おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-07-31 19:47:04 | 日光例幣使街道
                               右折すると幅広く整備された道路へ。
右手角のお店。「お休み所 山本屋藤吉」といわれた処、とか。

「白旗橋」の手前を左折するのが旧道。「俳優座劇場佐野倉庫」があります。

 「旗川」にぶつかります。旧道はこの先で川を越えていました。


                        

路傍の石標? 

 「白旗橋」を渡ると佐野市になります。
 

 橋を越えたらすぐ左折。「洋服直し 田島」さんのところを右折します。しばらく当時の「例幣使街道」を進みます。
                   正面奥が「両毛線」の踏切。

対岸を望む。

(10:24)旧道らしい道筋。

おうちの車庫のところに「日光例幣使街道」の標識。「ここから日光まで十八里半」とあります。

 (10:32)「両毛線」の踏切を渡り、すぐ斜め右の道を進みます。
 

                  

旧道に入ると、車も通らず静かな通りに。

(10:37)その左手に芦畦の獅子舞」の収蔵庫。
 約700年前に始まったといわれる獅子舞で、昔、芦畦と呼ばれた並木町花岡に伝わるものである。
 毎年、旧6月1日と15日に近い日曜日に行われる厄除け行事で、三頭の獅子が、太刀持ち・ささら等のお供を従え、笛、太鼓の音に合わせて町内を舞めぐるものである。
 なお、獅子頭は安楽寺の仁王像の余材をもって作ったという伝承がある。

その先、右手には旧家。

                        

奥に長く連なっています。

その先にも倉庫風の古い建物。
 

その先には新しい「日光例幣使街道」という標識。

                           

 (10:49)再び「両毛線」の踏切を渡ります。「第一足利街道踏切」とあります。
 

来た道を振り返る。

踏切を越えた右手に「栗田煙草苗育布製造(株)大橋工場」。

「栗田煙草苗育布製造」?
 本社は、佐野市堀込町にあり、この会社工場では、建築用及工業用寒冷紗、粘着加工製品の製造、農業用ビニロン寒冷紗の製造販売、ホームセンター向け園芸用寒冷紗の製造、寝装素材製造卸 他を扱っている工場のようです。
 それにしても「煙草苗育布」とは?
(以下「栗田煙草苗育布製造株式会社」のHPより)

 当社のタバコ苗育布とは、明治28年当時、秦野(神奈川県中西部)で使われていた寒冷紗と養蚕網をヒントに改良を重ねた、タバコ栽培における霜害防止と発育促進に効果を発揮する織物です。
 その当時から、研究開発を重ね独自商品を製造するという姿勢が当社にあることがわかります。現在では、それら苗育布の開発製造技術をベースに発展させ、農業分野以外にも様々な場所で使われる製品として成長しております。
 寒冷紗とは、目の粗い織物のことで、畑の作物に対して遮光・防寒・防虫用などに使われています。黒と白のほか銀色などもあり、用途に応じて使い分けます。主に強光線を遮るために使われますが、防風、防寒にも利用可能です。目の粗さで遮光率が変わります。
・・・
様々な分野で活躍する寒冷紗
 農業や産業だけにとどまらず、寒冷紗が活躍できる分野は多岐にわたります。代表的な商品群としては以下のようなものがあります。
・農業用寒冷紗
・建築資材用寒冷紗
・製本用寒冷紗
・キッチンフキン用寒冷紗
・食肉梱包用寒冷紗
・寝装用織物
・グリーンカバー用寒冷紗

 言われてみると、よく農地などや野菜を包むためのものとしてでよく見かける布です。
(「HORTI byGreenSnap」HPより)

 煙草栽培用に開発された商品として、今や、様々な分野で用いられているようです。それでもなお、社名に「煙草苗育布」と掲げているところに創業以来、開発、改良してきた歴史への熱い思いが込められています。

 「栗田煙草苗育布製造(たばこ びょういくふ せいぞう)株式会社」さんでした。

ところで「煙草(タバコ)」は、ナス科の植物だそうです。 

                                                         (HPより)

(10:52)「例幣使街道」という標識が頭上に。

清流にはカルガモの親子。


次第に住宅が連なるようになって市街地に入り、「大橋歩道橋」を越えて行きます。

(11:03)「歩道橋」から。 
            来た道。                             その先の旧道。

民家のところに「日光例幣使街道」という標識。

「秋山川」に突き当たります。

                     

 かつては橋がありましたが、今はないので迂回し、「中橋」を渡れば、「天明宿」入り。
 
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東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その2。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-07-30 21:07:18 | 日光例幣使街道
                                     (8:58)「川崎天満宮」。
                                もとはもう少し南西にありましたが、渡良瀬川の改修で移設されたようです。

「川崎橋」から土手伝いに進み、土手を下って行きます。「梁田宿」側を望む。

 ここで例幣使一行は休息して歌を奉納し、いくつかその短冊が社宝として残っているそうです。解説板。
 

 判読不能の箇所もありますが、
・萬代の初めを今日を祈り置きていま行末は神所知るらん(・・中将忠能)
・行きかへり旅のねがへも天満る 神のめぐみをやなたにそ知る(綾小路宰相有長)
 (注:この方は「玉村宿」でも歌を残しています。)

 土手下の道を進みます。
 

 (9:10)左折した正面の角、さらに右手には古仏が何体か。旧街道筋にあったものをまとめたのでしょうか? 旧道は失われているようです。


                 

工業団地内の道を進みます。

路傍の「庚申塔」?

 「県道128号線」に出ます。旧道はこの付近でも曲がりくねった道だったようで、現在は工場や田んぼの中に失われています。

 注:これまでしばしば現・旧比較で引用させていただいている「歴史的農業環境閲覧システム」さんの資料は、ちょうどこの付近(佐野市、栃木市の一部)がUPされていません。「今昔マップ」さんで比較検討した結果が上記の通りですが、資料の掲載は不可。

(9:18)途中見かけた石造物? 
    
 車はけっこう行き来しますが、人は誰も通らず。日陰もなし。炎天下であったら参ってしまいそう。左右にはほどよく伸びた稲田が広がります。


                  
    
左手奥には小高い山並み。のどかな田園風景。

写真では分かりにくいですが、田んぼには白鷺の群れ。

「みかもの月」の大きな看板。「みかも山」は後で見えてきます。

(9:40)県道をひたすら進むと「出流川」に。


                    

 その先の交差点を「田沼」方面に左折します。「厄除け元三大師」の大きな看板が目印。


              右奥に見えるのが「岡崎山古墳群」。

この道の西側を「例幣使街道」の旧道は通っていました。
                                      山頂付近に「大小」の文字(↓)。

「岡崎山古墳群」。

「御野立所趾」という案内板。
 昭和9年(1934)、陸軍大演習が行われた際に昭和天皇が閲覧した場所のようです。

「野立」:大演習などで野外に設けた天皇の休息所。

岡崎山の裾を進む。「日光例幣使道」の標識。

 (9:59)その先、右に入っていきます。左手の高台には「一本松地蔵」。


               どういうわけか、そこには屋台風のお店。

「岡崎山古墳」の標識。

 
ご案内
1、岡崎山(標高52.7㍍)は、古くから人々と深くかかわり、生活の中心であった時代がありました。
 そして昭和の一時期まで森や林は子どもたちの格好の遊び場として守り育てられてきました。
2、山頂からの眺めは里山ならではの格別なものを感じさせます。
 東に筑波山、南に遠く富士山や秩父の山々、西に浅間山、北には男体山の雄姿を望むことができます。そして旗川の清流の先には限りなく広がる関東平野が一望でき、岡崎山は昔から景勝の地として多くの人々に親しまれ愛されてきました。
3、足利市では、平成2年この丘陵地に古墳が発見されたことから「岡崎山古墳群」として埋蔵文化財の指定をしております。
 散策すると古き時代のロマンさえ感じさせてくれます。
4、岡崎山を昔のような地域の里山林として取り戻すことができないか。地域住民の熱い思いから、平成21年に「とちぎ元気な森県民税」を利用した里山林整備事業がスタートしました。
 そして先人たちが育んできた岡崎山が、里山林として生まれ変わろうとしております。
5、私たちは、森や林・景観を守り、人と自然とのふれあいの場所として、この里山林を次の世代に引き継いでいきます。

 平成22年4月 岡崎山里山林整備事業管理団体 寺岡町自治会

「旗川」沿いに進む。この道は旧道のようです。

 しばらく道なりに進みますが、先ほどから左手奥に頂上付近に「大小」と記された山が見え、何だか気になります。ちょうど家から出てきた方に尋ねると「大小山という山ですよ。登ったことはありませんが」との返事でした。

大小山
 
 全長約5キロで、眼下に渡良瀬川の清流が流れ、遠くに関東平野を眺望出来る素晴らしいコースです。
 海抜300メートル級の低山コースですが、アップダウンが厳しく、決してあなどれないコースです。
 また、コースの急斜面部分にはロープが張ってあったり、洞窟があるなど、子どもにとっても冒険心をくすぐる楽しいコースとなっています。
 大小山(だいしょうやま)の山頂の崖には、シンボルと言える『大小』の文字板が掲げられています。この文字板は、大小山麓の阿夫利神社(あぶりじんじゃ)に祭られている『大天狗』『小天狗』にちなみ、江戸末期の安政2年(1855年)、無病息災を祈願する周辺住民の手により掲げられました。
 その後、幾度か架け替えられましたが、現在はステンレス製文字板を用いた、一文字7メートル四方、総重量1トン強のものに復元されています。

(この項、「」HPより)

(10:08)「県道67号線」に合流します。その左角に道標が二基あります。

  

解説板。
【左】 材質:安山岩、高さ90.0cm 幅36.0cm 奥行38.0cmの四角柱。元文5年(1740)建立。
 上面中央に浅いホゾ穴の跡が残っており、造立時には上段に別の造塔物があったと考えられます。
 正面に「佐野道」、右側面に「足利道」、左側面に「太田道」、裏面に「元文五年庚申十一月二十四日下野国足利郡寺岡村宿」と刻まれています。
 正面と両側面の字は行書で太く書かれています。
 この道標は市内に残るもので一番大きく立派なものです。
【右】 材質:安山岩、高さ42.0cm 幅30.5cm 奥行30.5cmの四角柱で下に逆台形。台座:逆台形で上面は方41.5cm、下面は方39cm、高さ8.0cm以上。寛政3年(1791)建立。
 正面に「道祖神・日光道・佐野道」、右側面に「善光寺道・太田道・足利道」、左側面に「江戸道・館林道」「寛政三辛亥年 月吉祥日」「願主 山本兵蔵」との文字が楷書で刻まれています。
 台座 それぞれ各面に「東」「西」「南」「北」の銘記が陰刻されています。

(以上、「同」HPより)

