おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その4。刑部岬の先端。「屏風ヶ浦と刑部岬」。沖合洋上風力発電所。東日本大震災の被害状況(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-28 19:36:45 | 銚子往還

断崖絶壁の下は、

                太平洋の海が広がる。

           

                           刑部岬の先端。

「屏風ヶ浦と刑部岬」。

飯岡台地が断崖となって太平洋に落ち込む屏風ヶ浦は、高さ60m、現在地には飯岡灯台がたち、刑部岬と呼ばれている。灯台周辺は公園に指定されており、水平線と九十九里浜が織りなす眺望は、昼夜を問わず絶景であり人気が高い。

ここ刑部岬から銚子市名洗にかけて、高さ40~50mの絶壁が屏風のように約10㎞にわたり続いており、屏風ヶ浦は俗に「東洋のドーバー」と呼ばれています。太平洋の荒波が直接打ち寄せるため、その浸食により形成されたもので、700年余りに約6㎞近く陸地が後退したといわれています。

平安時代末期にはこの地に源義経の四天王の一人、片岡常春が佐貫城をかまえていたが、その城跡は激しい浸食による海岸線の後退で今では海中に没してしまい、昔の姿はありません。わずかに地名でサヌキとして残っております。

文豪山本有三の小説「波」に出てくる「ビョウブのように突っ立った岩」とは主人公が盛岡出身で飯岡の海を紹介しているところです。

※ドーバー海峡の両側の英仏とも海底含め同じ岩石であるチョークでできており、海峡になる前の氷期は地続きであったと考えられる。これより北海側に存在した氷河との間に、ライン川やテムズ川から流れてきた水が湖を形成したが、何らかの作用で決壊し浸食した所が現在の海峡で、氷河期後に海面下に没したものと推定されている。

(この項、「Wikipedia」より)

国内初の着床式の沖合洋上風力発電所(↓)。
2009年8月より、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(以下、NEDO)の公募事業として研究を開始し、風況・海象の把握、海洋構造物が環境に与える影響などについて調査を行ってきました。
2013年1月からは、NEDOと共同で本設備による実証試験を実施し、2019年1月1日より商用運転を開始。

方位標。

「飯岡刑部岬展望館」。

 遠くに続く「九十九里浜」。

        

                        

・・・ 

九十九里浜は、「旭市(旧飯岡町)刑部岬」から「いすみ市(旧岬町)」のあいだ66キロメートルの海岸をいいます。
 源頼朝が太東岬から刑部岬の間を6町を1里とし、1里ごとに矢を立てたところ99本にたっしたことから九十九里とよぶようになりました。

九十九里浜のちょうど真ん中は山武市!?
 1町は約109メートル。計算すると6町×109メートル×99里=64,746メートルでほぼ一致します。
 『蓮沼村由来分地録』に「六町を一里に積り」や九十九の半分にあたる、49本目の矢を蓮沼の箭挿(やさし 矢指ともいう)神社に奉納したと書かれているなど、後世の作為も伺えますが、九十九里浜のへそは山武市蓮沼です。

九十九に関係した地名
九十九里浜には九十九を意識した地名があちこちに見うけられます。山武市のとなりの九十九里町、大網白里町、白子町などがそうです。
 白は百に『一』が足りないことから九十九を指します。ちなみに、九十九歳のお祝いを白寿)と言います。

九十九を「つくも」と読む理由
 百は「もも」とも読みます。つまり百に次ぐ(つぐ)「ツグモ」が訛り(なまり)「ツクモ」と呼ぶようになりました。

九十九のもう一つの意味
 九十九折り(つづらおり)・九十九湾(つくもわん)・九十九島(くじゅうくしま)のように「多く」「たくさん」をさす言葉です。

(この項、「山武市・さんむしキッズ」HPより)

・・・

展望館からの飯岡漁港。

このフロアには展示コーナーがあって、13年前の東日本大震災の被害状況が写真展示されています。

当時、旭市が大きな被害を受けたことは知っていましたが、どうして九十九里浜で大きな被害が出たのか、という程度で関心がないまま、今日まできてしまいました。

千葉県九十九里浜北端の旭市飯岡海岸では,3.11 の地震津波により大きな被害が出た。特に,飯岡海岸に沿う九十九里ビーチライン(県道 30 号)と市街地内を走る道路沿いの民家や商店を中心に死者 13 人,行方不明 2 人,全壊 427 棟,半壊 335 棟,床上浸水 387棟(朝日新聞 2011.4.10 現在)の大災害となった。下永井の飯岡漁港の防波堤を越えた最大 6mの津波は,その後飯岡の市街地を襲い,中心部ではビーチラインを越えて場所によっては標高 5m付近まで駆け上がった。海岸の波打際から 200mほど内陸の旧農協裏の住宅(標高 3.7m地点)では,津波によって 1.54mの高さまで浸水した。

ベストアンサー

(「」より)

         

報じられないことは「仕方がない」 東北の陰で「忘れられた被災地」は 【#あれから私は】

 それから10年。今もさまざまな活動が地元で続いている。昨今、高齢化や新型コロナ禍の影響も受けているが、自分たちの暮らす地域で起きた出来事や教訓を先につないでいこうという思いは変わらない。

