石でも福島県白河地方産を白河石。栃木県那須町産を芦野石と呼びます。白河産は赤目のものが多いそうです。

■芦野石細工  
 加工しやすい準硬石という性質を利用して、芦野石はさまざまな石加工品として利用されてきました。
 その中でも「道祖神」や「地蔵さん」など含む民俗的な立体造形を「芦野石細工」と呼んでいます。

■栃木県伝統工芸品
 芦野石細工は栃木県から「伝統工芸」としての指定を受けています。

■芦野石を使った美術館
 那須町芦野には特産の芦野石をふんだんに使った美術館があります。「Stone Plaza」。建築家隈研吾氏が設計、2001年、国際石材建築大賞を受賞。

(以上、「道の駅 那須高原友愛の森工芸館 那須町工芸振興会」公設ページより。)

    
   「山石神」。

再び国道に合流します。

左手に廃道のようになった道路があります。この道が旧道?

         
                                      目の先に「泉田の一里塚」。

 (12:03)駐車場の片隅にあり、左の塚(白河に向かって)が現存しています。
    

那須町史跡 泉田の一里塚
 旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である。
 一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長9年(1604)徳川ニ代将軍秀忠の時で、36町を1里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした。
                          那須町教育委員会

「泉田の一里塚」を振り返って望む。

(12:09)しばらく進むと、旧道は右に入って行きます。
    

 右手に道標「関東ふれあいの道」。その脇に「白河の関」という案内板。ここにあったとは思えませんが。
    
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その2。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-25 20:04:46 | 奥州街道

 緩やかに上って行くと、意外に早く県境(福島と栃木。旧磐城国と旧下野国)の峠に着きます(10:52)。
 ただ、この国道。ほとんど信号がないせいか、大型トラックやダンプなどが、かなりのスピードで通り過ぎて行きます。それほど交通量は多くありませんが、歩道もないので路肩を歩くしかない旅人は冷や汗ものです。
 運転手は人間が歩いているとはあまり思っていないのでしょうか、避け方もけっこう激しい。峠付近はカーブも多く、坂道で見通しもきかないため、ちょっと怖い感じです。
 栃木県に入ってしばらくすると、道路も広くなり、見通しもきき、歩道もあって安心して歩けます。福島県側の白坂宿付近は整備された広い道でしたが。

来た道を振り返って望む。
 峠の手前に「弘法大師衣替えの清水」という史跡があるようですが、案内板も見当たらずに通り過ぎてしまいました。

境の明神とニ所の関」。

 白河の関は「ニ所の関」と古来からいわれるとおり二ヶ所にあった。勿来の関といわれた菊多剗(せき)と共に大和政権が蝦夷対策として設けたもので南北八キロ間に数ヶ所配置された関があった。白河市旗宿地内の「関の森」は城主松平定信候が「古関蹟」と断定し昭和十三年国史跡指定となっている。奈良、平安初期の国境には男女ニ神を祀るとされ、下野国住吉神社に中筒男命を祀り、関東明神と称し、岩城国玉津島神社に衣通姫命を祀り、奥州明神と称し「二社の関」の由来するところであります。
 江戸五街道の設置と奥州街道白坂宿場町の発展と共に旅人の安全祈願の参詣も多く、参勤交代や旅人の茶店南部屋の千代の餅、仙台屋のうぐいす餅が親しまれたという。関守石井家と共に、境の明神祈願寺別当に天台宗一実神道派修験法院の豊神寺が社殿脇に建立されたのもこのころである。
 徳川最盛期元禄ニ年、庶民芸術・文化のはなやかな頃、芭蕉が曽良を伴い奥州の第一歩を関の明神へとさしかゝり夕暮れ時、くいなが鳴いていた。

     関守の 宿をくいなに 問おうもの  曽良

 初夏の奥州路は、うつぎの花が真白に咲いてにぎやかな田植え唄がきこえやっと奥州に入った。気をはずませて旅を続けたことゝ思う。

道路をはさんだ反対側にある解説碑。

白河ニ所之関址
 白河ノ関ハ古クカラニ所ノ関ト呼ハレハ潢準平原ノ中ヲ横断スル奥州路ハココテ道ヲ幾通リニモ選ヘルノテアル白河楽翁ニヨリ指定サレタ今ノ旗宿道ハ其ノ一本テアル 然シコレヨリ西側三キロノ所ヲ通ツテイル白坂道ハ昔カラヨク利用サレ古ノ関蹟ニミラレル関ノ男女ノ明神址カアリ古関ノ体裁ヲモツトモヨク保チナカラ白坂ノ関址ハ全ク無視サレテ来タ 余 多年関境ノ研究ニ没頭シ江戸時代ヨリノ関守ノ家テアル石井浩然(南部藩士テ故アツテ南部藩ノ参勤交代路ニアタル白河ノ関守トナッタ石井七兵衛ノ子孫)ト其ノ考証ノ當タリ遂ニソノ関屋跡ヲ確認スルコトカ出来タ 茲ニ白河ニ所ノ関址之証ヲ機トシ白坂道白河関址ニ記念碑ヲ建立シ永ク白河ニ所ノ関ノ意ヲ傳承セントスルモノテアル
     昭和五十七年五月  建之
     理学博士・東京学藝大学名譽教授・國士館大学教授 岩田孝三
     白河関守                            石井浩然

そこから「神社」側を望む。

 本殿脇には、芭蕉の句碑があるようですが、見逃しました。

        はせお
     風流の
       はじめや
         奥の
       田うへ唄

 栃木県那須町方向(下野国)を望む。
    

県境の峠はけっこうガレ場がある切り通し。

 写真左に「県境の碑」があります。『境 福島縣西白河郡・栃木縣那須郡』と刻まれた県境の碑が立っています。

栃木(下野)側の「境の明神」。

福島県側を望む。

解説板。

那須町指定史跡 境の明神
 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。
 創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。
                        
                那須町教育委員会

 峠は鬱蒼とした木々の中にあります。かつてはもっと急な峠道だったようで、現在の国道は2㍍ほど掘り下げられているようです。 

 (11:05)峠で小休止し、栃木県側に来ると、左右に里山風景が続きます。
    

「明神の地蔵様」。

(11:13)こちらは「馬頭観音碑」。

緩やかに下って行きます。

 ここで、いかにも街道歩きをしている方が向こうからやってきました。「今日はどちらまで。」「芦野温泉に泊まって、今日は白河までです。」という。「逆コースをお歩きですか? 」「いや、バスの便が悪いんで、今回だけ逆コースです。」「白坂はすぐですよね。」「ええ、けっこうダンプとか大型車が通るので気をつけて下さい。」

 (11:24)しばらく進むと、国道から離れ、「山中」に入っていきます。
    
                                           振り返って望む。
   「山中」。

    

