おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その6。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-29 21:27:19 | じじばばがゆく

公園の片隅に放射線の線量電光掲示板。誰もいないのに、間断なく流れるように表示しています。

 公園は荒れ放題。遊具もベンチも・・・。
     

 「ちょっとの間ですぐ雑草が生えてきちゃうんだよな」とつぶやきながら、黙々と公園の草を抜いたり、枯れ葉を集めている一人の老人の姿。作業員にも見えない、いったいどういう方か?
         

左手には「浪江小学校」。    

              校庭は草ボウボウ。
     
鉄棒。

 今日、11月14日。月曜日。しかし、子どもたちの声はどこにもありません。今、皆はバラバラになって、福島県内の仮校舎や関東、遠く関西、あるいはもっと遠くに移り、そこでの学校で学んび、すでに卒業している子どももいるのでしょう。幼なじみからも離れ、地域の人々とも離れ、中には親とも離れ、親ももちろん、年寄りも同じように、・・・。
 横浜では深刻ないじめ事件も起こりましたが、けっしてそこだけの話ではないようです。  

 そろそろバスに戻る時間になります。解体が終わり、空き地となったところには、立て札が立っています。それぞれ記号で記されています。その建物に、敷地に住んでいただろう人の固有名詞はありません。
 新築中なら「○○様邸」とかあります。そうした家族の、商売の、生活の、営みの、一人ひとりの、痕跡はまったくうち捨てられ、単なる記号化されてしまう。すでに手放した土地なのでしょうか? 分譲地、宅地販売地の符号のような立て札にぞっとしました。

 こうして地域から隔絶させられていく(それも、国策のもとで)ことへの憤りを強く感じます。

                      

一方で、残された建物もあちこちに。   

地震で痛めつけられただろう建物。 

 古民家を改装した飲み屋さん。今でも開業していそうな雰囲気。もちろん、営業はしていません。
    
                                       その隣はすでに解体整地済み。

 浪江町は「高原の駅よさようなら」の作曲家の故郷だそうです。


はげ落ちたスローガンがむなしく響きます。 
                                                「安心して暮らせるやさしいまち」。

 こうして福島駅に戻ってきました。その道中も至る所で除染作業中の幟が目立ちます。放射線を浴びながら悪戦苦闘する作業員たち。果てしもない戦いにいつ終わりが来るのでしょうか? 劣悪な作業現場での作業員たちの生命・健康を損なわせての帰還事業によって、新たな災害を生むことにならなければ、と。福島第1原発の廃炉作業も遅遅として進まず、新たな被害を生み出さなければ、と。

 国民の一人ひとりの生命と暮らしをないがしろにしての政策はどこか無理があるはずです。沖縄基地問題もそうですが、今また原発再稼働、原発輸出に狂奔するアベ自公政権。

 こうした政治を許さない! 昨年の沖縄辺野古現地闘争を垣間見た経験と今回の経験を糧に、老いてもまだ盛んなり、の精神で。

    

 かつて、広島に行った時の感想で、「広島からヒロシマへ、そして再び広島へ」と書いたことがあります。具体性から幅広い普遍性へ、そして地域に根ざした具体性へ。
 「福島からフクシマへ、そして再び福島へ」。言葉が一人歩きするのではなく、生活や人生に裏付けられた(一瞬のうちに強制的に奪われた暮らしに思いをはせ)視点を大事にしつつ、打って出る戦いが重要だ、と改めて。                              
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その5。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-28 19:42:25 | じじばばがゆく
 浪江町に入って行きます。ここも無人の町。解体作業と除染作業と、その関連の作業員とトラックと。信号は点滅していても、通る人間はいません。ただ、車が行き来するのみ。地震と津波と原発事故で今や建物もそのまま放置され、あるいは解体中、そしてすっかり整地された区画が点々とあるだけ。

               
 建物が並んでいても、人っ子一人もいないというのは、実に不思議な、というより不気味な様相。

 JR常磐線・浪江駅前で下車します。

    
                                     荒廃したままの商店。

          駅前広場。1.21μ㏜/時。ここも、高線量。

常磐線「浪江駅」。そこにいるのは私たちだけ。

被災後の常磐線について》(以下、「Wikipedia」参照)

竜田 - 原ノ町間
 この区間は大半が原発事故後に警戒区域とされたことから詳しい被害調査ができず、富岡駅の津波による流失、大野駅の駅舎一部損壊や大野駅 - 双葉駅間の第一前田川橋梁上り線の崩壊の被害などが確認されている程度だったが、2015年2月までにすべての被害調査が完了した。
 代行輸送については、並行する国道6号も許可車両以外の通行が規制されていたため行われていなかったが、2014年9月15日からは自動車のみ自由通行が可能となったこともあり、2015年1月31日には 竜田 - 原ノ町間にてバス2往復による代行輸送を開始している。当初途中停車は設定されなかったが、2016年7月12日に小高 - 原ノ町間の運転が再開されたことを受け、利便性から運行区間は竜田 - 原ノ町のまま、小高駅のみ停車を開始し小高駅からいわき駅方面への乗り継ぎを可能にしている。

竜田 - 富岡間
 避難区域の再編後大半が避難指示解除準備区域となったが、富岡駅付近を中心に津波による被害が発生した区間である。2015年3月の国土交通省発表では、運転再開目標は竜田 - 富岡間は「3年以内」(2018年春まで)とされた。再開目標の提示以前から、津波被災区間について路線自体に津波対策などを施した上で現在位置で復旧させる予定が2013年に発表されており、富岡町のまちづくり計画では、拠点性の向上のため富岡駅を復旧に当たって現在位置よりやや北側に移設させる予定であるとされていた。その後、2016年2月には富岡駅の移設協議が進んだことを受け、運転再開時期を2017年末に繰り上げることが明らかにされた。

富岡 - 浪江間
 避難区域の再編後も大半が帰還困難区域および居住制限区域とされた区間である。この区間については高い放射線量の区間があることから、2015年3月の国土交通省発表では「除染や異常時の利用者の安全確保策を完了した後」の開通とされ、具体的な時期は明示されなかった。被災区間では最後まで再開目標が明示されていなかったが、2016年3月10日、国土交通省より2020年3月までに運転を再開する見通しが発表されている。
 これに先立ち、2015年8月に富岡駅 - 浪江駅間で除染の試験施工がJR東日本により行われている。2016年2月の報告によるとこの区間における帰還困難区域相当の空間放射線量であった区間は1割程度であり、試験施工についても効果が見られたと報告されている。
 なお、上り線が倒壊した第一前田川橋梁については、再利用が困難として、下り線も含め2015年6月29日から撤去工事を行った後、2016年3月18日に復旧工事を開始している。

浪江 - 原ノ町間[編集]
 避難区域の再編後大解除準備区域となり、2015年3月の国土交通省発表では、運転再開目標は浪江 - 小高間は遅くとも2017年、小高 - 原ノ町間は2016年春とされた。
 2016年7月12日には南相馬市小高区に出されていた避難指示が帰還困難区域を除き解除されることを受け、同日から除染・復旧工事が完了した小高 - 原ノ町間の運転を再開した。列車は原ノ町 - 相馬間の列車を一部延長するような形で設定となったが、相馬 - 浜吉田間が復旧する2016年12月10日以降は上り1本を除き仙台方面との直通は行われない予定である。

原ノ町 - 相馬間
 この区間は南相馬市内の一部が緊急時避難準備区域となったが、前後の区間と比較し被害が比較的少なかったため、区域指定が解除されていない2011年5月23日から相馬駅 - 亘理駅間のバスを延長する形で代行輸送が開始され、同年9月30日の緊急時避難準備区域解除を経て、12月21日に運行を再開した。運行再開の時点では徐行運転とし、2012年1月10日からは本来の速度で運転している。この運転再開時には前後の区間から孤立しており、原ノ町 - 相馬間で取り残された車両では運用が困難であったため、701系3編成6両を勝田車両センターへ転属の上、2011年12月13日から15日にかけ陸送で搬入、原ノ町運輸区に常駐させて使用している。
 なお、2016年7月12日の小高 - 原ノ町間再開時には同区間との一体的な運用が行われているが、同年12月10日の相馬 - 亘理間の再開後は震災前と同様仙台方面への直通が実施され、系統も原則的に原ノ町駅で分断となる予定である。

相馬 - 亘理間
 この区間は駒ケ嶺 - 亘理間で津波による設備の浸水・流失が発生したことから、亘理駅の中線にホームを仮設し仙台方面への折り返し運転を行い、相馬 - 亘理間でバス代行が実施された。バス便は各駅停車のほか、途中新地のみ停車する便や、山下 - 亘理の区間便が設定されている。途中駅についてはバス停は旧駅とは異なる場所に設置されている場所がある。
 この区間についてJR東日本は国道6号線沿いの内陸部への移設も視野に復旧案を検討し、沿線自治体である福島県新地町・宮城県山元町ではそれぞれ常磐線の線路(駒ケ嶺 - 浜吉田間)と新地駅・坂元駅・山下駅の3駅の移設を含めた都市計画が立てられたこともあり、相馬 - 亘理間のうち、駒ケ嶺 - 浜吉田間については現位置より山側に移設、相馬 - 駒ケ嶺、浜吉田 - 亘理間は現位置で対策工事を行い復旧させることが、2012年3月5日に発表された。
 うち、浜吉田 - 亘理間については復旧・避難対策完了後の2013年3月16日に先行して運行を再開した。ただしバス代行の区間は従来通りとされ、列車交換がない場合の跨線橋利用を避けるため亘理駅の仮設ホームも存置された。

 JR東日本では2019年の復旧を目指しているようですが、まだまだ本格的運用には時間がかかりそうです。

  
                          (上の図は「福島復興ステーション」HPより)

無人のホーム。

周囲の建物も撤去され、閑散とした駅前広場。

「建物撤去中」の幟が各所に。

 一歩住宅地に足を踏み入れると、整地された土地が目立ちます。
    

居酒屋のショーケース。

大きな総合病院。再開には多くの時間と費用が・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その4。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-26 21:50:47 | じじばばがゆく
 「国道6号線」を南下します。この先は、津波の被害にも遭ったところだそうです。場所によっては「6号線」を越えて津波が押し寄せたとも。地震と津波と原発と三重苦に見舞われたわけです。

 海岸側には広大な放射能汚染土集積場と沿岸堤防工事と数軒、取り残された家屋と、・・・。


        勇壮な相馬馬追いの絵柄も何となく元気がなさそう。

    
                  海岸側には一面見渡す限り、作物のない田畑が続きます。

 この信号から左側(海岸側)は一面、津波で流され、何もなくなってしまった?
    

広大な放射能汚染土の仮置き場。 

 秋たけなわ。紅葉も美しく、川の流れも穏やかなのに、いそしむ人の姿は無く、ただ工事用のトラックが行き交うのみ。


     
 手入れされない田畑にはセイタカアワダチソウが一面に。
           

護岸工事用の資材置き場。

解体された建物の残骸と荒野の中にぽつんと取り残された家屋。
        

川には崩れ落ちた橋の橋脚が立ったまま。

    

 これからどうすれば、かつての生活が取り戻せるのでしょうか? 一人ひとり、家族の、地域の生活再建の途方もない、遠さ。目の当たりにする現実。
                     

遠くに「福島第一原発」が見える(↓)ところで引き返しました。

    

 「浪江町」へ向かいます。途中の景色も秋模様。一見、穏やかな風景が広がります。
    

  が! 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その3。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-25 18:42:43 | じじばばがゆく
 高台に小学校があります。もちろん、閉校中。

 平日の月曜日、5年前なら元気な子どもたちの姿で賑やかだったでしょう。今は、子どもや先生の姿は皆無で、閑散としています。いつ再開できることやら。そして、何人の子どもたちが戻ってくることやら。

 5年前、都庁で都内への避難児童・生徒の受け入れ窓口をやっていたころ、その多くは飯舘、南相馬などからの相談でした。親の切実な声を受けながら対応してきました。その時、都内に転校してきた子どもたちはもう、中学や高校を出ているでしょう。そのまま都内に残ったり、新天地に旅立った子どもたちも多くいたことでしょう。もちろん、故郷に戻って、生活を再開する子どもたちもいるでしょう。
 はたしてこの小学校に何人の子どもたちが通うようになるのか?

学校入口への道ばた。草むらに置いた数量計。1.21μ㏜/時」。除染基準の5倍以上。

こじんまりとしていますが瀟洒な建物。

 土の入れ代えは終わったのか? やけにふわふわの土。誰もいない校庭。0.80μ㏜/時。 
    

 放置されたままのカサ、一輪車・・・。
    

             「元気いっぱい いいといっ子」。


「立村五十周年記念植樹 やまぼうし」。

集落を望む。

次の目的地に進む沿道にも。

 再開を待ち望む飯舘中学校。校舎もグランドも今は、無人。裏山では造成工事中。
    

いつ、かつてのような賑わいを取り戻せるのか? 

開業してまもなく避難を余儀なくされた病院。

 その先の役場では帰還に向けて業務を再開したようす。地域の車もたくさん集まっています。しかし、その周囲には無人の家、家。荒れ果てた農地が広がります。
            


 途中、トイレ休憩で立ち寄った「いいたてミートプラザ」。ここは、「飯舘牛」というブランド。しかし、営業再開のめどは?
    

プレハブの復興・除染作業員宿舎が点在。

 昼食休憩した「南相馬原町区道の駅」観光案内板。いくつもの観光地が「津波被災」の張り紙が貼ってあります。
                           
真野川漁港(鹿島区)、北泉海水浴場(原町区)、オートキャンプ場(原町区)、村上海水浴場・キャンプ場(小高区)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その2。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-24 21:58:52 | じじばばがゆく

                            全国からの参加者。
    
  北海道から。                                 九州・沖縄から。

                         
 訪問した現地は、その当時のままに取り残され、果てしもない除染作業と建物の解体作業。交差点の信号の点滅で行き交うのはそうした作業関連の車のみ。日常生活の匂いがまったくない地域にも足を踏み入れました。

 翌、14日。バスに乗り込むと、最初に「放射線量計」を手渡されました。「0.23μ㏜/時以下に除染することになっていて、福島市内は0.13か0.14くらいですが、これから行くところは数値が上がっていくはずです。住宅の半径20㍍以内は除染する、ことになっていますが、それ以外はそのまま放置されているのです。特に、枯れ葉が多く溜まっているところなどは、最近計っても高いところがまだまだあります。」

 福島駅周辺の繁華街から郊外へ向かうと、手元の数値はしだいに上がっていきます。
    「0.48」

 飯野町、川俣町通過。沿道には避難している児童・生徒、教職員のための仮校舎(飯舘村小学校仮設校舎)。
   

人の気配がない、放置されたままの住宅。

 バスの中から、広大な土地に黒い袋(「フレコンパック」というそうです)が山積みされ、さらにグリーンのシートをかぶせたものが並んでいるのが多く見られるようになりました。
 「除染作業によって集められた汚染土の仮置き場です。道路沿いのあちこちに山積みされた広大な敷地が広がっています。帰還しても周囲にこのような状態では不安になるのは当然です。いつまでなのか、目処もたっていません。また、どこだってこういうものを受け入れようとする住民はいないでしょう。」

    

 その周囲の田んぼだったと思われる土地は除染作業で荒れ地になった土地に草が生えているのみです。そういう風景が目の前に広がってきます。
    

作業車が行き交う傍らにうち捨てられたバス。

 飯館村飯樋地区に入って来ました。ここもまったく人の気配、生活の匂いがありません。
    

「飯舘解体 安全巡視車 古俣・斎藤JV」。

郵便ポストの張り紙に書かれた生々しい現実。 

平成23年6月30日
 ポストの閉鎖について
 このたび飯舘村全域が、原子力災害対策特別措置法に基づく「計画的避難区域」に設定されたことに伴い、飯舘村全域の集配業務を休止させていただきます。
 つきましては当分の間、本ポストも閉鎖させていただきます。
 「計画的避難区域」解除後に、再開を予定しておりますので、皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

 郵便事業株式会社 福島支店

 こうしてすでに5年以上の月日が経過しました。

 生活が止まったままのおうち、一方で、帰還のために新築しているおうちもあります。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「福島第一原発事故」の現状を現地で学ぶ。その1。(じじばばがゆく。学習編。)

2016-11-22 19:51:36 | じじばばがゆく
 11月13、14日。両日とも晴時々曇り。

 福島に行って来ました、かつての仲間と共に。全国からは北海道から沖縄まで40名以上の参加者。
 初日は飯坂温泉「公立学校共済・あづま荘」で学習会と交流会。翌日は、バスで現地を案内してもらいました。

 新幹線で「福島」。そこから「飯坂温泉」までローカル線で。「飯坂」は松尾芭蕉の「奥の細道」にも登場する、有名な温泉地。といっても、華やかさをはほとんど感じない、大きな旅館・ホテルもあるようですが、全体的にはひなびた風情のある温泉地。
 駅から宿舎まで歩いてみました。駅前には、芭蕉の像。

    

 其の夜、飯塚(注:「飯坂」のこと)にとまる。いで湯あれば湯に入りて宿を借るに、土坐に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入りて雷鳴、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶、夜の余波、心すゝまず、馬かりて桑折(こおり)の駅に出ずる。遥かなる行末をかゝえて、斯る病、覚束なしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是れ天の命なりと、気力聊かとり直し、路、縦横に踏んで、伊達の大木戸をこす。

                                                          (「奥の細道」より)
 この文章を読む限り、芭蕉は飯坂温泉にはいい思いをしなかったようですが。
   
    豪華な建物・「波来湯(はこゆ)」。

波来湯(はこゆ)
 平成23年に改築された波来湯は開湯以来1,200年もの歴史があるとされており、おおよその開業年代が分かる共同浴場としては飯坂温泉最古の共同浴場といっても過言ではありません。
 当時、十綱橋近くの摺上川沿いの露天風呂として開業した波来湯は交通の便も良く、古くは伊達地方からも軽便鉄道を利用しながらの利用者も多かったとされ、現在も飯坂温泉駅からほど近い場所にあり、周辺環境も整備され観光客も含め、県内外からの利用者も多く訪れています。
 地下1階に浴室があり、男女ともに飯坂ならではの源泉掛け流しの熱い湯と、適温に調整された温い湯の2つの湯船が設けられています。
 波来湯の隣には波来薬師や乙和の清水といった史跡があり、手湯や足湯、東屋などが整備された波来湯公園は、季節ごとに楽しめる植栽とともに憩いの場所となっています。
 名前の由来ですが、これには諸説あり箱形の浴槽だった、摺上川の波の来るところにあった、周囲が岩で囲まれた場所から「ハコ」・・等、多くは謎に包まれています。

「摺上川」。

    
                               見事な紅葉。

    
  「芭蕉ゆかりの地入口」碑。73段の石段で、「滝の湯」への道。

飯坂温泉名物 ラジウム温泉たまご。

    
 この橋を渡りしばらく進むと、会場です。

    
 学校ぐるみ避難を余儀なくされた現場の先生の講演です。この飯坂温泉にもそうした仮住まい、仮校舎があるとのことです。

 次回から現地のようすを。

 ところで、早朝、福島沖の地震には驚きました。「大地震」「大津波」「原発事故」という前代未聞の災害を被った現地が再び大きな災禍に見舞われた! と。
 報道では、仙台市では1メートル40センチ、福島県相馬市で90センチと太平洋沿岸各地で津波が観測され、福島第二原発3号機の使用済み核燃料プールの冷却装置が一時停止し、約1時間40分後の午前7時47分に再開した、と。原因はいったい何だったのか?

 うねるような奇妙な揺れ方にすぐに3・11を思い出す。福島の地域住民はかつての悪夢が甦ったのではないでしょうか。  「ニュージーランド」に引き続いて起きる大地震。いやな予感がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿~松戸~小金。その4。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-19 13:40:37 | 水戸街道

 (13:35)「旧水戸街道」は「6号線」から斜め右に入って行きます。
    

水戸街道
 江戸と水戸を結ぶこの街道は江戸時代には諸大名、旗本の往来で賑わっていました。松戸市内は大部分が国道6号線として整備され、大きく変貌しましたが、現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。

 緩やかに曲りながら下り、JR武蔵野線のガードをくぐります(13:38)。
    

今度はくねくね曲がって行きます。左にあるおうち。土留めに常滑焼きの甕をびっしり敷き詰めてあります。3、400個はあるでしょうか? 壮観です。


 来た道を振り返って望む。のどかな昼下がりの街道です。
    

左手にポツンと古い祠。

 (13:50)再び「北小金駅入口」交差点で「国道6号線」と合流し、そのまま北小金駅方向に進み、「小金宿」に入ると、旧家が続きます。
    

(13:53)「日蓮正宗・金龍山一月寺」。

 江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。
    

 普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。

 ・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。

注:普化宗(ふけしゅう)
 日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
 1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
 心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
 普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
 江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
 1950年、宗教法人として普化正宗明暗寺が再興された。
                                                          (以上、「Wikipedia」参照)

注:虚無僧
 「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)

沿道には旧家が並んでいます。

    「玉屋」小金宿の旅籠。

    「玉屋」解説板。

旅籠玉屋
 此処の街道は旧水戸街道として有名であるが、成田街道の道筋でもある。小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原形を留めている。当時の小金宿では鈴木、月見里、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊が役職に従事していたが、いまだ姓は現存している。

「東漸寺」。

(14:09)「小金宿」。  

・・・今日まで小金町は松戸市の中でも歴史文化を大切に継承してゆく思いが色濃く残る地域で会って「歴史と花と緑のある街」のイメージを子供から年配の人まで共有し住んでいる人達が一つになり魅力ある豊かな街づくりを進めてきました。
 近年の昭和29年10月に小金町は東葛市(現在の柏市)と市境を変更する形で旧小金町の大部分が松戸市に合併して60周年を迎える年となります。
 当時の人口は8千人、現在、平成27年には4万3千人となりました。
 ここに、平成26・27年度、小金町記念事業として次世代に向けた伝統の継承を祈念し小金宿観光モニュメントを設立しました。

小金宿(こがねしゅく)
 水戸街道千住宿から3つ目の宿場町。現在の千葉県松戸市小金にあたる。
 中世において小金城の近くまで迫っていた太日河(江戸川)河岸からの城下に向かって形成された金宿(こがねしゅく)を原点として、水戸街道の整備とともに宿場町を形成していったと考えられている。宿場は南北に約1キロ程度の範囲に広がっており、北端で屈曲して東に向きを変えている。屈曲点からは更に北に本土寺への参道が伸びており、追分の石碑が建てられている。この屈曲点には八坂神社があったが、再開発によって別の場所に移転し、跡地は商業施設となっている。
 家並みは百軒余りで宿場町としての規模は大きくなかったが、幕府の軍馬牧場である小金牧の近くに位置しており、重要性は高かった。一般大名用の本陣が置かれていたほか、水戸藩は独自に本陣(日暮家)を指定していた。

                    (「Wikipedia」より)


    
    
1880年代のようす。                        現在のようす。


(14:13)交差点の角に道標二基。  

 一つには「右 水戸海道」もう一つには「右 水戸道中」と刻まれています。「旧水戸街道」は、右折して「国道6号線」との交差点「根木内」へ向かいます。

 (14:15)まだまだ陽は高いですが、今回は、ここで終了します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

強い者に気に入られるそうだ、アベさんは。

2016-11-18 19:19:41 | 平和
安倍首相「信頼築けると確信」=トランプ氏と初会談―1時間半、再会で一致

 誰よりも早く、イの一番に駆けつけたアベ。機を見るのに敏であることは認めます。

 トランプ氏は強烈な個性の持ち主ですが、安倍首相と個人的にウマが合うとも言われています。首相自身も「ワンマンタイプの大統領や首相に好かれる」と周囲に漏らしたことがあるそうです。

 (HPより)

 プーチンにもそのようだし、自分もそうであるという自負心なのか、それとも何にも中身のな~い、ただのポチなのか。・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿~松戸~小金。その3。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-17 18:48:35 | 水戸街道

 「春雨橋」を過ぎた、その先、左に剣豪千葉周作の実父、浦山寿貞の墓と、周作の剣の師である浅利又七郎の供養碑がまつられている「宝光院」があります(11:39)。
 「宝光院」の入口には、「千葉周作修行之地」(右)と記された標柱が建てられています。
    

千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
 幕末の剣豪・千葉周作は文化6年(1809)15歳の時一家で陸前国(岩手県)荒谷村から松戸宿に転居、馬医者を営む父の忠右衛門(幸右衛門)は浦山寿貞と称してこの参道付近に開業します。また、幼児から剣術に長けていた周作が入門した浅利又七郎の道場が宝光院と善照寺の間にあったと言われています。
 周作は又七郎の下で才能を開花、23歳で又七郎の師江戸の中西忠兵衛に入門し、数年後には免許皆伝を許されます。のちに又七郎の娘婿となり道場の後継者として期待されますが、流儀に対する考えの違いから免許を返上、離縁してしまいます。
 修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、神田に「玄武館」を開きます。周作の合理的な剣法は評判を集め、多くの徒弟を輩出するに至りました。
 浅利道場の建物は現存しませんが、宝光院境内に又七郎の供養費がまつられています。
 周作の父、浦山寿貞は天保2年(1831)に没、その墓所もこの境内にあります。
 「千葉周作修行之地」標柱の材木は旧松戸宿本陣の大黒柱です。

「本陣大黒柱」。

「松戸探検隊ひみつ堂」。
                             まつど観光案内所。「空き家相談窓口」の看板も。

    
          「松戸駅」近くにある「水戸街道」「旧松戸宿」解説板。

水戸街道
 江戸幕府は東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の5つの道を「五街道」と呼び、最も重要視し、道中奉行を置き、五街道を直接管理しました。他に五街道に付属する街道として水戸佐倉道、日光御幣使街道なども道中奉行が管理していました。
 水戸佐倉道は、日本橋を起点に①千住を経て②新宿で水戸街道と佐倉道に分岐します。俗に水戸街道二十宿といわれ新宿から③松戸、④小金、⑤我孫子、⑥取手、⑦藤代、⑧若柴、⑨牛久、⑩荒川沖、⑪中村、⑫土浦、⑬中貫、⑭稲吉、⑮府中(石岡)、⑯竹原、⑰竪倉、⑱小幡、⑲長岡と経由して⑳水戸に入ります。江戸と水戸の間の距離29里31町(117㎞)を当時の旅人は普通2泊3日で旅をしました。参勤交代の際に水戸街道を利用する大名は仙台、相馬、平、土浦、笠間など20余藩があり、大名行列では3泊4日の日程で通行しました。
 江戸川の渡し場には「金町松戸関所」が設置され、番所は金町側に置かれました。通行は明け六つから暮れ六つまでの間で、夜間は一般人の通行が禁止されていたため、松戸宿の旅籠は相当繁盛したといわれます。

旧松戸宿
 松戸宿は水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる形態をしています。宿には公用の武士が宿泊する本陣・脇本陣があり、たくさんの旅籠や商家が軒を並べ、江戸末期の記録では戸数は450余りを数え、商いには28軒の旅籠をはじめ、鍛治屋、荒物屋、魚屋、八百屋、酒屋、畳屋、煙草屋、蕎麦屋、髪結い、桶屋、医者、大工、建具屋、染物屋、薬屋、湯屋、下駄屋、傘屋、質屋、豆腐屋、鞄屋等のあらゆる商売の店が軒を並べ、六歳市(6回開かれる定期市)も開かれ大変賑わっていました。
 また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ、利根・江戸川流域の水上輸送もありました。特に銚子方面から送られる鮮魚は布佐(我孫子)で陸揚げし、平塚・藤ヶ谷(柏市)・金ヶ作(現常盤平)を経由して松戸河岸まで陸送し、ここから江戸へ送られました。
 銚子方面から江戸への陸送路は他にもいくつかありましたが、このコースが最も利用さ鮮魚(「生)街道と呼ばれました。

「松戸駅」西側の繁華街を進みます。
 
 その先「根本」を過ぎてしばらく進み、JR線の跨線橋(歩道橋)を越え、北東に向かいます(「県道261号線」)。「竹ヶ花」を経て、「上本郷」で「国道6号線」に合流します(12:25)。
    
                                       振り返って望む。

 大きなおうちに、松の木。
    

「国道6号線」。 

 「北松戸」駅近くのラーメン屋さんで昼食、休憩して、再開です。

                       「東京から20㎞」ポスト(12:57)。

「北松戸」を過ぎ、「中根立体入口」交差点から左手の「馬橋駅」方向に入ります。
         

 (13:08)すぐ先に「馬橋」という地名の起こりになった「馬橋」があります。
    

解説板。  

馬 橋
 鞍型の橋から名が生まれる。「馬橋」という地名のもとになった橋である。
 その昔、長津川にかかる旧水戸街道のこの橋は多くの旅人が往来したが、大雨のたびに流された。そこで、満満寺と縁のあった良観上人が馬の鞍の形をした橋をかけさせたところ、それ以後流されることはなくなった。
 今「鞍」を思いおこさせるものは何もないが、以来、人々はこの橋を「馬橋」と呼ぶようになった、と伝えられる。

※右の説明板。
 本土寺過去帳に「マハシ」の地名が出てきます。「馬橋」の名は、この橋にちなんで名付けられたといわれ、江戸時代には水戸街道が通っていました。

    
 旧水戸街道(駅方向)。                                     (「国道6号線」方向)。

「馬橋駅入口」から進み、右斜めに曲がる、その正面に「萬満寺」。

                                 その手前には大きなおうち。
    

  
  
  
1880年代のようす。←が「馬橋」。           現在のようす。




                          「八ヶ崎交差点」。
    

「歩道橋」を渡った向こう側に「道標」。  

水戸街道道標
 水戸街道を利用する旅人の道しるべです。碑文から文化3年(1806年)に建てられたことが分かります。

「左 水戸街道」・「右 印西道」「葛飾郡馬橋村」。

            (13:28)その先右手に「一里塚跡」碑。
     

沿道の左右には大きなショッピングモール。

こちらは大がかりに造成中。

(13:33)「東京まで22㎞」ポスト。

左手に「蘇羽鷹(そばたか)神社」。
    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿~松戸~小金。その2。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-16 21:28:38 | 水戸街道

 鋭意、工事中の「外環道路」(「外かん葛飾大橋」)の下をくぐります。次の写真は公開されたときのようすです。

  (HPより)

 金町からは渡しで対岸の松戸へ向かいました。「金町関所」跡碑が「葛飾橋」先、「東京都水道局東金町ポンプ場」のところにあります(10:51)。
    

金町関所跡
 金町関所は、金町松戸関所と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門でした。関所の施設がある一帯は金町御番所と呼ばれ、4名の関所番が明治2年(1869)まで、その任にあたりました。
 対岸松戸宿との間には渡船が常備されていましたが、将軍が小金原に鹿狩りに出かける際には、江戸川に高瀬船を並べた仮設の船橋が架けられました。4度行われた鹿狩りのうち、最後の嘉永2年(1849)の資料は、関所付近のようすを多く伝えています。
 その後、明治末期に行われた江戸川の改修により、御番所町の家並みの一部は拡幅された堤防の下となり、江戸川の河身も大きく変貌しました。
 関所跡は、松戸宿との位置関係から、現堤防下の河川敷一帯と想定できます。
 
                                葛飾区教育委員会

「船橋」のようす。


1880年代のようす。渡し付近に家並みがあります。


現在のようす。河床はほとんど変化していませんが、河川敷の整備で堤防が大きく変わっています。

土手から対岸・松戸方面を望む。

 (10:57)「葛飾橋」を渡り、対岸の松戸へ向かいます。
    

 かつて家並みがあった辺りは、河川敷になって、ゴルフ練習場になっています。
    

(11:01)東京都から千葉県に入ります。

右が千葉県、左が東京都。

 (11:25)小休止のあと、「葛飾橋」からしばらく土手伝いに行くと、左手に「松戸宿」の入口を示す傍示杭(石碑)が建っています。
    

「是より御料松戸宿」碑の建立由来
 江戸時代後期に幕府によってまとめられた「水戸佐倉道宿村大概帳」によると、松戸宿の「榜示杭(境杭)」は「宿の前後境にあり、建替えは支配代官が取扱う」とあります。
 「宿の前後境」とは、北側は根本村境、南側は江戸川を隔てて対岸の金町松戸関所に相対する下横町渡船場のことで、水戸道中松戸宿の出入口を指しています。
 これを同じ頃幕府が作った「分間延絵図」(重文)にみると、確かに宿の出入口に高札を並んで「御料(領)榜示杭」の文字と絵が描かれています。
 この「御料榜示杭」にどのような文字が書かれていたのかは分かりませんが、街道の通行人に土地の支配関係を知らせる必要から、僅かに口承にも残っていたように、「是より御料松戸宿」などと書かれていたものと推定されます。
 特に、ここ下横町渡船場は、江戸川を船で渡って水戸道中松戸宿に入ってくる宿の玄関口でもあったので、これを永く記念し記憶に留める意味から、この標石を建立しました。
 なお、本来この「御料榜示杭」は木製で、位置も道を挟んだ反対側(南側)で、現在堤防から河川敷になっている付近に建てられていました。
 平成7年6月3日         寄贈 松戸西口ロータリークラブ

                            

土手から対岸(金町側)を望む。

松戸宿・下横町(渡船場)を望む。

位置関係を示す図。

船着場らしい町並み。

 (11:28)宿内に入ると、古い商家などの建物などが残っています。
    

ほぼ直線の道に沿って町並みが続く。

本陣跡は「松戸郵便局」のようですが、説明板に気づかず。

松戸宿
 水戸街道千住宿から2つ目の宿場町。現在の千葉県松戸市松戸・本町にあたる。
 江戸時代には江戸川に橋は架けられておらず、渡船となっていた。松戸側にも渡船場跡付近に天領を示す御料傍示杭が建ち(現在はその付近に石碑が立つ)、そこが松戸宿の江戸側の端となっていた。
 松戸宿近在の農家には江戸川対岸に農地を持ち、自家用船で川を往来する者もあった。
 松戸の宿場町は南北に約1キロほどの範囲に広がっていた。松戸はまた、物資集積地としても栄えた場所であり、数百軒の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。運河としても使われた坂川が市街地を横切って流れている。
江戸川に隣接した松戸宿は物資の中継地として大変賑わった宿場で、
 天保14年(1843)の水戸佐倉道宿村大概帳によると、本陣1、脇本陣1、旅籠28、家数436とある。

その先、右手にあるのが「松戸神社」。

                   古くて立派な木造のおうち。
    

 (11:37)宿内を流れる「坂川」に架かっていた「春雨橋」のところにある「松戸宿 坂川の歴史」解説板」。
    

 古くからここには水路があり、街道をよこぎっていた。橋は水戸石橋と呼ばれていたとつたえられている。
のちにかわの名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。
松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で街道の東側は田畑が広がっていた。
米が豊富な宿場では餅菓子や煎餅などを売る店が多かったと言われている。 
                      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新宿(にいじゅく)~松戸~小金。その1。(「水戸街道」をゆく。第1日目。)

2016-11-15 20:07:34 | 水戸街道

 先日、長年お世話になった方が亡くなり、土浦まで出かけました。初めて知ったことでしたが、その方のおうちは旧水戸街道沿いのお宅でした。旧家の方というお話しは聞いておりましたが。
 ふとした思いつき。これを機会に「水戸街道」を歩いて行ってみようか、何日かかるかわかりませんが、ま、冬でも晴れ間なら歩くのはそれほど大変ではないのでは・・・。

 「水戸街道」は「五街道」につぐ重要な街道だったともいうので、さっそく調べてみました。現在の「国道6号線」がほぼかつての街道をなぞっているようですが、思ったよりも旧道が残っています。沿道もけっこう見所が多そうです。

水戸街道
 江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。
 現在、水戸街道は国道6号の東京都墨田区向島~茨城県水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。
 水戸以北は岩城街道(または磐城街道)と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流し、仙台まで続いていた。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではあったが、奥州街道ほどには栄えなかったとされる。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われた。
 水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため国許である水戸と当主が居住する江戸との間で緊密に連絡を取りあう必要があった。このため街道筋には水戸徳川家専用の施設が多数もうけられていた。また幕末百話によると宿場人足も水戸様御用を笠に着て横暴な振る舞いが多かった。(以上「Wikipedia」参照)

 「下に~、下に~」の世界でしょうか。

 水戸まで約110㎞。果たして何日かかるやら。

 HPより借用)

 その第1日目。11月12日(土)曇りのち快晴。

 旧日光街道・「千住宿」から分岐して進んでいたのが江戸時代の水戸街道。現在は明治から大正にかけて開削された「荒川(放水路)」があり、千住からの道は断絶。葛飾の小菅、「東京拘置所」裏付近から東に向かい、綾瀬川に架かる「水戸橋」(この橋も付け替えられています)を渡り、JR綾瀬駅、亀有駅の南側を通過し、「中川」を渡って「新宿(にいじゅく)」に入ります。
 ここまでは、すでに何度か取り上げていますので省略し、「新宿」から出発することにします。

 今回は自宅から歩きで出て、JR常磐線「北小金」から「亀有」まで戻り、そこから自宅まで歩いて戻りました(計:約32,000歩)。 

《再掲》

 そろそろ「千住宿」もおしまいというところに、
  「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。

(9:48)「新宿一里塚」バス停が今回の出発点。

 「新宿」を出て、「国道6号線」に出る直前。「一里塚跡」は亀有駅の南に「亀有一里塚」跡の記念碑があります(水戸黄門様ご一行とともに)ので、そこからまだ1里にはなっていないようですが、・・・。

《参考》「亀有一里塚」碑。

 ところで「新宿(あらしゅく・にいじゅく)」

 水戸街道千住宿から1つ目の宿場町。古くは「あらしゅく」と呼ばれていたが、現在は「にいじゅく」と読む。
 現在の東京都葛飾区新宿2丁目にあたる。江戸から来て中川を渡って現在の中川橋東詰から屈曲して南下する筋が、江戸側から上宿・中宿、日枝神社付近で屈曲して東に向う筋が下宿と、大きく三つにわけられている。小規模な宿場町で、本陣は置かれなかったとされる。2005年時点で既に古建築を見出すことはできない。
 下宿の東端(現在の国道6号中川大橋東交叉点)付近には、佐倉街道(成田街道)への追分があり、石碑(水戸街道石橋供養道標)が建てられていた。当該石碑は、葛飾区郷土と天文の博物館に保管されている。
 新宿は大きく枡形を構成していたが、その後枡形をショートカットする道が作られ、旧道筋はわかりにくくなっている。
 (以上、「Wikipedia」参照)

「金阿弥橋」(「追分橋」とも)。その付近に「右なりた千葉寺道 左水戸街道」と刻まれた道標がありましたが、現在は撤去され、「葛飾区郷土と天文の博物館」に保存されています。(余談ですが、ここのプラネタリウムはなかなか企画もよくていい施設です。何度か行きました。―京成「御花茶屋」駅下車―。)



「国道6号線」を越えた正面の道が「佐倉街道(成田街道)」。水戸街道・新宿から分岐して南方へ向っていました。



 さて、「道標」の位置関係からすると、旧水戸街道はここで現国道6号線に吸収されてしまったようにも思えますが、ここで曲がって今度は北に向かって、桝形をショートカットした道と合流しています。この付近の旧道の道筋は周囲の道路拡幅整備工事で不明。

 北に進むとY字路になり右の道を行くと、三角地帯にこの付近の道幅拡張工事に伴い、一カ所に集められた石像がたくさんあります。その記念碑には、「旧水戸街道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿4丁目2番地先より現在地に移転」とあり、また、「帝釈道」(注:柴又帝釈天への道)と刻まれた石碑もあります。

    

右が「帝釈道」、左が「水戸街道」。
 

1880年代のようす。○が追分。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)



現在のようす。○が同地点。(「同」より)


 (9:56)「JR新金線(金町~新小岩を結ぶ貨物線)」の踏切に「浜街道」(「水戸街道」の別称)という名称。奥にある踏切は、「帝釈道踏切」。
 

    
                     「金町」方向へ進みます。
 
 それまでほぼ直線で進んで来た道が少しカーブします。かつてのままの道筋が残されています。
    

    
1880年代のようす。                現在のようす。 

 その先で、「国道6号線」に合流します。
    
                                       来た道を振り返って望む。 

 「国道6号線」は大きく右に曲がって松戸方向へ進みますが、旧水戸街道は左折して進みます。


(10:18)JR線をくぐります。「第一浜街道ガード」。

 すぐ「歩道橋」を右に渡り、「葛西神社」方向に向かいますが、歩道橋工事のため、その先の信号を渡り、少し戻ります。


戻った角にかなり古い「道標」。    ??

 (10:26)旧道。前方、右手に「葛西神社」。
    

「葛西神社」解説板。

史跡 葛西神社(葛西ばやし発祥の地)
 ・・・享保年間当社の神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し、今なお当地方の郷土芸能の一つとして伝わり、昭和28年11月3日、東京都無形文化財に指定され今日に至る。

                                     葛飾区 葛飾区観光協会

 (10:35)江戸川の土手に出ます。振り返って望む。
    

はるか遠くに「スカイツリー」。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白坂宿~白河宿~女石の追分。その5。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-11 22:49:50 | 奥州街道


 (12:07)交差点の右の角に新しくて大きな道標があります。
  

道標(複製)
 建立年 嘉永2年(1849)
 高さ  2.05㍍

 本町にある奥州街道と棚倉・石川方面の街道が交わる交差点、通称「四ツ辻」に建てられていた石造の道標です。
 白河城下を東西に走る奥州街道はここから北に方向を変え、城下を出た女石の追分で会津街道と分岐し、桑折宿(福島県桑折町)では羽州街道と分岐して仙台方面に向かいました。
 この道標は江戸時代後期の嘉永2年に建てられたもので、北側・西側・南側の3面に文字が彫られています。奥州街道を下る場合に目にするのは、西側に彫られている文字、上ってきて四辻に達したときにに目にするのは、北側に彫られている文字です。

 せんだい あいづ
(西側)左 で八(出羽) ゑちご(越後)
    右 日光 江戸
(北側)
    左 たなくら い八き(いわき) 水戸
(南側)嘉永二年己酉四月

コーナーには「奥州街道と白河城下」解説板。

 いよいよ最終コーナー。
 左折して「「横町」に入り、「田町大橋」で「阿武隈川」を渡ります。その先が「女石追分」。


「横町」。 

 本町の四辻から北に直角に折れる奥州街道に沿って南北に延びる町です。小峰城の東側に接し、町の北端には三の丸に入る「横町門」があり、東側には藩の家臣が住む「番士小路」がありました。
 町名の由来は分かっていませんが、大手(追手)門のある城の正面に対して、その横にある町という意味とも推測されます。
 「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は112軒とあります。

                                白河市

「白河だるま」のお店。

    
              (12:13)JR東北本線のガードをくぐります。「陸羽街道」とあります。

左手に「応急仮設住宅団地 双葉町」の表示。

「田町」。    

 北側を流れる阿武隈川と接するのが田町です。江戸時代中頃まで、阿武隈川は歩いて渡っており、橋が初めて作られたのは元禄2年(1689)のことと伝わります。
 会津・仙台方面からの入口で、町の北端には城下の入口を示す大木戸が置かれていました。また、大木戸の外側には享和3年(1803)の洪水で失われた「河原町」がありました。
 町の中央付近に城内に入る「田町門」があり、三之丸の北小路と通じていました。
 「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は131軒とあります。

                                白河市

(12:19)「田町大橋」。「阿武隈川」を渡ります。
                  
    

