おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

次はメディア規制へ

2012-11-30 17:20:39 | つぶやき
衆院選2012 維新公約発表 居直り・メディア批判炸裂(産経新聞) - goo ニュース
 「ハシズム」の本性を現わしつつあります。アベさんのように「日教組」あたりを敵にして教育問題を語る、あるいは民主党の経済姿勢を的にしての批判するなどというしろものではありません(ある意味では政治家として同じ土俵で立場の違いを議論できます)。
 この人達はこれまでの政治家達とは全く違うことに私たちも早く気がつくべきです。イシハラさん。橋下さんに利用されているだけ(集票力によって持ち上げられているだけ)ということに分かっていて、その気分を楽しんでいるようす。
 そのイシハラさん。都知事時代の記者会見でも言いたい放題、放言の数々。実に「似たもの同士」。俺たち以外はゴミばかりと思っているはず(「維新」として立候補させた連中も所詮、二人にとってみればただの一兵卒扱いに違いない。まして多くの国民に対してはもっと小馬鹿にしているようすも)。
 彼らが天下を取れそうなポジションになったならば、まずマスコミ規制を行うでしょう。「マスゴミ」と一部の人たちが扇動する風潮に乗って。はたして?
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「シンドラーのリスト」(古きよき映画シリーズその7)

2012-11-29 20:19:31 | 素晴らしき映画
 劇場で観たときの印象は強烈でした。特に赤い服を着た少女の姿。この子だけがカラーで。終幕近くでこの女の子が無造作に他の遺体とともに捨てらるシーン(もともとある映画手法でしょうが、モノクロの中で一点だけ赤色、というのが印象的でした。ちなみに最近のCMでよく見かけます。「強調」するだけの効果を狙うのか、少し違和感を)。
 1939年、ドイツ人実業家でナチ党員のオスカー・シンドラーは、金儲けをしようとナチスが侵攻したポーランド南部の都市クラクフにやって来る。彼は持ち前の社交性と酒や金で軍の幹部たちに取り入り、ユダヤ人の所有していた工場を払い下げてもらう。ユダヤ人会計士のイツァーク・シュテルンに経営をゆだねたシンドラーは、軍用ホーロー容器の事業を始める。
 41年3月、ゲットー(居住区)に押し込まれたユダヤ人を労働力として雇い入れ、事業は順調に進む。
 43年2月、ゲットーが解体され、ユダヤ人たちはプワシュフ収容所に送られることになった。ゲットーが閉鎖される当日、シンドラーは、小高い丘からその様子を目撃する。SS隊員たちは住民を追い立て、抵抗する者、隠れようとする者、病人などを次々と銃殺する。阿鼻叫喚の地獄図の中、赤いコートを着た少女が歩くシーンが印象的。
 収容所に着任したアーモン・ゲート少尉は所内を見下ろす邸宅で、気分の赴くままにユダヤ人を無造作に射殺していく。シンドラーは、賄賂などで軍幹部の歓心を得て、ユダヤ人労働者を譲り受け、私設の収容所(SS隊員を立ち入らせない)を作ることを許可される。
 44年、敗色が濃くなったナチスドイツは、ユダヤ人を「アウシュヴィッツ」等の「絶滅収容所」へ送り込みはじめた。シンドラーはチェコに工場を移すという理由で、ユダヤ人労働者を要求する。リストアップされたのは1200人。途中、女性たちが手違いでアウシュヴィッツへ移送されたが、シンドラーは彼女たちを救い出す。彼の工場は武器弾薬の製造にも、徹底して不良品を作ることで抵抗する。
 45年、ドイツ無条件降伏により、ユダヤ人は開放された。救われたユダヤ人たちの感謝の念と涙に見送られながら、シンドラーは別れを告げる。シュターンが自らの金歯から作った指輪をシンドラーにプレゼントした。そこに刻まれていた言葉―「一人の命を救う者が世界を救う」。

《そのときの会話》
「もっと救い出せた。その努力をしていれば、もう少し努力を。」

「オスカー、あなたはここの1100人を救ったんです。」

「金があれば・・・あんなバカなムダ遣いを。バカだった。」

「彼らから新しい世代が育ちます。」

「もっと大勢を。」

「こんなに救って?」

「車を売れた、アーモンへ。この車で10人を救えたはずだ。10人だぞ。あと10人を。このバッジで2人、救えた。金だから、2人は救えた。アーモンなら2人と交換した。例え1人でもいい。1人救えた。人間1人だぞ。このバッジで。努力すれば、もう1人救えたのに、しなかった。救えたのに。」・・・

 史実によれば、プワシュフでは「彼の」労働者たちの誰一人として不自然な死を遂げたものもなく、また絶滅収容所に送られたものもなかった。また、戦争の終盤、シンドラーはドイツに移ったが、彼はその時1ペニヒ(現在の円換算では約1円)すら持っていなかった、という。

 今回のDVDには、特典としてその時シンドラーに救われ、生存している人たちの証言が収録されています。ホロコーストの生々しい証言です。と同時に、シンドラーへの感謝の思いが切々と伝わってきます。
 映画の中でも、シンドラーの墓の上に生存者達がいろいろな思いを込めて次々と小石を置くシーンが感動的でした。
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アベさんの後ろで操る人間がいそうな、アベ発言の軽さ。