 (11:33)民家の塀の内側に「明治天皇山中御小休所」の石碑と説明板が立っています。石碑は、昭和13年3月建之とあります。

明治天皇山中御小休所 
 那須郡蘆野町大字寄居字堂矢場にあり。
 鈴木留治宅地千八百五十六番地三百三十坪の内、實測百十一坪六合を指定せり。
 明治十四年山形秋田両縣及び北海道巡幸の際、八月七日及び還幸の砌十月七日御小休所となりたる處なり。
 白河に通ずる舊陸羽街道中、山中とよばれし所にして、當時鈴木清次郎の居宅なり。
 今、孫留治繼承せり。
 平屋建茅葺なり。御座所にて充てられしは、八疊の座敷にして舊規模よく保存せらる。
     昭和十ニ年十二月 文部省発行明治天皇聖蹟抜粋

 この史跡を見物していると、同じように入ってくる方が。挨拶がてら聞くと、昨日、芦野温泉に泊まって今日は白河まで行くとのこと。「前に一人歩いている方がいましたよ。」「芦野に泊まった方ですね。」「奥州街道はどこまでですかね。」「一応白河までとなっているようですが。」「ま、青森っていうわけにはいかないけれど、仙台までは行ってみようと思っていますが。」「芦野宿までですので、のんびり行きます。」「では、お気を付けてお互いに。」
 この方はすでに「五街道」の内、東海、中山、日光、甲州を制覇し、残りはここだけということでした。 

集落の外れには「馬頭観音」が数体建っています。 

そして再び国道に合流して進みます。

「奈良川」。芦野宿迄この流れにほぼ沿って進みます。
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芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その1。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-24 22:59:10 | 奥州街道
 一日に4本しかない、JR「黒田原」駅から「芦野宿」の「芦野仲町」までのバス。それも、朝8:10発のバスではとうてい乗れそうもありません。タクシーはあるようですので、それを利用すればいいのですが、・・・。

 次の宿場・「白坂宿」の最寄り駅、JR「白坂」駅ならそのまま歩くことが出来ます。

 そこで、今回はイレギュラーで、「白坂宿」から「芦野宿」まで順路とは反対に歩くことにしました。帰りは前回と同じく「芦野仲町」バス停15:58発のバスで「黒田原」駅へ。そして前回と同じく、黒磯で乗換え、快速ラビットで帰京ということに。
 従って、これまでの右、左が反対になって、宇都宮に向かって右、左となりますので。

 10月22日(土)。予報では晴れ間もありそう、とのことでしたが、厚い雲にほぼ一日中覆われ、風もあって肌寒い一日でした。

 上野~宇都宮~黒磯~白坂。普通電車の旅。白坂駅に着いたのは、10時少し前。誰も降りず、駅も無人駅。トイレも何もありません。駅前も閑散として空き地に何台か車があるだけ。もちろん、コンビニなどの売店もありません。駅に降りてから食料、飲み水を調達しようしたら、大変な悲劇が訪れます。



 結局、芦野宿の手前にある「遊行庵」まで、開いているお店は一軒もありませんでした。 

 すでに上野駅でおにぎりや飲み物は確保した当方。今回は、それほど歩かないし、何しろ「芦野仲町」のバスは15:58なのですから。ゆっくり、のんびり。しかし、それまで時間をつぶせるのか、とむしろそんな心配が。

    

 しばらく進むと、左手に案内板。「アウシュビッツ平和博物館」と「原発災害情報センター」。無人駅・白坂駅の近くにこのような施設があるとはまったく知りませんでした。寄ることはしませんでしたが、不明を恥じ、紹介します。



アウシュビッツ平和博物館
 「新たな戦争の危機」に対し、私たちは何をすべきなのでしょうか?
 「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が終わり、平和への期待が高まった今世紀は、残念ながら、凄惨なテロで幕を開けました。
 今、私たちは、「テロvs報復」といった暴力の連鎖による「新たな戦争」の危機に直面しています。
 ひとたび戦争が起これば、常に最大の被害者となるのは、何の罪もない一般市民や子供たちです。大切な命を凄惨殺戮行為から救うために、今、私たちは何をすべきなのでしょうか?
 地球上からあらゆる戦争を根絶して平和な社会を実現させるためには、過去の歴史的事実を正しく次世代に伝えていくことが不可欠です。
 私たちの博物館では、ユネスコの世界遺産アウシュヴィッツ収容所跡を保存するポーランド国立オシフィエンチム博物館の協力のもと、「人間が人間に対して行った殺戮行為の極限」といえる「アウシュヴィッツ」の事実を語り継ぐ活動を通して、命の尊厳と平和の価値について、皆様と共に学んでゆきたいと願っています。

《常設展》
●アウシュヴィッツ
 「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産」狂信的な全体主義や排他的な民族主義の結果、人類に暗黒の歴史を残しました。
収容所の成立・強制連行・ガス室・人体実験・抵抗運動・証拠隠滅・収容所の解放ほか

●アンネ・フランク
アウシュヴィッツは、人間がどこまで冷酷になれるかを実証した場でしたが、一方では、いかなる迫害にあっても最後まで人間の誇りを貫いた人たちもいました。
アンネフランク財団(アムステルダム)から版権を取得した関連写真150点の中から約20点を常設展示。

●レスキュアーズ
 第二次世界大戦中、ナチスによって多くの人々が命を失いましたが、一方、他者を命がけで救った人々もいました。レスキュアーズの精神とは一体何なのでしょうか
「闇を照らすともし火」杉原千畝、コルベ神父、コルチャックについて
「いのちの救済者・勇気ある人びとの肖像」ナチスに立ち向かった市民たちの勇気と感動の記録。

● ビデオ室
「アウシュヴィッツ関連ビデオ」の上映
● 平和の広場
フラワー・ガーデン
        (以上、HP参照。)

原発災害情報センター

活動の内容
 原発災害を心に刻み、生活の再生と原発におびえないで暮せる平和な社会が実現する日まで、この白河の地から全世界に向けて原発廃絶の願いを発信していきます。
 センターでは以下を中心に活動をしていきます。
1.福島原発事故の被害に係る資料、関連情報を収集し正確に発信する。機関誌の発行等。
2.過去―現在―未来をつなげる各種企画展示と集会の開催。
3.県内外の人々が自由に意見交換やおしゃべりし、復興へ向けて励ましあえる場を作る。
4.将来、原発事故が正確に検証された時点で、広島や長崎の原爆資料館と同じような役割を果せるように語り継ぐ施設を目指す。
運営は全国と地域のボランティア、専門家によるボランティアグループによって行ないます。

