おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「西浦和」駅~「指扇」駅。その1。横堤。田島ヶ原サクラソウ自生地。(「荒川」を遡る。第2日目。)

2021-03-31 22:01:45 | 荒川を遡る

         今回から、「《荒川》を遡る」の続きを。

         3月20日(春分の日)。晴れ。

         「西浦和」駅を出て、西に向かい、「彩湖」の北端へ。ここから出発。

下流を望む。

「彩湖」案内板。

「荒川第一調節池竣工記念碑」。

菜の花が咲く堤。

実はこの堤、「荒川横堤(よこてい)」という堤です。以下、「Wikipedia」による。

・・・

横堤の特徴として本堤に対して横方向に築かれた堤防であることが挙げられる。横方向に築かれた堤防は、かつて旧熊谷堤に存在した万平出しがある。万平出しが築かれた当時は関東流の堤防であり、増水時には対岸の堤防決壊を引き起こし紛争の種であった。紀州流を取り入れ広い河川敷を設けることにより、遊水機能と流量調節がある横方向に築かれた堤防こそが横堤であり、荒川独特の治水施設である。そのため2008年度、土木学会選奨土木遺産に選定された

横堤

27本の横堤(右岸側13本、左岸側14本)が建設され、2017年現在25本の横堤が存続されている開平橋より上流側は右岸側に造成され、それより下流側は主に左岸側に造成されている。横堤の位置は交通要路である県道と一致させたため、橋梁の接続部分となっている横堤も少なくない。

彩湖道満グリーンパークの北側に現存しているが、先端部分は彩湖にかかるため削られている。

写真の堤が、上記の「横堤」です。この後も、こうした「横堤」を見ることになります。

この先、この横堤の脇を進んで、荒川に近づこうとしましたが、護岸工事のため、通行止め。ぐるりと迂回して進むことになります。

そのまま、荒川の流れを直接見ることなく、歩き続けます。(この時点ではまさかそうなるとは思ってもいませんでした。)

その後、荒川の土手(本堤)を左奥遠くに望んで歩きますが、近づけるような道は護岸工事のため、通行禁止。結局、この日は一回も荒川の流れそのものを見ることなく、歩くことになります。

「荒川」に合流する「鴨川」。

「さくら草橋」。

                

「昭和水門」。

一番のお目当て、「さくら草公園」に。

「秋ヶ瀬橋」。

車道から下って行くと、「国指定天然記念物 田島ヶ原サクラソウ自生地」。

 

                                    碑の足もとに「さくら草」。

                                                  

一面、広大な敷地。

遠くに「さくらそう水門」。一面、ノウルシの花。その間にちらほらとさくら草が可憐な花を咲かせています。自然のままのようす。

解説板。「田島ヶ原サクラソウ自生地」。

国指定特別天然記念物「田島ケ原サクラソウ自生地」
天然記念物指定 大正9年7月17日
特別天然記念物指定 昭和27年3月29日
サクラソウが群生する田島ケ原は、わが国で初めて天然記念物に指定された由緒ある場所です。
広さは第一次指定地と第二次指定地とを合わせて約4.12haあり、そこに100万株以上とも言われるサクラソウと、250種余りの野草が生育する国内最大規模のサクラソウ自生地です。
サクラソウの生育地は、冷涼な気候の山地や高原に多く、ここ荒川低地のように標高の低い温暖な地に大群落を発達させている例は少ないのです。田島ケ原は夏・秋には人の背丈を超すオギやヨシが茂る原野になります。昔、人々はそのオギやヨシを茅葺屋根や葦簀に使うため、冬に刈り取ったので、春には地面に日差しが良く当たりました。このことが、春から初夏に日差しを受けて育つサクラソウとうまく一致して、大繁殖したのです。現在は、冬に火入れや刈り払いを行い、春に地面に日差しが当たるように管理しています。
かつて荒川流域にあった多くのサクラソウ自生地が、開発などで失われた今日、大都市近郊に往時の姿を留めて残っていることは奇跡ともいえます。また、江戸時代には荒川流域のサクラソウを原種として、多彩な園芸品種が育てられました。その遺伝情報を田島ケ原のサクラソウは保持しているのです。
以上の理由で、「田島ケ原サクラソウ自生地」は、世界的にも貴重な存在となっています。

 

サクラソウ自生地としては唯一の国指定特別天然記念物です。
・・・
約4.1ヘクタールの指定地には、サクラソウをはじめ、ノウルシやチョウジソウなどの希少な植物も生育しています。
埼玉県の花、さいたま市の花「サクラソウ」は、この田島ケ原のサクラソウに因むものです。
田島ケ原のサクラソウは、例年3月下旬から咲き始め、4月上旬から中旬にかけて見ごろを迎えます。

(この項、「」HPより)

サクラソウ、ノウルシの他、さまざまな草花が咲き乱れるようです。

足もとにサクラソウ。少し時期が早かったようです。

奥の方にサクラソウ。一面、「ノウルシ」。

ノウルシ(野漆 学名:Euphorbia adenochlora)は、北海道から九州の河川敷湿地に生育する高さ30 - 50センチメートルほどの多年草。和名の由来は、に傷をつけるとウルシ(漆)に似た白乳液が出ることからきている。有毒植物の一つ。

苞葉と花序

葉の形は、楕円形ないし披針形で縁に鋸歯(ギザ)はなく、生え方は、互生。茎先に輪生した5葉をつけ、その葉の脇から5本の散形枝を出し、その先に杯状に3つの総包片をつけ、各総苞片の腋から細枝を出し、その先に更に2つの黄色い苞葉を出し、またその腋から各々細枝を出し、花序という淡黄色の1本の雌蕊からなる雌花と1本の雄しべからなる多数の雄花が頂生する。1つの総苞の中に6つの所謂「花」が咲いているように見える。この黄色く花びらのように見える杯状の総苞の中に1つの雌花と多数の雄花が収まった様子を杯状花序という。果実(蒴果)には、イボ状の突起がある。

(この項「Wikipedia」参照。写真も。)

                

この周辺、自然の景観がよく保たれています。

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2021春。隅田公園。墨堤通り。(3・29)。快晴。散る春を惜しむ。その2。

2021-03-30 19:32:45 | じじばばがゆく

        オオカンザクラは、見事な葉桜に。

土手への階段も花びらで。

ソメイヨシノ

              

古木が多い。それでも満面の花。

             

足もとの花びら。

一面に積もった花びら。

              

昨日の嵐で吹き寄せられ、

記念碑にも散り注がれ、

                

隅田公園。

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2021春。隅田公園。墨堤通り。(3・29)。快晴。散る春を惜しむ。

2021-03-29 19:47:55 | じじばばがゆく

昨日は春の嵐。そして今日の隅田公園。墨堤通り。満開を迎えたサクラも散り始めています。

                                               

オオシマザクラはすっかり葉桜に。

首都高下のソメイヨシノも青葉が目立つように。

    

             

ソメイヨシノ以外のサクラはほぼ葉桜に。

        

イツカヤマ(早晩山)

               

ヨウコウ

                

散った花びらの下に「サクラソウ」が何輪か。

                

その中で、ベニユタカは満開に。

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2021春。墨堤通り。隅田公園。《3・24快晴。3・25花曇り》その2。