2012-11-28 00:00:03 | つぶやき
「経団連会長は勉強を」=緩和強化批判に安倍自民総裁(時事通信) - goo ニュース
 どうもこの方、自分なりの政治的経済的国際的意見・識見があまりない方のようにお見受けする。後ろで操っている人がいるのでは?例えば竹中さんとか。でも、竹中さんは維新のブレーンだから、二股かけている? 
 むしろアメリカにいる何とかという日本人経済学者の「インフレ理論」に惚れ込んでいるようなアベさん(そそのかされてかも知れないが)。
 今度は、政治家に苦言を言うとはなにごとかとひどくお怒りのようす。自分の登場・発言で円安・株価上昇があった、と自画自賛する、その鼻高々をへし折る人間は許せない、とでもいいたいのか。自分の発言を修正しても(ごまかして)、口をぬぐう。こういう方は、失敗は他に責任転嫁し、成功は自分の手柄にする、というお坊ちゃま気取り。取り巻きにちやほやされるのが大好きな方のよう。気にくわなければさっさと放り出してしまいそう。
 それにしても「日教組」攻撃しかり、国防軍しかり、どんどん紙幣を印刷して云々、などなど。
 すでに首相になったかのようなおごり高ぶりには怖い、恐い。
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「砂の器」(古きよき映画シリーズその6)

2012-11-26 21:36:53 | 素晴らしき映画
 TVでも何度かドラマ化された有名な松本清張作品。和賀英良の殺人動機。放映されたTVドラマでは、「ハンセン病」に関わるものではなく、大量殺人あるいはえん罪事件などで親子で土地を追われさまようという設定になっています。
 映画は、真っ向から「ハンセン病」を扱っています。松本清張の原作よりも最後の場面を劇的に描いています。
 幼少年期から背負ってきた辛く悲しい自らの生き様を乗り越えようとする思いを表現したかのようなピアノ協奏曲「宿命」を作曲し、初演する晴れやかなコンサート会場シーン。その楽曲に重なるように、捜査会議(事件の犯人を和賀と断定し、逮捕状を請求するため)のシーン、和賀の脳裏に浮かぶ、業病の故に故郷を追われ、行く先々でもむごい仕打ちを受け続けながらの父との流浪の旅。日本の四季を織り交ぜながらとりわけ冬の日本海の荒ぶシーンを背景に歩む二人の姿・・・。映像の妙味とともにその痛切な回想シーンが重なっていく、ラスト40分以上の構成は実に感動的です。終曲近く、刑事が逮捕状を携え、会場に姿を現す・・・。
 ピアノと管弦楽のための組曲・「宿命」は音楽監督の芥川也寸志の協力を得ながら、菅野光亮によって作曲されました。圧巻なラストシーンでした。
 この映画において、ハンセン病の元患者である本浦千代吉と息子の秀夫(和賀英良)が放浪するシーンやハンセン氏病の父親の存在を隠蔽するために殺人を犯すという設定(殺人事件の発端)について、「全国ハンセン氏病患者協議会」(のち「全国ハンセン病療養所入所者協議会」)は、ハンセン病差別を助長する他、“ハンセン氏病患者は現在でも放浪生活を送らざるをえない惨めな存在”と世間に誤解されるとの懸念から、映画の計画段階で製作中止を要請しました。
 最終的には製作者側との話し合いによって『ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない』という字幕を映画のラストに流すことを条件に、上映が決まった、とのことです。
 作曲家・演奏家として名声を獲得し始め、さらには有力政治家の娘との結婚間近。そんなとき、暗い過去を知っている人間が目の前に登場する。世話になった大恩人だったその人。過去を抹殺するために犯してしまう殺人。しかし、結局のところ自らの宿命からは逃れることはできない痛切な(悔恨の)思いがひしひしと伝わってきます。
 恩人だった人間を殺める罪を犯す。殺される存在はもとより、我が子を否定する父親の存在(原作とは異なりますが)。そうせざるをえなかった背景にある、根強く残るハンセン病への無理解・偏見・差別(隔離政策による肉親や地域との分断・・・)などの長年の間に許容されてきた社会の「闇」。たんなる謎解き・犯人を追い詰める推理ドラマというよりも、人間ドラマとして見応えがありました。
 もちろん、上映当時の時代背景(現在のような「ハンセン病」に対する大々的な政策転換ができていなかった)を抜きにしてはいけないと思います。その意味で、DVDでも流れる、ラストのテロップは忘れてはならない重要な内容です。

 
和賀 英良:加藤剛
高木 理恵子:島田陽子
本浦 千代吉:加藤嘉
三木 謙一:緒形拳
三木 彰吉:松山省二
田所 佐知子:山口果林
警視庁捜査一課長:内藤武敏
黒崎警視庁捜査一課捜査三係長:稲葉義男
村の巡査:浜村純
毎朝新聞記者・松崎:穂積隆信
国立国語研究所員・桑原:信欣三
伊勢の旅館「扇屋」女中:春川ますみ
桐原 小十郎:笠智衆
通天閣前の商店街の飲食店組合長:殿山泰司
吉村 弘:森田健作
伊勢の映画館「ひかり座」支配人:渥美清(友情出演)
田所 重喜:佐分利信(特別出演)
今西 栄太郎:丹波哲郎
 今思えば、そうそうたる俳優が出ていました。