施設の概要
◾展示棟(約36坪=144㎡)
木造、耐火壁、平屋建て、カラー鉄板葺き、北側屋根/天窓、南側屋根/ソーラー発電パネル

        (以上、HPより)

 その先を右折して上り坂を行くと、国道294号線との交差点へ出ます。ここを右折して、「芦野宿」へ向かいます。「国道294号線」を辿っていきますが、集落が左右にあり、そこでは旧道に入ります。

(10:22)

「白河宿」方向を望む。

「観音寺」。

 (10:26)「白坂宿」の面影はありません。静かな街並みです。
    

「泉岡」バス停。この付近が宿場の中心だったようです。

白坂宿
 奥州街道26番目の宿場。
 小田原攻めの勝利を確信した豊臣秀吉が伊達政宗に小田原から会津の街道整備を命じた際に、芦野と白河間が長すぎるということで宿駅となったのが白坂宿の起こり。
 江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には宿内人数 289人、宿内惣家数 71軒(本陣1、脇本陣1、旅籠27)。

    
 「いなりや 菊地」。              「中丁子屋」。

「かめや 亀山」。かつての旅籠。

 この先辺りで「白坂宿」は終わり、栃木と福島の県境を越えて、「芦野宿」へ向かいます。
振り返って望む。(10:36)

 古代から中世にかけての「白河の関」案内板。「6.5㎞」とあるので、諦めます。


 ここでいう「白河の関」は現在の旧奥州街道(国道294号線)に沿った関ではなく、ずっと東側を通る、県道76号線(伊王野白河線)にあった関を指しているようです。その道が律令時代に整備された官道・東山道(近畿から美濃→信濃→上野→下野→陸奥の各国府を結ぶ道路)だった、とか。

古関蹟(旗宿)(写真は「Wikipedia」より)。 



 (10:39)民家が途切れる右手に常夜燈、祠などがいくつか建っています。その左手には、
    

戊辰戦役旧大垣藩士
   酒井元之丞戦死之跡
 
 大垣藩士酒井元之丞重寛の戦死場所に立てられた碑である。明治39年(1906)に妹により建立された。墓は別に観音寺にある。
 慶応4年(1868)5月26日白坂を警備していた大垣藩士らは奥羽越列藩同盟軍襲撃を受けた。酒井元之丞も応戦したが、胸に被弾して戦死した。
 碑の右側面には妹が詠んだ
 「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びてたつる石ふみ」の歌が刻まれている。

                            白河観光物産協会
 右手の山沿いには「馬頭観音」などの石仏が並んで建っています。この地域は、特に馬頭観音碑が多いことに気づきます。

    
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その7。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-22 21:42:28 | 奥州街道

 山道を下って行くと、いよいよ今回の終点・「芦野宿」も間近になってきます。途中、県道から左に入って旧道を進みます。
    

 右手が開けてきて、羊が何頭かこちらを見てけっこうな勢いで近づいてきます。一瞬、あれ! よかった! 鎖につながれています。


路傍には馬頭観音碑などが。   !? 

右手が県道の橋。

 その先で県道に合流し、さらに国道を越えていきます。途中に芦野氏の居館跡などの案内表示。
    



「国道」

「奈良川」を越えると、「芦野宿」。左手には「川原町地蔵尊」。
    

                         

この先は、桝形になっていて、左折、右折、左折となって宿内に入って行きます。各戸には宿場時代の屋号を記した石灯籠が建っています。
  

宿内は静かで落ち着いた街並み。

桝形を振り返って望む。

 右からの道と合流して宿内に入って行きます。ほぼ直線の道路沿いに建物が続いています。
    

 芦野宿については、主にを参照。

 奥州道中は幕府の命により整備され、これによって、従来の東山道、中世以来の関街道と呼ばれた伊王野谷を通る道は、脇街道となった。
 関ヶ原合戦の後、慶長年間のことである。これにより、芦野は城下町として、また新街道の宿駅として、江戸時代の流通経済の発展に伴い交通の要衝(江戸方面からみれば 関東北端の宿駅であり、東北からすれば、関東の入り口に当たる)として発展した。
 芭蕉の奥の細道をはじめとして、多数の文人墨客がこの地を訪れている。明治になるとこの道は、「陸羽街道」となり、新国道の開通まで国道の機能を果たしていた。

 奥州街道25番目の宿場。人口350人、家数168軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
 (旗本・芦野氏は鎌倉時代からの地頭で、那須七騎の一家としてこの地を治めていた)

「交通網の変遷」。

 この地域は、「奥の細道」(芭蕉)にも大いに関係する土地柄です。また、奥州と言えば、源義経にも・・・。

「奥の細道 那須路」。

宿場の中心付近。

丁子屋(右の建物)。

丁子屋
 旧奥州街道の芦野の旅籠として、江戸時代から300年もの歴史を持つうなぎ料理の老舗。奈良川から水を引いた堀の中にうなぎを放し、自然に限りなく近い形で育てている。20分~30分蒸した後、炭火でじっくりと焼く昔ながらの料理法。身がしまった、見た目よりもさっぱりした味わいが評判となっている。江戸時代から300年守り続けた秘伝の味が自慢のお店。

    
                                              油屋。
 今回の終点「芦野仲町」バス停には、15:40到着。宿内をじっくり探索するのは次回にして、
「芦野仲町」バス停。15:58発のバスでJR「黒田原」駅に。

 「芦野」は鉄道網からは離れていて、最寄りの駅との間には1日4本(午前2本、午後2本)の東野バスが往復するだけです。16:10前に「黒田原」駅到着。16:24発の電車で「黒磯」まで。「黒磯」からは「上野」まで16:39 発、直通の「快速ラビット」で戻ることが出来ました。
 バス停で待っているとき、老人が近づいてきて、話しかけてきます。「丁子屋」の隣にある「那須通信建設」の社長のWさん。
 「時間があれば車で案内してやるよ、遊行柳とか他にもたくさんあるし。」「白河の関とか、車で回ればわけないから。」「こっちもぼけ防止で車の運転をするさ。」「年? 79だよ。」「また今度来るときには案内するから。」と、名刺をくれました。ずいぶんと親切な方です。「だんだん日が短くなるから、気をつけてな。」
 今回、会話をした二人目の方でした。

 すると、一人の青年がバス停に。何でも昨日は西那須野から大田原に行き、今日はここだったそうです。住まいは明石の方とか、彼とはバスの中、さらに駅のホーム、黒磯までの車内までおしゃべり。その後、お別れ。

 車内を見回すと、近くにどうも見たことがある夫婦連れ。男性の方がかつて20年以上も前の職場の同僚らしき雰囲気。この地の地名と同じN氏。同僚時代、よく山に行っていた仲間。が、話しかけようも、ちょっと逡巡している内に、「黒磯」に。
 当方と同じく、お二人も「上野」行きに乗り換え。計算されつくした素振りを見ていると、かつての雰囲気とよく似ている。「快速ラビット」でもたまたま近くに座って観察。向こうは、まったく当方に気づかぬようす。そのうち、大宮に着くと、隣のホームに停まっている電車に急いで乗り換えていきました。何だ、人違いだったか! 
 と、彼らが乗った電車のホームの行き先表示を見ると、「八王子行き」。たしか、かなり前に奥多摩の方に移り住んでいたはず。やはり、元同僚のN氏だった! とそのとき、確信。
 結局、話すじまいでした。残念! 

