おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新天竜川橋。250㎞。中野町。舟橋・木橋。軽便鉄道。・・・(磐田駅から舞阪駅まで。その2。)

2015-03-31 21:22:38 | 旧東海道

 いよいよ「天竜川」を渡ります。富士川、安倍川、大井川と今回の天竜川。これで、静岡県内の4つの大きな川を制覇です。
 少し前までは県道(旧国道一号線)の「天竜川橋」にも国道一号線の「新天竜川橋」にも歩行者・自転車専用の専用橋がありませんでした。
 かつては、人も自転車も、自動車がひっきりなしに通過する橋の端をこわごわと(命がけで)向こう岸まで渡るか、バスに乗って浜松側に行ったようです。ようやく2006年(平成18年)「新(新)天竜川橋」に付設するかたちで歩行者・自転車の専用橋が完成しました。

 左手の橋が県道にある「天竜川橋」。トラス橋。

「新天竜川橋」からの「天竜川橋」。

 自転車がひっきりなしに通り過ぎます。広い川幅の途中には中瀬もありますが、昔は、船で対岸に渡りました。今回は、幅広い歩道を渡ります。
 小雪混じりの「大井川橋」を必死に渡ったことに比べれば、雲泥の差。穏やかな日差しの下、のんびりと歩いています。
 向こう岸に着く手前に、ちょうど「(日本橋から)250㎞」ポスト。これは「国道一号線」上の標記ですが、旧東海道も距離ではそんなに大きくは違わないようです。

             ここまで、通算で250㎞歩いてきたわけです。

     その付近から来た道を振り返る。

 けっこうな長さを渡り終えると、橋の左手のたもとにある小公園(休憩施設)に着きます。ベンチがあり、説明板も設置されています。



    

 現在、浜松の東の玄関口となっている、ここ中野町は、「天竜川」と「東海道」の交差点にあたります。江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ東海道五十三次は全長約500㎞の道のりですが、中野町はそのちょうど中間地点にあるところから、江戸と京都の真ん中のまち「なかのまち」と名付けられたのです。この北に「池田の渡し」があり、江戸からの旅人は富田・一色の船着場に着くと、そこから南下して東海道に出ていました。ここから少し西(現在の安間橋近く)へ進むと、新居関所へと続く東海道と浜名湖の北をめぐる姫街道とに分かれる分岐点がありました。
 天竜川の恵みにより、中野町は製材業の町として長く栄えました。上流から下ってきた筏を繋ぎ止めて陸揚げする工場が、この堤防沿いにずらりと建ち並んでいました。やがて製材工場を出た木材は、東海道線の天竜川駅から日本各地へと運ばれていったのです。六所神社境内には舟橋跡の石碑や水天宮・琴平宮のと石碑が立ち、往時を偲ばせています。
 150年前から打ち上げられている夏の花火も、中野町の名物です。8月14日、この天竜川の河原から打ち上げられるたくさんの花火は夏の夜空を華麗に彩ります。住民の手で大切に継承されている「中野町煙火大会」は、夏の風物詩として今も多くの人々から愛されています。

 中野町を考える会 

 「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」-東海道中膝栗毛-

 「ここが《東海道》のど真ん中というところ」が今までもありました。掛川宿のはずれにある「仲道寺」、「どまん中茶屋」のある「袋井宿」。いったいどこが本当のど真ん中なのでしょうか? 「東海道中膝栗毛」の表現からすると、江戸時代にはやはりこの辺りが「どまん中」ということになるようですが・・・。

 さて、本来は堤防の上を南下する方が道筋なのでしょうが、何しろ激しい車の通り。説明図の指示に従って堤防をいったん降りて「六所神社」の方向へ進みます。神社脇の階段を上って土手に上がると、右手に二つの碑があります。

    

 左は、「船橋之碑」。右の碑は、明治天皇玉座迹(あと)の碑

 明治11年、北陸東海道巡幸の際、11月1日、この地でご休憩なされた。御座所は金原明善の設立に係わる治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された当時の建物は明治25年10月焼失し建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。

 そのまま、土手を降りて河川敷に出て、対岸を望む。

 土手に戻る途中にこんな標示物が。

 「量水標今昔」

 左のコンクリート量水標は、天竜川右岸13㎞地点にあった、明治時代の量水標を移設したものです。(明治17年築造と推定)
 堤防勾配が違うためこの地点水位は測れませんが、当時は一目盛りが1寸(3㎝)を表していました。それに対して右の量水標は、現在の量水標で堤防勾配に合わせてあり、正確に測れるものになっています。
 (※量水標とは、河川の水位を測るものです。)

 暴れ川・「天竜川」治水の歴史的資料です。

「舟橋跡」、「天竜川木橋跡」。

 土手下に降りたところに説明板。

 舟橋 木橋 跡

 江戸時代の天竜川には江戸防衛の理由から橋が架けられていませんでした。東海道の蓬莱は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。
 明治元年、天皇御東幸の際には、舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられました。その後同7年には本流の舟橋と(中)州の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成し、街道の往来は格段に便利になりました。
 しかし舟橋は洪水により度々流されたので同9年に完全な木橋に架け替えられました。この「天竜橋」は昭和8年に現在の鉄橋ができるまで使用されました。

 中野町を考える会

    
   「六所神社」下にある「旧東海道」説明板と「道標元標」。

 旧東海道

ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。 十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、「舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。 この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわりの場とする人々で活気があふれていました。

 中野町を考える会


 中ノ町道路元標

足元にある標石は「道路元標」と呼ばれ、市町村の起終点を示したものです。 大正九年施行の旧道路法により、各市町村に一箇所の設置が定められました。
 ここにある「中ノ町道路元標」は中ノ町村の起点を示すもので、 当時の規格に忠実に作らています。 市町村の数と同じ1万2244基が設置されましたが、全国に現存するものは1600基ほどと言われ、静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものです。

 神社から右に曲がって、東海道を西に向かいます。

「六所神社」方向を振り返る。

 右手に大きな「天竜川橋紀功碑」。

       

 天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。
 浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年には舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。
 石碑は明治27年に建てられた。

 浜松市東区役所

 しばらく行くと左手に説明板。

 伊豆石の蔵

 この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵です。
 江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていました。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われました。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えています。
 この蔵の壁の石は流れるような縞模様や海を思わせる緑が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも大変秀逸で貴重なものです。

 中野町を考える会

    

「東橋跡」。

 かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。
 明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。
 この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです。

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 その先、「石垣内科医院」のところにあるのは、

「石垣清一郎生家」。

 明治18年中野町に生まれた清一郎は与謝野晶子が主宰する新詩社「明星」に参加した浪漫派歌人で、「秋の風 都へ帰る学友の待合室のトランクに吹く」の叙情歌で知られる。昭和2年に県会議員となり、昭和21年より中野町村村長を務めた。清廉にして豪快、篤実な村長として人々に親しまれた。
 嵐山光三郎は昭和17年、中野町の石が聞けに生まれ、清一郎より文学の薫陶を受けて少年時代を過ごした。嵐山の作品には天龍川や清一郎がしばしば登場する。中野町は嵐山のワンダーランドなのである。
 
 嵐山光三郎 記

 この地で「嵐山光三郎」さんの名を目にするとは思いませんでした。あまり彼の作品を読んだことがないせいですが。

 細い道を横切ると、右手には

「軽便鉄道軌道跡」

 軽便鉄道は明治42年から、浜松~中野町の11駅間を走っていました。馬込川沿いの木戸から東海道の南側を走り、この地点で道を北側に横切り、道沿いの家屋の裏側を通って終点(今の中ノ町自治会館)へ着きました。
「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで、客車一輛を引いて家並の軒先すれすれを、のんびり走っていました。 昭和3年以降は軌道自動車(ガソリンカー)に変わり、昭和12年に廃線となるまで、沿線住民の足として愛されました。

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   南側。                                       北側。

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「宮之一色一里塚」跡。長森立場。天竜川。・・・(磐田駅から舞阪駅まで。その1。)

2015-03-29 19:54:41 | 旧東海道
 3月28日(土)。

 今回は、「静岡」まで新幹線。そこから在来線で「磐田駅」まで。帰りは、「舞阪駅」から在来線で戻ってきました。帰宅は、午後10時半過ぎ。現地での行動時間を確保するためにそうしましたが、・・・。

 土曜、かつ天気も上々。同じように日本橋(東)から西(京都)へ、旧東海道を歩いている方が、二組(反対に西から東へ歩いているような方にも数人出会いました)。ご夫婦と若者3人組。
 ご夫婦は、品川の方らしい。「天竜川」を渡って、「六所神社」のところでお会いしました。
 早朝5時過ぎに家を出て、在来線で磐田まで。青春⑱切符を使って。帰りもそうするとのこと。確かにかなり安上がり。
 「静岡まで新幹線ですか。これから先は時間的にも無理だし、二人分だし、ちょっと贅沢な趣味になりました(笑)。品川だからまだいいほうですね」「そうですか、舞阪。出来たら私達もそこまでは行こうと思っていますが、浜松までの可能性も。」

 その先の金原明善の生家まで抜きつ抜かれつ、そこでお別れしました。

 もう一組は、学生さんなのか、男性1人に、女性2人の組み合わせ。どういう関係? この人達とも「天竜川」を渡ったところでお会いしました。その後、金原明善の屋敷のところで再会。
 「どこまで行きますか? 」「一応舞阪までと思っているのですが」「私もそのつもりですよ」「この時間ならだいじょうぶですよね」。
 この方達とは途中、浜松宿の手前で休憩しているときに、追い抜かれてしまいました。その後は会うこともなく。ところが、何と! 「舞阪駅」手前の東海道で再び出会いました。
 彼らはまだまだ元気そうで、会釈しただけでさっさと歩き去りました。後から考えると、5時過ぎに舞阪駅に着く電車に合わせようと、必死になっていたのかもしれません(結果的には、こちらも間に合いましたが)。

 実は、今回は、ひたすらほぼ西に向かって延々と歩く、というコース。上り坂も下り坂もほとんどなく、車が激しく行きかう、さらに信号機付きの交差点も頻繁(ただ地元の方はこちらが横断歩道を渡ろうすると、必ず一時停止してくれる心遣い・マナーにはありがたかった)な舗装道路を歩く単調なコース。史跡もごく一部を除けば、「一里塚」跡など具体的なものはなく、ただ標識が立っているだけ。
 「浜松」宿の賑わいに驚きました(ことによると、「静岡」よりも繁華街? )。
 特に電車の中での話の内容からも、あくまでも感覚的ですが、静岡が東京などの東の文化圏内であるのに対して、浜松は名古屋などの西の文化圏に属しているのではないないか、と。浜松は、静岡と、いい意味で張り合っているような、・・・。これが今回の大きな収穫でした。

 それ以外は、あまり見所もないままに距離を稼ぐという趣向。結果、通算「4万1千歩」を越える距離を歩きました。約25㎞? 

