おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

これこそ「民主党」の混迷の象徴。

2014-07-31 22:23:57 | つぶやき
民主・海江田代表が続投明言 「熟慮に熟慮を重ねた」(朝日新聞) - goo ニュース

 党首たる者が「熟慮に熟慮を重ねた」結果、続投を決意・表明。一見、誠実に見えそうな人柄だけでは、魅力的な政策も作れず、即、集票能力に結びつかない、という典型。
 今の共産党(特に成り立ての頃の志位さん)や公明党のように、たとえそれほど押しが強くない党首であっても、全党員で支えるという党風を作り上げてこない(こられない)民主党。

 あげくに、低迷の張本人が「熟慮に熟慮」では・・・。次の地方選、さらには衆院選に闘う気迫に全く欠ける海江田さん。
 人のいい、ともかく万事(万里)丸く収めようとするお人柄だから、ダメ。これで、来夏を待たずに、闘わずして、負けは決まった!

 「集団的自衛権」問題、消費税アップ問題、辺野古問題、いつもあいまいにしては、自公に明確な対決軸が示せないまま。
 お人好しではつとまらないのが、この世界。敵失で勝ち、オウンゴールで負け。こんなことの繰り返しではあだ花に終わってしまう。

 「安倍政権の支持に陰りが出ている。民主党は野党第1党として、国民の不安や不信の受け皿にならなければならない」と述べ、集団的自衛権や原発政策などで安倍政権との対決姿勢を強める意向を示した。(「時事通信」より) 

 それが本気なら、「心を鬼にして」分裂気味の党を毅然として引っ張る気迫と信念が必要。まず、異論があっても持論と所信を明らかにしてまとめていく。

 当面する課題にどう立ち向かうのか、それを熟慮すべきなのに、続投するかどうかを「熟慮」する!?

 辞任をほのめかしたあげく、留任をするつもりの大畠幹事長。彼は、原発再稼働推進派の頭目のはず。それも極めつけの男。

 「脱原発」「反原発」は、絶対的なタブー。少数派が勝手に主張するのは「ごまめの歯ぎしり」で痛くもかゆくもない。民主党を原発推進に持ち込めば、天下安泰。見事にその術中にはまってしまった、海江田さん。

 今になって、「原発推進」の幹事長を敵に回しても「反原発」を主張できるか? まず無理、無理! 妖怪「ムリカベ」にとりつかれるに違いない。
 
 こうして、党首に不向きな御仁がやっている(彼には「政策調会長」くらいが適役)ところに今の「民主党」の、どうしようもない悲劇がある、と思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧東武線跡。(西新井~北千住。その2。)

2014-07-24 20:00:41 | 鉄道遺跡
 
大正時代。
 荒川放水路開削後の水路を描いてある。線路が水没するハメに。

昭和初期。
 線路変更後。赤い線が旧線路(以下、同じ)。

昭和50年代初め。
 日光街道(国道4号線)の拡幅・整備後。

平成10年代。
 綾瀬駅付近から日光街道に向かう道路整備後。(以上、「今昔マップ」より)

 地図上からは、日光街道「梅田」交差点南東部分の線路の痕跡は不確かになっている。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 →は、旧線路跡。↓は、旧日光街道、↑は、線路跡の住宅。

 「梅田」交差点のはす向かい(南東)に見えていた「ビル」。この建物の位置・立地が線路跡の上に建てられたものらしいが。
↓の建物(南東側の線路跡から望む)。

↓の建物から線路跡の道路・住宅。直線的に並んでいる。ただし、途中は住宅が入り組んでいて線路跡は定かではない。

左奥が線路跡。

正面の斜めの道と建物が線路跡と思われる。

駐車場脇にある古い建物。この建物は線路跡上のものか、線路脇のものかは?

路地を入ったところ。右側の建物群が線路跡上のものと思われる。

別の路地から見たところ。正面奥の建物はほかと異なって一列に並んで建っている。

荒川土手下の「平和橋通り」近くの建物。

左右の建物が線路跡に建てられたものと思われる。「平和橋通り」際。

首都高の橋脚。

荒川上流からJRの鉄橋を望む。JRの線路も荒川放水路開削によって少し変更されてはいるが、ほぼ同じ位置にある。ちょうどその鉄橋の真ん中あたりで東武伊勢崎線は当時の国鉄と交差していたようだが。

JR、千代田線の鉄橋の向こう側に見えるのが東武線の鉄橋。対岸の右手が北千住の町並み。遠くにはスカイツリー。


 線路跡に建てられた建物群、道路は、「JR常磐線・亀有日立引き込み線跡」でもそうであったように、航空写真でははっきりとわかるが、現地に行くとわかりにくい。路地の奥まで行ってのぞき見したり、やたらと家並みを写すことも気が引ける。その点では、今回も?な点が多かった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧東武線跡。(西新井~北千住。その1。)

2014-07-22 23:41:15 | 鉄道遺跡
 「亀田トレイン公園」からかつての線路跡を荒川土手までたどります。
一直線の広い道路。

右手(西側)は団地(「梅田8丁目アパート)。建替えが進行中。


西新井駅方向を望む。

もともとの線路はほぼ直線で、道路もそうであったが、近年の区画整理、道路拡幅などによって、カーブしていく。正面奥が「区立九中」。

大正時代。旧線路の時代。○が上図付近(以下、同じ)。南北の直線道路は旧陸羽街道(奥州街道・日光街道)で、千住の宿からの道は、荒川で寸断されてしまう(荒川左岸・「千住新橋」の西にある「川田橋」交差点からの道は、現存)。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 当時の道らしい道は、「陸羽街道」のみ。田んぼの中を通るあぜ道のようなつくり。○が現「区立九中」付近。↓付近から「荒川放水路」開削によって、千住の宿とは寸断されてしまった。

