おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その5。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-07 18:41:24 | 東金御成街道
                         坂を上ると、里山が広がります。
          来た道を振り返る。森と畑。 

(13:15)その先に「圏央道」が見えてきます。 

                               

その先の県道を越えると、砂利道になります。
  
左右はソーラーパネルの発電所になっています。その道ばたで小休止。

この付近の今昔。

1880年代のようす。破線が旧道(↓)。



2010年代のようす。この当時はまだソーラー施設はない。



 (13:40)「国道409号線」に突き当たります。ここまでが直線道路としての旧「東金御成街道」。
    「東金市」の標識。

          来た道を振り返る。ここが一応のゴール。

 この先、東金御殿跡の「県立東金高校」まで4㎞以上、まだまだ街道歩きは終わりません。表道と裏道があったようですが、まずは国道歩きから。

 (13:48)由緒ありそうな大きなお屋敷。
 

その先にも。

西側が新興住宅地。

台風15号の爪痕が痛々しい木々。

(14:02)右手の森の入口に「解説板」。
東金御成街道の関係史跡
<歴史的概要>
 慶長18年12月(1613)、徳川家康から東金辺での「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝は,船橘から東金までの沿道にある97ケ村の農民を動員し、翌年1月に「道法八里余り」(約37km)の「東金御成街道」を完成させました。
 東金の滝地区からは旧道を利用したといわれ、右図のルートが現在有力となっています。とくに②の所で分岐し、2ルートとなっていますが、本街道に関する資料が南ルート(赤色)に多く残り、本道の可能性が高いと考えられています。また東金では、家康の鷹狩りの際に「文珠組」を組織し、その組織の鳥見役(鷹場を巡検して鳥の所在を追跡する役人)には油井村大豆谷村・台方村の者がみられ多くは元酒井家の家臣であったといわれています。
①古道跡:
この場所は廃道となり山林の中に痕跡が見られますが、散策するには厳しいです。享保7年(1722)の『下総牧図』(東京都世田谷区満願寺蔵)には、この道に沿うように「上総下総国境土手」が油井村入ロまで描かれています。
②道祖神:
道標を兼ね三面に以下の内容が刻まれていますが制作年代は不明です。
(正面)是より下ハ東金道 是より上ハ左(佐)倉道
(右面)油井村 (左面)是より西 江戸道
③おあし坂:
切り通しの道。急な坂道のため、歩幅を広く取り大足で上り下りしなければならないことから、通称「おあし(大足)坂」と呼ばれていた。
この先の谷津田に「土橋」が残っており、当時の街道の面影が感じられます.
④一里塚跡:
数十年前(1970年代か)まで高さ7mほどの塚があり.塚上に一本の黒松が植えられ地元の人たちは「一本松」・「一里塚」とよんでいた。
終点の東金御殿まで約3.9km。
⑤御成表道:
享保7年(1722)の『下総牧図』には「油井村入口〇御成表道」と記載され、御成街道の本道と考えられます。
⑥御成裏道:
享保7年の『下総牧図』には「油井村入口〇御成裏道」と記載されています。
⑦十六石殿:
早野家の屋号。家康が御成りの途中に早野家に立ち寄って休息をとり、その接待のお礼に宅地前の水田十六石をいただいたのが屋号の起こりといわれています。
⑧火正神社:
元禄11年(1698)創建。幕府が出した火事・消防に関する定めに基づき、現在地に火消大明神を建立したのが起こりといわれています。
火伏の神の迦具上(かぐつち)神が祭神。
⑨御成橋:
家康の御成に際し、架け替えられたといわれています。
⑩厳島神社:
石鳥居に元禄3年(1698)9月建立の銘。寛文3年(1626)に日吉神社の隔年の神幸祭に神興の一夜の御旅所と定められています。
⑪日吉神社:
石鳥居に明暦3年(1657)9月建立の銘。中世東金城(鴇ケ嶺城)の鬼門の守護神として重んじたといわれています。「山王宮社」には、家康の参拝に備えて土井利勝が社殿を再興したと記されています。
⑩東金御殿:
東金御成街道の終点。将軍(大御所)の宿泊所で現圧の県立東金高校敷地内。
この御殿は、慶長18年(1613)から翌年にかけて、土井利勝の命により代官嶋田治兵断が工事に当たったといわれています。
          地図入りの案内板。

 この解説板からは「おあし坂」が当時の表道だったようです。足を踏み入れましたが、この先、倒木などがありそうで、断念! かつての裏道(現在の舗装された県道)を進むことに。


(14:16)「コンレイ坂」。
             「魂霊坂」とも書き、激戦で死んだ武士を埋葬した地だったようです。

 この先、終点をめざしてひたすら歩くのみ。けっこうしんどい坂道あり。上り、下りに疲れもピークです。
(14:30)「楓ヶ池」。この付近には池が点在します。

 ひとしきり上り坂を進むと、「丸山公園」。その先を右折しますが、ここからが膝が笑うほどの急坂。タクシーなど車もけっこう通るのでヒヤヒヤしながら下ります。写真を撮るのも面倒になってきます。
 (15:14)坂をやっと下って左折すると、正面に大きな鳥居。その先に、「八鶴湖」が見えてきます。湖水の向こうには「東金高校」。ホッと一息。
     

「本漸寺」三門脇の「燕塚」と「歌碑」。

 当時の日本野鳥の会会長で歌人でもあった中西悟堂さんが詠んだ歌。

  みんなみに 帰り得ざりし 燕らが
     冬越す ここは 上総東金

(15:18)東金御殿跡と東金城址の説明板。

東金城址
 東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454~82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末~16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
 遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。

東金御殿跡
 東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋-東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
 東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
 寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半~明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。

 

「東金高校」。れんが造りの正門。

湖畔にある「八鶴亭」。

                         

「ビリヤード棟」など歴史のある料亭。
 八鶴亭(旧八鶴館)は明治期創業の老舗旅館で、東金市を代表する景勝地八鶴湖のほとりに所在することから、北原白秋や伊藤左千夫ら多くの文人墨客が訪れました。
 現存する建物のほとんどが大正から昭和初期に建てられ、そのうち本館・新館・宿泊館・浴室棟・ビリヤード棟5棟が国の登録有形文化財に登録されました。・・・


そこからの「八鶴湖」の眺望。

「八鶴湖」。

                   
八鶴湖
 その昔、谷池(ヤツ)と謂う 谷はヤチ(谷地)に通じアイヌ語で草深い湿地の意なり
 慶長18年(1613)家康公 東金御殿を造営されるに、その「御殿前池」として弁天島等を設け整備される
 面積は約1万1千坪(3万6300平方メートル)周囲10町(約1000メートル)
 天保年間、幕末の尊王家、梁川星厳その弟子遠山雲如ら詩人、学者盛んに湖に遊ぶ
 雲如その詩句に八鶴湖と称し天下に紹介される


これでようやく東金駅に向かいます。駅前の商店街は閑散としています。

                   (15:31)「秋葉旅館」。営業している?

この付近の今昔。


1880年代のようす。「八角湖」となっています。




2010年代のようす。中央右にJR「東金駅」。

 これで、ひたすら一直線だった船橋から東金までの「東金御成街道」終了。今回は、予想以上に最初からほとんどがアップダウンの道路で、けっこう疲れましたが、里山風景(ただし台風の爪痕が各所に)を眺めながらの歩きでした。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その4。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-04 20:14:13 | 東金御成街道
                       (12:20)相変わらずアップダウンが続きますが、車はぐっと少なくなります。この辺も台風被害あり。



住宅地に入っていきます。

        道路上にトタン屋根などが。屋根瓦も壊れています。

(12:34)広大な北総台地。農作物の被害も多いようです。

 やがて前方に斜度14%という表示のある急坂が見えてきます。「馬渡しの険」と呼ばれたところで、一気に下って、一気に上る。
 (12:37)その坂の途中に「上砂(かみいさご)の一里塚跡」碑。
 
八街市指定文化財(史跡)御成街道の一里塚
 この塚は、慶長18年(1613)に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた御成街道の一里塚である。
 一里塚とは、街道沿いに一里ごとに設けられた里程標で、江戸時代には徳川幕府による街道整備政策の一環として全国の主要街道に設置された。塚上には松や榎が植えられ、寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった。
 船橋から東金にいたる御成街道には8カ所の一里塚があったとされるが、現存するものは、ここ上砂と千葉市千城台東、富田町の3カ所のみである。
 これらの一里塚は、まっすぐに街道を結ぶための目印として築かれたと考えられており、それぞれの塚の距離は約4.7kmである。
 江戸時代初期に築かれ、ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されているこの一里塚は、江戸時代の交通文化や、徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財である。
※この一里塚は、土地所有者が長い間守り続けてきな貴重な文化財です。塚に登ると土が崩れてしまいますので、絶対に登らないでください。

 

来た道を振り返る。

何回も上り下りを繰り返す街道。

こうして広大な田園地帯へ。

                          

 この辺りは、太郎坊(たらんぼう)という地名。
 天正十年(1582)東金城主酒井小太郎定隆・土気城主酒井胤治父子が椎崎(しいなざき)(山武郡山武町)城主椎崎三郎と争った小間子(おまご)・吉田の原の戦い跡で、勝者の酒井小太郎定隆の小太郎の名を取り、「太郎防」のち「太郎坊」となったといいます。

(12:54)途中の民家の脇に「御成街道」の解説板。
御成街道
 御成街道は、慶長18年(1613年)、徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、近隣九十数ケ村の農民を動員し、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜を問わず突貫工事で一晩のうちに、または三日三晩で完成したという伝承があり、別名「一夜街道」や「提灯街道」、また家康にちなんで「権現道」などとも呼ばれている。
 この街道は、将軍の鷹狩りのために使用され、家康、秀忠、家光の三代将軍が鷹狩りに興じた記録がある。しかし、単に鷹狩りのための道ではなく、軍事等の政策上の意図があったとも言われている。
 街道は船橋-東金間約40kmをほぼ一直線に結んでいたが、今では大部分が拡幅舗装や耕地整理等により姿を変えたり消滅してしまい、旧街道の面影を残す場所は八街市沖地区(一部市指定史跡)と東金市滝地区の山林の中のみとなってしまった。
 なお、ここから西へ約1kmの場所に「一里塚」が残り、東へ約500mの場所に鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」がある。

(「今昔マップ」より)
直線が「御成街道」。○のところに解説板あり。旧道の上が新道としての「東金街道」。

 (13:00)しばらく進むと、鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」。


          周囲を森に囲まれた静かな趣。
 この付近一帯は、南北に連なる低湿地帯で、田んぼや沼地が続いていたようです。現在のように池として整備されたのは、近年のこと?


1880年代のようす。旧道は破線の道で少し曲がっています。池の表示はありません。「今昔マップ」には地名として「ビンダライ」とあります。


2010年代のようす。池の形から谷津(谷戸)の一部を形成しているようです。街道の北側にも池があった? 街道も直線化されています。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その3。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-03 18:47:12 | 東金御成街道
             ほぼ一直線ですが、けっこうアップダウンがあります。谷津(谷戸)と丘陵地帯が交互に現れます。

道ばたにはヒガンバナが。

 (11:00)「おなりみるく工房」をすぎて、「袖ケ浦カンツリークラブ新袖コース」にさしかかると、道筋には台風15号の爪痕が。
フェンスが壊れ、倒木が目立ちます。

                          道路の左側のようす。

ゴルフ場内の倒木。しかし、グリーンなどは被害が無く、ゴルファーの姿も。


                                   

(11:17)道路上では、かなりの距離にわたってNTT通信施設の復旧工事中。
 

愛媛ナンバーの車も。「通信施設災害復旧車」。

暴風雨のせいでしょうか、畳が何枚も。

(11:26)道が左にカーブするところで、「八街市」に入ります。

 そこで、「東金御成街道」は、森の中に消えていきます。街道消滅の解説板が上方に。


                      
 御成街道は、徳川家康が初代の佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、船橋-東金間約40キロメートル余をほぼ一直線に結んでいた。
 現在は殆どが舗装され、旧道の面影を残している部分は八街市沖地区と東金市滝地区のごく一部となってしまった。
 八街市内では、この後ろの山林中に僅かに昔の面影を止める地区があり、市指定文化財(史跡)に指定されている。
 ここから西の四街道方面へ走る街道は御成街道を舗装したもので、陸上自衛隊下志津駐屯地で一部途切れてはいるが、船橋市まで続いている。

向こうの森の中、あるいは畑地に消えてしまったのか? 

(11:31)「風景谷(ふがさく)」コミュニティバスのバス停。
 ちなみに「おまごバス」の「おまご」とは「小間子」という地名から来ています。

(11:42)現在の道を進み、「沖十文字」交差点を右折します。そこで小休止。

「旧街道跡」の東西方向の表示。

西北側。ただし、この道ではなさそう。

東南側。道は不明。

(「今昔マップ」より)
 明治中期以降、旧街道は廃道に近い状態になり、わずかに部分的に破線で記されているのみ。
 明治に入ってから、農地開墾(現在は、多くは住宅地などに)の対象となったため、旧道はほとんど失われたようです。




2010年代のようす。○の中の直線(道路から玄関まで)が旧道跡のようです。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
右下に位置する「旧街道跡」の表示板、さらにその先、旧道復活地点とも直線でつながっています。

(12:11)ラーメン店「悟空」。

この先を左折し、道なりに進むと、旧街道に復活します。地元の方々によって、廃道状態の旧道を整備・復活させた、と思われます。


             

                     (12:19)復活地点。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その2。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-10-01 22:50:07 | 東金御成街道
                        田園風景が広がります。
                         栗畑。

名産のピーナツ畑。

ハウスのイチゴ栽培。

(10:18)しばらく進むと、右へ下る坂道が旧道。

広い道につながります。
右手の高台には、中田やつ耕園(中田都市農業交流センター)。
 本市の主要な農業地域である鹿島川流域(15町4,100ha)のいずみ地区を対象に、都市部と農村部の市民交流を促進し、農業振興と地域の活性化を目指す「いずみグリーンビレッジ事業」の交流拠点施設の一つです。
 農作業を楽しめる市民農園を中心とし、そのほかにも野バラ園や芝生広場などがあり、レクリエーションの場として活用できます。


(この項、「」(中田市民農園管理組合)HPより)

          その先は田畑の中の一本道。
 

 「県道66号線」を横切り、曲がった急坂を下り、家並みを過ぎると、再び、真っ直ぐな街道へ。
来た道を振り返る。

(10:35)「富田入口」交差点。

左手一面に田んぼが広がります。

 旧東海道歩きで目にした「飛び出し注意」の標識が。
 
                                               「真光寺」とあります。
しばらく進んで、振り返るとそりたったような本堂が。

                               

その先も豊かな田園風景。
 

けっこうきつく長い上り坂が目の前に。

富田の集落に入ります。

その先、右手奥に椎の木の古木。一里塚だったそうです。

(10:54)その手前の長屋門。先日の台風で傾いてしまったようです。

                                

それに気を取られて椎の木を撮り損ね、通過。右手前にあるはず。
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千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-09-30 19:00:54 | 東金御成街道
                    9月28日(土)晴れ。
 「東金御成街道」歩き。
 今日で、終着地までの予定。というのも、歩くコースには、路線バスはなく、コミュニティバスがあるのみ。当然、鉄道はなし。「東金」駅まで行かなければ・・・、と。

 (9:22)前回の「御成台1丁目」交差点まで戻って、再開。東に向かいます。

いきなり急坂。けっこうなアップダウン。
                       車道が急に狭くなり、車が坂道をすごい勢いで下り、そして上ってきます。冷や冷やしながらの歩き。
右手は公園、池も見えます。

やっと道幅も広くなって一安心。

と、後ろを振り向くと、「ちょうちん塚」が。
 

 直線の道をつくるために、昼間は白旗、夜は提灯を目印として、小高い場所に掲げたといわれていて、その目印となった場所が、その後、一里塚となったようです。道路の向い側にも同様の塚があったようですが、現在はもう残っていません。

そこから来た道を振り返る。
 これから先、道はまっすぐですが、アップダウンが続きます。

 (9:33)上り坂の途中で、「金親(かねおや)」という宿場(間の宿)に向かいます。もともとこの道は直線でつながっていました。


車も少なくなってのんびりと。

1880年代のようす。直線になっています。

2010年代のようす。新道ができています。

「手打そば はづき」。
  

左手に長屋門。

「御成街道」。この付近に「高札場」があったか?

「長屋門」のあるおうちが続きます。

                        

                               

「大宮神社」入口脇に「御成街道」の解説板。
御成街道
 ・・・家康の命令を受けた利勝は、沿線96か所の名主を召集して村ごとに工事区間を雨時区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。・・・
来た道を振り返る。

(9:51)「金親町」交差点で県道53号に合流し、しばらく進むと、旧道の表示があります。県道は左に曲がりますが、旧道はそのまま直進。
 

ほんのわずかですが、旧道が残っています。振り返る。

広く、整備された道を東進。
 

(10:00)左手に御茶屋御殿跡が。

                         
御茶屋御殿跡
 徳川家康が東金への鷹狩りのために休憩所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されていましたが、寛文年間(1661~72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払われたものと考えられますが、跡地はよく旧態を止めています。
 御殿跡は一辺約110mの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ヶ所の出入口があって、その内側に枡形土塁が構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
  

 まだ台風15号の爪痕が残って歩きにくいので、奥の御殿敷地跡までは行きませんでした。 

1880年代のようす。○が御殿跡。土塁が残っています。

2010年代のようす。右の野球場くらいの大きさ。
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JR都賀駅~千葉都市モノレール「千城台」駅。その2。(「東金御成街道」をゆく。第1日目+α。)

2019-09-24 18:59:11 | 東金御成街道
                          開発が進む中、まだまだ緑が残っています。

「御菓子司 麻布菊園」。
 「麻布」という地名と「菊園」という屋号のいわれは?
屋号 菊園 のいわれ
 先代菊園店主は、加賀百万石の城下より身をおこし、大正・昭和の御代を通じ宮中に於いて和菓子を以って御奉仕してまいりました。
宮中御儀式及び両陛下宮様方御日常の御菓子をはじめ宮中の秘菓名菓を誠心込めて謹製し、昭和三十年、長い宮中奉仕の大任を終えました。
その際、菊の園生の愈々栄えまさんことを願い、故 入江相政侍従長より『菊園』との屋号を戴き、現在に至ります。


       予約が多く、生産がまにあわないほどの人気お菓子。

(この項、「」HPより)

 けっこう車がやってきます。なかなか繁盛しているようす。

台風の影響で竹もやられています。

こちらの森も。

「若松町」交差点手前に、旧道。「佐倉街道古道」。

「国道51号線」との交差点「若松町」。
 「国道51号線」(=「佐倉街道・「成田街道」・「佐原街道」)は、佐倉~成田~佐原まで歩いた時、けっこう重なっていた国道になります。

角に小休止できるようなベンチがいくつか。

交差点を越えて、真っ直ぐに進みます。

 

 右手に「小倉自然の森」(市民緑地)」。ここも台風の被害で倒木多く、立ち入り禁止となっています。


                         

「植草学園大学」。

「春日神社」の先の「御成台1丁目」交差点。
 この先の街道はぐっと狭くなります。今回はここまで。
 右に折れて、千葉都市モノレール千城台駅に向かい、今日の下車駅「都賀」まで戻ります。
 

 学生などでけっこう混んでいます。
 懸垂型モノレールとして営業距離世界最長を誇るらしい。

都賀駅。遠ざかるモノレール。

               (「Wikipedia」より)



1880年代のようす。斜め直線が「東金御成街道」。


2010年代のようす。左下にモノレール「千城台」駅。
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JR都賀駅~千葉都市モノレール「千城台」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第1日目+α。)

2019-09-20 19:35:29 | 東金御成街道
                           ここを右に曲がった道が旧道の名残。


      ○が鎌池交差点。この少し西から街道が復活。左下に「都賀」駅。(「今昔マップ」より)

 前回、当初は「千城台」駅まで歩く予定でしたが、途中でリタイア。次回の歩きを考えると、当初の予定のところまで行った方が得策。午後から晴れ間も出てきたので。

9月15日(日)。晴れ。

 しかし、台風15号の被害が甚大な千葉県。興味本位ではいけないな、と。
 歩いていると、県南ほどではないようですが、歩いた沿道の樹木にはそうとう影響があったようす。

 JR総武本線「都賀」駅下車。線路沿いに北に向かい、「鎌池」交差点まで、約25分。自衛隊駐屯地東側のきわところから、「東金御成街道」が復活します。


       交差点までのわずかな区間が街道の名残(道幅が当初のまま)。

「鎌池」交差点。

「御成街道」という表示。このあとも、街道沿いに、この表示が立っています。

JR総武本線の踏切を越えます。

左手に緑が広がります。

 その先、右手。駐車場と街道の間、少し盛り土になったところに樹木が生い茂っています。ここが「焼塚」という「一里塚」だったと言われています。特に説明板とかはありませんが、船橋から3番目の一里塚。


                     

 事前に知らないと、そのまま通りすぎてしまいそう。先達に感謝します。
 

その先に「御成街道」という表示。

振り返る。左手のところが「焼塚」。

真っ直ぐに進む街道。

「御成苑」。

 街道の左右には木々の深い緑が。しかし、先日の「台風15号」の爪痕か、折れているもの、倒れているものなどが目につきます。
 

                           

草花も根こそぎ倒れてしまっています。

途中で折れてしまった杉。

      かなり無残なようす。地面には落ちて枯れ始めた木々が。

それでも足下には可憐な花。
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その4。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-18 18:49:16 | 東金御成街道
                             (12:34)「犢橋(こてはし)」の宿に向かいます。
旧家の大きな屋敷が目立ちます。


下って、また上りの坂「油作の坂」。

旧道の一部が残っているそうです。お堂の脇の左手の道。
 御成街道はほぼ直線に造成されたが、このあたりは工事を担当した村と村の接点で、東に向い工事してきた村と西に向かい工事してきた村とが目測を誤り、直線道として結びつかず、互いに主張を譲らなかったために曲がってしまったとか(「坂道散歩」さんのHPより)。

 以下、「房総史譚」HPより

2009年12月25日 (金)
御成街道の犢橋宿を想う
 御成街道の「犢橋宿」は、街道沿いに人馬継ぎ立ての業務を行う「問屋場」の他、旅人相手の旅籠屋(渡辺屋・花嶋屋など)・茶屋(新茶屋)・酒屋・駄菓子屋・餅屋・荒物屋など、15軒ほどの店屋がありました。
午後になると、華美な着物を着た「宿場女(飯盛女)」が立ち、行き交う旅人に声をかけ、また、夜遅くまで三味線の音が聞こえていたという。
・・・

「犢橋局」バス停。

実りの秋。

(12:58)「東関東自動車道」の「宮野木料金所」が右手に。

                    

マンション前の巨木。かつてもこんな並木が。

その隣に旧家らしい趣のおうち。



                     家の塀も道もどこまでも真っ直ぐ。



 (13:24)しばらく進むと、「長沼原」交差点。右の歩道が斜めに広くなっています。


               向かいは、「住友建機」の大きな敷地。

来た道を振り返る。

 ここで、「東金御成街道」は消滅します。元の道は、住友建機、その先の工場地帯、さらに自衛隊の駐屯地の中を一直線で通っていました。

 (「今昔マップ」より)
         赤い直線が「東金御成街道」(消滅部分)。

 行き止まりなので、来た道をそのまま道なりに進みます。 
「住友建機」。
 
 この先、「六方町」交差点を右折し、自衛隊駐屯地を迂回して、復活地点へ行くこともできます。
   

(13:48)が、今回はここまで。バスで「四街道」駅に向かいます。
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その3。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-17 18:54:45 | 東金御成街道
                         (11:05)街道に戻って東に向かいます。