 品川からここまで。山あり、海あり、松並木あり、と毎回、けっこう見所もあって楽しめたのですが、・・・。これで、もっと炎天下だったら、ばててしまいそうな感じ。今回、そこまで行かなくても、途中いささかくたびれてしまいました。

 そうして、最悪のアクシデントが! 携帯写真(SDカードに保存)からパソコンにコピーしている時、突然、SDカードをフォーマットしますか、という表示が(原因不明)、えっ、そんなはずは! 途中で残りのコピーができなくなった! 浜松宿の手前でした。興味があるところもなく、だんだん歩くのがイヤになっていた、そんな持ち主の気持ちを察したのかも知れません。でも、最悪!

 ですから、今回の後半は、写真なし、ということで。写真がパーになったのはこれで2回目となります。

        
                    「中泉公民館(中泉交流センター)」前の説明板。

 磐田駅に9時半過ぎに着いて、いよいよ浜松に向かって進みます。駅から二つ目の信号を左折して、東海道。緩やかな下り、そして上りの道。
 見付宿は、現在の「磐田駅」よりも北東の方角に位置。「中泉公民館」や磐田駅のある付近は、かつての宿場のはずれになります。地名から「泉水」(湧き水)があったようです。「磐田駅」も以前は「中泉駅」。「中泉軌道」という線路もありました。
 「見附」は、律令時代以降、遠江国の国府・国分寺が置かれた古代の政治文化の中心都市でした。戦国時代から江戸時代にかけては、東海道宿場町である「見付宿」があった見付地区が発達。東海道本線敷設以後は駅が設置された中泉地区も発展。見付と中泉が合併した1942年以降、郡名に由来した磐田と呼ぶことになりました。

来た道を振り返る。

        

 その後、道なりに進んで、「県道261号(旧国道一号線)」と合流します。左手に説明板が二つあります。

        

 くろん坊様

 黒坊大権現は、旧東海道で、現在地の西約百米(現 磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。
 
 磐田化学工業((株) 大松の会


 大乗院坂界隈  

 旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。
 大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。
 この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。
 昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。
 現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。

 大松の会

上でいう「御林」「細江線」跡か?

 そのまま、県道を西に進みます。

「一言橋」。

 武田信玄との「一言坂の合戦」のとき敗色濃厚だった徳川家康が、当地にある一生に一度、一言だけ願いを聞き届ける観音様(「一言観音」)に戦勝を願ったところ、急に戦況が有利になったとの伝承がある、らしい。「一言観音」は、この少し北側に位置します。
 「一言坂合戦」の史跡等は、国道一号線・「一言」付近にあるようです。

 しばらく行くと、右手にあるのが、「宮之一色一里塚」跡。
                

    

 東海道 宮之一色一里塚

 江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。
 一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。
 当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。

 ちらほら松が見え始めて、少し進むと、左手に「秋葉常夜燈」。
    

 宮之一色秋葉山常夜燈

 この常夜燈(灯篭)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政11年【1828年】に建てられたものと分かりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯篭の中でも大変貴重なものです。風よけに灯篭の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。
 毎年自治体の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」お札をこの灯篭に奉納しています。
 地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇拝されています。
 旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯篭のある宮之一色へようこそ。よい日、よい旅を・・・。

 平成15年10月 宮之一色自治会

こうした案内碑を随所で見かけます。

しかし、「東海道松並木」も「並木」というほどにはいかず、道路沿いに足元をアスファルトで固められた「松」がポツンポツンとあるだけです。



 「森下」で旧東海道は県道から分かれて、左へ進みます。住宅街の静かな道となります。

振り返って望む。

 しばらく進むと、先ほどの案内碑。

曲がり方が旧道らしい。

 右手に「長森立場」と「長森かうやく」の説明板。

    

 長森立場(たてば)

 江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村―あいのむら―)には、立場(たてば)という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。
 明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。

 長森かうやく

 「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。
 山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ1.4メートル、幅73センチメートル、厚さ3.5センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。
 こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。
 昔の歌に
「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」
                   と詠まれています。
 平成18年3月 磐田市教育委員会

振り返って望む。

 この説明板のすぐ先の信号を右に曲がります。左手に天竜川の土手が見え隠れしてきます。そのまま進んで、さっきの県道にぶつかったら、左に。
 但し、旧東海道の道筋を徹底して歩くなら、県道・国道一号線を越えて北側の池田地区へ向かうのが当時のルートになるはずです(渡し場はいったん北上して行ったところにあり、そこで対岸に渡り、再び南下して浜松方向へ向かっていました。幕府の政治的な意図があったようです)。

 広重の見附宿は、天竜川の図でした。


           東海道五十三次之内 見附 天竜川図 / 歌川 広重

 東海道の中間地点である。見附の西、天竜川の急流を舟で渡る風景である。手前の舟の大きさと中洲の向こうの小さく描いた舟、さらに霞にけむる遠影の拭きぼかしの技巧によって空間の広さが描かれている。たばこをくわえて立つ船頭、そしてしゃがんで客待ちしている船頭の浅瀬に立てた竿が構図を引き締めている。


      大正期の見附「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より
 
(「知足美術館」HPより)

現在の天竜川(「天竜川橋」下流)。

 大正期の写真には遠方に山並みが見えるので、現在の写真の撮影位置とは異なっているようです。但し、見附側(磐田側)から対岸遠くに山(丘)がこのように見えるためには、本来の渡し場付近(現在の国道一号線北側・池田地区)よりもさらに上流に行かないと無理のような気がします。あるいは、浜松駅付近にビルが建ち並び、こうした地形の高低が写真では不確実になったのかもしれません。

隷書東海道五十三次見附。

行書版。

狂歌入り。

 いずれも天竜川の船渡しが画の対象になっています。

HPより)
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遠州鈴ヶ森。見付宿木戸。阿多古山一里塚。旧見付学校。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その6。)

2015-03-26 19:00:42 | 旧東海道

 そのまま坂道を下っていくと、国道一号線に合流します。目の前の歩道橋を渡って右側に。その歩道橋の脇に急な石段が。上がりきった、狭く草ぼうぼうのところに「遠州鈴ヶ森」という大きな標識。

    
                                    「無縁之萬霊」。
 大盗賊、日本左衛門の首がここで晒されたと伝えられています。日本左衛門は、遠州・金谷の生れ。美濃から相模の八か国にかけて、盗賊団の首領として暴れまわっていましたが、江戸の火付け盗賊改め方に捕えられて、江戸で斬首され、この地に運ばれた、といいます。
 ここの敷地はあまりにも狭く、小高くなっている(国道の拡幅整備の関係で、丘が切り崩されてここだけ残った雰囲気ですが。たたりでもあったのか? )ので、実際あった場所はもう少し西側だったようです。

 国道から分かれて右の道を行くと、左手の橋が「涙橋」。同名の橋が、東京の鈴ヶ森、小塚原の刑場にもありました。
        

 そのまま急坂を下ると、東木戸跡。

 左手にある「愛宕山」。

 愛宕神社を上ると、「見付宿」(磐田)方向がよく見渡せます。

 その北側、社の裏手に「阿多古山(愛宕山)一里塚」が現存しています。
       

    
    南斜面。                            北斜面。

 回り込んで、広い通りに出ると、「見付宿」入口らしく解説板や歓迎のモニュメントが。 

    

 見付宿と阿多古山一里塚

 見付宿は、江戸日本橋から数えて28番目、京都三条大橋から26番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言『磁石』に「見付は長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば東木戸から、東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸まで並び、ほぼ中央に南北両本陣や脇本陣が置かれました。西に天竜川を控え、東海道各宿の中でも重要な宿の一つでした。
 この見付宿の東側の入口に、阿多古山一里塚があります。この塚は見付の町を見下ろす高台にあり、教へ向かう旅人は、ここから宿場を眺めてほっとしたことでしょう。
 一里塚は、江戸時代の初期(1604年以降)に整備されました。阿多古山一里塚は江戸から62里、京から64里の位置にあります。一里塚が残っている所は少なく、さらに阿多古山一里塚のように街道の両側に塚が現存する例は極めて珍しく、昭和42年に磐田市の指定史跡になっています。

 注:街道の反対側に残っている塚の方は行きませんでした。

JA遠州中央見付の前にある絵地図。

 予備校もしゃれたつくり。
 
     
       問屋場跡。                             本陣跡。

足元には「見付17小路」の案内。

 右手の奥に、「史跡 旧見付学校」。

    

 史跡 旧見付学校
 見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平左衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。
 基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間、奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2階の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾り柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風建築です。
 明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。

 磐田市教育委員会文化財課

 現在、校舎内は明治の教室風景や職員室をはじめ、学校関係の資料等が展示されています。昭和44年、国指定史跡となっています。自由に中を見学して回れます。一見の価値は、充分あります。

     

急な階段を上り下り。

4階からの展望。

5階からの展望。

 5階は、太鼓楼でした。

 5階は太鼓楼です

 この最上階(5階)は太鼓楼で、伝酒井の太鼓が置かれていました。(現在は1階に展示中)
 この学校ができた明治8年(1875年)から大正中期頃まで、児童の登校や正午の時報として毎日打ち鳴らされていました。当初は、小使いさん(用務員うが叩いていましたが、その後太鼓当番の上級生が叩くようになったようです。
 この太鼓の音は児童だけでなく、見付町民の生活の音としても親しまれ、ここから1㎞離れたところでも、はっきりと聞こえていたといわれています。

注:「伝酒井の太鼓」は、三方原の合戦の際、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる太鼓。

 この施設のすばらしいところは、明治以来の教科書の変化、学校制度の変遷、昔の生活道具の展示だけではなく(これもけっこう充実した内容)、地元の子供達や親など地域住民に開放しているところ。
 何人も子供達や親子連れが訪れて、階段を上ったり下りたりして遊んだり、昔の遊び(自転車の車輪回し)をやっていたりしていました。
 過去の教育施設ではなく、今もなお現役、というのは素敵なことです。

 何だかゆっくり見学している内に、4時少し前。磐田駅まで向かいました。
「旧見付宿脇本陣大三河屋門」。

 「西坂」を下ると、突き当たりには「姫街道」の標識。

《街道成立の理由》
 東海道の新居関所は、女性に対して特に取り調べが厳しいことで有名であった。徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われているが、新居関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても厳しい取り調べが行われていた。また、当時は男装して関所を抜けようと考える女性も多かったらしく、関所には「女改め」と呼ばれる性別調べを専門に行う女性も常駐していたという。
 新居関所の執拗な取り調べを嫌った女性たちが、同所を避けて浜名湖の北側の陸路を通ることになったのが、東海道の脇往還としての「姫街道」の発祥と一般的には言われている。また、東海道の舞阪宿と新居宿間の「今切の渡し」の今切を不吉として、女性が避けるようになったと言う説もあるが、文献として残っている訳ではない。ただ、実際に『姫様』の通行があったことは間違いない。
 徳川吉宗の時代には、象が通行したという記録が残っている。