2021-03-26 20:08:55 | じじばばがゆく

                  「隅田公園(墨田区側)。

                ソメイヨシノ

ゲンペイモモ。

                  

ヤエシダレ

                

    

「墨田区役所」。左奥が「アサヒビール本社」。

  広場には親子連れや若者たちが。

アーコレード「長命寺桜餅」脇。

英国でオオヤマザクラとコヒガンの交配により育成された品種。英国での開花期は春とされているが、日本では春と秋(9~11月)の二季咲きとなっています。花が大輪で花色もやや濃色の美しい品種。

                 

オオシマザクラ                     

ヤマザクラ「墨堤通り」沿いに1本。

               一輪。

古来日本人に最もなじみが深かったサクラ。江戸時代後期にソメイヨシノが開発されて現在の主流になるまでは、花見のの対象は、主にヤマザクラであった。そのため和歌にも数多く詠まれており、「吉野の千本桜」とは、このヤマザクラを指していた。野生種のため個体間の変異が比較的大きく、同一地域にあっても個体ごとに開花期が前後する。したがって、栽培品種でクローンのため同一地域では一斉に咲くソメイヨシノとは趣が違っていた。

サクラの中では非常に長寿の種であることが知られており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜や樹齢1500年を超える淡墨桜、樹齢1000年と言われる樽見の大桜、その他にも樹齢300年を越える石割桜などが有名である(いずれも国の天然記念物)。

向島歴史散策案内図

「見番通り」脇の小学校記念植樹タイハク(太白桜)

タイハクは日本原産のサクラであるが、一時的に日本で失われてイギリスから逆輸入することで日本で復活したサクラである。タイハクのようにイギリスから日本に里帰りして日本で復活したサクラにはホクサイがある。タイハクやホクサイは海外に持ち出されたことで絶滅を逃れたが、それ以外のカンザンなどの多くの古くからあるサクラの栽培品種は、明治時代に荒川堤に移植されたことで、その命脈を現在に繋ぐことができた。(以上、「Wikipedia」より)

 

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2021春。墨堤通り。隅田公園。《3・24快晴。3・25花曇り》その1。

2021-03-25 20:38:10 | じじばばがゆく

            「墨堤通り」。ほぼ満開。

            ソメイヨシノ。 

               

水上バス。

              

隅田公園(浅草側)。ミヤコドリが一羽てっぺんに。

              墨田区側を望む。

オオシマザクラ(「長命寺桜餅」脇)

            

             ソトオリヒメ

センダイヤ

  シロタエ

ヨウコウ(「墨堤通り」・首都高下。)

                             

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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その7。彩湖・道満グリーンパーク。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-24 20:36:47 | 荒川を遡る

菜の花。

「荒川」本流の流れ。モーターボートがいくつか。

右手に「彩湖」、「幸魂大橋」。

左手の河川敷は「ゴルフ場」。

樹木などずいぶん整った印象のゴルフ場。何組かゴルフを楽しんでいます。

ゴルフ好きな息子に言わせると、「河川敷か、安くていいけれど。①風が強い。②地面が固い。③日差しを避けられない。夏は死ぬよ。・・・、とさんざんですが。

これまで見た中では、いちばん雰囲気はよさそうな。

右手は「彩湖」。湖畔の向こうに大きな公園が。

「幸魂大橋」をくぐります。

          

左手奥に見えるのは「朝霞水門」。

朝霞水門・朝霞調節池は、新河岸川の洪水を一時的に貯留することにより下流区間の河川流量を低減し、新河岸川からの洪水による浸水被害を防止するための施設。

振り返って「幸魂大橋」を望む。

その先で、土手を下って行きます。

             

土手はこの先、「通行止め」。

「彩湖」の中央付近にある橋「管理橋」を渡って、「彩湖・道満グリーンパーク」に向かいます。

彩湖案内板。

  「管理橋」からの「彩湖」。上流方向。

下流方向。

広大な公園の案内図。

交通案内図。

初めて来ました。緊急事態宣言発出中なので、人出は少ないですが、野球・キャンプ等けっこうな賑わいです。

図のようなコースで歩き、最寄り駅のJR「西浦和」駅へ。

バーベキュー広場。閑散としている。

そこで、何枚か写真を紹介。

 

         

                 

(以上、「」HPより)

「ヤクルト戸田球場」を横目に見て土手(これが「荒川」の本堤としての「周囲堤」)を上る。

実は、この先、西浦和駅までけっこう歩きました。

次回は、西浦和駅からです。

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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その6。荒川第一調節池排水門・彩湖。幸魂大橋。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-23 20:00:05 | 荒川を遡る

「荒川第一調節池」(荒川洪水時の被害に備えた調整池)の排水門が見えてきます。

なお、調節池内には、彩湖(貯水池)があり、周囲が整備されて、大きな公園「彩湖・道満グリーンパーク」となっています。

 

「笹目橋」方向を振り返る。

「荒川左岸 29.2㎞」。奥に見える吊り橋は、「外環道」の「幸魂(さきたま)大橋」。

※「外環道」は、つい最近、トンネル工事ルート上にある東京都調布市の住宅街で、陥没や空洞が発生するという事態に。この問題を受け、東日本高速道路はシールドマシンによる掘削工事を一部区間、今後2年間凍結し、地盤補修を優先する方針を固めたようです。関越道と東名高速をトンネルで結ぶ事業の完了は、大幅に先送りされる事態に。

(この項、「東京新聞」より)

奥が「荒川第一調節池排水門」、手前が「荒川左岸南部下水処理場放流渠樋管」。

奥に「幸魂大橋」。

斜張橋の形状。塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造のものである。ケーブルを利用し吊って支えることから、広義には吊り橋の一種と言える。(「Wikipedia」より)

葛飾区には、同じような構造の橋で、「葛飾ハープ橋」というすてきな橋があります。

首都高中央環状線の綾瀬川と中川の合流地点にあり、葛飾区四つ木と新小岩を結ぶ。世界初の曲線斜張橋。さらにその曲線はS字を描き、路面には勾配もあるため、2本の主塔は高さがそれぞれ65 m、29 mと異なるという特殊な形式。その曲線と48本のワイヤーが織り成す姿から、楽器のハープに見立てて、公募により「葛飾ハープ橋」という名がつけられた。 

 

 

・・・「彩湖」周辺は、野鳥や野草などが観察できるところです。

                

 

 

         「荒川第一調節池排水門」。              

釣り場としても人気があるようです。

「彩湖」を望む。

菜の花が一面に。 

下流を望む。

の先は「彩湖」と荒川との間の「囲繞堤」を進むことにします。

※「囲繞堤」=河道内の遊水地を堤防で仕切って調節池とする場合、その仕切りに作る堤防のことをいい、                     その外側の本堤を「周囲堤」という。

                                   ↓が排水門。上に「彩湖」、左下が「荒川」。              

(「今昔マップ」より)