昭和初期。「荒川放水路」完成後、線路が大きくカーブし、東にずれている。新「日光街道」は、「千住新橋」から旧線路跡の道路を利用し、現在の「区立九中」付近で旧日光街道と合流していた。

昭和40年代初期。↓が「東武鉄道工場」。西新井駅周辺の大規模な再開発まで存在していた。南の部分は、すでに道路となっている。色塗りの直線道路は現日光街道(「国道4号線」)。その完成後は、旧線路跡の道路は、国道・幹線道路ではなくなっていく。

昭和50年代初期。再開発以前で、この付近の道路も整備・完成していない。(以上、「今昔マップ」より)

正面の道路が旧線路跡と思われる。右手が「区立九中」。


西新井駅方向を望む。

道路の付け替えがわかるようなカーブ。正面が「区立九中」。右正面に見える直線の道路は、線路跡とは関係なし。

左の道路が旧線路跡。千住新橋(国道4号線ー日光街道ー)橋詰めの交差点方向から直線で進んできた道路がカーブしている。

「区立九中」方向を望む。

日光街道との交差点方向を望む。

正面奥が「千住新橋」の高架橋。

交差点「梅田」。顕著な道筋はここまで。日光街道を渡ってからは痕跡はなさそうだが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線・「西新井」、「大師前」駅(旧)探索。その2。亀田トレイン公園。

2014-07-20 14:23:36 | 鉄道遺跡

 「西新井」駅から南。かつて、ほぼ直線で「北千住」に通じていました。
 明治から大正初めにかけての大規模な荒川放水路開削工事のため、北千住から西新井までの区間は変更され、現在のように大きく東に迂回して西新井方面に進むことになりました。
 (東武線は、荒川放水路開削工事のため、もう少し下流のところでも、線路変更をしています。鐘ヶ淵から牛田の区間。どちらも荒川放水路の中に線路があり、当時は、田んぼや畑の中を通っていました。)
 その跡は、すっかり道路となっていますが、しっかり直線道路として残っています。
 「北千住→西新井」が「北千住→小菅→五反野→梅島」と駅の数も増えています。

明治末頃。「荒川放水路(現荒川)」が開削される前のようす。

昭和初期。「荒川放水路」完成してしばらく後のようす。赤く線路が変更された路線。

昭和40年代初め。
 「日光街道(国道4号線)」が拡幅され、「千住新橋」からほぼ直線で北に向かい、「日光街道」より東南側の跡は明白ではなくなった。

平成10年代。
 「区立九中」によって、道路が一部、分断されている(↓のところ)。(「今昔マップ」より)

 「西新井」駅の南側には、かなり後まで線路(跡)は残っていて、東武鉄道の西新井工場敷地内になっていた。


 遠くに見える高層の建物がその跡地に建てられたマンション。左が東武線の高架。

「西新井」駅方向を望む。

広い道路が少しカーブして南に向かう。線路跡のようだ。
 その道路脇の一角に。

「亀田トレイン公園」。

車輪のモニュメント。

説明板。

 初期の客車や電車、そして貨車はスポーク付き車輪を使っていました。タイヤ(踏面)が減ってくると、取り外し、また焼きハメして使用しました。長く長く使っていました。

 東武博物館にある電車の写真が載っている。

車輪の先には線路を描いた道が伸びている。

トイレの側面。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東武線・「西新井」、「大師前」駅(旧)探索。その1。

2014-07-19 12:32:08 | 鉄道遺跡

 5年ぶりで西新井駅前、そして「大師前」へ。ずいぶん様変わりです。

昭和初期。
 「大師線」が開通する前。日清紡の工場はすでに稼働、引き込み線が敷かれている。東武線の旧線路は一部残っている。

終戦直後。
 「環七」開通以前。「大師前」駅は現在の「東武ストア」「「集合住宅」の位置にある。赤い線が「大師線」。

昭和50年代。
 「環七」開通後、「大師前」駅は、現在の位置。赤い直線は「環七」。(「今昔マップ」より)

「東武ストア」(旧駅舎)側から「環七」をはさんで、現在の「大師前」駅方向を望む。いくぶんカーブして建っているのは、かつての線路上のせいか?

「東武ストア」店頭にあった掲示。「東上線100周年」「東武ストア55周年」と。
 この「大師線」、もともとはもっと西に伸ばして「東上線」と結ぶ計画だった。 

かつての駅前(西側)。駐輪場辺りまでは駅構内だった。

西側から望む。右の道路と中央の建物がかつての「大師前」駅から少し伸びた線路跡。道路に沿って、住宅が西に続いている。

「東武ストア」の上は、集合住宅になっている。

 ここから「西新井駅」方向に戻ります。

様変わり。
 赤い円がかつての日清紡の工場跡。今は、ショッピングモールや高層住宅、公園、病院、学校などの公共施設に。
 

正面が「西新井」駅。
 駅前の区画整理が進まないようすはかつてのまま。立っている位置辺りがかつての引き込み線の縁に当たっている。  
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特定秘密法施行以前の「秘密」。

2014-07-16 10:32:24 | 世間世界
がれき撤去で20キロ飛散の恐れ、説明せず 国や東電(朝日新聞) - goo ニュース

 原発再稼働に前のめり(つんのめっている)アベ政権。
 「国民の命と平和な暮らし」を守るために「集団的自衛権」行使という解釈改憲に突っ走るアベ。一事が万事、結局、国民の命と暮らしを守ろうとは心底からは思ってもいないのだろう。
 今のアベは、「アベノミクス」の恩恵(おこぼれ)に浴する大企業、一部の富裕層に支えられていることは明白。