(2021年3月6日 14:00 |「千葉日報」銚子・海匝支局 橋本ひとみ)

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その3。眼下に飯岡漁港。「希望の鐘」。TVドラマのロケ地。「あしたのジョー」ちばてつや。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-27 21:34:27 | 銚子往還

眼下に「飯岡漁港」が広がります。

飯岡の町並み。

           右奥の遊歩道を上がってきました。

遠く九十九里浜が連なる。

けっこう高台に上がってきます。左手奥が刑部岬の先端。

「飯岡刑部岬展望館」が正面に。

屏風ヶ浦先端に立つ「飯岡刑部灯台」。

  

眼下に広がる大海原。

  「希望の鐘」。

2011年3月11日東日本大震災が発生し飯岡地区も大地震、大津波により多大な被害を受けました。震災の早期の復活と強く生きることを祈願して飯岡ライオンズクラブはこの地に「希望の鐘」を設置しました。ここでぜひ鐘を鳴らしてみてください。心地よい鐘の音が未来に向けてすべての皆様の幸せの金になりますよう希望いたします。

        

「打ち上げ花火 下から見るか 横から見るか」ロケ地。   

東日本大震災により大きな被害を受けた本作のロケ地と東日本復興への願いをこめて」と、2011年7月22日から8月31日まで岩井俊二の公式サイトにて、無料で動画配信された

※Aパート、Bパートがあるようです。

Bパート
足をぶつけることなく勝った典道はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われ、男友達にも「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」と誘われるも、ギリギリまで粘った典道はなずなとの約束を優先し、バスに乗り駅で降りた。なずなは時間が経つにつれ態度を変え駆け落ちせずバスで戻り、学校のプールに忍び込み水遊びをした後、「2学期で会おう」と叶うことのない約束をして典道の元を去っていく。一方祐介達は灯台に向かうも花火はすでに終わってしまった。典道は祭りで彼氏を連れた三浦先生から花火師を紹介してもらい、一発の花火を打ちあげてもらう。典道は下から、祐介達は横から花火を見ることができた。

使われている楽曲は、全曲REMEDIOS(麗美の別名義)によってこの作品のために書き下ろされている。

この作品の撮影はプロデューサーの原田泉がこのドラマのプロットを読み、この町以外にないと断言した千葉県海上郡飯岡町(現在の旭市)で実際に行われた。また、ロケは飯岡町以外に千葉県海上郡海上町(現在の旭市)、旭市の隣の市である銚子市でも行われており、子供たちが通う小学校は銚子市立豊岡小学校で当地の生徒をエキストラに撮影された。

特に、典道となずなが電車を待つシーンで使われた飯岡駅、典道の自宅として使われた釣具店などは、放送後数年間に渡り、この作品のファンが訪れる姿が見られたという。この地は、この作品の大ファンである山崎貴が監督して2000年に公開された映画『ジュブナイル』の舞台にも使用された。

(この項、「Wikipedia」より)

「ちばてつやが育った町(『あしたのジョー』・矢吹丈)」。

※敗戦後、中国・満州から引き揚げてきた、ちばてつやの父親の故郷が飯岡町だった。

東京山谷ドヤ街に、ふらりと一人の少年が現われた。矢吹丈ジョー)と名乗るその少年に一方的に叩きのめされたアル中の元ボクサー・丹下段平は、ジョーと地元暴力団・鬼姫会の連中との乱闘から天性のボクシングセンスを見いだし、一流のボクサーに仕立て上げようと口説き始める。しかしジョーは、自分に向けられる段平の情熱を利用し、小遣いをもらってはドヤ街の子供たちを引き連れて乱行を繰り広げた揚げ句、犯罪にも手を染め、警察に逮捕されて少年鑑別所へと送られてしまった。

そんなジョー宛てに段平から「あしたのために」の書き出しで始まるハガキが届いた。その内容は、左ジャブの打ち方から始まるボクシング技術の講義であった。時間と体力を持て余していたジョーは、そのアドバイスに従ってボクシングの練習に身を入れるようになり、やがて自分のパンチの切れが、今までと比べものにならないほど向上していくのを実感する。

鑑別所から西寛一と共に野菊島の東光特等少年院へ移されたジョーは、豚小屋掃除の際に、西の提案で豚たちを暴れさせ脱走を試みた。しかし、ライバル・力石徹にその邪魔をされてコテンパンに叩きのめされた。その後、小馬鹿にしていた青山とのボクシング対戦で防御法を身に着けたものの、宿命の対決が再戦されないまま力石は先に少年院を出た。遅れて少年院を出たジョーはなんとかプロボクサーライセンスを取り、強引な手腕でウルフ金串との対戦を実現させて、フェザー級からバンタム級へ転向した力石との対戦をも実現する。

減量による力石の変わりようは見られたものではなかったが、激闘の末にジョーは敗れた。しかし、勝った力石は減量の無理がたたって試合終了後に倒れ、そのまま死亡する。力石を死なせたショックで対戦相手の顔面を打てずに満足な試合を行えなくなったジョーは、それでもボクシングを捨て去ることなく、ドサ回りのボクサーに身を落とし罵声を浴びながらも試合を続けるのだった。