来た道を振り返る。
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東武「福居」駅~JR「岩舟」駅。その1。(「日光例幣使街道」。第4日目。)

2018-07-27 19:44:57 | 日光例幣使街道
                                   (7:54)福居町(八木宿)のようす。

 暑さもいったん和らいだ(ような)7月26日(木)。曇りのち晴れ。進めるところまでと、東武伊勢崎線「福居」駅まで早朝の電車に乗ってやってきます。夏休みに入って間もなく、制服姿や部活姿のの高校生がいっぱい乗車。

「県道128号線」。踏切を越えます。左手奥に「福居駅」。

日差しもなく、今回は歩くのに楽? 旧家。

 (8:08)やがて二股となり、その分岐点に庚申塔と二つに折れた道標。「東 梁田ヲヘテ佐野方面ニ至ル」とあります。
 

左の通りをそのまま進む。

「日光例幣使街道」という標識。通りには自動車販売店が目立つ。

(8:18)「上渋垂町(かみしぶたれちょう)」交差点。
                              「国道50号線足利バイパス」を越えます。



周囲に田んぼが広がります。

 直線道路が延びる、その左手に「金箱うなぎ」店の看板が見えてきます。その角を左折します(8:32)。向かいにあったコンビニは廃業になったようで、整地されています。
 

1880年代のようす。○が左折点。

2010年代のようす。

旧梁田宿の街並み。

梁田宿
 渡良瀬川の右岸に位置する梁田宿は戸数百余戸であったが、川留めに備えて本陣が2軒、旅籠も32軒という中規模の宿場であった。幕末、幕府軍と官軍(薩・長・大垣連合軍)が東日本で最初に衝突した梁田戦争があった場所で幕府軍が壊滅的な負け方をした地でもあった。

ほとんど街道時代の面影はなさそう。大谷石造りの蔵。

 中ほどに「梁田宿碑」(左)が建てられています。
  

 宿碑の奥は長福寺。本堂横の墓地に戦死者64名を弔った「梁田戦争戦死塚」、「東軍戦死者追弔碑」が建っていますが、境内が工事中のため、パス。そこで、

梁田戦争のあらまし 
 慶応4年(1868年)3月9日早朝、上渋垂方面から急進した西軍(薩摩藩四番隊、大垣藩、長州藩)約200余名は、辰の上刻(午前7時頃)、いっせいに銃砲攻撃を開始した。薩摩藩、大垣藩は例弊使街道を梁田宿へ、長州藩は南側から迂回し、本郷と中屋敷の中間から梁田宿中央裏手へ、薩摩藩一小隊は本道上から小生川へ渡良瀬川沿いに進撃した。
 いわば、梁田宿を三方から包囲する作戦であり、深い朝霧に隠れての奇襲攻撃であった。
 一方、総督・古屋佐久左衛門が率いる東軍(幕府軍)約900余名は3月8日午後、羽生陣屋を出発し梁田へ宿営した。翌9日の早朝に出発する予定で、まさに朝食の準備中であった。
 完全に不意を衝かれた東軍も勇猛果敢に防戦し、梁田宿一帯はしだいに市街戦の様相となり、やがて凄惨な白兵戦となった。次第に宿場の中に追い込まれた東軍は、次々と戦死者を出し、午前10時頃その戦いは終わった。
 東日本最初の戦いという梁田戦争(梁田の役)が、足利地方における明治維新の幕開けとなった。
同年4月に、江戸城は開城し、9月に年号は明治元年となった。
(この項、HPより)

 梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬川の河原に合葬し墓碑を建てましたが、その後渡良瀬川の整備工事のため、昭和6年(1931)に現在地に移されました。「幕府軍」を「東軍」と記したケースは珍しいようです。 

 (8:41)500mほどの短い旧宿場街は終わり、「渡良瀬川」の土手にぶつかります。ここから対岸へは渡し舟で渡っていました。


宿内を振り返る。

河川敷はゴルフ場になっています。



 (8:52)少し下流にある「川崎橋」を渡っていきます。
 
                                               「海まで161.3㎞」。

渡良瀬川


 栃木県日光市と群馬県沼田市との境にある皇海山(すかいさん)に源を発し、足尾山塊の水を集め草木ダムを経て南西に流れる。群馬県みどり市で南東へ向きを変え、桐生市から足利市・太田市・佐野市・館林市など、おおむね群馬・栃木の県境付近(両毛地域)を東南東へ流れる。
栃木県栃木市藤岡地域で明治・大正期に開削された洪積台地を東へ抜けた後、南に向きを変え、渡良瀬遊水地に入り巴波川(うずまがわ)、思川を併せる。茨城県と埼玉県の県境を南へ流れ、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川に合流する。
渡良瀬遊水地へ流入する渡良瀬川は、群馬・栃木の県境にある皇海山(2,143m)に源を発し、いくつもの渓流を合わせながら、大間々地先で山峡の地を離れ、以後桐生市、足利市の中心から南東に流下し栃木市を通り、茨城県古河市地先で利根川本流へと注いでいる。流域面積2,602km²、流路延長107.6kmの利根川水系最大の支川である。
(以上、「Wikipedia」参照)

渡良瀬遊水地
 栃木県の南端に位置し、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県にまたがる面積33km²、総貯水容量2億m³の我が国最大の遊水地である。
 1000年前の渡良瀬川は、桐生川、秋山川などの支川を合わせ藤岡地先で台地に沿って板倉町との境を流れ、海老瀬の七曲がりを過ぎ、谷田川、思川を合流し茨城県五霞町の中央を流れて、かつての庄内古川筋(現中川)を通り、金杉、松戸、市川を過ぎ、現在の江戸川の河道を流れて江戸湾に注いでいた。
 徳川家康が江戸に入り、政治経済の中心となり、関東平野の開発が始まり、利根川も江戸湾に流れていたものを銚子の太平洋に流れるように付け替えた。これを利根川の東遷と言うが、これにより渡良瀬川は元和7年(1621)利根川を渡良瀬川に流す新河道が開削され、これにより渡良瀬川は利根川最大の支川となった。さらに栗橋から常陸川の間の台地も新たに開削し、現在の利根川がつくられたのである。
「利根川東遷図」(出典:利根川上流河川事務所)
 利根川の支川となった渡良瀬川下流部一帯は、赤麻沼・石川沼、さらに板倉沼などがあり、地形的には周辺より一段と低く洪水が自然に遊水する大湿地帯であった。その中央部の原野を開墾したのが谷中村で、周囲を堤防(囲堤)で囲まれた村であった。谷中村は明治22年(1889)に成立したが、5年後の明治27年の統計書によれば戸数・人口は386戸、2302人であった。
 明治23年、29年の洪水を契機に、渡良瀬川下流部の洪水被害とともに、足尾銅山から渡良瀬川に流れ出した鉱毒による被害は明確になった。これに対し、渡良瀬川の改修や最下流部に遊水地計画が打ち出され、当時、渡良瀬川は栃木県管理であり、明治37年県議会可決後、明治38年から明治40年までの間に930町歩余りが買収された。その間、明治39年(1906)には谷中村は藤岡町に合併廃村となった。明治43年には、内務省による改修事業が始まり、昭和5年には渡良瀬遊水地が完成した。
 その後、昭和10年、13年、22年と相次ぐ大洪水を契機に渡良瀬遊水地を、より効果的に活用するために、渡良瀬川、思川、巴波川に沿って、新しく囲繞堤や越流堤を設け、調節池化を図り、大きな洪水の時だけ調節池の中に川の水が入るようにし、従来より洪水調節機能を増大させる事業(調節池化事業)を実施した。
 谷中村は、渡良瀬川、思川、巴波川に挟まれた沼地や湿地が広がる地域に位置し、3つの村が合併して、明治22年(1889)に誕生した村で、周辺に比べて地盤高は低いため水害を受けやすく、村の周囲には囲堤が築かれていた。谷中村や周辺の村では、各家で洪水に備えて『水塚』や『揚舟』などがあった。村では、水田、畑作を行うほか、周りには多くの池沼や水路があり、魚捕りや湿地の植物ヨシ、スゲを使ったヨシズ、スゲ笠作り、養蚕業なども行われていた。
 明治20年代になって、渡良瀬川最上流部に位置する、足尾銅山より流出する鉱毒が渡良瀬川沿岸に広がり、大きな問題となった、その中に谷中村もあった。この足尾鉱毒被害の防止対策の一つとして、氾濫被害の軽減のため渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が打ち出された。その計画が、谷中村を中心とした地域で明治38年(1905)から栃木県が買収を始め、村人達は反対したが、明治39年(1906)に谷中村は藤岡町(現・栃木市)に合併され廃村となった。
 田中正造は、天保12年(1841)11月佐野市小中町で生まれ、栃木新聞(現・下野新聞)編集長を経て、県会議員となった。明治23年(1890)第1回総選挙で衆議院議員に選ばれ、渡良瀬川の魚や農作物に大きな被害を与えていた足尾銅山の鉱毒問題を国会で取り上げ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。その結果、足尾鉱毒事件は社会問題にまで広まった。明治34年(1901)には議員を辞職し、天皇に直訴した。その後、谷中村の遊水地化への抗議など足尾鉱毒問題などに取り組んだが、大正2年(1913)9月、72歳でその生涯を閉じた。

(この項、HPより) 

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読書「鉄道人とナチス ドイツ国鉄総裁ユリウス・ドルプミュラーの二十世紀」(鴋澤歩)国書刊行会

2018-07-23 20:25:19 | 読書無限
 アベ政権下で公文書偽造、忖度、詭弁、責任回避、・・・等々、官僚・テクノクラートたちの不祥事が相次いでいます。官僚としての自分たちの生殺与奪を強権的な政府によって握られてしまっている現在。その意に逆らうことはできない、のか。
 エリートが言いように振り回されているようすに溜飲を下げる世間の存在。とりわけ右翼的言辞をこれでもか、これでもかと「フェイクニュース」まがいに発信している自公の政治家たち。それに「面従腹背」もできず、官僚=国家・国民に奉仕する矜持も失っているかのよう。
 ただひたすらアベとそれをとりまく政治家に翻弄されている、むしろ積極的に荷担しているとしか思えない惨状。

 わずか13年で滅びたナチスドイツの中で、官僚たちはどう振る舞ったのか。けっして他人事ではなさそう。当事者だけでなく、また国民も。

 ユリウス・ドルプミュラー。ドイツ国鉄(ドイツ・ライヒスバーン社)総裁にしてナチス政権下の交通大臣として輸送部門のトップに君臨した人物。

 筆者の姿勢は、「本稿が・・・あくまでも鉄道史をめぐる研究だとするならば、・・・ホロコーストに手を染めることで崩壊した組織とその代表者からえられる教訓」を「すぐれた才質と人間性の持ち主でありながら、悲惨な失敗をみずからにもたらした多数の二十世紀前半のドイツ人のひとり」としてその生涯を描くことで、「私たちもこれから直面するであろう」(P302)問題を明らかにすることにある。

