おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その5。旧中川流路跡(江戸川区・葛飾区)。平井住宅・木根川薬師。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-05-31 18:44:19 | 中川を遡る

         江戸川区平井地区側(左岸)を探ってみます。

左に旧中川の流れ。

この右手が水路の最終地点? 

この先は、工場等が建っている旧流路際になります。

その先に「公務員平井住宅」。微妙なカーブが流路跡を示しているようです。

旧中川方向。

左手のマンションの堅牢で高い壁。ここが流路跡?

正面が荒川方向。

         流路跡のカーブ、広さを彷彿とさせる。

住宅脇の道路。土手だったところ?

          

荒川の土手から。

対岸「中川」を望む。旧流路は「荒川」を蛇行しながら上流へ向かった。

首都高環状線・葛飾ハープ橋。

右に隣接するマンション。そこは、中川旧流路際の土地に。

これで、旧中川歩きは終了。荒川に架かる「木根川橋」を渡り、荒川対岸へ。現中川へ。中川は、かつては「中川放水路」という名称でした。けっこう遠回りしての歩き。

※下流の下流の平井大橋を渡った方が早かったかも知れません。

↓が平井住宅(旧流路跡)。

          旧中川は、荒川(放水路)中も蛇行していました。

中川と綾瀬川(左)の合流点。

上は、「首都高」と「葛飾ハープ橋」。中川に架かる橋は、「上平井橋」。

スカイツリーと隅田清掃工場の煙突。

現中川・綾瀬川の下流方向。

上平井水門。

上平井水門は、中川、綾瀬川への高潮遡上を防ぐ役目を担う重要な水門です。他の水門より大きな門扉と巻上げ機を持っています。

閉鎖した上平井水門(2011年の「東日本大震災での津波を堰き止めています)。

(「」HRより)

対岸正面に旧中川。

葛飾側の旧水路探索へ。

右手に木根川薬師・幼稚園。

          これらの敷地が旧流路跡のようです。

振り返る。

(「今昔マップ」より)

       ○が旧水路付近。荒川放水路開削によって変更されている。↓が木根川薬師の元の位置。

2010年代のようす。

 左の○が「木根川薬師」の元の位置、右の○が現在のお寺。

木根川薬師は、開削によって水没することになり、現在地に移転した。その移転先は旧水路を埋め立てた所のようですが。

葛飾区立中川中学校の校舎も微妙にカーブしています。

木根川薬師横の通りと中川中学校敷地の縁の間が旧水路跡に思われます。

「東京都下水道局本田(ほんでん)ポンプ所」。

           流路跡に建てられた建物。

           

荒川方向を望む。

「本田ポンプ所」の先には「木根川東児童遊園」があります。旧水路跡に当たります。

         ちょっとぶっそうな公園です。

右手の森の中。

この先で、現中川の流れとなります。

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都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その4。水辺公園。平井の渡し。木下川排水機場。流路跡。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-05-30 19:32:28 | 中川を遡る

                北十間川との分岐点付近は、ビオトープ風になっています。

この付近は、「墨田区立旧中川水辺公園」。

下流を望む。

対岸は江戸川区の水辺公園。

ベンチで小休止。

上流を望む。「平井橋」が上流に。

案内図。

「平井の渡し」は、現在の平井橋のすぐ南の位置にあったようです。かつての「行徳道」は東方・四股から直線で都立小松川高校の北側の道を北西に進み、平井の集落に入ってからはちょっと入り組みますが、「平井の渡し」を過ぎると、南西にほぼ一直線。途中、左に折れて北十間川の橋を越えて西に向かいます。現在の浅草通りに重なる部分もあるようです。

江戸川区側に「平井の渡し」跡の「説明板」。(以前撮影のもの)。

1880年代のようす。 2010年代のようす。

水道橋が2つ。

隅田清掃工場の煙突。手前が「中平井橋」。

振り返る。

「ゆりのき橋」下の艇庫。

          「木下川排水機場」に近づいてきます。

上流の流れの終点。

下流方向を振り返る。

「木下川排水機場」正門。

荒川への河口。

     中川はかつてはつながっていました。ここまでが「旧中川」。対岸からは「一級河川・中川」。

実は、かつての流れの一部が埋め立てられ、工場や宅地になっています。その一つが「公務員平井住宅」。

                     1880年代のようす。

                      2010年代のようす。↓のところ。公務員平井住宅。

同様に現中川にもかつての流路跡が残っています。次回はその探索から。

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向島百花園。その2。初夏の雰囲気。梅の実もしっかり。白加賀・紅千鳥・花香美・・・。そして、ヤマアジサイ。エンビセンノウ。・・・

2022-05-29 19:38:10 | 向島百花園

百花園は、何といっても梅の名所。今年もコロナのために休園。そして、今。

        緑鮮やか。

             少し色づいているものも。

     

     

鉢植えの「ヤマアジサイ」がいくつも置かれています。

これからはアジサイに菖蒲に、と。

     

  

職人さん達が丹誠込めて育てている鉢植えのアジサイ。

地植えのものも。

えんびせんのう(燕尾仙扇)。

燕がやってくる時期にふさわしいネーミング。

ただし、

エンビセンノウ(燕尾仙翁)は、北海道(日高)、本州(長野県、埼玉県)にまれに見ることが出来る、ナデシコ科 センノウ属の多年草です。古典植物として栽培されているマツモトセンノウと同じ仲間ですが、エンビセンノウは原種のために同じようにそだてても、うまく育たないことがあります。寒冷地であれば別ですが、関東地方の住宅地で育てるには湿度や夏の高温多湿に対して工夫する必要があります。

(「山野草を育てる」HPより)

だそうです。

いよいよ夏化粧の百花園。

      

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向島百花園。その1。マコモ。タカノハススキ。ダンゴ菊。トケイソウ。ヒツジグサ。カザグルマ。カルミヤ。ユズリハ。・・・

2022-05-28 20:18:04 | じじばばがゆく

                       マコモ。

スカイツリー。

一ヶ月ぶりの百花園。ますます緑が濃くなり、いろいろな草花が咲いています。

タカノハススキ。鷹の羽模様の斑入りのススキ。

その奥に、ダンゴ菊。

ホタルブクロ。園内にはドクダミが密集して咲いています。

トケイソウ。中央に見える花。

3つに分裂しためしべが時計の長針、短針、秒針のように見え、花びらが円形に並んで放射状に配置されて文字盤に見立てられる、特徴のある花を咲かせることに由来

英名「 passion flower」 は「キリスト受難の花」の意味。

※「パッションフルーツ」とは別。蔓性で、けっこう上へ上と家の壁などに伝わって伸びていくようです。

ヒツジグサ。

カザグルマ。「ヒマワリ」等と船橋市の「市の花」の指定を受けている。

※船橋市に自生している貴重種であり、市のシンボルとして、大切に保護し、保存していくべき花であることから選ばれました。(「船橋市」HPより)

カルミヤ。

北アメリカが原産。東京市が贈ったサクラ苗の返礼で、日本に1915年渡来した。原産地の気候では、高さが10mにもなる。やや日陰を好み、葉は長い円形になり革質で上面は光沢がある。5月頃に直径2cmの、小さな椀形をした淡紅色の花を密集して咲く。

お正月のお供えでなじみのユズリハ。

ザクロ。その下は、「シロバナシモツケソウ」。

                    

カジイチゴ。

連れ合いが子どもの頃、田舎の山の中で見つけて食べていたそうです。大粒で甘くて美味しかった、とのこと。

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都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その3。亀小橋・城東電車。トロリーバス。河津桜・シャクナゲ。北十間川。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-05-27 20:17:23 | 中川を遡る

                    「亀小橋」。

大正から昭和の初め、江東区・江戸川区には城東電気軌道という会社がありました。路面電車(後の市電、都電に)。錦糸町-水神森-洲崎、錦糸町-西荒川、荒川を挟み、東荒川-今井の3路線を運行。錦糸町駅前には、錦糸堀車庫がありました(現在の丸井のところ)。

 東荒川-今井間は、1952(昭和27)年に廃止され、トロリーバス(今井-上野公園)となりましたが、1968(昭和43)年に廃止。

※1「トロリーバス」

道路上空に張られた架線から取った電気を動力として走るバス。「トロリー」とは集電装置のこと。外観も操縦法も普通のバスに近い。日本語では無軌条電車(むきじょうでんしゃ)と訳される。現在、トロリーバスは唯一、黒部ダムアルペンルートの扇沢駅と黒部ダム駅を結ぶバスとしてあったが、2018年に運行を終了、現在は、電気バスになっている。

京成押上駅前の「浅草通り」を通っていました。高校通学時代に目の前を通りすぎるのをよく眺めました。「四つ目通り」から「浅草通り」へ大きくカーブするバスが印象的でした。

都営トロリーバス(1952年)

※2 都電は、都電荒川線(三ノ輪~早稲田)以外は、1972年(昭和47年)までに順次廃止となる。

 錦糸町-小松川間(小松川線)は、京葉道路から水神森の先を右折して東南の方向へ進んでいく軌道。その終点「西荒川停留所」は、現在の首都高速道路下り線の真下付近。現在は、路面電車が走っていた頃の面影は全くなく、すっかり広い舗装道路となり、周囲の建物も大きな会社ビルや高層マンション、区の大規模な施設となっています。
 旧中川に架かる「亀小橋」は、かつての路面電車専用の橋。この橋の上には、都電が昔走っていたというレリーフが、二つ埋められています。

              

近くの浅間神社には、その当時のレールが保存されています。

以前の投稿記事より。

上がトロリーバス。下が城東電車。
ケース越しに親水公園側から今井街道側を望む。
 今井街道と境川が交差する付近の「一之江境川親水公園」にあるガラスケースに収まったトロリーバスと電車のブロンズ模型。

・・・

散策にふさわしい遊歩道。

                   向こうに見える橋は「中川新橋」。国道14号線(京葉道路)。

             

振り返る。

水鳥の姿も。

先に見えるのは、「ふれあい橋」。

この付近には、アジサイがたくさん。季節が来れば、さぞかし見事なことでしょう。

小松川ポンプ所。

JR総武線の鉄橋。

対岸は、河津桜並木になっています。

      (「Googleマップ」より)

シャクナゲ(石楠花)。  

ワタスゲ?              

総武線鉄橋下。

ふれあい橋方向。

亀戸中央公園。緑豊か。

「江東新橋」。

                  「蔵前橋通り」。

いったん「北十間川」の縁に進みます。「北十間川」は、「東京スカイツリー」の側を流れる川。

左が「北十間川」。

江戸時代初期に開削された運河である。西に隅田川、東に旧中川と接続する。横十間川との合流点より西は墨田区内を通り、東は墨田区と江東区の区界となっている。名称は、本所のの「北」を流れる、川幅が「10間」の川であることに由来する。以前は大横川の分流点より西を源森川(※「隅田川」との出合付近に同名の橋がある)、東を北十間川といった。

広重名所江戸百景』「柳しま」。絵の中央の川が北十間川、絵の下の川が横十間川、左上の山は筑波山

江戸時代、明暦の大火後の本所開発の一環として、源森川は材木輸送のため万治年間に、北十間川は農業用水のため1663年寛文3年)に開削された。当初両川は繋がっていたが、隅田川増水時の洪水被害が著しく、1672年寛文12年)には間に堤が築かれ、分断された。

1885年明治18年)に住民の要請で源森川と北十間川が再び接続された。これにより旧中川と隅田川が最短距離で結ばれることとなり、業平橋駅で鉄道貨物とも連携して下町の物流に重要な役割を果たしたが、戦後舟運は衰退し、重要性が低下した。1978年昭和53年)には扇橋閘門設置による江東地区の水位調整のため、大横川との分流点に北十間川樋門が設定されて航路が再び東西に分断され、東側の区間は荒川より水位が1メートル下げられた。また現在大横川、曳舟川などかつての接続河川は多くが埋め立てられており、水運の役目はほとんど果たされていない。

押上業平橋地区では、2012年5月22日に開業した東京スカイツリーの建設に合わせ、それに面する北十間川も脚光を浴びている。周辺の再開発にあわせ親水テラス、船着場、水質浄化装置などが整備された[1]ほか、東京ソラマチと対岸とを結ぶおしなり橋(歩行者専用)が新たに架けられた。

浅草などのほかの観光地と連絡する水上バスの運行も構想され、水運としての機能の復活が期待されているが、幅が狭いため隅田川を横断できる大きさの船が通行するには難があり、また前述の通り樋門が航路を塞いでおり、西部と東部で水位が異なるため大規模な工事による閘門化が必要であるなど、課題も多い。

(この項、「Wikipedia」参照)

1880年代のようす。周囲は田畑。

2010年代のようす。川筋は変わらない。

スカイツリー付近からの「北十間川」(東を望む)。

「小原橋」が架け替え工事中。

眼下に北十間川。

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都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その2。中川船番所資料館。川の駅。カヌー。逆井の渡し跡。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-05-26 20:31:37 | 中川を遡る

「中川大橋」。ずいぶん澄んだ水面になっています。

     魚の姿もチラホラ。

「中川船番所資料館」。

「旧中川・川の駅」。

「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ

江戸最初の運河・小名木川が開かれました

天正18年(1590)江戸の城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後、米・醤油・野菜など多くの物資がここを往復しました。沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。

1661年(寛文元年)中川番所ができました

利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋)(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に寛文元年(1661)中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。

現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備

この旧中川・川の駅は、かつての江戸への入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープやカヌー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着き場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。

「中川船番所」は、前に訪問したことがあります。その時の記事を再掲。

 資料館入口にあった「田船」。

 深田に浮かべて、肥料や刈り取った稲を押し運ぶのに用いる小舟。弥生時代から用いられている。

水郷や沼などで、乗用や農作物の運搬などに使用される平底の簡単な作りの舟。(「デジタル大辞泉」より)

中川船番所の再現

寛文元(1661)年に、江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となりました。
中川番所があった場所については現在の江東区大島9丁目1番地と推定されていましたが、平成7(1995)年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほぼ確定しました。中川船番所資料館は、この番所跡地より北に50メートルほど離れた場所に建てられています。

(この項、「江東区」HPより)

江戸名所図会『中河口』「中川番所」。

高札現代語訳のもの。

一.夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
一.中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
一.女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
一.鉄砲は二、三挺までは改の上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。その他の武具についても同様である。
一.人が入ることのできる大きさの器は確かめた上、異常が無ければ通す。小さい器に関しては改には及ばない。万一不審な点があれば船を留置き報告をする。

附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。

1880年代のようす。

      小名木川と中川の交差するところに番所跡。

2010年代のようす。

       番所跡の少し北側に資料館。

当時の風景を模した絵。

当時の水運、海運の概念図。

「塩の道・小名木川」の全容。

広重「名所江戸百景 中川口」。手前が「小名木川」で、左下に「中川番所」の建物や石段が描かれている。中央を左から右に「中川」が流れ、その奥が「新川」。

「資料館」には、当時の番所の役割・ようすが詳しく展示され、別の階には釣り道具や魚拓など釣り関係の展示が豊富に。けっこう充実しています。

眼下を眺める。「旧中川」の流れ。

・・・

のんびりと散策する姿も。

こちらではカヌーの整備中。

「中川大橋」下の艇庫。

                

旧中川は流れのない静水なので、カヌーやカヤックを楽しめるところとなっています。

お花畑の花々も満開。

都営地下鉄新宿線「東大島駅」。

船堀橋から下流。

けっこう橋が続きます。そこで、「東京の橋ナビゲーション」HPより。

        

続いて「さくら橋」・「もみじ橋」と並んでいます。

               

   ヨシ。

逆井橋。

        「逆井の渡し跡」碑。

解説板。

逆井の渡しは、江戸時代から明治時代初期まで中川にあった渡しで、亀戸村と西小松川村(江戸川区)を結んでいました。もとは逆井村(西小松川の北隣り)と亀戸村を結んでいたため、逆井の渡しと称せられました。この場所は、万治2年に開削された竪川の北岸沿いに通る佐倉道と中川の合流点であり、江戸と下総方面をつなぐ交通の要所でした。川幅は40間(約73㍍)ほどで、船は2艘が備えられ、、1艘は亀戸村、1艘は西小松川村持ちでした(『新編武蔵国風土記稿』)。

開設の詳細は不明ですが、延宝8年(1680)の『江戸方角安見図』には、「総州さくら海道」(佐倉道)と中川が結節する地点に、「小松川舟わたし」の記載が見られ、この頃には渡船が運航していたことがわかります。また、明治時代の記録には、竪川の開削に携わった徳島屋兵右衛門らが寛文年間(1661~73)に渡船場を開設したとも記されています。

渡船場周辺の様子は、嘉永3年(1850)の『絵本江戸土産』などによると、のどかな田園風景が広がる緑豊かな景観が風流人たちの好まれ、川を渡る人は船上からの眺めを楽しんでいたことがうかがわれます。

渡船は明治以降も続き、『東京府統計表』によると明治10年(1877)頃の渡し賃は人が1銭1厘5毛、牛馬・人力車が3厘、馬車が1銭5厘等となっていました。明治12年に亀戸村と西小松川村により木造の逆井橋が架橋されると、渡しは交通機関としての役割を終え、廃止されました。

※1 右に歌川広重画「逆井のわたし」と「絵本江戸土産」中の「逆井の渡」が掲載されています。

※2 墨田区・両国から竪川の北側を東に向かう元佐倉道(旧千葉街道)は、中川(現・旧中川)を「逆井の渡し」で越え、現在の江戸川区小松川地域に入り、そのまま北東に直進、「四股」(荒川放水路開削によって消滅)で行徳道と交差して市川方向に進みます。
 「逆井の渡し」付近は東京大空襲による壊滅的な被害を受けた後の街並みの整理・復興、竪川上の首都高の建設、北側の通りを通っていた都電(かつての城東電車)の撤去、荒川(放水路)スーパー堤防の建設などによって40、50年前の面影は全くありません。かすかに残る道筋と戦災の被害を生々しく伝える「元江戸川区役所文書庫」、浅間神社内に保存された都電のレールなどわずかで、旧千葉街道であったことを示す案内板が立てられていることで、昔の街道を偲ぶのみです。

※3 「逆井橋」に関わって、中国人虐殺に対するけん書籍を紹介。

「関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する」(田原 洋)岩波現代文庫

1923年(大正12年)9月1日に発生した「関東大震災」の大混乱の中で引き起こされた、「朝鮮人虐殺事件」「亀戸事件」「大杉栄殺害事件」は、不当な虐殺事件としてよく知られている。
 犠牲者の大部分は朝鮮人だが、400人以上の中国人、数百人単位の日本人も含まれていた。中国人虐殺が集中的におこなわれたのは、東京府下南葛飾郡大島町(現在の江東区大島、亀戸。JR「亀戸駅」南東)だった、と地図入りで紹介し、王希天の殺害現場を明示している。 

 当時、日本国内での朝鮮人―「日韓併合」によって植民地化された―と、中国人―当時は「中華民国」の国民―の置かれた立場(状況)の決定的な違いから、中国との外交問題になってしまったとき、朝鮮人と「誤って」中国人たちを殺した(誤殺であった!)、という言い訳(居直り)をする日本政府関係者。王希天についても、いったん収容した(多くの中国人、朝鮮人とともに)警察から釈放した後の行方は知らない、と言い逃れする。
 「行方不明」になった王希天を捜索するために亀戸に赴く中国人同胞。そうした中で、知らぬ存ぜぬとしらを切りつづけた軍部と警察当局は、中国との外交問題化になると見るや、軍当局(戒厳令下の)、警察(亀戸警察)、さらに政府を巻き込んでの大がかりな隠蔽工作を行う。

 こうして、いつしか「王希天事件」は歴史の闇の中に消えてしまった!

 筆者は、そうした過去の歴史の暗部を、とりわけ中国人虐殺の真実を調査し、ついに王希天殺害の真犯人(直接手を下した者)を突き止める。そこに至るまでの、資料発掘、証言の収集など日本政府の欺瞞をくつがえす新資料の発見(アメリカの国会図書館に眠っていた資料など)、さらに、加害者へのインタビュー、・・・。関東大震災の時の朝鮮人、社会主義者への虐殺に忘れ去られた中国人虐殺、その典型としての王希天にたいする虐殺を浮き彫りにしていく。

 筆者の、真相に迫ろうとする執念は、けっして加害者をあぶりだすことにとどまらず、当時の日本の官憲の実態、一般日本人が陥った群衆心理、軍をはじめとする権力構造、それらが今もなおまったく無縁のものではないことを訴えている。

 王希天殺害現場は、旧中川に架かる「逆井(さかさい)橋」付近であった、という。

対岸を望む。

 

脇に周辺の史跡・見所の案内図。

                 「亀戸あさくさ古道」を訪ねて。以前、ほぼ歩いたところですが。

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都営新宿線「東大島駅」~京成線「青砥駅」。その1。荒川ロックゲート。「旧中川」荒川との合流点。小名木川。(「中川」を遡る。第1回目。)

2022-05-25 20:04:38 | 中川を遡る

              都営地下鉄新宿線「東大島駅」。駅の下を旧中川が流れています。

今回から新シリーズ。

都内東部に流れる「荒川」、「江戸川」と歩いたので、身近な川の「中川」を歩いてみようか、と。

現在の中川は、かつては名称を「中川放水路」として、荒川(かつては「荒川放水路」)に併行して綾瀬川と合流し、東京湾まで流れています。

「荒川」が開削される前は、そのまま東京湾に注いでいました。荒川によって寸断された流れは、「旧中川」として荒川の西側に残っています。といっても今の旧中川は上流(「木根川排水機場」)も下流(「荒川ロックゲート」)も閉鎖され、上流(荒川)から下流(荒川)へと流れているわけではありません。

しかし、かつての流れのまま、江戸川区と江東区、墨田区との区界になっています。

                                                                                                                       

                                                              

2010年代のようす。流路はほぼかつてのまま。          1880年代のようす。東京湾まで流れている。              

さらに中川の上流は、埼玉県・吉川で、「古利根川」と分岐した上流は、直線的に開削された人工運河(のような川)となっています。

そこで、今回の歩きは、「旧中川」→「中川」→「古利根川」(正式には、「大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)」

という具合に歩いてみます。

・第1回目 「荒川ロックゲート」~「環七・青砥橋」(「旧中川」・「中川」) 

・第2回目 「青砥橋」~「新中川水道橋」(「中川」)

・第3回目 「吉越橋」~「藤塚橋」(「中川」・「古利根川」)

以下、順次、歩いて行く予定です。

※「中川」について、「Wikipedia」より。

現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部は古利根川利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ。河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正昭和に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ(西へ向かうもうひとつの河道は現在の古隅田川)。

この水系整備により、島川・庄内古川より東京湾河口までが中川として扱われ、合わせて古利根川、元荒川、綾瀬川なども中川水系とされた。

5月11日(水)。晴れ。

「荒川ロックゲート」・荒川側出入口。

対岸は、船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。正面、首都高・橋脚下あたり。

「旧中川」側。

解説板。

荒川ロックゲート(閘門)とは? 

図解による解説。

旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川と旧中川は水位差が最大で約3.1mにもなりますが、荒川ロックゲートにより結ばれ、荒川と隅田川にはさまれた江東デルタ地帯への水上交通が両方向になりました。

もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
 地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左のは、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右のは、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
 現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されています。

※地図は「今昔マップ」より引用。

            

旧中川。

解説板。

享保14年(1729)幕府は井沢弥兵衛に命じて、古利根川沿岸の治水を計るため、猿が俣(現在の葛飾区水元猿町)以下の細流の拡張を行いその後、寛保2年7月(1742)洪水に見舞われ再度改修工事を行った。現在流域面積641平方キロメートル。名前の由来は東西葛西領の中間を流れるから「中川」という説がある。中川と小名木川の交わる、中川番所近くはキス、タナゴ、ハゼなどの釣りの名所であったと言われている。

※上部に船から釣りをする人を描いた画が添えられている(「江戸名所図会」より)。

正面が旧中川最奥部。

「平成橋」から「東大島駅」方向に戻り、出発です。

東大島駅と荒川ロックゲートとの往復に40分くらいかかりました。

正面の森は、「大島小松川公園 風の広場」。

小名木川。

この川は、東から西まで「鮮魚街道」歩きの番外編で歩きました。

一直線で西に向かう人工の運河。

1880年代のようす。川の周囲は町屋の他は、水田。

2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。

1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳))に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。そこから、「小名木川」を別名「塩の道」とも称した。
 その後、塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
 開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。利根川~江戸川~中川~小名木川~隅田川というルート。
 明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」(「小名木川」と「旧中川」を結ぶ)「小松川閘門」(「旧中川」と「荒川」を結ぶ)「船堀閘門」(「荒川」と「中川」を結ぶ)が設置されていた。
 昭和50年代には地盤沈下などによりそれぞれ閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
 名称の由来は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとったもの。

いったん小名木川沿いに歩き、小名木川に架かる「番所橋」から旧中川へ。

周辺図。

正面・風の広場の丘の上に見えるのが旧「小松川閘門」遺構。

小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」。すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。

頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。

※写真はかつて訪問した時に撮影したもの。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その4。新幹線。宇都宮貨物ターミナル駅。日光道中(本街道)との追分。鞘堂。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-24 20:26:54 | 日光東往還

                 新幹線の高架線に近づいてきます。        

どういうわけか、自販機の側に立っています。

田植えの作業中。

トウモロコシ畑。

麦畑。

宇都宮貨物ターミナル駅。

貨物引込み線の踏切。

「シーボン化粧品」の工場の先で、新幹線・在来線の線路をくぐります。

くぐり抜けた先。道路の向こうに旧道があった? 

いったん「国道4号線(日光街道)」に出ます。

「鞘堂」バス停の手前を右折すると、旧道に出会います。

  

線路からの旧道。              「日光街道」合流点に向かう道。

大きなパチンコ・スロット店の裏手を進みます。

大木。昔から街道沿いにあったものでしょうか? 

その先が「日光東往還」のゴール。

         高架橋は「北関東自動車道」。

「日光道中(日光街道)」を歩いたときの記録(2016/6)を再掲。

・・・

右手に「鞘堂地蔵尊」。

    

「星宮神社」。

(13:28)しばらく進むと、頭上遙か高くを通る「北関東自動車道」の橋脚。

                                   右手から合流する道が「日光東往還」。 

・・・

「国道4号線・東京まで96㎞」。

                                                                          2010年代のようす。赤い線が旧道。○が日光道中との合流点(追分)。

「今昔マップ」より。

                  戦前ではすでに追分の地点が定かでなくなって、地名として残っている。    

JR宇都宮線「石橋駅」。

こうしてJR常磐線「南柏駅」から7回に分けて歩いた「日光東往還」も終了です。

普通なら4、5回くらいで歩ける距離ですが、電車とバスを乗り継いでの、のんびりした歩きでした。

歩いた道は一部を除いて、けっこう車の行き来の多い県道として、今も主要な交通路であることも実感。路肩もなく、ちょっとヒヤッとする場面も。

新興住宅地、麦畑や田植えの始まった田園風景、歩いたばかりの利根川・江戸川との邂逅、街道筋の大きな長屋門、結城の古い街並み、下総薬師寺跡など見所が多くありました。

また、双耳峰の「筑波山」を遠くに見ながらの歩きもすばらしいものがありました。

※今回も、これまでの街道歩きの記録も、「歴史的農業環境閲覧システム」、「今昔マップ」さまに大変お世話になっています。ここで改めて感謝します。今後も使用させていただきます。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その3。長屋門・大谷石の蔵。多功宿。道標。オオバランドセル。←石橋駅東口。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-23 20:38:18 | 日光東往還

しばらく田園風景が広がる。

       

           左手に、「下野市シルバー人材センター」。

水田。

大谷石造りの蔵。

上三川町多功に入っていきます。右手の家の壁に。

             静かな街並み。

田んぼに映る大きな屋敷。

右手に大きな長屋門。

            

すぐ左手にも。

                

「下多功」交差点。

左手に東北新幹線の橋脚。

くの字に曲がると、上多功(旧多功宿)になります。それらしい史跡は見当たりません。

立派な門構えのおうち。

交差点を渡った右の角に台座からはずれたた道標。

           

南 薬師寺・仁良川」「西 石橋・壬生」「東 上三川・大沼」「北 茂原・雀宮」と刻まれている。

                    この付近の今昔。

                                                                        

1880年代のようす。街道沿いに集落。                2010年代のようす。○が道標のある十字路。

来た道を振り返る。

信号を右折したところに「宿多功」バス停。

この先、道が広くなる。

「←石橋駅東口」。

大峽製鞄宇都宮工場。

御用達職人が創る
6年間、丈夫で安心して使える美しいランドセル

ランドセルは、お子様が最初に出会う本格的な革鞄のひとつ。

毎日使いものだから、丈夫で使いやすく
小さなお子様に負担をかけないように軽く

私たちは職人の誇りをかけて、
その期待に添えるランドセルを作っています。

                  

                          オオバランドセル

1935年(昭和10年)の創業以来、鞄作りに携わる事80余年、最高級素材の革だけを使用する「素材」へのこだわり、徹底し管理による「品質」への追求、手縫いをはじめとする伝統ある「職人技」の継承を続けています。
大峽製鞄は、この徹底したクラフトマンシップを受け継ぎ、日本製を貫き、手作りならではの美しい革製品を作り続けている東京の老舗鞄メーカーです。
長年にわたり本物の鞄を探求し続け、変わらぬもの作り哲学のもと、各種コンクールにおいて、文部大臣賞連続7回、通産大臣賞、東京都知事賞11回、経済産業大臣賞等、数々の賞を受賞してまいりました。
ランドセルの手縫い技術は日本独特のもので、丁寧な仕事と不断の鍛錬を要求されます。
大峽製鞄のもの作りの原点は『ランドセル』にあり、 150以上のパーツ、300以上もの工程を手作りでまとめ上げる作業は並大抵ではありません、「良いものを大事に使えば永く持つ」との言葉を実践していただくべく、日々努力を重ねています。
二本針手縫いやハンドメイドの技術を継承、発展させて総手縫いアタッシェケース、ダレスバッグ、ビジネスバッグ、財布、革小物などを製造しています。

 

(この項「」HPより)

※「大峡製鞄(おおばせいほう)」は、東京都足立区千住に本社があります。

最近は、重い、大きいなどとかつての革製のランドセルははやっていないようですが・・・。しっかりした製品作りをしているようです。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その2。下野薬師寺跡。復元された回廊。鑑真大和上宝塔。瓊花(けいか)。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-22 18:39:36 | 日光東往還

                  「国指定史跡 日本三戒壇 下野薬師寺」

下野薬師寺は天武天皇白鳳8(680)年に皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念して建立されました。天平宝字5(762)年に戒壇院が置かれると、奈良東大寺、筑紫観世音寺とともに日本三戒壇といわれ、坂東10か国の僧侶となる人は下野薬師寺で修業を積み受戒しなければならない定めになっていました。暦応2(1339)年、足利尊氏は国ごとに安国寺を建てましたが、下野国では新たに寺院を設けることなく下野薬師寺を安国寺に改称しました。

元亀元(1570)年、小田原の北条氏政・氏直父子が下野国に出陣し、下妻の多賀谷氏を攻めましたが、結城の援軍に破られ安国寺に退却しました。この時の兵火により七堂伽藍をはじめ、すべての堂宇が焼失しました。

平成29(2017)年より「本堂」・「庫裏」それに「本尊・諸仏菩薩」の修理(平成の大修理)を行いました。これを機に寺名を創建当時の下野薬師寺に戻しました(寺名復古)。この事業を記念して境内に鑑真大和上(だいわじょう)の宝塔を建て、奈良唐招提寺よりいただいた「大和上御廟の霊土」と金堂薬師如来基壇の霊土」を奉納しました。また、宝塔の横には大和上ゆかりの聖樹「瓊花(けいか)」を植樹しました。・・・

境内(薬師寺跡)のようす。

「鑑真大和上宝塔」。

      瓊花(けいか)。

鑑真和上の御廟のそばと、御影堂供華園では、和上の故郷、中国揚州から送られた瓊花(けいか)の花が、春の終わりと夏の到来を告げるように、小さな白い花を咲かせます。

(「唐招提寺」HPより)

回廊の倒壊跡。

      右奥にあるのは「六角堂」。江戸時代末期に建立されたもの。

六角堂は下野薬師寺戒壇院跡と伝えられる場所に建っています。江戸時代には釈迦堂と呼ばれ、その前身は江戸初期にまで遡ることができます。現存する建物は、近年に改変された部分もありますが、当初のものとみられる彫刻や絵様などは江戸時代後期の様式を示しており、安国寺境内に残るほぼ唯一の近世の遺構であるとともに、県内でも珍しい六角形の仏堂です。(「」HPより)

回廊の基壇。

     

一部復元された回廊。

講堂跡。

北側にも跡地が広がっている。

9世紀後半に再建された五重塔跡。法隆寺の五重塔と同規模だったようです。

        

さて、先に進もうと「日光東往還」道に戻ります。道をはさんだ広場に。

「幢竿(どうかん)跡」。

             

再建の塔と東回廊の中間には、仏教行事を荘厳に飾るための幡をかかげる幢竿が置かれました。当時は高さ9m程度の幢竿が建てられたと考えられます。

※解説板には想像図が掲示されています。

東側の社は、「薬師寺八幡宮」。 

歩いてみると「下野薬師寺」(跡)が大規模であったことが分かります。 

県道に戻り、北上していきます。 

                   この付近の今昔。

                                                                                          

1880年代のようす。「安国寺」と記されている。         2010年代のようす。

航空写真では○が現在の寺域跡。2010年代のようす。

かつては「日光東往還」道をはさんで、広大な寺域を持つ寺院だったと思われます。

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JR宇都宮線「自治医大駅」~「石橋駅」。その1。旧道。龍興寺・道鏡塚。下野薬師寺跡。(「日光東往還」を歩く。第7回目。)

2022-05-20 20:11:30 | 日光東往還

                  旧道を振り返る。国道4号線バイパス建設で寸断された道。

JR「自治医大駅」から前回の到達点(「薬師寺南」交差点)までやってきます。今回は、ここからスタート。

     

いよいよ今回でゴール。昨今、夏日が続く東京地方。出かけた日から掲載がたまって、季節感が合わなくなってきました。

集落内の細道を進み、突き当たりを右折して県道に合流します。この先は、県道沿いに進むことに。

               

                  この付近の今昔。

                                                                                                                    

1880年代のようす。○が鈎型。                2010年代のようす。旧道が残されている。

旧国分寺町のマンホール。

・南河内町、国分寺町で運営されていた「自治医大周辺下水道組合」の 汚水管マンホール蓋。
デザインは、かつて下水道組合を構成していた南河内町と国分寺町の町花が共に「菊」であったことから、その菊を幾何学模様でデザインしたもの。

広い敷地の家や石造りの蔵など。

               

右手に馬頭観音・道標(「右 小金井道」と刻まれている)。屋根の下には石塔が2基。

落ち着いた街並み。

「龍興寺桝形境内」碑。方形の広場になっています。

※1880年代の地図ではこの桝形は記されていません。お寺の位置も少し異なるようです。

境内左手に「道鏡禅師の墓所(道鏡塚)」。

奈良時代の高僧、道鏡は若くして出家し、葛城山で厳しい修行をし、義淵、良弁から法相を学び、梵文と写経に通じ、・・・薬法や医術にも精通した興徳の僧です。天平勝宝年間、宮中内道場の看病禅師となりました。そして孝謙上皇の病を療治した功績により、天平宝字7年(763)、少僧都に任じられました。次の年に恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任じられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となりました。・・・道鏡は太政大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に準ずる待遇の法王に任命されました。禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を挙げましたが、称徳天皇が崩御されますと、下野国薬師寺別当職(長官)に任じられ、平城の都から遣東されました。禅師は下野薬師寺に着任後も各地で積極的に巡錫や親教をし、多くの人々を教化されましたが、宝亀3年(772)・・・静かに遷化されました。人々は、これを深く哀しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として手厚く葬りました。私たちは、真実の歴史を探究してこられた先達に敬意を表し、その意志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざしています。

案内板には触れられていないが、一般に道鏡と言えば、孝謙上皇(称徳天皇)の信頼をいいことに天皇の位までを狙い、大分の宇佐八幡宮から道鏡に天皇の位を譲れと託宣があったとしたが、真偽を確かめに派遣された和気清麻呂から、道鏡を天皇にしてはいけないとの託宣があったとの報告、さらに後ろ盾だった称徳天皇の崩御が重なり、失脚して下野薬師寺に左遷された、ということになっています。

左遷されたあと、薬師寺での禅師の人となりは、この説明板のようであっただろうと思われます。

樹齢500年のシラカシの巨木。

※境内には鑑真和尚の碑もあるはずですが、探しそこねました。

立派な門と塀のある野口家。

こちらの家も立派。

さて今回お目当ての下野薬師寺跡を訪ねます。

  広大な敷地跡。

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/c8/66aa48a299b0d80c4039f7181431b263.jpg">

この説明板は、下野薬師寺跡と周辺を表示しています。方位は遺跡と一致させており、この説明板の上方向が北になります。縮尺は1/100で40㎝の正方形陶板を組み合わせて作っています。40㎝の実際の長さは40mで、表示板全体では東西600m、南北780mになります。

下野薬師寺の寺域は外郭施設の塀に囲まれた範囲で、東西250m、南北350mです。茶色に着色してあります。下野薬師寺の寺院地は広大でした。表示板の広さと実際の整備地区や周辺地区の広さを比べてみてください。

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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その4。新興住宅地。筑波山を一望。カキツバタ。南河内町・米どころ。「自治医大駅」。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-19 21:39:09 | 日光東往還

道路も広く整備され、新しい住宅が建設されています。もともとは大きな敷地を持ったお宅が多かったのでしょうか?

高台にある住宅地の東側の眼下には、広大な田園風景。遠く筑波山が一望出来る絶好の場所。今まで歩いてきた中では、最高のロケーション。

           

眼下に広がる田畑。

造成が進む。

新しい街造りが展開されているようです。

    

カキツバタ。道に沿って植えられています。アヤメかも?

かきつばた(杜若)は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物です。

かきつばた(杜若)の開花時期は夏の気配がしてくる初夏、5月~6月頃に、浅い水辺から50cm~70cmの丈を伸ばし深みのある鮮やかな青色の花を咲かせます。

かきつばた(杜若)は日本最古の和歌集である万葉集や900年代の書物、伊勢物語にも和歌で詠われ、その魅力は人々に愛され続けています。

江戸時代になると、かきつばた(杜若)といえば尾形光琳が描いた屏風絵で金箔六曲屏風「燕子花」と「八つ橋」が名高く、深い青色が印象的に描かれている、かきつばた(杜若)は世界最高峰の作品となっています。

時代を問わず芸術家の目をひき、人々の心を奪うほど美しいかきつばた(杜若)ですが、「いずれがあやめか、かきつばた」の慣用句がある様に江戸時代中期に入るとあやめ(菖蒲)の品種改良が進みあやめ(菖蒲)の人気が出てきました、よく似た花の形をしている事から、この2つの植物は比べられるようになり、どちらも素敵で選ぶのに迷うほどよく似ています。素敵な花を眺めながら、どちらにしようかな?と悩める喜びも幸せな時間ですね。

かきつばた(杜若)の花言葉は「幸運は必ず訪れる」です。

(「かきつばた(杜若)とアヤメ(菖蒲)の見分け方 - LoveGreen https://lovegreen.net › flower」HPより)

新築された「仁良川下公民館」。
 
石塔などもここに集められています。左手にあるのが、その一つ、宝篋印塔。享保時代(1729)に造立された比較的大型な塔。
 
※基礎部に彫られた講中名には、「仁良川」は「韮川」となっています。
 
            
 
新旧の建物が。
 
          
 
下の田畑に行く坂道。
 
満福寺三門左手にある樹齢300年といわれる椿の大木。
 
 
愛宕神社のところを左折。
 
鈎型になっています。
 
振り返る。
 
                  この付近の今昔。
 
                                                                   
 
1880年代のようす。集落が形成されている。           2010年代のようす。道筋は昔のまま。
 
                                           (「今昔マップ」より)
   集落の東側(台地の下)には今も昔から変わらない水田地帯が広がっています。
 
鯉のぼり(5月3日撮影)。
 
学校も新設。
 
 

下野市南河内町

町の西部に自治医科大学、その南側一帯には都市再生機構が開発した県内最大の住宅団地「グリーンタウンしもつけ」があり、東京のベッドタウンとして過去15年間で人口が倍に伸びている。

町の中央寄り北側の旧中心街の薬師寺地区に、下野薬師寺跡がある。東部は鬼怒川・江川・田川等の河川が流れており、農村地帯が広がる米所でもある。北部に男体山、南東部に筑波山等が見渡せる。特に東部の田園地帯から見る筑波山は大変美しい。

旧石器時代から先人が住み始めたといわれ、絹板六大遺跡や北原古墳群等が残される。

飛鳥時代後期には、旧東山道が通っており下野薬師寺が建立された。下野薬師寺には、僧侶の修行の場である戒壇院が設けられ、奈良東大寺九州観世音寺の戒壇院と共に日本三戒壇と呼ばれている。現在では近世建立の六角堂のみが残されており、回廊の一部等が復元されている。

江戸時代以前は、大字薬師寺、大字本吉田等は河内郡に属し、大字三王山、大字上吉田、大字下吉田、大字花田、大字下坪山等いくつかの村々は都賀郡に属していたが、後に河内郡に属すことになる。大字本吉田村は鎌倉時代より鬼怒川右岸の船運により栄えていた地域といわれている。

中世以降、小山氏一族の薬師寺氏、結城氏の配下に置かれた。江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した。

明治期、廃藩置県により多くが日光県に属し、石橋分庁舎の管轄に置かれた。1873年(明治6年)には栃木県となり静かな農村地帯として歩む。

1972年自治医科大学が開学し、さらに1983年には国鉄(現JR)自治医大駅が開業すると、住宅・都市整備公団による自治医大周辺の都市開発が進み現在、躍進中。

(この項、「Wikipedia」より)

※駅までの道筋の周囲には住宅が建ち並び、人の行き来も多く、活発な街という印象を受けました。

前方に国道4号線バイパス。
 
        
 
「薬師寺南」交差点。
 
「薬師寺南遺跡」説明板。
 
古墳時代から平安時代の集落跡。新4号国道工事に伴い、昭和48~50年の発掘調査が実施され、古墳時代の竪穴住居跡10軒と奈良~平安時代の住居跡120軒を確認した。そのほか、方形周溝墓、円形土杭、井戸跡などが発掘された。遺物の出土も数多く土師器、須恵器、墨書土器などであります。特にこの遺跡は8世紀から9世紀にかけて大規模な集落が形成され、北に所在する下野薬師寺とかかわる遺跡として考えられている。
 
「薬師寺見学」は次回にし、今回は、ここまで。JR「自治医大駅」まで歩きます。
 
日光の山々。男体山が見える。
                筑波山。
 
次回で、ゴールになります。 
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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その3。麦畑。野村牧場。仁良川(にらがわ)(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-18 20:19:27 | 日光東往還

                     北飯田の交差点。

田園風景が広がる。

      

田植えが始まっています。

葱坊主。

下野市に入ります。田畑が広がります。

来た道を振り返る。

ここは絹板」。右手に集落があります。

見渡す限り、麦畑。

              

これだけ広大な麦畑を見たのは初めてです。

植え付けを待つ畑。筑波山。

「別処山公園→」。

                 前方後円墳の「別処山古墳」があるようです。

右手には集落。

            

「記念碑 植樹50周年」。

「はなだむら桜の園 花田村の先人達に捧げる」

「野村牧場直営」。

私たちについて

野村牧場は1978年に創業、2014年に法人化したF1牛専門の畜産牧場です。2016年に六次産業認定を、2019年には農場HACCPを取得しました。衛生的な環境の中、約1,000頭の牛を育てています。また、当牧場は生後1ヶ月の子牛から育てています。
現社長が確立した『牛に優しい飼育方法』はそれまでの牛の味を劇的に変え、その美味しさは口コミで全国に広がりました。さらに循環型農業や食品ロス削減など地球環境の保全にも力を入れ、2022年からは農福連携も開始。「人と 牛と 環境」すべてを大切にした経営を目指し続けております。

・・・2022年1月から、野村牧場は農福連携事業を開始しました。働きたいと望む方たちが当たり前のようにその望みを叶えて働ける、そんな職場を目指しています。 

     (「野村牧場」HPより)

          「台坪山→」。  

    

筑波山。               

              右手に集落が続いてあります。 

「仁良川(にらがわ)」交差点。

来た道を振り返る。

ここにあるコンビニには大助かりです。

結城駅を出てからここまで、コンビニ等はありませんでしたから。まさに現代の「間の宿(あいのしゅく)」です。

交差点の右手先に大きな長屋門が。

            

この先は、新興住宅地になっているようで、道路も広く、周囲には瀟洒な住宅が建ち並んでいます。

    

かつて長屋門があったのか?           

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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その2。追分道標。真盛堂。小山市に。工業団地。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-17 18:52:02 | 日光東往還

           曲尺手(鈎型)。ここを右に折れる道が「日光東往還」(旧道)。少し戻ります。

毘沙門堂前に建てられた追分道標石燈籠2基。

                  

左の燈籠には「向 水戸海道」、右には「右 小山 左 さかい」と彫られている。

※結城市は、北側・西側を栃木県との県境に囲まれ、茨城県の他市町村とは鬼怒川によって隔てられているため、文化(方言等)・経済・交通面で栃木県との関わりが深い。特に隣接する小山市とは小山都市圏に属する密接な関わりがある。南北の交通網が茨城県の他市町村と明らかに異なる古河市ほどではないが、県南(つくば市など)・県北(日立市など)・鹿行地域(鹿嶋市など)との繋がりは希薄となっている。

「木町」交差点。

          曲尺手(鈎型)になっている。木町の由来はここに木戸があったことから。

※なお、国の登録有形文化財だった酒蔵などが火災によって焼失した「結城酒造」はこの左手にあります。

見世蔵が建ち並んでいます。

       和カフェ 甘味茶蔵(かんみちゃくら)。

菓子処 真盛堂。

          

昭和7年、茨城県結城市にて創業。初代店主の名前「真一」と、お店の繁盛を願って真盛堂(しんせいどう)と名付けられました。
結城に古くから伝わる「ゆでまんじゅう」をはじめとした伝統の和菓子や、和と洋をコラボさせた看板商品「カフェオーレ大福」など新しい美味しさも生み出して参りました。
和カフェでも手作りの甘味をお楽しみいただけます。(「真盛堂」HPより)

そろそろ、先に進みます。

    

本場紬問屋 河野商店。

宿内を振り返る。

   

正面の細道が旧道。

この先は住宅地に入り、旧道が消滅。神社のところで左に折れ、県道147号に出て、すぐ「吉田用水」脇を進みます。

            

新しそうな道標。

         「向西 向野・出井ヲ経テ羽川ニ至ル 向右 松木合・仁良川・薬師寺・石橋町ヲ経テ宇都宮ニ至ル」。

吉田用水。

右手遠くに筑波山。

大きな屋敷。

麦畑。

県道146号線に合流して広い道を進みます。この先は、大規模な小山工業団地になります。

結城市から小山市に。

                 

大型トラックが走り抜ける広い道路を40分以上かかって通り抜けます。やっと、

家が見え始めます。

工業団地の東側には集落が広がっているようです。

高椅(たかはし)地区。

           ゆっくりと下る道。

                     2010年代のようす。田園地帯が広がる。

      流れは、「吉田用水」(西)と「田川」(東)。

工業団地付近の標高は約47㍍、東側は約37㍍(「今昔マップ」より)と高低差があります。「日光東往還」は、西の台地の縁を通っていたようで、この先もそうした地形が見られます。

 

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JR水戸線「結城駅」~宇都宮線「自治医大駅」。その1。蕪村句碑。数多くの見世蔵。「結城酒蔵」が火災。(「日光東往還」を歩く。第6回目。)

2022-05-16 20:20:05 | 日光東往還

                        結城駅北口。

5月3日(祝)。晴れ。今回は、「薬師寺南」交差点まで。そこから自治医大駅まで向かうことに。

案内板。

結城市マンホール。

                     市の花ユリをデザインしたカラー版

駅前にある与謝蕪村句碑。

             秋のくれ 仏に化る 狸かな

             きつね火や 五助新田の 麦の雨

             猿どのの 夜寒訪ゆく 兎かな

 

解説板。

駅前の散策に。右手に「蛸屋總本店」創業は元禄11年(1698年)。

この先も見世蔵など古い建物が多く存在します。

磯田邸。

                                     

  築島邸。

「つむぎみそ」という暖簾が。

茨城県西域の平坦な関東平野にある結城(ゆうき)市。古代より穀(梶、かじ)の木・楮(こうぞ)が生育し、“ふさ(麻)”・“ゆう(木綿)”の産地として“総(ふさ)の国のゆうき”と称され、かつて下総国最北端の結城郡でした。鎌倉期に結城氏の城下町となり、江戸初期からは水野氏の結城藩(一部は初期の天領・下総山川藩を経て天領・旗本領)となっています。米・とうもろこし・干瓢・白菜・レタス等の農作物や結城うどん・すだれ麩・ゆでまんじゅう・味噌・清酒等が特産品・名物で、多くの寺社や蔵造りの街並みなど古い歴史に彩られた市内には老舗の飲食店・食品店などが残っています。

1832年創業、伝統的な製法で味噌を作り続ける 秋葉糀味噌醸造

結城駅から徒歩15分ほどの場所にある 秋葉糀味噌醸造。1832年(天保3年)に創業された味噌醸造を行うお店です。現在も昔ながらの伝統的製法で味噌を作り続けていらっしゃいます。出張味噌作り教室等も行っており、味噌作り文化を守る活動もされています。

という、秋葉糀味噌醸造さんの外観。暖簾に「つむぎみそ」とあり、看板メニューつむぎみその名前でも知られているようです。

(この項、「」HPより)

               

「小西見世蔵」明治初期。土蔵造・二階建・瓦葺

小西株式会社は、もと小西金物店と称し、創業は明治8(1875)年、小西酒酒造から分家して小西銅鉄店を興したものです。現在の店舗(見世蔵)もその時に建設されたと伝えられており、棟札や墨書など創建時期を確定する獅資料は残されていませんが、形式や部材の古さがそのことを裏付けています。

見世蔵は切妻・平入りの二階建て・桟瓦葺きで、1階の店舗(現在は事務室)部分正面は、西側約2間を腰つきの張り出し窓とし、他は引き違いのガラス戸としています。2階東側の書斎と西側の座敷には、それぞれ幅の違う引き違いの窓があり、戸袋はつけておりません。1階の店舗部分はやや改造が目立つものの、主要な構造部材や2階内部は創建時の状態をよく留めています。

屋根は近年に葺き替えられておりますが、それ以前は一般の町家と変わらず、関東の見世蔵特有の箱棟や影盛も省略されていたことが知られています。軒を出桁造りにしていないことや2階の階高が低いことなどと併せて、結城に現存する多くの見世蔵の中でも最も古い形式を伝える貴重な遺構です。

 

           

 「武勇」。

               

株式会社武勇

株式会社武勇を営む保阪家は、江戸時代末期頃に越後国(新県県)から結城に移り住んで以来、代々酒造業を営んできました。

店舗である見世蔵は、二階建て・桟瓦葺きで、間口7間の前面に約半間の下屋庇が付き、東側は寄棟造り、西側は切妻造りです。1階は左寄りにガラス戸を建てて出入り口とし、その右を格子窓とします。出入り口以外は腰を石積みにしています。

2階は、中央左寄りに小さな格子窓があるだけで、軒も鉢巻を廻した単純な造りです。一部改装されてはいますが、建設時期は幕末と推定され、結城の見世蔵の中でも、最も古い遺構として貴重な存在です。

この他、敷地内には脇蔵や製品蔵、仕込み蔵、旧釜場蔵、煉瓦造りの煙突など、明治期から大正期に建設された建物が現存しています。一部は使用方法が変わり、改装・改造されたものもありますが、いずれも現役で使用されており、結城の酒造りを今に伝える、貴重な建物群です。

           

※5月11日、近所の(「木町」交差点付近)、別の酒造会社である「結城酒造」で火災が発生し酒蔵2棟が全焼しました。

11日、茨城県結城市の「結城酒造」で火事があり、国の登録有形文化財となっている酒蔵2棟が全焼しました。 警察や消防によりますと、11日午後2時45分ごろ、茨城県結城市の酒造会社「結城酒造」で「ボイラーから出火した」と119番通報がありました。消防車など10台で消火活動を行い、およそ4時間半後の午後7時12分にほぼ消し止められました。けが人はいませんでした。 この結城酒造は創業1594年の400年以上続く老舗で、酒蔵2棟と煙突が国の登録有形文化財となっていますが、このうち、1800年代に建てられた酒蔵の「安政蔵」と「新蔵」の2棟が全焼したということです。

             

(「日テレニュース・2022年5月11日放送」より)

結城を訪問してわずか1週間後のできごとでした。支援の動きが広がっているそうです。

11日、茨城県結城市の酒造会社で国の登録有形文化財となっている江戸時代の酒蔵などが全焼した火事から一夜明け、地元では酒造会社を応援したいと酒を買い求める人が相次ぐなど、支援の動きが広がっています。

11日午後、結城市の「結城酒造」から火が出て、江戸時代に建てられ、国の登録有形文化財となっていた2棟の酒蔵が全焼するなど、およそ1100平方メートルが焼けました。
大正時代から結城酒造と取り引きがあるという酒店には、11日夜から、酒を卸している全国の飲食店から酒造会社を心配する声が次々と届いているということです。
また、12日は朝早くから、地元の人が「応援したい」などとして次々と結城酒造の酒を買い求めに来ていました。
このうち70代の女性は、ふだんから結城酒造の酒を飲んでいるということで「お酒がおいしいだけでなく、酒蔵でコンサートを開くなどいろいろな取り組みをしている会社です。今は大変だと思いますが、早く再建してほしいですし、頑張ってほしいです」と話していました。
酒店の池田真社長は「地元だけでなく全国のお客様から、心配の声や何かできることがないかと問い合わせをいただいており、今は在庫がほとんどない状況です。地元のみんなで、復活を支えるために頑張っていきたいと思います」と話していました。

結城商工会議所の奥澤武治会頭は「地元だけでなく東京などにもファンが多く、結城市のまちおこしにも大変貢献していただいてきた。再興に向けてわれわれも協力していきたい」と話していました。
また、国の登録有形文化財となっている江戸時代の酒蔵などが全焼したことについては「この地域で最も古い酒蔵で、われわれも誇りに思っていたので残念でなりません」と話していました。

結城市では、地域の活性化につなげようと市内の歴史的な建物を会場に大型連休の期間などに、毎年、音楽祭「結いのおと」が開かれていて、結城酒造も会場の一つになっていました。
この音楽祭の実行委員長の野口純一さんによりますと、結城酒造には8年前から建物を会場として借りていて、ことしは今回の火事で全焼した国の登録有形文化財の新蔵の中でコンサートを行ったということです。
野口さんのもとには11日夜から、過去に出演したミュージシャンなどから「何かできることがあったら協力したい」といった声が届いているということです。
野口さんは「結城のまちの歴史や文化を市の外の人たちにも体験をしてもらうのが音楽祭の特徴だったので、なくてはならない施設の一つでした。さまざまなまちおこしの企画にいつも喜んでご協力いただき、大切な相談相手でしたので、なんとかまた元気になってほしいです」と話していました。

(この項、「NHKニュース5月12日」より)

                                   

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