ボクシングに対する苦悩の末、強敵カーロスとのスパーリングで顔面を打てないという後遺症を乗り越えて復帰を果たし、本格的にボクシングの道へと足を踏み入れることとなったジョーは、金竜飛ハリマオとの対戦を経て遂に、世界チャンピオンの座を賭け最強のボクサー・ホセ・メンドーサとの闘いに挑んだ。

しかし、パンチドランカーに冒されていたジョーは、善戦むなしくホセに判定負けを喫して敗れ去ってしまう。試合後、ジョーはグローブ葉子に手渡した。灰のように真っ白に燃え尽きたジョー。しかし、その顔には満足げな微笑みがあった。

(この項、「Wikipedia」より)

ということで、けっこう話題が豊富の岬でした。記念碑があといくつか続きます。

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その2。飯岡漁港。刑部灯台を望む。森の中の遊歩道・かつての往還道。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-26 20:42:58 | 銚子往還

飯岡漁港付近の今昔。

      

(1880年代)銚子港への道は、飯岡村(飯岡漁港)を抜けて、北東に向かいます。  

        

(現在)飯岡漁港付近は港湾施設が整備され、道筋は変化していますが、東側には旧道が残っています。

刑部灯台を望む。

 

釣り船が出航。 

           

灯台の方へ向かいます。

この道はかつての往還道。現在は、遊歩道になっています。

山を回り込みながら進む。

右に「海津見神社」。

                 通称「永井の妙見様」。 

急な石段を上っていきます。

坂道を振り返る。かつての往還道になっている。

50mほどの高さを一気に上がり、

                 灯台に向かう舗装道路に出ます。

 

銚子に向かう旧道はここから台地の縁を東に進みますが、次回に回すことにして、刑部灯台に向かいます。

この付近の今昔。  

        (1880年代)            (現在)〇が分岐点。

灯台への上り坂を行くと、絶景が待っていました。  

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その1。コミュニティバス。床屋談義。飯岡漁港。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-25 20:40:24 | 銚子往還

今回は、もう一つある「銚子往還道(従銚子港至千葉町道)」を歩く、その前に。

旧道に連なる「飯岡漁港」から刑部岬・灯台付近を探訪します。

4・19(金)。晴れ。

「旭駅」から旭市コミュニティバスを利用して、

「玉崎神社」下車。(ここまで運賃100円。)

※小学生、75歳以上、運転免許返上者は100円。通常は200円。数人乗ってきました。

飯岡漁港まで歩きます。

道路が整備され、新築のおうちが目立ちます。実は、それには背景があったのですが、後で知ります。

さらに、

19日に出かけた翌日、整髪に行ったとき。行きつけの床屋さん、飯岡の「三川」出身だということが判明。

「昨日、歩きましたよ。旭駅からバスに乗って、飯岡漁港から刑部灯台まで」

「高校まで三川に住んでいました」

そこから、話が弾んで、玉崎神社までのコミュニティバスの停留所を停留所一つひとつ挙げて、「三川」という停留所はないんですよ」と。

「八畝田」~「三川犬林」~「三川目那」~「三川曽根」・・・

そして、「3・11の東日本大震災で大きな被害があったんです。中学校も震災で高台の方に移ったんですよ」

「それでけっこう新しい家が目立つののですね」。

「自分がいた頃、30年前の話ですが、藁ぶき屋根の家もありました。自分の家は農家、兄貴が後を継いでいます。自分は、早く家を出ようと思ってました。高校を出たらすぐ、東京に」

「旭中央病院はずいぶん大きいですね。駐車場も広いし、満車でした」

「そうなんですよ、銚子の人や小見川の人もやってきます。このへんでは唯一の総合病院ですね。おじさんもおばさんもそこで亡くなりました。火葬場も旭にありますし」

・・・

海岸に出てきました。

                遠くに見えるのが「刑部灯台」。屏風ヶ浦の断崖上にあります。

飯岡漁港。

               

ここは、「屏風ヶ浦」の西端であると共に、南西に向かって「九十九里浜」が始まるところでもある。「九十九里浜」が始まるところでもある。

 

   飯岡漁港・刑部岬の東側が屏風ヶ浦、西側が九十九里浜。西が旭市、東が銚子市。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。柴崎町。利根水郷ライン。海上(うなかみ)。「銚子街道」との追分。銚子縮。水郷・田植え間近。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-23 20:16:07 | 銚子往還

総武本線・上りの電車。 

古い石塔。

旧道沿いの街並み。

「塙廣屋」。屋号?