 こうして、またしても福島の住民と土地を切り捨てる。そして、知らぬ存ぜぬで逃げ切る算段。

 東京電力福島第一原発のがれき撤去作業で放射性物質が飛散し、福島県南相馬市の水田を汚染した可能性がある問題について、林芳正農林水産相は15日の閣議後の記者会見で釈明した。農水省ががれき撤去が原因である可能性を把握しながら地元に伝えていなかったことについて「原因が特定できず、(地元から)質問もなかったので、問題なかったと思う」と述べた。

 報道されて、急遽、地元への説明会を行う、らしい。
 
 来年、「特定秘密法」が本格的に施行されれば、報道差し止めになりかねない。それでなくても、やたらマスコミ報道にくちばしをいれるアベ政権。

 「物言えば唇寒し」。
 政権べったり、むしろお先棒を担ぐ「読」「参」「経」。そうして、ますますお家安泰。が、「朝」「毎」「東」・・・。そのうち焼き討ちに遭うのでは。その前に自主規制へと。それらだけは、ご勘弁願いたい。

 ジュリーではないが、「あっかん アベー」。この声を大きくするしかない。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

跨線橋。演習線跡。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その3。)+鎌ケ谷。

2014-07-12 12:43:49 | 鉄道遺跡

 JR「津田沼」駅から京成「津田沼」駅。新京成線が「京成津田沼」から分岐して松戸方面に向かう。出発してしばらくすると、JR線との「跨線橋」を過ぎる。この跨線橋がかつての演習線時代からの路線。鉄道第二連隊本部(兵営)から連隊材料廠・倉庫までの路線跡。

 当時の痕跡は? 位置は同じですが、手前の道路を渡る鉄橋部分と跨線橋と同じ時期に付け替えられたようです。

JR線の向こう側。こんもりとした部分が複線だったところ、あるいはもともとの線路跡?

  「跨線橋」。



 後日、別の場所へ出かけました。鎌ケ谷市東道野辺。
 「千葉公園」内にある「第一連隊」のコンクリート製の橋脚と同じものがここにもありました。ここのものは、「第二連隊」が設置したもの。鎌ケ谷市内に入って、「木下街道」から少し西に向かったところ。新京成「二和向台」駅からの路脇の公園に残されていました。習志野(津田沼)から松戸への演習線のほとんどは、戦後、「新京成線」になりましたが、ここはそのまま残されたようです。



 史跡 鉄道連隊橋脚 鎌ケ谷市東道野辺6丁目8番
 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため建設した鉄道の一部です。近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。・・・
 この橋脚は第二鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれこの橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が整備を終え、開通したのは昭和30年(1955年)のことでした。
 平成11年3月 鎌ケ谷市教育委員会

窪地(実際に川が流れてはいなかったようです)に橋脚を設置して、架橋などの訓練施設にしました。


 脇にはすべり台などがあって、子供の遊び場になっています。適度な窪地状の起伏が格好の遊び場なのでしょう。


道路に沿って5基ほど残っている。



緑に覆われているが、特に大きな遊具もない。



 前後の路線跡は、どうなっているのか? 新京成線はこの場所から大きくそれて東北側を走っている。

昭和20年代後半(戦後)。
 赤い線が第二連隊が敷設した線路と思われる。新京成「二和向台」駅付近から大きく南にカーブしていた。↓が橋脚があるところ。青い線は、「木下街道」。

昭和40年代前半。
 線路と思われる部分は、道路となっている。

平成10年代。(以上、「今昔マップ」より)。

 この公園からの西北側の線路跡は定かではなさそう。なお、上の地図からもわかるように、橋脚が周囲より少し低地になった場所に造られた(。西北側が26㍍、東南側が25㍍、現地が20㍍)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道第二連隊。K2形機関車。千葉工業大学煉瓦門。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その2。)

2014-07-11 22:42:17 | 鉄道遺跡

 「ハミングロード」の濃い緑とは縁遠い炎天下、ひたすらJR「津田沼」駅を目指します。

 途中、新京成線が左にカーブしてJR「津田沼」駅方向に進む箇所に。かつては直進していたあたり。


この先に「新津田沼」駅=のち「藤崎台」駅があったようです。


 かつての「材料廠倉庫」があったところ。「イトーヨーカ堂」の前にある「津田沼一丁目公園」に機関車が保存されていました。



 K2形機関車134号
 この蒸気機関車は、かつて、ここ津田沼に本部を置いていた陸軍鉄道第二連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあって陸軍演習線の機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道(株)ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。 
                                                  平成6年3月

 

 

 この地には、一時期、「県立千葉工業高校」がありました。
 

1936年(昭和11年)5月5日 - 千葉市立千葉工業学校として千葉市寒川町で開校
1939年(昭和14年)4月1日 - 県立移管。千葉県立千葉工業学校に改称。
1939年(昭和14年)9月27日 - 検見川校舎に移転(現在の千葉市立花園中学校・小学校の場所)
1945年(昭和20年)7月7日 - 千葉市空襲で標的となり全焼
1946年(昭和21年)1月24日 - 津田沼町の鉄道第2連隊跡北半に移転(南半は後に千葉工大)
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により千葉県立千葉工業高等学校となる。
1967年(昭和42年)4月8日 - 現在地:蘇我に移転。
・・・

公園全景。機関車と千葉工業記念碑。

新京成線「新津田沼」駅前。この一帯がかつての「鉄道第二連隊材料廠・倉庫」だった。大きく様変わりしています。

歩道橋からの「千葉工業大学正門」。ずっと以前は、JR線の跨線橋はなく、踏切だったそうです。

JR線をはさんで「千葉工大正門」を望む。

煉瓦造りの「鉄道第二連隊兵舎表門」。
 
「登録有形文化財」碑。

 この建造物は重要な国民的財産です 文化庁

 この門は、明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されていたものです。・・・ 千葉工業大学





大学の塀伝いにちょっと行った先にあった煉瓦造り。これも当時のものか?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道第二連隊。ハミングロード。(京成「大久保」駅~JR「津田沼」駅。その1。)

2014-07-10 19:48:19 | 鉄道遺跡

 千葉にあった「鉄道第一連隊」。「鉄道第二連隊」は、津田沼に置かれていました。そして、「千葉」から「津田沼」まで軍用線路がつながっていました。演習用の線路。

 「津田沼~大久保~三山~高津~犢橋(こてはし)~宮野木~園生~千葉」間の約16.7㎞。軌間600ミリメートルの軽便鉄道でした。
 この廃線跡は、全線にわたって「マラソン道路」として整備された緑道・歩道になっているようです。

明治後半。
 赤い線が「軍用鐵道線」。赤い○が国鉄を挟んで「材料廠倉庫」「鐵道兵営」。

昭和初期。
 「鉄道第二連隊」作業場から倉庫への引き込み線が敷設されている。←が国鉄線をまたぐ跨線橋(現新京成線の跨線橋として活用)。もともとの演習線は、材料廠から松戸方向に向かっていた。

昭和20年代。戦後。
 「新京成線」になっている。↓大久保からの線路は道路となっている。新京成・「新津田沼」駅が現在と異なることに注意。現在と異なって、この辺りは、ほぼ直線になっている。←が国鉄を越える跨線橋。

昭和40年頃。
 「しんつだぬま」駅が「ふじさきだい」駅―1953年(昭和28年)から1968年(昭和43年)―になり、大きく西にカーブして国鉄津田沼駅に寄って「しんつだぬま」駅が開設されている。
 旧材料廠・倉庫施設一帯の再開発ともあわせて、改めて路線変更したものと思われる(初代「新津田沼」駅があった位置付近に戻った)。

現在(以上、「今昔マップ」より)。

 新京成線が京成津田沼を出てからくねくねと曲がっているのは、いろいろ訳ありのようです。・・・

 今回、京成大久保駅からJR津田沼駅まで「ハミングロード」を歩いてみました。約4㎞の道のり。
 暑い日差しの下、頭上を緑に覆われてある道。けっこう歩き甲斐がありました。



 習志野には明治から多くの軍関係施設が置かれ、一大軍都を築いていました。戦後は軍用地は掘り起こされて畑地となり、
軍用施設は一般住宅、学校等に改造されました。
 このハミングロードも専用鉄道の跡地が今日、市民の施設として活用されているのです。

まだまだ北東に「ハミングロード」は続きますが、このあたりから津田沼方向へ向かいました(「大久保駅」下車)。

 駅前は、「公共駐輪場」になっています。
 

しばらく進むと、本格的な遊歩道に。そこに案内板がありました。

 ・・・津田沼に置かれた鉄道第三大隊は、大正7年(1918年)に、「鉄道第二連隊」に昇格し、この演習線や昭和7年(1932年)頃までに敷設が完了したといわれる津田沼―松戸間の演習線で、鉄道の敷設、撤去、修理の訓練や機関車の運転訓練を行いました。
 戦後、演習線の跡は津田沼―松戸間がほぼ新京成線になりましたが、津田沼―千葉間は、だ合い部分が道路となっています。 
 平成20年3月 習志野市教育委員会

 
 写真は、軽便鉄道の機関車運転演習と敷設演習。昭和4年頃の路線図。


 右が自動車道路、左が歩行者用道路。その間に両側を古木に覆われた線路跡が続きます。特に痕跡は見当たりません。以前のレポートを拝見すると、いくつか陸軍などと刻まれた「境界標」があったようですが。

ほぼ直線の道。

南側(左側)は、住宅や畑がありますが、一段と低い位置になっています。線路は、小高い台地の南端をたどるようにして通っていたようです。

赤い線が「ハミングロード」旧線路。

南を望む。畑の向こうには京成線。

北西を望む。田園風景が広がります。

「習志野署」手前で、広い道路から左の住宅街に入って行きます。

道が狭くなって、草木に覆われてしまいます(「習志野署」裏手)。

 大きな境界標。表面の字はまったく不明。



さらにたどっていくと、

これはJR境界標。
 「ハミングロード」?は、ここまで。旧線路跡は、線路を越えていくことになる。フェンスの向こうの線路はJR線。

 ここからJR津田沼駅方向に歩いて行きます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お店の方も巻き込んでの、ますます行き惑うじじばば。

2014-07-07 18:53:22 | じじばばがゆく
 映像は、「Frank Sinatra . My Way. 1974 . 」(「Youtube」より)
 