○で囲んだ部分がかつての流路。

以前の「荒川」は関東平野に流れてきた後、広大な河川敷(湿原、荒れ地等)を有し、本流はかなり曲がりくねった流路

でした。

そのため、ひとたび洪水が起きると、周辺地域に及ぼす影響は甚大でした。そのための流路改修が盛んに行われました。

少し上流の右岸にも、かつての曲がりくねった流路が残されています。

「隅田川」(けっこう曲がりくねっている)の洪水・高潮から東京東部下町一帯の被害を防ぐために「荒川放水路(現荒

川)」が開削されました。

荒川中流でも、そうした流路変更(開削)や調節池建設がなされているわけです。

この先でも、長い区間にわたって、大がかりな護岸工事が進められています。   

       
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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その5。戸田競艇。笹目橋。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-22 21:02:19 | 荒川を遡る

                      「海まで26㎞」。

右手の土手下には桜並木。

 人出も少なく。

ボートをこぐ姿が。

「海まで27㎞」。

戸田ボートレース場(戸田競艇)」が右手奥に。

この日は開催日ではないようですが、モーターボートのエンジン音が聞こえてきます。

            

(「Googleマップ」より)

関東には「江戸川」、「平和島」、「多摩川」、「桐生」、「戸田」とあるようです。全くご縁はありませんが。

「戸田」は以下の駅より無料バスが運行中。開催日にはさぞかし賑わうことでしょう。
・JR埼京線戸田公園駅
・東武東上線成増駅北口
・JR京浜東北線川口駅西口
・都営地下鉄三田線高島平駅

「荒川」を河口まで下ったときに「荒川」と併行する「中川」に開設されている「「江戸川競艇」を土手の上から見たことがあります。


江戸川競艇場
開催日ではなかったので、一艇だけ走行していました。
 1955(昭和30)年8月初開催。江戸川区にある競艇場ということから江戸川の名を冠しています。現在、全国で唯一、河川の水面を利用した競艇場。河口に近い位置にあるので水質は海水。川の流れと上げ潮や下げ潮による水位の影響を受け、全競艇場の中で屈指の難水面として知られている、とのこと。中堤から無料観戦できる。

・・・

荒川の河川敷は「荒川親水公園」。

「笹目水門・笹目川排水機場」。

                   「笹目川」。

「解説板」。

「海まで28㎞」。

この先にある「笹目橋」を渡ると、対岸は板橋区。都営地下鉄・三田線の終点「西高島平」駅まで1,640m

このまま上流に進みます。

「笹目橋」の先。対岸は、埼玉県和光市に。

「笹目橋」をくぐり、上流へ。ツーリングの人もいったん土手下を。

 遠くに大きな水門と吊り橋形式の橋。

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3月19日。友引・三隣亡。今朝の隅田公園。「朝日に匂う桜花」。サクラ。菜の花。

2021-03-19 18:57:22 | じじばばがゆく

さて、三隣亡とは?

三隣亡の由来は全く不明で、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったかは判明していないが、江戸時代に入ってから確立されたとする説が有力とされている。実際、三隣亡は、江戸時代よりも前の古い暦注解説書には書かれておらず、江戸時代になってから見られるようになっている。

江戸時代の本には「三輪宝」と書かれ、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていた。すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになる。これがある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかとされているが、真偽は不明である。後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで同音の「三隣亡」に書き改められた経緯がある。

三隣亡と建築

三隣亡は少し前までは建築関係者の大凶日とされ、棟上げや土起こしなど建築に関することは一切忌むべき日とされた。その字面から、この日に建築事を行うと三軒隣まで亡ぼすとされたためである。現在でも、棟上げなど建築に関することの凶日とされ、建築関係の行為は避けられることが少なくない。「高い所へ登るとけがをする」と書いている暦もある。

(この項、「Wikipedia」より)

月に2回あるようで、今月は31日(水)も。

ということで、今朝の隅田公園。曇り空のため、咲き始めたサクラもさえない写真ですが。

「エドヒガン」。

なんといっても、「朝日に匂う桜花」という如く、朝日に照り輝くサクラが一番。

と、つい書きましたが。実は、この一節。もともと本居宣長の作「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」によります。

それが、軍歌「陸・海軍礼式歌」の一節となり、

朝日に匂う桜花
春や霞める大八州
紅葉色映え菊香る
秋空高く富士の山
昔ながらの御柱と
立ててぞ仰ぐ神の国

・・・

《作詞 本間雅晴 作曲 佐藤長助》

また、特攻隊の名称「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」「敷島隊」にもなった、という曰く因縁のある歌です。

※「にほふ(匂う)」=鮮やかに色づく。色が美しく輝く。照り映える。

※「本間雅晴」=太平洋戦争においてフィリピン攻略戦を指揮した。英国通の人道主義者であったことは米軍にも知られているものの、戦後は「バターン死の行進」における部下の行為の責任を問われ、銃殺刑に処された。

・・・

「ヨウコウ」。

「オオシマザクラ」。

「オオカンザクラ」は既に葉桜ですが。隣には。

  健気にも。

             

「ソメイヨシノ」。

             

 

 

むしろ足下には菜の花や他の草木が、春の訪れを。

      

 

                      

そして「雅」。既に満開。

                        

午後から晴れてきました。「ソメイヨシノ」が一斉に開花する勢い。

そして午後4時過ぎの隅田公園。

浅草側の隅田公園では。枝垂れ桜とスカイツリー。

                           

こちら側もまだ。

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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その4。戸田漕艇場。幻の東京オリンピック。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-18 21:44:46 | 荒川を遡る

        右手に「戸田公園」が広がります。

    

漕艇場を中心に、東西約2,500m、南北約300mと細長く、荒川を隔て、東京都板橋区に接しています。
前身は、昭和12年から15年に建設された、日本最大規模の人工静水コースを備えた「戸田漕艇場」でした。
昭和39年10月開催の東京オリンピック漕艇競技会場に決定したことから、昭和37年に県が公園として都市計画決定し、漕艇場の拡幅や周辺施設の整備を行いました。
オリンピック終了後の昭和39年12月に県営公園として開設され、平成16年には「彩の国まごころ国体」のボート競技会場として使用されました。

(この項、「彩の国 埼玉」HPより)

2010年代のようす。直線のコースが東西に延びています。左端は「戸田ボートレース場(戸田競艇)」。

戸田競艇

戸田公園内のボート競技コース・戸田漕艇場の西端にあり、漕艇場を含めた水面は1940年の幻の東京オリンピックのために整備されたものである。後に1964年東京オリンピックでボート競技の競技会場となったため1962年から開催が休止され、一時は当時の公営競技を取り巻く状況から再開が危ぶまれたが、1965年より再び開催されている

(この項、「Wikipedia」より)

1880年代のようす。この当時は、「旧荒川」堤下の河川敷で、畑や荒れ地でした。

上記にもあるように、この「戸田漕艇場」全体は、実は、1940年の東京オリンピック(開催中止となった)のために整備されたことがわかります。

(「今昔マップ」より。左図は、1945年当時の地図、右図は現在)

↓が整備された「戸田漕艇場」。荒川が大きく流路変更され、幅広く直線化される工事に合わせているようです。右図の○は旧荒川の痕跡。

ところで、今年開催予定の東京オリンピックのボート競技会場は?