《津波被害の迂回路》
 宝永4年(1707年)の宝永地震津波によって、新居宿および新居関は流失し、浜名湖が太平洋に通じる今切は1里(約4km)もの大口を開けてしまったため、舞阪から新居までの航路では太平洋の荒波を直接受けるようになった。「法螺でない荒井の津波路」とまで呼ばれた危険な渡海を避けて、姫街道が盛んに利用されるように成ったという[1]。
 しかし、参勤交代などで迂回されることとなった見附から御油の間の宿場町は経営が困難となり、宝永6年3月(1709年)には、浜松宿を始め、舞阪・新居・白須賀・二川・吉田の6宿から「見附宿より市野村、御油宿よりすせ村江人馬継立不申様に被為仰付被下候は、難有奉存候」という嘆願書が出された。その結果、享保2年11月(1717年)になり漸く、本坂通(姫街道)通行差留となった。しかし、その後も姫街道を利用する者が後を絶たなかったという



(以上、「Wikipedia」参照。地図は、HPより。)

 東海道は、磐田駅方向に向かいます。

「西木戸跡」。

    

 ここで、「見付宿」を後にし、次の「浜松宿」への道となります。加茂川交差点のところを渡り、一つ目を左に入り、道なりに進んで、磐田郵便局のところで、再び県道56号線に戻ります。旧東海道は、磐田駅前交差点のひとつ手前を右折しますが、今回はここまで。

 「ジュビロ磐田」に敬意を表して。

 帰りは、磐田から熱海行きに乗り、そこで「篭原」行きの各駅に乗り換え、上野まで。
 ずうっと「東京」行きでしたが、3月14日に「上野東京ライン」が開通し、東海道線と常磐線・高崎線などとの相互乗り入れが始まって「東京」止まりはなくなった! そうなってから、初めて乗りました。(「篭原」は、埼玉県熊谷市にある駅)。

 途中までは乗降客もこれまでと変わりはありませんでしたが、品川駅からは乗る人も増えて、新橋からもまた増えてきました。今までは東京駅止まりでしたから、降りる人はいても、乗る人はほとんどいなかった! ところがずいぶんと様変わりでした。 

 品川から乗った二人連れのサラリーマン。ボックスシートに乗るや否や、ビール缶を出し、つまみも出して飲み始めました。斜めどうしに座っていて、窓側に座っている目の前をつまみが行きかうということに。

 便利になりましたか? 
 ええ、そりゃ20分も違いますから。 
 席を交代しましょう、上野で降りますから。
 すいません、有り難うございます。

 窓側の対面になったお二人はおいしそうに、また飲み始めました。
 
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木原一里塚。江戸の古道。七つの道。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その5。)

2015-03-24 20:27:42 | 旧東海道

 消防署の前の交差点を渡って左に進むと、右側には田園風景が広がります。しばらく行って小さな橋を越えると、右に折れる道が、旧東海道。
「木原松橋」。

    
 蔦谷版東海道五十三次之内 袋井(初代歌川広重)。     来た道を振り返る。 

     HPより)

 右手に「木原一里塚跡」碑。

 その先の左手に復元された「木原一里塚」があります。

        

木原一里塚

 木原一里塚は、江戸から数えて61里目の一里塚です。『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、『東海道分間延絵図』(東京国立博物館蔵)や『東海道分間絵図』(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。

 一里塚とは、一里(約4㎞)ごとに街道両側の土を盛り上げ、目印にした塚のことです。中国で榎と銅表を立てて里数を記した堠槐や奈良時代の国界の標識などが、その起源と考えられます。古くから里程については一里が6町や39町、48町、50町、60町などとさまざまでしたが、『本朝世事談綺』に天正年間(1573~92)織田信長が36町ごとに一里塚を築き、榎をその塚の上に植えたと記しています。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、新たに定めた度量衡制の全国的普及をも意図して、三六町を一里として、5間四方の一里塚を築造しています。それを受け継ぎ主要な街道すべてに一里塚を整備したのは徳川家康です。
 慶長9年(1604)家康は秀忠に命じ、江戸日本橋を起点として東海道、中山道に榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及しました。榎を一里塚に採用したのは、榎の根が深く広がって塚を固め、塚を崩れにくくするためでしたが、この採用にあたっても家康伝説が伝わっています。また、榎の代わりに松などを植えていた地方もみられます。
 東海道の一里塚の築造に際しては、大久保長安を総督として永井白元と本多光重が奉行となり、江戸町年寄の樽屋藤左衛門や奈良屋市右衛門らが請け負いました。
 一里塚は街道の両側に二つの塚が対として、松並木の背後や街道からはやや離れた場所に築造され、旅人や駕籠、馬の乗り賃の支払いの目安となりました。5間(約9m)四方の基壇の上に丸い塚をのせ、榎などが植えられました。街道から塚までは小道がのび、日差しの強い日には木蔭を提供する休憩所ともなりました。しかし、18世紀後半ごろから一里塚は荒廃してしまい、幕府も積極的な整備対策は講じませんでした。明治時代以後は鉄道の発達などにともなって一里塚の必要性もしだいに失われてしまい、街道の拡幅整備などにともなってその姿を消していきました。

 平成11年3月13日 袋井市教育委員会

    

 ということは、最初に見かけた緑色の「一里塚跡」碑が、もともとの「一里塚」のあったところなのでしょう。 

 しばらく行くと「木原権現社(式内許禰神社)」のところには、「古戦場 木原畷(なわて)」。
                            

 説明板。

 古戦場 木原畷

 元亀3(1573)年、兵三万五千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城飯田城を落して久野城へ向かった。しかし久野宗能の激しい抵抗にあったため東海道を西に向い、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いをくり返した信玄はやがて二俣城を攻略し、東三河へ向うべく三方ヶ原を通過しようとした。これに対して家康は兵一万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城に逃げ帰った。
 これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。

 1985年5月 袋井市教育委員会

「徳川家康公腰掛石」。
 関ヶ原の戦の勝利祈願のため当社を訪れた折、腰かけた石と言われています。

「木原代念仏」。

市指定無形文化財 木原大念仏

 1578(天正6)年の夏、高天神城(大東町)から徳川家康軍のようすを探りにきた武田勝頼の家臣、笹田源吾は、木原村で討ち取られてしまいました。その後。村には疫病がはやり、源吾の霊のたたりではないかといわれるようになりました。村人は、笹田源吾の墓をたて、その前で行った供養祭が木原大念仏の始まりと伝えられています。毎年、8月13・14日の2日間、新盆の家をまわり行われます。

                        

 県道と再び合流するところに「木原」地区の説明板が立っています。
         

 木原

 木原は元亀3(1572)年に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地として知られています。
 また、武田勝頼軍の斥候笹田源吾に由来する「木原大念仏」(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。
 地区内には原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(式内許禰神社)長命寺笹田源吾の墓や供養塔徳川家康の腰掛石など多くの歴史的遺産が残っています。

 この先で合流。次の「磐田市」に進みます。

 袋井市と磐田市の市境になっている川。

「磐田市」。この先の交差点を左に渡る。 

 しばらく進むと「太田川」。右側には「国道一号線・袋井バイパス」。横断歩道を渡り、ガソリンスタンド(廃止)のところを左に折れて正面の狭い道に進みます(左手の小松がめじるし)。

振り返ったところ。

 左手には田んぼが広がり、松並木が見えてきます。

 旧東海道松並木

 東海道は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化し、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。
 東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ヶ野地区までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。

 おねがい 交通規則を守って、事故防止にご協力下さい。

                   磐田市教育委員会文化財課 

「三ヶ野」。
                      

    

                   「鎌倉時代の古道」。田んぼを回り込むように進む道か? 

 続いて右手に「大正の道」。 

 少し上り坂にかかると「明治の道」。 

 その先を行くと、左手に「江戸の古道」。そこを左に上って行きます。この辺りからは山道にかかります。

     
                                      坂の上から下を望む。

「歴史がうつる三ヶ野七つ道」。

 三ヶ野坂の七つ道 磐田市三ヶ野

 南北朝時代に宗良親王がその心境を三ヶ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西交通の要衝であった。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。
 東から三ヶ野橋を西進すると、標高38メートルある大日山の急斜面を、這うように江戸期以前の細道が蛇行している。坂上で江戸時代の旧東海道と交差する。そこを200㍍西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道一号線となる。交通量の増加で磐田バイパスが計画されて、立体交差の袴道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると、北側は桶ヶ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は、俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた七つ道が、1ヶ所にまとまって見られるのは珍しい。

 左手に上ると、「古戦場 大日堂」。そこから袋井方向がよく見えます。古戦場らしい位置になっています。 
                     

足元には「この蜜柑は徳川家康が駿府にお手植えになった蜜柑の木の子孫です。」

 戻って住宅地の中を進みます。住宅地の中の十字路には「車井戸之跡」碑と「従是鎌田山薬師道」の道標。
                        

 振り返って望む。

 立場跡。

 下り坂になってどんどん下って行きます。この辺りは、かつては丘陵だったのでしょう、いつしか宅地造成の波の中で一帯が開発され、唯一、先ほどの山道・森が残されたようです。

 途中、車の往来の激しい通りを横切ります。けっこう長い坂道。15分くらい進み、「特別支援学校」を過ぎると、緩やかな上り坂になって、標識が出てきます。
「従是西 見付宿」。

「榜示杭」説明板。

 「榜示杭」は、街道に沿った村や宿の境を示す標柱です。
 ここは見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界でした。
 文化3年(1806)に発行された東海道分間延絵図〈大久保〉に【御料榜示杭】の表示があり、その下に境界を示す記号赤丸印があります。

 その付近から松並木を振り返る。

 この松並木は大正時代のもので、この付近では江戸時代の道は失われてしまったようです。

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袋井宿東本陣跡。二つの宿場公園。袋井丸凧。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その4。)

2015-03-23 22:57:03 | 旧東海道

しばらく進むと、右手に本陣跡の門。東本陣跡。


袋井宿東本陣跡

 袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。
 1、宿内惣家数 195軒
   内
   本陣 凡建坪290坪半 門構・玄関附 字新町 1軒
      凡建坪219坪  門構・玄関附 字本町 1軒
      凡建坪168坪半 門構・玄関附  同  1軒
 三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋も勤めています。
 本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。
 平成12年7月28日 袋井市教育委員会 

    

 この場所は平成3年度に発掘調査が行われ、建物の一部が発見されました。現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。
 発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。
 この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。
 南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井がなかったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました。

 左手の壁沿いには大きな説明板。

 東海道の本陣

 本陣とは江戸時代に大名や公家、幕府の役人などが宿泊したり、休憩する宿泊施設のことです。参勤交代の制度が始まった寛永年間ごろから整備が本格化し、五街道の宿場にはかならず本陣が置かれていました。本陣は一般の旅行者が宿泊できる旅籠屋とは違い、門・玄関・式台などを造ることが特別に許され、宿場の有力者が本陣の主人となり、名字帯刀を許されていました。