阿武隈川(あぶくまがわ)
 福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で、一級河川。水系としての流路延長239kmは、東北で北上川に次ぐ長さの川。古くは大隈川と呼ばれていた。
 那須岳の1つ三本槍岳のすぐ北に位置する福島県西白河郡西郷村の甲子旭岳に源を発し東へ流れる。白河市に入り西白河郡中島村付近で北に流れを変えると、須賀川市・郡山市・福島市と福島県中通りを縦貫して北に流れる。
 福島県と宮城県の境界付近では、阿武隈高地の渓谷を抜ける。この区間を並走する国道349号は、待避所のある1車線の険しい道路となっている。宮城県伊具郡丸森町で角田盆地に入り、角田市を流れて仙台平野に出る。現在は岩沼市と亘理町の境で太平洋に注ぐが、古代の旧河口は現在の鳥の海である。
 勾配がゆるやかな川で穏やかな印象があるが、増水時にはあふれやすく洪水被害の絶えない暴れ川でもある。1986年には台風による増水で大規模な洪水が起こっているほか、2011年には津波の逆流により大規模な海嘯が発生している。
                                             (以上、「Wikipedia」参照)

                               遠く那須岳一帯を望む。

 (12:30)しばらく集落の中を進み、坂を越えると、「女石」に達します。

女石の追分。

 「奥州街道」と「会津街道」との追分の手前、左手高台に戊辰戦争で戦死した仙台藩士の戊辰戦歿之碑(中央の石柱)が建っています。
    

「戦死供養塔」と解説板。

仙台藩士戊辰戦歿之碑
 かつて会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点であったここ女石の地にあるこの碑は、明治23年(1890)、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。
 なお、この碑の傍らの「戦死供養塔」は、白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓で、明治2年(1869)の建立である。

                           白河観光物産協会

「仙台藩からす組の旗」。

そこから「追分」を望む。右が「奥州街道」、左が「会津街道」。
                 

    
 奥州街道。               会津街道(「国道294号線」)。その先は「国道4号線」との交差点。 

左手にある解説板。

ちょっと足を伸ばして、「国道4号線」との合流地点まで。

「国道4号線」(郡山方向)。

 (12:40)左手にある「コンビニ」で昼食を食べながら、休憩。

 幕府管轄の「奥州街道」は、「女石の追分」まででした。「追分」から来た道(「奥羽街道」)を振り返って望む。
                                    

(「今昔マップ」より)

           ○が女石の追分。右手に旧奥州街道が続きます。上の道が国道4号線。

今回の旅もここで終了。JR白河駅まで戻ります。ほとんど寄り道をしなかったせいか、時間も距離も短く済みました。

(13:18)白河駅構内。

ホームから望む「小峰城」。

 芭蕉が訪れた「白河の関」は訪れることはできませんでしたが、「奥の細道」の一節を。
 
 心許(もと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便(り)求めしも断(ことは)り也。中にも此(の)関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶(ほ)あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲(き)そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

  卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良

 当時、「白河の関」は、旧奥州街道(国道294号線)よりももっと東側の道を進んだところにありました。現在、旧跡「白河の関」として残されています。今回で「奥州街道」歩きの一区切りとします。松尾芭蕉と曽良は、もっともっと北上し、奥州から日本海側に歩みを進めていきました。

 中断している「中山道」歩きは、来春にでも再開することにして、このかんに「甲州街道」歩きにチャレンジしてみようかとも思っていますが・・・。 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白坂宿~白河宿~女石の追分。その4。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-10 18:44:50 | 奥州街道
 (11:54)宿内には、他にも明治期の歴史的建造物が残されています。ただ、この地域は戊辰戦争の激戦地だったため、明治以前の建物、史跡等はほとんど残っていないようです。旧奥州街道の道筋のみがかつてを知る手立て?


歴史風致形成建造物 大谷家住宅建造物群 
 大谷家は、元々味噌醸造を営む商家であった。明治後期に本町大谷忠吉本店から味噌醸造店として分家・創業し、昭和52年頃まで営業していた。
 旧奥州街道に面した2棟の蔵は、創業当時の明治後期に建築されたもので、内部空間は土間を持つ店舗や座敷蔵となっており、主屋部分は中庭に連続する伝統的な町屋建築となっている。
                               白河市

その隣には、「楽蔵」。
                 お土産屋さん、飲食店などが並んでいます。「白河戊辰見聞館」などもあり。

  (HPより)

 しばらく進むと、再び桝形になり、「常陽銀行」のところを右折、その先を左折していきます。
    
                                        左折したところ。右角にベンチあり。

「中町」から「本町」に入ります。宿場の中心街。

(12:00)右手に「本陣芳賀家跡」があります。現在は「堀川印刷所」となっている辺り。

白河宿本陣芳賀(はが)家跡
 本陣は、江戸時代の大名、幕府役人などの宿舎となる旅籠である。白河宿の本陣は、この地にあった本町の芳賀源左衛門家が代々務めた。明治9年(1876)明治天皇の第1回東北巡幸の際には休憩所とされた。本陣芳賀家の表門口は当時約16間余り(約30m)であった。
                                             本町復起会
      
その向かい側に「脇本陣柳屋旅館跡」。

歴史的風致形成建造物 旧脇本陣柳屋旅館建造物群
 本町は江戸時代の奥州街道白河宿の中心で、本陣・脇本陣をはじめ旅館が50軒ほど軒を連ねていた。この地は脇本陣柳屋旅館跡地で、奥には当時の旅館の屋敷蔵がある。脇本陣を経営していた柳下家は、江戸時代の「本町絵図」には旅館渡世 柳屋丹右衛門」と記され、代々旅館を経営していた。
 表通りに面して建つ建築物は明治期に「勧工場(デパート)」として建築されたもので、文明開化の時代を伝える洋風建築物である。奥には江戸時代に建築された座敷蔵があり、明治14年(1884)に明治天皇の宿泊所になった由緒を持つ蔵である。座敷蔵は3室あり、一番奥の座敷は玉座と呼ばれ、床の間・違い棚・付け書院を兼ねた本格的な書院空間となっている。

                                            白河市

 左の建物がその「勧工場」。白河における初めての百貨店の建物だったようです。当時の雰囲気が外装などに感じられます。
    



白河県立病院・白河医術講議所跡」。
 明治4年(1871)8月、白河県(明治2年~4年)は、県立病院と医術講議所を白河宿本陣の芳賀源左衛門宅の一部に開業した。病院長に大学東校(後の東京大学医学部)の教授横川正臣、旧白河藩医岡崎東海など医師7~9名で診療を行った。病院に付属させた医学生教育機関の医術講議所もあわせて設置された。
 明治4年11月白河県が福島県に包括されると、翌5年2月病院医術講議所は須賀川へ移転した。この場所は、全国に先がけて、近代病院経営と医術演習の草創期をになった地である。

                                               本町復起会

古旅籠風の商家。

(12:03)「本町」解説板。

本町(もとまち)
 「十軒店」と称される、ひときわ大きい「カギ形」で中町と接しているのが本町です。「白川風土記」(1805年完成)によれば、家数は96軒で、町名の由来は記されていませんが、一説には古くからの町であるためとも言われています(「白川因縁記」)。
 職業が記される町の絵図では半数近くが宿屋であり、旅館街ともいえる町でした。大名が参勤交代の際などに宿泊する本陣と脇本陣も置かれていました。

                                                白河市

    

