おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR渋川駅~津久田駅。その4。「白井宿その4」。「北国紀行」。新田町の井戸。(利根川を歩く。第8回目。)

2021-11-27 20:29:25 | 利根川を歩く

                   「白井宿」案内板。

       「堯恵の歌碑」。

京都の修行僧堯恵法印は、北国紀行の道すがら、越後から三国峠を関東に入り、文明18(1886)年9月9日、菊の節句の日に白井城に入った。時に白井城に駐留していたのは関東管領上杉顕定支援のため、越後の軍兵を率いて越山していた上杉定昌である。

白井城の戸部亭で、堯恵は旅のつらい思いを憐れんでもらい、労ってもらった。(白井城主長尾景春は上杉氏にそむき、城を追われて武蔵国鉢形城に駐留していた。)9月十三夜に、白井城で風流な歌の会が催され、列席した堯恵は「月と共に神を詠む」と題した歌を詠んだ。

ずっと後の世まで人々が超えては旅をしていくに違いない、この三国峠の東、上野の道を守ってくれる道の神様もこよい十三夜の月をながめ、たたえていることだろう。という意味であり、この時の紀行文が「北国紀行」である。

(付)翌年9月堯恵は再び白井城を訪れているが、長享2(1488)年3月、上杉定昌は白井城で謎の自害を遂げている。

石碑には

「重陽の日、上州白井といふ所にうつりぬ。則ち藤戸部定昌に旅思の哀憐をほどこさる。十三夜には一続はべりしに」とあって

寄居神祇

越えぬべき千とせの坂のひがしなる道まもる神も月やめづらむ

と刻まれています。

「八軒町の井戸」。

町並みの井戸の中で北から3番目に位置し、明治3年(1870)3月吉日に井戸無尽の方法で掘ると記録にある。八軒での管理は昔から同じ。

「薬師の井戸」。

「新田町の井戸」。

町並みの井戸で、一番北に位置し、明治5年(1872)頃、井戸無尽の方法で掘る。大正6年(1917)1月に積み替えをして今も使用している。

※「無尽」

通常の無尽は、毎回参加した全会員が一定の金を拠出して資金を集め、その回の参加者のひとりがその全資金を受領することを繰り返す。各会員は全期間の内の1回は必ず資金を受領することで、会員間の公平性を担保している。この形態の場合には、資金の受領が一巡した時点で一旦終了となる。また、「無尽」という名のもとに積み立てた金額で会員同士旅行に行ったり(旅行無尽)、誰も資金を取らずに積み立てておき、一定期間後に積立金を全額会員に払い戻す(積立無尽)こともある。無尽は、鎌倉時代に登場したといわれる。庶民の相互扶助として始まったものだと考えられる。江戸時代になると、地域に問わず大衆的な金融手段として確立し、大規模化していく講(無尽講・頼母子講)も存在するようになった。

(この項、「Wikipedia」参照)

「井戸無尽」は、会員が積み立ててお金が貯まったら井戸を掘る資金にするという方式か?

「上之町」。火の見櫓。

               

宿内を振り返る。

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