 本陣の宿泊

 袋井宿東本陣の利用状況は元和4年(1618)から寛永11年(1634)までの17年間の状況を記した袋井市指定文化財「本陣御宿帳」からうかがい知ることができます。袋井宿が開設されてから2年後に始まる幕藩体制初期の宿帳は大変に貴重なものです。
 その記載は極めて簡略で、利用の月日、休・泊の別、休泊料、そして利用者のみの記載となっています。この17年間のすべてについて、月ごとにその休泊の状況を整理すると、全体として宿泊と休憩とはいずれも30回を越えています。若干休憩が多いようですが、ほぼ半々となっており、宿の設置は他の宿場より15年遅れましたが、開設当初から宿泊の利用がかなり盛んであったと考えられます。また、年間を通しての利用回数をみると、20~40回程度の年が大半で、寛永3年(1626)と寛永11年(1634)は将軍の上洛の影響によって70回を越えて利用されていることは注目されます。また、月別の利用をみると、他の月に比べて12月の利用が多くなっています。参勤交代が制度化されて以降は、外様大名の交替期4月と、譜代大名の交替期6月が多くなったようですが、残念ながらこの宿帳は寛永11年(1634)までで終わっているため、その翌年に武家諸法度が改訂され、参勤交代が制度化されて以降の休泊の状況を知ることはできません。
 17年間で繰り返し東本陣を利用したのは伊勢国神戸城1万5千石の一柳直盛と三河国宝飯郡形原5千石の松平清直で、領地と江戸を往復するのに利用したと考えられます。

 本陣の利用

 大名が本陣を利用するにはそれなりの手続きがありました。まず各本陣に対して休泊の予約を伝え、利用可能なら本陣から請書を提出します。この後、他の大名との差合いを避けるために先触れを発し、家臣は大名の発駕に先だって現地に入り、宿割りを行い、関札を掲げ、玄関には定紋付きの幕を張り、提灯を灯し、本陣当主は礼装して宿はずれまで出迎えます。行列の出発は午前4時頃が慣習であったため、準備の時間を考えると午前1~2時の起床であったと考えられます。

 本陣の経営

 本陣の主たる収入は休泊料ですが、この休泊料に特に定められたものはなく、「御祝儀」と呼ぶにふさわしい性格のものでした。東本陣を数多く利用した一柳直盛と松平清直は一貫文から二貫文(千文~二千文)でしたが、金銭だけでなく、袷羽織・帷子(たれまく)・反物・色紙などで支払われることも多かったようです。また幕府から下賜金や各種の補助がありましたが、建坪200坪を越える大建造物を、つねに休泊に応じられるように維持することは大変な苦労でした。「きせるなどは50本出せば10本返ってくるのはまれである」といわれたように、本陣備え付けの椀・皿などの什器類から、はては屏風・布団・衣類にいたるまで持ち去られ、これらの補充に要する出費もかなりのものだったようです。
 本陣の経営は享保の頃からしだいに苦しくなり、戊辰戦争時には利用率が若干多くなりますが、明治維新以後、田代家は本陣を廃業し、伝馬所(明治元年6月に問屋場から名称変更)の元締役となりました。郵便業務の開業とともに、その取次所も兼ねることとなり、東本陣の建物は、最初の袋井郵便局となりました。

 備え付けの什器類などを持ち去る、などと興味深い記事が書かれています。今でもそうかな? なんて、ね。

 さらに今度は左手に「袋井宿場公園」。
     
                        「此処はどまん中袋井宿」。
遠州山名郡袋井宿
掛川宿へ2里16町(約9.7キロ)
見付宿へ1里半(約6キロ)
当所名物 うなぎ・すっぽん

    
   東方向。                                西方向。



 歴史の道 東海道 袋井宿

 袋井宿が初めて歴史資料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。
 「・・・なくふくろふの もろこゑは
      かけてもきかし かけ河の・・・」
 これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたと思われます。
 鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。武士や貴族・僧侶の他、多くの人々が往来し、特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。
 徳川家康は江戸に幕府を開く2年も前、慶長6(1601)年に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として元和2(1616)年に開かれました。
 「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて27番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。

公園の奥には、浮世絵が。
                      右には「北斎漫画 袋井」、左には「末広五十三次」。

そして民家の壁には。「東海道五十三次どまん中」。

 道の右手にも案内図。 

         
      右手にあった「袋井丸凧」保存会の事務所? ガラス越しには制作中の丸凧などがたくさん。


袋井丸凧の再現
                        
 袋井丸凧は歌川広重の「東海道五十三次袋井」や二代目広重の「諸国名所百景袋井」などに多く描かれています。
 その後、一旦は丸凧の伝承は消えて、凧上げの風習もなくなっていましたが、昭和六十二年、市内の、有志の尽力により郷土に伝わる丸凧の文化が再現されました。
 再び蘇った丸凧は、袋井の空高く舞い上がったのです。(「袋井市観光協会」HPより)

 広重を含めて袋井宿に関する浮世絵は、丸凧など凧揚げを題材にしているものが多いようです。

 「御幸橋」のたもとにある「本町宿場公園」。

 この公園にも「土塁」「高札場」など「東海道袋井宿」にちなんだものがつくられています。

    

 秋葉山常夜灯

 火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。
 公園入口の常夜灯はもと東海道北側にあり、南側約3メートルの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。

 高札場

 幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。
 高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。

 土手(土塁)

 いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2メートルをこえる土手が写っています。土手の内側には枡形(宿の警護所)がありました。袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両脇に土手を再現しました。

 平成11年4月  袋井市

 そしてここが西のはずれ。宿内を望む。

 
 右の絵は「春興五十三駄之内 袋井」葛飾北斎 享和4年(1804)。葛飾北斎が生涯に描いた11種類の東海道風景画の一つ。画面の上部に3首の狂歌が添えられています。大きな荷物を背負った馬と大黒様を思わせる旅人。お茶を差し出す女将の姿は、どまん中袋井宿の「おもてなしの心」を表しています。
 左の絵は、「東海道五十三次之内 袋井之図」香蝶桜国貞 天保14年(1843)。「保永堂版東海道五十三次之内 袋井」を模した出茶屋を背景に荷を背負い、杖をつき、先を急ぐ女性の旅人を描いています。おそらく伊勢参りに行くのでしょう。当時、女性の旅は伊勢参りがほとんどでした。

    
                  徹底した「どまん中」路線は、恐れ入ります。

こちらは「東海道どまん中西小学校」。

 その先の左手には、洋館つくりの「旧澤野医院」。

 袋井市指定文化財 旧澤野医院

 旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。
 澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。
 旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行も29間あり、さらに西側に12.5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。
 この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。
 各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。
 各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。

     

 しばらく道なりに。右手には「寺澤家長屋門」。 

「川井」。大きな交差点。 

 「袋井消防署」のところ。

 左が「諸国名所百景 遠州秋葉遠景 袋井凧」(二代広重)江戸時代末。右は「狂歌入り東海道 袋井」(初代歌川広重)天保年間。
                    
             (HPより)

 「袋井宿」は、「どまん中」から「丸凧」、「本陣」まで盛りだくさんでした。
  
コメント

松並木。天橋。「東海道どまん中茶屋」。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その3。)

2015-03-22 22:19:48 | 旧東海道

 緩やかにカーブする旧道を進みます。

 道の角には、「油山寺参道」道標。 
                          このように東海道からの道標が数多く設置されています。

「隷書東海道五十三次 袋井 初代歌川広重 嘉永2年(1849)」

 題字が隷書で書かれているためこの名がある。
 大きな唐獅子牡丹の角凧と鶴に松を描いた丸凧が上がっている。右下に「名物遠州だこ」と記されているように、田園風景と凧の取り合わせは、遠州地方を代表する初夏の風物だったのであろう。
                  
                  
                   (HPより)

 しばらく行くと、右手に「七ツ森神社」。

日坂の怪鳥に関わる神社のようです。

史跡七ツ森神社

 七ツ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩士高力猿猴庵が天明6年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれています。
 その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。
 この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。
   ・・・
七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。

 平成10年3月25日  袋井市教育委員会

社の裏手からは戦国時代の城郭「久野城」跡が遠望できます(↓)。

    

「双筆東海道五十三次 袋井」。

 三代豊国(歌川国貞)が人物を描き、歌川広重が風景を描くという、合作の東海道五十三次。この組み合せは、嘉永6年(1853)に「豊国にかほ(似顔)、国芳むしゃ(武者)、広重めいしょ(名所)」と評された当時人気の浮世絵師のうちの2名であり、いわばスター浮世絵師の得意分野での競演という趣があります。各宿場あて1枚ずつに、目録1枚を加え、全体で56枚からなります。
 画面上部に広重が宿場の風景を描き、下半分は三代豊国(歌川国貞)が人物を役者絵・美人画とりどりに描いています。人物画は、宿場に関係する風俗や戯曲、故事、説話に取材するものが多く、当時の人々が風景を文学的関心に添って見ていたであろうことを想像させてくれます。(以上、「三菱東京UFJ銀行」HPより)

    
                    松並木の南側には、田園風景が広がる。


               

 東海道松並木

 主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。「信長公記」には天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」と記され、慶長9年(1604)には徳川秀忠が「諸国街道一里毎に堠塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが「徳川実紀」に記されています。江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、江戸時代の面影を今に伝えています。
 また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。

左に「可睡斎」への道標、右に「油山寺」への道標。

 新屋交差点で県道413号線と合流して反対側に出ます。
交差点手前が「東新屋」。

「どまん中茶屋」への案内あり。

 信号を渡ったら斜め左へ。「西新屋」。

 「どまん中茶屋」の案内に従って右折。

右手に屋根付きの木造タイプの常夜燈。

 新屋の秋葉山常夜灯

 火伏せの神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代にさかんになりました。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くなりました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。
 常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その築の人々が火伏せの神への信仰から建てられるものもありました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへんよい常夜灯です。かっては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。

 道なりに進み、正面を左折して大きな通りへ。「市役所前」。

 最初の信号を斜め右に渡ると、「袋井宿」入口。

        

 袋井宿と天橋

 袋井宿は元和2(1616)年に設置されました。いわゆる「東海道五十三次」でいえば品川宿から数えて27番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。天保14(1843)年の調査によれば、宿内の町並みは西端の中川まで5町15間人口は843人、家数は本陣3軒・旅籠屋の50軒を含め195軒でした。
 平成元年6月4日 袋井市教育委員会

    「阿まはし」。但し、石橋なので、昭和に入ってからのものと思われる。

注:「袋井宿」は、江戸からも京都からもちょうど「ど真ん中」の27番目なので、「どまんなか」が町のキーワード。 
 

東海道五十三次之内 袋井 出茶屋ノ図 / 歌川 広重

 袋井のはずれの田園を描いている。郊外の葭簀がけの茶屋は大木の木陰を利用している。駕籠かきと飛脚がたばこをくわえ、のんびりと一服している。野面石を積み上げた炉。火をおこす煙で、大木の下部が見えなくなっている。のどかな田園風景が広がり、遠くには農夫と馬が行く。高札の上の一羽の鳥は、ふれ書きに対する庶民の抵抗の表れかもしれない。

(「知足美術館」HPより)

 注:広重の絵は、「袋井宿」東木戸付近(天橋付近)を描いたものとされています。
 

大正期の袋井「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より。

 写真の橋は、土橋時代の「天(阿麻)橋」か? とすれば、現在の「どまん中茶屋」の左側付近となる。

現在のようす。高い建物がなく、昔と変わらぬ風情を保っている。

         
                         「東海道どまん中茶屋」。東海道はこの茶屋の左手を進む。

「日本一小さな歩く道の駅」。

「袋井 出茶屋ノ図」。

「袋井大凧発祥の地 袋井宿」。

 ここで一休み。お茶をいただき、おにぎりを食べながら、茶店の地元の方と四方山話。
「ちょうどいい天気だね」
「暑からず寒からずですね」
「これからは暑くなるし。そうそう、ここに記帳してくれますか」
「ええ、いいですよ。はい、東京からです」
「横浜の人がけっこう来るね」
「なるほど東京からは来てないですね。へえ~、ずいぶん遠くからも」
「おひとりですか。団体で来る方も多いよ」
「こういうのも気楽でいいですよ」
「ここは、桜がきれいなんですよ」
「川沿いにずいぶんありますね」
「桜の頃にまたおいでなさいよ」。・・・

 案内絵図、それも巻物風の案内をもらいました。

「こっちの方向でいいんですよね」
「ええ。時々間違う人もいますよ、あっちの広い道の方へ行って、また戻って来る」
「ありがとうございます」

           

 商店も屋号の前に必ず「東海道どまん中」と記しています。

                        
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松並木。間の宿原川。久津部一里塚復元。どまん中東小学校。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その2。)

2015-03-21 17:39:30 | 旧東海道

 「善光寺橋」を渡ると、「仲道寺」の看板。「東京京都中間地点。由緒ある寺」と。

    

 「善光寺」と「仲道寺」という二つのお寺が並んでいます。特に「仲道寺」のいわれについて、説明板では、

 ・・・その昔、江戸から京都まで測量したところ、この寺が丁度東海道の真ん中で仲道寺という寺名がついたと云われている。

 とあります。 

 「仲道寺」を過ぎると、見事な松並木が続きます。
    

 よく見ると、若い松が多い。さらに、枯れてしまった松の株の脇には新しい松が植えられています。地元の松並木保存に対する熱心な取り組みを感じます。

    

 少し成長した松の木も。

    

 旧東海道松並木 岡津~原川

 官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。
 現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。

 一時期「松食い虫」によって、日本中の多くの松の古木が姿を消したことが話題になりましたが、東海道でもその被害は大きかったのですね。

       

 松並木を過ぎて左手の「金西寺」のところに案内図と説明板があります。

    

 間の宿 原川

 宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。
 原川は、掛川宿まで一里18町(約6㎞)、袋井宿まで33町(約3.6㎞)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。

「原川」地区を振り返る。

大正初期に設置された道標。ここを左折。この先が地下道。

 「国道一号線」に合流。「(日本橋から)234㎞」ポスト。

 「同心橋」を渡ります。土手には菜の花が一面。

「原野谷川」。

 いよいよ「袋井市」に入ります。

 「同心橋」を渡って左に曲がると「名栗」。

 土手の下の小公園「名栗花茣蓙公園」。

北斎の浮世絵「東海道53次袋井宿」。

「公園」全景。

 静かな住宅街を西に向かいます。
 緩やかなカーブが旧道らしい雰囲気。

    

 名栗の花茣蓙

 文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し 軒を連ねた通りをすぎ 瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋に着く 名代の甘酒に舌鼓、ここは袋井の宿までの合いの宿 旅籠屋のあり 名物の花ござを売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が珍しいと買って行く」・・・

  旅人の 見えかくれする 並木道 
      瀬川のほとり 花ござの里

 「名栗」は、旅人が休息する立場として知られ、特に特産品の花ござは有名でした。

    
 振り返って望む。                         西の方を望む。

 袋井の松並木。

    

 東海道松並木

 江戸時代の東海道沿線の村々を記録した『東海道宿村大概帳』には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。
 東海道の松並木は、慶長9年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と『徳川実紀』は記しています。
 その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。

  平成12年3月10日 袋井市教育委員会

初代歌川広重「行書東海道五十三次之内 袋井」。

 題字が行書で書かれているためにこの名がある。
 童とともに凧を見上げる旅人を描く。大人二人がかりであげているところをみると、相当大きな凧なのであろう。遠くに見える山並みは小笠山か。袋井市域の初夏の風景である。

          
            (HPより)

 見事な松並木。夏の暑い日差しでも遮るような並木道。

「歌川芳員 東海道五十三次之打ち袋井」嘉永6年(1853)

 振り分け荷物と菅笠を放り出し、両手を合わせて命乞い。農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手は「かかし」、早とちりな旅人に農夫もあきれ顔です。
 ユーモラスな場面の背後には松並木が続きます。東海道袋井宿近くの夕暮れです。

 松並木を抜けた右手には、朱塗りの大きな鳥居。富士浅間宮。

 再び松並木。振り返って望む。

 しばらく進むと、左手に「妙日寺」。
                          このお寺は、日蓮聖人の父・貫名重忠に因縁のあるお寺で、貫名氏代々の邸宅跡と伝えられたいるようです。父親の法名を寺名としています。

 その先の左手、袋井東小学校の敷地内には「久津部一里塚」跡の説明板が二つあります。
「袋井東小学校創立百年記念 東海道久津部一里塚跡碑」。

 徳川幕府は慶長9年2月(昭和47年より368年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸より60里の地点であったから道を挟んで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。
 その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅地で国道より3間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治10年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をいたした次第である。
 平成12年8月改修(昭和47年説明板設置)

 ちなみにこの小学校の創立100年が昭和47年ということは、現在は実に143年という長い歴史を持つ小学校ということになります。1872年(明治5年)創立。
 もう一つの説明板。

 久津部一里塚

 一里塚とは、街道両側の一里(約4㎞)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や松がその上に植えられていました。
 久津部一里塚は江戸からちょうど60里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。
 昭和47年には袋井東小学校創立百年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。
 ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました。

 平成12年8月改修(平成4年12月1日説明板設置) 袋井市教育委員会

        

 校門には、「東海道どまん中東小学校」という表札。

 秋葉山常夜燈。

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掛川宿。清水銀行。十九首塚。大池橋。大池一里塚。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その1。)

2015-03-20 21:10:30 | 旧東海道

 なかなか機会がなくて、やっと3月18日(水)。掛川から磐田まで。

 一日がかりで、3万6千歩以上でした(家からの往復を入れると3万8千歩ほど)。天気はまあまあ、穏やかな日差しのもと、雨にもあわず、西風にも吹かれず、でした。行きは新幹線(時間の都合上)。帰りは在来線。帰りは、帰宅までには5時間くらい掛かりました。
 ほとんど舗装道路を歩いての旅、季節的には今頃が限界? これからは炎天下、車の行きかう舗装道路をひたすら歩くのは、ちとしんどくなるかも知れません。しかし、すれ違う地元の方との挨拶に励まされながらの旅は、いいものです。

 前回のところ(「掛川信用金庫連雀支店」の角)まで戻って西に進みます。この通りが、本陣通り。右手に屋台村の一角。ランチもやっているようで、仕込みが始まっていました。
     

商店街。静岡ではアーケード街が多いようです。

清水銀行掛川支店。
                            「中町」交差点。「掛信」の建物と並んで、宿場町らしい趣。

建物の横には「札差」の看板が懸かっている。

 札差(ふださし)

 元来、旗本・御家人たち蔵米取は、俸禄米支給日に自ら浅草のお蔵に出頭し、蔵米を受取り、米問屋に売却したものであるが、それらの面倒な手続き(蔵米の受け取りや換金といった作業)の代理を札差が代行してくれた。
 札差は蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって、それぞれ手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差引いて、現金と屋敷で食べる分の米を各屋敷に届けてやるのである。
 札差が旗本・御家人の代りに俸禄米を受取る手数料を札差料といい、蔵米100俵につき金1分であった。またこれを米問屋に売却する手数料を、売側(うりかわ)といって、同じく100俵で金2分と定められていた。札差の本業たる手数料の儲けは、蔵米100俵の受領と売却につき合計金3分となる。
 そのうち蔵米の受け取りを代行するだけではなく、蔵米を抵当にして金を用立てるという金融業務が、札差の重要な役割となっていった。金に困った武士は、札差に次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をする。札差は蔵米の支給日に、売却した現金から手数料と右の借金の元利を差引き、その残りを武家の屋敷に届ける。札差はこうして金融業者としても次第に力を持つようになっていった。
                                            (以上、「Wikipedia」参照)

通りに面したところに、「山内一豊、千代夫人」のレリーフ。



 由来

 天正18年 掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。
 若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
 後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。
     清水銀行

 しばらく進むと、右手に「円満寺」の表門。
   

 掛川城蕗の門

 この門は掛川城の内堀(蓮池)ほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。
 廃城後の明治5年(1872)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。その時に、柱の下を2尺5寸(約76センチ)切り取って山門にしたといわれている。

   昭和35年5月31日指定  掛川市教育委員会

 しばらく行くと、正面が道路工事中。道なりに右に向かいます(「十九首塚方面」との標識あり)。


「十九首(じゅうくしゅ)塚」。右手の路地を入ったところ。

        

 承平5年(935年)、桓武帝の五代の孫である平将門は、関東一円を占拠して自ら新皇と称して律令国家に対向する国家を企てる叛乱を起こしたが、平貞盛、藤原秀郷らによって天慶3年(940年)に征伐された「天慶の乱」にまつわる首塚。

 十九首塚の由来
 
 ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。
 人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で相馬小太郎将門という武将がおりました。

・・・

 秀郷は将門をはじめ一門の家臣19人の首級を持って京に上る途中、掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。
 首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。
 この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた19人の詳細な名前が残されています。地名の由来も19人の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
 町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。

       平成14年3月

 しばらく進んで左からの道と合わせ、「逆川」を越えます。その先の「二瀬川交差点」で、国道1号線と合流して左に進みます。
                    「(日本橋から)230㎞」ポスト。

    
 古い商家。                                  新築もかつてのイメージを大切にしている。

 しばらく行くと、「倉真川」に架かる「大池橋」。 

      

橋の右手を望む。

橋を渡ってすぐ左手にある「説明板」。

 大池橋と秋葉街道

 大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.8m)余りの土橋と記されています。
 東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから9里(約35㎞)余りの道のりです。
 常夜灯は、明和6年(1769)に、鳥居は安永9年(1780)に建てられたものです。この鳥居と常夜灯は、嘉永7年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。
 東海道は、鳥居の手前で左に折れます。


 『広重 東海道五十三次 掛川』

 掛川の宿のはずれには橋がある。凧が画面からはずれるほど高く上がっている。遠景には険しい秋葉山がある。手前に描かれた御神灯は防火の信仰の秋葉山への入口を示す。供を連れた僧侶が渡ってくる。老婆とその連れの男。そして凧の糸が切れて叫びながら追いかける童子。田植えの農夫を描き、季節を表現している。

注: 一般に凧揚げは、正月行事としてありますが、掛川近辺では伝統的に4月下旬から5月にかけての行事としてあります。上の絵でも、凧とともに、ちょうど田植えの季節なので田植えをする農夫も描かれています。

 (遠州)横須賀凧の歴史は古く、戦国時代、武田方と徳川方による高天神合戦の際に、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのが、その始まりといわれています。
 いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。
 正徳年間(1711~1715年)には、広く城下町の庶民の間でも凧を揚げるようになりました。そして凧揚げはますます盛んになり、しばしば凧に関する城役からの注意書(うなりのついた凧や大凧の禁止令)が発布されたほどです。このように人々が競い凧揚げを重ねた結果、様々な意匠のものが誕生しました。このため凧の種類は多く、20種類以上にもなるといわれています。
 やがて、凧揚げは4月20日過ぎから5月までという期限が定められ季節がら男児の節句祝品として用いられるようになり、今日に継承されています。 (「掛川観光協会」HPより)

    

 左の写真は、大正期のようす。(「知足美術館」HPより)。橋のすぐ向こうに鳥居が見えている。     
 右の写真が現在のようす。大きな鳥居はなく、右手奥に小さくなった木造の鳥居となっている。鳥居の南側にあった家屋は現在もそのまま残っているようす。

右手奥に鳥居と秋葉神社がある。

                         

 「大池橋」を左折し、そのまま県道253号線を進むと、「鳥居町」の交差点、その先は、天竜浜名湖鉄道「西掛川駅」。
        

 ホームに上がってみました。
    
              掛川駅方向。                      下り方向。

 道なりに進むと、交差点先の左手に、
「大池一里塚跡」(日本橋から59番目)。説明板などはありませんでした。隣は、お寺。

    
 振り返って来た道を望む。                          西側を望む。松並木が見えてきます。

                       

 大きくカーブする道の右側にある酒屋さん。
    

 その先の沢田IC交差点で、国道一号線のバイパスをくぐり、突き当たりを左に曲がって最初の道を右へ進みます。
旧東海道。のどかな道筋。 

 「東名高速」のガードをくぐると、右側に川の流れ。黄色のひょうたんが棒の先にくくりつけてありました。 
中央奥が「東名」。
    
 
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読書「イン・レイト・スタイル 晩年様式集 」(大江健三郎)講談社。2013年10月24日第1刷発行。

2015-03-17 20:57:32 | 読書無限

 4年前の3月11日。「東日本大震災」。

 このあいだ岩手に行きましたが、復興の話は随所に出てきても(悩みや不安や期待や・・・)、原発の話はなし。
 こちらも、復興への励ましはあっても、福島原発の、今も悲惨で、しかし忘れ去れてしまいそうな(ここでも「復興」という大義名分によって)現状について、言い出し得ませんでした。

 そして、確実に原発の再起動は迫ってきています。またしても、災禍を乗り越えて、日本の「輝かしい」再建が「着実な」歩みとなっていく、と多くの国民を信じさせながら。

 多くの被害者や科学者や政治家や哲学者や文学者が、そして市井の人々が語ってきた「福島原発事故」。さまざまな立場での発言。それらが(賛否いずれもが)、アベ自公政権の強引な再稼働方針とその実施に対する強固な姿勢(4年前の出来事をすっかり忘れさった)に、すっかり(遅れた)過去の言説にでもなってしまったかのような、今の日本の、暗澹たる文化状況、言論状況。
 
・・・

 気がついてみると、
 私はまさに老年の窮境にあり、
 気難しく孤立している。
 否定の感情こそが親しい。
 自分の世紀が積みあげた、
 世界破壊の装置についてなら、
 否定して不思議はないが、
 その解体への 大方の試みにも、
 疑いを抱いている。
 自分の想像力の仕事など、なにほどだったか、と
 グラグラする地面にうずくまっている。

 しめくくりに記された「詩のごときもの」の冒頭の一節。

 福島原発事故のカタストロフィーに追い詰められる思いで書き続ける主人公・長江。

 大江さんの分身ともいえる長江古義人が主人公のシリーズ。

 「晩年の様式を生きるなかで」書き表す文章となるので、“In Late Style”それもゆっくり方針を立てではないから、幾つもスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。

 私=長江は、執筆途中だった長篇小説に「3・11後」興味を失い、揺れに崩壊した書庫を整頓しながら、以前購入した「丸善のダックノート」に、思い立つことを書き始める。
 一方、四国の森の中に住んできた老年の妹が、自分と2人(妻・千樫と娘・真木)、そして何よりも息子・アカリが、長江(大江)に一面的な書き方で小説に描かれてきたことに不満を抱いている。こうして、3人の女は、あなたの小説への反論を書いたので、読んでもらいたいという。それらを合わせることで私家版の雑誌「晩年様式集+α」をつくるという設定で、話が進んでいく。
 妹、妻、娘という3人の厳しい批判が、そして、アカリのつぶやく言葉が、長江に突きつけられる。「家庭を基盤にして、個人的なことから社会的な事まで小説にしてきた。・・・モデルにされた家族からいえば、兄の小説はウソだらけだ」・・・。
 さらに、ギー兄さんの子供、ギー・ジュニアや塙吾良(義兄の伊丹十三)の愛人であったシマ浦なども登場し、かつて「小説(フィクション)」のモデルとして扱われた当事者達によって、「事実」が明かされる手法をとっている。

 「イン・レイト・スタイル 晩年様式集」は、大江の今までの作品の一つ一つを「解題」しているようなものにも感じられる。「懐かしい年への手紙」、「空の怪物アグイー」、「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」、「人生の親戚」、「新しい人よ眼ざめよ」、「『雨の木』を聴く女たち」、「M/Tと森のフシギの物語」、等々。特に、息子の「アカリ」との関わりでしばしば登場する「アグイー」の存在。
 また、伊丹十三の自死にまつわる『取り替え子(チェンジリング)』、父の死にまつわる『水死』など、当事者からの異議申し立てを含みながら、謎解きをしていく。特にアカリとの関わり。

 そうした展開の中で、その根底にあるのは、3・11後の出来事。

 福島原発から拡がった放射性物質による汚染の現状を追う、テレビ特集を深夜まで見終わった後、2階へ上がっていく途中の踊り場で、長江は子供の時分に魯迅の短編の翻訳で覚えた「ウーウー声をあげて泣く」ことになる。

 ・・・この放射性物質に汚染された地面を人はもとに戻すことができない。(中略)それをわれわれの同時代の人間はやってしまった。われわれの生きている間に恢復させることはできない・・・この思いに圧倒されて、私は、衰えた泣き声をあげていたのだ。

(息子のアカリは父に向かって)

 モノマネの語り口はとめないままで。
――大丈夫ですよ、大丈夫ですよ! 夢だから、夢を見ているんですから! なんにも、ぜんぜん、恐くありません! 夢ですから! 

 「反原発」運動に積極的に関わりながらの執筆(3人+αとのやりとり)は、長江をとりまく大勢の生きる者、死んだ者達。そして、真木や千樫とりわけアカリとの関係の再構成を目論むやりとりでもあった。

 《「すべての国民は、個人として尊重される」という第13条に、自分の生き方を教えられた気持でした。あれから66年、それを原理として生きてきた、と思います。もう残された日々は短いのですが、次の世代が生き延びうる世界を残す、そのことを倫理的根拠としてやっていくつもりです。それを自覚し直すために、「原発ゼロ」へのデモに加わります。しっかり歩きましょう! 》

 誰かれから、『形見の歌』からの詩が「3・11後」の詩ではないことを知って驚く、といわれるのを聞いた。私自身、詩の中の私の70年という言葉通り70歳の自分から80歳の定点に向かう私への〈端的に、さらに苛酷となる「3・11後」に生き残っている自分への、ということだ〉手紙だったのかもしれない、。と感じる。しかしそれとしての言葉の勢いに、千樫はともかく希望が感じられるといったのだ。
 書き写して、終刊号の付録とする。

・・・

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている。

 私のなかで、
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 この小説の執筆時点(現在)は、福島原発事故直後からの約2年間。大震災、大事故からすでに今年で4年が経過した。この作品が世に出てからも1年半が経とうとしている。
 大江さんがこの小説の中で、憂いたこと、嘆いたこと、確信したこと、期待したこと、・・・それらは、その後の4年間、いな2年間経ち、今、どうなっているだろうか? 

 「私」から「私ら」へ。

 少なくともまだ大江さんよりも若い「私ら」(といっても、途方もなく長く残された年月ではないが)は、「生き直すことができる」だろうか? 自問自答しつつも、生きながらえなければならない。
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読書「廃市」福永武彦/「春は馬車に乗って」横光利一(「百年文庫「水」所収)ポプラ社

2015-03-16 20:14:04 | 読書無限
 電車や飛行機での移動時間が多いと、ついついうとうととして、気がつくと、外は景色ががらりと変わって雪景色に。そんな経験をしてきたばかりです。
 それでも短編小説のいくつかを読んでつかの間の時を過ごす、そんな時間もまた、よきかな!
 しっかりした組み立ての短編には深い味わいもあって、旅行では最適。時に「百年文庫」を図書館で借りては持参します。

 福永武彦「廃市」

 前にも読んだことがありましたが、相変わらず(といっても昔のままですが)読後感の爽やかさは変わりません。しっかりしたストーリー。しかし、10年前の出来事をとっくに忘れ去ってしまっていた! 一夏を過ごした下宿先の旧家での出来事。それを新聞記事でその町が大火でで焼失したことを知り、その経験の一部始終を蘇らせる、そうした手法は、さすが。
 大学生の主人公にとって青春の痛烈な体験を、その後の慌ただしい生活の中ですっかり忘れ去ってしまう、たしかに時の流れの速さ、恐ろしさを感じさせる。いな、忘れ去ろうとしていたことが否応なしに再び鮮明に浮かぶ上がってきた、そんな主人公の戸惑いを垣間見た思いがします。
 登場人物の固有名詞は明確で示されていながら、主人公のみイニシャルで表す。そこに、存在した町のたたずまい、そこに生きる人達、・・・。すでに失われた市井の生活を描き出していきます。もちろん、一見何の変化もない日常に潜む、狂気・嫉妬・動揺・・・、けっして単純ではない心の葛藤を、運河の流れにたゆとう人の生き様になぞらえての小説技法は、作者の面目躍如たるものがあります。

 親戚の叔父の紹介で、その年の夏休み、私は卒業論文を書くため、運河に囲まれた古い町の旧家で間借り生活をすることにする。その最初の夜、ゆるやかな河の水音で寝つかれず、雨戸を繰りぼんやり表を眺めている「僕」は、遠くで女の泣声らしいものを聞く。悲しく喘ぐような声にじっと耳を澄ませる「僕」。・・・

 この地がどこであるかは明示されていないが、「・・・さながら水に浮いた灰色の棺である。北原白秋『おもひで』」、と冒頭の引用にもあるように、白秋の故郷、福岡・柳川を舞台としていることは察しができます。
 以前、知人に案内されてそこに立ち寄り、白秋の実家など近辺を散策し、うなぎの「せいろ蒸し」を食べました。
 東京で食べる鰻の蒲焼きとは違って、蒸してある上に、ご飯にもタレが絡めてあるので、けっこうな甘さと香りでした。知人に山椒はないんですか(東京では振りかけるので)と聞いたら、そんなものはありませんよ、と半ば本気でしかられたことを思い出します。

 1983年、大林宣彦によって映画化されていますが、やはり撮影は福岡県柳川市で、全編オールロケされています。

 横光利一「春は馬車に乗って」

 妻の死を看取る夫。凩の吹き始める季節から早春まで。死に逝く妻と看病に明け暮れる夫との諍い、和解、葛藤、平安、海辺の風景の微妙な移り変わりと庭先のささやかな変化、その中で、次第に死の準備を完了する二人。友人から届いたスイトピーの早春の匂やかさを妻に捧げる夫。最期の場面。
 
 「どこから来たの」
 「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ」
 ・・・(中略)・・・
 妻はその明るい花束の中に蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。

 川端康成とともに「新感覚派」の旗手として活躍した人ですが、ここでは、ひたむきで奇をてらわぬ姿勢が生きた言葉で語られています。  

 もう一つは、伊藤整の「生物祭」です。
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帯広。一面の銀世界。そして、花巻。「下ノ畑ニ居リマス 賢治」。

2015-03-15 23:26:20 | 世間世界
 先週の金・土は、帯広へ、日曜、今度は花巻へと法事で出かけました。飛行機と新幹線での往復のあわただしい旅でした。

 帯広は、晴れていて、風もなく穏やかな、それでもまだまだ冬の北海道という雰囲気。道路は除雪してあって通行には支障がありませんが、道路脇にはうずたかく積み上げられた雪の壁。車同士の見通しもまだまだよくない。出会い頭の事故を目撃したほどです。空港からの送り迎えは、地元の方、さすがに運転は上手でした。でも、お年は、80才! 都会ではちょっと・・・。

 日曜は、花巻へ。雪も遠くの山々が真っ白になっていますが、地面には、裏庭に少し残雪がある程度。寒さもそれほど感じませんでした。日本は狭いようで、広いということを実感。

十勝平野。飛行機から。一面、銀世界。

ホテルから。見渡す限り広い大地。

最低気温はまだ氷点下です。

 ところで、ここは、例のお騒がせ夫人の中川さんの地盤。まだまだ厳しい逆風は続くのか? 

 そして、今日は、花巻。上野駅のホームで待っているとき、滑り込んできたのが北陸新幹線金沢行き。

パチリ。

 滞りなく行事が済んでの「新花巻」駅までの帰り道。送ってくれた方。
 「花巻はどうですか?」「う~ん。景気は良くないですね。岩手の海岸側も復興の方が進みませんし。なかなか計画もまとまらず、それぞれが自分のことしか考えていないような企業も多くて、・・・」

 未曾有の大震災から4年。まだまだ困難な日々が続くようです。これからの6年、10年後には何とか希望が持てるといいですが・・・。

 「宮沢賢治ですか、やはり」「そうですね、結局、賢治さん頼りという感じですかね」「宮沢賢治ですか」「ええ、賢治さんに」

・・・、「賢治さん」と「さん」付けするのは、郷土の誇りなのかな、と。「実は、宮沢賢治の遠縁でして、・・・」「えっ、そうでしたか」。
 「飛行場の近くに花巻農業高校がありますから、行ってみますか? 」「下の畑に居ります、という黒板がある? 」「ええ、そうです」「ぜひ」
 というわけで、寄ってもらいました。

    
                        下ノ 畑ニ 居リマス 賢治

 「弟の清六さんによって書かれたものが消えないよう、生徒によって、毎日、上書きされ続けているんですよ」



 復元 賢治先生の家
  花巻農学校精神歌の碑

 賢治先生の家は、もと花巻町下根子桜(今の花巻市桜町)に、先生の祖父宮沢喜助翁隠居所ととして建てられたものであります。
 大正15年に花巻農学校(今の花巻農業高等学校)を退職された宮沢賢治先生は、この家に「羅須地人協会」を設立、近隣の若い人たちや農村の人たちの教育の場とし、また多くの詩を書き、農耕にしたがい、自炊生活をして農村のため、捨身の猛運動をはじめたのでした。
 そのために病気になり、とうとう37才の若さで、先生は昭和8年9月21日豊沢町の自宅で逝去されました。生涯独身でした。
 昭和11年桜の地に「雨ニモマケズ」の碑を建てるとき、この家は宮野日村の農家の人に譲られました。ところが、このたび花巻農業高等学校が、現在の地に新築されることになりましたら、驚いたことに、この賢治先生のゆかりの深い家が、一部分は直されたところもありましたが、大体昔のままの造りで学校の構内になる場所に健在だったのでありました。
 なんという不思議なめぐりあわせでしょう。同窓会に学校も協力、一同でぜっしんに復元にあたり、ここに賢治先生の住まわれたなつかしい家が姿を現しました。そのうえ、そばの松の木の下、花に囲まれた庭園の一角に「花巻農学校精神歌」の碑が建てられ、ほんとうに、みなさんに喜ばれる、すがすがしい気持ちのよいところになりました。

 昭和44年11月7日

    
                                      室内のようす。




 われらに要るものは
     銀河を包む
 透明な意志 
   巨きな力と
 熱である

  宮沢賢治

    
                             宮沢賢治像。

建物の全景。

    
    庭園のようす。                        庭の一角に宮沢賢治像。

 こうして新花巻駅へ向かいました。

補足:「花巻農学校精神歌碑」。直接見なかったので。



 碑文は宮沢賢治が花巻農学校在職中、同校のために作詞したものです。この歌は同校の精神歌として歌い継がれ、同窓会が建立しました。

作詞 宮沢賢治   作曲 川村悟郎

碑 文  日ハ君臨シ 輝キハ
     白金ノ雨 ソソギタリ
     我等ハ黒キ 土ニフシ
     マコトノ草ノ 種マケリ
     
     日ハ君臨シ 穹窿ニ
     漲リワタス 青ビカリ
     ヒカリノアセヲ 感ズレバ
     気圏ノキハミ 隈モナシ

     日ハ君臨シ 玻璃ノマド
     清澄ニシテ 寂カナリ
     サアレマコトヲ 索メテハ
     白堊ノ霧モ アビヌベシ

     日ハ君臨シ カガヤキノ
     太陽系ハ マヒルナリ
     ケハシキタビノ ナカニシテ
     ワレラヒカリノ ミチヲフム

HPより)
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東海道の松並木。タブノキ。茅ヶ崎一里塚。・・・(藤沢・引地橋から茅ヶ崎まで。その2。)

2015-03-12 20:04:10 | 旧東海道

 さて、再開です。

 大磯付近で、長く続き、大きく古い松並木を通過したあとで、こうしてここに戻って改めて眺めると、ちょっと物足りませんが、市挙げて何とか松並木を維持・保存しようとしている姿勢は強く感じます。

    

 古く大きな切り株のそばに若い松。
     

「日本橋まで57㎞」ポストを通過。

「松林中学校」「茅ヶ崎高校」付近にも松並木が続きます。

                   「説明板」。

 東海道の松並木

 茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。
 遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。
 長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。
 みんなで大切にしましょう

 茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎の文化財を守る会 建設省(現国土交通省)
 昭和62年9月

 安藤広重の浮世絵が掲げられています。
                              (HPより)

     
  藤沢方向。                            平塚方向。

お豆腐屋さんの看板。  お店。

 「本村」交差点付近の右手に「タブノキ」の大木。

    

 本村のタブノキ

 市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。市街地では珍しく自然の形で大きく育っており、変わりゆく周囲の景観とは対照的に変わらない姿で在り続け、緑のある沿道の景観を創り出している。

 この辺りは、道の両側は少し低地に。東海道は、高台の上を通っていたようす。南北と3~4メートルの高低差があります。
    
  北側を望む。下り坂。                     南側から。上り坂。

 しばらく進むと、「相模線」の上。

    
 その先も松並木。まだまだこれからの若い松が目立つ。普段から北西の風が強いのか、曲がった松が多いようです。

 交差点、右手に「平成の一里塚」。

 平成の一里塚

 一里塚は慶長9年(1604年)徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山美智、北陸道の沿道に一里(約4㎞)ごとに設けられました。塚は沿道の両脇に築き、大きさは5間四方と決められていました。市指定重要文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向かい側にあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。
 参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが延享2年(1745年)の『東海道巡礼記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。
 この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。
 一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。
 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館
 平成23年10月
 
そこから来た道を振り返る。

 交差点の向こう側に、「茅ヶ崎一里塚」。

                        松並木。

    
                           「茅ヶ崎一里塚跡」碑。

 茅ヶ崎一里塚 茅ヶ崎市史跡指定

 徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。
慶長9年(1604)、徳川爆破東海道などの一里(約4キロ)ごとに塚を築き旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から十四里目にあたります。
 かつては道の両側にありました。

 茅ヶ崎市教育委員会


       

 今回は、ここまで。前回同様、茅ヶ崎駅から帰りました。

 
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「大山道標」。「四ッ谷一里塚」。東海道松並木。・・・(藤沢・引地橋から茅ヶ崎駅まで。その1。)

2015-03-11 22:15:55 | 旧東海道

 このところ、なんだかんだ忙しくて、なかなか一日がかりでの遠出ができません。さて、今日は少し時間が取れそう。
 そこで、前回、携帯で撮った写真をPCにコピーする時、保存したつもりが・・・、すべてパーになったところ(藤沢~茅ヶ崎)、言葉だけの探索報告になってしまった! 悔いの残った訪問。 
 ここなら4,5時間(現地は2時間くらい? )で往復できる。そこで、再度行ってみました。他は写真付きで何とか掛川までたどり着いた。この個所だけ写真がないのは、何だかつまらないので。

 3月11日(水)。晴れ。前回は、昨年9月22日。今回、約半年ぶりの再訪です。

 JR藤沢駅から前回と同じく「引地橋」までバス。そこから茅ヶ崎駅まで歩きました。

 「引地橋」の手前。旧東海道は、カギ型に曲がっています。まずそこからスタート。

    
  右の細い道に入り、                     突き当たりを左に。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が現在の道(↑)
 
 道路の形状(カギ型)からすると、この辺りに「西方(京方)見附」があったのかもしれません。

 県道44号線(43号線)から国道1号線を歩きます。

 しばらくはゆるい上り坂。右手に「メルシャン」の工場が見えてくると、左手に「おしゃれ地蔵」。

    

おしゃれ地蔵

 「女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰ともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
 形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい

 平成7年2月 藤沢市教育委員会

 唇の赤さが妙になまめかしい。

「メルシャン藤沢工場」。

    
                    旧街道筋らしい町家が残っています。

    
                     道路沿いには松並木も見えてきます。


 「国道1号線」藤沢バイパスと合流する辺り、正面の道路脇に「大山道標」がありました。丹沢山塊にある大山信仰の参道(登山道)。 

    

四谷不動(大山道標)

 東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも7月1日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。

 平成5年2月 藤沢市教育委員会

「(日本橋から)54㎞」ポスト。まだまだだったんですね(ちなみに、2月24日現在では日本橋から約230㎞のところまで行きました)。

 この辺からは、国道1号(現東海道)と重なり、交通量も多い街中に入っていきますが、「新湘南バイパス」のせいか、車の往来も心なしか少なめ。交差点・繁華街を抜ける頃には、道幅は狭く(片側一車線)。曲がりくねっていて、旧道らしい雰囲気。この先「平塚」宿までこんな感じ?
  
 しばらく進むと、右手に「四ッ谷一里塚跡」碑。日本橋から13番目の一里塚。

 この付近から東海道の松並木がちらほら続いてきます。

 けっこう大きな松が残っています。ただし、根っこは、コンクリートで固められていて、何だか息苦しい感じ。それでも、見上げれば青空に映えて見事な枝振りでした。

「庚申供養塔」。

 そこから来た道を振り返る。

 茅ヶ崎市に入りました。松並木が続きます。

                                

    
          沿道には古木もありますが、若い松もあって代替わりをしつつあるようです。

                       

 しばらく進むと、少し商店が建ち並ぶ地域に入ります。これが「国道1号線」という印象を持つほど、片道一車線で、埃っぽい道が続きます。

「小和田」バス停。

 「小和田」を過ぎたあたり、右手に「牡丹餅茶屋」跡」碑。

    

牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡

 徳川家康は、慶長6年(1601年)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。
 藤沢宿と平塚宿の間には四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。
 立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれていました。
 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。

 平成19年1月吉日 茅ヶ崎市教育委員会 菱沼茶屋町稲荷講中 国土交通省
 茅ヶ崎郷土会長 三橋伊勢松書                        

(参考「今昔マップ」より。)

明治末。↓(A)に「牡丹餅」とある。↓(B)が「茅ヶ崎一里塚」(もう少し平塚寄りかもしれない)。

 この先から、街中をはずれて、左手の視界が開けてきました。
                        
  
 すると、右手に前回も立ち寄った「増田屋」さん。都内にもあるお蕎麦屋さんののれん? さっそく入ってみました。静かにジャズ(サザンの曲をジャズ風にアレンジした、なかなかのセンス。)が流れるお店。内装も少ししゃれた趣。ちょうど昼時、一休み。

    
          「春野菜の天せいろ」。タラの芽。ふきのとう。タケノコ。茶の花。お蕎麦もおいしいし、なかなかけっこうでした。

 店主。故郷新潟を後にして東京・青山の増田屋さんで修行、昭和43年中野で念願の独立創業。苦節12年昭和55年、現在の地を取得、茅ヶ崎に居を構えることになった、とか。青山の「増田屋」には何度か行ったことがあります。やはりその系列だったのですね。
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伊皿子坂。魚藍坂。幽霊坂。聖坂。潮見坂。蛇坂。安全寺坂。(高輪~三田の坂。その2。)

2015-03-08 20:44:40 | 都内の坂めぐり

 附属高校や大学など東海大学関連施設の東側には、「泉岳寺」がありますが、今回は省略。
 旧高松宮邸(高輪皇族邸)の手前、左手の都営高輪一丁目アパートの入口付近にかなり摩滅した「大石良雄等自刃ノ跡」の碑。自刃の地(「熊本藩・細川家下屋敷」)は、この一番奥にあるらしい。特に説明文もなく建てられています。



 元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹しました。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税ら十士切腹の地があります。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれています。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺に葬られています。

 突き当たりの十字路、右手が「伊皿子坂」。左手が「魚籃坂」。

     

 (いさらござか)

 明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ(意味不明)の変化ともいう。

「魚籃坂」。

 (ぎょらんざか)
 
 坂の中腹に魚籃観音を安置した寺(注:魚籃寺)があるため名づけられた。
 注:「魚籃」は、びく(魚を入れる籠)のこと。

 こちらの坂が「旧伊皿子坂」。

 「魚籃坂」を少し進み、右手にある「ピーコックストア」の先を右に曲がり、広い道(「聖坂」)に出て、しばらく進むと、左手の下り坂が「幽霊坂」。

     

 (ゆうれいざか)

 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが、有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く7か所ほどもある。

 お寺の塀越しに「東京タワー」。

 しばらく行くと、右手に「亀塚公園」。
                           公園の土塀づくりもこの地域の雰囲気にマッチしています。
 
「三田の坂めぐり案内図」。

     
               「聖坂」。「区立三田中学校」の前。

 (ひじりざか)

 古代中世の通行路で商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所であったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。

 「普連土学園」の脇を左に折れると、「潮見坂」。

            

 (しおみざか)

 坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたためこの名がつけられた。

今は海は見えないが、かつては。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。○付近にあった坂が「潮見坂」。Y字型のところが「札の辻」。「潮見坂」は、「高輪台」の北東のはずれに当たり、きっと品川湾(東京湾)も手近に見えたに違いない。

 普連土学園の脇をカギ型に曲がると、「蛇坂」。西に向かう下り坂です。

     
                        振り返って望む。

 (へびざか)

 付近の藪から蛇が出ることがあったためと想像されている。

 来た道を戻って、北に向かい、細い道を進みます。左手の崖下は、寺町。

    
                                    斜面には菜の花が。
 
 右に折れて、すぐ左に折れると、「安全寺坂」の標識。

一気に下って行きます。 

 (あんぜんじざか)

 坂の西に江戸時代はじめ安全寺があった。誤って安珍坂、安楽寺坂、安泉寺坂などとも書かれたことがあった。

    
                                     坂を下りきると、正面は慶應大学。

振り返って望む。

 以上、「品川」から「三田」までの坂巡りでした。

 坂を上がると、視界が広がる、景色が変わる。坂を上ったり、下ったりしながら町の風景の変化を感じるのが、坂巡りの面白いところです。
 喧噪の道筋から一歩離れて、坂道をたどることでの発見もあります。

今も息づく路地裏の暮らし。

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柘榴坂。洞坂。桂坂。署防消輪高。・・・(高輪~三田の坂。その1。)

2015-03-07 18:44:11 | 都内の坂めぐり

 久々に午後から、東京の坂めぐり。前回も参考にさせてもらった「『江戸と東京の坂』(山野 勝)日本文芸社」掲載の案内図を頼りに。
 「京急・品川」駅から「都営・三田」駅まで。距離的には、5㎞足らずでしたが、上ったり、下ったりで、ほどほどの歩きでした。「高輪」「三田」付近は想像以上に坂道続き、アップダウンの多い街でした。
 車の激しい通り、高校や小中学校の集まる文教地区、静かで落ち着いた住宅街、小さな商店が並ぶ通りと変化にも富んだところでもありました。

左下・品川駅方向を望む。

 考えてみたら、乗り換え駅としてはけっこう利用しますが、品川駅で下車して、となると今までほとんど縁がありませんでした。そんなわけで、いきなり最初の「柘榴坂」に行くのに迷って(駅西口ロータリーの前の広い通りを素直に上っていけばよかったのですが)、「ウィング高輪WEST」のところを左に曲がってしまい、さて、上に向かう道がない。
 やっと見つけて、少し上って行くと、右手には急な石段。それもけっこうな高さ。そこを上って振り返ると、左手下にJRの線路が。「品川プリンスホテル」のすぐ南側に沿った道に出ました。



 ラジオでしょっちゅう宣伝を流している「再春館製薬所(東京営業所)」はここか! とその前を通って、本来の「柘榴坂」へ。

    
                            「柘榴坂」。
 (ざくろざか)

 坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギ形に曲り、明治に直進して新坂と呼んだ。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓の部分がカギ形になっている。この後、改修したと思われる。「東海道」(現在の「第一京浜」)のすぐ東には東京湾が広がっていた。海岸線を通る直線は、新橋からの鉄道線路。


 坂上の左手にある「カトリック高輪教会」にある殉教碑。

 1623年12月4日、徳川3代将軍家光は、外国人宣教師を含むキリシタンを、迫害政策により江戸市中を引き回したうえ、東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)の小高い丘で火刑に処しました。その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々も巻き込み、100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しました。世にいう「江戸の大殉教」です。
 その中の一人ヨハネ主水(もんど)は、2008年、信仰の証し人として福者に列せられました。・・・

 その先を左に曲がります。この付近は、「高輪台」という高台にあたります。

「味の素グループ高輪研修センター」の表門?

 その建物の角を右に曲がります。塀もなかなか趣ある雰囲気。

 ここには、があるようです。

 右に左に折れながら下って行くと、「高輪公園」。

    

 公園附近沿革案内

 この公園の付近は三方を丘で囲まれた静かなくぼ地で、江戸入口の大木戸から南方に
当たり国道東側まで海があって、景色のよい所だった。
 今から約300年前寛永13年(1636年)に近くの東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心として多くの寺が建ち、その周辺には有名な大名井伊、本多家などの下屋敷があった。
 幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。附近の一部は江戸時代を通じ荏原郡高輪村であったが、明治5年東禅寺、宝蔵寺、法蓮寺、浄業寺等の寺地と、本多家下屋敷の一部を合併し下高輪町となった。
 高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものといわれる。・・・

      
           「東禅寺」。

 国指定史跡 東禅寺

 東禅寺は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。・・・
 幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)5月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年5月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
 現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿舎となっていた「「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。

 平成24年3月  東京都教育委員会 

 門前を右に曲がり、細い路地を行く。緑に囲まれた落ち着いた住宅地。 

    

    
                            「洞坂」。

(ほらざか)

 法螺坂、鯔坂とも書く。この辺の字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ホラ貝が出たともまたくぼ地だから、洞という等様々な説がある。

 上がりつめた広い道が「桂坂」。

     

(かつらざか)

 むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。

 この坂を上ると、正面右奥に「二本榎」。
               

 二本榎の由来

 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高輪手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうことなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でもt地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪4丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく植樹・移植が行われ、町の人々の大切な象徴となっています。

 平成17年(2005年)12月

 通りを挟んだ向かい側にあるのが、「高輪消防署」。

 庁舎は昭和8年(1933年)に完成し、現在、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。現役の消防署として活躍中。
 正面の円筒形の3階部分の上に、灯台のような火の見櫓が立っています。正面入口には「署防消輪高」と右側から書かれていました。

 どこかで見たことがあるような建築物。「(関東大)震災復興小学校・公園探索」で訪ねた、旧「台東区立小島小学校」や旧「中央区立京華小学校」などの構造とよく似ています。昭和の初期、ほぼ同じ頃に建てられた建て物であることが分かります。

注: 旧「小島小学校」校舎。
半円柱状(丸い搭状)の外観。屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のよう。

旧「京華小学校」校舎。
曲線に特徴が。 

 その角を右に折れて、東海大学関連施設を右に見ながら行きます。そこにも古めかしい建物が。
「とらや」。
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