おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その7。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-30 20:46:24 | 水戸街道
 (13:47)「県道64号線」に合流したあと、「国道6号線」を陸橋で越えて行くと、「中貫宿」になります。


中貫宿
 水戸街道千住宿から12番目の宿場町。現在の茨城県土浦市中貫にあたる。
 宿場町は、南北に500メートル程度の範囲に広がっている。本陣が残されているが、宿泊を常とする本陣ではなく、休憩本陣であった。
(以上、「Wikipedia」参照)
 「中貫宿」は次の宿場である稲吉宿への下りの継ぎ立てだけを行い、上りは稲吉宿が中貫宿を通り過ぎて土浦宿まで行うという宿駅でした。本陣は、大名が休憩のみを行う小休本陣で、今も建物が残されています。

 (13:52)大きくて立派なお屋敷が多い。
    

 「中貫本陣」。
    

中貫本陣
 この本陣は、江戸時代に水戸街道を通行する大名が通行するための小休本陣である。
 建物は元治元年(1864)天狗党の焼き打ちで焼失後、すぐに再建されたもので、取手宿・稲吉宿の本陣と並ぶ貴重な建造物である。
 現在、屋根は茅葺きを銅板で覆っているが、主屋の正面に張り出した唐破風造りの二間半の式台付き玄関など、本陣建築を今に残している。

見学についてのお願い
 この本陣は現在住居として使われておりますので、ご迷惑にならないようお願いいたします。

            平成14年(2002)3月 土浦市教育委員会

 この解説板に出てくる「天狗党」について。

天狗党の乱
 元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。

 文政12年(1829年)9月、重病に伏していた水戸藩第8代藩主・徳川斉脩(とくがわ なりのぶ)は、後継者を公にしていなかった。そんな中、江戸家老・榊原照昌らは、斉脩の異母弟・敬三郎(斉昭)は後継者として不適当であるから、代わりに斉脩正室・峰姫の弟でもある第11代将軍徳川家斉の二十一男・清水恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊(とくがわ なりかつ)を迎えるべきだと主張した。これに対して、同年10月1日、藤田東湖・会沢正志斎ら藩内少壮の士は、血統の近さから敬三郎を藩主として立てるべきと主張して、徒党を組んで江戸へ越訴した。10月4日に斉脩が没し、敬三郎を後継者にという斉脩の遺書が示された。この遺書を掲げて8日に敬三郎が斉脩の養子となり、17日に幕府から斉昭の家督相続承認を得ることに成功した。こうして斉昭が水戸藩第9代藩主となると、擁初立に関わった藤田・会沢らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。
 この斉昭擁立に動いた集団は、反対派から「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。
 安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩は、幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇より直接に勅書を下賜されたと称した(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。直弼は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて直弼によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。
 先に朝廷より水戸藩に下賜された「勅書」については、朝廷から幕府へこれを返納するよう命じられたが、この命令への対応を巡り、天狗党は会沢正志斎ら「勅書」を速やかに返納すべしとする鎮派と、あくまでもこれを拒む金子教孝(孫二郎)・高橋愛諸(多一郎)らの激派に分裂した。翌万延元年(1860年)になって、正志斎の強諌に斉昭もついに観念して「勅書」の返納に同意したが、激派はこれに反発して実力行使を企て、高橋ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への「勅書」搬入を実力で阻止しようとした(長岡屯集)。
 この激派の動きに対し、正志斎は2月28日に、激派追討のため鎮圧軍を編成した。これを見た高橋ら長岡宿に屯していた集団は脱藩して江戸へと逃れ、水戸城下から逃れて来た激派の一団や薩摩浪士の有村兼武・兼清兄弟らと合流し、3月3日、江戸城桜田門外で直弼を襲撃して殺害した(桜田門外の変)。
 水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。
 水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、慶喜の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、小四郎らは京都において、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。
 文久3年5月、小四郎は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった。小四郎は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、耕雲斎の強い慰留にも関わらず、遊説や金策に奔走した。
 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸候と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸候と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷より禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月には水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。
 幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。小四郎は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。
 その後、各地から続々と浪士・農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。この一団は筑波山で挙兵したことから筑波勢・波山勢などと称された。筑波勢は急進的な尊王攘夷思想を有していたが、表面的には敬幕を掲げ、攘夷の実行もあくまで東照宮(徳川家康)の遺訓であると称していた。
 武田耕雲斎ら藩執行部は筑波勢の動きに同調して、その圧力を背景に幕政への介入を画策し、4月には慶喜や在京の藩士との密に連絡をとって朝廷への周旋を依頼する。幕閣側も宸翰が「無謀の攘夷」を戒めていることを根拠として水戸派の圧力を斥けようと図り、朝廷に対する周旋を強化する一方で、筑波勢討伐と事態沈静化のために小笠原長行の復帰を求めたが、慶喜・直克の妨害により果たせなかった。
 藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、小四郎らは日光から太平山(栃木県栃木市)へと移動し、同地に5月末までに滞在した。
 一方水戸城下においては、保守派の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、筑波勢はまたも近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木宿(栃木県栃木市、6月5日~6日)・真鍋宿(茨城県土浦市、6月21日)などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。
 北関東における筑波勢の横行に対し、幕府は将軍徳川家茂が上洛し不在であったこともあり、水戸藩や諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月に至るまでこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っており、藩主慶篤は幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て篭る挙兵勢力の鎮撫はできないと主張していた。4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、川越藩主松平直克(政事総裁職)及び慶篤がその実行者に指名された。
 一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らは、筑波勢による恐喝・殺人によって関東一円の治安が極度に悪化していることを問題視しており、5月に家茂の江戸帰着を機に、すみやかに水戸藩に対し筑波勢を追討するよう求め、筑波勢の侵入に備えて厳重な警戒態勢をとっていた松戸・千住を通過できるよう、市川に身元確認用の「竜」字の印鑑を送った。これに呼応する形で、市川ら諸生党と鎮派の一部の計約600人余が藩主・慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸に急行し、藩執行部から激派を駆逐して藩邸を掌握した。
 6月3日早朝、登城した直克は板倉勝静・酒井忠績・諏訪忠誠・松平乗謨の4人を排除するよう家茂に迫り、彼らを登城停止に追い込んだが、翌日には諸生党および鎮派の意を受けた慶篤が登城して直克を激しく非難し、直克もまた登城停止に追い込まれ、10日間余にわたって江戸城に主要閣僚が誰も登城しないという異常な状態が続いた。18日には直克の要求通り板倉ら4人が罷免されることになったが、20日に家茂の御前で行われた評議において、直克が筑波勢の武力討伐に反対したことで牧野忠恭・井上正直から厳しく批判され、奉行・目付らも直克に猛反発したため、22日に直克は政事総裁職を罷免され、翌日には水戸派の外国奉行・沢幸良らも罷免された。直克の失脚によってようやく筑波勢鎮圧の方針が定まり、7月8日、相良藩主田沼意尊(若年寄)が追討軍総括に任命された。
 また、7月19日には筑波勢の決起に意を強くした長州藩尊攘派が武装上洛し、警衛にあたっていた会津藩・薩摩藩の兵らと京都市中で交戦したが、孝明天皇の居る御所に向けて発砲したあげく敗走した(禁門の変)。このため7月23日には長州藩が孝明天皇によって朝敵に指定され、朝廷も幕府に対して「夷狄のことは、長州征伐がすむまではとやかくいわない」との意を示し、鎖港問題は棚上げされた格好となった。斉昭の息子たちによって煽り立てられてきた鎖港問題が棚上げされたことで筑波勢は挙兵の大義名分を失い、この騒乱は水戸藩の内部抗争としての色彩を強めていくことになった。
 元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した。7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走する。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった。
 諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、小四郎ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。小四郎らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却する。小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。また筑波勢追討が開始されると、茨城郡鯉淵村(水戸市鯉淵)など近隣三十数か村の領民らが幕府軍に呼応し、各地で尊攘激派およびこれに同調していた村役人・豪農等への打ち壊しが行われた。
 江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。
 大発勢は8月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊(ひたちなか市)に布陣した。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。大発勢は善戦するが、意尊率いる幕府追討軍主力が25日に笠間に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。
 筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまう。大発勢内では、暴徒とされていた筑波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった耕雲斎も筑波勢と行動を共にする事になる。
 幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。
 10月5日、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ切腹させられた。この時、頼徳の家臣ら1,000人余りが投降する。このとき降伏した榊原ら43名は後に佐倉藩や古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。
 大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥るが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。耕雲斎らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。
 天狗党は11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。田沼意尊率いる幕府軍本隊は、天狗党の太平洋側への侵入を防ぐため東海道を西進する一方、天狗党の進路上に位置する諸藩に対して天狗党追討令を発した。ところがこれらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあって、天狗党が通過して行くのを傍観したばかりか、密かに天狗党と交渉して城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩も出る有様で、結局追討令に従い天狗党を攻撃したのは高崎藩などごく一部の藩のみであった。
 11月16日、上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した(下仁田戦争)。また、11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。天狗党一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み美濃の鵜沼宿(岐阜県各務原市)付近まで到達するが、彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。
 天狗党が頼みの綱とした一橋慶喜であったが、自ら朝廷に願い出て加賀藩・会津藩・桑名藩の4000人の兵を従えて彼らの討伐に向った。揖斐宿(岐阜県揖斐川町)に至った天狗党は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠(岐阜県本巣市・福井県大野市)を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指すルートを選んだ。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は関東の諸藩と同様に天狗党をやり過ごす方針を採ったが、鯖江藩主間部詮道と福井藩の府中城主本多副元は天狗党を殲滅する方針を固め、兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党が敦賀方面へ進路を変更するとそのまま追撃に入った。
 12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る。天狗党は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断した。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは「降伏」では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、ついに加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。
 この時捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が処刑された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。
 天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。
 一方、遠島に処せられることになった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名の身柄は敦賀を領していた小浜藩に預けられていたが、家茂が死去して慶喜が将軍位に就くと、配流は中止されて謹慎処分へと変更されることになった。小浜藩主酒井忠氏は、先代の忠義が南紀派の中心人物の一人として安政の大獄を主導したことを怨む慶喜が小浜藩に復讐するのではないかと警戒し、金次郎らを若狭国三方郡佐柿(福井県美浜町)の屋敷に移して厚遇した。
 慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は諸生党の家族らがことごとく処刑された。
 水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復・私刑はしばらく止むことが無かった。
 水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材をことごとく失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。
 首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。
(以上、「Wikipedia」参照)

 明治新政府を担った薩長土肥に対して、結果的には朝敵となり、水戸藩が新政府での主要な位置を占められなかった理由の一端を知りました。尊皇攘夷から尊皇開国、倒幕へときびすを転じてうまく政権奪取した勢力に対して、水戸藩の立ち位置の曖昧さ、内部抗争に終始したことの結末と言ったら、今も水戸の衆は黙っていられないでしょうが。

街並み。

それにしても立派お屋敷が目立ちます。
    

馬頭観音と案内板。

(14:05)しばらく進んで「国道6号線」に合流、「かすみがうら」市に入ります。
 「東京から70㎞」ポスト。 
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その6。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-29 18:32:58 | 水戸街道

つくばりんりんロード
 土浦と岩瀬を結ぶ全長40㎞のサイクリングロード。もともとは関東鉄道筑波線(注:茨城県土浦市の土浦駅と茨城県西茨城郡岩瀬町―現・桜川市―の岩瀬駅とを結んでいた鉄道路線)が走っていましたが、昭和62年(1987)3月31日に廃線となり、その後、サイクリングロードとして生まれ変わりました。旧ホームを利用した休憩所もあり、田園を渡る風が身体と心を健康にしてくれます。(以上、「桜川市」公式HPより)

 その後、2016年には、霞ヶ浦までぐるりと全長180㎞以上の長いサイクリングロード(県道)として開通しました。名称は、「つくば霞ヶ浦りんりんロード」。「つくばりんりんロード」と「霞ヶ浦自転車道」など総延長約180kmのサイクリングコースとして安全・快適に走行できる全国屈指のコースとなっています。
               (「観光庁」HPより)

 「筑波山」方向に少し歩いてみました。
       

 国道を渡ると、田園地帯が広がっていきます。自転車はもちろん、歩いている方もけっこういます。
    

右手遠くに筑波山。

 10分ほど歩いて戻って来たらレールの一部が何本か立っています。
    

 (12:41)さっきは気づきませんでしたが、ホームが残っています。そこで、おにぎりを食べて休憩します。
    
              当時の「新土浦」駅の跡のようです。

 機会があったら徒歩で踏破してみよう、と。先に進みます。街道筋らしい建物がいくつかあります。
    

 「真鍋坂」を上って行きます。

 (13:02)急坂を上りきる右手にある建物。「藤本蠶業株式会社土浦支店」。「蠶」は蚕のこと。どういう会社なのだろうか? 


 以下、「蚕都上田だより」HPより

 蚕糸業で栄えた信州上田は蚕都(さんと)上田と呼ばれました。蚕都上田の歴史・文化は今も豊かに残っています。そうした蚕都上田の話題をお伝えします。

2016年01月24日 佐藤勇二さんに聞く 藤本蚕業土浦支店の記憶 

 上田市上塩尻に「藤本蚕業歴史館」があります。この建物は1931年(昭和6年)に建てられた旧藤本蚕業の社屋です。現在もこのように残っています。現在は藤本工業が管理をしています。その一室で、佐藤勇二さんに旧藤本蚕業の土浦支店についてお話をお聞きしました。
 蚕都上田の最大の特色は、地域・上田小県が蚕種製造の一大中心地であったということです。一にも蚕種、二にも蚕種、三にも蚕種。蚕種生産高は長野県が他県を圧倒して多く、その中でも上田小県が圧倒的に多い。その中心地が上田市塩尻地区です。上塩尻の藤本蚕業はこの地域を代表する蚕種製造業者でした。大正時代末から昭和にかけては茨城県土浦市に支店を置き、関東方面に蚕種を販売していました。「蚕種製造」とは、「蚕糸業」の中で蚕種製造→養蚕→製糸という蚕糸業の一番の大元になるものです。蚕種をとり、蚕種を販売する。全国で行われていた養蚕の原資が蚕種です。
 上塩尻の佐藤一族が藤本蚕業合名会社を設立したのは1908年(明治41年)3月のこと。1924年(大正13年)1月、蚕種製造経営を合名会社から藤本蚕業株式会社に分離独立、1924年2月、土浦に宅地を購入し、支店を設置しました。(参考文献:松村敏著『戦間期日本蚕糸業史研究 片倉製糸を中心に』1992、東京大学出版会)
 驚くことに、藤本蚕業土浦支店の建物、敷地が今も残っています。ちなみに「藤本蚕業」は、第二次大戦中、国の政策により日本蚕種に統合されます。戦後は上田社、上田蚕種協同組合、藤本蚕種…と変遷をしました。土浦支店の建物には「藤本蚕業株式会社土浦支店」と記されていることからも、これが戦前の状態のまま現在に至ったことがわかります。
 佐藤勇二さんは藤本蚕業の戦後の企業体(上田社、上田蚕種協同組合、藤本蚕種、藤本工業)を支えた佐藤一族のお一人です。
 佐藤勇二さんが土浦支店で仕事をしたのは1951年(昭和26年)頃の約1年間です。現存している旧土浦支店の現在の写真を目にして「まだ残っていたの」と驚かれていました。
・・・

「真鍋宿」方向を振り返る。

 坂を上がると「国道125号線」に出ます。右手に「県立土浦一高」。本館がゴシック建築で重要文化財に指定されてというので、見学したいと思いましたが、工事中のフェンスで入れず。今の正門を写しただけ。


 (13:17)しばらく国道を進んで「水戸街道松並木」という案内標に従って、右の道に入ります。
    

    
 約1.2㎞に「松並木」が残っています。ここ板谷地区には「水戸街道」で唯一残っているそうです。





市指定史跡 水戸街道松並木
 江戸時代のはじめ、徳川幕府は全国の主要道路整備の一環として、水戸街道をつくった。
 水戸街道は五街道につぐ重要などうろであった。
 この街道は、千住から土浦を通り、水戸までの約30里の長さである。街道筋には一里塚が築かれ、宿場が設けられた。
 街道には、通行人を暑さ寒さから守るために、松が植えられた。現在はわずかにこの板谷地区に残るのみとなった。
                           平成16年(2004)3月 土浦市教育委員会

 (13:30)「厚生病院」の先のところに「板谷の一里塚」が残っています。
    

    

板谷の一里塚
 一里塚は、慶長9年(1604)に江戸幕府が全国の主要街道の両側に築いたもので、江戸日本橋を起点として1里ごとに設けられた。塚の上には榎を植えて旅人の憩いの場とし、道のりを測る目安ともなった。1里は36町を指し、現在の約4㎞に当たる。
 この板谷の一里塚は、日本橋から布川(ふかわ)を経て20里の位置にある。かつて土浦市内には、南から荒川沖、葉の前、大町、板谷の4ヶ所に一里塚があった。板谷に次いでは千代田の一里塚と稲吉宿に続く。
 現在、旧水戸街道の一里塚の多くが失われている中で、街道の両側に残る一里塚としてこの史跡は極めて貴重である。

          平成18年(2006)2月 土浦市教育委員会

その先、松並木の終わる地点で「松並木」の解説板と現代版の道標。
    
 「道標」には、「水戸まで約44粁(㎞)、東京まで約76粁(㎞)」とあります。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その5。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-27 19:51:35 | 水戸街道

 「中城通り」から東に向かいます。かなり古びた建物。

「ほたて」。天麩羅屋さんが右の角に。

2015年8月1日(土)放送 出没!アド街ック天国 「茨城 土浦」
【7位】ほたて食堂(茨城 土浦)
 明治2年(1869)創業。予科練生が家族との面会にも使ったお店。当時は鮮魚店で丼ものを出していたが、現在は天ぷら専門店として営業している。
                    (HPより)

 そのお店の角のところに「桜橋」の柱と「土浦町道路元標」、「解説板」があります。
    
桜橋跡  [うんちく板]
 大正13年(1924)頃、旧土浦警察署(現日本生命ビル)の火の見櫓から川口川に架かる桜橋を望んだもの。
 手前左側に豊島百貨店、その先に木造3階建ての丸勢旅館が並び、桜橋の右の松庄旅館の後方に土浦町役場が見える。
 昭和10年(1935)、川口川を埋め立て祇園町が誕生するまで、桜橋には船がのぼり、水陸交通が交差する地であった。右岸にはバラックが並び、亀城通りはまだ開通しない頃の街並みである。

「亀城通り」。土浦城へ向かう道。

通りの反対側に「桜橋の跡」碑と解説板が設置されています。
    

その近くにしゃれたお店。宿場町を意識した造り。

角にある「三菱UFJ銀行」の脇に旧町名の解説碑。

本町 由来
 東﨑分集落の中心として、その名のごとく中城と共に土浦宿の代表的な町人町で、二つの本陣(山口家、大塚家)もここにあった。問屋も中城と本町の問屋が交代で務めた。また川口川を通じ霞ヶ浦水道の要で船宿もあり、水陸交通の要衝であった。

 (12:09)その先の「土浦商工会議所」が「大塚本陣」跡。
    

ここで旧道は左に曲がります。

足元には「土浦宿」のタイル絵。

ここにも「旧仲町 由来」碑。  

 (12:17)しばらくまっすぐ進み、「常陽病院」のところで左に曲がり、すぐ右に曲がります。宿場の北に位置する「桝形」。
                          「橫町 由来」碑。

 その道もまた左に曲がります。             
    

そろそろ土浦宿の北の外れ。  「北門の跡」碑。

その先で振り返って望む。

 その先にも「土浦城北門の跡」碑があり、そこに「馬出し」の図が記されています。
    

 (12:24)その先の「新川橋」で「真鍋宿」へ向かいます。「真鍋宿通り」という掲示が橋の欄干に。
    

 「真鍋宿」は、間の宿だったのでしょうか。宿場らしいおうちが続きます。

 (12:27)「関東鉄道本社」の手前には「りんりんロード」。かつての線路跡があります。
    
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小笠原村からの一時帰還。(じじばばがゆく。驚き編。)

2016-12-25 17:52:00 | じじばばがゆく

 久しぶりだね、どう、向こうでの生活は? 半年経ったけれど。馴れましたか?

 元気そうでなにより。ちょっとスリムになったかなァ。

 往復10万円か、それに行って帰ってくるまで、6日間。そのうち、24時間×2は、船旅。けっこう行くには勇気がいる感じだがね。

 夏にはご両親も行ったんだ。それで2日目には飽きちゃったって。マリンスポーツとか海に興味がないと、たしかにつまらないかもしれない。親ってこっちよりも少し若いくらいだろ、偉いよな、行くだけでも。

 でも、息子の働きぶりが心配で、心配で、という親心でしょ。へえ、昨日は竹芝まで迎えに来てくれたなんて、たいしたもんだよ。

 メールで「内地」っていう言い方には驚いたけれど、ピッタリという感じなんだ、まさに海外という感じかな。


 《東京都の職員で今年4月から小笠原で勤務している男と塾講で働く男と飲み会。飲んでしまっていい気分の聞き取り。》


 4月に赴任したときは、八丈を過ぎると話には聞いていたけれど、10時間は島影もまったく見えず、いったいホントに島に着くのかなって思ったって、そうかもしれんな。

 帰ってくるときは、八丈が見えてくるともう都内って感じます、なるほどね。

 江戸時代でしょ、あそこが日本の領有権を主張するようになったのは? 私もちょっと調べてみたけど。

 1675年(延宝3年)に、江戸幕府が島の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置したんだって。

 1727年(享保12年)になると、小笠原貞頼の子孫と称する浪人の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、幕府に訴え出て、その訴状には父島、母島、兄島などの島名が記されていた。そして、「小笠原島」と呼ばれるのはこれ以降のことだとか。

 平成28年の「住民基本台帳登録者数(3/1)」だと2,606 人が住んでいるって、さすがプロ。数字をすぐ出せるなんて。父島2,134人 母島472人、世帯は 二島で1,470。

 ということは1世帯当たりの人数は少ないじゃない。そっちみたいに単身者が多いのかなあ。

 もともとの住民はあまりいないんだ、戦争中に全員強制疎開させて、日本に返還されたときには元の島民はあまり戻らなかったのか。

 公務関係や建築関係、それも土木、港湾関係に従事している人はけっこう多いというわけか。 

 ところで、そちらさんは本州から出たことがない、修学旅行で京都に行ったのが一番遠いって。いまどき、そんな人もいるんだ、驚いた。

 でも、小笠原で塾が開けないかしらね。本土の高校の中高一貫校に合格させますって。でも寄宿舎がないから現実的ではないかな。昔は、秋川高校という全寮制の高校があったけれど。

 一生に一度は行ってみたいね、東京人として。

 やっぱり小笠原っていうと、マリンスポーツって感じだけど、もちろん海は澄んでいるし、最高か。

 でも、実は星空が最高です、か。へえ~、星が☆の数ほどあるって。なにしろ周囲は真っ暗で何も灯りがないから。想像しただけでも素晴らしいや。

 それに山登りも楽しめるのか、へえ。山がけっこうあるんだ。

 それに戦跡巡りも、か。たしかにこの間の戦争で激戦地だったからね。かつての日本軍の要塞やらがあちこちにに残っているのか。それは痕跡巡り人間にはたまらない魅力だわ。

 島でもし重病人が出たらどうするの? そういうときは自衛隊の水上飛行艇が出動するんだ。船だと丸一日かかる道のりも、飛行機なら数時間ですからって。ふ~ん。

 東京都小笠原村なわけだね。そこでの都職員ということか。

 父島には高校もありますよ。高校時代の同級生が小笠原高校で教えていますよって、彼はもう2年目になるのか。

 クルマのナンバーはなんと品川ナンバーですから。足立ナンバーとは違いますから。あなたはオートバイでしょ。ほとんどが黄色ナンバーか。なるほど。

 エスカレータはありません、エレベータは二個所くらいにあるらしいって、そうなんだ。

 ここで改めて「小笠原」の基礎知識

小笠原諸島

 小笠原・父島は東京から南に約1000㎞のところにある。(※東京から西へ1000㎞というと、九州の「種子島」付近に当たる。)

 北緯27度・東経142度に位置する。(※沖縄とほぼ同じ緯度)。

 南に50㎞のところに母島があり、父島から北に50㎞以上離れて聟島がある。

 父島は伊豆諸島の八丈島から700㎞も南にある。

 気候は亜熱帯気候。同じ小笠原諸島でも父島や母島の南に位置する火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島では熱帯に属す。年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は少ない。「台風シーズン」というものはなく、年中来る
 梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無い。

 小笠原諸島は生命が地球に誕生して以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げている。そのため、東洋のガラパゴスとも呼ばれるほど、貴重な動植物が多い。

《戦後の主な歴史》

1945年(昭和20年)2月19日 ~ 3月26日 - 硫黄島の戦いが行われ、日本兵18,375名と米兵6,821名が戦死する。
1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍の指令により日本の小笠原諸島への施政権が停止される。
1946年(昭和21年)10月 - 連合軍総司令部が欧米系の旧島民とその家族135人のみに帰島を許可する。
1946年(昭和21年) - 小笠原支庁・村役場が東京都下谷区下谷小学校に移転する。
1947年(昭和22年)7月 - 旧・島民たちによって、小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟が設立される。
1952年(昭和27年)4月28日 - サンフランシスコ講和条約の発効により、小笠原諸島がアメリカの施政権下に置かれる。
1965年(昭和40年) 5月 - 第 1回墓参団が渡島する。
1967年(昭和42年)11月16日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との小笠原返還協定)により、小笠原諸島の日本への返還が決まる。
1968年(昭和43年)6月26日 - 協定が発効し、日本に返還される。東京都小笠原支庁設置。小笠原諸島全域を領域とする小笠原村が設置される。
戦前の旧・大村、旧・扇村、袋沢村、旧・北村、旧・沖村および旧・硫黄島村は、小笠原村となる。かつて小笠原支庁直轄だった北硫黄島、南鳥島、沖ノ鳥島および西之島も小笠原村の区域となる。

・・・

 もう年だし、道中で何かあっても心配だし、迷惑掛けるし・・・。一人で行くのも何だし、かといって一緒に行こうなんて人はいないし・・・。誰かいないかな?

 でも、楽しい話、ありがとう。そう、正月の3日には帰るんだ。それまで内地の気分を味わって下さい。新鮮な野菜と肉をたくさん食べて。

 えっ、ウミガメが島民には重要な動物性タンパク源なんだ、初めて知ったさ。

 機会を作って行くことにするから。連絡したときに、「江東区にいます」なんてことは無しにしてよ。八丈島で懲りたから。

(写真、資料はHP及び「Wikipedia」より。)  
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その4。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-24 22:38:49 | 水戸街道
土浦宿
 水戸街道千住宿から11番目の宿場町。現在の茨城県土浦市大手町・中央1・中央2・城北町付近にあたる。
 土浦は土浦藩の城下町で、城は土浦城(亀城)。水戸街道は、土浦城の東側を、複雑な枡形を繰り返しつつ迂回している。土浦宿は、土浦城の東側・南東側の一角で、南西から北東に700メートル程度の範囲で広がっている。本陣は2ヶ所(山口家・大塚家)あったとされるが、いずれも残されていない。
 土浦は、城下町であったほか、霞ヶ浦水運の拠点地でもあり、物資集積地としても栄えた。
 旧街道筋には古建築が残っている。また、短い区間ではあるが、景観が保存されている。

真鍋宿
 土浦宿の北方1キロ程度の場所に「真鍋宿」があった。現在の茨城県土浦市真鍋3付近。土浦宿とは極めて近く、間の宿とも土浦宿の一部とも言える。坂下には鹿島街道との追分、坂上には筑波街道との追分があったことから、その2つの追分に挟まれた坂道を中心として栄えた。

常福寺・愛宕神社 - 土浦宿の南側に位置する寺社。愛宕神社は、2007年現在も茅葺屋根の本殿を持つ。
吾妻庵 - 創業1873年の蕎麦屋。母屋は築200年、商店部分も築100年という。
矢口酒店 - 1800年代中期建築の土蔵建築。茨城県指定文化財。
まちかど蔵・大徳 - 江戸時代末期の土蔵建築。元は呉服店。土浦市が譲り受けて観光案内所となっている。裏手に本陣のひとつがあったとされる。
まちかど蔵・野村 - 1800年代末期の出桁作り・土蔵建築。元は砂糖問屋。観光案内所として使われている。
ほたて - 大規模な角地出桁作りの商店。てんぷら屋として現役。
土浦商工会館 - もうひとつの本陣の跡地。
醤油・国分商店が土浦で生産を江戸中期に始め、江戸に送られて消費され、過去には江戸で醤油のことを「むらさき」(筑波山)、「おひたち」(常陸)と呼ばれた。

            (以上、「Wikipedia」参照)

 「土浦宿」中心部へ向かう旧街道には古いおうちが並んでいます。新築、改築あるいは空き地になってはいますが、かつての雰囲気が残っています。一歩敷地内に入ると、古い土蔵なども。
    


 (11:33)先達の資料ではこの付近に『この井戸は、日本橋から十八番目の一里塚のかたわらにあった井戸である。』という説明板と共に「井戸」があるとのことでしたが、行きつ戻りつしてもいっこうに見当たりません。実は何年か前に市によって撤去されたようです。
かつてのようす。(「「土浦城下の遺構めぐり」HPより拝借。)

ということは、これなのかな? (↓)道路脇にある井戸らしきもの。

 ロスタイムがあり、やっと土浦城の「南大門」があったところになります(11:48)。
    

土浦城南門跡
 享保12年(1727)に大町が築かれるまではここが土浦城の南端で、正面の太い道路となっているところには川が流れていました。土浦城と水戸街道の整備に伴い、慶長18年(1613)に川には橋(簀子橋)が掛けられ、正面に南門、脇に番所が置かれると共に、川の向こう側には「枡形」と呼ばれる城の防御施設が整備されました。なお貞享2年(1685)に大規模に改修され、形態的には角馬出となります。明治6年(1873)撤去されました。
なお、枡形や馬出といった城の主要な防御施設は城下から城内へ入るところに設けるのが一般的であり、土浦城のように水戸街道をいう主要街道に大規模な防御施設を設置している例は全国でも大変珍しいものです。 

注:「馬出(し)」
 土浦城では北側にもこの防御施設が築かれ、その跡が残されています。そこで、城用語集」HPをお借りして解説します。

馬出とは
 虎口(城の戦闘用出入口)の外側に曲輪を築いて防御力を高めたもの。

 初期の城は土塁に切り口を作って出入口としていたが、この切り口の外側(一部内側)に的土(あづち)と言われる盛土を行った。この盛土により、城外から城内の様子が伺いにくくなる。切り口(出入口)への敵の兵の集中がしにくくなるなどのメリットがある。
        
 
 「馬出曲輪」と呼ばれるものや、「出丸」と呼ばれるものも築かれるようになった。大阪冬の陣で有名な「真田丸」はこの出丸の規模が大きくなったものである。

頭上には「土浦境線」の高架道路。

 解説板にある桝形(クランク)。「馬出」跡は判然としませんが、「枡形」はしっかり残っています。
    

(11:50)右の角の奥に「東光寺」。

街道筋らしいおうちも。

 (11:53)しばらく進むと、再び枡形で、右に折れてすぐ左に折れます。
    

 ここからが宿場の中心のようで、宿場らしいおうちが並んでいます。
    

「山口薬局」。



水戸街道と町並み「土浦宿」
 水戸街道は慶長9年(1604)に整備された五街道に次ぐ重要な道路で、土浦城下を南から東(霞ヶ浦)側を回って北に向かっています。土浦宿は日本橋より一八里半(約74キロメートル)の距離にあり、千住で日光街道から分かれた水戸街道11番目の宿場町です。土浦宿には、大町(享保12年―1727―築)・田宿町・中城町からなる中城分の町と、本町・中町・田町・横町からなる東﨑分の町があり、それぞれに名主が置かれていました。大名などが宿泊する本陣は、本町の大塚家(現土浦商工会議所)と、大田家(寛保2年―1742―まで)・山口家(まちかど蔵大徳脇の道奥・延享元年―1744―以降)が務め、この二つの本陣を中心に旅籠、問屋、商人宿、船宿、茶屋、商家などが軒を連ねていました。

「中城通り」との案内板。

「吾妻庵総本店」お蕎麦屋さん。看板が立派。

 その隣には「矢口酒店」。店蔵、袖蔵、元蔵の三つの重厚な建物が建っています。
    

解説板。

県指定建造物 矢口家住宅(付、家相図七枚)
 この建物は土蔵造りで、店蔵(主屋・向かって右)と袖蔵(向かって左)、別に建てられた奥の元蔵より成る。旧水戸街道に面した店蔵・袖蔵の間口は合わせて7間半である。
 土浦城下の土蔵造りは、天保12年(1841)の大火後、瓦葺きなどと共に防火の備えとして取り入れられたものである。
 この建物の建築年代は、店蔵と袖蔵が嘉永2年(1849)、元蔵が慶応年間(1865~67)で、県内で現存する土蔵造りの商家建築のなかでは特に貴重なものである。
 なお、天保9年(1838)以降の家相図が7枚残っており、間取りの変遷を知ることができる価値の高いものである。

 平成11年(1999)3月  土浦市教育委員会
 
左隣には「まちかど蔵・大徳」。

 江戸中期、商都土浦の礎を築いた呉服商「大国屋徳兵衛家(大徳) 」。
◆見世蔵(観光物産館)
市内の観光についての情報提供のrまか、土浦の特産品や土産品を販売しております。また、 2階部分はギャラリーや発表会などに利用できます。
◆抽蔵1階(観光展示館)
日本-と呼び声高い「土浦全国花火競技大会」や帆曳船などの市内の観光について、模型やパネルを使って紹介いたします。
◆袖蔵2階(商家歴史展示舘)
往時の商家や庶民の生活用品のほか、葺の土浦の街並みの絵や写真などを展示しております。元は呉服屋さん。

 観光案内ボランティアの人たちの姿も見えて、けっこう賑わっているようすです。

その向かい側には「まちかど蔵・野村」。

 野村家は江戸時代から続いた商家で,明治の頃には砂糖を商っていました。かつての大店の暮らしぶりを見てとることができる「土浦まちかど蔵・野村」は、江戸後期から明治初期に建造された、 3つの蔵からなっています。
◆母屋1階(休憩所、はた織り体験室)
中城通りに面した開放的な休憩所と、はた織りや草木染めなどの創作活動が体験できるカルチャー室があります。
◆母屋2階(展示室、和室休憩所)
展示室には音の生活用品などの民族資料や、予科練関係の資料を集めました。くつろげる和室の休憩所があります。
◆袖 蔵(そば打ち等体験工房)
蔵を改装し、そば打ち等が体験できる工房となっています(要予約)。
◆文庫蔵
写真や絵画等の作品展示会場として利用できる蔵です(要予約)。
◆レンガ蔵(喫茶店)
レンガ蔵を改装した喫茶店で、レトロな空間を醸し出しています。

「大蔵」「野村」さんの解説は「www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1274688449_doc_26.pdf」より借用。

    

旧町名 中城町由来
 田宿と同時に(慶長九年)に生まれた町人町で土浦宿の代表的な町としてだけでなく、「中城分」という集落の中心であった。土浦城大手門に近く参勤の大名を接待する御使者屋敷もあった。駒市で知られている中城天満宮もこの町の象徴である。

 こうした「旧町名」由来碑が20ヶ所ほどに設置されているようです。

 (12:00)時刻はちょうど正午。昼食にはまだ早い、もう少し行ってから食べようかと歩き出します。次の「ほたて」屋さんもパスして先に、と思ったのが大失敗。
 この先、旧街道筋には一軒も食事する店がありませんでした。もちろん土浦駅方向に行けばあるのでしょうが、旧道は次第に繁華街から遠ざかっていきます。・・・
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その3。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-23 12:47:44 | 水戸街道

(10:51)国道6号線」バイパスを越えて松並木の脇を過ぎると、「国道354号線」に合流します。
    

 (11:02)しばらく進むと、中高津地区の「セブンイレブン」の北側の角に、大きな天保15年の「馬頭観音」と足元に小さな道標があります。馬頭観音には「「水海道 布施 関宿 流山道」と刻まれ 、小さい道標には「右やたべ おばり いたばし みつかいどう」 と刻まれています。

  





 「布施街道」は享保15年(1730)頃に開かれた「水戸街道」の脇往還。根戸(柏市)で水戸街道から分かれ、布施弁天、利根川の渡し、守谷、板橋、谷田部を経由し、土浦の中高津で「水戸街道」に合流します。布施弁天、板橋不動尊などへの参拝の道としても利用され、利用者が多く、水戸街道の宿場が衰えるので、布施街道を通らないようにとの触書が「水戸藩」から出たそうです。

 「布施街道」は左に進む道。古地図では途切れずに西南に下って行く道が記されています。
    

 国道354号線(旧水戸街道)の両側には旧家らしいおうちが並んでいます。
    

    

(11:12)「国道354号線」と分かれ、右の道に。

すぐ右手にある旧家。

 「霞ヶ関医療センター」入口の向かいには「下高津小学校」の旧校舎跡地で、創立100周年(昭和51年)と130周年(平成18年)を記念して作られた碑があります。ずいぶんと長い歴史を持った小学校です。



坂道を左に下って行きます。前方に土浦の街並み。

 (11:17)途中、坂の右手に「下高津の道標」。水戸街道と板東街道との分岐点になります。
    

 亨保18(1733)年、東崎の観音講の人々によって建てられたもの。道標には、右「江戸道」、左「なめ川阿ば道」と刻まれています。


「板東街道」はこの道? 行き止まりのようですが。

 坂を下って行くと、左手の高台にあるのが、「愛宕神社」。その奥にはお寺があります。
    

「桜川」に架かる「銭亀橋」に向かいます。


 沿道には旧街道らしいおうちが何軒か。
    

(11:25)「銭亀橋」を渡ると、城下町「土浦宿」に。

 「桜川」はもともと土浦の街の真ん中を流れていましたが、洪水を避けるため、大町付近から現水路に切り替えられました。「銭亀橋」は、1613(慶長18)年、水戸街道の橋としてはじめて架橋された歴史ある橋で、当時は木造の太鼓橋でした。

                               「桜川」。
    

 「桜川」。桜川市山口の鏡が池に源を発し、筑西市、つくば市を経て土浦市で霞ヶ浦に流入する一級河川。延長63.41㎞、流域面積350.3平方㎞。筑波山の西麓、南麓を流れている。筑波山の多くの沢は、「桜川」に流れ込んでいる。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その2。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-22 22:03:30 | 水戸街道

 「国道6号線」に合流したあと、広大な商業施設「JOYFUL HONDA」を過ぎ、「土浦自動車学校」の先、「中村南4丁目」交差点を右に入ります(9:58)。
    

途中交差点に「「日先大神道」と刻まれた道標。日先神社への道。  

 (10:07)「原の前交差点」の手前には松が数本、他にも雑木林が生えた、こんもりしたところが残っています。この付近に「一里塚」があったそうですが、関連があるのか?

      

 交差点を渡って「旧中村宿」に入っていきます。
    
                              振り返って望む。

中村宿
 水戸街道の、千住宿から10番目の宿場町。現在の茨城県土浦市中にあたる。
 宿場町は南西から北東にかけて数百メートルの範囲に広がっていた。家並みは50軒余りの小規模なものにすぎなかったが、本陣は置かれていたとされる(川村家)。
 宿場町だった痕跡はほとんど残っていない。
      (以上、「Wikipedia」より)



1880年代のようす。中村宿から永国村を経由して「土浦宿」へと至る。北の宿場外、花室川を越えたところに「大聖寺」の名が見える。



現在のようす。当時と道筋はほとんど変化がない。南北を貫く道路は「国道6号線バイパス」。

                        静かでのどかな道を行きます。
    

 (10:21)右に折れ曲がる手前、宿場の南のはずれにあったとされる観音堂跡。石仏などがまとめて置かれています。


人通りもなく、車も行き交わない宿内。

大きなおうちが多い。 

緩やかな下り坂になります。

「土浦市立東小学校」脇の坂道を下ると、目の前が広がっていきます。「花室川」を渡って水田地帯に。右手奥は6号線のバイパス。
    

 (10:38)左の丘には「大聖寺」。藁葺きの山門が奥にあります。10世紀末に創建された古刹のようです。
その先で、小休止。のどかな田園風景。
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その1。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2016-12-21 22:02:01 | 水戸街道

 12月17日(土)。快晴。風もなく、気温は低いけれど歩くには最適(と思われる)ようなお天気。どこまで進めるか?

 JR「ひたち野うしく」駅に降り立ち、前回の終了地点へ(8:59)。

 (9:08)歩き始めるとさっそく「牛久市」と「土浦市」との市境の左右に「一里塚」。
               

 右にあるのは「中根一里塚」。
    

牛久市指定文化財(史跡) 中根一里塚
 徳川家康は、慶長9年(1604)頃に全国の主要街道を改修、改良を加えて一里塚を設け、この時期に開かれた「水戸道中」の起点江戸日本橋から17番目に「中根一里塚」が築かれた。一里塚は旅人の標識と休息の施設として一里(約4㎞)毎に街道の両側に約五間四方(約9m四方)、高さ一丈(約3m)程の塚を築いたものである。市内には、外に「成井」「田宮」に一里塚があったが、現在は「成井一里塚」が残されている。中根一里塚は、昭和61年、江沢大輔氏より市に寄贈されたものです。

 平成2年3月1日 牛久市教育委員会

塚の上には切り株のみ残っています。

反対側は土浦市内となる「荒川沖一里塚」。
                            こちらは、平成10年、地主の本田春義氏より市に寄贈されたものだそうです。

牛久市方向を望む。

「東京まで57㎞」ポスト。

 (9:24)しばらく進み、「荒川沖南区」交差点で、国道から離れて右の道へ入って行きます。JR「荒川沖」駅方向。
    

 「乙戸川」に架かる「荒川橋」。東京に住む人間だと都内を悠々流れる「荒川」を連想しますが・・・。
    

宿内のようす。

蔵造りを模した建物。

駅入口近くにある「宇野家」の豪壮なおうち。

その斜め前の向かいには、名主であった「川村家」。昔の宿場の面影を残す街並み、建物が残っています。
    

荒川沖宿
 水戸街道の、千住宿から9つ目の宿場町。現在の茨城県土浦市荒川沖西にあたる。
 宿場町は南北に数百メートルの範囲で広がっていた。
 小さな宿場町で、本陣は置かれていなかった。宿場町としての役務は隣の牛久宿と分担して行っており、荒川沖宿のみで完結したものではなかったという。正規の宿場町ではあったものの、継ぎの宿という位置づけであったとされる。
          現代地図に旧水戸街道の道筋を重ねた地図。(「Wikipedia」より) 

■「荒川沖」
 荒川沖宿の由来は、水戸街道が慶長9年に開通したとき、阿見町荒川本郷から移住した有力農民7戸が街道沿いに宿場を形成したのが村の起こりで、 いわゆる荒川沖宿で水戸街道20宿の一つです。
 「荒川沖」駅は茨城県土浦市にありますが、名前の元は隣町の「稲敷郡阿見町荒川本郷」と関係があります。
 江戸時代以前、この一帯は「荒川野」と呼ばれていました。これは川(実際は乙戸川や霞ヶ浦と牛久沼)が頻繁に氾濫していた為一帯は年中水に浸かっていました。この様子から「荒れる川の野」「川に荒らされた野」と言われたのが始まりらしいです。その「荒川野」を沖に見る地区が現在の「荒川沖」です。荒川本郷から遠くに見えるところから“荒川の沖” (沖:遠いところの意味)と言われ、水戸街道の歴史と共に歩んで来たところです。

■水戸街道と共に栄えた庶民の宿場
 もともと水戸街道は、鎌倉街道の脇街道として、水戸道中とか江戸往還などと言われる細い道が通っていましたが、 徳川家康が江戸幕府開設早々の慶長9年(1604)7月から同14年12月にかけて、直轄工事でまっすぐに改修したものです。
 荒川沖と牛久間の改修については、牛久藩主山口重政がその任に当たり、完成後、慶長15年11月荒川道取締りのために、領内の信田郡荒川村(阿見町荒川本郷)の有力農民7戸を選んで、ここに移転させ、藩の役人の下で街道取締りに当らせました。 そして街道用務の増大に伴って、領民を張りつけました。
 寛永8年(1631年)の記録では、宿戸数は40戸になって、街道の宿駅村落としての形態が形成されたといいます。 荒川宿はかくして、その名を正式名称としましたが、当時の書付をみると、沖村、荒川村、沖荒川村などと書かれており、 一般的には荒川宿で通用していたのです。
 その荒川宿は、いわゆる殿様が宿泊する陣屋宿場でなく、牛久陣屋宿場と中村陣屋宿場の中間にあたる 「継立宿場」としてもっぱら庶民の宿場でした。

■発展してゆく宿場
 荒川本郷から移転した農民は初め、開拓農耕のかたわら、公的交通の用務に従事していましたが、往還の増加に対応して、商いにも精をだすようになり、 旅籠や灯油、灯心を売る油屋、そば屋などの店を開く者も多くなり、宿場らしい雰囲気をつくっていきました。
 ところで荒川宿の継立問屋は、代々名主の川村八宗治家が継いでいたが、その継立区域は、 上りは牛久本陣までの1里33町、下りは中村宿24町までの間でした。往還は公的な場合は馬とか駕籠でしたから、宿駅の問屋では、乗馬10頭とか駕籠3挺、 それに荷担ぎ人足25人というように、常時備えておかなければなりませんでした。
 文政5年(1822年)の記録でみると、荒川宿を通った諸大名は、津軽、松前、南部、仙台、秋田、 水戸、土浦藩など22藩におよんでいますが、特に関東の大名は、2月と8月の半年交代が例でしたから、 問屋の仕事は他の街道に比べて忙しく、且つ気遣いが多かったと言われています。
 また、街道宿には、旅籠や女郎屋がつきものでした。藩でもこれを半ば公然と認めていました。だから荒川宿の夜は軒行灯の灯色を映らせて、遊女屋から流れる三味線の音や酒盛りのざれ唄が、そこかしこに聞こえて「女なくして何の道中かなし」といった、宿場独特の情緒で夜が明けたといいます。一方、近辺で農業を専業とする者も、農業の合間には問屋の荷担ぎ人足や宿場雑務に雇われ賃金を得たので、他村に比べて経済的に恵まれていました。半面、宿場特有の女と酒、賭博に身を持ち崩し、先祖伝来の田畑を失う者もいたといいます。  宿通り(荒川沖派出所から西1丁目)の佐野屋、二六屋、荒井屋、おおぎ屋 松屋、岡本屋、鶴屋などの屋号は、そうした往時の繁昌した宿場商店の名残りです。

(以上「」HP参照)

    
                     (9:38)郵便局の隣にある茅葺き屋根の建物。「旅籠佐野屋」。

                     その先にも立派な藁葺き屋根の建物。「鶴町たばこ店」。
    

立派な門構えに大きな敷地のおうちがチラホラ。

宿場の外れ、「国道6号線」に合流する手前には診療所の大きな洋風建築。
          

宿内を振り返って望む。

(9:45)国道6号線に合流します。
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またまた茶番劇に終わるか、それとも・・・

2016-12-20 21:13:01 | 世間世界
自公ギクシャク 年末最後の会合、カジノ法ですきま風

 支持団体からの突き上げで、党内があっちの顔(無論、大阪―日本維新―)も立て、こっちの顔(無論、婦人部)も立てるというお得意の選挙目当て戦法(とみた)。
 ここは、小池ごますり・スリより戦法の続き。ここで自民党をたたかなければ、選挙(無論、都議選)が危ない。小池さんに恩を売っておけば安心。自民と一緒くたで刺客を立てられなくて済みそうだ。実に打算の極み。
 衆院選。大阪で「対抗馬を立てるぞ」というハシモトにビビって究極の選択で維新ににじり寄り、おかげで対抗馬を立てられなくて、「常勝関西」のメンツが立った。だから、今も橋下の顔を立てねばならない公明党、今回の「カジノ法案」にも関西の議員はこぞって賛成をしたハズ。
 今度は夏の都議選。衆院選は遠のいたので、心置きなく都議選に会員を集中させることができる。それも完全勝利が至上命令のはず。それにはどんな小骨でも除かなくては、と。そこで、自民党にいちゃもんを付けた格好をして、小池さんににじり寄り、とまたしてもお得意の戦法(と読んだ)。
 次回の衆院選までには自民党とも元の鞘に収まっていくに違いない。のど元過ぎれば何とやら。選挙民は秋にはすっかり忘れてしまい・・・、自民党に恩を売って、衆院選では自公で多数を。
 これを公明党もしかとご承知の上の猿芝居。自民党だって選挙では大助かりのハズ。とことんけんかをすることはできない(ハズ)こうしてまたも、・・・。

 が、「日本維新の会」は都議選にも多数の候補者を擁立する考え。国政選挙でも大量に候補者を準備するつもり。アベさんは維新が伸びてほしい、そうすれば、「日本会議」の意向のように、維新との改憲連合の方が本音、思想信条からも願っている(ハズ)。
 さて、「窮鼠猫を噛む」になるか、公明党。それとも結局、しっぽを振って付いていくだけか、興味深い展開になればいいのだが。党首も幹事長もカジノ法案に反対した、というのがカギかも知れない。
 果たして・・・

ところで、「猫と鼠」といえば、アニメの「トムとジェリー」の最終回(無論、都市伝説としての)は涙なくしては語れないものでした。
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取手~藤代~若柴~牛久。その6。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-19 22:07:02 | 水戸街道
く型の街並みです。駅や国道から離れているため、静かな通りになっています。

 (13:29)左側の重厚な門の脇に、「明治天皇牛久行在所(あんざいしょ)跡」と刻まれた石柱が建っています。


 明治17(1884)年12月、名主の飯治左衛門宅に明治天皇が宿泊した記念に建てられたもの。
 明治天皇の牛久行幸は、女化原(現牛久市女化町・さくら台付近)で行われた近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的訓練を視察するものでした。
    

 牛久宿には、小川芋銭、河童碑や牛久城などの史跡、遺構があるようですが、先に進みます。
 く型の曲がり角に近づきます(13:34)。左側には「正源寺」。
    

あまり宿場らしいものはない中で、お寿司屋さんの看板。 

直線の旧道が「国道6号線」に向かっていきます。 

左手にお豆腐屋さん。我が家でもなじみの「三代目茂藏の豆冨」直売店。

                                              お店そのものは慶應4年創業とか。

旧道の脇にある古木。

(13:46)しばらくして水戸街道に合流します。

たわわに実ったキンカン? 

 国道の右手にある「牛久駅」で終わろうと思いましたが、まだ陽も高いので20分ほど小休止して再開。その先、田宮(「たみや」ではなく「たぐう」)地区に入ると左手には「薬師寺」の案内板。


(14:31)「東京まで52㎞」ポスト。およそ半分の距離。ただし、旧道はけっこう曲がって進むので、もっとかかる?

しばらく先で左の旧道に入る。くの字型。

すぐに「国道6号線」に合流。

以前は藁葺き屋根だっただろうおうち。

沿道には大きな屋敷も。

   
               (15:04)前方には「圏央道」の橋脚が見えます。

「小野川橋」を越えます。

 「小野川」は、つくば市谷田部小野崎に源を発し、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川。江戸時代、小野川流域に薪炭林としてのアカマツ林が広がっていました。江戸への燃料供給元とされ、当地で集められた薪は付近の農作物などとともに江戸まで舟で運ばれていた、とのことです。

 「牛久」の先の駅「ひたち野うしく」駅まで行くことにします。

次第に夕陽に照らされる家、家。

(15:12)
               晩秋の日の落ち方は急速。まさに「つるべ落とし」。あっという間の夕暮れ。強風がますます身にしみてきました。

(15:24)「ひたち野うしく」駅入口。

 今回はここまで。
 JR「ひたち野うしく」駅は1985(昭和60)年の「つくば万博(国際科学技術博覧会、科学万博、つくば '85)」の最寄り駅として作った駅。今でもなかなかモダンな駅です。
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取手~藤代~若柴~牛久。その5。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-17 21:10:29 | 水戸街道
 県道を横断して「若柴排水場」前のY字路で左の細い道を進みます。


(12:36)分岐点に道標。
                 地元の青年団によって大正時代に建てられたもののようです。

 旧道は緩やかに上り下りがあり、見通しが悪く、車同士のすれ違いも大変。そんな細い道に車がひっきりなしに行き交います。ちょっと怖い感じ。のんびりと歩けるような雰囲気ではありません。こういう状態がほぼ牛久宿への道まで続きます。
               

    



 (12:49)しばらく進み、前方が明るく開けたところに「成井一里塚」があります。
    

成井一里塚
 一里塚は、主要な街道に一里(約4㎞)ごとに築かれた塚である。
 1604(慶長9)年、徳川幕府により江戸の日本橋を起点とし、全国的に主な街道には一里塚が築かれた。これは、里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。
 由良国繁を城主とする「牛久城絵図」にも、成井の一里塚は描かれており、右に記すように徳川幕府によって築造されたものと想われる。
 江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現龍ケ崎市の須藤堀、紅葉内、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは15番目、水戸街道の起点である千住からは13番目にあたる。
 平成13年6月22日指定 牛久市教育委員会

右の塚は植樹こそないものの上部が平らのまま残っていますが、左の方ははっきりしません。

来た道を振り返って望む。

 右手には田んぼが広がります。
    

 この先、県道との信号を過ぎると、道路の拡幅・整備のために旧道は消滅? したようで、しばらく広くて新しい道路を進みます。
                        

 (13:01)「牛久宿」への旧道は緩やかな坂を過ぎてから左手に入る道。わかりにくいですが、進むと、旧道らしい道になります。
                        

木々に囲まれ、緩やかな上り坂。   

 しかし、常磐線を越えて「国道6号線」へ向かう抜道になっているのでしょうか、車がひっきりなしに通過します。ここも歩行者には危険なところ。車の方でもまさか人が歩いているとは思えないようすです。

    
 途中、左に大きくカーブする付近の右手に旧道が残っていますが、立ち入り禁止となっています。。

 (13:11)そこで、旧道からは離れて、道なりに常磐線の踏切を渡り、「国道6号線」と合流、しばらく進み、残っている旧道(左手)に入ります。
    

常磐線と「国道6号線」で寸断された旧道。

この付近から「牛久宿」に入ります。

牛久宿
 水戸街道千住宿から8つ目の宿場町。現在の茨城県牛久市牛久町付近。
 宿場町は南北に1キロ弱の範囲で広がっている。牛久沼の北東岸の台地上に「く」の字型に旧街道が残っている。江戸寄りが下町、水戸寄りが上町と呼ばれる。水戸街道の道中絵図には、牛久宿の家並みは本陣と15の旅籠を含む124軒が描かれている。現在の国道6号は、その屈曲部を迂回して走っており、宿場内の道幅は7から8メートルのままになっている。古建築はほとんど残されていないが、道路脇の所々に井戸址を見る事ができる。
 牛久宿は、戦国末期に描かれた絵図(龍ヶ崎市史別編2)に牛久宿が描かれており、牛久城主岡見氏の城下町であったものと思われる。
(「Wikipedia」より)




1880年代のようす。


現在のようす。街道の東側を国道6号線と常磐線が通り、市街地が広がっています。
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取手~藤代~若柴~牛久。その4。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-16 22:41:41 | 水戸街道

 旧「若柴宿」は、台地上にある街並み。坂道が右にも左にも。豪農が多いような印象で、りっぱなおうちが目立ちます。
    

細道の奥にもお屋敷。    

 (12:10)大坂を上った右側には「八坂神社」。そのところに「若柴宿案内図」。街道はここで左に折れます。

足袋屋坂、延命寺坂、会所坂など坂道の名が。

「流坂」。「延命寺坂」。  


「会所坂」。       

「薬師寺跡」。  

「仲宿坂(東屋坂)」。      

「足袋屋坂」。

 それぞれ雰囲気が異なっていて、けっこう急坂になっています。

若柴宿
 水戸街道千住宿から7つ目の宿場町。現在の茨城県龍ケ崎市若柴町付近。
 水戸街道が小貝川や牛久沼流域の低湿地を横切って北上した台地上にある。宿場は両端に屈曲のあるクランク状の直線部にあり、江戸側(南東側)と水戸側(北西側)の約500メートルの範囲。南東側屈曲部には八坂神社、北西側屈曲部には金竜寺がある。藤代宿・牛久宿と近いことから、本陣は置かれていなかった。
 明治以降の火災によって江戸時代の建築の大半は失われているが、明治時代級の古建築はそこそこ多い。
       (以上「Wikipedia」参照)

 車も人も通らず、先ほどの強風が嘘のように静かで、のんびりと周囲の眺めながら散策できます。旧街道の街並みらしい雰囲気を味わえます。

樹齢200年といわれる椿の木。

広い屋敷と門構えのすばらしいおうちが目立ちます。
    

 (12:20)街道は突き当たりを右に直角に曲がりますが、正面には「金龍寺」。新田氏の菩提寺となっています。この付近までが「旧若柴宿」だったようです。

 元享元(1321)年に新田義貞によって上州(群馬県)太田に創建され、義貞の死後、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺域を整えたとされています。天正18(1590)年、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったとき、寺も一緒に移ってきました。天保年間(1830-1843)に火災に遭い、安政5年(1858)に再建されたものが、現在の本堂。

真向かいにお蕎麦屋さん「田舎庵」。現在は営業をしていないようです。

来た道を振り返って望む。

まだしばらく立派な門構えのおうちが続きます。

 左手奥には「星宮神社」。社前に「八坂神社」にあった「若柴宿案内図」が設置されています。
    

「若柴宿」方向を振り返って望む。
                                         すてきな街並みです。



1880年代のようす。牛久沼・湿地帯の東の高台に街並みが形成されています。



現在のようす。牛久沼南部付近が様変わり。中央下に常磐線・佐貫駅。田んぼは相変わらず健在。

 この先、県道を横断して「牛久宿」方面へ進みます。
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取手~藤代~若柴~牛久。その3。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-14 20:33:33 | 水戸街道

 「文巻橋」は左側に歩行者専用の橋があります。渡ったあとで道路の向こう側に行きます。が、行き交う車が絶えないため、なかなか大変。近くに横断歩道もなさそう。やっとの思いで向こう側に。しばらく進んで旧道に復帰します。途中右手に「慈眼院」。対岸の藤代側の「熊野神社(八坂神社)」と対応しているようです。

(11:22)正面の細い道が旧道の一部? 

地域的には「龍ケ崎市」に属します。

 しばらくすると旧道は「牛久沼」からの水路で途切れてしまうので、右に曲がり、常磐線の踏切を越えます。「竜ヶ崎街道」という名前の踏切になっています。
    

 右手奥に牛久沼排水機場」が見え、一帯はお花畑になってのどかな雰囲気の川辺になります。
    

 (11:28)その先に「往還橋」(旧街道に関わるネーミングです。橋そのものは少し下流につけ替えられているようですが)。
 

    

 「水神神社」付近で旧道に復帰、県道まで静かな住宅地を歩きます。
    

 (11:41)県道に合流した後、「馴柴小入口」で左折します。右手角に小さな屋根に覆われた道標があります。摩滅していて判読不能。資料によると「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」とあるようです。
    

 その先、「関東鉄道竜ヶ崎線」の踏切を越えます。
    

 少し進むと、モダンな校舎の「馴柴小学校」脇に出ます。学校先のT字路に「道標」と「解説板」(11:48)。
    

市指定文化財 道標
 江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。
 初期の水戸街道は我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に来る街道(布川道)と取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り、小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの道の合流点に現在の市立馴柴小学校の北東東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里 江戸十三里 布川三里と通じる方角とそれぞれの里程が刻まれている。裏面には「この若柴駅街道の碑は文政9年(一千八百二十六)12月に建立した。三叉路で旅人が迷いやすいので若柴宿の老人が相謀り、普門本を読と彫誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた(意訳)」とあり、15名の村人の姓名が記されている。
 明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼淵の道路が開通した、そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(「宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)の碑として、往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである。
    






「若柴宿」方向。

 (12:00)強風に煽られそうになりながら、田んぼの中の道を進みます。
    

一面に枯れススキ。

 (12:06)「大坂」を越えると、いよいよ「若柴宿」。
    
                           「大坂 これより旧若柴宿」。

左手に「椿の小径」という案内板。
    
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取手~藤代~若柴~牛久。その2。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-13 21:37:47 | 水戸街道

 (9:41)「サイカチ」の木から20分ほど歩くと、小川にさしかかります。ひたすら直線の道を歩いてきます。
振り返って望む。

橋のたもとに道標。

   「水戸 十八里 江戸十一里 来應寺七丁」。
           


はるか一面、田んぼ。

まだまだ直線の道は続きます。

真夏じゃ歩けません。自販機もなし。

次第に沿道に民家。 

 (10:20)JR常磐線の踏切が前方に見えてきます。
    

踏切の名称に「旧陸前浜街道」とあります。

藤代駅方向。                                   取手駅方向。
    

 「国道6号線・谷中本田」交差点を越えて、「藤代宿」へ。
    

 (10:34)まもなく道は直角に右に曲がります。その手前、右手の角には立派なおうち。
    
 「坂本呉服店」が奥に昔ながらの屋敷を構えて、お店を開いています。

その前にも商家があります。

左手の角には「相馬神社本殿」。龍の彫刻が見事だそうです。

 その先、「藤代公民館」はかつての本陣跡。建物はなくなったが、当時の「本陣松」と「サルスベリ」が公民館脇に移築されている、とのことでしたが、あいにく耐震工事中で中に入れません。


藤代宿
 水戸街道千住宿から6つ目の宿場町。現在の茨城県取手市藤代・片町付近。
 藤代宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、藤代宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 藤代宿は、宿場町としてはひとまとめで扱われることが多いものの、内部では江戸側(藤代庁舎側)の藤代宿と水戸側(藤代駅側)の宮和田宿に分かれていた。本陣などの宿場町としての役務も持ち回りとなっていた。藤代宿側の本陣は、現在の藤代中央公民館となっている場所にあり、名主は飯田家が代々務めた。戦中も被災せずに残っていたが、1950年2月に昭和の町村合併で誕生した旧北相馬郡藤代町の庁舎建設のため取り壊された。その後、この地に本陣があったことを記した看板が本陣の玄関前にあった百日紅の木と共に設置された。
 なお宮和田宿にも本陣が置かれていたが、記録が残されておらず詳細は不明。

本陣玄関脇にあった百日紅と本陣跡の看板

                                    (以上、「Wikipedia」参照。写真も。)
そこから宿内を望む。

 まっすぐに進み、道なりに左に曲がって、「宮和田」地区に入ります。

(10:47)来た道を振り返って望む。写真の左奥が「藤代駅」。

 藤代駅のベンチで小休止し、再開。

直線で続く「旧宮和田宿」の街並み。

小さいながら重厚な印象のおうちがあります。

現代的な建物の中に昔風の建物。

 旧街道らしい建物はほとんど見当たりません。振り返って望む。


 県道は左にカーブしますが、旧道はそのまま、まっすぐ「小貝川」の土手に向かいます。


    
                 「小貝川」。上流には「文巻(ふみまき)橋」。

土手から「宮和田」地区を望む。

(11:16)「文巻橋」を渡って対岸へ向かいます。

 古くは小貝川の川筋が下総国と常陸国の国境でした。旅人は「宮和田の渡し」と呼ばれる渡船によって小貝川を越えました。「宮和田の渡し」は、現在の文巻橋の100m程下流にあったようです。



 現在のようす。上にある橋が「文巻橋」。下が常磐線。中央斜め左に旧道。「小貝川」で分断されているが、対岸に旧道の痕跡あり。



 1880年代のようす。流路が現在よりも西寄り。対岸の街道筋に集落があった。
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取手~藤代~若柴~牛久。その1。(「水戸街道」をゆく。第3日目。)

2016-12-12 18:47:32 | 水戸街道

 「水戸街道」をゆく。第3日目。12月10日(土)。快晴。空は真っ青。しかし、寒風(この辺りだと「筑波颪(おろし)」とでも表現するのでしょうか、強風が吹きすさぶ一日でした。
 「東海道」の旅。静岡では強い西風に向かって進みましたが、今回は北風。土地によって吹く風の向きは違います。

 (8:58)前回の最終地点、「取手宿本陣」からスタート。
 取手宿から次の藤代宿までは、利根川と小貝川の氾濫などで、本通り、中通り、椚木廻り、大回りの4本の街道があったとされています。今回の旅では、一般的に歩かれ、道標が随所にある「本通り」を歩くことにします。

 旧街道筋らしい古い町並みが所々に残っています。
    

商家らしい佇まい。

(9:05)「八坂神社」を過ぎ、県道を左に入っていきます。振り返る。

しばらく進むと、左手に「水戸街道」道標。「江戸与利十里八丁」。そのすぐ左手に「阿夫利神社」。
         

(9:13)旧道は右に曲がって県道を渡ります。
振り返って望む。

この道は周囲より一段と高くなっていて、「利根川」土手に向かいます。

(9:19)「利根川」の堤防に近づいたら、左の道に入ります。風強し。
    

静かな道を期待して。

左手に「吉田八幡神社」。

利根川の土手。散歩する姿。

 しばらく住宅街を歩きます。車も通らずのんびりといかず、風が強い。広い敷地と大きなおうちが目立ちます。
    

振り返って望む。

しばらく進むと、先ほどの道標と同じ道標が「サイカチ」という木の下にあります。
    
                                     「江戸与利十里二十二丁」。

    

サイカチ
 樹高17m 幹周り2.3m 推定樹齢 202年
 水辺を好む樹木であり、吉田地区は適地といえる。さやは30㎝位になり、若いさやはつぶして洗剤にトゲは利尿剤や解毒剤として利用された。

 見上げると、枯れたさやがけっこう残っていますが、分かりにくいので「Wikipedia」から。

 (9:30)この先は、田んぼの中の一本道。
    

 田んぼの向こうには筑波山。穏やかな風景(実は激しい風に吹き飛ばされそう) 
          

    
    
 1880年代のようす。                       現在のようす。→が水戸街道。

 但し、1180年代の地図(「歴史的農業環境閲覧システム」より)では「陸前浜街道」は、通称「中通り」と呼ばれた道となっています。「本通り」の西側、田園地帯の西縁を進んでいるようです。


1880年代のようす。
 右の直線が今回歩いた「本通り」、西の曲がりくねった道が「陸前浜街道」(中通り)。


現在のようす。
 本通りはほぼかつてのままだが、「陸前浜街道」(中通り)は定かではない。
コメント
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