「柴崎町」交差点。国道356号「利根水郷ライン」を横切る。

※利根水郷ライン=千葉県銚子市から、我孫子市に至る全線に渡って利根川右岸に沿う。

角に大きな記念碑。

「銚子市立海上幼稚園」。奥に「海上小学校」。

海上=うなかみ。

海上村(うなかみむら)は、千葉県海上郡に存在した。現在の銚子市の、おおむね松岸駅椎柴駅猿田駅の間の沿線に位置していた。

海上は広域地名であり、1954年から2005年まで存在した海上町(現旭市)は本村と位置も異なる別の自治体である。銚子市立海上小学校などにその名をとどめている。

いよいよゴール地点へ。

                 正面は、「藤兵衛支店」。

来た道を振り返る。

「銚子信用金庫松岸支店」。

佐原方面から利根川沿いを進む「銚子街道」と出会う(追分)。ここから飯沼観音までが銚子街道とされる。

今回は、ここを大網からの歩いてきた「銚子往還」(従銚子港至千葉町道)のゴールにします。

この付近の今昔。

(現在)〇が追分(今回のゴール)。赤い線が「国道356号(利根水郷ライン)」。

(1880年代)当時、銚子往還(従銚子港至千葉町道)との追分だったことがわかります。

松岸駅に向かいます。

少し銚子方向に戻り、右折。

銚子市のマンホール。

            中央に犬吠埼灯台と太平洋の波とカモメを描き、周囲に市の魚イワシをデザイン。

途中で見かけた「銚子ちヾみ」のお店(作業所)。

            「無形文化財 本場銚子ちヾみ 千葉県伝統的工芸品」。

       

解説板。

銚子縮(ちぢみ)

銚子縮の特徴は、木綿糸をスカイ、普通系の何倍もの縒りをかけた左縒りと右縒りの二種類の横糸を交互に通して織り込む。織りあがった生地を湯に浸けて揉むと、縒りが戻る時に互いに反発する弾力で生地に細かな凹凸ができる。これをシボ出しといい、何回洗っても縮まない丈夫な織物が出来上がる。縮の生地は丈夫で染色もしっかりしており、快適な肌触りの良さから広く庶民に親しまれている。

銚子縮の発祥は定かではないが、江戸時代後期に産業化したといわれる。しかし、大正時代を境に銚子縮の生産は途絶え、戦後、常世田真次郎氏が銚子縮の復活を心がけ、苦心の末に銚子縮を再興した。現在、銚子縮の製作技術は息子の秀雄氏を経て、孫の眞壱郎氏が継承している。

JR「松岸駅」。

「成田線」で成田まで、そこから京成線に乗り換えて帰宅しました。

総武本線・成東経由千葉行き。

成田線・車窓から。

            左手に東総台地。台地の南側から歩いてきたわけです。

小見川駅を過ぎると田んぼが広がります。

          

田植えも間近です。

「旭駅」からの「銚子往還」道は、今回の道だけではありませんでした。JR旭駅付近から東南に向かい、飯岡漁港を通り、東総台地の東の縁を歩き、国道126号に合流して銚子に達する道がありました。この道も旧「従銚子港 至千葉町道」。

次回、その付近を探ってみます。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。平地が広がる。キャベツ畑。総武本線「柴崎街道踏切」・成田線踏切。総武本線・成田線。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-21 20:50:11 | 銚子往還

収穫済みのキャベツ畑。

 平地が広がる。

「標高8.5m」。約50m下がってきたわけです。

前方遠くには「JR線」。

東方向。

西方向。

キャベツ畑。

JR総武本線踏切。

                      「柴崎街道踏切」。

  

銚子方向。                 旭方向。  

 成田線「柴崎踏切」。

  

佐原方向。                 銚子方向。

この際、まとめて路線図。

成田線

総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線と、成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線(我孫子支線)と、成田駅から約2 km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう支線(空港支線)を持つ路線である。

本線の佐倉駅 - 松岸駅間では総武本線よりも13.4 km営業キロが長い

成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、千葉駅を発着する成田線発着・経由列車は、総武本線成東駅方面行きの列車との誤乗車防止の観点から、同駅以東で列車の前面・側面表示を含めて「成田線」と案内表示される。(「Wikipedia」より)

表示上の「成田線」線路図(千葉~銚子)

  

総武本線路線図(千葉~銚子)

安孫子線路線図(成田~我孫子)

                                 (「ジョルダン」より)

※「松岸」から成田線を帰途に利用し、「成田」で京成電車に乗り換えることに。

踏切を越え、市街地に入っても、ゴールの追分までは、まだまだ。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。旧道筋の集落。下り坂。高台から平地へ。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-20 20:29:31 | 銚子往還

三叉路に石碑などがいくつか。

小さな集落に入ります。

右手には畑が広がります。

路傍には明るい色のキク科? の花々が。

            ガーベラ?

この花の名は?

            

右手下にも住宅が。 

剪定された見事な槙。

県道に合流します。

その手間に作業所。

       ダイコンを水洗いながら先端を切り落としています。カートに山積みされたダイコン。  

その作業所の前に、

                木彫りの熊?   

振り返る。

合流地点に記念碑。

この付近、旧道の道筋ははっきりしません。

                     (1880年代)丘陵と丘陵の間を進む。

                     (現在)黄線が県道。白線が旧道。

西側には畑が広がる。

         遠くには風力発電の大きな風車(プロペラ)群。

 

この道が旧道の一部? 

東総台地の北端から下り坂にかかります。台地に上った分、下るわけです。

坂の途中に古い石碑。

          

右手は谷筋。

前方が開けてきます。

平地に降り立った印象。

来た道を振り返る。

                      遠く東総台地を望む。

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。銚子市。青空の下にキャベツ畑・ダイコン畑。収穫時期をずらしての農作業。銚子にはメロンも。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-18 20:28:16 | 銚子往還

銚子市内に入っても、畑地が大きく広がる。

収穫時期をずらしてのキャベツ畑。収穫済みとこれからのもの。

こちらでは、ダイコンの収穫が盛んにおこなわれています。

何を植えるのでしょうか?