 「7月5日土曜、10名ということで予約します。時間は5時から。そうですね、喜寿のお祝いの会なので。」

 「そうですか。では、そのお祝い膳コースということでお願いします。伊勢エビと鯛がつく。なるほど豪勢でいいや。」

 「お酒は別で。では、そのコースということでよろしくお願いします。」

 
 ・・・浅草某所での宴会予約。どういう店か、昼飯を食べがてら、でかけての予約がかり。その時は、久々の「生しらす丼」を食べました(江ノ島以来)。
 

 いつものじじばばが集まって、もっと年上のお世話になった爺様のお祝いをするという趣向。

 幹事が葉書で連絡して、記念品も調達して、末広がりの扇子がいいかな、と。「末」はいつまで、という感じですが・・・

 
 連絡が一段落したので、

 「この前は10名ということで予約しましたが、12名でお願いします。時間は5時で予約をとった者です。6時ではないですよ。5時で予約したはずですが。」

 お店の帳場をやっていた方、女性もけっこうなお年。女将という感じ(ホントはバイトの方かも知れない)受け答えがどうもスムーズではない、何となくイヤな予感。


 7日前。

 《あ、あれ電話番号が違ったのかな。でも話が通じるからいいか。行きたいんだけれどもさ、歯を3本抜いてさ、食べられるものあるかな。刺身か? 大丈夫かな? でも、あの方にもお目にかかりたいし、・・・天ぷらかあ。・・・別の食べ物、注文してもらうかな。数には入れておいてもらっていいけれど・・・》

 「はいはい!わかりました。」 


 5日前。

 《1名行けるようになったから、追加して下さい。》

 「はいはい!」

 「すいません。12名で予約しましたが1名追加で13名でお願いします。いや、6時でなくて5時ですから、よろしくお願いします。」


 その頃、

《一人、奥さんの具合が悪くなってしまって、1名減らして下さい。》

 「はい、はい。」

 「すいません。13名と言いましたが、申し訳ありませんが、12名にして下さい。いえ、5時にお願いしてありますよ。」

 
 そして、2日前。

 《もしもし私だけれども、実は田舎の兄貴が亡くなってさ、そうそう、長野の。土曜日が葬式になっちゃてさ、兄貴も保育園の園長やったり、そういう男なんで、行かないわけにいかなくてさ。悪いけれど、欠席させてもらうわ。》

 こうして、主賓が欠席。いったい何のためにうちら(幹事)やってきたの!


 そして、当日。

 《私ですが、会議が長引いて行けそうもないんだ。その店はよく行くんで今回はぜひと思ったんだけどさ、予約してあるんでしょ、金は後から請求して下さい》

 ・・・(むっとする本人)「はいはい。わかりました。またの機会にお会いしましょう」

 いよいよ、本番。

 5時に行ったところ、《お店の人、6時からと聞いているって》

 「・・・」。

 かくしてクーポンを使って1名分助かって、持ち出しもなくて何とかお金の方は決着。しかし、料理は1人前、余分なままに。適当につまんだが、余ってしまって、もったいなかった!

 でも、肴はおいしかった!伊勢もタイも・・・。お酒もそれぞれ好きに頼んで、飲みつ、飲まれつつ、トイレに立つたび、はさみ(他の男性陣は、皆、ラフな格好の中、唯一、背広にネクタイ姿で登場の、歯を3本抜いた御仁、はさみ持参で来た!)を取り出すたび、からみつ、からまれつつ。・・・ 
 

 かくして2時間は、あっという間。


 「これからは、駅前に集合して、その時に来た人数を確認してから、お店の予約をすることにします! ただし、人数だけ。食い物、飲み物はそこに行ってから頼むことにします!」

 《それにしましょう》
 《それがいい、それがいい》
 《それはいいアイデアね》
 《そうした方がいいよ》
 《それがいいじゃん》
 《それでいいです》
 《それがいいと思うよ》
 《それに賛成》
 《それでお任せ》
 《それもいいかな》・・・

 「いいかげんにしろよ、君たち!」。

 皆さん、さすが、「マイ・ウエイ」。

 かくして、12月初めにJR「日暮里駅」改札口で会うことに。相変わらず(ますます)行き惑う「じじばば」でした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道第一連隊引き込み線跡。「材料廠煉瓦建築」。廃線跡。(千葉公園。その5。)

2014-07-06 12:49:35 | 鉄道遺跡
 千葉公園~競輪場~千葉経済大学。
大正時代。○が「鉄道材料廠」、→が「綿打池」。

昭和40年代。↓「国鉄貨物線」となっている。

現在。上から「千葉経済大学」、「競輪場」、「千葉公園」。線路は道路となっている(「今昔マップ」より)。


「千葉けいりん」入口。

壁絵がずらり。

 この脇を直線で進む道が線路跡。


少し左にカーブしていきます。

振り返って「千葉公園」方向を望む。

↓の道が線路跡(の一部)。このあたりでは、材料廠内に縦横に線路が敷かれていた。現存する道路が旧線路跡と思われる。

モノレール「作草部(さくさべ)」駅付近。
「千葉経済大学附属高校」付近から千葉公園方向を望む。

 「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場。そこにお目当ての建物がありました。

「旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築」

●指定区分 県指定有形文化財(建造物)
●所在地  千葉市稲毛区轟町3-59-6
●所有者  千葉経済学園
●指定年度 平成元年

 明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6㎡である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
 県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)

 この煉瓦建築は、鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、終戦後、1945(昭和20)年、旧国鉄が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、廃止後、1985(昭和60)年から千葉経済学園の所有となりました。

 現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。

北側(駐車場側)。

南東の角(建物入口付近)。

右に建物の説明板あり。

南側。

東側外壁。

この建物の前に残っている当時の線路。





線路が何カ所か残っていました。

内部のようすはうかがい知ることはできませんでした。

この建物も立ち入り禁止。関連がある施設か?