監督:野村芳太郎
脚本:橋本忍
   山田洋次
 監督も脚本も・・・。
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すみだ水族館。夜のスカイ・ツリー。

2012-11-25 22:09:59 | つぶやき
 このあいだ、「すみだ水族館」に初めて出かけました。スカイツリーの付属施設。こじんまりとした施設。入場料2,000円、年間パスポート4,000円という設定。今の時期、大人の入場者には「カクテル」1杯分のサービス券付き。一画にはそんなコーナーもありました。
 こうした値段設定が安いのか高いのか、はたまたアルコール類の販売がふさわしいのか、どうなんでしょうね。
 孫を連れての入場でした。孫達は何度も来ているので、勝手知ったる何とか、という感じ。平日の夜のせいか空いていました。
 館内は全体にブルーの照明、夜の雰囲気を出していました。ペンギンもまだ元気で泳いでいますが、そろそろおやすみの時間では、と余計な心配。ということで、ペンギンは大勢いました。大水槽も葛西臨海公園のと比べてかなり小ぶりの印象。群れをなして泳ぐ、という感じではなさそう。夜の海のせいかおとなしいのかも知れませんが・・・。それぞれの水槽にはそこそこクラゲやらアナゴやらが生育されています。
 アルコールを片手に、階段に座ってペンギンのようすを観察しながら、赤や青などに変化する照明に照らされて泳ぐクラゲの姿などに癒やしを求めて、ちらほら会社帰りの姿が。東京らしいのは、小笠原の海で生まれ育つ小さなウミガメの姿。飼育して小笠原の海に戻すそうです。
 これからの季節。寒くなる外の気温と薄青い照明効果で「ホッ」とするのか、「クール」になるのか、真冬の水族館という趣がどうでしょうか。帰りは厚手のコートを羽織るくらいの寒さでした。
クラゲ。
赤や青の照明のもとで。
こんな感じ。
タツノオトシゴの一種? 
 魚類などには全く疎いので。あとは撮った携帯写真で。
縦縞の色がなかなか。
熱帯魚?
大型の魚。ナポレオン何とか。
 それぞれの魚の名を孫が教えてくれますが、すぐ忘れてしまいます。
大型水槽。すでに眠りについた魚がいるのか、あまり泳いではいません。
下の方から見上げた写真。
「チンアナゴ」「ニシキアナゴ」(これだけはしっかり覚えました)などの水槽。これは見てて飽きない。孫も水槽にかじりつくように観察。けっこう人気があるのか、マスコット的存在? 
餌のプランクトンを係員が与えると、首(胴体)を伸ばして食いつく。中には前身を砂地からだしてしまうものも。突っついたり絡ませたり・・・、奇妙な動きがあちこちで。
「小笠原」生まれのカメ。
この日は「雅(みやび)」の光。
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紅葉。白雪の富士。

2012-11-24 19:25:32 | つぶやき
 朝夕めっきり寒くなりました。体調の管理が面倒なと人に言われそうなじいさんになりました。行き慣れたところでの紅葉見物です。富士さんがこの間の土曜日の激しい風雨ですっかり白くなりました。
遠くに富士山。
雲一つなく一段と白さを増した富士山。
照り映えるモミジ。
さまざまな落葉樹が今を盛りの秋。
赤あり、薄緑あり。
灯籠には鹿の彫り物が。
人の姿のない落ち葉の木の下道。
水が涸れた細い水路が続きます。
晩秋の穏やかな日差し。
5㍍以上もあろうかという大灯籠。本体は大きな一枚石を刻んだもの。そこに台座と頭と。モミジに埋もれていました。
大きな灯籠と小さなモミジの取り合わせ。
大イチョウ。落雷のためでしょうか、太い木の中あたりから折れていますが、蘇った若木の葉が見事な黄色に。

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荒川。河口から10㎞上流~。隅田水門。日暮里舎人ライナー。・・・

2012-11-22 22:20:45 | つぶやき
 ぐっと冷え込むようになった東京地方。半袖で風を切って、というシーズンは終わり。それでも、青空の下、川辺を走るのもまた、よし。
 ということで、荒川を少しばかり。ただ西岸のサイクリングロードは途中、工事中。自動車の行き交う堤防の下を走るはめに。ちょっと残念でした。それでも、発見が少し。
遠く「扇大橋」。上方の橋脚は、「日暮里舎人ライナー」。かなり高く荒川を越えていくので、見晴らしがすばらしい。河川敷にある「あらかわ福祉体験広場」は、雑草に覆われている。
車いす体験など福祉・障害者体験周遊コースになっているが、目的がもう一つはっきりしない。用具もなさそうだし・・・。今は閉鎖中? 
このあたりはグランドが広がっている。広々とした道が続く。ジョギングやサイクリングに最適。
「西新井橋」上流にはまだ灌木や葦などが生い茂るところが1㎞ほど残っている。河川敷に住まう人々の青いテントがちらほら。
道路に出てきた大型のカマキリ。野良猫の姿も見え隠れ。
「千住新橋」。この橋の上流、下流は整備されて野球場などの運動広場・グランドが続く。
「千住新橋」付近。通りかかるとこの藪の中からやかましいくらいのスズメの鳴き声。一斉に枝の中から飛び出した。ちょっと顔をだしたスズメ。
「千住新橋」から下流を望む。青空の下。
「堀切橋」下流。「隅田水門」の説明板。
この水門は、荒川と隅田川を結ぶ水路(荒川―旧綾瀬川―隅田川)として二つの川の流れを調節する。荒川は、北区岩淵水門付近から明治末期から大正中期にかけて開削された放水路。 都内の治水事業としては最大級。旧綾瀬川は隅田川に流入していたが、荒川沿いに流れを変え、中川も荒川をはさんで分断された。また田畑や寺社、街並みなども移転・廃絶を余儀なくされた。
「荒川放水路(現「荒川」)」開削以前の地図(大正8年)。東に曲がり今の「荒川」中流付近を通っていた東武伊勢崎線が、荒川放水路開削のために現行のような線路になった。
当時は「堀切」駅はなかったようで、下の方(南側)に「鐘ヶ淵」駅が見える。また、京成電車(上野~青砥)はまだ開通していなかった。
水門から見た荒川。
水門脇にある東武線・「堀切駅」。昔ながらの駅。この付近はTVの「金八先生」でたびたび登場。
北西に曲がりながら北千住方向に進む。
線路越しに望む「スカイ・ツリー」。
「四ツ木橋」から上流を望む。
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読書「のぞき学原論」(三浦俊彦)三五館

2012-11-21 20:28:36 | 読書無限
 かつて、某高校の国語の教師は、(とっくに引退した方ですが)「源氏物語」好き。文科省公認の教科書内容では物足りなくて、「源氏物語」の抜粋を印刷屋に頼んで小冊子にし、ほぼ一年間、生徒に講義しました。それが、実は結果的には「垣間見」の場面が中心(たまたまではありましたが)。周りではにやにや。「若紫」から始まって・・・。「さすが垣間見は日本古来の文化だ」(「不倫は日本の文化だ」とのたまった有名芸能人がいましたが)、と。むろん「のぞき」とはニュアンスが違いますが・・・(「のぞき」という表現はストレートすぎる感じ。)
 たしかにその後、「源氏物語」を「垣間見」という視点で捉えなおした書物も出ています(「視覚」だけにとらわれず、「嗅覚」や「聴覚」などの五感を駆使して広がる「垣間見」の世界。「源氏物語」の趣、深まり、・・・そうしたものを改めて感じた一書)。
 
 さて、今回の三浦氏の書。原典派らしく大量の資料分析に基づく「のぞき学」論。「盗聴」「盗視」ジャンルのAV作品を次々と紹介、分析しています。ほとんどが「やらせ」「しこみ」だとは思いますが(先入観では)、それをまことしやかに「本物かフェイクか」評論する姿勢は、お見事です。ひとたび「本物」と評価するやその入れ込みはまた一段と深く・・・。
 ま、どうもその章・内容にはついていけませんが。ご本人が「院生時代に発表した」ものが出発らしい「第二章 覗きの情緒―日本文学における、その十五の型」は興味深い(十五型に分類するという大胆さ)、ちょっと差異化できてない分析もあるようだが。
 副題としての「生きた隙間を描いた日本文学」がその意味合いを深めていて、谷崎の「陰翳礼讃」(中心は、日本家屋の陰影に富んだ諸相の奥深さの魅力を語った作品)をモチーフにして「建物」論にとどまらずに、小説・随想などを紹介しながら、そこに描かれた人間の生き様(作者の人間像)に重ね合わせて論を進めていきます。この章はうがったりかなったり、でした。
 他の章。「覗きのDNA―なぜ男が覗くのか?」「覗きの技法―盗撮ビデオの現在」・・・。第五章「覗きの階調―虚実のスペクトル」は、著者の力がこもっていました。表書きは「のぞき」とひらがなですが、本文の章題はすべて「覗き」という風に漢字になっているのは意図的。この漢字も独特のインパクトあり。また、「Peepology」という学術用語があったとは!
 しかし、どういった方々がこの書を読んだのでしょうか? 「あんた」みたいな人だと突っ込まれそうですが・・・。
 
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「ゲバラのように」って。後生だから悪い冗談はよしておくれよ。

2012-11-20 19:01:00 | つぶやき
小沢小沢元環境相「ゲバラのように…」 民主3議員が離党届(朝日新聞) - goo ニュース
 いくら気分が高揚しているからといって、自らを「ゲバラ」になぞらえるほどのタマか、君は!

 「日本維新の会」は、日本の戦後民主主義を逆行させるに違いない政治集団。トップのイシハラさんの言動を見ればよく分かる。「憲法改悪・廃棄(9条などがその標的)」「労働組合(運動)への敵視」「反中国・ロシア・北朝鮮・韓国(民)」「反左翼」「市場原理主義」「新自由主義」「原発推進」「障害者・福祉切り捨て」・・・。
 何とか自民党の長期政権(よその国からは日本には代議制民主主義はないのかと揶揄されるほどの国民不在の政治だった50年)を倒した民主党。自らの政策的未熟さと理念の曖昧さが結果的に今日の混迷を迎えたのは事実だが、歴史的な快挙ではあった。少なくともその一翼を担った男。
 自らの選挙が不利になったから、さっさと昨日の敵は今日の友と・・・。政治的理念も人間的信頼性もなさすぎ。もう一人の「一郎」さんの方が「壊し屋」としては首尾一貫している。そして、山田さんも。

革命家 チェ・ゲバラの言葉。 
・バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ。
・祖国か、死か!
・世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。

対する政治屋 小沢鋭仁の言動。
 2012年、野田首相が消費税増税などを含む社会保障・税一体改革関連法案の提出を表明した際には、法案の内容を批判、総選挙での党の公約として消費税増税はしないと主張していたことを問題視し、「国民・県民の皆さまとの約束を破るわけにはいかない」と、衆議院本会議での採決では棄権した(反対の勇気もなく)。(ここまでは、ま「よし」としよう)
(その人が)
 2012年11月19日。民主党を離党した小沢さん、「日本維新の会」に合流することになった。(すると)今後は自らの主義・主張であった「消費増税撤回」という根幹的な立場をとりさげて、維新の会の主張である「消費税UP(11%)とその一部の地方税化」を主張することに。
 それにこの人、「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」に所属(副会長?)し、在日韓国人等に対する参政権を積極的に主張していたはず。(ここまでは、ま「よし」としよう)
 宗旨替えして、その「整合性」はどうとるつもり? イシハラさんたちは、外国人への参政権付与などめっそうもない、断固反対!
 
 政党を転々と渡り歩いた過去を持つ、そのたびに平然と真逆の主張をすることになるのか(議員バッジのためには)。
 カストロとともに、反米・キューバ革命を実現し、さらにゲリラ闘争に一生をささげた「革命家」の名をたやすく出してはいけないよ、君。
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「毒を食らわば皿まで」。発想の大転換が必要では?

2012-11-19 21:27:46 | つぶやき
開業半年、スカイツリー活況 “足元”には光当たらず(産経新聞) - goo ニュース
 予想通りといえば、その通り。地元というか、この近辺を長年歩き親しんでいた者としては、残念ですが。更地にした時からだんだんと立ち上がってきたスカイツリー。その成長ぶりを見続け、完成したあとの賑わいぶりを見るにつけても。
 ついこの間の昼飯時、「浅草通り」を吾妻橋方向に進んでも、一軒くらいしか道路まで並んで空き待ちを待つ人はいなかった。その店も昔からある店ではなく、新規開店の若者向き。・・・。一等地の交差点、角の昔からあるお蕎麦屋さんもいっときの賑わいはなさそうだった。言問通りからちょっと入った、やはり何十年間なじみのラーメン屋さんのおばさん、この間立ち寄ったら、ほとんどお客は変わらないとのことでした。
 あれだけのお店が「ソラマチ」にあるんだから、よほどの地元筋でないとわざわざ外まで出て行かない。僕らみたいな連中は、交差点を渡って昔からある「ファミレス」にもあえて行きますが・・・。観光客ではありえないでしょう。
 もともと過疎化し、傾きかけていた(失礼ですが、実際、建物自体が古く傾いて、隣の家に寄りかかっているお店も目にします)「浅草通り」の商店街。電信柱をなくして道路を広々とさせたので、かえって閑散とした印象を与えます。盛んなのは、昔ながらの「飲み屋」さんだけ? それも昔からのお客さん相手のこじんまりとしたお店が。
 「押上通り」の方はもっと閑散としています。僕でもあまり行ったことがない商店街(そういえば、40年以上行き来していて、駅近くの本屋さんか、地下道そばにあった「駅そば」、あとはラーメン屋さんくらいしか入ったことがなかった)、古びたアーケードも何だか見るのも辛い。
 大昔、京成・押上駅が終点だったころには賑わったでしょうが、その後、都営浅草線乗り入れと同時に地下駅となり、通過駅・乗換駅になった以降は、閑散。はやっていたのはパチンコ屋さんくらいでした。今また、スカイツリー本体と反対側に位置している、という地理的条件もまったく不利。駅自体は、乗降客で大賑わいですが・・・。
 墨田区。スカイツリーを地域(商店街)の活性化につなげよう、との魂胆見え見えの大誘致作戦。現実、その思惑は見事に大外れ。「おしなり」くんという「ゆるキャラ」も何だか気の毒な存在にまで(「おしなり」というネーミングの根拠も薄れているのでは)。
 南に位置するJR錦糸町駅の南口。かつての歌舞伎町並の客引きたち。一歩外に出たとたん、わっと群がってくる。印象はすこぶるよくない。南も北も、ますます猥雑な感じに・・・。スカイツリーの恩恵が及んでいるのかどうか、定かではありません。
 いっそのこと、辺り一帯を大きな都市型公園にするとか、錦糸町駅までの「四つ目通り」沿道の街並みをがらっと大変革、歩く公園風にするとかして、西(浅草方向)に向かう観光客を何とかして南や東に向かわせる抜本的な都市計画が必要ではないでしょうか。
 当然、地元にあった、古くからの商店や住まいは立ち退きを余儀なくされ、代わりに全国展開のチェーン店など大型資本投資によって、地域住民の、古くからの生活の場を奪う、というスカイツリー誘致が何のためだか分からなくなってしまいますが。この際、「毒を食らわば皿まで」です。もちろんそうなっては欲しくないと心から思うので、何とか精一杯いっぱい努力、行政の力も借りて地元を活性化しなければなりませんが。

 「毒を食らわば皿まで」
 悪事に手を染めた以上は、どこまでもそれに徹しようということのたとえ。

 一度毒入りの料理を食べてしまった以上、死ぬことに違いはない。どうせなら毒を盛った皿まで舐めても同じことだからと、居直って悪事を続けること。

【英語】 In for a penny, in for a pound.
     As well be hanged for a sheep as a lamb.

《追記》 2009年4月16日投稿のブログ記事も、ぜひご覧あれ。

 
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「こびとづかん」。

2012-11-18 22:49:24 | 読書無限
 孫達の間ではやっている、というか人気シリーズ。大人からみるとえっ、何、これ!という印象ですが・・・。シール集めから捕まえ方、飼育の仕方とか絵本でも動画でも盛んに見ています。公園の片隅などの草むらに棲んでいる(生息している)らしい「こびと」達。

「あなたはこびとを見たことがありますか?
こびととは、もちろん昆虫でも植物でもありません。
そう、こびとなのです。
そんなものいる訳ないと笑っているあなた。
世の中を表面でしか見れていない証拠です。」これが「公式HP」上の惹句。
 「見れていない」という言い回しは、「ら」抜き表現でもなさそうだし、「見ていない」なのか「見ることが出来ていない」のつもりなのか、なんともはや・・・、子供相手というよりは、大人を敵に回しているような(挑発しているような)表現にも思えます。

コビト網 亜胚目 退触頭科 モモジリ属 カクレモモジリ
●体長 約15cm(トウチンを含む)
●生息地 桃園など
●特徴 
・ 熟れた桃の実に寄生する
・ 青い果実には興味がない
●食べ物 桃の糖分を吸って暮らしている


コビト網 植亜目 触頭科 クサマダラ属クサマダラオオコビト

●体長 15cm~20cm(トウチンは含まない)
●生息地 陽当たりのいい草むら
●特徴
・ 気が弱く臆病
・ 大きくなると脱皮する
●食べ物 草食で花の蜜や花粉が大好物


コビト網 植亜目 有花科 ハナガシラ属リトルハナガシラ
●体長 8cm~12cm(トウチンは含む)
●生息地 湿った草むらなど
●特徴
・ 体は小さいが、かなりどう猛な性格
・ 小さな群れをつくって行動する
・ 仲間同士でいつも争いが絶えない
●食べ物 主に昆虫やトカゲ、ネズミなどの小動物を食べている

コビト網 植亜目 葉触頭科 ヨツバ属 ヨツバカンノン

●体長 15cm~18cm(トウチンは含まない)
●生息地 クローバーの群生している場所
●特徴 おだやかな顔つきをしている
●食べ物 不明。わずかな水だけでも暮らしていけるという説がある

 というような具合で、実に多種多様の「こびと」たち。
 孫(とその友達)はシール集めに、こびと探しに興味津々。名前もすぐ覚える。たくさん集めると、自慢できる。そのかわり、今やトーマスの機関車達の名称は忘れてしまっているのが、ご愛敬。
 YouTubeでの動画などを見ると、捕まえ方も大がかり、鉄製の檻や木製の仕掛け。煙でいぶしたり、ウィスキーをも用いていたり、と多種多様。こんなこびと探しが近所の公園で行われたら、大変な騒ぎになりそう。動画では実際にこびとの人形を置いて見つけ出す、などもUPされています。ま、見ている分にはたわいないものですが。
 ポケモン、トーマス、怪獣・・・、子供達の間にはやるものは次々と目移りしていきます。そのたびに、出費もバカになりません。
 これから、クリスマスだの誕生日だのと、この時期、親たちはこういう類いの商品を買わされるはめになりそうです。
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「剱岳 点の記」(古きよき映画シリーズその5)

2012-11-17 22:01:39 | 素晴らしき映画
「goo映画」から拝借。

 この映画。ことさら「古き」ではない作品ですが、個人的には「よき」になるので。
 若い頃、「立山」に登ったことがあります。向こうに見えた「剣岳」。峻厳な山容とその神秘的な奥深さに、登山の厳しさとすばらしさを実感しました。遠く展望しただけでも・・・。
 北アルプス・南アルプス。縦走や単独で穂高とか槍とか3,000メートル級の山々を登りました(夏山ですが)が、剣岳は槍ヶ岳と同様、ちょっと別格な印象でした。登ってみたくても今となっては叶わぬ、かもしれません。
 時折映し出される俯瞰した映像では、登ったことのある山や眺めたことのある山々が浮かび上がり、懐かしく観ました。自然描写は美しく、豊かな剣岳の四季を、とりわけ冬の山容のすばらしさをよく表現していて、感動しました。
 今のように登山道が整備され、山小屋も、テント・サイトも豊かな条件での登山とは違って、それらが全くない状態の中、さらに測量のための機器をたくさん持って登る、という当時の、まさに命がけのチャレンジ。
 ただ、CG処理などの加工をせずにその場の撮影フィルムを再構成した(もちろん山小屋や登山道などは消してはあるようですが)とのことで、かえって現在の山の風景、さほど切迫感が伴わない場面構成、という印象をところどころに感じました。
 特に、劇場映画ではどうだったか知れませんが、最後の頂上アタックの場面がカットされているのは、至極残念でした。また、小島烏水たちの登山姿。穏やか天候の下での低地の山登りのような印象でしかありませんでした。当時の登山の服装・装備など、時代考証をしてのことだとは思いますが、それまでの高揚した気分をこわされる感じ(本当にあんな格好で)。

あらすじ:明治40年(1907年)、測量士・柴崎芳太郎は、陸軍参謀本部から呼び出され、「日本地図最後の空白地点、劔岳の頂点を目指せ」と命じられる。当時、ほとんどの山は陸地測量部によって初登頂されてきたが、未だに登頂されていないのは劔岳だけだった。
 柴崎は案内人・宇治長次郎や助手の生田信らと山頂への登り口を探すことから始まる。同じ時期、創立間もない日本山岳会・小島烏水たちも剣岳の登頂を計画していて、双方の先陣争いとなる。
 厳しいアタックのすえ、先に山頂に登り着いた柴崎たちは、すでに頂を極めた先人がいた痕跡を発見する。

出演者:浅野忠信(柴崎芳太郎)、香川照之(宇治長次郎・現地のガイド)、松田龍平(生田信・助手)、仲村トオル(小島烏水)、宮崎あおい(柴崎葉津よ)、夏八木勲(行者)、役所広司(古田盛作)

監督、脚本: 木村大作

原作:新田次郎

 配役では、香川照之が出色の出来。構成的には「ラスト」が今一つ。

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「サウンドオブミュージック」(古きよき映画シリーズその4)

2012-11-16 21:27:02 | 素晴らしき映画
 「ミュージカル」。ストーリーも、歌われる曲も有名。あらためて観ても、よく出来ています。

 修道女のマリア(ジュリー・アンドリュース)は、7人の子供がいる退役海軍大佐トラップ(クリストファー・プラマー)家の家庭教師となります。トラップ家の古風で厳格なしつけに対し、マリアは、子供たちに音楽の楽しさ、歌うことのすばらしさを教えます。ひどく批判的だった大佐も、子供たちの美しいコーラスを聞いた時、音楽を愛した昔を思い出し、次第にマリアに心を開いていきます。
 トラップ家でパーティが開かれますが、オーストリアではナチの勢力が強くなている時代(ドイツによるオーストリア併合)、広間に飾られたオーストリア国旗はナチ派の非難のまとに。ダンス中に大佐を愛しはじめている自分に気づくマリア。
 自分もマリアを愛していることで、大佐は男爵夫人との婚約を解消し、マリアと結婚します。
 ハネムーンから帰った大佐を待っていたのは、ナチスからの召集令状。ナチスの台頭を許せず、母国・オーストリアを愛する大佐は、一家でスイスへ亡命することを決意します。
 トラップ一家が亡命するために屋敷を出たところにやってきたドイツの官吏、大佐を新たな任務先へ護送しようとしますが、大佐は歌のコンクールへの一家での出場を口実にし、護送の延長を認めさせます。
 ナチス突撃隊らの厳重な監視の下、ザルツブルクの祝祭劇場で行われたコンクールで、《Do-Re-Mi「ドレミの歌」》、オーストリアの愛国歌(という劇中での設定ですが)《Edelweiss「エーデルワイス」》、そして《So Long, Farewell「さようなら、ごきげんよう」》を歌う一家。 審査の結果、トラップ一家が優勝します。その表彰式の隙に家族は逃げ出し、修道院に身をかくします。そこで、長女の恋人で、今はナチに与するロルフに見つかりますが、危機を脱して裏口から車で逃走します。
 ナチス突撃隊も追跡しようとしますが、車のエンジンがかかりません。修道女たちの手には、その車から外された部品が握られていました。 一家は山を越えて、亡命先のスイスへと向かいます。

 映画の中で歌われる曲(ほぼ順番に)。
《The Sound of Music》主題歌。
《Maria「マリア」》
《I Have Confidence in Me「自信を持って」》
《Sixteen Going on Seventeen「もうすぐ17才」》
《My Favorite Things「私のお気に入り」》
《Do-Re-Mi「ドレミの歌」》
《The Sound of Music》
《Lonely Goatherd「ひとりぼっちの羊飼い」》
《Edelweiss「エーデルワイス」」》
《So Long, Farewe「さようなら、ごきげんよう」》
《Climb Ev'ry Mountain「すべての山に登れ」》
《Something Good「何かいいこと」》
《Do-Re-Mi「ドレミの歌」》
《So Long, Farewell「さようなら、ごきげんよう」》
《Climb Ev'ry Mountain「すべての山に登れ」》。
 今でも口ずさまれる曲が多いことに気づきます。特に、ラストシーン。一家で山越えをするときに歌われる「Climb Every Mountain」は、前途の困難にも何とか希望を持って乗り越えていこうとするトラップ一家の姿が、美しい自然の風景と一体となって、観客にも一緒に味わえるすばらしい一曲となっています。