 いうまでもなく、ユダヤ人等は、「アウシュヴィッツ」など絶滅収容所に鉄道によって送り込まれていた。(本書にも残された運行ダイヤなどが掲載されている。)
 絶滅収容所への移送遂行という鉄道が果たした荷担の実態、その運営主体であるドイツ国鉄のトップであった人物の評伝、というスタイルを取りながら、厳しくその「罪」と「責任」を追求していく。

 「一般に、政権奪取後のナチスが国家統治機構に強力に押し入ることによって、伝統的なエリート支配の官僚機構は弱体化し、党や政府の複数の権力者が競合する多頭制的な統治が行政を左右するようになったとされる。そうした「指導のカオス」「組織のジャングル」とも後年よばれる状況では本来は行政組織や統治機構には距離のあった異物的な人間、新政権にキャリアアップの機会をみた『政治的投機者』が組織の中に入りこみ、しばしば従来の組織構成員と角逐をくりひろげた。」(P303)

 そうした中にあって、
 「・・・ドルプミュラーには自己の責任をはたすべきという意識は、過多なほどあったと想像できる。だからこそ、ナチ政権の攻撃にさらされても、大臣としての権能を制限されても、あるいは病身となってさえも、ライヒバーン総裁の座を去ろうとはしなかったのであろう。個人としての潔さを発揮して職を去ることは、祖国にために自分に課せられた義務を放棄することだと、ドルプミュラーは心から思っていたはずである。自分ほどうまくドイツの鉄道を動かせる者はいない、と信じていたからである。だが、それは思い上がりというべきものだったかもしれない。・・・
 いいかえれば、もしもドルプミュラーに悲劇があるとすれば、死にいたるまで鉄道の荷担する虐殺の惨劇を見て見ぬふりをするという心理の陥穽におちたまま、自分の追うべき真の責任とは何かという問いに真剣に思いをめぐらすことができなかっただろう点にある。」(P301)

 「科学精神に富んだテクノクラートであったドルプミュラーには、人格の内部にもちあわせているものが、意外に乏しかったようである。たしかに持っていた誇るべき数々の才質も、非科学的な精神や暴力の前で、かれを毅然と立たせることができないものだったからである。
 ひょっとしてこれは、程度の差はあれ、私たちの姿ではないか。・・・経済社会、技術社会、グローバリゼーションの申し子だったドルプミュラーは、私たちにとって遠い人物ではない。そしてかれが人生の後半で突きつけられた問題が、私たちのそれではない、決してそうはならない―と誰がいえようか。(P311)

 「強い悪意を特定の人的集団にむけ、自分たちの問題の原因をすべてそこに見出そうとする極端な考えの持ち主は、幸いにも、たいていはごく少数に過ぎない。だが、そうした人間たちが、社会においてみずからの非人道的な考えを私たちに強制できる立場に立つことはありうる。好んでかどうか、かれらの扇動にのる人びとの数は決して少なくないことを私たちは知っている。『ポピュリズム』という言葉は、そうした場合に使うべきなのだろう。
 そんなとき、被害者の集団に属さないかもしれない私たちも、決して最後には安寧を維持することはできない。最初の軽挙妄動から身を持し、積極的な加害者と距離を置いて傍観者の立場をまもることすら、容易ではない。『ただ技術のために』『ただ鉄道のために』生きてきた人物が無力であらざるを得なかった、それどころか加害者の列にはいってしまった例を、本書は追ってきたといえるだろう。
 自分たちにあたえられた限られた領分を懸命に守って、『ただ○○のために』生きざるをえない私たちに、貴重な省察の材料がここにあたえられている」(P310)

 「ホロコーストは、加害者、被害者、そしてその間に立つ傍観者で成りたっていた。傍観者のなかには、加害者に取り込まれ、単なる傍観者でありつづけることすらできなかった者も多い。そうなりうる私たちが、これを銘記するために、ドルブミュラーの名は残されねばならない。」(P313)
 
 読み応えのある力作・内容でした。

 次の本も、最近読んだものです。

ヒトラーの娘たち ホロコーストに荷担したドイツ女性
                                                   (明石書店)

ウェンディ・ロワー 著
武井 彩佳 監訳
石川 ミカ 訳

 ナチス・ドイツ占領下の東欧に赴いた一般女性たちは、ホロコーストに直面したとき何を目撃し、何を為したのか。冷戦後に明らかになった膨大な資料や丹念な聞き取り調査から、個々の一般ドイツ女性をヒトラーが台頭していったドイツ社会史のなかで捉え直し、歴史の闇に新たな光を当てる。2013年全米図書賞ノンフィクション部門最終候補選出作。

想像せよ、自分が立っている場所はすでに『灰色』ではないか。自戒せよ、大きな流れの中で自分を押しとどめるだけの確たる信念はあるか。」(「監訳者解題」より)

 


 
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東武「太田」駅~「福居」駅。その3。(「日光例幣使街道」。第3日目)

2018-07-20 21:47:38 | 日光例幣使街道
      (18:03)左手にある「宝性寺(堀込薬師)の門前には、「八木節元祖 堀込源太翁の碑」。                 
  

八木節について
 

「八木節」の概要について、百科事典では以下のように説明されています。
「世界大百科事典・平凡社」
 民謡。栃木県足利郡御厨町字八木(現、足利市)から出た名称。江戸時代に例幣使街道にあたってた旧八木宿でおこなわれた盆踊りで、もと越後の「新保広大寺くずし」の口説節が土着したもので、八木宿に近い山辺村堀込(現、足利市)に、通称堀込源太(本名 渡辺源太郎)という馬方の美声がこれをひろめたといわれる。
 大正の中期以降レコードによって全国的なものとなった。はじめ樽(たる)を縦にしてその鏡や胴をたたいて篠(しの)笛などを伴奏としたが、後には大鼓(おおかわ)や鉦(かね)などを加え、にぎやかな陽気なものとなった。なお、群馬県佐波郡玉村町には、古来「横樽音頭」と「縦樽音頭」が盆踊歌としておこなわれ、ことに縦樽音頭は源太の八木節の影響をうけて、八木節というようになった。なお、現在おこなわれる花笠踊りは明治初年に振り付けられたもの。
 歌詞は国定忠治や五郎正宗、鈴木主人(もんど)などが有名。その歌い出しは「アアー、さても一座の皆様方よ、わしのようなる三角野郎が、四角四面の櫓(やぐら)の上で、音頭とるとははばかりながら、しばし御免を蒙りまして、何か一言読み上げまする、文句違いや仮名間違いは、平にその儀はお許しなされ、許しなされば文句にかかるオーイサネ」 というのではじまる。

 このように八木節ルーツになったのは「新保広大寺くずし」であると考えられております。
 新保広大寺は、正式名を鶴嶺山新保広大寺といい新潟県十日町市に実在する曹洞宗の寺院です。「新保広大寺節」の発生は明らかではありませんが、寺領をめぐる紛争等が背景になって、寺の和尚と広大寺門前通りにあった豆腐屋の未亡人を題材にした戯れ唄としてつくられたようであります。
 「新保広大寺節」は瞽女唄として各地に伝わり、江戸時代の五大流行唄の筆頭と言われるほどになり、各地の民謡の発生にも関わるようになりました。
 「新保広大寺節」は各地に伝わると、元唄がアレンジされたり、その地の歌に唄いやすいところが取り入れられたりと、様々に変化し、「新保広大寺くずし」となります。
 江戸時代末、この「新保広大寺くずし」を日光例幣使街道の宿場として栄えた上州新田郡木崎宿へ越後より売られてきた遊女「おさよまたはおゆき」という女達が、望郷にかられ唄い、それが木崎節となり八木節へと変化していったと言われています。また一方、木崎より二つ先の宿場である八木宿でも遊女を中心に唄われていたと言われています。明治末期木崎と足利市を行き来する馬方らによって栃木県足利市に伝えられ、大正の始め、やはり馬方の堀込生まれの堀込源太(本名渡辺源太郎)が節回しなどを工夫し八木節を完成させたと言われています。
(以上HPより)

 「八木節」を全国的に広めた人物が八木宿近くに住む「堀込源太(本名 渡辺源太郎)」であることは間違いないようですが、発祥の地となると、群馬・木崎宿と栃木・八木宿との間で、本家争いがあるようです。
 いずれにしても上州、野州の国境付近、「日光例幣使街道」の宿場でのはやり歌で、それも宿場の、越後から売られてきた女「飯盛り女」たちの間で望郷の想いを込めて歌われていたものが「堀込源太」によって全国的に広まった、ということのようです。

堀込源太(1872~1943)
 源太は本名を渡辺源太郎といい、1872年(明治5年)1月29日、梁田郡堀米村(現在の堀込町)82番地で、源五郎の長男として生まれました。生家は貧しい小作農家だったので、源太は学校に行かないで、少年のころは子守り(小さい子どものめんどうを見みること)などをしていましたが、やがて家の仕事を手伝って働きました。父親の源五郎も芸事(「おどり」や「うた」)には理解があったので、源太も早くから芸事への関心を持っていたようです。源太は盆踊唄(盆踊りの時に神楽、神をまつるための音楽やおどり)なども上手で、のちに地方の劇団にも参加することになります。
 源太は18才の時結婚し、20才の頃、荷馬車引きになり、葛生の石灰を運びました。
 源太はこの道のとちゅう、荷物がからになると、かいばおけ(うまにえさをやるためのおけ)をたたいて、馬子唄や盆踊唄を唄いました。生まれつききれいな声の持ち主であったところから、彼が唄いながら通ると、道のそばの機織娘たちは一斉に手を休めて、聞きほれたということです。そして、いろいろな所の盆踊り大会などへ出場しては優勝をして、そのうち源太の名前は近くの村や町に広がっていったのです。記憶力(ものを覚える力)がすばらしく、同じ唄を2,3回聞けば必ず覚えてしまったといわれています。また、好きな唄を自分流に唄いやすいようにしていました。
 1907年(明治40年)8月15日の夜、源太が中心となり、上加子(いまの久保田町)で、盆踊り大会を開いたことがありました。このとき、テンポの早い源太の唄に人気が集まり、これがレコード吹き込み(レコードを作ること)のきっかけになったとのことです。
 源太の八木節がレコードとして売り出されたのは大正3年のことですが、当時の人々の気持ちに合うところがあったのでしょう。源太の八木節は多くの人のうわさになり、大変親しまれました。やがて、ラジオ放送の番組でも流れ、大正7年5月には浅草六区の萬盛館で、名人会のひとりとして出演することになりました。この時、源太は「足利音頭八木節」の題名を使っていました。そして神戸の吉原興業といっしょに各地をまわって唄うことになるのですが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で仕事がまったく出来なくなりました。彼が52才の時でした。
 東京から足利にもどった源太は堀米宝性寺まえに住まいを決めて、もう一度活躍する日を待ちましたが、彼の出番は失なわれたままでした。折りにふれて九州、北海道に招かれて出演することはあっても、もはや一番活躍したころの人気はなく、妻沼方面や、赤城山麓周辺(赤城山のふもと)の町村などで公演するだけでした。そして昭和18年12月18日、71才でその生涯を終えました。「芸は身を助ける(何かにすぐれた力を持っていると、生きていくための助けになる)」と言いますが、民謡歌手として全国にその名を知られるようになったのは、やはり源太がまれな才能に恵まれていたからでしょう。