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)貨物線は廃止されたが、まだ建物は残っている。中央上の白い屋根の建物が「材料廠」。

 軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」駅付近)方向に進んでいました。約16.7kmの路線が完成したのは1911年(明治44年)10月のことです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道大隊記念碑。千葉連隊区司令部跡。・・・。(千葉公園。その4。)

2014-07-05 12:25:22 | 鉄道遺跡

 千葉公園を出て千葉都市モノレールに沿って北上します。この道がかつての線路跡。モノレール「千葉公園」駅の道路を渡って東側に行くと、そこにもいくつか「鉄道連隊」の痕跡が残されています。

「鉄道大隊記念碑」。1903(明治36)年建立。住宅地の一角、「椿森集会所」の隣の緑地にある。灌木や雑草に覆われたまま。表面の文字は判読できない。また、石碑の裏には、戦没者や北京郊外の鉄道路線図(北清事変ニ於ケル鐵道圖)などが刻まれているらしいが、未確認。

 記念碑のそばにある「鉄道隊駐屯の跡」という小さい石柱


また奥の方に置かれた祠は連隊の営庭の片隅にあったものである、という


 少し南に行ったところにある「椿森公園」には、「将校集会所」の築山がそのまま残っているとのことで、その小高い広場に行ってみたが、特に痕跡なし。説明板もなし。

 椿森公園のすぐ隣には、

関東財務局千葉財務事務所門柱。
 この事務所と隣のJT敷地が「千葉連隊区司令部」跡地。司令部は「千葉県下の徴兵、動員、召集、在郷軍人の指導等を行っていた」そうである。当時の門柱がそのまま使われているらしい。


 この周辺地域は、閑静で整然とした住宅地。


 この住宅の、あるおうちの表札に「川上操六」とあったのには、びっくり!。一瞬、見間違えたのかもしれませんが・・・。
 「川上操六」といえば、桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされ、「参謀本部」システムを作った軍人。司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場する。写真を撮るのを怠ったのが、失敗!

意味なく広い十字路があった。

「千葉陸軍病院」跡。  陸軍の解体により厚生省所管となり、国立千葉病院として発足。現在、 独立行政法人国立病院機構千葉医療センター。

「椿森中」との境界線にあった「厚生省」と記され境界標。


 「千葉公園」付近。頭上にモノレールの橋脚がある道路から左に入った道がかつての鉄道線跡。


 ここから「競輪場」の脇を通って、現在の「千葉経済大学」「附属高校」までが路線跡。次回はこの探索。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道第一連隊遺構。コンクリート製橋脚、ドーム、塊。・・・(千葉公園。その3。)

2014-07-04 20:50:54 | 鉄道遺跡
 前回紹介した以外にも、公園内には鉄道第一連隊関連の戦争遺構がいくつか残っています。起伏に富んだ地形を生かしての演習所だったようです。



 鉄道連隊
 戦地における鉄道の建設・修理・運転や敵の鉄道の破壊に従事する連隊。
 日本陸軍鉄道連隊の前身、鉄道大隊(2個中隊・電信1中隊・材料廠)は日清戦争後に初めて編成された。以来、日露戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)まで活躍した。支那事変以前は近衛師団隷下の交通兵旅団に属していた。
 1940年7月の平時編成表によると、鉄道連隊の編制は連隊長(大佐)の下に連隊本部(57人)、3個大隊(大隊本部5人、3個中隊=1個中隊107人)、材料廠(23人)の合わせて1091人。ただし、鉄道第二連隊には、このほかに練習部、幹部候補生隊、下士官候補生隊が付設されていた。

鉄道第一連隊

鉄道第1連隊の鉄道敷設作業の様子

創設 1896年(明治29年)
廃止 1945年(昭和20年)9月

主な戦歴
日露戦争-満洲事変-支那事変-第二次世界大戦
1930年頃(昭和初頭)の千葉市周辺の地図。鐵道第一聯隊は地図中央やや上の、軍用鐵道の分岐近くにあった。

鉄道連隊が敷設した路線
 鉄道連隊は戦地のみならず国内各地でも鉄道建設を請け負い、訓練をかねていたので、建設費は材料費を負担するだけでよかった。そのため、鉄道事業者からは重宝された。

内地

千葉県営鉄道野田線(現在の東武野田線)
千葉県営鉄道多古線(後の成田鉄道多古線)
千葉県営鉄道八街線(後の成田鉄道八街線)
千葉県営鉄道久留里線(現在の久留里線)
千葉県営大原大多喜人車軌道(後の夷隅軌道)
北総鉄道野田線(現在の東武野田線)
川越電気鉄道(後の西武大宮線)
西武鉄道(初代)村山線(現在の西武新宿線 高田馬場~東村山)
中島飛行機専用線 西東京市
富士身延鉄道(現在の身延線)
東京急行電鉄代田連絡線
小湊鉄道線
福島電気鉄道(のちの福島交通飯坂東線 在来路線の改軌・電化)・・・

 また、千葉県内には鉄道連隊の演習用の路線があった。戦後一部は新京成線に転用された。
(以上、「Wikipedia」参照)

①架橋演習用に使用したコンクリート製の橋脚。高さ4㍍、幅5㍍、奥行き2㍍。上部の丘の上に一部が残っている。
見上げるほど、かなり大きな遺構。

説明板。
当時の演習のようす。

西側の高台に残る橋脚。

そこから下方の橋脚を望む。


②トンネル工事演習で使用したコンクリート製のドーム(外枠)。高さ6㍍、幅6㍍、奥行き5.5㍍。


これもかなり大きな遺構。

上部には「鉄道連隊」のマーク。

側面。 内壁。

「元鉄道隊が演習時構築せる隧道 全国鉄道連隊連合会」。「鉄道連隊」は、第一連隊(千葉)、第二連隊(習志野)をもとにして、20の連隊が存在した。

③ウィンチ台といわれるコンクリート塊。
橋脚と「綿打池」のほぼ対岸にある。


 「ウインチ」は、動力で歯車を回しながらワイヤロープ等で大きな物を上げ・おろし、運搬、引張り作業などに使用する「巻き揚げ機」のこと。池をはさんで重量物を運搬する演習にでも用いたのか。