海の森水上競技場ース

 中央防波堤埋立地の内側と外側の間の水路を利用して建設された全長2300m(2000m*8レーン)、幅200メートルのコース。したがって水質は海水。施設内の波を抑えるために、コースの両端に水門と揚水機を配置し水位のコントロールを可能にしているほか、スタンド側の岸壁には消波装置が設置されている。

屋根付きの観客席は2千人収容。オリンピック開催時には、仮設席を増設して最大1万6千人収容規模となる。

課題《暑さ対策》

オリンピック会場の建設費を低減させる見直しの中で、仮設観客席は屋根の大部分が省略されることとなった。2019年8月に開催された世界ジュニア選手権は、オリンピック大会組織委員会が暑さ対策を試す重点大会の1つに指定。観客に冷却剤を配ったほか、アスファルトに打ち水をするなどの取り組みなどが実施されたが、観客からは暑さに対する苦情が出た。このことから、同年9月13日、追加的な暑さ対策を検討するため、観客席に降雪機で人工雪を降らせる実験が行われたが、気温は下がらず観客役の衣服や席がぬれるだけという結果に終わった

《今後》

オリンピック開催後は、主にボートの国際大会や練習場などとして活用する計画があるが、塩害による施設の早期劣化や消波施設をもってしても残る強い波により練習環境や競技大会に影響が生じる可能性がある。さらに、水門の管理コストなどから年間の赤字額は約1億6千万円に上ると試算されている

(以上、「Wikipedia」参照)

オリンピック自体も開催が? いったいどうなることやら? 

・・・

森発言に引き続き、東京オリンピック・パラリンピック開閉会式の演出の統括役を務める佐々木宏氏が女性タレントの容姿を侮辱するような構想を演出チームに伝えていた、とか(豚になぞらえて「オリンピッグ」。この方、元電通の関係者。アベをマリオに扮装させたのもこの人らしい。)。

ご本人は、「調子に乗りすぎた」。「辞任」で済ませようという関係者。

いよいよたががはずれた感じ。もうオリンピックどころではないんじゃないの?

・・・

「表に出る立場の渡辺直美として、体が大きいと言われることも事実ですし、見た目を揶揄されることも重々理解した上でお仕事をさせていただいております」ともコメント。「実際、私自身はこの体型で幸せです」と言い切り「なので今まで通り、太っていることだけにこだわらず『渡辺直美』として表現していきたい所存でございます」と堂々と思いを訴えた。そして「ひとりの人間として思うのは、それぞれの個性や考え方を尊重し、認めあえる、楽しく豊かな世界になれることを心より願っております」と呼びかけている。

(この項「」HPより)

 

いくつかボートが置かれています。

この付近の観光案内図。

のんびりと初春を味わう。

 

水上ボートを楽しむ。

「戸田橋」・新幹線橋脚方向を望む。

 

アメリカ大統領のバイデンさん。ロシアのプーチンさんを殺人鬼扱いするわ、中国を徹底的に批判するわ、ミャンマーや北朝鮮にも。当然、その発言にはそれなりの根拠はあるようですが・・・。

「領土問題があるので、ロシアとは。香港など人権や主権で問題のある中国だが、それはちょっと脇に置いておいて。北朝鮮とは条件を付けずに。ミャンマーはう~ん。でも、やっぱり韓国とは・・・」という自公政権の思惑をまったく介せず。

そうした中にあって、中国から「アメリカの属国になったのか」と非難されようとも、もともと戦後76年、アメリカの仰せに随ってばかりいた日本政府。4月にはバイデンさんと各国首脳の中で第一番目に会見することに大喜びの菅さん。

バイデンさんから「お前さんはどっちを向いているんだ、ロシアにも中国にもいい顔ばかりするな、お隣の韓国と仲良くしろ」てな談判の場になりそうなのに。

昔からアメリカ民主党政権は、外交・経済など、日本にはけっこう厳しく対処する傾向があるようだ。

東アジア情勢は、どうもきな臭い雰囲気。これで、北朝鮮のミサイル実験が再開され、日本の頭上を飛んできたら、コロナ禍も加わって、オリンピックどころの騒ぎではなくなる様相。こうして、二度目の「幻のオリンピック」となる?

コロナ感染もリバウンド状態だし・・・。「非常事態宣言」の解除も「打つ手がないから」だとか。国民は、一人ひとり、もはや自らの生命と暮らしは自らで守るしかない、究極の「自助」(菅の思惑通り)になってきた様相。

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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その3。戸田の渡し。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-17 21:37:00 | 荒川を遡る

                「戸田橋」のすぐ上流にあるグランド。

戸田橋を渡って埼玉県戸田市に。

こちらは東京都板橋区。

「国道17号線」の「戸田橋」は旧中山道歩きの時に渡りました。戸田橋を右に折れると、「戸田の渡し」の解説板があります。その時の記録を再掲載。

・・・

歴史のみち 中山道のご案内
 ここから階段を下り、東へ約130m先へ進むと、「歴史のみち 中山道」があります。
 中山道は、江戸日本橋を起点として慶長7年(1602)に整備が始められ、第一の宿場である板橋宿を過ぎ、次の蕨宿との間にあるのが荒川(戸田川)にあった「戸田の渡し」でした。
 戸田渡船場跡から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にその様子が描かれています。
 また、天保13年(1812)「中山道戸田渡船場微細御書上」によると、渡船場には家数が46軒あり、渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、街道筋には渡船にかかわる家々や旅人を相手に商う茶屋などが建ち並んでいました。現在もその様子が残っており、周辺には水神社や地蔵堂があります。
 
    
戸田の渡し

 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところに位置していました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。
 この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 
 また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。
 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

平成26年1月    戸田市教育委員会


        
         『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子である。対岸の渡し場に続く道の左右には戸田村の家々が見える。渡船権はこの村が握っていた。

                     1880年代のようす。既に架橋されている。

 

                     2010年代のようす。河川敷が広くなっている。

「中山道」の2番目の宿は、蕨宿です。

「蕨宿」。板橋宿から2里10町。町並みは10町(約1.1㎞)。天保14年(1843)の「宿村大概帳」では人口2223人、家数430軒。本陣2、脇本陣1、旅籠23軒。問屋場1、高札場1。

 地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別されます。
・「藁火」説
 源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、など。
・「蕨」説
 近隣にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」[7]などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、など。

 なお、「戸田の渡し」の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれました。

 蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていました。 この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていました。
 古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残しています。

国道の喧噪から落ち着いた宿場歩き。道も茶色に。

「観光案内図」。

・・・

荒川の流れ(上流方向)。

埼玉県戸田市に入ります。

今度は、荒川左岸を進みます。右岸方向を望む。

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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その2。埼京線。浮間公園。旧荒川。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-16 22:18:44 | 荒川を遡る

              両側の河川敷にはゴルフ場が広がっています。

                 

護岸工事が進む。

浮間地区。JR埼京線と新幹線が並んで走る。

埼京線

東北新幹線高架を建設するのに伴い、これに並設する形で新線を同時に建設し、この新線と既存の赤羽線を接続して、埼玉県南部と赤羽駅板橋駅を経由して池袋駅とを結ぶ新路線として設置。その後、山手貨物線への乗り入れにより新宿駅恵比寿駅へと徐々に区間が延伸され、2002年平成14年)からは大崎駅を介して東京臨海高速鉄道りんかい線相互直通運転も行われている。(以上、「Wikipedia」より)

振り返ると、遠くに「スカイツリー」(↓)。

相変わらずゴルフ場が続きます。

「海から24㎞」。

左、土手下。木の間越しに大きな池が見えます。

・・・

昭和60年に開通したJR埼京線の浮間舟渡駅前の水と緑、それが浮間公園です。

この公園は、面積の約40%が浮間ヶ池です。浮間ヶ池はかつての荒川の水流です。 釣りもでき、初心者や小さなお子様連れでも気軽に楽しむことができます。

湖畔には公園のシンボルとして設置された風車が映えます。

春には桜、ツツジ、梅雨時にはアジサイが美しく咲き、秋にはケヤキが美しく紅葉します。 また、初冬からはカモなどの渡り鳥が多く集まります。公園の奥(北側)の保護区になっているので オオヨシキリやコジュケイ、ウグイスなど、街中ではあまり見ることのできない小鳥の鳴き声が聞かれます。

この他、野球場、テニスコート、ジャブジャブ池、子どもの遊び場、水生植物園、冒険広場 などがあり、 フリーマーケットも開かれます。(この項、「北区」HPより)

この付近の今昔。

                      1880年代のようす。荒川が大きく曲折している。

                     2010年代のようす。左上が「浮間の池」。「新河岸川」が旧荒川の流路か?

「新河岸川」のもう少し上流沿いにある「舟渡水辺公園」。旧荒川の河道跡(蛇行跡)を入江として整備した親水公園。新河岸川沿いに位置し親水テラスがあるほか、健康器具が多く設置されているのが特徴。

(この項、「板橋区」HPより)

この付近の今昔。旧荒川の流路が新河岸川の一部になっていることがわかります。

1880年代のようす。左の↓が「舟渡水辺公園」付近。

2010年代のようす。入江(↓)が旧荒川流路跡。

東西の入江の間の建物は、昨年閉鎖された「日本製鉄東京製造所」。

前方は新幹線橋梁と「戸田橋」。

振り返ると、ますます遠くなった「スカイツリー」(↓)。

サッカーグランド。

戸田橋。

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JR「赤羽」駅~「西浦和」駅。その1。バーベキュー広場。子どもの水辺。(「荒川」を遡る。第1日目。)

2021-03-15 20:39:30 | 荒川を遡る

3月6日(土)晴れ。

JR赤羽駅から歩き、10時30分過ぎ。「旧岩淵水門」を望む土手からスタート。「戸田橋」まで右岸(北区、板橋区・・・)、その先は左岸(戸田市・・・)を進む予定。

周辺案内図。「新河岸川」との間の土手を歩きます。

       

土手下の「サイクリングロード」に。

「荒川岩淵関緑地バーベキュー場」。正面は「水位観測所」

 

                                                     

案内図。現在、臨時休業中。

賑やかな風景。ギッシリ。(「Googleマップ」より)

「新荒川大橋」。

川縁に向かいます。

この付近の地下を「埼玉高速鉄道」線が走っているらしい。荒川を横断する鉄道の中で、唯一地下で抜けています。

「北区・子どもの水辺」エリア。

         

左手は大きな野球場。土手の向こうが「新河岸川」。

釣り糸を垂れている人も。あまり手を加えていないようす。

向こうに見えるのはJR線の荒川鉄橋。

          

振り返って「新荒川大橋」方向を望む。

鉄橋付近では右岸堤防のかさ上げ工事。

マラソン大会開催中。北区や板橋区の主催でけっこうマラソン大会が開かれているようです。

「新河岸川」との土手。この先で「新河岸川」は左へ。

      埼京線と新幹線の橋脚が正面奥に。

下流を振り返る。高層マンションも遠くに。

 

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東日本大震災。福島原発事故。あれから10年。読書から。

2021-03-11 21:02:39 | 世間世界

南三陸町・防災対策庁舎。すっかり何もなくなった街並みに残されている。このあたりの地名として、「塩入」「塩見」がある。もともと津波が襲いやすい地域。そのための庁舎でもあったのだが(2013年2月撮影)。

未曾有の大震災から10年。このブログでも2年後に訪問した記事やその後の様子など何度か掲載していますが、今回は、《読書無限》で掲載した本をいくつか紹介。ただし、掲載当時のままの文章ですので、あらかじめご了解を。

初夏の色 橋本治


 三年前の「東日本大震災」。その傷も未だ癒えずにいる、その中で、生活する家族、そして一人ひとりの生き方。
 阪神淡路を超えてきつつあった多くの日本人が再び未曾有の災害に見舞われ、まして、福島原発事故に遭遇し、それまでの生き方、生活の見直しを余儀なくされた・・・。
 しかし、三年を経過し、原発の再起動路線が政治日程に組み込まれ(「日本復興」という大義名分のもとで)、いつしか風化しつつある(風化させられつつある)今日、改めて、三年前を振り返る。立ち止まって考え直す。そんな連作。最近の橋本さんらしい一代記風の慌ただしさで、家族の、夫婦の、親子の「絆」を、どこかで声高に叫ばれるものとは異なる切実な思いのこもったものとしてではなく、とらえ直していく。
 橋本さん自身、「面倒臭い病気になってぶっ倒れ、その後には大震災によって日本そのものが『立ち止まる』」状況に立ち至った」かなりやっかいな病気に冒された橋本さん。
 ・・・。身辺を巡る時間と空間を自在に操る橋下さんらしい切り口。

注:橋本治さんは、2019年(平成31年)1月29日、70歳で亡くなりました。

恋する原発 高橋源一郎

 刺激的過ぎる書。良識派からは不謹慎、いくら表現の自由があるからと言ったって、というような具合に。福島第一原発事故をモチーフにした作品は他にもあるだろう、ただし、小説的なものではなくて。これは、タカハシさんなりの(顰蹙文学としての)原発事故のとらえ方である。
(信じるしかなかった、信じ込まされた)安全「神話」が瞬時にして崩壊し、多くの地域・住民を巻き込んでの大惨事。
 現在の人間だけでなく、未来の人間(生まれてくるであったろう人々)の生存権までも奪ってしまった、現実。福島県の人口は(日本全体の人口が減少は、するのだが)20年後には事故前の50%~60%に減少するという予測も登場している。
 カワカミヒロミさんの「神様2011」によってタカハシさんが触発された、あるいは、『苦海浄土』イシムレミチコさんに語らせているように・・・、結局は脆弱に過ぎなかった、と一撃の下に暴露された日本という国土の、政治の、経済の姿をとらえ直している。
 そんなばかな!この小説だかなんだかわからない書き物は、たかがAVディレクターの世迷い言の世界。読むに堪えない下品な語句の羅列によって繕っただけのものではないか、という批判、あるいは無視、侮蔑・・・。それを甘んじて受けてもいいと居直って(そう計算して)読まれる作品。いや!痛快・痛快。
 人間の根源的な生の生き様をオブラートに隠していた世間、常識をあえて暴いて見せた、という言い方も実に通俗的ですが。
 これまで「神話」とか「物語」というきれいな表現で見失ってきたものをとらえ直す時期なのかもしれません。でも、物語を喪失させた時代からは、いったい何を見いだすことができるのか。そこを見据えたとき、「物書き」の真骨頂があると思います。
 すでに薄消しより、無修正のものが、あるいはますます過激になって巷に(まさにネット上に)出回っている現在、タカハシさんなりに、少しおとなしめに(わざと郷愁的に)描いた業界話でもあります。

 