       

         どういう工場・施設だったのか? 廃業になっているようです。

ダイコン畑。

シートをかけた畝。

これから大きくなるキャベツ。奥には、成長したキャベツ。

キャベツもダイコンも収穫時期をずらすことで、年間を通しておいしい野菜が収穫できます。

また、露地植え、といういところにこの地域の特徴があるようです。

         遠くの方まで、風力発電所の風車(プロペラ)が。

シートを外したダイコン畑。

緑濃きキャベツ。

             キャベツ畑が遠くまで続いています。

県道から右にそれて進みます。小さな集落へ。

              

ハウスから軽トラにいくつも苗を載せています。

           「何の苗ですか? 」「メロンの苗でしすよ。」

メロン農家は、加瀬さん、萩原さん、常世田さんなど生産者がいます。

ハウスで種を蒔き、発根、発芽、苗移植と気の抜けない作業が続く。
交配はミツバチがお手伝い。
収穫まで約150日、水、温度を管理し、太陽の恵みと、海からの南風を受けて甘さぎっしりのメロンが仕上がる。

銚子のメロン
 
果肉が甘く、香りと食感もよく、メロンの中でも人気のブランドです。 また、最高級品は「金印」とされ、糖度は16度以上もあり、日本農業賞を受賞した実績もあります。 高品質な銚子メロンは6月から7月しか流通しないので、銚子市外に出回ることが希(まれ)なため幻のメロンと言われてます。          
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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。畑の中に風力発電施設。国内3位の生産量・キャベツ。国内1位のダイコン。旭市から銚子市へ。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-17 20:22:05 | 銚子往還

大きな風車(プロペラ)の下にも畑。

千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。
関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。
車で成田空港方面から国道296号線を東進し、さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、
丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基)と銚子屏風ヶ浦風力発電所(1,500kW×1基)も見えてきます。
そして126号線を外れて東総広域農道へ入ると、右も左も風車だらけの風景になります。
この広域農道を東進した終点付近に、域内最大の風力発電所である銚子風力発電所(1,500kW×9基)が道路を囲むように建っています。
さらにこの風力発電所群の北にも、椎柴風力発電所(1,990kW×5基)や銚子ウィンドファーム(1,500kW×7基)があり、一大風力発電所群となっているのです。国道が走り、車も人も行き交う農道や生活道路が何本も走る中に建っています。
国道を走っていると突如として現れる風車の群れという景色は、初めて訪れる人を驚かせるものでしょう。
風車の近くに行ってみると、本当に畑の一部の区画が切り取られてフェンスで囲われ、風車と付帯設備がこぢんまりと建てられています。
風力発電機はこんなに小さなスペースで建てられるのかという驚きと、こんな場所に建てることができてしまうのだという二つの驚きが得られます。 
畑の中に風力発電機が立ち並ぶ景色というのは、ヨーロッパを思い起こさせる風景ではあります。・・・

(この項、「TOPIC 東総台地風力発電所群」より)

キャベツ畑。

ダイコン畑。

 

キャベツ畑。

               

群馬、愛知に次いで、国内第3位のキャベツの産地は、千葉県です。

千葉県は、11月から1月、3月から5月にかけて旬を迎える冬キャベツ、春キャベツの生産が盛んに行われています。特に有名なのは、銚子市、旭市、野田市などです。

冬でも温暖な海洋性気候が特徴の千葉県。そのため、柔らかくて甘いキャベツが育つといわれています。

※キャベツの語源は、フランス語のカボッシュ(頭でっかち)から来ています。

おいしいキャベツの選び方

  • 切り口が小さく、持ってみて重量感があり、緑色で新鮮なもの
  • 春キャベツは、主に春から6月頃に出荷され、形が丸くて、巻き方が緩く、葉は柔らかくてみずみずしいもの
  • 冬(寒玉)キャベツは、主に秋から初春に出荷され、形が楕円で葉の間には隙間がなく、葉は硬くて厚いもの

ダイコン畑。 

            

生産量1位の千葉県では、生産体制の整備とトンネル栽培などの栽培方法が普及したことで、高い反収を誇っています。

 主産地の銚子市をはじめとした千葉県の大根は、自家漬物用として昭和初期に栽培が始まったといわれています。1955年には秋系品種の栽培が始まり、商用として売られ始めたとされています。

その後、1966年に「秋冬大根」の産地指定を受けたため、栽培面積が拡大しました。これに伴い用水施設や農道が整備され、機械や資材の運搬体制が整備されていきました。

こうした動きも支えとなり、トンネル栽培が普及したことで、1986年に「春大根」の指定産地を受けることになりました。

また、トンネル栽培普及のおかげで、6~9月の高温期以外の出荷が可能になりました。無被覆栽培よりも労力がかかるため、1人が担当できる栽培面積は30aほどが限界ですが、気温が低い環境でも栽培ができます。

旭市から銚子市に入ります。  

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JR総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。東総台地に向かう。「従銚子港 至千葉町道」。塙十字路。風力発電。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)

2024-04-16 21:01:17 | 銚子往還

4月13日(土)。晴れ。

今回。総武本線「旭駅」で下車し、総武本線と成田線が合流する「松岸駅」から帰途に、という計画。

歩くとかなり時間がかかり、途中、東総台地を越えていくことになります。膝の具合もよくないので、途中までタクシーを利用、台地の南端まで行き、そこから歩くという算段。けっこう安易な歩きになりそうです。

この付近の今昔。

(現在)道筋はほとんど変わらない。

(1880年代)「従銚子港 至千葉町道」。

塙新町。

集落になっています。

ここまではカーブが続く、緩い上り坂。振り返る。  

塙十字路。 

左の角に「塙十字路祠」。

集落から次第に離れていくと、

左右が開けてきます。 

                

      風力発電施設の大きな風車(プロペラ)が目に入ってきます。びっくり!

             

起伏にとんだ丘陵。 

緩やかな上り坂を進みます。右には谷に降りる細道。

        谷の向こうに雄姿を見せる巨大な風車(プロペラ)。

        振り返り、振り返りしながら。

坂を上った向こうには、、   

見渡す限り、畑が広がる。

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JR総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。「安中藩太田陣屋跡」。旭市のマンホール。趣のある商家がいくつか。「CHIBASHOYU ARTSQUARE」。「旭駅」。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

2024-04-14 19:13:19 | 銚子往還

「安中藩太田陣屋跡」。

解説版。

明和4年(1767)、上野安中藩の下総領二三ヵ村、およそ1万石の土地を支配する拠点として設けられた陣屋の跡。

・・・安中藩はここ太田村に陣屋を置き、代官2名、与力数人を常駐させて、支配地の年貢の収納、治安などを行わせた。周囲に堀をめぐらし、南に長屋門をおき、奥に間口八間・奥行四間の役所があった。堀は排水溝程度のもので粗末なものだった。

明治初年、廃藩になるまでのおよそ100年間を支配したが、江戸時代末期にアメリカのペリーが江戸湾に来航し、海防の必要から藩より30数人の武士が派遣増員された。

廃藩後、陣屋の施設は撤去されたが、部下たちのなかには安中に帰らずにこの土地に残った者もあり、現在もその子孫が市内で生活している。

          

県道に戻ります。旭市のマンホール。

太平洋から昇る朝日と市の木クロマツ、市の花アジサイのデザイン。 海には漁船が浮かび、遠くに灯台も描かれている。

※2005年(平成17年)7月1日 、(旧)旭市と香取郡干潟町(ひかたまち)、海上郡海上町(うなかみまち)・飯岡町が対等合併し、新しい「旭市」となった。

「郷金旅館」。

街中に入ります。

通りの向こうに「真福寺」。

「カワカ金物店」。

趣のある店構え。

交差点の奥にある商家。

この施設は?

             「CHIBASHOYU ARTSQUARE」。

アーティストらによるワークショップ、作品の展示・販売、ライブペイント。見て、聴いて、作って、アートを肌で感じる体験。

            

昔ながらの商店の趣。

            

今回はここまで。      

               左折して旭駅に向かいます。

総武本線「旭駅」。

観光案内図。

次回は、北総台地・丘陵を越えて、銚子へ。

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JR総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。耕し始めた田んぼ。旭駅へ。旧道・旧家。宿天神青年館・エンヤーホー。RINTARO 凛太郎。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

2024-04-13 18:25:10 | 銚子往還

カフェ&レストラン「グレコ」。

開けたところに出ます。

角に「セブンイレブン」。

                 旭の市街地に向かいます。

すでに水が張られた田んぼ。                 

       「沖縄を楽しみましょう 三線ライブもやっています」。

昼間、お店は閉まっていますが。

        

しばらく進んで旧道へ。

旧家の趣。

すぐ県道に復帰。

来た道を振り返る。

路地の奥に趣のあるおうち。

「宿天神青年館」との看板が。

7月27日、旭市太田の宿(しゅく)天神(てんじん)地区にある八坂神社祇園祭、通称「太田(おおた)祇園(ぎおん)」の夜に演じられるつく舞を、地元では「太田のエンヤーホー」と呼んでいる。

                

 つく舞は、長さ9間の柱と、その前に組まれた2間四方、2段の舞台で演じられ、動物の面を付けて舞台上段で無言劇を演じる「地(じ)舞(まい)」部分と、登り獅子がつく柱に登っての曲芸部分から成ります。地舞では赤獅子、青獅子、かまきり、みみずく、鹿、鶴が、順に舞台の上段に登り1人あるいは2人で簡単な所作を繰り返す。赤獅子と青獅子は腰を折り3、4歩ずつ足を交差させながら前後する所作、続く4役は両手に細棒を持ち床や相手を叩きながら舞台を回る。ついでひょっとこ、おかめ、旦那の3人による寸劇仕立のからみがあるが、かなり露骨な性交所作の繰り返しである。続いて舞台上で登り獅子を中心に盃事(さかずきごと)が行われ、その後登り獅子(赤獅子)がつく柱に登り、途中逆さにぶら下がるなど曲芸を披露し、最後に頂から五色の紙吹雪を撒き散らす。紙吹雪は安産のお守りになるという。「エンヤーホー」とは、つく舞を演じている間中、舞台下段に陣取った大勢の子供達によって繰り返される掛け声である。

 太田のエンヤーホーは、多古町多古のしいかご舞ときわめてよく似た芸態である。多古と旭のつく柱の高さは野田に比べて低いですが、野田にはない動物面の「地舞」がついているのが注目される。この動物面の地舞は静岡県森町から関東南部、福島県いわき市まで散見され、中世後期京都祇園祭の動物風流(ふりゅう)につながる可能性を秘めた貴重な芸能である。(「千葉県」HPより)

「↑銚子 飯岡駅 ←香取 →足川浜」。

「凜太郎ジェラテリア」。

       

千葉県旭市から!砂糖不使用のジェラート専門店 RINTARO 凛太郎 at プラカノン

凜太郎さんは元々「千葉県旭市」からやってきたジェラート屋さん。※千葉愛のあるサーヤとしては対応が遅くて申し訳ない気分。
日本では、神楽坂(東京)、銚子Tsubaki(千葉)にもお店があり、4号店目がバンコクになっております。

☆砂糖不使用
★こだわり抜かれた素材 季節の旬な食材のみを使用
☆ご注文後に焼き上げるワッフル 発酵バターを使用。
★本物よりも美味しい

凄くないか?
しかも、お値段2種類で120バーツ

※1バーツは日本円で4.2円。

コーンが手作り焼き立てだよ?…ありがたいお値段設定。
なので、サイアムパラゴンのイベント時は大行列。プラカノン店はー、イートイン席は常に満席って感じです。

季節の素材って言うのが本当に凄い「日本」の旬の素材なわけよ。しかも今はサーヤの大好きな「秋」の食材がたくさん!
食べたいジェラートがたくさんあります。・・・

(この項、livedoor[公式ブロガー]「サーヤのバンコクだらだら日記」より。写真も。)

この先、左手の路地を入ったところに、「安中藩太田陣屋跡」があります。

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JR総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。よく整備された県道。槙の生垣。旭市入り。「一針入魂」。内裏神社。新川。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

2024-04-12 21:28:49 | 銚子往還

園芸店「川嘉園」。

                      整備された県道。

      

                 カーブごとに注意喚起の道路面。

用水路と古仏。道路整備に伴って移転?

槙の生垣が続く。

         槙の生垣が連なる様子は、房総半島によく見られる風景。

趣ある門のおうち。

匝瑳市から旭市に入ります。

左の旧道に入ります。

県道に、「小久保畳店」。

                  「一針入魂」。                       

国道に合流します。

沿道沿いのおうち、鉢植えのチューリップが満開。

趣のある門構え。

内裏神社。

社伝によれば、祭神耳面刀自媛(弘文天皇の妃)は関白太政大臣の藤原鎌足の娘で、白鳳元年に壬申乱が起り、妃は悲運にも弘文天皇と共に近江の露と消えゆる所を、逃れて東国に下りました。途中海難に遭い現在の匝瑳市野手の内裏塚浜に漂流し、不幸にもそこで病歿し、従者などが媛を葬り墳土を築きました。妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に野手の墳土の一部を移して、引き続き祀ったのが現在の内裏神社といわれています。

左側。房総台地に連なる。

     右側。

                 九十九里浜に続く平地。

バス停「ゆたか保育所」。「学童多し」の幟。

宅地開発中。

右手に田畑が広がります。

バス停「井戸野北」。

「延寿寺」。

バス停「延寿寺」。

素敵な屋根のおうち。

          雀がたくさん飛び回っています。

           

「新川」を渡ります。               

旭市桜井の飛び地に位置する兼田貯水池を水源とし南流する。この貯水池大利根用水幹線水路を通じて黒部川貯水池より取水したものであり、本河川もまた利根川の水を流しているに等しい。東庄町を流れた後再び旭市との行政境となり、旭市萬歳付近より南西へカーブする。周囲は「干潟八万石」とも呼ばれる、江戸時代初期の椿海干拓によって生まれた水田地帯の中心部であり、灌漑のために掘られた複数の水路が並流している。旭市北東部からこれらの水路を集めた七間川が新町付近にて合流する。続けて鏑木川を合わせると南へ進み、鎌数付近の工業団地及び旭市街地を抜ける。(「Wikipedia」より)

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JR総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。新宿。県道104号線。籾内。少し残る旧道。 (「銚子往還」をゆく。第5日目。)

2024-04-11 20:37:41 | 銚子往還

銚子方向。 

車の通りも少ない旧道を進む。

古い石塔。判読不能。

バス停「新宿」。

1880年代の古地図では民家がなく、「新宿」(しんじゅく・にいじゅく)という地名はありません。八日市場町が発展するにしたがって、「新宿」と名付けたものと思われます。

※かつて、この地域には沼地・湿地帯が広がっていました。

ここにも同じような古い石塔。

                 「四国八八ヵ所巡礼・・・記念碑」?

用水路と田畑が広がる。

                          

廃業となったビジネスホテル。

ソテツがたくさん。                 

    一風変わった風景。   

通りの向こうに「水準点」。7.0m。

田植えの準備中。

この付近の今昔。  

       (現在)               (1880年代)↓の部分が直線化されている。  

左側の歩道が旧道? かなり幅広い。

バス停「東谷入口」。 

                  

家並みが続く地区へ。

「匝瑳市立平和小学校」。

「庚申塔」「西国参拝記念碑」など、まとまって古仏が置かれています。

両側に家並み。県道104号線。

バス停「籾内」。

房総台地の東端を進む旧道。東側は、九十九里平野。

※標高:7.0 m~6.0m

少し残る旧道へ。

                  

県道に合流。

バス停「西平木」。

水準点。6.5m。

この先も、両側に住宅が建ち並ぶ街並みになります。

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JR総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。篭部田(かごべた)。マンホール化の水準点。「八日市場ドーム」。大利根用水。「上谷中踏切」。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)

2024-04-10 18:24:17 | 銚子往還

「銚子往還」歩きも5日目になりました。

3月30日(土)。晴れ。

今回は、総武本線から離れて歩きます。「旭駅」が街道近くにあるので、そこまで歩くことに。駅でいうと、2駅になります。

「八日市場駅」。

銚子往還(旧道)に「復帰します。

看板建築。モルタル仕立て。

           

バス停「法務局前」。

「越川肥料店」。

「←八日市場青果地方卸売市場」。

バス停「篭部田(かごべた)」。

水準点。地中に埋めてあるケースもあるようです。

          9.0m        

国道126号に合流します。                                                           (「篭部田」三差路)

               

左手奥に「市役所」、右に「八日市場ドーム」。

              

この先、斜め右に入っていきます。

 

                「大利根用水 西幹線用水路」。

大利根用水(おおとねようすい)

千葉県北東部の利根川沿岸地域の排水と、九十九里平野北部の地域への農業用水の供給を目的とした用水路疏水百選に選定されている。

千葉県香取郡東庄町で利根川の水を取水し、九十九里平野の北部一帯を灌漑する農業用水である。具体的には、東庄町笹川の笹川揚水機場で黒部川に導き入れた利根川の水を取水し、地下水路を通して東庄町の下総台地を越え、旧椿海沿岸の同町窪野谷にある旭市飛地内の分水工で、東幹線・新川水系・西幹線に分岐し、旭市匝瑳市横芝光町栗山川東岸まで)の農地灌漑用水を供給している

昔九十九里平野の北東端には遊水池としての役割を果たし下流の村々の農地の灌漑に用いられていた椿海というがあったが江戸時代干拓され、元禄2年(1689年)には「干潟8万石」18ヶ村が成立した。元々湖であったこの干拓地は水害の被害を受けやすく、干拓地の排水を優先した幕府は下流にを設けることを禁じ、下流では渇水による被害を受けやすい状況となり、ため池を作るなど干拓地の排水と下流の利水を両立させる為のさまざまな対策が取られたが、動力による揚水が不可能だった当時でもあり、いずれも抜本的な対策とはなり得ず、水害と旱魃に苦しめられることが少なくなかった。

一方、黒部川合流地点などの利根川沿いでも、その後の利根川東遷事業の影響や、増水時の遊水地の役割を果たしていた船着場が明治以降その役割を終えたこと、また明治43年(1910年)の大水害の後中条堤を要とする治水システムが崩壊したことや霞ヶ浦水系の分離もあり、増水が直接水位の上昇に結び付き水害に悩まされるようになっていた。さらに1924年-1925年(大正13年-大正14年)、1933年(昭和8年)の大干魃や洪水により、用排水の必要性が認識された。1935年(昭和10年)野口初太郎が利根川を水源とする利根川引水計画構想を発案し、排水と利水を両立させるこの大利根用水が計画され、第1次県営大利根用水改良事業として着工する。猛烈な反対運動や戦中戦後の資材不足を経て、終戦後の昭和25年(1950年)に完成、ようやく安定した農業用水が供給されるようになった。

だが、大利根用水完成の5年後の1955年(昭和30年)には塩害が発生し被害面積は約3,200町歩に及び、翌年以降塩害の被害が拡大、1958年(昭和33年)には被害面積は約30,000町歩に及んだ。このため、関係市町や土地改良区から「潮止め堰建設」の要望が出され、建設省関東地方建設局の調査を経て、1962年(昭和37年)5月に設立された水資源開発公団の事業として利根川河口堰の計画が1964年(昭和39年)10月に決定され、1965年(昭和40年)に着工し、1971年(昭和46年)に竣工した。また、大利根用水の施設は、戦中戦後の資材難の時代に施工されたものであるためこの間の老朽化が著しく、更新事業として国営大利根用水土地改良事業が行われた1970年(昭和45年)から1992年(平成4年)までの23年間をかけて全面的な改修が行われ、九十九里平野北部の地域の農業用水の安定した供給に役立っている。

バス停「上谷中橋」。

「上谷中踏切」を渡る。

この付近の今昔。

(現在)〇の地点で旧道へ。

(1880年代)千葉から銚子港を結ぶ街道。

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