平らで四角い塊も。

ボルト痕。

 「千葉公園」を後にして、次に向かいます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道第一連隊。鉄道遺跡。荒木山。忠霊碑。・・・。(千葉公園。その2。)

2014-07-03 20:21:19 | 鉄道遺跡
 わずか10数時間の自公密室協議で(公明党の譲歩を勝ち取り)、アベ内閣は「集団的自衛権」(そのものずばりの表現は「目くらまし戦術」で記載されていない)行使に向けて、「解釈改憲」「憲法第9条」の骨抜きを閣議決定しました。アベは「外国の船を守る」という詭弁(「船」じゃないだろう、他国の軍艦・軍隊を守るだろう!)を弄し、「ありうる」を「ありえる」と平気で間違える程度の日本語力で、高揚した気分が満面に出ていました。
 ブレーンの岡崎に至っては、アベ以上に興奮して、自らの思惑通り、してやったりとの満足感が、気味悪いほど。自衛隊発足60年目にして、各地の自衛隊基地がいよいよ戦中の活動拠点・施設になっていきそうな、7月1日の出来事。


 「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。

 「つわものどもと学園地域コース」。

 「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。

 そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。JR千葉駅がスタートです。



 JR「千葉」駅は、1963(昭和38)年、現在地に移転するまでは、800mほど東千葉駅寄りにあり、佐倉駅・銚子駅(「内房線」)方面から船橋駅・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅(「外房線」)方面の二又に分かれていた。
 そのため、東京方向から蘇我駅・安房鴨川駅方面に向かう列車は、スイッチバックで方向転換していた。
 移転によって船橋駅・東京方面から蘇我駅・安房鴨川駅方面と佐倉駅・銚子駅方面の二又に分かれる線形に改良されたが、駅全体がV字状になっているのはその名残り。

 鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。
 
明治時代中期。中央下の池が「綿打池」。周辺は、鉄道連隊の活動区域となっている。

戦前。昭和初期。専用線も伸びている。上は、材料廠(鉄道材料倉庫)。現・千葉経済大学一帯。

昭和60年代。すでに撤去され、道路に。JR千葉駅も現在地になっている。

平成7年頃。千葉都市モノレール2号線完成後。(「今昔マップ」より)

本線から離れて、北に向かう。

千葉駅方向を望む。

「千葉公園」内にある高台「荒木山」。昭和8年12月に建てられたもの。

 昭和8年(1933年)はどういう年だったか、といえば、

1月1日 - 日本軍が山海関で支那軍と衝突

1月30日 - ヒトラーが独首相に就任、ナチス政権獲得

2月20日 - 作家小林多喜二が治安維持法違反容疑で逮捕される。東京・築地署に留置され特別高等警察の拷問により虐殺される。

2月24日 - 国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡代表退場。

3月24日 - 独国会で全権委任法可決され、ナチス独裁が確立

4月10日 - 関東軍が長城線を越えて華北に進撃開始

5月27日 - 日本が中国国民党との間で塘沽協定を結ぶ(満州事変の終結)。

8月9日 - 第1回関東地方防空大演習実施

10月14日 - ドイツが国際連盟を脱退
 
 こんな具合で、ますますきな臭くなって来た年でもありました。2年後に「2・26事件」が起こります。

荒木山への階段。

こんもりとした樹木に覆われている。

高台の広場にある「荒木山由来」碑。

 この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
 その後、物資窮乏の時局を迎えて、銅像の姿は消えてしまいましたが、今でも、この小高い丘は「荒木山」と呼ばれ、市民に親しまれています。


 満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。
HPより)



現在の広場のようす。

現在の街並み。

当時のようす。




 公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。


忠霊塔。左右に陸軍、海軍の慰霊碑が置かれている。かつてここは、「陸軍墓地」であった。

昭和初期。○が「陸軍墓地」。
1954(昭和29)年頃。「陸軍墓地」と記されたところに「忠霊塔」とある(○の箇所)。↓はかつての軍用線路で、戦後もしばらくは千葉駅から国鉄の専用線に転用されたが、1984(昭和59)年に廃止となった。

 「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。

「忠魂」碑。レリーフ。

 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)
 