 今回は、実におもしろい「一人」旅でした。次回は白坂、白河までどう行くか? 
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その6。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-21 18:52:04 | 奥州街道
 元々の奥州街道は「余笹川」を渡った先に残っているようです。そこで、「高柳梨園」の向かい側から旧道に入ります(14:20)。

左手が「余笹川」側。右に続いています。

平成10年の集中豪雨の時の浸水水位。目の高さ以上。

のどかな道筋。蔵造りの建物も。

 (14:24)まもなく県道に合流します。その地点に、蓄魂碑という牛の像が乗っているものや、馬頭観音、二十三夜塔、庚申塔などが集められている。蓄魂碑は昭和60年に地元の畜産関係者が建立したもの。全国各地にあるようです。

    

右の解説板は奥にある「馬頭観音」碑にまつわるものです。

弁慶の足踏み石(馬頭観世音碑)
 馬頭観世音碑の横に、草鞋のような形の大きさのくぼみがある。地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後に、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、奥州平泉へ落ち延びる途中、石田城にて一休みし、さて出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が佩いていた草鞋の形に沈んでしまったとされている。
 後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬
の守り神とするため、ここ石田坂に設置したという。
 馬頭観世音碑は、以前はこの付近の別の場所に建っていたが、平成10年の那須水害の後に、現在の場所に移設された。

                    平成26年3月          鍋掛地域車座談義運営委員会

どこなのかはっきりしませんが。

 (14:28)先に進むと。右手の方からオートバイの爆音が聞こえてきます。我が家の近所でおなじみの「レッドバロン」の絵柄が。



   
 基本のライディングをもう少し練習したいというリターンライダーやビギナーの方のための安全運転講習会、バイクを通じてたくさんのライダーたちとふれあえる、雑誌社・スポンサー主催の走行会や各種イベント。
 そして、公道では体験できないマシン本来のポテンシャルを味わうことのできるスポーツ走行など、那須モータースポーツランドは幅広いライダーの方に、さまざまなかたちでバイクを楽しんでいただけるプログラムを展開してまいります。
                                               (HPより)

のどかな田園風景。

 (14:45)路傍にはかなり古びた「馬頭観音」「二十三夜塔」などが点在しています。
    

 「石田坂」を下ると、黒川地区に入ります。
    

 旧道は「黒川」の手前で、県道からまっすぐ細い道を進み、黒川を渡っていましたが、今は、橋は少し上流になり、道は土手にぶつかります。左折して現在の「黒川橋」を渡ることになります。

    

(15:00)橋のところに集中豪雨時の氾濫水位が示されています。橋桁を越える勢いだったようです。

かつて橋のあった付近を望む。黒川地区。

 「黒川」を渡った旧道はまっすぐ続いていたようですが、現在の改修された県道は大きくU字型になり、遠回りになっています。右手の道路脇に大きな岩があります。「夫婦石」。
    

 現在の県道は大きく迂回、拡幅・工事がされたようで、かつては旧道・田んぼの右手にこの「夫婦石」があったようですが、今は、すぐ目につく所にあります(15:08)。

民話◆夫婦石(みょうといし)

 ここは奥州街道のとおる、芦野からすこしはなれた、とても小さな村です。
 ここに、人間にばけるという、ヘビの夫婦がいました。
 ヘビ夫婦は、いろいろな人間にばけていました。いまは百姓夫婦にばけました。
 「ねえ、おまえさん、百姓にばけたのはいいけど、百姓の道具がぜんぜんないよ」
 「どっからか、かりてこよう」
 夫婦は、近くの家にかりにいきました。
 「すンませんが百姓道具を貸してくれませんか」
 「あぁ、いいよ」
 うまく、夫婦は百姓道具をかりてきて、それから毎日いっしょうけんめい、働きました。そばを通りかかる人はみんな、声をかけていきました。
 「やァ、ごせえが出るネ」
 「まったくだ。まったくだ。あんたらこの村じゃ、いちばんの働きもンだがな」
 「いやぁー」
 夫婦は村でとても人気者になりました。ところがあるばん、きょうあったことなどをはなしているうちに、なにがおもしろかったのか、ふたりで、ゲラゲラわらいだしました。
 「わっはっは」
 「おっほっほ」
 すると、夫婦とももとのヘビにもどってしまいました。あまりわらいすぎると、もとのすがたになってしまうのです。夫婦は、こっそり村をでて、1里(4キロメートル)ほどはなれた山の中のほらあなににげていきました。
 そのころ、村ではふたりがいなくなったので、心配していました。ヘビ夫婦は、また人間にばけようと話をしていました。
 「ねぇ、おまえさん、こんどはどんな人にばけるかねぇ」
 「そうだな、くすり売りにでもばけてやるか」
 こうして、くすり売りにばけ、村にいきました。そしてまた、村に住みついて、くすり売りをはじめました。
 夫婦は、またこの村の人気者になりました。というのは、貧しい人びとにはくすりをただであげていたのです。この村にすみついてからちょうど2週間たって、つい、あることからわらいがとまらなくなってしまいました。それでまたヘビのすがたにもどってしまいました。しかたないのでまた、山のほらあなににげていきました。
 ほらあなの中で、ヘビ夫婦はまた、なににばけようかとそうだんしました。いろいろはなしあい、かんがえた末、海から魚や海草を買い入れてきて売ることにしました。
 そこで夫婦は、魚や海草を買い入れて、また村にいきました。村では、魚や海草などめずらしいため、みんなよってきました。それに安かったので、よろこんで買ってくれました。
 こうして、村人にもすっかりなれたというときに、また、わらいがとまらなくなり、もとのヘビのすがたになってしまいました。ところが、ヘビのすがたにもどるところを、こんどはとおりかかった村人にみられてしまいました。村人は、
 「これはたいへんだ。みんなにおしえなければ」とびっくりして逃げていきました。そして村にいき、みんなにはなしました。するとひとりが、
 「土ンなかにうめたらどうだんべか」
 「うんだ、うんだ」
 と、はなしの結果、ヘビ夫婦を土の中にうめてしまいました。
 ところが、ヘビをうめたところに、いつのまにか2つに石ができていました。1つは大きく、1つはそれよりもやや小さいのでした。村人はみな、ふしぎがりました。
 うめられたヘビ夫婦がうらんで石になって出てきたのではないかと考えました。それからというもの、村人は石のそばをとおるのをさけ、きみわるがりました。
 こんな出来事があって1ケ月すぎたある夜、石のところから子どもの泣き声がきこえるのでした。毎晩、泣き声はきこえました。村人はきみわるくなりました。それでこうして村の人全部があつまって話し合いをしているのです。
 「どうすべか。このままじゃ、きみわるくて夜なんか、ねらんねべな」
 「うんだ、うんだ」
 「どうだべか、芦野から坊さまをよんで、お経でもあげてもらうべか」
 「うんだ、そうすべ」
 ということになって、芦野の宿へお坊さんをよびにいきました。そしてお坊さんにお経をよんでもらいました。
 それからは子どもの泣きごえもきこえなくなりました。しかしまた、小さな石ができたそうです。
 それでも村は平和になりました。