(この項、「足利市立教育研究所」HPより。子ども向けの解説です。)

「例幣使街道」という標識。

「足利学校」等の史跡は北へ行った足利市街地へ。

(18:17)「ようこそ八木節のふるさとへ」。

「八木宿」。現在は「福居町」の一部となっています。

 (18:22)「八木宿」交差点の左角が「八木宿本陣跡」。「ライフスポット テラヤマ」(寺山商店)となっています。


                         

「例幣使そば荒川屋」天保7年(1837)創業、180年というお店。
                                         残念ながら開店時間を過ぎています。

(18:24)「八木節会館」。

 その前に「八木宿」という標識と判読不能な古びた解説板。
 

八木宿
 日光例幣使街道の8番目の宿場。宿場の周りに8本の松があったことより八木の地名が付いた。八木節ゆかりの地である。
 1845年時点では96戸542人で、例幣使街道の宿場町の中ではごく小規模なものであった。本陣・脇本陣は設置されていた。本陣は寺山家がつとめ、屋号は千代本を名乗った。しかし公家諸大名の宿泊は稀であったとされる。一般庶民階級は、公家諸大名が宿泊する宿場町を避ける傾向があったことから、一般旅行者を主たる対象とする宿場町であったとされる。
(「Wikipedia」より)

 宿内には当時の面影はほとんど見当たりません。左手に木々に囲まれた、曰くありげな建物。「島岡印刷所」。女郎屋跡と言われているらしいが。


                  

通りをはさんだ前の家の門。

広大な空き地と奥に古びた家。

左手に「母衣(ほろ)輪神社という変わった名前の神社。
 母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。

 「母衣輪神社」の創建は上古と推定され、倭建命が東国征討の砌りに、この地に駐屯され武具(母衣)を奉納し、天地地祗を祀り武運を祈願した神跡と言い伝えられる。八木宿の鎮守として特に例幣使参向に当たっては、その尊崇を集めた。

(18:29)右手に堂々とした商家。「こばた」とあり、たばこの販売所でもあったようです。


               

                      

 今回はここまで。ホームから赤レンガの建物が見えます。



                              

国登録有形文化財(建造物)トチセン(旧足利織物)
赤レンガ捺染工場

赤レンガサラン工場
 レンガ造の外壁と木造の内部軸組みからなる広大な工場棟です。
 建築面積は1,587平方メートルあり、6連ののこぎり屋根が連続してかけられ、大規模な工場内部の空間をつくりだしています。
 頂部まで立ちのぼる柱型と重厚な軒蛇腹とで縁取る妻壁の意匠や、出入口や窓などの大きな開口部を一石のまぐさ石で支える手法に特色があります。
 サラン工場同様、大正時代初期に設立された足利織物会社の輸出綿織物の生産を目的とした足利で最初の近代工業で、大規模な赤レンガ工場建築群としては、唯一現存している建物です。
※通常非公開となっております
HPより)


1880年代のようす。「母衣輪社」の名が。


2010年代のようす。上方に「国道50号線足利バイパス」。
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東武「太田」駅~「福居」駅。その2。(「日光例幣使街道」。第3日目)

2018-07-19 22:06:24 | 日光例幣使街道
                                 この道を進みます。

 住宅地を抜けて先ほど横断した「県道128号線」に合流し、左折します。その角にコンビニ。ここで水分補給を兼ねて涼みます。ほっと一息。

左右が開けてきます。一面、田んぼ。

                   

(17:22)前方に見えてきた「矢場」交差点を左折します。

「プリントフジ」という会社のところを右折し、細い道に入ります。



 住宅が点在する道を進むと、二股の道へ。右が左かちょっと迷ってしまいます。
 すると、自転車に乗って通りがかった地元の方が「そっちの道ですよ。例幣使街道を歩いているんですか? この辺は、前は田んぼだったんですよ。左の道の方が広いので、そっちの道を行ってしまう人がけっこういますよ。迷いそうな道でね。」と親切に立ち止まって教えてくれます。
 「その先の角に『日光例幣使街道』という石碑が立っていますから。」 

 右の道を進み、工場脇を抜けて行きます。
  
                                    来た道を振り返る(正面)。

工場脇の細道。日差しが少ししのぎやすくなってきます。

この付近は群馬と栃木の県境。

 子どもを連れたおばあさんが県道の方を指さして、「向こうにある青い看板から足利ですね。この辺は左が群馬で右が栃木。この先の郵便局からは栃木ですね。その北の方はまた群馬ですよ。」
左が群馬、右が栃木。

                   西南方向(群馬側)を望む。

(17:42)「矢場川郵便局」。この手前で栃木県足利市入り。  

 左手に「八坂神社」。そこにある道標には、「東 佐野 福居道 西 太田 伊勢崎道 北 足利道」と彫られているそうです。



1880年代のようす。→が「矢場川郵便局」。現在もほぼ同じ道が旧道として残っています。


2010年代のようす。→が「矢場川郵便局」(足利市)。下の直線道路が「県道128号線」。右上の川が「矢場川」。

さすが栃木! 大谷石で造られた倉庫。  
大谷石
 軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材。柔らかく加工がしやすいことから、古くから外壁や土蔵などの建材として使用されてきた。

 「県道128号線」の「新宿」交差点を左折します。
来た道を振り返る。

(17:51)しばらく進むと、左手に「勢至堂観音堂」。


道の反対側には見事な古木。


 「観音堂」のすぐ先が「矢場川」。戦国時代後期までは、矢場川の河道が渡良瀬川の本流で、かつてはこの川が上野国(現群馬県)と下野国(現栃木県)との国境でした。
  

その先に朽ちた標識とベンチがあります。
                        「日光例幣使街道」とやっと読めるくらい。
 まだ健在の頃は、国境として、「東 下野国 日光まで二十里六丁」「西 上野国 倉賀野まで十一里十八丁」と記されていたようです。

振り返って望む。

いよいよこの先で、「八木宿」へ。
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東武「太田」駅~「福居」駅。その1。(「日光例幣使街道」。第3日目)

2018-07-18 20:20:18 | 日光例幣使街道
                               (16:08)前回の地点。奥が東武伊勢崎線・太田駅。

 猛暑日が続く日本列島。関東・中部、西日本を中心に「熱中症」で死者も出る異常事態。被災地ではその暑さの中で悪戦苦闘中です。その中で、性懲りもなく・・・。

 7月16日(休)。快晴。猛暑。

 前回行き着けなかった「八木宿」まで、午後4時過ぎなら少しは過酷な地帯でも歩けるのでは、と。イレギュラーの計画。

 太田駅に降りたとたん、「暑い! 」。
 クーラーのほどよく効いた電車を乗り継いで来ましたが、途中駅でドアが開く度に、上州の熱風が車内に吹き込みます。

 外を歩いている人もほとんどいません。作業着姿の方は「SUBARU」工場の関係者。車はけっこう行き交います。車でないとこの時期の移動は生命の危険になりそう。
 ま、8㎞くらいの行程、歩いているうちに日差しも傾いて、日陰もあるだろうし、風も出て・・・、と。

 ところが思惑はずれ。「日光例幣使街道」は、ほとんど西から東に向かう道。そのため、背中に暑い陽を浴びての歩きとなります。
 西に傾き始めた日差しは心なしか弱くなったように感じても、今度は蒸し暑さが並みではありません。

 そのうち夕風が吹いてきて、遠くに雷鳴を聞きつつ、後半はやっとのんびりと歩きました。(16:00~18:35)

 それにしても上州の方々は皆、親切。声を掛けてきます。
 こうして、群馬(上野・上州)から栃木(下野・野州)へ足を踏み入れました。

左手に「SUBARU(旧富士重工)」の本社・工場。

「スバル最中」の看板。若い二人が入って行きます。名物なのでしょう。

左手に「追分の道しるべ」が見えてきます。

(16:16)  
   「右 たてはやし こか道 左 日光道 さの やき駅」 
解説板。
 この道しるべは日光例幣使道と古河道との分岐点、新島の追分(例幣使道側は工場敷地となっている)にある。享和3年(1803)に太田宿の永竹幸助義信により百番供養を兼ねて建立されたものである。百番供養は西国三十三番と板東三十三番に秩父三十四番の札所を加えた百番信仰によるものである。裏面には次の和歌がある。

 ひとすしに 出れハ安き法の旅 今なすわさそ 後の世の夢

 道しるべの左側には追分地蔵と呼ばれる地蔵菩薩があり、今でも子供を庇護する地蔵として厚い信仰の対象となっている。
・・・
 例幣使道中は中山道倉賀野宿(高崎市)から分かれ、玉村・五料・柴・木崎・太田・八木・梁田・天明・富田・栃木・合戦場を経て金崎宿(栃木県上都賀郡西方村)に至る13宿、23里11町(92㎞)ほどの道程である。金崎宿の次の楡木宿で壬生道に入り、今市宿で日光街道に合流した。・・・

隣には旧道と現在の地図とを比較した図。

1880年代のようす。○が「追分」

2010年代のようす。「例幣使道」は工場と線路で分断。

さすが「SUBARU」の城下町。 

社員駐車場だから当然?

 群馬製作所本社工場が所在するのは「スバル町1番地」。

 
 SUBARUのロゴは、「昴」。「六連星(むつらぼし)」とも。おうし座の「プレアデス星団」。

 日本では昔から中国での呼び名を用いて「昴(すばる)」と呼んでいます。普通、肉眼だと6個の星が見えるので、「六連星(むつらぼし)」ともいいます。
 注:「昴」=「統(すば)る」・「すまる(統まる)」という言葉は、「統一されている」「一つにまとまる」という意味。

 清少納言『枕草子』の一節(第236段)が有名。
 星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて

(「Wikipedia」より)

 ・「ひこぼし」は、七夕の彦星で「わし座」のアルタイル。
 アルタイルは、わし座で最も明るい恒星で1等星。七夕の彦星(ひこぼし。牽牛星とも)としてよく知られています。こと座のベガ(七夕のおりひめ星・織女星)、はくちょう座のデネブとともに、夏の大三角をつくっています。
 ・「ゆふづつ」は、漢字で書くと「夕星」で宵の明星、すなわち金星。
 ・「よばひぼし」は、流れ星のこと。「よばひ星」の「せめて尾がなかったらもっといいのに」とは言い得て妙です。
 「婚ひ星」「夜這ひ星」という漢字を当てはめてみると、男女の密かな逢瀬を意味するのでしょう。もしかしたら、これはたんなる流れ星ではなく「彗星」(ほうきぼし)なのかもしれません。

 蒸し暑い歩きの中で、つい、夏の夜空のお話を。

 我が家は一貫して「トヨタ」車ですので、まことに失礼ですが、どんな名前の車があるのか、残念ながらまったく存じあげません。
 谷村新司の「昴」の方になじみが。
 
 目を閉じて何も見えず 哀しくて目を開ければ
 荒野に向かう道より 他に見えるものはなし
 ああ 砕け散る 宿命の星たちよ せめて密やかに この身を照らせよ
 我は行く 蒼白き頬のままに
 我は行く さらば昴よ

 
(作詞・作曲 谷村新司)

 旧道が失われているので、「新島町」交差点を左折して進みます。小さな地蔵堂を左手に見て、さらに進むと、右に曲がって行きます。このあたりで旧道が復活?
        

小さな水路を越えると、

(16:33)左手に「日光例幣使街道馬洗い場跡」碑。

「馬頭観音」。


 「国道122号線」を横切り、さらにすぐ「県道128号線」を越えると、左手に「鳥居のない神社」へ。
 ところが、国道との交差点は変則五差路。まっすぐ正面の道を素直に進めばいいのですが、自動車販売店が両側にあって何だか店先みたいな感じ。右の方に道が広く、そちらに進む車が多い。ついそっちの道に行き、途中で気づき戻って、事なきを得ます。
(16:50)

                          
 「由来の碑
 例幣使一行が境内で休んで時、にわかに一匹の犬が激しく吠えはじめた。不審に思った供侍が追い払おうとして何度も制したけれども、激しく訴えるように吠えたてて逃げようともしなかった。怒った供侍はとうとう犬を切り捨ててしまった。すると意外なことに胴を離れた犬の首は空に飛び上がった。人々が見上げると、犬の首は鳥居の上の大蛇に噛みついた。犬はたまたま鳥居下に休んでいた例幣使に犬は大蛇のいる危険を知らせる為に盛んに吠えたのだった。例幣使は自分をを助けようと吠えたことが分かった。このため日光から帰ってくるまで犬の供養をして塚をこしらえていくようにいってこの神社を去った(帰ってくるまでに三ヶ月かかったという)。
 そこで犬を供養しその上に石尊様をまつった。この為、村では鳥居があったので蛇がそこへ上がったということで鳥居をはずしてしまい今もないのだという。
 また、はたし(機織機)にも鳥居がついているため正月には鳥居を出さないということで正月中は機を織ってはいけないといわれている。

 由来碑の前には「救命犬座像」。

神社脇の住宅街の道を進みます。

変則四差路の手前に旧家。

 (17:00)その先は左手の細い道に入ります。真ん中に新しい道標がたっていて、「日光例幣使道 台之郷の辻」と記されています。
 
                            小さな道標には「東 福居佐野道 北 丸山桐生道 南 龍舞小泉道 西 太田道」と。



1880年代のようす。●が辻。



2010年代のようす。旧道は道が付け替えられているようです。
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どう? お気に召したかしら? これ食べる? つまんでいいわよ。(「じじばばがゆく」。反省会編。)

2018-07-12 20:04:27 | じじばばがゆく

                               

 いつもいつもお世話をかけます。OTSUKAREさま。 
 さて、何か食べたいものある?
 お蕎麦はどう? 

 ちょっと歩くけれどって来てみたけど。お気に召すかしら。
 けっこうおいしいのよね、ここのお蕎麦。
 でも少し柔らかすぎるかしら? 人によっては。

 駅前を出て広い道を行くと、遠回りで時間もかかるのよね。意外と分かりにくいし。
 地元の人はさっきのお寺の小道を通るのね。線路向こうに行く道につながっているみたい。
 線路沿いで歩ける、知る人ぞ知る道って感じ。でも、お寺さんの境内の木戸口みたいで、つい遠慮しちゃうのよね。

 すれ違うのも大変な道だけど、ちょっと危険だわ。二人だけだと。
 また、変なこと想像しているんでしょ。まったく懲りないんだから。

 あのお寺は「光明院」という古いお寺で、「荻寺」とも呼ばれていて、「荻窪」という地名もその名に由来するといわれているようよ。
 昔はもっと南西側にあったようだけど、明治になって、鉄道建設のため、今のところに移されたんだって。

 ところで、「荻」と「萩」って紛らわしいわよね。名前でも「ハギワラ」さんなのか「オギワラ」さんのか、間違えて失礼になったりして。

オギ(荻)
 イネ科ススキ属の植物の一種。草丈は1~2.5m程で、河川敷などの湿地に群落を作る多年草。日本全国や朝鮮半島、中国大陸に分布している。葉は40~80㎝と長く、幅は1~3cm程度であり、中央脈がはっきりしている。花期は9~10月、穂は25~40cm程であり、小穂が多数互生している。茎は硬くて節を持ち、つやがある。ススキ(薄)によく似ているが、ススキと違い、オギには芒がない。また、ススキが生えることのできる乾燥した場所には生育しないが、ヨシ(葦)よりは乾燥した場所を好む。穂はススキよりも毛が長くて白く、柔らかい。かつては茅葺の屋根の材料として広く用いられていた。

ハギ(萩)
 マメ科ハギ属の総称。落葉低木。秋の七草のひとつで、花期は7月から10月。
「秋の七草」は、奈良時代の歌人、山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ以下の2首の歌がその由来とされている。

秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(万葉集・巻八 1537)
萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花(万葉集・巻八 1538)

 注:「朝貌の花」が何を指すかについては、桔梗とする説が最も有力である。

(以上、写真も含め、「Wikipedia」より) 

 地元じゃ、そのいわれにちなんで「荻」を育てているみたい。「荻窪税務署」のところにもあるって。
 さっきのお寺にもあるはずだけど、よく分からなかったわね。
 そうそう、このお店の前にもあったわね。

 さて、何にする? まずはビールですか? あそこはさすが酒蔵だけあって、ビールは置いてなかったようよね。
                     サッポロビール「白穂乃香」。

 おつまみもいろいろ揃っていて、おいしいはずよ。お酒も。

 コースターに紋があるわ。へぇ~、「鷹の羽」かな、この紋は? 矢羽ですって。なるほど。「鷹の羽」とはたしかに違うわね。
               (HPより)
 弓矢の歴史は古い。狩猟に戦場の武器として世界各民族が利用してきた。日本では、”弓矢取り”は武士を意味し、神事の破魔矢、流鏑馬から相撲の弓取り式にいたるまで、さまざまなかたちで弓矢が使われている。これが家紋として用いられた一番の理由は、なんといっても尚武の精神からだろう。弓・矢紋は、ふつう弓紋と矢紋に分かれるが、弓矢でひとつになった紋もある。さらに、矢。矢羽、矢筈の種類がある。服部氏の一族が多く使用している。(丸に違い矢)

 ここのは、縦に矢が並んでいるのね。

 けっこうおいしいでしょ。出汁もしっかりして、素材の味も生かされているしね。
 これつまんでいいわよ。ちょっと。箸の向きが違うでしょ。 

 お蕎麦もおいしいと思うけど。好みがあるかも。
 そう、満足してくれてよかったわ。なんたって手打ちにこだわっているようね。

 美味しくそばを食べる条件を「三たて」と言います。つまり、「挽きたて」「打ちたて」「茹でたて」のこと。
 ふつう、手打ちそばを自称するお店なら、「打ちたて」「茹でたて」は実践しているはずです。
 でも、そばの命はとても短いもの。
 だから「挽きたて」を満たしていなければ同じように手でそばを打っても、香りも喉ごしも、満足のいくそばにはなりません。
 そこで、本むら庵は「挽きたて」の原点である石臼挽き自家製粉にこだわりました。
 そのために、石の質や目立てなどをいろいろと変え、長い時間をかけて、試行錯誤を重ねながら、試作した石臼はいつのまにか100個にも上りました。
 こうして生み出した独自の石臼で、玄そばを粗く挽 くのが本むら庵のそばの特徴です。
 粗く挽けばそば本来の味や香りが出ますが、そばはつながりにくくなりますから、11~12月の新そばの季節なら9割そば、それ以外の時期は1.5~ 2割ほどのつなぎを使います。本むら庵の、こだわりの石臼挽き自家製粉そば。
 そばが本来持っている香りと味を、お一人でも多くの方にお召し上がりいただければと心より願っております。

 

       

 

(以上、「本むら庵」HPより)

 このお店はこだわりがあって、春・夏・秋・冬とそれぞれの季節に応じて、お蕎麦もお酒のおつまみも工夫して用意しているそうよ。
 けっこう常連客が多いみたい。あなた、気に入ったら、また来てみたらいいわ。

 オームの処刑って、彼らのやり口も劇場型だったけれど、7人の処刑も何だかマスコミが大騒ぎ。
 実況中継みたいになっていて、処刑になった顔にペッたと貼り付けたりして。

 こんなときでも、広島や岡山、それから愛媛と西日本では大変な騒ぎになっているのよね、集中豪雨で。
 このあいだ、愛媛と岡山に行ってきたの。何だか他人事じゃないわよ、心配だわ。

 オームといい、集中豪雨といい、平成ももうじき終わりというときになって、話題が多いわね。
 アベさんは酔っ払ったような顔で記者会見してたんですって。まったく!

 海外、国内、・・・。仕事の関係で、結婚してからは転勤族だった。
 いろんなところに住んだけれど、どこもみんなすてきで、いい人たち、いい町だったわ。
 
 私? いい人生だった、と思う。

 さて、そろそろ出ますか。皆さん楽しそうでよかったじゃない。お世話になりました。
 いつも時間ばかり気にしていて悪いけど。

 気に入ってくれたようで、また来てみましょうか。

 これから蒸し暑い日が続きそうね。お互い、体に気を付けて。では、また。
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こだわり、こだわりすぎて、ま、それぞれお元気でよかったです。(「じじばばがゆく」。例会編。)

2018-07-11 22:08:42 | じじばばがゆく

どうもお久しぶりです。皆さん、お元気でしたか?

                       

 ということで連れてきてもらったというわけです。
 「つれてってください」って全文ひらがなで返事出したんですよ。
 そしたら。この方、優しい方だから、2時間以上一緒に電車に乗って、ここまで連れてきてくれたってことで。

 「パスモ」っていうの? これまでそんなのまったく使ったことがないからさ。買い方も分からなくて駅員さんに聞きましたよ。
 5000円、それに入会金っていうの、プラス500円かかった。ま、使う機会もあるだろうから。
 改札口のタッチの仕方も分からなくてさ、裏表があるけど? どっちでも大丈夫ですって、今どきの駅員さんって、やさしいね。
 呆れた顔をしていたけど。
 
 いつもは車ですね、出掛けるのは。自分のじゃなくて他人様の車だけどさ。運転はするけど。
 だいたいが海でも川でも車だね、車。電車なんか乗ったことがないですよ、昔っから。

 お袋? 今日は一人で留守番してろって言ってきた。
 でも、妹が髪の毛を切りに来るって言ってくれて。いくらばあさんでも身繕いくらいは気になるからね、ご本人も。
 福岡が岡山が四国が大変な状況になっているって、テレビで言っていると、心配だ、心配だ、雨が水がって。
 ばあさん、東京は関係ないって言っても、心配だ、心配だって。ま、お袋は大事にしないとね。

 そうそうアサリ取りに行きましたよ、何回か。ほら、金沢八景ってあるじゃない、あそこの公園の近く。
 でも、このところ不漁でダメになっています。でも、実はそこじゃなくて、通には隠し場があるんですよ。ごっそり大粒のが取れましたよ。
 近所にも分けてあげて、冷凍しておくとけっこう持つし。
 砂抜きもそんなにしなくて済むし、けっこう穴場ですよ。千葉の海よりはね。

 干潮の2時間前後くらいかな。だから、朝早く出て行くんですね。
 高速で行けば近いし、途中の漁港で朝飯食ってそれからだね。また、それが安いんだね。腹一杯食っても900円くらいだし。
 そして9時か10時ころからお昼過ぎまで。3月から5月の連休くらい、行くのはね。
 エイがいたこともありましたよ。
                            

 ここも、喫煙所は外なの? 最近は嫌煙権とか何とかうるさいですね。外の方が景色がいいけどさ。
 タバコ? 今年の1月10日できっぱり止めました。年金だけじゃ生活できないから。
 お袋の年金、遺族年金ってやつだけど、二人併せて何とか生活できるけど。タバコは止めました。金かかるしね。
 だいたい、あちこち禁煙です、ここで吸っちゃいけませんて、うるさいよね。
 タバコってほとんど税金なんでしょ。そしたら売るなって話ですよ。

 ほら、あそこで釣りしている人が。鮎かな、ヤマメ? ず~うと流れにさからわず流していく。根気がいるんですよね。
 むこうで跳ねましたね、ほら、あそこ。
 でも、渓流釣りは足腰が痛くなるんですよ。冷たい水の中にけっこう長く膝下、へたしたら腰くらいまで浸かっているんでね。

 こっちは湖。養老渓谷の上流に「高滝湖」というダムですね。そこのワカサギ釣りは最高ですよ。
 こっちは10月中旬から2月末くらいかな。
 ブラックバスなんかを釣る連中もいますが、釣っても放すんですね。
 引きを楽しむっていうの。だったら食っちゃえよ、って思いますけどね。

 千葉も木更津から先はアクアラインを使えば便利だし。
 京葉道路もいいけど、下道でも最近は途中から3車線になってすいすい行けるようになって。
 この前、ETCカードを持って行かなかったことがあって、オレはもちろん持ってないけどさ。
 べらぼうに金が掛かってびっくりしましたよ。
 
 けっこう忙しいですよ、庭木の手入れやメダカの世話とか、なんたっておさんどんの世話ですからね。
 買い物行ってどれが安いとかけっこう一日、忙しいですよ。
             

 お酒もいいですが、昼酒は酔いが早いような感じで。でも、けっこういけますね。さすが蔵元。

 ま、さっきも話したけど、釣りが唯一の楽しみですね。あとは町会の仕事くらいですかね。
 今年の秋は本祭りで、神輿をださなきゃならないんで。あれ、担ぎ手からなにから、これもんに頼んでいるんですよ。
 そうじゃないと、いざこざが・・・。何とか睦って手配してくれる。この町会じゃ担ぎ手なんかいませんからね。
 神社だって無人で、神様に用事があると浅草から来てくれる。
 そ、頼むにはそれなりの接待とお金がいりますが、それで無事に収まれば安いもんですよ。

 浅草っていえば、桜橋の下あたりでけっこう釣れるんですよ、ハゼが。けっこう大ぶりのやつが。
 ハゼ釣りの大会かなんか10月頃にやっているんじゃないですか、餌付きで。
 天ぷらにするとおいしいですよ。ヘドロかなんかで臭いんじゃないかって。まあそんなことはないですよ。
 ダイオキシンはどうですかって、それは分からないな。

 そろそろ痛んだ家を普請しなければ思っているんですが。
 へえ、おたく、けっこう詳しいですね。
 断熱材の厚みがどうのこうの、基礎のコンクリートが何㌢、えっ、集成材を使っているの、木は無垢なのか、って。
 金のあるうちは違うね。
 けっこう面倒くさいことを調べてますね。
 だったらマンションでいいんじゃないの?
 奥さんがやだって。そうなのか、じゃあ、勝手にすれば。

 悪仲間もいましてね、千葉の海でアワビを潜ってとる、っていう奴もいますよ。
 もちろん違反ですよ、見つかった大事(おおごと)ですがね。
 地元の海女さんよりも潜るのが上手っていうんですから・・・。
 おこぼれを、小さい奴をもらったことがありますが、少し、っていうかかなり気が引けますね。

 女優でしたっけ、自称。今はお茶出し係で。けっこうお元気ですね。うちのばあさんももうじき世話になるでしょうね。
 けっこうな期間、空き待ちですよね。空きって言ったって入居者が死ぬの待っているってことでじゃないですか。切ないですよね。
 お金のある方はいいでしょうけど。特養とか何とかで。

                          
        
 どうもありがとうございました。緑もたくさんあって、海なんかとは違う雰囲気がいいですね。
 どうせお宅、また途中でいなくなるんでしょ、いつもパターンで。帰りはこの方と一緒に帰りますから。

 人数は少なかったけど、ま、これもよし。でも、来年は上野あたりにしたら? 近場がいいね、やっぱり。そこなら一人で行けるし。

 「澤乃井」さん。お騒がせしました。おいしいお酒とお食事を楽しませていただきました。
                       
                        「北原白秋の歌碑」。

 西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉

 白秋が大正12年(1923)、この地を訪れたときに詠んだ歌。
 
』所収

多摩の浅春

造り酒屋の歌(注:「長歌」の形式になっている)

 水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ、老杉の三鉾五鉾、常(とこ)寂びて立てらくがもと、古りし世の家居さながら、大うから今も居りけり。西多摩や造酒屋(つくりざかや)は門櫓(かどやぐら)いかしく高く、棟さはに倉建て並(な)め、殿づくり、朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。八尺(やさか)なす桶のここだく、新(にひ)しぼりしたたる袋、庭広に干しも列つらぬと、咽喉太(のどぶと)の老いしかけろも、かうかうとうちふる鶏冠(とさか)、尾長鳥垂り尾のおごり、七妻(ななづま)の雌(め)をし引き連れ、七十羽(ななそは)の雛を引き具し、春浅く閑(しづ)かなる陽(ひ)に、うち羽ぶき、しじに呼ばひぬ。ゆゆしくもゆかしきかをり、内外(うちと)にも満ち溢るれば、ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎもの心もしぬに、踏む足のたどきも知らず、草まくら、旅のありきのたまたまや、我も見ほけて、見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。酒の香の世々に幸(さき)はふ、うまし国うましこの家(や)ぞ、うべも富みたる。

反歌

大御代の多摩の酒屋の門櫓(かどやぐら)酒の香さびて名も古りにけり

西多摩の山の酒屋の鉾杉は三もと五もと青き鉾杉

注:「鉾杉」=鉾(矛)のようにまっすぐ生い立った杉。(『広辞苑』)

 これって、おふくろの生まれた年じゃない。
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東武「境町」駅~「太田」駅。その4。(「日光例幣使街道」第2日目。)

2018-07-09 19:51:37 | 日光例幣使街道
                        (11:40)右手に酒屋さんがあります。

その先には・・・ 「此の地 史跡と銘酒の郷」と。
    
 炎天下の街道歩き。いささかくたびれていたとき、道が大きく右に曲がるところに造り酒屋「島岡酒造」さん。ここで休憩しようとお店の中に。

歴史を感じる建物。創業は幕末の文久3年(1863)。


(11:43)「群馬泉」醸造元「島岡酒造」。

 70代前半の女将さんがいらっしゃたので。
 「何か冷たい飲み物はありませんか? 」「お酒というわけにはいかないわね」「いいですけど」「この先、どこまで? 」「太田駅まで歩くつもりです」「じゃあ、お酒じゃない方がいいです。うちではあいにく売り物のジュースなどはないんで。今、麦茶持ってきますから。」
 奥に入ってしばらくして、「孫たちが飲んじゃって新しいのを作っていました、さあ、どうぞ。」大きなコップに並々と入れてくれました。
 「私、桐生の出身なんですよ。太田と合併するって話もあったけど、桐生は気位が高いからダメだった。」「何しろ西の西陣、東の桐生っていわれたくらいですからね。」
 「このあたりは、富士重工さんの関係者が多いから。」「親戚にもいましたよ。」「まあ、悪口言えないわね。」「昔の話ですから。戦後すぐの話ですね。中島飛行機ですか、その時分から勤めていたとか。」「娘は二人とも東京に嫁いでいます。たまには遊びに来てよって言われるけれど、主人なんか、あんな暑いところへ行けるか、なんて言ってます。」・・・
 「実は生まれが桐生なんです。」「あらまア。」「群馬に縁がないわけじゃないんで、このお酒、群馬泉ですか、お土産に買います。」「持って帰るのですか? 」「ザックに入れればどうということないですから。」「でも、このお酒持って太田駅までは止めた方がいいです。」「いや大丈夫。小一時間で着くでしょう? 」「そうはいっても、細谷という駅に15分くらいで行けますから。」
 「バスの便もなさそうですね、このあたりは。」「昔はありましたけど。この辺は一家に一台じゃなくて、一人に一台です、車が。」
 「それではぼちぼちでかけます。」「その先のコンビニのところを曲がれば駅への道ですから。お気を付けて。太田駅まで無理しない方がいいですよ、この暑さの中では。」「ありがとうございます。」

道路をはさんだ目の前には旧家。

 (12:02)さて女将さんの親切なご忠告があったものの、やはり「太田駅」に向かって出発。外に出ると、炎天下には変わりなし。


4合瓶を背中に背負っての歩きとなります。「群馬泉舞風」。飲むと、辛口でおいしい!

「威光寺」。新田義興(義貞の次男)の菩提寺。

かなり摩滅した「庚申塔」。

(12:28)「県道2号線」と合流して、太田市街地へ。

東武線のガードをくぐる。県道2号線も長い直線道路。

電線等の地中化によって広々とすっきりした道路となっています。

道路の向かい側には道標らしきもの。「左 京都」と。

(12:40)「永森橋」で「八瀬川」を渡ると、宿場の入口付近に。 

 橋を渡った小公園のところに「旧日光例幣使街道」と刻まれた石碑。
 江戸時代正保三年から慶応三年まで日光東照宮の四月の例祭に朝廷が例年差し遣わした例幣使を日光例幣使といいその通行路を通日光例幣使道と呼んだ。永盛橋を東西に走る道が旧日光例幣使道でこの道は中山道上州倉賀野宿で分岐し玉村宿から太田宿を通り野州八木宿より金崎宿に至る十三宿を結ぶ街道で壬生道日光道中を経て日光に通じた日光例幣使道は明和元年五街道に準ずる主要道に・・この歴史を永くその名を・・・

暑い! その先の木陰で一休み。水分補給は欠かせません。

(13:04)「太田行政センター」のところに大きな「橋本本陣跡」碑。
                                  そこにある温度計が「35℃」を表示しています。

「東町十字路」。

 午後の日差しが燦々。次の「八木宿」に行くのは断念して2日目を終了。

(13:11)その先を右折して、「太田駅」に向かいます。

 駅前に「太田市立美術館・図書館」の建物。駅前としてはユニークな発想。去年の4月に開館。次回、開館時間があえば見学したい施設。
     


1880年代のようす。大きな宿場となっています。


2010年代のようす。太田駅。右上は「SUBARU(富士重工)」。

 
帰京すると太陽の回りに輪が出来ていたそうな。
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東武「境町」駅~「太田」駅。その3。(「日光例幣使街道」第2日目。)

2018-07-06 23:16:39 | 日光例幣使街道
                        新しい「木崎宿」碑。広々した四つ辻に建っています。
木崎宿(太田市)概要
 木崎宿は日光東照宮(栃木県日光市)に京都の朝廷から例幣使が参拝する為に寛永19年(1642)に開削された日光例幣使街道の宿場町です。街道は中山道の倉賀野宿から日光街道の楡木宿までで、その間15の宿場が設けられ、例幣使の宿泊や休息に利用されました。中でも木崎宿は足尾銅山へと続く銅街道が分岐し、鉱山関係者が数多く利用した事もあり、文化元年(1804)の旅籠の数は27軒程でしたが後に63軒となり日光例幣使街道最大の宿場町となりました。又、木崎宿は多くの飯盛女を抱える旅籠が軒を連ねた宿場町として知られ、弘化2年(1845)には260人以上の飯盛女がいたそうです。現在に伝わる木崎音頭(木崎節)は越後(現在の新潟県)から飯盛女として売られた女性が伝えたとされ、そこで唄われた色地蔵は現在でも長命寺境内前にある小堂に祀られています。日光例幣使街道と足尾銅山に続く銅街道の分岐点でもあり、追分には新しい道標が建立されています。

(「木崎宿(日光例幣使街道) - 群馬県:歴史・観光・見所」HPより)

(10:09)「木崎町」交差点。交わる「県道311号線」は、江戸初期に発見された足尾の銅を利根川の前島河岸まで運び、そこから江戸に輸送するために開かれた「銅(あかがね)」街道。
 以前は、筋違い道になっていましたが、道路整備ですっきりとした十字路になっています。

         
   「北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川」「東 太田宿 日光 西 柴宿 京都」。さすが「日光例幣使道」です。西に京都が記されています。

       
   
1880年代のようす。                2010年代のようす。 

日光例幣使道 木崎宿 
・・・
 日光例幣使道は例幣使が通行するために江戸幕府によって整備された道です。例幣使道は上州倉賀野宿(現在の群馬県高崎市)で中山道から分かれ、野州楡木宿(現在の栃木県鹿沼市)まで十五の宿場が置かれました。木崎宿はこの宿場のひとつで、飯売女を置いた旅籠屋が多くできました。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後(新潟県)から年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれています。木崎音頭に唄われている色地蔵は、長命寺の南にあるお堂にまつられています。
 木崎宿は文芸の地としても知られ、南画の柿沼山岳や角田岱岳など多くの文人を生み出しました。

注:「飯売女」=「飯盛女(めしもりおんな)」
 近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。
 江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊郭ほか、為政者が定めた遊郭の中のみで営業が許されていたが、飯盛女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。
 また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。
 17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ。1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけている。
 また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられる。
 飯盛女が亡くなると投げ込み寺に捨てられ無縁仏となるのが常であったが、府中宿 (甲州街道)の称名寺には珍しく飯盛女の墓がある。
(この項、「Wikipedia」参照。)
 
 下の図からみると、木崎宿には「河西本陣」と「茂木本陣」があったようですが、現在はその跡地の標示はよく分からず、そのまま宿内を東に進みます。

  ○が筋違い道。→Aが「河西本陣」、↓Bが「茂木本陣」(街道から少し南に入ったところに)。 

ここも、宿場特有の奥に細長く伸びた空き地。

お店ははるか奥、手前に駐車場。細長い土地の有効利用。

右奥に「木崎」という地名になった「貴先神社」。 

左には「長命寺」。門の左手前に「色地蔵」がありますが、パス。

(10:30)やがて「木崎宿」の石碑があるところを左折します。

 

熱い日差しの中、一本道を進みます。

 (10:33)そのうち、周囲が田畑の中を行く。遠く西から北にかけて赤城から日光の山々の姿が。


                        

足元には

「弁天沼川 高寺川防災調整池」で県道に合流。

 
            (10:48)「常楽寺」の先で、右の道に入って行きます。

県道を突っ切って先に進みます。

次第に住宅地を進むようになり、公園で一休み。さらに賑やかな通りへ(11:08)。

 左手にある大きな「フレッセイ宝泉店」で、お店には内緒、他のコンビニで買ったおにぎりを食べて、「大」休止。

(11:29)さて、水分を補給し、汗も少し引いたところで「太田宿」に向かって。
 

 この先、舗装道路の照り返しはけっこうきつい! 今回は東武の「太田駅」までにしよう、と。道にほとんど上り下りのないのが幸いです。
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東武「境町」駅~「太田」駅。その2。(「日光例幣使街道」第2日目。)

2018-07-05 19:38:26 | 日光例幣使街道
                                   「風の子公園」(左手)。
 「保育園」を過ぎ、「クスリのアオキ」のところを右折、「公園」に向かいます。公園のところから旧道が復活します。「県道312号線」に出ますが、その道沿いの「女塚会館」に道標があるということで探しましたが、会館が見当たらず(空き地?)、道標も見つけられません。
 (9:00)そのまま東武線の踏切に向かいます。


 「県道312号線」が「日光例幣使街道」をほぼなぞっています。踏切を越えると、右、左と直角に曲がっていきます(旧道は失われています)。

途中にあった、摩滅した庚申塔。

 (9:10)やがて「早川」を「三ツ木橋」で渡ります。左手遠くに「赤城山」が。今回、初めて見ました。(↓)
                 

「国道17号線バイパス(上武道路)」の高架の手前で「太田市」に入ります。

1880年代のようす。○が「三ツ木橋」。

2010年代のようす。

 「小角田」交差点にあるコンビニで食料を調達がてら涼む。暑い!
 その先、道は「国道354号線」の土手にぶつかるので迂回し、回り道をして「小角田北」交差点から国道を進み、旧道に復帰します。

(9:40)国道の向こう側、来た道(西側)を望む。

  
  
1880年代のようす。○が上の写真の位置。      2010年代のようす。

左手奥に「赤城山」。

 「新田中江田町」交差点が行く先に見えます。そのまま「県道312号線」を進みます。


(9:44)「県道312号」という標識。

 しばらく木陰のない単調な道を東に向かいます。「矢抜神社」、「来迎寺」と過ぎます。
 暑さの中、日陰もない道を歩いていると、どこかに涼しいところはないか、お店はないか、と。コンビニが唯一の逃げ場です。

人も通らず、車もたまに。

 ところでこんな話があります。

 ゆすり(強請)の語源は、日光例幣使にあった!
 例幣使一行は、京都から中山道、日光例幣使街道を通り、玉村、天明宿、鹿沼宿、今市宿と宿泊し、日光へ到着、東照宮へ幣帛を奉納しました。一日約40キロ。「中山道」の道のりも入れると14泊15日でした。
 しかし、一行は横暴の限りを尽くし、評判の悪いものだったといわれています。
 朝廷の威光をかさにきた公卿は乗っている駕籠をわざと揺すって進めなくしたり、自ら駕籠から転げ落ちたりし、あれこれと因縁を付けて、街道の人々から金品を要求しました。立場の弱い者に対してゆすり、たかり、脅す。これが、「ゆす(強請)る」の語源となっています。
 さらに一行は、江戸に出ると、日光から持ち帰った前年の、切り刻んだ幣帛を江戸住まいの諸大名に送りつけ、金品を要求したそうです。
 こういう行為が続けば「ゆすり」という言葉も、自然と日本語として定着するわけです。
 日光例幣使は朝廷(天皇)の幕府への義理立て的要素があり、日光例幣使の人選は、下級の公家・役人が主。そういう者たちが派遣されて相当な金品を懐にしたといわれます。

(以上、「HP」等を参照)

 「ゆすり」「たかり」。今もそうした体質がしっかり根付いている世界、政界? がありますね。「ゆすり」の漢字が「強請」というのも言い得て妙です。
『ゆすり』=おどして金品をまきあげること。また、そういう人。
『たかり』=おどしたり泣きついたりして金品をまき上げ、また、食事をおごらせること。(『広辞苑』より)

閑話休題。 

(9:57)右手に正徳5年(1715)建立の「三本辻地蔵堂」。
 本地蔵尊のある場所は、かつて例幣使道から分かれて利根川中瀬の渡しに通じる道がありましたが、斜めの道であったために、明治時代に施行された耕地整理の際、消滅してしまいました。
 ・・・
 中山道は西国札所への道順で、例幣使道柴宿は板東札所・水沢・白岩観音への道順で、中瀬道は秩父札所への道順です。

 お堂の脇には馬頭観世音、二十二夜塔、庚申塔があり、

また、「太田日光道 三本辻地蔵尊・「四ば倉がの道・旧日光例幣使道・秩父中瀬道」と刻まれた新しい道標があります。
 

街道筋の農家。

まっすぐな道が続きます。「木崎宿」入り。

(10:07)左手に「山崎酒造」。

                             