 日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。
 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。
 1932年(昭和7年)9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
 関東軍は交渉を打ち切り、ただちに第十四師団にこの東北民衆救国軍の撃退と邦人救出を命じた。第14師団には鉄道第1連隊の第2中隊および材料廠の一部が隷下に組み込まれ、列車追撃隊を編成した。荒木大尉は小隊長としてこの列車追撃隊の先頭となり、12月1日、九一式広軌牽引車2両をもって斉斉哈爾を出発。道中無数の破壊線路を修復しつつ満州里へと向かった。
 12月3日午後3時15分、大興安嶺隧道東麓環状線路交叉点のループ線下側東方約200メートルにさしかかるころ、上方より敵の攻撃を受け、橋梁(全長17メートル)が損傷。追撃隊は直ちに敵を排除し、橋梁を修復した。すると山上の敵は今度は石塊を満載した車輌3輌を列車追撃隊に突放した。荒木は装甲単車を後退させると部下4名とともにすかさず下車し、橋梁前方に2個、後方に1個の脱線器を取り付けた。だが荒木は部下を後退させ一人脱線器の装着具合を確認していたため退避が遅れ、脱線した貨車の落石を受け死亡した。追撃隊は12月6日午後1時30分満洲里に到着。戦力を失った蘇はソ連へと亡命し、監禁中の邦人は全員救出された。
 死後、この功績を称え、関東軍司令官武藤信義大将より鉄道兵初の個人感状が授与された。
 死後、荒木は満州事変における英雄として祭り上げられ、特に地元・熊本県では浄瑠璃や浪花節にも取り上げられた。1933年(昭和8年)3月9日、熊本教育会により公募で歌詞を募集した「荒木大尉の歌」が制作された。応募した618編のうち1等は新聞記者の島田四郎(のち熊本日日新聞社長)が入選した。
 また、鉄道第一連隊の敷地内で連隊のラッパ手の訓練が行われていた小高い丘に、殉職した荒木大尉を悼む同連隊の兵達により銅像が建立され、1933年(昭和8年)12月、荒木山公園として整備された。だが、銅像は戦争末期に供出されてしまい、敗戦によって荒木の名前も人々から忘れ去られてしまった。今では、千葉公園の敷地内にある「荒木山」の名前と台座にはめ込まれていたレリーフが残るのみである。(以上、「Wikipedia」参照)

 まさに「時の人」であったわけです。

 草地のこの広場の片隅には軍人慰霊碑がいくつか建てられてあります。
「日中戦士鎮魂碑」。

「慰霊碑 支那駐屯歩兵第3聨隊」。

ある種の「聖地」のような趣。


 一方で、この地域の軍事施設、さらに千葉市街地は、昭和20年・戦争末期二度にわたる米軍機の空襲によって大きな被害が出たこと地域でもあります。

・6月10日
 7時45分からB-29の編隊100機によって攻撃された。被害地域は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地は現在JFEスチール東日本製鉄所の一部)、新宿町、富士見町付近で、同日の空襲によって千葉県立千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)などの施設も被災した。被災面積は26ha、死傷者は391名。
・7月7日
 1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われた。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった千葉陸軍病院、 鉄道第一聯隊、千葉陸軍兵器補給廠、気球聯隊、陸軍歩兵学校、千葉陸軍戦車学校、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった。被災面積205Ha、死傷者は1204人。


平和の大切さ知ろう 千葉市空襲から69年 体験者が戦争語る

2014年6月11日HPより

 千葉市空襲から六十九年にあたる十日、同空襲や戦争体験を伝える集いが同市中央区の「きぼーる」で開かれた。戦争体験者が空襲などの戦争体験を語り、平和の大切さを訴えた。
 千葉市空襲は一九四五年六月十日と七月七日に市内約七割を焼失し、約九百人の犠牲者が出た。
 集いは、千葉市内で活動する「ちば・戦争体験を伝える会」(市川まり子代表)などが主催し、八日から始まったパネル展「ピースフェア2014」の一環。
 集いには、戦時中に空襲や戦争を体験した人たちが自らの戦争体験を語った。千葉市花見川区の杉本百合子さん(84)は東京大空襲で家を燃やされた経験や教育勅語を覚えさせられた小学校での教育を振り返り、「真珠湾攻撃が始まり日本は強いと教えられたが、米国に負けるのではと思っていた」と話した。
 千葉市中央区の酒井健一さん(82)は、千葉市空襲前の一九四五年五月八日に米軍戦闘機からの機銃掃射を受けた体験などを語った。「勝ち目のない戦争だったが、国は国民を戦争にかりたてた。平和のありがたさを伝えていきたい」と平和の大切さを訴えた。ピースフェアは十二日まで。 (砂上麻子)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本製紙引き込み線(北王子線)跡。その2。(JR東十条駅下車。その5。)

2014-07-01 23:47:10 | 鉄道遺跡

 須賀線との分岐から王子方向に進みます。踏切もいくつか残っています。
踏切付近。

日本製紙(北王子駅)方向を望む。

王子駅方向を望む。手前に見える橋は、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ「軍用電車(電氣鐵道)」線路跡につくられたJR線をまたぐ高架橋。この道路のJR線の西側に「電氣鐵道」関連のモニュメントがある「ちんちん山児童遊園」(すでに紹介済)がある。奥に見える橋脚は新幹線。

 新幹線の高架下になり、王子駅に向かいます


新幹線と跨線橋。左側はJRの本線。

JR線を跨ぐ歩道橋から北側を望む。
南側。
JRの本線。左の新幹線高架下に「北王子線」がある。

JR敷地を示す境界標。

並行する道路から見た線路。

 王子駅手前の駐輪場の先で新幹線高架下から離れ、京浜東北線の下り(大船方向)と並行して線路は続くようになります。


かつては自転車の鼻面を気動車が通過していたわけです。



王子駅手前のガード。新幹線、「北王子線」、JRの本線。

 王子駅の改札口からホームへ。

王子駅ホームから。一番右が「北王子線」。「石神井川」を越えるガードがそのまま残っています。

ホームの南端から。

 ホーム上から見ると線路はまだまだ本線に並行して進んでいきます。
 そこで、南口改札口から外に出ました。
一番手前が「北王子線」。


上野~尾久~赤羽と続く東北本線の上を越える「北王子線」。

王子駅と上中里駅の中間にある跨線橋から。



右手に見える駅が「上中里」駅。

 上中里駅の手前で、田端信号場駅の線路と合流します。ここまで。


 JR本線内の廃線後はどうするかは別のものだが、せめて「日本製紙」内から専属軌道になっている「北王子線」跡は、交通公園あるいは緑道公園として残してもらいたいものです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする