おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

130 青戸への道

2009-07-28 19:45:25 | 歴史・痕跡
 かつて(戦後しばらくまで)、車で立石方面から青戸方面へ向かう道は限られていました。今の葛飾小学校(青戸地域では最古の学校)の前を通り、青砥駅への道がその道。この道路は、他よりも広く、直線道路の部分が多くありました。
 立石(奥戸)からの分かれ道付近が、この写真です。角の家は今はしもた屋風ですが、以前はお店をやっていたようです。
 この店のところが、青戸への分岐点になっていて、中川沿いからの道を左に折れていきます。ここは、「立石」様の近くに位置し、昔からの道であったことが知れます。また、この近辺には、古くからあった「とげぬき地蔵」なども置かれています。
 今でこそ、車での青戸への交通路は、広くなった水道路や水戸街道、環七などさまざまな道筋がありますが、ほんの60年くらい前までは人の行き来は車ではなく、徒歩や自転車(大八車)だったのでしょうか。
 周りは水田地帯。次第に田んぼの中の水路が埋め立てられ、たんぼ道が広がりやっと交通網が整備されたのは、昭和30年代に入ってから。今の区役所あたりは、まだ水田と池と湿地帯でした。
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129 リニューアルした東武博物館へ

2009-07-27 21:53:08 | つぶやき
 孫を連れて、さっそく、今月22日にリニューアルオープンした東武博物館(伊勢崎線・東向島駅)に出かけました。目新しくなったのは、ジオラマ、運転のシミュレーション、そして野外の電車展示など。
 特に、ジオラマは「東京スカイツリー」があったりと、風景の模様替え。全体的に見やすくなった感じ。夜明けの始発電車から終電車まで10分以上にわたって各種の電車が走る、なかなか見応えが。
 運転のシミュレーションは画面がかなり鮮明でリアルになりました。まさに実際に電車を運転している臨場感が伝わってきそう。孫もやりたがったが、まだ無理でした。
 以前にもありましたが、孫が驚いていたのは、東向島駅のホーム下にある窓から、線路を通過する電車が見えるという仕組み。こういう不謹慎な言い方をしてはいけないが、線路脇に寝そべったところ、その脇を電車が通過するような迫力。
 線路の上を大きな車輪が轟音と共に通っていくのは、なかなか味わうことができないものです。写真は、そのようす。室内からなので光が入って微妙だが、線路上を電車が通過しています。 
 狭い敷地・建物内に、長い鉄道の歴史を偲ぶ数々の電車・機関車・バスなどが展示され、写真や動画でさまざまな変化を実感できるのも、すばらしい。
 個人的には、亀戸線の廃止された旧駅名やその場所、また京成電車の白髭線(向島~白髭橋。廃止)の絵による再現には、興味をそそられました。
 孫そっちのけで何時間もいるわけにはいかず、孫が飽きはじめた頃に帰ってきました。
 なお、20周年・リニューアル記念として、東武の列車・電車が描かれたはがきセット、クリア・ファイルを貰うことができたのは、実にうれしかったですな。
 先着何名様までだったか、なくなり次第配布されないとのこと、よかったらまだあるうちにまた出かけようかな、今度は一人で・・・。 
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128 鬼塚

2009-07-26 21:06:37 | 歴史・痕跡
 中川左岸、葛飾区奥戸1丁目にある遺跡。室町時代と江戸時代の二期にわたって築造されている。(葛飾区は全域ほぼ0メートル以下の地帯であるが、他に比べてこの地域は少し高くなっている。)
 現在の構造は、平面型は方形ないし不整の円をなし、東西約15.4m南北約15.4m、高さは約1㍍(海抜)となって、頂には稲荷社がある。周りは農地、住宅、駐車場。私有地なので、直接近づくことはできない。
 
 室町時代、東西約8m南北約8.5m、高さ約70㎝センチの方形の塚がつくられ、中央に土杭があった。その中から石臼、陶器鉢が出土した。塚の南側にはハマグリを主体とした貝殻が堆積、この小貝塚は、生業活動に伴う何らかの儀式行為の結果と判断される。
 江戸時代になって、この中世の塚の上にさらに土を盛り、塚を作り直して稲荷を祀った。塚の上には、寛保2年(1742年)銘の祠がある。(以上、葛飾区教育委員会の説明文による)
 
 なお、以前、発掘調査が行われ、上記の他にも興味深い発見があったという。
 
 この遺跡の周囲から鎌倉時代の溝が発見され、館があった可能性も考えられ、また、伊勢地方からもたらされた土鍋も出土、この地域が伊勢神宮の神領の葛西御厨であったこととの関連がうかがわれる。(以上、東京都教育委員会より)
 
 こうして見ると、まだまだ新たな発見がある可能性もありそうですね。
 写真は、その塚のようす。曇り空ではあったが、そんなに逆光でもないのに、ハレーションを起こしたようにぼんやり写っている。何だか不思議な雰囲気、光景です。
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127 立石様

2009-07-25 18:29:30 | 歴史・痕跡
葛飾区指定史跡 立石(葛飾区教育委員会による説明文)

 古くから「立石様」とよばれ地名の起こりとなったものです。室町時代の文献、応永5年(1398)年の「下総国葛西御厨注文」をみると、すでに立石の地名が出ています。江戸時代になると「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」にも奇石として紹介されています。
 地元の人々の崇敬と畏怖を集め、文化2年(1805)村の名主島田新右衛門らがこの地に石祠をたて、立石稲荷神社としてお祀りしました。
 この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな用途はまだわかっていません。しかし、この付近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。

 ここにもあるように、用途などは、はっきり分かっていない。掘り起こそうとして災難に遭ったという伝説や、掘り出そうにも掘り出せない「根あり石」とも。
 一説では、古代において官道脇に道しるべとして石を設置することがあったとか。その一つではないかという。
 ただ「立石様」は古墳時代に千葉県の鋸山付近から古墳の石室を造る石材として運搬してきたものであると言われ、またこの近くには古墳もいくつか発掘されていて(「立石様」とは目と鼻の先にある南蔵院裏古墳など)この辺りにも別の古墳が存在していたとも考えられ、その一部ではなかったか。
 それが、奈良時代以降になって墨田区墨田から江戸川区小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられる。
 「立石様」は、江戸時代には地上60センチ以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。現在では、わずかに数センチほど露出しているにすぎない状態。写真は、その部分。児童公園の中にあるが、鳥居があって地元の方からは大切に扱われてきたことが伺われる。ただ、もう少し整備した方がよいのではないかとも。
 一般的に、立石(りっせき)は、遺構の一種で、大きな(河原)石を地面に穴を掘って立てたものを言い、世界的には、ストーン・サークルやストーン・ヘンジ、モアイ像など、巨石建造物は多く存在している。
 日本では縄文時代とくに後期の墓域によくみられる。秋田県鹿角市の大湯環状列石の「日時計様組石」が有名である。ある種の記念物・墓標あるいは何かの目印として立てられたものと考えられ、巨岩を組み合わせて何らかの目的を持たせる。また、単独で用いられた巨石も多く存在している。
 モアイ像などもそうであるが、時代が下がって、そうした技術やそれを支える集団がいなくなり、まったくの伝承もないまま残された巨石に地元の人間が畏怖の念を持つのも当然ではある。
 まして、ここ立石付近、すでに室町時代には農村地帯として田んぼが続く低湿地帯にこの巨石がどうしてここにあるのか、実に不思議な存在だったのだろう。
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126 地形から見た葛西城址

2009-07-24 06:10:47 | つぶやき
 先日、葛飾区から災害マップが配布された。ケース1は、都市型災害・集中豪雨による浸水状況。これは、2000(平成12)年の東海地方の豪雨を想定、下水道処理システムがパンクしてあふれ出す場合。
 もう一つが、中川と綾瀬川が氾濫した場合(100年に一度という想定)の浸水被害の予想。この時には、区全体がほぼ0㍍地帯のために、ほとんどが大きな被害を受けることになる。一方で、浸水がない地域も点在する。
 その地域は、中川左岸(葛飾区南・南東部)のほぼ全域と中川右岸のうち、現在の青戸7丁目付近(青砥駅北東・環七の東側と中川にはさまれた所)に限られている。その他の地域は、大なり小なり浸水する。
 これを見たとき、ほとんどが海抜以下か海抜の水田地帯。水田の中に土盛りをした土地に、家屋などを建てることはなく、はるか昔から中川の右岸・左岸地域のうちでも、土砂の堆積によって他よりも比較的高くなった所に、居を構えたことが類推できる。
 地震等による急激な土地の陥没があったということも考えにくく、青戸の住民は、自然の地形を利用して住居を構え、稲作に励んだといえよう。
 たしかに昭和22年の航空写真(goo)でもはっきりしていて、青戸小学校付近には住宅があって、西側はほとんど田んぼか池、用水路となっている。
 このことから、戦国時代、「葛西城」築造の際にさかのぼっても、あえて浸水が予想される場所につくることは、戦略的にはありえない。
 こう見ると、現在「御殿山公園」「葛西城址公園」とされている場所が「葛西城」であったという証拠にはなりそう。
 ただ、「青戸御殿」は間違いなく存在したと思うが、そこが戦国時代の「葛西城」と直接結びつくかどうかは、検討の余地がある。
 上千葉辺りにあったいう説もあるが、この辺りは完全に水没する地域なのでどうもそうではなさそう。もっと北側にある古隅田川の付近(足立区綾瀬)の可能性は残っている。
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読書1「肉体の迷宮」(谷川 渥)東京書籍

2009-07-23 07:28:54 | つぶやき
 最近読んだ本の中で、興味深かった一冊。寡聞にしてこの著者の著作を読んだことがなかったが、実におもしろい内容。
 前書きにもあるが、西洋美術の歴史において、その美的対象は、「人間」の「肉体」であったという。この視点から比較芸術論(日本と西洋の美的対象の歴史的差異)についての論考である。
 かなりの力作と見た。取り上げている三島由紀夫、谷崎潤一郎の「肉体」観あたりは、ある程度これまで理解してきたつもりだったが、あらためて「日本人そのまま」「日本人離れ」という二項対立に基づく分析はおもしろかった。
 この方は、「芸術の皮膚論」という立場から論考を進めてきたとのこと。
 多くの美術作品(古今東西の絵画、とりわけ彫刻)を参考資料として掲げながらの論述。説得力のある内容であった。最近、「ミロのヴィーナス」に関するものを読んだせいもあって、ヘレニズム文化のあり方やトルソーへの言及などは、個人的には、大変興味深かった。特に、描かれた(彫られた)衣服の襞のこだわりなどは、新たな視点を感じた。
 一頃、「現象学」からの人間の肉体、着衣、化粧などへの哲学的(?)解明がはやったが、西洋美術史(比較文化論)からの視点からのアプローチはおもしろい。
 実証的な論述に一気に読破させられた。
 なお、蛇足ながら教科書出版会社である「東京書籍」から出版されたことも、著者との関連で興味深かった。
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125 梅雨明けのスカイ・ツリー

2009-07-22 21:08:52 | つぶやき
 東京地方の梅雨明け宣言。でも、その後は、ぐずついた天気が続きます。蒸し暑くて、もうすっかりクーラーは欠かせません。
 省エネに逆らうようで、出来るだけつけず、温度を下げず、といきたいところですが、ついつい・・・。
 いよいよ暑い夏がやってきました。民主の「政権交代」のスローガンが目立ちます。決戦の時はもう間近に。
 「自民」党が、もはや「自分」党に変わり果て、公明党の幹事長が、公共の電波で唯一の支援組織・「創価学会」(宗教団体?)に、選挙支援感謝をはっきり言い出す始末。彼らが、ホントウには日本の未来を考えていなかった、自分たちの目先の利益しか念頭になかったことが、いっそう赤裸々になってきました。
 何とか「政権交代」を実現させたいものです。民主党にも不安がないわけではありませんが、腐った政治情勢を変えていくことが必要な気がします。
 写真は、梅雨の晴れ間、少し西に傾いた太陽の光に映える、スカイ・ツリー。ちょっと前に撮りました。もう、どんどん工事が進んでいます。
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124 京成押上線高架工事

2009-07-21 20:50:51 | つぶやき
 京成の曳舟・押上間の高架工事がいよいよ本格化しています。これは、明治通りとの立体交差化を中心にした工事。
 かつて、この踏切で悲惨な人身事故が起こりました。踏切で立ち往生した車に電車が突っ込みました。それまでにも危ない事故が起こって地元では立体交差を切望していました。
 また、幹線道路のために、慢性的な渋滞が車公害、歩行者の安全など、何とかして欲しいという、その長年の希望がやっと実現する運びに。
 とはいっても沿線は住宅密集地域。工場やら民家がもう線路一杯に建っていましたので、その立ち退きには、さまざまな思いがあったようです。
 曳舟駅周辺の再開発計画の進行と共に、用地買収、仮設線路の設置、仮駅など次第に工事が進行しています。新しい曳舟駅の完成予想図も掲示されました。
 また、同じ沿線で、立石駅付近の立体工事計画も着々と進んで、買収された用地も目立ってきました。ここも古い家屋が電車に接するように建っていましたが、それも次第に取り払われています。
 こうして、ようやく京成電車も、「高砂」~「青砥」~「押上」と立体交差の区間が増えてきました。
 来年からは、成田空港へのアクセスがいっそう便利になることもあって、大きく沿線風景が変わっていくことになります。京成100年の歴史の中でまた大きな転換点を迎えそうです。
 写真は、曳舟駅の仮ホームと仮線路です。
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123  総集編(北区・荒川区他)

2009-07-20 06:12:02 | つぶやき
3赤羽駅南貨物引き込み線跡(JR赤羽駅下車・南口)
                【このあたりはまだまだ未探訪地域】
15春のうららの隅田川(南北線・赤羽岩淵駅下車・新荒川大橋)
                【荒川の向こうは川口】
26八丈島のキョン(八丈空港・八丈島植物園内)【またぜひ訪れたい】
30『ワルツ』(花村萬月作)の舞台(新宿駅下車・西口付近)【戦後の面影なし】
37谷中・五重塔跡(JR日暮里駅下車・谷中墓地内)【再建計画は?】
49新緑の山谷堀公園(浅草駅下車・隅田川沿い)
52JR隅田川駅、汐入水門(JR「南千住」駅下車・隅田川沿い)【景観よし】
108都電27号線(三ノ輪橋~赤羽)、そして荒川線。(南北線・赤羽岩淵駅下車)
109東京湾クルーズ(浜松町下車・日の出桟橋)【お金と暇とお相手が大切】
110汽笛一声新橋を(JR新橋駅下車・東口)
 この他、大平山など都外にも出かけ、「携帯」写真であれこれ撮ってきました。
 写真は、八丈島。八丈富士から底土港を望む。
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122 総集編(足立区・江戸川区)

2009-07-19 20:03:28 | つぶやき
〔江戸川区内〕
2旧水戸街道(江戸川べり)(京成小岩駅東付近)
       【東武・鐘ヶ淵駅付近から古道をここまで自転車で貫徹】
11江戸川区と墨田区の区界(JR平井駅付近)
19上小岩親水緑道(京成小岩駅付近)【歴史を感じる。上代の遺跡あり】
82葛西旧海岸道路(東西線・葛西駅南付近)
83東京大空襲・旧江戸川区文書庫(JR平井駅南付近)【平和の尊さを実感】
88城東電気軌道(新宿線・一之江駅東付近)【廃線マニアの常識】 

〔足立区内〕
44「亀有日立」引き込み線跡(JR亀有駅北東付近)
     【電車から見ると貨車が並んでいるような建物群】
45東武貨物線引き込み線跡と船着き場(京成関屋駅付近)
                     【線路がそのまま残っている】
48「宮地ロータリー」のささやかな面影(JR亀有駅付近)
72葛西用水親水公園・6か村落とし親水緑道(JR綾瀬駅~亀有駅付近)
                     【流れが涼しい】
74旧戦車街道(環七・大谷田陸橋付近)【新たな発見でした】
107東武線・旧大師前駅(東武・大師前駅付近)【これも新たな発見】
 これらは、自転車で出かけました。けっこう時間も体力も使いました。写真は、関屋駅付近の線路跡。
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121 総集編(江東区)

2009-07-18 19:37:57 | つぶやき
     (最寄りの駅) 
9都電(旧城東電車)跡(JR「亀戸」駅)【橋の上の「緑道」には、レールのモニュメントあり】
32都電の線路跡(都営新宿線「西大島」駅)【城東高校脇の緑道の続き】
39猿江恩賜公園・木場の跡(都営新宿線「住吉」駅)
53JR小名木川駅の跡、再開発(東京メトロ「南砂」駅)【変貌ぶりが分かる】
62東武亀戸線・廃駅(東武線「亀戸水神」駅)【この線の廃駅ツアーも興味深い】
67五間堀、六間堀。池波正太郎の世界(都営新宿線「森下」駅)
70日清紡亀戸工場、被服廠、亀戸野球場(JR「亀戸」駅)【知られざる歴史】
75中川船番所跡(都営新宿線「東大島」駅)【一度訪れて下さい】
76越中島線跡(東京メトロ「東陽町」駅)【廃線マニアスポット多し】
77亀戸梅屋敷跡。臥龍梅。(JR「亀戸」駅)
79扇橋閘門、小名木川(都営新宿線「住吉」駅)【独特の雰囲気あり】
81「民営機械製粉発祥」の地(  〃  )
85亀戸浅間神社・富士塚(JR「亀戸」駅)【他にもまだあります】
89亀戸水神・水神森跡(JR「亀戸」駅)
90深川芭蕉庵跡(大江戸線「清澄白河」駅)【資料館の方もついでに】
93埋もれる川・竪川(たてかわ)(都営新宿線「森下」駅)
94南砂緑道公園・都電(城東電車)跡((東京メトロ「東陽町」駅)
                  【気分のいい緑道】
95仙台堀親水公園(  〃  )
96砂村穏亡堀(都営新宿線「住吉」駅)【夏の肝試しスポットに最高です!】
97越中島線複線跡( 〃 )
98小名木川クローバー橋(都営新宿線「西大島」駅)【広々とした景観】
101小林一茶旧居跡(都営新宿線「西大島」駅)  
 これらは、現地まで電車または車で行って、徒歩にて探訪したところが多い。  写真は、亀小橋たもとの都電モニュメント。
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120 総集編(墨田区)

2009-07-17 19:39:29 | つぶやき
5曳舟川通り(業平橋付近)
10ぎやまん通り(横川付近)【ネーミングがよい】
12親不孝通り(江東橋付近)【  〃  にいわれあり】
21鳩の街(向島付近)【興味本位では・・・】
22大横川親水公園(横川付近)
27永柳工業工場跡(曳舟付近)【「ヒキフネに乗りませんか」】
28東京スカイツリー(業平橋付近)
29   〃 (続)( 〃 )
31アサヒビール吾妻橋工場・フラムドール(吾妻橋付近)
                    【一見の価値あり。特に夜はいい】
34押上駅前トロリーバス(押上付近)
36「桂友」両国高校定時制課程
38伊藤左千夫・牧場の主として(錦糸町付近)【歌碑をぜひ】
40精工舎、そして錦オリナス( 〃 )【億ション見学にいかが】
43押上駅今昔(押上付近)
46京成電車・白髭線。そして忌野清志郎の死
            【立体工事のため、痕跡はなくなった】
50東武線・隅田公園駅跡(吾妻橋付近)
54同潤会・中ノ郷アパートメント(押上付近)【あわせて旧「柳島アパート」も】
55今に残る東京大空襲の爪痕、飛木稲荷神社の大イチョウ(押上付近)
                     【ぜひ見学して下さい】
56旧墨堤通りと桜並木(向島付近)【かつての海岸線が地蔵坂通り】
58隅田千軒宿。古代東海道の宿駅跡(墨田付近)【これもぜひ】
59東京大空襲。江東橋のたもとにて(江東橋付近)
60 〃   。本所吾妻橋付近(吾妻橋付近)
63墨田川高校堤校舎跡(鐘ヶ淵付近)【跡地はこの自然のままに残して欲しいが】
64柳島・妙見山法性寺(押上付近)
65吉良邸跡・本所松坂公園(両国付近)【行って、びっくりします】
66両国馬車通り( 〃 )
71東京大空襲。錦糸公園にて(錦糸町付近)
86東京大空襲。墨田区緑3丁目。玉の肌石鹸工場(両国付近)【ぜひ】
91綾瀬橋と旧綾瀬川(鐘ヶ淵付近)【「伊沢造船」が意外な発見】
92東下りと「業平橋」(業平橋付近)
100両国高校旧校舎校章(江東橋付近)
102スカイツリー(6/28朝)(業平橋付近) 【毎日変貌しています】
103東武伊勢崎線曳舟駅線路跡(曳舟付近)
118源森橋(吾妻橋付近)
 これらは、自転車で出かけるか、最寄り駅まで電車で行って「歩き」が中心です。けっこう記事にしていますね。写真は、錦糸町駅前の東京楽天地。
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119 総集編(葛飾区)

2009-07-16 21:53:17 | つぶやき
 取り上げた記事の主な場所をまとめておきます。気が向いたら探訪してみて下さい。

1古墳時代から続く区内の古道(四つ木、立石、小岩付近)
               【これは一押し、ぜひ歩くことをおすすめ】
2旧水戸街道(古隅田川・小菅付近)【手入れされた遊歩道】
4葛飾と足立の区界(小菅、足立区綾瀬付近)【これは興味深い】
6曳舟川通り(続)(四つ木付近)
7水道路(すいどうみち)(高砂、青戸、立石、四つ木付近)
                【自転車か歩きでぜひ貫徹して下さい】
8高射砲陣地跡(白鳥付近)【これは保存価値あり】
13カスリーン台風と新中川(高砂付近)
16東京理科大と謎の鉄球(金町付近)【今はどうなっているか?】
17新金貨物線(奥戸付近)【発見の楽しみ】
18旧佐倉街道(高砂付近)【桜の季節にはぜひ】
20鉄橋除去工事(新宿付近)【これは今も工事中?】
23用水路と肥溜めと(新宿付近)
24岡田タイヤ(お花茶屋付近)
33京成線と三角池(青戸付近)
42「青砥駅」と幻の線路跡?(青戸付近)
51順天高校青戸校舎跡(青戸付近)【これはホントウ?】
61荒川放水路と木根川橋(四つ木付近)【開削の歴史を感じる】
68曳舟川親水公園(お花茶屋付近)【ぜひ「プラネタリウム」へ】
73旧水戸街道・大曲付近(亀有付近)【これはとっておき】
84青戸平和公園・野球場跡(青戸、金町付近)
113旧水戸街道新宿跡(新宿付近)【煎餅屋は知人の実家】
114新金貨物線複線計画跡(新宿付近他、沿線)【列車の走る場面が欲しい】
115葛西城址公園(青戸付近)【うさんくさい所?】
116修徳高校脇旧用水路(亀有付近)
117帝釈道(新宿付近)【これは、意外なおすすめ】
 これらは、すべて自転車で回りながら、携帯写真で撮ってきました(掲載の写真は、すべて携帯で撮ったもの)。水元、新小岩、立石付近には、まだまだ探索の余地がありそうです。
写真は、青戸公園滑り台。梅雨明けの空。
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118 源森橋

2009-07-15 06:38:09 | つぶやき
 隅田川と旧中川を結ぶ運河・北十間川が、隅田川から数えて二番目の橋。三つ目通りに架かっています。もう実に長い間、橋の付け替え工事をやっていました。  2007(平成19)年に完成。歩道が広々としているのが、特徴。水戸街道から南下する、交通量が激しい通りでの工事で、吾妻橋へ抜ける右折レーンができました。橋の下には、屋形船が停泊していて、静かな川の流れと共に、川面は落ち着いた雰囲気です。
 ただ、歩いている人はあまりいなくて、せいぜい隅田川の花火の時か、花見の帰りくらいでしょうか、少し人通りが多くなるのは。
 もう少し東側の川沿いに「東京スカイツリー」が出来るので、その時は少しは人通りも増えるのでしょうか。それでも、三つ目通りの歩道を来て、この橋の所だけが広々とまるで広場のようになっているのは、どういう目的があるのでしょう。
 名前は、明治8年、隅田川への河口にあるもともとの源森橋が「枕橋」と改称されたのにともない、「源森橋」の名を譲り受けたとのこと。
 かつては、この辺りに中ノ郷瓦町、小梅瓦町という町がありましたが、その名が示すように瓦屋さんが集まっていた土地でした。
 現在の「枕橋」は、創架は古く、寛文2年(1662年)。現在の墨田区役所前の墨堤通り上にあり、隅田公園方面に向かう橋です。
  枕橋の方が、はじめ源森橋と称しました。北十間川西端の、このあたりは「源森川」とよばれる河が流れ、「源森川にかかるから源森橋になった」という由来も残っています。
 この橋の北には、水戸藩の下屋敷(現隅田公園)があり、そこに入る堀割には「新小梅橋」という小橋が並んであったため、「ふたつ並びし枕橋」と小唄にも謡われていました。明治8年に俗称の「枕橋」が正式名となり、源森橋が、その名を譲り受けたわけです。
 以前の「源森橋」は昭和初期に作られ、アーチ型で鋼材を組み合わせた構造の橋で、橋らしい雰囲気のあるものでしたが、耐震性に問題があると橋の建て替えが行われました。
 なお、橋の南側のたもとには、旗屋さんがあって、幟を飾っていましたが、もうなくなっています。そのそばに、看板に「汽罐煙突製造」と書かれた店?がまだ残っています。
 写真は、源森橋から見た隅田川方向のようす。
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116 修徳高校脇旧用水路跡

2009-07-13 19:32:30 | つぶやき
 戦後、昭和30年代になっても、葛飾区の青戸地域には、田んぼがまだまだありました。そのための用水が縦横に流れていました。
 周囲が住宅や工場になって次第に役割を終えて、ただのきたないどぶ川になりました。それも暗渠となり、そのうちアスファルト道になり、そして下水道の完備によって、かつての面影がどこにもなくなりました。そうした水路の痕跡のうち、整備されたものが、歩行者道路や桜の並木道になっています。
 この写真は、水戸街道を渡って亀有方向に向かう道筋です。春になれば、満開の桜がきれいに咲きそろう、並木道になっていました。この用水跡は、今の「亀有アリオ」付近に北上しています。
 この用水路の南方向は、水戸街道を渡って進みます。今は、歩行者用の道路となって、所々、サツキなどの植え込みがつくられています。その通り沿いの民家の玄関口という雰囲気です。
 この用水は、さらに南西に向かい、水戸街道・東京ガスのあたりで、白鳥に向かう流れと今の葛飾区役所方向に向かうものとに分かれます。
 葛飾区役所の東側の通りがその跡です。この通り、小学校・中学校・高校と並んでいる学園通り?。桜の並木がすばらしく、落ち着いた雰囲気の通りになっています。桜の季節にはたいへん賑わう通りとなります。
 このように、整備された用水跡には、桜が道の両側に植えられることが多いようです。
 かつては、こうした用水に蓋が架けられたころから長い間、その場所を自分の家(店)の一部として、勝手に?無許可で利用していたこともありました。店の商品を並べたり、花壇にしたり・・・。
 時々そういう不法占拠が問題になりました。これも、今は過去の話です。
 「修徳高校」は、高校野球では甲子園に出場したこともある伝統校です。最近はどうでしょうか。
 青砥駅で下車する、ここの生徒達は、学校まで徒歩で通っています。20分以上はかかりそうな道のりを重い鞄を肩にかけ、女子生徒が連れだって歩いていきます。
 以前は時々、いかついおじさん(先生)が、改札口で目を光らせていました。
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