神様2011 川上弘美

 1993年に書かれた短編「神様」。熊の神様が登場するお話。暑い季節、三つ隣の部屋に引っ越してきた「くま」に誘われて近くの川原に散歩にでかます。そこで出会った親子連れとの微妙にすれ違う会話、水に入って魚を捕るくまのようす、干物にしてくれる・・・。「いい散歩でした」、と。
 作者は、2011年3月末にあらためて「神様2011」を書き、「群像」6月号に掲載されました。その二つを合わせて一冊の本にしたものが、これ。
 川までの道の両脇に広がっていた水田もなく、川には親子の姿は消え、防護服を着た人物がいるのみ。荒涼とした風景の中でのくまとの会話。同じように魚を捕ってもその放射能含有量のことが常に話題になる。・・・
 川上さんは、日本のみならずこの地球上には人為的な神様もいれば、自然の神もいる。そういう様々の神様の存在、それらとの人間の関わり、相手から見た人との関係性、どちらも人間の都合から神様をとらえていくことへの傲慢さ。そうしたことを突いています。
 今は、むしろ自然の神様の側から人間の所行をどのように見ているか、特に地中深く眠っていた放射性物質を人間の欲望のために取り出し加工し、今回のような事態を生んだ近現代の歴史。神をも恐れぬ人類の営みへの警告、それを肩を張ったものではなく描いています。
 今回の原発事故、さらに原発再稼働を考え、行動する糧として一読をお勧めしたい。

がれきの中から言葉を わたしの〈死者〉へ 辺見庸

 米軍と一体化した、むしろ肩代わりすら当然とする「安保法制」法案。中国、北朝鮮の脅威をその根拠として、万一の場合にはアメリカ、オーストラリア、イギリスと共に軍事的行動に出ることの法制化。
 しかし、アベ達が具体的に挙げていた、イランによるホルムズ海峡の機雷封鎖云々も現実的ではなくなって、今度は南シナ海を挙げてくる。日本人を輸送する米艦が攻撃されたら云々も今や言い出さない。

そして、つまならいたとえ。

 「お前を殴るぞと脅かしている相手が隣にいる自分の友人を殴りかかってきたら、友人に加勢して相手を撃退する。」

 →そんな兆候があったら、先制的に相手を殴る行動を一緒に行う。むしろ友人の代わりにやっつける。

 「隣家が火事になったら、一緒に火事を消す。」

 →火事の原因となった放火犯を一緒に捕らえに行く。むしろ放火しそうな行動を起こすことをキャッチしたら、放火される前に積極的に相手をたたく。いな、友人に代わってやっつける。

→が「集団的自衛権」の実体的な行使になるわけ。でも、けっして言わない。「 」は、言葉遊びに過ぎないことは承知の上で。

 「友人(隣家)は、自分(我が家)に被害が及ばないよう、わざわざ体張ってがんばっているんだから」とも言う。でも、友人はそれほど体をはることはしない? 結局、「個別自衛権」の行使となり、自衛隊の出動となる。どちらにしても、自衛隊の海外派兵に結びつく。
 アベ達は、「自分や友人によけいなちょっかいをだしてきたら、このように戦うぞ」。これが戦争の抑止力になるのだという。しかし、これが本当の「抑止力」たりうるのか?
 アベにとっての究極の抑止力は「核兵器保有」。そう公言できないから次善の策として、「日米軍事同盟」強化と称し、「ガイドライン」など国会をないがしろにしてどんどん進めている(アメリカのいいなりに)。また、「安保法制」を先取りした合同軍事作戦行動訓練を展開している(沖縄のヘリ事故でその一端が暴露される)。
 さらに、何としても自前の国軍を持つことが究極の選択。それが憲法改正(悪)。これをめざして「譲るべきところは、(やむをえず)譲る。そうすれば支持率は回復する」、その典型が「総理談話」。
 そこへの「一里塚」(それどころか、何本もの法律を十把一絡げで提案するのだから、一里毎ではない、「一里塚」がまとめて築かれるようなもの。)が、今回の「安保法制」。もちろん「(憲法9条を廃棄しての)戦争の道への一里塚」。
 のんきに東海道・京都までの「一里塚」をたどるようなものとは訳が違う。

 『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』辺見庸(NHK出版新書)

 2011年(平成23年)3月11日。突如襲った「東日本大震災」。それによって、故郷石巻が壊滅的に破壊され、土地も人も生活も文化も伝統も、一切合切、一瞬のうちに失われた(失わさせられた)という痛切な体験の上に(それもその場ではなく、映像や風聞や友人・知人の切々たる言葉によって知らされたものであった)筆者の痛恨の思いを書き綴った書。
 「2011年4月24日に放送されたNHK『こころの時代 瓦礫の中から言葉をー辺見庸』で話したのをきっかけに全面的に書き下ろした、わたしなりの3.11論である。」(あとがき)翌年の1月に初版が出された。
 文章と写真と自らの詩による構成。そこには、郷里・石巻にとどまらず、その後明らかになった「福島第一原発」メルトダウンという衝撃を語る。「安全」、「神話」、「平和」・・・、言葉はいかに人間をだましてきたか。言語表現を生業とする筆者の自らを鞭打ち、自己批判し、それでもなお言語によって、人間の、社会の回復(これすらもまやかしの言葉だが)を思うしかない人間の業。
 とりわけ自らの命をずたすたにされ死んでいった多くの死者に(文字通り手も足も頭もバラバラにされて)、はたして語りかける言葉があるのだろうか。自問自答の末、振り絞っての言葉が真に迫る。辺見庸さんは、読者に何を語りかけているのだろうか?
 一人ひとりにとっての「東日本大震災」「福島第一原発」が問われている。

 「・・・すべてを震災ビジネスが吸収しつつあります。言葉はいま、言葉としてたちあがってはいません。言葉はいま、言葉として人の胸の奥底にとどいていません。言葉はいま、自動的記号として絶えずそらぞらしく発声され、人を抑圧しているようです。」(P182)

 戦後70年、アベの語る、戦争犠牲者への哀悼の言葉の止めどない軽さよ。我が身自らも自省しつつ。 

 「・・・われわれはほんとうのところは、言葉に真に切実な関心をもっていないのではないでしょうか。それは、かつて石原吉郎が指摘したように、人間そのものへの関心の薄らぎを示すものかもしれません。」(P160) 

辺見庸さんの作品をもう一つ。

死と滅亡のパンセ 辺見庸
 辺見さんの出身地が昨年の3月11日の大震災で壊滅した。その時まで行き来し、親しんでいた故郷。多くの人の命を奪い、懐かしい土地を一瞬うちに奪い去られたという現実の「出来事」への言語による痛切な総括。未来への言葉を紡ぐため自らを励ましながら、屈折した思いを語る。
 特に震災後の言論界が詩人も小説家も評論家も自己規制のもとで画一的な言動を吐いていることへの厳しい批判、ともすればそれに屈服してしまいそうな自らをも「叱咤激励」しながら言論活動。脳出血で倒れ、ガンに冒されまだまだ不自由な身体とも対峙しながら「闘う」作者のすさまじい「思い」をひしひしと感じる。
 以前から気になって読み進めていた作者であった。続けざまに病で倒れ、死というものに否応なしに向き合ってきた作者の言論活動。昨年の東日本大震災、福島第一原発事故、その直後、なすすべもなく右往左往した政治、経済・・・。それが人ごとではなく、自らのこれまでの生き様、言論戦への「総括」にもつながっていく、という視点。
 「よいひと」吉本隆明の言動批判、堀田善衛「方丈記私記」の記述作法批判など、また桜本富雄さんの文学者の戦争責任追求の諸作に関わって、震災以降の言論状況が新たなファシズムを内包していることへの指摘、さらには自身の詩集「目の海」にもふれながら渾身の(といっては失礼だが)の「パンセ」。「思い」とは、「思」であり「想」であり、人を含む生きとし生きるものへの「愛」(根源的な)である。
 