 現在、夫婦石という集落があり、ここに、その石がいまでも実在する。「みよといし」の方面へお越しの際はぜひご覧ください。
 大きな石と小さな方の石が、よるになるとくっついてしまうという話もある。

(「」HPより)

旧道らしき道。県道の左手。

(15:14)しばらく進むと、右手前方に「夫婦石の一里塚」。

    

夫婦石の一里塚
 一里塚は中国に例があり、日本では織田信長が天正元年(1572)に38町を一里(4㎞)として塚を築かせたといわれています。さらに江戸幕府は慶長9年(1604)2月大名たちに東海・甲州・中山の各街道の整備と共に一里塚を築かせました。同年5月には同じく将軍徳川家康の命令により奥州街道の整備が進められ、三代将軍家光の代にはほぼ完成したとのことです。その後、この街道の両側にも一里塚が築かれました。
 夫婦石の一里塚は、本町の最も南にあり、江戸日本橋より43里(172㎞)目の塚です。一里塚は、旅人にとって旅程の目標となり、時には憩いや休息の場としても利用されました。那須町には、この一里塚の次に、44里目の『板屋の一里塚』、45里目の『泉田の一里塚』があります。この奥州街道は、江戸時代の主要な街道=五街道のひとつとして参勤交代の大名とその家臣たちの通行をはじめ多くの旅人の往来、物資の輸送路として大きな役割を果たしました。

                                          那須町教育委員会
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その5。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-20 22:53:18 | 奥州街道
 「那珂川」を渡って、すぐ左にまがると、「越堀宿」となります。「鍋掛宿」とは、約800㍍離れているだけです。

越堀宿(こえぼりじゅく)
 宇都宮追分から14里5町2間(55.5㎞)、白河宿まで7里13町17間半(28.9㎞)
 宿内人数 569人、宿内惣家数 113軒(本陣1、脇本陣1、旅籠11)。奥州道中ではかなり遅く出来た宿場で、正保3年(1646)開設。

閑散とした宿内のようす。

「越堀」バス停。この路線は予約制で事前に予約しないとダメ。

宿はすぐに終わってしまい、前方の道は枡形になっています。

振り返って望む。時たま車が通過。

右手に浄泉寺があり、境内には黒羽領境界石がありますが、省略。

越堀宿」解説板。

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌9年、奥州街道が整備された。
 以後、幕府のご機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた。
 伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急遽、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向かった。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野村の藤田和泉重統である。
 宿場の形成は彼がその仮屋を払い請け、堅牢に建て替えたことに始まる。
 越堀の地名は、波が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。参勤交代の制度確立と共に、大名行列、麹米その他の物資の輸送、商人、旅人の往来当で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった。

 平成26年5月 鍋掛地域車座談義運営委員会
  

「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」

 鍋掛村役場跡
 黒磯町鍋掛支所跡
 黒磯市老人憩の家鍋掛荘跡

     越堀自治公民館建設記念

宿内を振り返って望む。

 右手の民家の庭先に大きな石碑「征馬之碑」と「殉従軍馬之碑」が建っています。


 (13:21)その先に越堀宿坂本屋の石碑と、新しい道標(石碑)が一段高い所に据えられている。
    

奥州街道
 右 これより江戸四十里
 左 これより白河宿七里
     平成十七年ニ月吉日 鈴木金弥



 「越堀宿」が終わると、街道は右にカーブして上り坂になります。この右カーブする所を左に分かれて行くのが『奥の細道』らしい。
 しばらく進むとその途中の左側崖上に高久靄崖の墓があるとのことですが、その標柱を見逃しました。

山道を進みます。

振り返って望む。

 (13:31)杉渡戸(すぎわたど)という集落に入っていきます。

「杉渡戸公民館」前に「伊勢大神宮遥拝碑」が建っています。

(13:38)こちらは、大きな「馬頭観音碑」。

これは現代の「一里塚」。単なる盛り土ですが。

 また山道になります。車も通らず、人にも遭わず・・・。
    

 やがて地図上では「富士見峠」に差し掛かりますが、どこかはっきりしないまま、峠を下っていくと、「寺子」という集落になります。

    

「寺子十文字」バス停。
 この辺りでは「十字路」(交差点)を「・・十文字」というようです。ここまでにもいくつかこういう表示を見ました。

 (13:58)「寺子十文字」手前右側の「寺子一里塚公園」があります。

    

寺子の一里塚(史跡)   管理者 寺子行政区
 一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
 ここ寺子の一里塚は、奥州街道42番目のもので、江戸より42里(約165キロメートル)の距離を示す塚である。
 一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 鍋掛の一里塚が慶長9年甲辰(1604)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
 最初の一里塚は、現在地から約50メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
 現在の塚は、平成7年3月に復元されたものである。
                                   平成7年3月吉日 那須塩原市教育委員会

    

富士見峠の馬頭観世音
 馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と、旅人の交通の安全を祈り道標として建てられた石仏である。
 安永4年(1775)12月寺子村を施主村として、寺子組25ヶ村のうち14ヶ村が協力して碑を建立したようである。
 地元の古老の話では、かって奥州街道富士見峠には2~3軒の茶屋があり、行き交う旅人の休息地であったという。
 この馬頭観世音も峠の頂上付近に建てられていたが、保存のため街道景観形成事業により現在地に移された。
                       平成8年丙子3月 那須塩原市

 公園内の東屋で休んでいる自転車の方に会いました。地元(那須)の方で、今日はこの辺りを90㎞ほど走ったそうで、これから帰宅するとのことです。60代後半で実にお元気な方。今回、初めて人と会話しました。後1時間20分くらいで「芦野宿」には着きますよ、とスマフォで検索してくれました。
 さて、もう少しです。御礼を言って出発します。

            

 (14:19)「寺子交差点」を渡って少し下った右側に会三寺があります。すぐ先の「余笹川」に架かる「寺子橋」を渡っていきます。



 その橋の手前右側には余笹川見晴らし公園があります。

 平成10年8月、余笹川流域では、台風4号に刺激され活性化した前線の活動で、二日間で総雨量1,340mmという豪雨を記録し、大洪水が発生、この大雨による被害は、黒磯市や那須町などの栃木県北部を中心に広範囲に及び、県内の死者は5名、行方不明者2名、床上または床下まで水に浸かった家屋は2,846棟に上り、住民5,500名以上が避難しました。特に余笹川では、洪水流により数時間で流路幅が3倍から5倍に広がり、河岸の8割以上が決壊しました。
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-19 18:50:51 | 奥州街道
 (12:58) 「鍋掛十文字」交差点を渡ると、「鍋掛宿」の中心になります。その前に、角のコンビニで小休止。

「鍋掛交差点」を渡った所に清川地蔵尊があります。

       「清川地蔵」は子育て地蔵として地元民の信仰が厚く、毎年4月24日の祭礼には集落の女性全員が集まり、念仏を唱える行事が行われているそうです。

宿場らしい雰囲気はほとんどなく、ひっそりとした街並み。  

 左手が小さな広場になっていて、解説板や芭蕉の句碑があります。奥は、八坂神社の祠。
    
 写真右の解説版には、「白澤宿」で見た「奥州街道白澤宿の会」と「奥州街道膝栗毛の会」による奥州街道の旅程表が掲載されています。

 奥州街道 鍋掛宿より各宿の里程
 江戸   江 四拾壱里八町参拾四間
 宇都宮宿 江 拾壱里五町拾四間
 ・・・
 鍋掛宿与利

 越堀宿  江    八町四拾八間
 芦野宿  江 弐里弐拾町参拾間半
 白坂宿  江 五里弐拾五町五間半
 白河宿  江 七里弐拾弐間五間半

 奥州道中・白河宿より宇都宮宿迄、弐拾壱里(八拾六キロ)余りを膝栗毛によって踏破した記念に、この高札を掲げる。
    平成参年(一九九一)拾壱月参日

 句碑の説明板には「鍋掛宿」の解説と奥州道分間延絵図(鍋掛宿部分)も併せて記載されています。
    

芭蕉の句碑
 芭蕉が元禄2年(1689)3月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。

   野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす

 この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
 その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
 句碑の建立は、文化5年(1808)10月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。
 平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。
                                                黒磯市教育委員会(注:黒磯市は現在、那須塩原市となっている)

鍋掛宿
 鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
 江戸時代初期の正保3年(1646年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。

 本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸。鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、川留めの時など、大いに賑わったという。
 鍋掛宿は那珂川対岸の堀越と2宿で1宿の機能を果たしていました。
 鍋掛の名の由来は、那珂川の川留めにより旅人が溢れ、宿住民が総出で鍋を出し、炊き出しを行なったことから、らしい。
 那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、鍋掛は天領でした。

「初市神」。

 八坂神社の隣にある正観寺の山門脇に樹齢250年とされる、大きなシダレザクラがあります。門前には蔵造りを模した「鍋掛消防小屋」があります。この建物が宿場をイメージした唯一のもののようです。

                             

かなり古そうな道標で、判読不能。

ここで「鍋掛宿」もおしまい。

(13:08)右に入る道が旧道ですが、左折してすぐ県道に戻ることに。

県道側から旧道を望む。

 そのまま県道を突っ切ると、右手に大きな馬頭観音石碑や道祖神が並んでいます。この道が旧道らしく、川べりに下りて向こう側に渡ったようですが、現在は通行不能。


 (13:13)「那珂川」に架けられた「昭明橋」を渡ります。
    

眼下は切り立ったようすで、天然の要塞という印象。
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読書「陥没地帯 オペラ・オペラシオネル」(蓮実重彦)河出書房新書

2016-10-17 21:20:59 | 読書無限
 三島賞で話題を取った蓮見さんの、それに先行する小説2編が出版されました。さっそく。
 といっても、今回は「オペラ・オペラシオネル」nomiを。

 皆さんは先刻ご承知でしょうが、「オペラ」と「オペラシオネル」(オペレーション、軍事作戦行動)と掛け合わせたどこかの国を舞台にしたお話し。のっけから何時間も乱気流に巻き込まれてしまったような。・・・展開どころか表現の繰り返しが多く、読んでいると、あれさっきと同じ、と戻ってみたりして、あてもなき浮遊感覚を実に楽しませながら。
 すっかり年老いた、組織の男と同志なのかそれとも敵方なのか、若いのか年老いているのか、一人の女性との不思議な逢瀬、駆け引き。味方か敵かを見分ける唯一のネックレスも、かそけき存在。そんな詮索などもどうでもいい、と。
 
 「文藝」1994年夏号に初出された作品。長年のさすらいの旅から、また衆人の目に触れたというわけです。

 今回の作品を彷彿させるのかどうか、読んでいないので、皆目、見当がつかぬが、
一つしかないベッドに横たえる女の、からだ。そこからの語り?騙り? の一文のよほどの長さはたたみかけるようで、小気味よいほどだが、あえて安っぽいサスペンス仕立てを、ものす。

 新装なった市立劇場の新作オペラの展開と共にモノ語りは進んで行く。いや、オペラすら架空のものか。
 が、舞台装置は激しく横揺れするゴンドラであり、サイドカーであり、漆黒のトンネルであり、女の乗馬服であったのですが。「多少の揺れは覚悟している」いう女との生死をめぐる飛行が始まったのか? その果てに?

快作か怪作か、そうした浮遊感覚はまさに読んでのお楽しみ。さっそく新作を読みたい気分になりました。
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-15 19:07:22 | 奥州街道
 (11:10)しばらく進み、「市野沢」交差点の先、左手に「高野槙(コウヤマキ)」の大きな木が見えてきます。かなり目立つ樹木です。近づくと古木の雰囲気が。樹齢約400年ということは、江戸時代初期から奥州街道を行き交う人々を見続けてきたというわけです。

    

与一の里おおたわら名木
 名  称  小滝のコウヤマキ(一本)
 所 在 地   小滝1103-3 主要地方道 大田原・芦野線(旧奥州街道)沿い
 目  通   3.1メートル
 樹  高  17.0メートル
 推定樹齢  400年
     平成三年三月二十六日 大田原市 

コウヤマキ 1本 天然記念物(昭和36年3月22日指定)
  樹   高  30メートル
  目通り周囲  3.15メートル
  推定樹齢   約400年
 スギ科「コウヤマキ」紀州高野山に多きをもって名づけられる。江戸五街道の一つ奥州道中三マキの一と称せらる。