萩原朔太郎の妻・美津子の生家
 この地は、日本を代表する大正・昭和期の詩人である萩原朔太郎ゆかりの地である。当地の大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍した。忠一郎は、萩原朔太郎にも師事し、「北方詩人」などを主宰した。萩原は、当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのよう縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚した。
                                 本町復起会

「白陽」の蔵元。

 「奥州街道」はその先の信号を左折しますが、その右角に明治13年創業の「渋木茶舗」があり、その建物の左隅に「岩淵悦太郎の生家跡」の解説板があります。
    
                      渋木茶舗建造物群・岩淵悦太郎生家跡
 
歴史的風致形成建造物 渋木茶舗
 渋木茶舗は、明治13年(1880)に八百屋町渋木家から独立した渋木啓次郎氏によって横町に渋木商店として創業された。その後明治23年に当地に移転営業し、丸喜園茶舗、さらには渋木茶舗と名称変更した。当初は養蚕家であったが、次第に茶舗としての営業を行うようになった。
 建造物群は、旧奥州街道に面した伝統的な切妻・平入り形式の店舗。その奥にかつては住居であった主屋・中庭の奥に座敷蔵という構成であり、白河の伝統的な町屋建築である。これらの建造物は、明治23年頃に建築されたものである。

                                                白河市
 現在は「お休み処」になっているようです。

岩淵悦太郎生家跡
 岩渕悦太郎は、現代日本語の生態の科学的研究方法の基礎を作った国語学者である。文部省教育課程審議会・同国語審議会等の委員を務め、 NHK放送文化賞を受賞している。主な編著作は「日本方言地図」「岩波国語辞典」「国語史編集」などがある。
 この地は、悦太郎の生家の跡である。悦太郎は明治38年(1905)に白河の本町で酒造業を営む「岩淵屋」に生まれ、少年期に東京に引っ越し、東京帝国大学を卒業の後、国立国語研究所の所長などを務めた。昭和53年没。
                                                                                                                     本町復起会

 「岩淵屋」は現存しないようで、空き地(広場)のところにあったものか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敵愾心を煽って生まれてくるもの。または、政治「ショー」の落とし穴。

2016-11-09 21:28:32 | 世間世界
トランプ氏、民主党の地盤を次々破壊 産業廃れた各州

 トランプ劇場の予想外の勝利。それはまた、アメリカ合「衆」国の民主主義の脆弱さでも?
 双方の誹謗中傷合戦。それに持ち込んだとき、トランプの方が1枚も2枚も上手だった。まさに切り札を何枚も持っていたということ。
 既成勢力の無能さ、腐敗をつき、その非を過激な言動、先鋭的に、徹底した攻撃で、「貧富の格差」への、直接的には食を奪われ、安定や未来への展望を失った、不満の重積した大衆を煽って、の圧倒的な支持を取りつける。
 「強いアメリカ(のはず)」を「弱いアメリカ」し、俺たちの生活を破壊したのは、「不法移民だ」「メキシコだ」! そうした敵をつくり、それを殲滅することでのみ、現状を打破できるという幻想の上で、より「強い」人間に飛びつく。
 行き着く先は、自らの政策・やり方にイエスかノーかの二者選択を迫り、ノーという人びとに恐怖心を植えつける。諸手を挙げて賛成した、そのなれの果て。結局、損をするのは大衆自身だった、と気づくときにはもう取り返しが付かない事態に。

 アメリカ巨大資本によるグローバル化が世界にもたらした弊害を、その最先端にある男が解決しようとする歴史の皮肉を痛切に感じる。

 さらに、小粒ながら、都知事の小池さん、日本維新の会の橋下さん、そしてアベさん・・・、日本でも、こうした手法で「天下」を思うがママに手玉にとることがますます盛んになりそうだ。いや、「小泉」以来の、日本の政治がその先駆けだったのかも知れない。 

 今回の、「ポピュリズム(大衆迎合主義)」という表層的なとらえ方ではとらえきれない、投票行動。今後、世界各国の政治のあり方、国際政治の行く末はもちろん、政治、経済を支配してきた「エリート」層にも大きな影響を与えること、必至だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書「愛の棘 島尾ミホ エッセイ集」幻戯書房

2016-11-08 21:22:39 | 読書無限

 島尾敏雄の「死の棘」は壮絶な夫婦の葛藤(まさに格闘)を描いた「私小説」だが、その妻であるミホの、既刊書には未収録のエッセイを中心に編纂されたもの。編者は明らかではないが、巻末に解説として志村有弘氏の文章が掲載されている。
 個人的には「愛の棘」というくくり(表題)はなじめないが、読者に、ミホの敏雄への、他者の詮索を真っ向から拒絶するほどの「愛」という言葉を越えた「アイ」の実相に迫らせようとする編著者の意図を感じる。
 近刊書で島尾ミホの生涯を描いた作品(むろん、島尾敏雄の私小説・「死の棘」の虚実を含めてのものになるのだろう)があるやに聞く。ついそんな話題にも、・・・。

 夫の誕生日。ひと月近くも家に帰らない夫を迎えに駅に迎えに出る私と幼い二人の子ども。寒さに震える我が子を家に寝かしつけて自分一人駅に向かう。終電車の過ぎ去ったホームに立ち尽くす私。線路に横たわって貨車に轢かれる寸前、耳に突然聞く夫の声にはっと我に返り、我が家に戻る。夫の誕生祝いの四人前の尾頭付きの鯛が冷たく食卓に置かれている。淋しさのあまり夫の部屋に入り、開かれたままの日記に書きなぐられた数行の文字に眼が吸いよせられた瞬間、錯乱状態に落ちていってしまった。

 その後の経過を含めて、島尾敏雄の「死の棘」に明らかにされていくが、「錯乱の魂から蘇えって」という一文にミホ自身がまとめかえしている。

 「あらぬ方を向いて焦点の定まらなかった私の瞳がやがて対象物に結ばれるようになった時私の眼は夫の姿をはっきりとらえられることができました。が、その向う側にもっと広い広い世界があることも感知できたのです」(P23)

 「『死の棘日記』は、夫婦の葛藤を書いた作品と読めますが、私には夫婦の絆の深さと、夫婦が更に愛を深め会う『夫婦愛日記』」にも思えます」(P133)とまで昇華する。

 「『死の棘』から逃れて」も壮絶な内容ですが、奄美大島に帰った後、「はっきりと過去に訣別を告げることができ(まし)た」(P35)ことによって、私が嘘のように発作を起こさなくなった件は、その後の夫婦「愛」の如実なようすを彷彿とさせる。

 「奄美大島」をこよなく愛した作者は、鎮魂歌を奄美方言で書き表している。まるで亡き夫との心からの交信の如き旋律として。

 ・・・アカスユヤ クリティ (ふたりで)明かす夜が暮れて
    ナーキャユーヤ エヘユム あなたの夜が明けて行きます
    カホシティヌ アリバヤ 果報な機会が 巡ってくるなら
    マタミキョソ またお会いしましょう

 島尾敏雄との出会いから結婚、(破滅的な)家庭生活、そして突然の夫の死。その後の自分の生き様・・・。島尾敏雄の、多くの作品鑑賞(読み方)にも深く(琴線に触れる)つながっていく作品でした。
 ミホ自身の生き方、まほろばの、もっと言えば、フィクションの世界の中での己のありようであり、突き詰めれば、芸術家(あるいは作家)の性(さが)、宿業のようなものに通じる、と思いました。

                 

  
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする