おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武バス「花畑桑袋団地」~舎人ライナー「見沼代親水公園駅」。その3。毛長川・毛長堀・いわれ。区立竹の塚中。辰井川排水機場。東伊興。入り組む都境。(「都県境を探ってみる」第3回目。)

2022-10-31 20:23:30 | 都県境を探ってみる

                   右奥に、「中井堀排水機場」(草加市谷塚)水門。

この先、少し草加市が入りこんでいます。のところ。

「武蔵野の路公園(草加市谷塚)」。

日光街道(国道4号線)を渡ります。「毛長堀橋」。

※「毛長川」は、かつては毛長堀、毛長落しと呼称されていた。昭和23年より40年にかけて改修拡張された。

川口市から花畑へ流れる毛長川には、髪の毛にまつわる言い伝えがあります。昔、新里村(現在の草加市)の長者の娘が、川を挟んだ舎人の長者の息子と結婚しました。しかし、嫁ぎ先の両親との不仲などが原因で、娘は川に身を投げてしまったのです。それから数年後のある日、川にその娘の長い髪が浮きあがったことから、毛長川と呼ばれるようになりました。

(この項、「足立区」HPより)

両岸のサクラの紅葉が見事。草加市側。

       

この付近の足立区内を歩いたことがあります。

「足立区立竹の塚中学校」。

                  対岸は、草加市になる。

東武線の鉄橋が前方に。

くぐり抜けて振り返ると、「足立清掃工場」の高い煙突。

「辰井川排水機場」水門。※辰井川=人工河川。

                

谷塚橋を渡り、草加市側へ。下流を望む。

一部足立区が入りこんでいます。道路は足立区。

「(足立区)東伊興2丁目」。

         「佐藤工業」・西新井法人会・会員。

従業員の方にお聞きしたら、工場内の蛍光灯(↓)の手前が東京都、その向こうは草加市だそうです。

境界線付近。向こうの建物は、草加市。

この辺は、草加市? 。

横手堀ポンプ場(草加市)。

この先も東京都と埼玉県が入り組んでいます。

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東武バス「花畑桑袋団地」~舎人ライナー「見沼代親水公園駅」。その2。毛長川。大鷲さくら橋。花畑団地。文教大学東京あだちキャンパス。ひよ子。水神橋。(「都県境を探ってみる」第3回目。)

2022-10-30 20:29:31 | 都県境を探ってみる

     「鷲宮(とりみや)橋」から「毛長川」上流を望む。右手には「都立足立特別支援学校」の建物。

綾瀬川方向を望む。

「鷲宮橋」の南には、年末の「酉の市」で有名な「花畑大鷲(おおとり)神社」があります。

花畑大鷲神社は酉の市発祥の社と言われています。 応永年間(1394~1428年)より、11月の「酉の日」に、尊への神恩感謝の祭が行われるようになりました。 そこに人々が集まり、門前市が開かれるようになりました。 そこから「とのまち」「とりのまち」と称され、後の「酉の市」になったと言われています。(「祭りの日」HPより)

※今年の「酉の市」(一の酉)は、11月4日。

足立区花畑地区を望む。

  この橋から下流が都境に。

対岸(左岸)は、草加市。

右岸、「花畑団地」の通りからスカイツリーを望む(↓)。

足立区側を歩くことに。振り返る。

「毛長公園」遊歩道を歩きます。

               

花畑大橋から。右が足立区花畑、左が草加市瀬崎。

ここからは草加市側を歩くことに。

護岸工事が盛んに行われています。

        

「文教大学東京あだちキャンパス」。

            

こちら側には「ひよ子」。

東京土産として有名。美味しい。

                    

「水神橋」。

その手前に、立派な造りの家。

下流を望む。右は足立区保木間。

上流を望む。左が足立区西保木間。

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東武バス「花畑桑袋団地」~舎人ライナー「見沼代親水公園駅」。その1。草加市へ。都営花畑第四アパート。桑袋 ビオトープ 公園。鷲宿(とりじゅく)(「都県境を探ってみる」第3回目。)

2022-10-29 20:00:27 | 都県境を探ってみる

          綾瀬川の対岸には「都営花畑八丁目 アパート21号棟」「24号棟」(のはず)。

今回も短い歩き。「日暮里舎人ライナー」の全線は乗ったことがないので、始発の「見沼代親水公園」駅から終点の「日暮里」駅まで乗ってみることに。

東武線「谷塚駅」から東武バスに乗り、終点・「花畑桑袋団地」バス停で下車し、歩き始めます。

               

公園脇から境界の道路へ。右が八潮市、左が足立区。

ここから先の右は、草加市。(左は足立区花畑。)

ここは、八潮市の家並み(のはず)。

左には、「都営花畑第四アパート」案内図。

右は、「草加市瀬崎グランド」。

遠くに「スポーツ健康都市記念体育館(草加市)」。

「伝右(でんう)川」沿いにある「記念体育館」。

※東京都(足立区)と埼玉県(草加市)の境界は、「毛長川」になる。

「伝右大橋」から「伝右川排水機場」(綾瀬川との合流地点)を望む。

3つの川が交わるところにある「桑袋 ビオトープ 公園」に寄ってみます。

          

                                   

桑袋ビオトープ公園は、東京都足立区の公立公園。1997年3月31日まであった足立区立桑袋小学校の跡地を利用して作られた公園で、2005年に開園、都営桑袋団地1号棟に隣接している。綾瀬川と毛長川に挟まれた三角形の土地にあり、公園のほとんどをビオトープが締めており、敷地内にあやせ川清流館がある。(「Wikipedia」より)

足立区桑袋ビオトープ公園 解説・維持管理 統括責任者 伊藤正哉さん

桑袋ビオトープ公園は、もともとあった足立の自然の姿を取り戻し、生物多様性の豊かな空間を作るために、桑袋小学校跡地に2005年5月に開園しました。私達自然解説員は、公園の敷地内にあるあやせ川清流館(以下、清流館)に常駐し、来園者へ公園や生き物の解説、自然体験プログラムの実施や、草刈、樹木の剪定等の公園の維持管理を行っています。

公園の池の水は、隣接する伝右川から水を引いているため、開園後まもなくハゼやモツゴ、ヤゴ等様々な水生生物が見られるようになりました。一方で、本来この地域にはいないはずの「外来種」のウシガエルやアメリカザリガニも見られるようになりました。特にアメリカザリガニの繁殖力はすさまじく、ザリガニの捕食により次第に他の生き物が減少するようになりました。この対策として来園者が参加するザリガニの駆除活動「ザリガニ釣り」を2009年から開始しました。これは、ザリガニを捕まえる道具を来園者に貸し出し、捕獲したザリガニを清流館に持ってきてもらうもので、初めて参加する人にはアメリカザリガニの外来種としての側面を知ってもらうクイズを行うなど、自然解説プログラムの一つとして実施しています。最近では、アメリカザリガニの捕獲数が大きく減少したことで、ヤゴ、スジエビの数が増加し、効果が表れています。

(この項、「」HPより)

                    

併設されている「あやせ川清流館」では、ちょうど保育園児が訪問していて、解説員の説明を聞いていました。また、近所の方でしょうか、ベンチに座って談笑していました。

葛飾区内で見る綾瀬川とはひと味違った、自然の姿を見せています。

                                                                          左・毛長川、中央・伝右川、右・綾瀬川

「桑袋ビオトープ公園」は、伝右川と綾瀬川にはさまれた三角形のところにある。花畑団地は、足立区。

さて、伝右橋から「毛長川」へ向かいます。「鷲宿町会」掲示板。

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京成バス「水元5丁目」~東武バス「花畑桑袋団地」。その5。浮花橋。水神。大曽根ビオトープ。蛇橋。伝右川、毛長川。(「都県境を探ってみる」第2回目。)

2022-10-28 21:48:32 | 都県境を探ってみる

              「浮花橋」から下流を望む。右岸が足立区、左岸が八潮市。

橋を渡ると、埼玉県八潮市。

今度は、左岸(八潮市側)を歩きます。左は、工場が並ぶ。

土手道。

対岸は、足立区花畑。

   真っ赤な花、ピラカンサ。

工場建設中の土手の脇に「水神」。

大曽根ビオトープ。

      

解説板。

大曽根ビオトープの歴史

綾瀬川の名前の由来

綾瀬川は古代より、流路の定まらない川として、「あやしの川」あるいは綾のように入り組んでいたので「綾瀬川」と呼ばれたなどという言い伝えがあるように、大きく曲流していました。河川の氾濫河川の氾濫・洪水なども頻繁に発生しました。大曽根ビオトープはこのような綾瀬川の河川敷にある貴重な環境です。

大曽根の名前の由来

「曽根」は局地的に砂・土を有するやせ地の意で、綾瀬川沿岸の大きなやせ地からつけられたということです。大曽根村は、近世初期から明治22年明治22年(1889)までの村名でした。近世においては、天正18年(1590)から幕府領、寛文2年(1662)に旗本の森川領となり、明治維新まで旗本森川下総守の支配地でした。明治22年(1889)、大曽根村は町村制により南埼玉郡八幡村の大字となり、現在に至ります。

関屋(舟着き場)

大曽根の対岸の花畑は、陸上・水上の交通の要衝である「鷲宿(とりじゅく)」として栄えました。花畑にある鷲宿から対岸の大曽根への渡河地は関屋といわれ、河の関所があった場所だといわれています。綾瀬川のこの周辺に渡し船の舟着き場があり、渡しの番をする人がいました。

※「鷲宿」は「酉の市」発祥の地といわれる「花畑大鷲(とり)神社」門前町として賑わったという。

御立野跡

「御立野跡」は、近世の大曽根新田の小名で、明治期以降は大曽根の字名です。「御立野跡」は幕府御用の茅野跡で、入り会いを禁じられた地にちなんでつけられました。「大曽根新田」は、・・・享保12年(1727)の綾瀬川改修にともない、延享2年(1745)に西袋村の栗原平次右衛門ら5名が古綾瀬川を開発した地域でした。新田開発地は、古綾瀬川の流路跡と徳川家の御用茅野跡の「御立野跡」で、幕府領で代官支配地でした。

※現在、古綾瀬川の左岸が八潮市に属しているのはこの新田開発に関係しているのだろうか?

民話「蛇橋」。

綾瀬川をはさみ、たびたびの水難に苦しむ足立郡・花又村(花畑村)と大曽根村の争いに関わる民話。

・・・大曽根村の名主新八が、村を水難から救うため、堤を切ったことが分かり、家は断絶との処分が決まった。この悲惨な出来事に老母は気が狂い、「親子とも大蛇になり、恨みをはらすのだ」と叫びながら綾瀬川に身を投じたという。その後、二匹の大蛇は綾瀬川であばれまわり、村人さえもよりつかなくなった。あるとき、江戸の役人浅田近右衛門と妹のしづが船に乗り、大曽根村へさしかかると、片目の蛇と白い蛇が近右衛門にたちむかってきた。刀で切ってすてようとすると船が転覆し、妹のいしづが行方知らずとなった。調べてみると先のような話で、このことを将軍吉宗様に報告したところ、将軍が気の毒に思い、これからは二つの村が仲良くするようにと、金五両を下さった。このお金で「蛇塚」と「蛇橋」を作って供養したところ、それから蛇は出なくなったそうな。-「足立百の語り伝え」等から取材ー

この先、工場の敷地を抜け、再び土手沿いの道へ進みます。

しかし、綾瀬川に流れ込む小川を渡るための橋が崩れていて、歩行禁止。そのため、大きく遠回りして「綾瀬川」に架かる「桑袋大橋」の東詰のところから綾瀬川に向かいます。

歩行禁止の所から「綾瀬川」。

       対岸に見えるのは、伝右川排水機場。

※ここで「綾瀬川」に「伝右川」、「毛長川」が合流。

足立区花畑の一部が八潮市に食い込む形で、綾瀬川の東側に広がります。その東側を歩いたことになります。

綾瀬川下流を望む。

「桑袋大橋」の上流にある橋を渡り、足立区方向へ。

                           道路の向こうに「東京都」「足立区」の標識が。

足立区に入ってすぐの「花畑桑袋団地」バス停から乗車、東武線「谷塚駅」へ。

      「都営花畑第4アパート案内図」。(足立区花畑8丁目)

バスの終点は、足立区の「竹の塚駅」ですが、大半のお客さん(小生も含め)は、途中の「谷塚駅」(埼玉県草加市)で下車しました。

次回は、「花畑桑袋団地」バス停から再開です。

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京成バス「水元5丁目」~東武バス「花畑桑袋団地」。その4。首都高三郷線。内匠橋。綾瀬川・古綾瀬川遊歩道。(「都県境を探ってみる」第2回目。)

2022-10-27 21:27:37 | 都県境を探ってみる

                      足立区側は樹木が多い遊歩道。

         前方に「首都高三郷線」が見えてきます。

「足立区小溜井排水場」。

             綾瀬川との合流地点にあります。

首都高下に「埼玉県八潮市」と。

「内匠橋」から綾瀬川下流を望む。

この先は、開削された直線の水路となる。葛飾区で中川に合流し、荒川と併行して東京湾へ。首都高が左上を通っている。

※かつての流路「垳川」は東西で閉鎖されて、東の中川、西の綾瀬川とは排水場で結んでいる。

「内匠橋」を右折し、綾瀬川沿いに。

この先、「古綾瀬川」沿いを歩きますが、遊歩道の左側は八潮市になります。現在の綾瀬川の南側・足立区に八潮市が入りこんでいる。

     対岸は八潮市。

案内板。※下が北。

          ○の部分が、現綾瀬川をはさんで、八潮市となっている。

             

右が八潮市、左が足立区。

古綾瀬川遊歩道。

1880年代のようす。

      ↓が古綾瀬川。

▽が現在地。※上が北。

現綾瀬川に合流。

来た道を振り返る。

                右が足立区、左が八潮市。

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京成バス「水元5丁目」~東武バス「花畑桑袋団地」。その3。水車広場。葛西用水。垳川JABJAB大作戦。タブノキ。(「都県境を探ってみる」第2回目。)

2022-10-26 21:25:49 | 都県境を探ってみる

                  六木水の森・水車広場。大きな水車のモニュメント。

神明六木遊歩道(シンメイムツギユウホドウ)

垳川沿いに続く約2kmの遊歩道は、水辺と雑木林の風景が続く自然を身近に感じられる散歩道です。遊歩道にいくつかの公園(広場)が隣接しています。葛西用水親水水路を挟んで、神明側が神明水の森公園、六木側が六木水の森公園となっており、泉の広場、けやき広場、風車広場、むくの木広場、虹の広場、水車広場などの広場があります。

(「あだち観光ネット」HPより)

「中川→150m」。

                     

   上部の蛇行する流れが「垳川」、下部の直線の流れは「花畑運河(花畑川)」。

    対岸は八潮市垳。

足立区側には公園やベンチなどが設置されている。対岸には釣り人の姿が。

「葛西用水」との交差点。

              「ふれあい桜橋」の向こう、右から左の流れが「葛西用水」。

                 

※「葛西用水」は、そのまま南下して流れていきます。

「ふれあい桜橋」を振り返る。

    手前(写真には写っていませんが)、葛西用水は、左から右へ流れていく。

八潮市側の遊歩道を歩きます。

                 対岸が足立区の「神明六木遊歩道」。

                   

小魚の群れ。

    大きな鯉もいるとか。

「平成泉橋」。

中川方向。

綾瀬川方向。

「垳川JABJAB大作戦」。

今度は、足立区側を歩きます。両岸とも遊歩道が水面近くまであり、水辺を眺めながら歩けます。

大きな「タブノキ」。

※「タブノキ」=「イヌグス」。旧東海道歩きや古利根川歩きなどで見かけた古木・巨木です。

遊歩道案内図。

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京成バス「水元5丁目」~東武バス「花畑桑袋団地」。その2。新大場川水門。神明・六木遊歩道。垳川。(「都県境を探ってみる」第2回目。)

2022-10-25 21:00:13 | 都県境を探ってみる

       先に進みます。間もなく中川の合流点に。

その手前、右手に「古新田排水機場」。

        

              「サバスマリン」の向こうに「新大場川水門」。

※「サバスマリン」 国産艇・輸入艇の新艇から 中古艇の販売、保管、整備、修理を行っているほか、これからボートを始める方のためにボート免許スクールを開催している。

「新大場川水門」。

「大場川」上流・水元公園方向を望む。

中川。

中川の対岸(足立区)を望む。正面が東京都と埼玉県の境界。

対岸に向かうために、中川上流の塩止橋へ。

八潮市内。

塩止橋。

中川の河口から19.1 kmの地点に位置し、埼玉県内では中川に架かる最下流の橋である。明治年間の藤橋(後述)に代わり、大正年間に開削された中川の新流路に新たに架けられた橋である。かつての中川は八潮市と三郷市の市境に沿って流れ、大場川閘門橋付近より下流側も中川(古利根川)の一部だった。流路跡上に八潮市と三郷市の市境を成している。橋の名前の由来は潮止村から。その潮止とは東京湾からの海水が潮の干満によってこの付近まで遡上することに因む感潮河川)。なお、中川は昭和20年頃までは以南の呼称であり、それより以北を古利根川と称していた

戸ヶ崎の渡し

「戸ヶ崎の渡し」は埼玉郡大瀬村と葛飾郡戸ヶ崎村を結び、川幅80(約145.5メートル)余を渡る人舟馬舟各二艘を有する官設の渡船(官渡])であった。渡船はいつから開設されていたか定かではないが、南北朝期に当地に河が置かれていたことからその頃までには存在したとされる。渡船には中世より存在した河岸場が併設されていた。この渡船場は藤橋の架設により廃止された

藤橋

北埼玉郡大瀬村北葛飾郡戸ヶ崎村の境を流れる中川(古利根川)の旧流路上存在した里道である水戸脇往還(後の吉川新宿線)の「戸ヶ崎の渡し」の場所に藤橋が架けられていた

1880年明治13年)6月23日、戸ヶ崎村の加藤翠渓(すいけい)や小右衛門新田日比谷晁(てう)により木造橋の架橋の許可を出願1881年(明治14年)1月17に内務卿より架橋の許可が下り、私費を投じて9月3日に着工し、1882年(明治15年)12月25日に竣工され、架設者の人名である加藤家と佐藤家の「藤」の字に因んで藤橋と名付けられた。架橋に要した費用は2000円であった。橋の長さは33間3(約54.5メートル)、幅員は1間13尺(約2.7メートル)の木橋であった。この橋は架橋に掛かった費用を29ヵ年かけて償却するため、通行料を徴収する賃銭橋であった。通行料は徒歩1人・人力車1両・大七以上の荷車1両は各5厘、牛・馬は1疋8厘、馬車・牛車は1銭であった1920年(大正9年)4月1日に県道路線「吉川新宿線」と認定され、橋は埼玉県に移管された。 この橋は明治43年の大水害が契機となり、中川の河川改修が1920年(大正9年)より着手され蛇行部をショートカットする直線的な捷水路1925年(大正14年)に開削されたことにより廃止された

(この項、「Wikipedia」参照)

1880年代のようす。戸ヶ崎の渡し場が記されている。

2010年代のようす。完全に街中になっている。

中川右岸沿いに戻ると、

           対岸の「新大場川水門」。手前は、中川と垳川をつなぐ稲荷下樋管。

「神明・六木遊歩道→」の案内。

これから「垳川(がけがわ)」沿いの遊歩道を歩きます。

               

東京都と埼玉県の境界標。土手沿いの「垳川」上に。

 昭和30年代後半まで、このあたりは水田地帯。さらには、水運も盛んでした。その後は、宅地開発。このあたりの川も生活排水、工場排水のために濁って悪臭までも。下水道の完備などで、再び川の流れを取り戻していく。そんな水と人々との関わり合いの歴史もあります。

垳(がけ)川の東端、中川との接続点に昭和54(1979)年に完成したのが埼玉県の垳川排水機場。

垳川は元々、綾瀬川本流で、江戸初期に、水害対策のため、内匠新田(たくみしんでん。垳川の西端、現在の内匠橋付近)から葛飾区堀切の中川との合流地点まで直線流路の綾瀬川の新川が開削された。その結果、垳川は、綾瀬川から切り離され、江戸中期の1729年には中川とも切り離されて、河川としての機能を失ってしまいました。中間部で北から合流する葛西用水路の溜池としての役割を果たしてきましたが、ひとたび大雨で増水すると浸水騒ぎに。そこで、増水時には水害防止のため、綾瀬川や中川に排水する施設が設置されました。現在、その役目を担っているのが、垳川排水機場。
 

※「垳川」

「垳」という文字はJIS第二水準漢字であるが、この地名ならびにこの地を流れる垳川の名を表記する以外には使われない国字であり、地域文字とされる文字である。

この字・読みの起源について八潮市は1981年に「第2次八潮の民俗調査」の調査報告書の中で水がカケ(捌け)る様子を意味しており、水が流れるとき「土」が流されて「行」くという字を当てたものとしている。一方、早稲田大学教授で日本語学者の笹原宏之は、文字通り崖の意味であって河岸の斜面を意味しており、崖を意味する中世の漢字「圻」が字形揺れによりこの地では「垳」に変化して定着したものという見解を発表している。2012年に区画整理により、本地名が変更されようとしていたことがあるが、「垳」が希少漢字であることから、獨協大学職員によって「『垳』を守る会」が立ち上げられ、地名の保存運動が行われた。のちに、「八潮の地名から学ぶ会」といった団体に発展し、本地名に限らず、日本全国の方言漢字を取り扱うようになった。(「Wikipedia」より)

余談ですが、「方言漢字」は全国に存在し、葛飾の「葛」の「勹」の中を「人」とか「ヒ」などと書くのも、方言漢字の一種のようです。

 垳川。右手に垳川排水機場。

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京成バス「水元5丁目」~東武バス「花畑桑袋団地」。その1。閘門橋。大場川。大場川マリーナ。(「都県境を探ってみる」第2回目。)

2022-10-24 21:11:07 | 都県境を探ってみる

    水元公園・小合溜。

10月22日(土)。曇り。

今回は、葛飾区の水元公園の西から足立区の花畑まで。北の境、埼玉県側は、三郷市、八潮市、草加市となります。

                      (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

      「大場川」が境界線。

水元公園の小合溜と大場川を結ぶところにあるのが「閘門橋」。

水元公園側。    

大場川側。

              橋脚部にブロンズ像が。            

             

閘門橋(明治42年完成)

閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する貴重な橋です。
 橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
 江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(こあいがわ:現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
 現在の橋は、明治42年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
 その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
 この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿です。
 閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。

※弐郷半領(にごうはん)とは、現在の埼玉県吉川市、三郷市付近のことをいう。建設したのは埼玉県の水利組合「弐郷半領用悪水路普通水利組合」。「用悪水路」とは用水路と排水路という意味。

             

「葛三(かつみ)橋」を渡って、埼玉県三郷市に。

大場川沿いに進みます。

                   

すぐ八潮市になります。

八潮南公園運動広場。

                右手奥の高い煙突は、葛飾清掃工場。

畑の向こうに大場川。

                   対岸は、葛飾区水元。

宅地造成が進む。

「大場川マリーナ」。

           

埼玉県河川公社が経営する公共のマリーナ「大場川マリーナ」。収容隻数は167隻(すべて陸に係留)、埼玉県内での最大規模を誇り、知る人ぞ知るマリンスポーツの拠点となっている。

東京湾までのアクセスは、わずか約45分。江戸前の魚が釣れるフィッシングにも「ちょっとそこまで」の感覚で出かけられるのが嬉しい。

海が荒れている天候のときでも、大場川は比較的穏やかであり、クルージングができることが多い。大場川マリーナに保管するとセカンドボートが持てる、「オーナーズレンタルボートシステム」という業界初の制度もある。

マリーナには屋外トイレや大型の駐車場も完備。営業時間内であれば、シャワールームも使うことができ、快適なマリンライフを過ごせる。

この項、「」HPより)

けっこう広い大場川の流れ。

         対岸・葛飾区に「葛飾清掃工場」。

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霜降。10月23日。初時雨。紅葉。イチョウ。霜降り。

2022-10-23 20:30:47 | 世間世界

                  隅田公園にて。ただし、11月下旬のころ。

10月下旬では、紅葉にはまだまだ早い時期。

                      

さて、10月23日(日)。今日は、二十四節気のうちの第18番目「霜降」。東京地方、昨日のはっきりしない天気から一転、すっかり晴れ渡った気持ちのいい朝を迎えました。

たしかに急に寒くなってきた印象ですが、まだそれほどの寒さを感じません。温暖化の影響でしょうか?

暦の上で「霜降」とは、

朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめるころ。だんだんと冬が近づいてくる。北国では初雪の便りも。

ということになります。

「七十二侯」では、

初侯 10月23日〜10月27日頃

霜始降 しもはじめてふる

霜がはじめて降りる頃。

次侯 10月28日〜11月1日頃

霎時施 こさめときどきふる

通り雨のように雨が降りはじめる頃。降ったかと思えば、すぐに青空が顔を出す。

※「時雨」のことのようです。

「初時雨」は、人々や動物たちが冬支度をはじめる合図だといわれている。

※「初時雨」というと、芭蕉の句を思い浮かべる。

旅人と 我名よばれん 初しぐれ  (『笈の小文』)

初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり  『猿蓑』)

末侯 11月2日〜11月6日頃

楓蔦黄 もみじつたきばむ

もみじや蔦が色づいてくる頃。葉が赤色に変わることを「紅葉」と呼び、銀杏のように黄色に変わることは「黄葉」と呼びます。また、秋の山が紅葉することを「山粧う(よそおう)」という。

(「向島百花園」にて。ただし、11月下旬)

※「紅葉」というと、『小倉百人一首』中の「猿丸大夫」の作を。

 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき

ただしこの歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっている菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られているが、これも作者名はない。(「Wikipedia」より)

(七十二侯は、「暦生活」HPより)

それでも朝晩は、冷えてきています。我が家でも、少しずつ冬支度。冬物の服装の準備。冬物のコートはまだ早そうですが。

しかし、毎年感じることですが、日本の四季は最近では「二季」に。夏から冬、冬から夏という具合。

ところで、「霜降(しもふり)肉」といえば、牛肉で脂肪が筋肉の間に細かく網の目のように入っている肉のこと。豚肉や馬肉にも用いられる。筋肉(筋繊維)の間に入った脂肪は「サシ」と呼ばれており、それが細かいほど上質とされる。

たまには高級な霜降り牛を食してみたいものです。

写真は神戸牛の霜降り。

(「Wikipedia」より)

 

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葛飾区と三郷市。みさと公園から水元公園へ。水産試験場跡。水辺公園・テラス。野鳥観察台。(都県境を探ってみる。その2。)

2022-10-18 20:39:13 | 都県境を探ってみる

                  水元公園案内図。

水元公園の外側の道は、三郷市内。そこを歩きます。

水元公園。ため池風。

           水元公園の「小合溜」が境界になっています。

旧水産試験場(水元)跡。

この場所にあった旧水産試験場は戦後の食生活における重要なタンパク源として鯉や鮒の増殖・養殖の研究や金魚の品種改良などを行ってきました。しかし、水元の水産試験場としての役割は終了し、港区に移転しました。

この跡地は、水元公園の開園区域で既に姿を消してしまった貴重な水生植物や動物の生育・生息環境を保有しています。また、都天然記念物に指定されているオニバスが自生していることでも有名です。

現在ここに残されている貴重な資源、水産試験場としての歴史資源を大切に保護しつつ、失われつつある低地水辺の豊かな生態系を守りながら水元小合溜の水郷景観を復元するための整備を行いました。・・・

振り返る。

                  右が葛飾区、左が三郷市。

しばらく進むと、「みさと公園」へ。

対岸は葛飾区。

見慣れた「水元大橋」が向こうに。「小合溜」が広がる。

※東京都は小合溜全体が都に属すると主張し、中央線を主張する千葉県側と結論が出ていません。そのため、小合溜の約4キロは、境界が確定していないようです。

       上流を望む。

水辺公園風のテラス。

    

   家族連れでにぎわい、テントもたくさん張られています。

           

水元公園・三郷口から葛飾区に移動します。

対岸の「みさと公園」。

野鳥観察台が奥に。

四阿から対岸のみさと公園を望む。

 

今回はここまで。次回は、水元公園のはずれから、大場川沿いに歩きます。

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葛飾区と三郷市。水元公園。東金町・三郷市高州。CAFE TO HEN。(都県境を探ってみる。その1。)

2022-10-17 21:20:37 | 都県境を探ってみる

            葛飾区と松戸の境にある「葛飾橋」東詰めの土手。

今回から東京都と他県との境を探ってみようと。といっても、東の千葉県から埼玉県、山梨県、神奈川県、・・・。

川あり、谷あり、丘あり、池あり、山あり、飛び地あり、住宅地あり、ジグザクあり、・・・というわけで、そう簡単ではなさそう。

当面、葛飾区、足立区、北区、練馬区の都境を歩いてみることに。はたしてどこまで確認しつつ、歩き続けることができるか?

手始めに、江戸川から水元公園まで、と。その第1回目。

10月16日(日)。すっきりしないお天気。2時間ほどの予定。折り畳み自転車で出かけました。

千葉県との東の境は、江戸川歩きで確認済みなので、江戸川土手・葛飾橋付近から北西に向かいます。

対岸の千葉県松戸市。

案内図。

            「都立水元公園」の境目が都境になっている。

柵の向こうは、三郷市。

水元公園は、葛飾区と三郷市の境界に広がる公園。緑も濃い。

葛飾区と三郷市の境界線。

外環道と交差する。

振り返る。右が水元公園。左が三郷市。

「葛飾区東金町8丁目33」。

三郷市内へ。

            〇に「高州4丁目西町」とありました。

              

葛飾区方向。

水元公園に向かいます。

↓に「高州4丁目調整池上部管理施設」。左が水元公園。

公園から三郷市高州のマンションを望む。

高州「CAFE TO HEN」。

            水元公園に接するテラスが魅力。桜の季節が最高。お客さんもたくさんいます。

                  

 

                                   (「Facebook」より)

「埼玉県三郷市」。

「東金町天王橋」信号。

※「高州」

 かつては江戸期より存在した下総国葛飾郡二郷半領に属する高村で、古くは室町期より見出せる高須賀・河辺須賀であった。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。

                     1880年代のようす。右に水戸街道・松戸宿。

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向島百花園。その2。からたち。みつばあけび。もっこく。かりん。ふよう。ひめがま。いちょう。・・・

2022-10-16 20:07:09 | 向島百花園

                   からたち。黄色い実がなっています。

からたちの花北原白秋作詞、山田耕筰

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ。
青い青い針のとげだよ。

からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。

からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。

からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかつたよ。

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

みつばあけびの実。

           

アケビとともに秋の味覚として親しまれてきたつる性の植物で、3枚の小葉があることからミツバアケビとよばれる。新芽と果実は食用とされる。つるは弾力があり丈夫でしなやかであることから、かごなどの民芸品になる。籠編みの材として最高品といわれ、多くの生活用具に利用される。

もっこく(木斛)。別名でイイクともよばれる。「江戸五木」の一つ。モチノキやマツ、モクセイと並び「庭木の王」と称される。

※「江戸五木」モッコク、アカマツ、イトヒバ(サワラの変種。)カヤイヌマキ

直径10 - 15mm の球形で卵状球形の果実が実り、秋(10 - 11月)になると熟す。果実が熟すと厚い果皮が不規則に裂けて、橙赤色の種子を露出する。この種子は鳥によって食べられて親木から離れたところまで運ばれると考えられている。また、この種子は樹上で赤く目立つため、アカミノキの別名がある。

ざくろの実。

かりん。

              

ふよう(芙蓉)。

         

ひめがま。

いちょう。

      1945年3月10日・東京大空襲の惨禍の中で、生き残った木。

スカイツリー。

のぎく。

はぎ。

せんにんそう。

別名が「ウマクワズ(馬食わず)」。有毒植物で馬や牛が絶対に口にしないことを意味する。茎や葉の汁は皮膚炎の原因となる。

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向島百花園。久々の晴れ間。ふくろくじゅうり、かりん。とらのおすずかけ。せんぶり。しもばしら。・・・

2022-10-15 19:51:45 | 向島百花園

                     桔梗。

かしわばはぐま。柏葉羽(白)熊。

わが国本州から四国九州分布してます。山地木陰生え、高さは3070センチになりますは分せず、卵状長楕円形で縁に粗い鋸歯があり、中部集まってつきます9月から11月ごろ、の上部に白色頭花咲かせます。頭花10個ほどの筒状花からなり花冠先端が5裂して反り返ます。

※「ハグマ」はウシ科の動物であるヤクのシッポの毛でできた羽熊(白熊)のことで、兜や僧侶の持つ払子(ほっす)の装飾に使われたものだが、の形がこれに似ることに

ぐずついた天気が続く、東京地方。曳舟図書館に行くついでに、向島百花園へ立ち寄りました。

10月15日(土)。曇り時々晴れ。けっこう大勢の方が見えていました。

    

    左からふくろくじゅうり(二つ)   ゆうがお   かりん 右に(ちょっとだけ)もうせんごけ。

ほととぎす。

とらのおすずかけ。

低地の雑木林の林縁のやや明るいところにはえる多年草。茎は斜上して長さ70-150cm,無毛。葉は互生,卵形または長楕円状卵形,先は短くとがり,基部は円形で長さ2-7㎝の柄があり,縁に3角状のとがった鋸歯があり,長さ6-11㎝,幅3-5㎝,無毛,裏面ふつう紫色を帯びる。花期は9-10月。葉腋に短い円錐形の花序をだし密に花をつける。花冠は紅紫色,長さ5mm,先は1/3ほどまで4裂する。雄蕊2本は花外に長くとび出す。朔果は卵形,長さ3㎜。
2015年に県内で発見。全国的に分布が少なく貴重である。(「WeB版鳥取県植物誌」HPより)

せんぶり、かんぼく。

せんぶり

センブリは日本各地に自生する民間薬の代表格ともいうべき植物です。実物を知らない人でも、その名前を聞けば、すぐに「苦い」という連想が浮かぶほどです。

日本特産のセンブリですが、初めは、のみやしらみ用の殺虫剤として使われていました。
江戸時代の終わり頃から苦味健胃薬として認められ、医薬品の列に加えられました。

生薬としては、秋によく開花した全草を日干しにして、粉末にしたものを用います。
食欲のないときには食前30分ぐらいに、その他のときには食後に服用します。苦味が口中に残りますが、これが舌先を刺激して、反射的に胃の働きを活発にします。(「全薬工業株式会社」HPより)

※「げんのしょうこ」「どくだみ」と並ぶ日本の三大民間薬の一つ。

ふじばかま。

乾燥させると、桜餅のような優しい香りを発します。古代、高貴な女性たちはフジバカマを浸した湯で体を拭いたり枕にしのばせたりしたといいます。

『源氏物語』の第30帖に「藤袴」という巻があり、夕顔が玉鬘に藤袴を差し出して「おなじ野の露にやつるゝ藤袴あはれはかけよかことばかりも(私はあなたと同じ野で露に濡れて萎れる藤袴のようです。かりそめでもいいですから、あわれと声をかけて下さい)」と詠みかける。

「むらさきのふぢばかまをば見よと言ふ二人泣きたきここち覚えて ・・・」(与謝野晶子『源氏物語』訳)

「とけいそう」に黄色い実がなっている。

ふうせんかずらの実。

しもばしら。

この名前からは花の姿が霜柱に見えるからだと思ってしまいますが、そうではなく、枯れた茎の根元に霜柱が出来るのが理由だそうです。

(「」HPより)

 

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JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その5。大沼工業団地。向谷橋。「一級河川 中川起点」碑。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-13 20:50:33 | 中川を遡る

         「繰舟落とし」の両岸に大きな工場が連なる。

この橋を渡り、右岸へ。

繰舟落としを横断する水路橋。

その上流にある橋。

このあたりで、道を間違えたことに気付きました。

そのまま、県道84号線(羽生栗橋線)へ出ます。さらに、「埼玉県立特別支援 学校 羽生ふじ高等学園」脇を通って、中川に架かる「向谷橋」へ向かいます。

学園に稲が干してありました。

中川の起点まで、500M弱。ここで、やっと「中川」に出会うことができました。

向谷橋。下流を望む。拡幅整備されています。

      

上流(起点)方向を望む。

起点までの左側、公園のところに橋が架かっています。それが最上流の橋ということに。そして、

やっと着きました。「一級河川 中川起点」碑。

起点からの下流。

           

河口から約80km!。

突き当たり、立体交差しているのは、葛西用水。上流方向(利根川方向)。

   下流(東京)方向。    

この付近の今昔。

1880年代のようす。

が中川の起点。斜めに葛西用水。西側には水路はない。蛇行している流れが「繰舟落」。

2010年代のようす。

北側に市街地が広がっているが、南は今も田園地帯。東武線・羽生駅は西北に位置する。

西に続く「宮田落」から、「葛西用水」の下を伏越(サイフォン)で通過し、「中川」となります。

羽生駅へ向かうために、宮田落を遡ります。

けっこう歩き、やっと羽生駅に着きました。利根川歩きのときに利用したことがありました。

さて、墨田区・江戸川区の境界・旧中川河口から、延々、途中、はしょったり、迷ったりしましたが、一応、これでクリア、ということで。

現「中川」の本流だけでなく、「中川」へ合流する「古利根川」は起点まで歩き、「行幸湖(権現堂川)」も歩きました。

いつも身近にある川「中川」。

こうして起点まで遡ることで、市街地、田園地帯を流れる川の姿、そして地域住民の治水、自然保護、共生などの歴史などを実感したことが貴重な経験でした。

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JR東鷲宮駅~東武「羽生駅」。その4。加須吉沼。道下橋。中荻大橋。繰舟(くりぶね)落とし。(「中川」を遡る。第8回目。)

2022-10-12 21:09:30 | 中川を遡る

                    東北道の側道を歩き、左折して中川土手に。

加須吉沼。

左手に加須吉沼。広大な面積を誇るヘラブナ管理釣り場です。5本ある桟橋からは、水深2~6メートルまでタナ(水深)があり、短竿の浅ダナから長竿の底釣りまで様々な釣り方を楽しむことができます。

加須吉沼の特徴は、魚影が濃く数釣りが楽しめること。加えて「活き餌」の使用以外の規定が無く、自由な釣り方を楽しめます。

初心者でも比較的釣りやすいオカメの使用もできる為、入門者におすすめの釣り場と言えるでしょう。

(この項、「」HPより)

けっこうたくさんの釣り人が。

ここまでの土手歩きを振り返ると、「権現堂堤」の上流から、魚釣りをする人は見かけませんでした。特に、この付近では農業用水の排水路なので、魚は棲めないのか。

※この先も釣り人の姿は見かけませんでした。

       

田んぼの畔道をたどって、ようやく「中川」土手に。

「東北道」方向を望む。

上流を望む。

道下橋。かなり古びた橋。

橋から上流を望む。足もとが気になります。

左岸に移ります。

振り返って望む。

中荻大橋。

その先、右岸にも池が。

この先、右岸側に繰舟(くりぶね)落としが合流します。

       右手・手前が繰舟(くりぶね)落とし、左手・奥が中川。

繰り舟落としの上流。

こちらが中川の流れ。

ここで、重大なミス。

2つ並ぶ橋のうち、向こう側にある橋を渡って、中川を遡らなければならなかったのですが、そのまま右岸(繰舟落とし側)を歩いてしまいました。

かなり先に行って気付いたのですが、そのまま・・・。

※そのため、中川に架かる天神橋、弁天橋、藤北橋等は通りませんでした。

ここから先は、「繰舟落とし」沿いの歩きです。

上流を望む。

左岸に調整池。大きな原っぱ。

                  正面奥の方に中川の流れがあります。

前方に大沼工業団地。古い橋。

             中川の北側一帯と繰舟落としの北側にある大きな工業団地。

                     2010年代のようす。

 中央の流れが「中川」、下方の流れは「繰舟落とし」。右端が分岐点。工業団地内から中川は改修工事が進んでいる。

 

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