 二つの解説板で、樹高がかなり異なっていますが。

         振り返って望む。

 かつては世界中に広く分布していましたが、現在は、日本と韓国済州島にだけ残存している樹木らしい。

路傍の石仏。

相変わらず単調な道のりですが、周囲には田園風景が広がり、道沿いには秋の花が咲いて、自然と足取りもはかどります。
     

 (11:23)「市野沢郵便局」の手前、右手に「弘法大師の句碑」といっても、江戸時代につくられたと言う句? その隣にある句碑がよかった!
     「気に入らぬ 風もあろうが 糸柳 大正五年入学生 七十歳記念」

(11:26)相の川に架かる「高野橋」を渡ります。

左手にポツンと「麻疹地蔵堂」。
 昔、この地域で麻疹が流行し、多くの幼児が亡くなりました。そのことを哀れんで地蔵を納めた、といいます。

「練貫(ねりぬき)」十字路(交差点)。

(11:46)その先、左手に「永代常夜燈」や「十九夜塔」などが建っています。その脇には新しい道標もあります。
    

振り返って望む。

    

 緩やかにアップダウンする道。周囲は畑? 道は小さく切り崩したところを進みます。前途の様子がよく分からないよう道。周囲は小高い丘。はたしてどうなっているでしょうか?
行き交う人もまったくいません。

(11:52)しばらく行くと、左手に「明治天皇駐輦記念碑」。

 この先もこんな感じで進みます。かつてはもっと上り下りが激しかった道のようです。
    

 白鳥の飛来する「羽田沼」への案内板。

(12:03)「那須塩原市」となります。

前方に「なべかけまつり」の幟。

鍋掛公民館 なべかけまつり 
《開催日》平成28年 11月6日(日曜日) 《会場》鍋掛公民館グランド 《時間》午前9時から午後2時まで
《内容》農産物の直売、牛乳試飲、餅つき実演販売、なべかけ鍋と手打ちうどんの販売、地元商工会出店、お楽しみ抽選会、バルーンマジック、おさるのしんちゃん、ステージ発表(児童のコーラス・和太鼓、フラダンス、大正琴、ウクレレ演奏、カラオケ大会)など。

 (HPより)

集落(「鍋掛宿」)はまだまだ遠そう。

ここにも石仏。

鍋掛の集落に入っていきます。奥から子ども達の声。

                  (12:29)手入れの行き届いた庭先。
    

 「樋沢神社」をいつしか通り過ぎてしまいます。そこには、「八幡太郎義家愛馬の蹄跡」の岩、「葛籠(つづら)石」という大きな石があるそうです。その先には、

「樋沢の不動明王像(お不動様)」解説板。

 平成26年3月に建てられたものですが、建てた団体が「鍋掛地域車座談義運営委員会」というのが面白い。

「伝説の大うなぎ 樋沢の大沼」。

朽ち果てたラブホテル「不夜城」。

 (12:45)左手に「鍋掛の一里塚」の標識があり、石段を上った、右のところに一里塚があります。階段は「鍋掛神社」の参道にもなっています。

    

 階段を登る前の石垣のところに山栗がたくさん落ちていたので、少し栗拾いをしました。

                   

市指定文化財 鍋掛の一里塚(史跡)
 江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道41番目のもので、江戸より41里(約160キロメートル)の距離を示す塚である。(鍋掛宿誌)
 当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
 『野間の大野家文書』には、慶長9年甲辰(1604)に築かれたという記録が残っている。
 もとは、ここより約11メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された(平成6年3月)
 また、かつては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。
     昭和44年1月1日指定
                           那須塩原市教育委員会

    
     一里塚より「奥州街道」を見下ろす。                   南側のようす。
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大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その2。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-14 23:26:49 | 奥州街道

 「蛇」の「尾」と書いて「さび」とは読むことは難しい。いわれは何でしょうか?

蛇尾川
 栃木県那須塩原市の大佐飛山地に源を発する支流、大蛇尾川と小蛇尾川が山地を抜けた地点で合流して蛇尾川となり、那須塩原市を南東に流れ、扇状地で熊川を合わせる。大田原市片府田で白倉山を水源とし那須塩原市塩原温泉郷より流れてくる箒川に合流する。
 大蛇尾川と小蛇尾川の合流地点より下流側の中流域は、扇状地那須野が原中央を伏流水として流れる水無川となっている。川岸には土手が築かれ、一面の河原が広がり、橋もかかっているものの、その川底には水が流れていない、もしくは水量の少ない流れがまばらに出現するような枯れ川の光景が十数キロに渡って連続する。一方で大雨の際にはこの河原に大量の水が流れ、過去には洪水による被害を幾度も起こしたという河川が出現する。
 一説によれば、「さび」という川の名はアイヌ語の「サッ・ピ・ナイ」(渇いた小石河原の川)に由来するという。この流域は川沿いでありながら水利の便が悪く、かつては不毛の荒野であった時期が長く続いた。
 伏流した流れは扇状地の扇端にあたる大田原市郊外で再び地表に流れ出る。扇端の湧水地帯には、天然記念物のミヤコタナゴやイトヨが生息する。
                                                       (以上、「Wikipedia」参照)

 ここに記されているのは、「水無川」にちなんだアイヌ語語源説。東北地方ならともかく、関東エリアという地域的にはちょっと異なるような気がします。

雨天続きのせいか、水流はありました。

「大田原宿」方向を望む。左手が「大田原城址」、右手が「大田原神社」。

解説板。

 「サビ」とは栃木県の方言で、斎日のこと。祭日を決めて神様に身を清めてもらう行事を行った清流を流れる川の意味である。
 ただ、蛇尾川は「水無川」、「暴れ川」という相反するイメージが強い。これが「蛇尾」という文字の由来であるという説もある。

 ここでは、「斎日」という行事から来ている、としています。また、「蛇尾」という文字の由来を説明しています。水無だったり、増水するとたちまち氾濫するということから「蛇」の「尾」というイメージ。音よりも漢字書きが先行するとは思えませんが、「蛇尾」=「ジャビ」が音韻変化して「サビ」になったとも考えられます。はたして?