呪いの時代 内田樹

 2011年11月発行の書。ということは、「新潮45」誌上に2008年11月から不定期に連載してきた内容にプラスして、「東日本大震災」以後のものが加わっているということ。

 加筆修正があるとはいえ、第1章「『呪い』の時代」で提起した時代状況(「現在」に対する問題意識)がそのままより深まっていくことに驚く。11年以前と以後との筆者の、現在のとらえ方に大きな変化はない、つまり、「東日本大震災」とりわけ福島原発の未曾有の事故が起こったことで、よりいっそう2年半前から思索してきたこととのつながりを持つ、と。
 改めて2011・3・11以前と以後のスタンスに変化がないことに驚嘆する。それは、一貫して主張してきたことに間違いはなかったという筆者の確信でもある。特に、筆者自身が「阪神淡路大震災」を直接に経験したことが、より強い説得力を持っている。

 ますます「呪い」「呪われ」の様相を見せている社会情勢。特にメディア、左翼的な批判的態度への批判は鋭い。

 そうした中で、「呪い」から「贈与」という価値観をもとにした人間関係、社会的な関係を結ぶことによって社会の未来を見いだす、安定させていくことができる、このことを提唱しているが、今はそんな「悠長な」価値などなどは「くそ食らえ」の世の中。にもかかわらず、あえて「徒手空拳」的価値観をかかげる武闘家としての筆者の立場は一貫している。

 呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(P285 「あとがき」より)

 さて、世間はそう甘くはない。この書が世に出てからの4年間。自滅した民主党からアベ政権に移った後の政治、経済、文化状況はどうであろうか。 
 責任をとらない・認めない、反面、自らの主義・主張を数の多さで国民に強要し、(領袖様の恩恵を有り難く頂戴せよと)、メディアへ露骨に介入してもの言わぬ国民にさせ(物をいわせぬように仕向け)、一方でもの申す人々に対してレッテル貼りをし(呪詛し)、・・・。

 それでもなお、「贈与」の価値観を訴える筆者だとしたら、騎士道物語を読んで妄想に陥ったの主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語の主人公のようではある。
 が、この物語をもとにした「ラマンチャの男」の主題歌が「インポシブル・ドリーム」(邦題が「叶わぬ夢」でなくして「見果てぬ夢」)であることにまさに筆者は価値ある「夢」を託しているのだろう、と。

 それにしても、アベをはじめ、自民党の大西発言といい、百田発言といい、言いたい放題の果てに何が生まれるだろうか? さらに、新幹線での事件といい、箱根山の噴火といい、人間界も自然界も「呪い」に左右される現実がますます濃厚になっているご時世ではある。「丑の刻参り」を精神的・言動的に「人に知られるように」、それぞれの立場で皆が行っているかのようだ。そこで、神がますます怒りをなす。

 この時にこそ、筆者が提唱する、荒ぶる神々に対して、「鎮め」・「鎮魂」という具体的な行いが重要なのかも知れない。

 しかし、「福島原発事故」と同様に、生身の人間(同時代に生を営む人々)のささやかな願い・思いをせせら笑うように、思いがけない事態を作り出す。

 車両内に放火すると死者やけが人が出ることは想像がつく。新潟青陵大の碓井真史教授(社会心理学)は「無関係の他人を巻き込んで自死する『拡大自殺』を試みた可能性は否めない」と指摘。常磐大大学院の藤本哲也教授(犯罪学)は男が焼身自殺を選んだことについて「焼身自殺の背景には、特定の個人や社会に対する抗議の表明であることが多い」と話す。(「産経新聞」より)

人間が永遠に続くのではにとしたら 加藤典洋

 人は思索することで人間としてより深く変容する。とは思うが、突き詰めれば、言語活動としてとりわけ他者に向けて発信することによって、必然的に生じるアクション、リアクションの関係でより思索が深化する、という実に当たり前のことを思う。それはまた、外界の事物・現象に向かう(対処する・思索する)自らの体内作用、そして体外への発露としての言語活動ということになるのだろう。
 人は、そういう永続的な言語活動によって、自らをより次元の高い、あるいは次元の低い立場(あくまでも過去の自らにとっての)に置くことになるのだろう。評論活動というのは、たぶんにその成長と怠惰と停滞という進行の中にあるのだろう。そういう意味では、加藤さんだけでなく、内田さんも、高橋さんも、自らの発した言語によって打ちのめされ、励まされ、降りかかってきた火の粉に敢然と立ち向かって意図的に「変容」し続けるのだろう。読者としてはまさにその面白さがかの方々の評論活動にはあることを想う。吉本だとかの人達とは一皮も二皮も剥けていく、その興味が読者を誘うのだ。
何と自由なことよ!  西洋哲学に依拠した哲学者たちの不自由な言語活動に比べれば。 けっして皮肉ではなく。

 高橋さんにしてもその読書量は並ではない、世界へのアンテナの張り方も。加藤さんは、それ以上にすごい! 
 いずれにせよ、2011・3・11東日本大震災、とりわけ福島原発事故による衝撃を、どう自らの頭で体で評価する、大きく世界観が変わり、それまでの思索過程(評論活動への責任も含めて)を検証していく、そこ果てに新たな地平を切り開いていく、そのプロセスが赤裸々に語られていく、正直に。

 ・・・これから考えていく手がかりは、全くの「シロート」として、技術、産業、科学といった道の新しい領域に「非正規的な思考」を駆使して、抗いながら、踏み行っていくことだろう、
 ・・・私たちは、かつて革命について、戦争について考えたように、いまは技術、産業、事故について考えることで、ようやく世界で起こっていることがらとそれがさし示す未来とに、向きあうことができるという気がする。(本文あとがきP416)

 その思索の根底には、地球と世界が有限性を前にして、人類の新しい経験の核心にあるものはどのような試練か? がある。
 人間が人類であるとともに生命種でもあること、そのような人間観に立った場合、「いまある問題がどのように私たちの前に見えてくるかを見定めよ、それが私たちの最初の課題なのだ、と」(P402)
 そして、「贈与」の本質、原理を提示する。

注:加藤典洋さんは、2019年5月16日、71歳で亡くなりました。

 

他にもありますが割愛。5年、10年、この先も語りかける、語り続ける内容をもっている、と思う「読書感想」の一端です。

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3・10 「東京下町大空襲」から76年。

2021-03-10 20:29:07 | 平和

焦土と化した本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの(「Wikipedia」より)。

右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館※この建物は戦後、「「日大講堂」となる。1983年(昭和58年)老朽化が激しくなっていたため、解体。解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。)

「太平洋戦争」末期。昭和20年(1945)3月10日未明。米軍の絨毯爆撃によって、東京の隅田川東部の本所、深川、向島といった下町を焼け尽くしたときから、すでに76年の月日が流れました。このブログでも取り上げたことがあります。

①で掲載した府立三中(現両国高校)は、この時の惨禍を悼み、その後、3月10日には「卒業式」という晴れがましい催しを行わない伝統があったそうです。

掲載時期は、2009(平成21)年9月。そのうちのいくつかを。

①江東橋付近。旧制府立三中『百周年記念誌』より。

「江東橋」。大横川親水公園。
 東京大空襲。1945(昭和20)年3月10日未明。東京下町地区、現在の台東・墨田・江東区を襲った米軍による焼夷弾・無差別絨毯爆撃による死者、約10万人とも。その正確な死傷者の数は、いまだに分かりません。
 特に、本所深川地区は数万に及ぶ死者とたくさんの負傷者が出ました。ここは、もともと木造家屋が密集していた地域。次々と火の手が上がっていきましたが、四方から迫る炎で逃げまどう人々。その被災民の避難路を断ったのが、この地域に縦横に走る、隅田川などの河川・運河でした。
 逃げまどう人はこれらの河川にかかる橋に両側から殺到しました。橋の上で焼死する者、逃げ場を水に求めて川に飛び込む人。その水中もけっして安全ではなく、高熱の火流が川の上をなめるように渡ったといいます。また、3月中旬の真夜中、冷たい水の中に身を浸し、水死した者もいました。
 翌朝、隅田川など下町の橋の上や水中には、黒こげの死体や水死体が浮かび、地獄そのもの様相を呈しました。
 府立三中(現在の都立両国高校)は、錦糸町駅の南西、大横川にかかる橋・江東橋のたもと付近にある学校。この時の空襲で校舎の一部が 焼失することになります。当時、錦糸町駅の方向から西へ向かう避難民と両国方面から江東橋を渡り、三中に逃げ込もうとする人々は、校門から学校の中に入ることが出来ず、再び江東橋へ戻ろうとする人も多かったといいます。避難場所として多くの住民が避難して来る中、学校では、校長をはじめ教職員が必死に消火活動や避難民受け入れに当たります。この学校の「創立百周年記念誌」(2002年発行)には、当時の生々しい体験(当時の生徒達の声)がたくさん掲載されています。この日の真夜中の惨状、阿鼻叫喚の地獄を知ることが出来ます。
(その一)
 「一面の火の玉、火の塊は一体何が燃えているのであろうか。大きいのはドラム缶ほどの物体が炎を上げながら十数米の高さを飛んで行くのである。多分、火の勢いは既に北側は電車通りの向かい側、西側は江東橋の架かっている辺りまで迫っていたのではなかろうか。避難してきた人々の必死の叫びや、バリバリと物の燃える音、・・・」
 次々と校舎が延焼する中、南側に位置するプールに飛び込んで、凍るような冷たい水の中で一夜を明かし、命が助かった者もいました。一瞬の運・不運が、人の生死を分けました。

(その二)
 「人と煙に追われ、逃げ惑う群衆の中で私達家族はその波に呑み込まれた。家の近くの江東橋の上は火焔と熱風に追われる狂乱の大群衆、それはまさに煮えたぎる地獄の釜の中の様相である。人々は酷熱風火に耐えられず我先に厳寒の死の川へ飛び込んだ。私達家族も猛火に追われ次々に飛び降りた。母は、3歳の弟を背に身をひるがえした。幸い川岸の筏の上に助けあげることが出来た。
・・・その時岸辺の家々があっという間に猛火に包まれた。その熱気で我が身は湯気のかたまりとなった。焼け落ちた家々の向こうを仰ぎ見ると、我が母校は窓々から火焔と黒煙を吹き上げ炎上中であった。
・・・猛烈な火焔と火の粉は川面へ吹き付け、筏にも火が付いた。我々は必死で消火に努めた。呼吸はつまり、目ははれふさがりこの世の姿ではなかった。猛火と熱風との闘いもやっと終わり空も白んできた。3月十日の寒空に朝日が差し込んできたころ、辺りは完全に焼き尽くされていた。」

 この筆者一家は、幸いにも生き延びましたが、生きて夜明けを迎えた人は少数でした。三中の教員で、当日、宿直していた方は、十日朝の江東橋下(大横川)の惨状を「熱風に耐えられず飛び込んだ人々はほとんど全員が寒さで命を落とし、水面がみえなくなるまで死体で埋めてしまった」と、後日、記しています。
 それから、64年の月日が経ちました。
 写真は、現在の江東橋のようすです。橋の下に、大横川の流れはなくなり、一帯が親水公園として広い管理された水面があるだけです。
 京葉道路に架かる橋もきれいに強固な橋として一新され、阿鼻叫喚の地獄図は想像もできません。
②錦糸公園。仮埋葬。
JR錦糸町駅のすぐ北東側にある「錦糸公園」。東京大空襲では、1万余の遺体がこの公園に仮埋葬されました。死体は人目につかない公園に集められ、火葬することなく仮埋葬された。錦糸公園1万5千体、上野公園8400体、隅田公園4900体など、公園と空き地は一時しのぎの墓地と早変わりした。仮埋葬された遺体は、戦後三年後に掘り起こされ、墨田区横網町の東京都慰霊堂内の昭和大戦殉職者納骨堂に納められた。写真は、終戦直後のままに残されたと思われる公園の一角。
③「本所吾妻橋」付近。逃げまどう人々は、行き先々で河川に阻まれて、多くの人々が犠牲になりました。言問橋の上だけでも千名近くが焼死しています。また広い川面を火がなめるように渡ったという、恐怖、かつ信じられないような光景を証言する人もいます。一夜明けてからの惨状は目を覆うものばかりでした。一面の焼け野原、おびただしい死体、川には、焼死体、水死体が無数に浮かぶ・・・。隅田川沿いには、橋のたもとや隅田公園などに被災者の慰霊碑があります。
④飛木稲荷神社のイチョウ。京成押上線のガードの手前にある。
目通り回り約4.8メートル、樹齢はおよそ500年から600年と考えられており、墨田区内に現存する樹木では最古とされる。戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、樹勢が衰えたが、現在は回復。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝える希少な存在。  
         
 
⑤旧江戸川区の文書庫。最寄りの交通機関は、都営新宿線「東大島駅」。           

すっかり焼け野原のなかで焼け残った二階建、特殊コンクリートブロック建物。後世に、戦争の惨禍を語り継ぐため、周りを整地し、こぢんまりとしていることが、かえって戦争の被害の大きさを無言で語っているかのようです。内部は見ることは出来ませんが、掲示された写真からその惨状がはっきりと残っています。外壁は痛み方が激しいためか、補強がなされていて、痛々しい感じです。                                       この文書庫正面に「世代を結ぶ平和像」が立っています。「小松川さくらホール」の小さな公園の中、木々に囲まれた中にあります。

他にも旧浅草国際劇場(現「浅草ビューホテル」)など、いくつか掲載しました。

「東京大空襲」の体験者もほとんどいなくなりました。語り継ぎ、戦争の悲劇を二度と繰り返さないために。

 

                                                                                                                                                                                                                                                                   

 

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