街道筋らしい旧家がいくつかあります。

                         

         「長屋門」風のおうち。

街道はまっすぐ延びています。

「長作」交差点の角にも立派なお屋敷が。

「はばたけ未来へ 長作っ子!」
                    創立140周年の小学校。

千葉市のマンフォールの絵柄。
               「大賀ハス」、市の木「ケヤキ」と市の鳥「コアジサシ」を描いたもの。

 最近、新しいデザインのものができたそうです。「マンフォールカード」より。


 ちなみに、千葉市の市章は、千葉氏の家紋「月星紋」をモチーフとしているそうです。

緩やかにアップダウンを繰り返して進む街道。

(11:30)「天戸台」交差点。
               「四街道」という地名が。

 12時前ですが、右手にある中華料理店で昼食、休憩。

再開。(12:08)右手に椎の大木。


御成街道と古木「椎の木」
 御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37㎞)道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、・・・
 ここには、街道に面して、樹齢がそうとう経った椎の木の根元近くに、「六十六部供養塔」天明7年(1787)が建っています。これは、巡礼六部行脚の供養碑で、天戸村の人々の伝える貴重な文化遺産です。・・・

        

 その先、左手に「花島観音入口と石塔」解説板。
 
・・・御成街道と南は袖ケ浦(東京湾)へ北は印旛沼へ出る「検見川道」が交差しているしているところです。このあたりは享保7年~8年頃まで牧場でした。習志野原は江戸時代徳川幕府が下野牧(野馬)を経営していたところで、 検見川道を行き交う人々は牧場を通って往来してきました。・・・

「検見川道」。

畑地が広がる。

 坂を下ると、「花見川」に架かる「天戸大橋」。上流に「花見川大橋」(↓)。


 花見川はもともと、現在の花見川区犢橋町など旧千葉郡内を水源として東京湾(江戸湾)に注ぐ小さな川に過ぎなかった。江戸時代1724年以降、印旛沼の洪水対策と干拓を目的として、同じく千葉市横戸町付近を通り印旛沼へと注ぐ勝田川、高津川 (千葉県)等の水系を花見川と結ぶ疏水工事(印旛沼干拓)が幾度となく繰り返された。これらの掘割(疏水)工事は全て失敗に終わった。江戸時代の工事に携わり死亡した人足の共同墓地が、流域の各所に存在する(千葉市花見川区横戸台など)。
 戦後になり新たな設計で放水路が起工され、1969年に現在の印旛放水路が完成した。

 江戸時代の利根川東遷事業の影響により利根川とつながる事となった印旛沼は、利根川の水位上昇によりたびたび洪水が発生するようになり、周辺の農業等への被害が深刻なものとなっていた。この印旛沼の水位上昇を東京湾に放流するため、中間地点に揚水施設「大和田排水機場」を設置し、一度汲み上げて分水界を越えた先の東京湾へ排水するという特殊な放水路である。
 途中の大和田排水機場を境にして印旛沼側の掘割工事により開削された疏水路部分である「新川」と、東京湾側の自然河川である「花見川」とを合わせて「印旛放水路」と呼ぶ。
 河川管理上は、花見川より低地である新川が印旛放水路の上流にあたる。これは大和田排水機場の排水が新川から花見川へしかされないためである。

(以上、「Wikipedia」参照)
 
                    下流方向。
この付近の今昔。

1880年代のようす。「花見川」は小川にすぎない。周囲に畑地が広がる。


2010年代のようす。「花見川」は整備されていますが、畑地は以前と変わらず。

「犢橋(こてはし)」への上り坂。少し木に覆われた道。

(12:28)「広尾」十字路。交差する道路はかつての軍用鉄道線跡。
  

(「今昔マップ」より)
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その2。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-13 18:48:28 | 東金御成街道
                             どこまでもまっすぐな街道。

右手に「張替酒店」。

                    

 以下の項は、「」HPより。写真も。

・・・
 4代目店主の張替正信さんに、お話を聞きながら店内を案内してもらいました。

 張替酒店の創業は1905年(明治38年)で、今年でなんと創業114年になります。
 この建物は昭和6年に建てられて、今もなお現役で実際に住居としても使っているというのだから驚きです。釘を1本も使わずに組み上げられたそうで、今でも改修などで大工さんが来るとみなさんその技術の高さにビックリすると言います。

 大久保は現在の日本大学、東邦大学のあった場所に陸軍騎兵旅団の指令本部が置かれており駅前から続く商店街も含めて周辺には御用商人が軒を連ねていました。だから歴史あるお店もいまだに残っていて、張替酒店もその一つ。

 騎兵出身だった初代の張替一郎さんがお店を立ち上げ、以来終戦まで御用商人として軍に出入りしていました。そのため敷地の奥には、軍の偉い人を招いて宴会を開く離れもありました。

 なんと離れは今も現存している!特別に見せていただいた。

離れ。

 この場所で生まれ育った正信さんは、学校を卒業して一度は旅行会社に就職し、添乗員としてツアーの案内で全国を回りました。その後実家に戻り父の手伝いを始め、30年以上酒屋を一緒に営みました。

昔、酒樽を置いていた棚もそのまま利用している。

 自分の生まれ育った家でもあり、素晴らしい造りなのでなるべく綺麗に残したいと、店内のレイアウトも昔の良さを崩さずに現代的なレイアウトに変えていったという正信さん。
 自分が美味しいと思ったお酒は直接蔵元へ行き仕入れ先を開拓して行きました。

「今はお酒もネットで買う時代ですが、好みを聞いて、それに合うお酒を会話の中で提案していくというのは、やっぱり対面販売ならではですよね。加えてこうして残している古い建物をお店に来て見ていただけるのも、一つの楽しみにしていただければ嬉しいですね」と語ってくれた。
 確かに酒を買うだけならコンビニでも買えるこの時代。それでも張替酒店が続いているのは脈々と続く歴史に裏打ちされた信頼あってのものでしょう。それに加えてこのお店、建物そのものが魅力の一つになっていますね。
 まだ行ったことがないという人は、是非一度訪ねて見てはいかがでしょうか?
・・・

来た道を振り返る。左手に「張替酒店」。

1900年代。陸軍騎兵聯隊。(「今昔マップ」より)。

2000年代と比較。(「同」)

京成「大久保」駅付近の賑やかな通りに。ユニークな建物。



            「日大生産工学部実籾キャンバス」が左手に。

 「京成本線」の踏切を越えます。左手に「実籾」駅。

踏切を越えた付近に「一里塚」があったようですが。

右手奥、「実籾本郷公園」に古い住宅が残されているという案内があるので、坂道を下っていきます。

鴇田(ときた)家住宅(裏手から)


 旧鴇田家住宅は、享保12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成)街道沿いに建築され、江戸時代に実籾村の名主をつとめた鴇田家の住居として、平成3年(1991)まで使用されていました。平成12年10月にほぼ建築当初の姿で移築復元され、同年11月に開館しました。
L字型に曲がった主屋は、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋(まがりや)」であり、南関東ではきわめて珍しい建築様式です。また、身分の高い人が来訪した時に使う「ゲンカン(玄関)」や、その供の者が待機した「トモマチベヤ(供待ち部屋)」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。(「解説文」より)

建物の規模、規格。


          「曲屋(まがりや)」形式の主屋。

    

                          

 土間のカマドでは火を焚いていて、煙が漂い、いぶされた雰囲気が懐かしい。

「上宿庭(かみじゅくてい)」。

 この鴇田住宅のある「実籾本郷公園」は、けっこう木々も多く、広々としたアヤメ畑や湿原などもあって、ゆっくり散策できるところ。小休止しました。
                    案内板。
カルガモの集団が水辺に。

この地域にまつわる民話なども解説板に。



1880年代のようす。湿地帯と畑地とが区分されていて、今の「実籾本郷公園」は谷津・谷戸(谷筋)にあたる。



2010年代のようす。中央上に、京成線「実籾」駅。斜め直線の道が「東金御成街道」。中央左が「実籾本郷公園」。

 「東金御成街道」はほぼ直線で貫かれていますが、丘陵地帯と谷戸とをほぼ交互に進むので、けっこうアップダウンが多い道となっています。
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-12 19:34:40 | 東金御成街道
 今回からの街道歩きは、「東金御成街道」。

 御成街道は1613年12月、徳川家康が東金へ鷹狩りに出かけるために作られた。
 家康に命令を受けた老中佐倉藩主土井利勝は船橋~東金間約37キロに及ぶ沿線の村々97ヶ所の明主を召集、村ごとに工事区分を分担させ、農民を動員し、昼夜兼行で造ったところから別名「一夜街道」「提灯街道」、また家康の名をとって「権現道」とも呼ばれている。
 下総台地の分水嶺を西南にほぼ直線につづく御成街道は道幅3間(約5.5m)、両側には松が植えらえ、小川には橋を架け谷間には土手を造り、船橋市本町4丁目、千葉市御殿町、東金市県立東金高校敷地の3ヶ所に宿泊所が建造された。
 御成街道のように真っ直ぐに造られた街道はとてもめずらしく北海道の一部を除いて他にない。
 現在の御成街道は造成や開発などで一部寸断されているところや、立派に舗装された箇所も多くあるが、街道の道筋がほぼ当時のまま残り、鷹狩りに向かう家康の面影を思いながら探訪すると楽しい。


(「」HPより)