 「蛇尾橋」を渡り、左手に向かいます。緩い坂を上り、右にカーブすると、その先は約5㎞のほぼ直線の道になります。

    
                        沿道には、立派なおうちが並んでいます。

 (10:34)左手にある「瀬尾家」は平家の末裔らしく、居館(中田原城)跡という石柱などが2つ塀の前に立っています。
    

平家之豪族瀬尾家居館跡(中田原城)
 古来9世紀前半 當地より西に 200間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる     
                              平成21年10月吉日  瀬尾家本家 41代當主 隆志書

東山道 旧奥州街道
 北 陸奥の国へ・出羽の国へ 南 奈良の国へ

 天喜5年(1057)源義家が勅令を蒙り父頼義とともに奥羽領国として下向の途次、 秋葉山瀬尾(せのお)神社(市杵島姫神)當家は平家であるため脇名、秋葉神社に滞陣して戦勝を祈り、東山道を通り當地に向  豊臣秀吉、天正18年8月(1590)奥州鎮定のとき、脇名秋葉神社で那須資晴の子藤王丸が会見し、この道を通り當地に向う

門前には句碑。「かさねとはやえなでしこのななるべし 曽良」。

門内には、芭蕉の句碑。
                        「野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす はせを」
 「奥の細道」」中の一句。

 是より殺生石に行く。 館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、 「短冊 得させよ」とこふ。 やさしき事を望侍るものかなと、

 野を横に 馬牽ひきむけよ ほとゝぎす

殺生石は温泉の出る山陰にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。(『奥の細道』)

 ここに出てくる「殺生石(せっっしょうせき)」は、那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩。

 殺生石は那須岳の丘陵が湯本温泉街にせまる斜面の湯川にそったところにあります。大昔、中国やインドで悪行をつくした「九尾の狐」伝説にまつわる史跡です。狐が化身したといれる大きな岩の周辺では、今なお独特な硫黄の香りが漂っています。
 また、俳人松尾芭蕉もこの地を訪れ「奥の細道」には、「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。 石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ 真砂の色の見えぬほど重なり死す。」と書き、次の句を詠んでいます。

石の香や 夏草赤く 露あつし

※殺生石は「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、平成26年3月18日“国の名勝”に指定されました。(以上「那須町」公式HPより)
                    (写真は、「Wikipedia」より)

来た道を振り返って望む。

「与一みそ 岩上商店」。  

沿道には秋の草花が咲き誇っています。

 左手にある、大きな「富士電機大田原工場」を過ぎてしばらく進むと、「中田原の一里塚」があります(10:45)。
    

大田原市指定史跡 一里塚一基(昭和36年3月22日指定)
 中田原の一里塚は、奥州道中沿い、大田原宿と次の鍋掛宿との間にあります。
 江戸幕府は慶長6年(1601)、奥州道中をはじめとする主要街道の整備に着手し、さらに同9年(1604)には江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4㎞)毎の印として、塚を全国に造らせました。これが一里塚で、5間(約9m)四方の方形に築かれ、塚の上には榎や松が植えられました。
 この一里塚も当初は道の両側にありましたが、南側の方は宅地建設の際に取り壊されました。北側は半分切り取られた形で残っていましたが、道路拡幅の際、平成12年(2000)に約1.5m後方に移築されました。
                                            大田原市教育委員会

現在の街道の茶屋、コンビニ・セブンイレブンの敷地脇にあります。 

まっすぐに伸びた道を歩きます。

 しばらく進んだ「市野沢小入口」交差点の角には「道標」と「聖徳太子顕彰碑」などの石柱が置かれています。
    

史跡 道標 (昭和60年5月15日指定)
 道標は、路の方向を示すもので木や石で作る。この道標は、江戸街道の一つである奥州道中(街道)から棚倉街道への小滝入口分岐点、追分に建てられたものである。棚倉地方では日光道または、江戸道と呼び奥州道中大田原宿を経由して江戸・日光方面に向う捷路として重要な街道であった。
 寛永6年(1629)8月「紫衣事件」によって江戸幕府の怒りをかい、僧沢庵宗彭と玉室宗珀が流人として流刑の地羽州上山と奥州棚倉への途中、この追分口まで一緒に護送されてきたが、沢庵は奥州路、玉室は棚倉路を北へ次のような決別の詩を作り袂を分かった歴史的な地点である。
     沢 庵
 天、南北に分かれ両鳧(ふ)(二羽のかも)飛ぶ、何れの日にか旧捿(旧巣)翼を双べて帰らん。常無く只此(かく)の如し、世上の禽(とり)も枢機(向を変える機)有り

     玉 室
 草鞋(そうあい)竹丈、雲と与(とも)に飛ぶ、旧院何れの時か手を把って帰らん 永遠く山長く猶信を絶つ(さらに音信も絶えた)。別離今日己に機を忘る(枢機も忘れた)と詩んだ。

 この道標は市内でも最も古いもので重要な文化財である。左面、之より左奥殊通(奥州道)  右面、之より右たなくら(棚倉道) 


 ここにある「紫衣(しえ)事件」とは?

紫衣事件(しえじけん)
 江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とされる。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく退位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であった。

 紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
 これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。

 一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

 このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
 幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
 寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。

 この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している。

 その後、寛永9年(1632年)、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは許された。配流された僧のうち、沢庵は徳川家光の帰依を受けたことで家光に近侍し、寺法旧復を訴えた。寛永18年、事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡され、幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣も戻されている。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照。)

    

 「お気軽にお寄り下さい 黒羽刑務所」との看板が目につきます。「刑務所作業製品展示場」の看板です。
「キャピック」という小物から家具までの手作り製品を展示販売しているらしいです。

 (HPより)

「棚倉街道」。
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いやはや、権謀術数もここまで徹底するとは。アベの黒幕の・・・。

2016-10-13 22:26:43 | 平和
安倍首相、だんまり戦術 憲法改正「発言控えた方が」

 最後は数で通せる。特に、日本維新の会が全面的に賛成している。その確約はすでにとれている、さらに「大阪万博開催」を担保にして万全の体制。
 一応消極的な姿勢を示している公明党が反対したとしても通せる。いや、公明党は反対に回るはずはない。
 まして、来年1月の総選挙での大勝(北方領土の二島返還を成果にして。これは元々プーチンが「引き分け路線」とかで提案していたもの)も見越しているのだろう。

 狙いはおそらく「緊急事態法制化」の一歩としての憲法改「正」。憲法第9条にはふれませんよということになって、国民の目線をずらす作戦、と思われる。

 それは、神社本庁、生長の家系の「日本会議」が主張している通りの展開になるに違いない。

 アベはもともと何も「ナイ(考えの)」男で、御しやすい。日本会議にとっては絶好の機会、おそらくアベのときにやらないと、という固い決意で国民運動(地方議会での決議を含めて)を展開してくるはず、国民投票を焦点にして。
 今、アベが徹底した「黙り路線」を貫いているのも、その筋からの「考え」に基づいているのではないか。

 そのうち、マスコミもアベと一体となっての憲法改「正」キャンペーンを行うにちがいない。NHKの会長人事もどうなることやら。今の忠犬ポチはあまりにもひどすぎるので、困っているはずだが。

 いやはや、・・・。
 
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