 この先を進むと、「木崎宿」碑があります。
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東武「境町」駅~「太田」駅。その1。(「日光例幣使街道」第2日目。)

2018-07-04 20:28:22 | 日光例幣使街道
                        赤レンガ倉庫(前回撮影)。
(8:29)駅を出てすぐ左手にある解説板。
境赤レンガ倉庫の歴史
 境赤レンガ倉庫は、境運輸倉庫株式会社により大正8年(1919)に「繭の乾燥場」、「繭の保管庫」として建設された2階建て総レンガ造りの倉庫です。
 この倉庫は、戦時下に兵士用の食料の乾燥場として使用され、蚕糸業の衰退後は、電気部品製造工場の製品庫として使用されました。
 また、この倉庫からの繭の輸送には東武伊勢崎線(明治43年(1910)開通)が利用され、世界遺産である「富岡製糸場」にも運ばれていたとのことです。
 平成28年(2016)にぐんま絹遺産に登録されたこの倉庫は、かつて蚕種、養蚕、製糸、織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な遺産です。

 6月30日(土)。晴れ。前回とはうって違って猛暑。紫外線:きわめて強い、熱中症:危険。という予報が出ています。さすが全国有数の高温地帯の、伊勢崎から太田を歩くという計画。本当は群馬県から栃木県入りして「福居」駅までのつもりでしたが、身の危険を感じ、太田駅まで。
 歩く先々、公園で休み、スーパーで休み、お酒屋さんで休み、と。12,3㎞。約2万4千歩でした。

「日光例幣使街道」に出る左角に「境町道路元標」。

 「境駅駅前」交差点を突っ切って進むと、「長光寺」境内に芭蕉の句碑がありますが、パス。
春も漸(やや) けしき調ふ 月とむめ 芭蕉 

 この句は、各地でも刻まれています。訪ねていれば「足立区立郷土博物館」、「向島百花園」に次いで三ヶ所目に。

進む方向を望む。右手は「伊勢屋」。

旧道沿いらしい商家が続きます。

間口が狭く、奥に伸ばす建て方。

「売り地」の看板がチラホラ。

右手の角に「利根川の渡し場」道標。

「板倉屋薬局」の看板建築。旧道ではよく見かける。

「日光例幣使道 境宿」。背後は空き地。
境宿
 鎌倉時代から広瀬川の舟運で発達した集落で、例幣使街道が開通すると柴宿と木崎宿の間宿として問屋場が置かれたが、幕末の文久3年(1863)に正式に宿場に格上げされている。毎月、二と七の付く日に行われる六斉市は大変な賑わいで、特に生糸の取引は上州一と称され、明治以降は伊勢崎織物の一大生産地へと発展していく。

かなり痛んだおうち。ここも早晩、空き地になるか? 

「ここより例幣使道 境宿」の標示。宿の東のはずれ。

(8:40)右手に「菓庵 水戸屋」さん。和菓子屋さんです。
 
                                       店の前に「かりやど宿」の石碑。幕末まで「間の宿」でした。

左手角に次の「木崎宿」への標示。

 (8:43)「木崎」に向かう前に枡形の道へ。蕎麦屋「ながしま」と「大竹鉄工所」の間の細い道を右折、コの字型に進みます。


左折する角に「東町の道しるべ」。 

 
 この石造物は、横町の人三名が、西国、四国、秩父、板東の観音霊場巡拝の供養塔と道しるべをかねて天明七(一七八七)年に建立したものです。東面「此方世良田 たてばやし道」、西面「右江戸なかせ 左日光きさき道」、北面「こくりやう いせさき」とあることから、この場所が、日光例幣使道と世良田道(館林方面)、江戸道(深谷方面)が交差するところでした。当時、例幣使道が東毛地域をつなぐ交通網の幹線道路であり、横町から四方に広がる様子がわかります。
 
左折して県道に。正面は「境稲荷神社」。

神社の一角にも芭蕉の句碑。

時鳥 招くや麦の むら尾花 翁 上毛新田境村
 「時鳥(ホトトギス)」は、芭蕉の場合、「郭公(音は「かっこう」)」とも表記されるという。

 時鳥を手招いてでもいるのか、ススキのように穂を垂れて、風にそよいでいる麦は。

 季語は「時鳥」で「夏」。ただし、句中に「尾花」=すすきとあり、これだと「秋」。しかし、すでに「時鳥」はいないはず。さらに「麦」とあってやはり「夏」。したがって、ここでいう「むら尾花」は麦畑一面、穂を垂れているようすを指しているか?


 屋久島以北の山地の林に飛来。北海道では南部のみで少ない。
全長:28cm。ヒヨドリほどの大きさ。腹のしま模様はカッコウより太く、少ない。
主にウグイスに托卵する。
飛びながらよく鳴き、夜も鳴く。
雄の声はキョッキョッキョキョキョキョという鋭い声で「テッペンカケタカ」「特許許可局」などと聞きなしされる。
(以上、「」HPより)

「ホトトギス」にちなむ歌といえば、
・ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる (後徳大寺左大臣『千載和歌集』)
・目に青葉 山ほととぎす 初鰹 (山口素堂)

 やっと「境宿」を出て次に向かいます。この時点でけっこう蒸し暑い! もう汗が噴き出してきます。この先どうなるか?
                            

1880年代のようす。○が稲荷社付近。その先、大きく曲がっています。  

2010年代のようす。道が付け替えられています。
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JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その6。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-07-02 18:40:20 | 日光例幣使街道
                           (14:31)旧「下蓮町稚蚕共同飼育所」。

 「下蓮町」交差点で、左「忠治茶屋」方向から来る「県道142号線(「日光例幣使街道」)」と合流してまっすぐ進みます(「県道142号線」はここで左折となる)。
 が、雨も本降りになって「コースメモ」を取り出すのも面倒で、そのまま旧道(県道142号線)は直進すると勘違いし、右折してしまいます。晴れていれば、太陽の位置などで確認できますが、この状態では西も東もまったく見当がつきません。傘を差しても足下がずぶ濡れのまま。
 そして、しばらく進み、「下蓮町稚蚕共同飼育所」という建物のところに。
 さすがかつて養蚕の盛んだった土地柄を示す建物だと(現在は既に役目を終えてどこかの会社の倉庫となっています)思っていると、ガイドメモではまったくふれられていない建物なので、ここで道を間違えたことにはじめて気づき、それでもまだ進んでから「下蓮町」交差点へ引き返します。
 その信号機に「右 境町」という標示があります。そこで、右折。やっと本来の旧道に戻ることができました。ロスタイム約25分。
 雨は降り続ける。かといって、ここではバスなど交通手段は、なし。家並みもひっそり。「境町駅」まで歩くしかありません。
 萎える気持ちを奮い起こして、「広瀬川」に向かいます。
(15:03)

 県道は右に曲がって「武士橋」を越えますが、旧道はまっすぐ広瀬川の土手に。「武士橋」のたもとに「竹石の渡し」跡の解説板と「日光例幣使道」の案内板。


                          
竹石の渡し
 上野国の日光例幣使道の渡し場は、利根川の五料の渡し場と、広瀬川の渡し場の二ヶ所でした。この竹石の渡し場の渡船役は、主に下武士村名主がつとめ、渡船や川止めなどを管理していました。
 記録によると、舟賃は一人銭三文、荷物一駄が十二文と決められており、村が所有する舟一艘で渡しを行っていましたが、日光例幣使通行の際は、隣村から二艘の舟を借り受け三艘、荷駄積み降ろし人足二〇〇人を出して渡船役をつとめました。明和2年(1765)日光大法会や元治2年(1865)勅使である梶井宮が通行した際には、さらに多くの舟や人足が必要でした。明治に架橋され、渡し場は廃止されました。 

※「竹石」=「武士」 

「広瀬川」。

(15:09)渡り終えると、「境宿」へ。

一つ目の交差点を左に折れ、すぐに右折して細い道に入ります。これが旧道。

(15:13)右手に「乳母の懐」という案内板。
日光例幣使道「乳母の懐
 広瀬川にあった「竹石の渡し」の東詰から境宿に至る間で、境下武士の500㍍は一間幅の細い道路ですが、日光例幣使道の面影を今によく伝えています。
 江戸時代の絵図に描かれた武士村には、村の高札場がありました。現在は大きな桧が植えられていることで「一本桧稲荷」と呼ばれ、地元で親しまれています。
 例幣使が武士村を通過するのは旧暦4月12日頃でした。武士の古老の言い伝えに、お輿に揺られ居眠りをしていた勅使が、武士村との境まで迎えに出ていた境宿の町役人に起こされて「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」といった場所は境萩原の付近でした。

 「境萩原」はこの先を行ったところ。「高札場」はこのすぐ先。

今度は左手に「八海山」と呼ばれる築山があります。 
 この場所は、江戸幕府の公式記録である『中山道例幣使道分間延絵図』に、禁令などを人々に掲示する下武士村の高札場が示されており、また稲荷祠も記されていることから、稲荷社はそのころからありました。
 また、遠方まで出掛けなくとも信仰ができるようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ、八海山と呼ばれるようになりました。
 その築山に桧が植えられていることから、日光例幣使道の一里塚であったという説もありますが、正式な記録は無いため、真実は定かでありません。
 現在、この場所は、稲荷社もあることから通称を一本桧稲荷とも言われています。

 
(15:21)県道に合流し、左折します。                   来た道を振り返る。

右手に残る旧道に入る。


(15:29)「境萩原」のところで県道と合流し、右折すると「境宿」の中心部。

(15:30)りっぱな「織間本陣跡」碑。

                    
 旧例幣使街道、境宿織間本陣は寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫の家を当地に移築したものである。茅葺き平屋建ての主屋と片袖付き門構えは古い建築様式をそのまま残しており、本陣として旧境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上がると9部屋を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上段の間を有した。
 上段の間から見る中庭には見事な松樹があり、来遊した江戸の学者古賀洞庵は織間本陣を蒼松軒と命名した。また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭侯は、ここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松軒の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例幣使街道を上下する諸大名をはじめ、特に毎年4月京都より下向する例幣使や公卿門跡衆の休憩を主とした。そのとき関札と呼ばれた休憩時の札が下賜され、門前に掲げられた。
 寛政3年(1791)4月12日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
ー時鳥 我が身ばかりに 降る雨かー
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。 


道路をはさんで斜め前には「飯島本陣跡」の標柱。

 なんとか「境町駅入口」交差点までたどりつきます。今回はここまで。駅に向かいます。

(15:37)駅に向かう右手に煉瓦造りの建物。 

                        

 次回、ゆっくりと宿内を見て回ることにします。

(15:39)東武伊勢崎線「境町駅」。

 この先は、ほぼJR両毛線、東武線沿いの歩きとなります。
                       
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