 船橋市本町から東金市田間、山武市小松までの約37 kmをほぼ一直線に結んでいる街道である。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。
 至極短期間の工期で作られたとする伝承があるが、誤りであることが史料などから確認されている。沿道の村々の農民たちが石高に応じて駆り出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、提灯街道、一夜街道とも呼ばれるが、実際は慶長19年正月に着工し、数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した。
 なお、東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道、あるいは御成新道と呼ばれ、別のものかつ後から造成されたような印象を受けるが、実際には山武市小松までを含めた御成街道全体が同時に造成された。
 道中には将軍が休息・宿泊する為の施設として船橋御殿(現・船橋東照宮)、千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)、東金御殿(現・千葉県立東金高等学校)、土気御殿(大網白里町池田)が造られた。千葉御茶屋御殿と千葉御殿は別の物件であり、現在の千葉市内には御殿が二カ所存在していた。

(この項、「Wikipedia」参照)

 8、9日に襲った「台風15号」の甚大な被害。鉄道、電気、水道などのライフラインの復旧がままならぬ千葉県内。農作物などの被害も掌握できず。マスコミは内閣改造の話題が中心。そういえば、アベ自公政権はこうした内閣改造にうつつをぬかして、災害対策はいったいどうなっているのでしょうか? また千葉県の森田知事は・・・。

 今回歩いた地域の状況はどうだったのか? そして現状は? と大いに気になります。

 9月7日(土)。晴れ。 

 「船橋」からの道は省略し、JR総武線「津田沼」駅を降りて、いったん西に向かい、「成田街道(佐倉街道)」との分岐まで戻って、そこから歩き始めます。
 
  「成田街道(佐倉街道)」との分岐点。左手の角に「左 成田山道」と刻まれた大きな道標。

解説板。
御成街道(東金街道)について
 御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の名を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。
 家康の東金への鷹狩り等のために作られたとも言われ、船橋から東金までほぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り、東金周辺で鷹狩り等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成りになるというので、御成街道と呼ばれたと言います。

 (前原西1丁目)は 成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面は「成田山 従是房総街道」(東金街道を房総街道としています。)左側面には「成田山道」と刻まれています。

 江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次のようにおかれていました。
 ①一里塚  習志野市実籾
 ②向山   千葉市花見川区犢橋
 ③焼き塚  千葉市若葉区若松町
 ④提灯塚  千葉市若葉区千城台東
 ⑤椎の古木 千葉市若葉区富田町
 ⑥一里塚  八街市上砂
 ⑦殿山   東金市黒田
  一里塔  東金市
(⑦が2つあるのは表道と裏道の2つの道筋があったため)


分岐点付近の今昔

1880年代のようす。北に向かうのが、「成田街道」。東に進むのが「東金御成街道」。この当時は、「成田街道」の方が広い道だった。


2010年代のようす。現在は、「津田沼」駅へ向かう道でもあるので、こちらの方が広い通りに。

(9:26)「津田沼十字路」から「新京成線」の踏切を越えます。

 しばらくすると、「習志野市(藤崎)」へ入ります。まっすぐな道ですが、思ったよりアップダウンがあります。
 

(9:38)左手に旧家らしい大きな屋敷。

↓が「東金御成街道」。(南北を入れ替え)。左が「津田沼駅」方向。

四つ角に「東金御成街道」の解説板。

                       
 東金街道は、徳川家康が上総国東金(現東金市)での鷹狩りに向かうための通行路として造られたと言われ、御成街道とも呼ばれます。船橋を起点として、市内の藤崎・大久保新田・実籾を通り、犢橋(こてはし)・金親(かなおや)・小間子牧(おまごまき)を経て東金に至る約37キロメートルの道です。

 慶長18年(1613)12月、家康は翌年正月に東金で鷹狩りを行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じ、沿道の村に工事が割り振られ、「提灯街道」「一夜街道」の別名があるように、昼夜兼行の工事でごく短期間のうちに完成させたと伝えられています。
 ただし、家康がこの道を初めて使ったのは元和元年(1615)11月ですので、実際の完成はこの頃だったと考えられます。
 この道は鷹狩りのためだけでなく、政治的・軍事的な理由から造られたという説があり、また、家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・庶民の視察などの目的もあったと言われています。
 徳川秀忠も鷹狩りのためにこの道を何回か通行しましたが、寛永7年(1630)を最後に東金での鷹狩りは行われなくなり、この道は役人の通行路・民間の物資輸送路・庶民の生活道となり、大部分は今日も道路として使われています。
 なお、ここから南東100メートルほどの位置に一部が残る藤崎古道は、東金(御成)街道以前の道の名残であると伝えられています。

1880年代のようす。「藤崎」地区がまとまりのある集落。

2010年代のようす。左に「津田沼」駅。

周囲には緑が多くありますが、街道筋には木々がありません。

(9:55)しばらく先、右手の造園会社のデコレーション。

   夜は、さぞかしきらびやかに。

けっこう暑くなってきたので、日陰が欲しいところですが。
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