 
 この作品は、あくまでマリアの自伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』を「基にした」ミュージカルを「基にした」映画であり、史実とは異なる点が多々ある。(元のミュージカルの時点で相当史実と違いが生じていた)
・映画ではマリアは修道女のまま、修道院の紹介でトラップ家に家庭教師にやってくるが、史実では家庭教師になった時すでにマリアは修道院をやめていた。
・トラップは「大佐」と呼ばれているが、これはオーストリア・ハンガリー帝国海軍の複雑な階級制度から来る誤訳であり、実際には少佐が最終階級であった。
・実際の合唱団にはトラップ少佐の7人の連れ子の他に、マリアが産んだ3人の子供も加わっていた。
・実際にトラップ・ファミリーに音楽を教えたのはマリアではなく、トラップ一家に居候していた神父フランツ・ヴァスナーである。
・実際のマリア・フォン・トラップも活動的ではあったが、同時に勝ち気な癇癪持ちでもあり、トラップ少佐の方がむしろマリアを優しくなだめる一家のまとめ役だった(渡米後にトラップ・ファミリー合唱団が解散したのは、トラップ少佐の死後マリアだけで子供達をまとめきれなかったのも一因とされる)。伝記がミュージカル化される際、マリアは事実が脚色して描かれる事には寛容だったが、亡き夫が横暴に描かれるシーンにだけは納得しなかった。
・実際にはオーストリアにおいてもドイツによるオーストリア併合を支持する国民も多く、動画サイトなどではこの映画の演出と異なりドイツ国旗を振りながら喜んでドイツ軍やアドルフ・ヒトラーを迎えるオーストリア国民の群衆を見ることが出来る。ドイツ軍進駐後にドイツ政府によって行われた国民投票では97%が賛成したとされるが、ドイツ軍進駐前に国民投票を行えば合併拒否が選択されることは確実であったという見解もある。ただしヒトラー自身がオーストリア出身である。
・トラップ一家が亡命したのは、トラップ少佐の元に召集令状が届いたためではなく、ヒトラーの誕生日に一家の合唱団が歌を歌えとドイツ軍に命令されたためである。
・映画ではコンクールの最中に徒歩で逃げ出してナチス突撃隊の追跡を振り切るが、史実では列車と車を乗り継いでチロル州の山奥に逃げ、警備が比較的甘かったイタリアとの国境をアルプス越えして平和裏にオーストリアを脱出した。
・またオーストリアを脱出の山越えのシーンは視覚効果のためか、ザルツブルク-スイス越えルートとは全くかけ離れた場所で撮影された。このため地元民から見ると唖然とするような、地理的にありえないラストシーンとなった(ザルツブルクから山越えすれば現在のドイツ領に入る。その傍にはアドルフ・ヒトラーの別荘すら存在する)。

 以上のように、「Wikipedia」では映画と実話との相違点を列挙しています。
 だからといって、この映画のおもしろさ、すばらしさを楽しむ気持ちを奪ってはいないと思います。アメリカ映画らしく舞台背景としての「反ナチ」の色の濃さに、史実との違いを含めて、しかめっ面をする向きは今でもあると思いますが・・・。


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中洲の渡し。永代橋。霊岸島。佃島。・・・(隅田川の渡し跡をたどる。その6)

2012-11-15 18:44:22 | 隅田川

「新大橋」から「永代橋」。そろそろ河口近く。川幅も広くなり、日本橋川や亀島川が西から流入。小名木川が隅田川と旧中川・荒川を結ぶ。さらに下流は、佃島をはさんで東西に広く分かれ、隅田川本流は西に流れ、「浜離宮」へ向かいます。
「旧新大橋」(明治時代)。この図柄に見える「親柱」が東詰に残されています。
絵の右側に描かれているものか?
装飾的にも趣のある柱です。
「大はしあたけの夕立」(安藤広重作)のモニュメント。
小名木川・万年橋からの隅田川・清洲橋。
 「小名木川」は、徳川家康が江戸を開く際、行徳塩田(現在の千葉県行徳))からの塩を運搬するために運河を開削させたのが始まりで、名称 は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名から起こっています。
 その後、「塩の道」小名木川は塩のみでなく、江戸市中への物流の重要河川となりました。中川、新川、江戸川、利根川を経由する東廻り航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となります。
 開削とほぼ同じ頃から、川の北側を深川八郎右衛門が開拓して「深川村」が、南側は埋め立てられ「海辺新田」となり、江戸時代を通じて埋め立てが進みました。やがて、小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、東部地域の開発・発展が進んでいきます。
 小名木川と旧中川の合流地点には「中川船番所」が置かれましたが、当初は、隅田川と小名木川の合流点近くにも「船番所」が置かれた。
「万年橋」近くにある「川船番所跡」の説明板。

 「万年橋」の北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所で、隅田川と小名木川の合流地点付近の住居跡は芭蕉歴史庭園として整備されています。また北には「江東区芭蕉記念館」があります。 
芭蕉のブロンズ像。遠くに見えるのは「清洲橋」。
芭蕉の句碑。
「芭蕉資料館」入り口脇にある「バショウ」

「清洲橋」。
「清洲橋」からのスカイツリー。
「清洲橋」。この上流あたりに「中洲の渡し」がありました。
「永代橋」を望む。
「豊海橋」。「日本橋川」が隅田川に注ぐ地点。
「日本橋川」の西側を望む。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。


創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。   
 平成十四年三月 中央区教育委員会
 

 ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。
当時の技術が偲ばれます。
上部の装飾部分。
説明板。こちらには、永井荷風の一文が記されています。
「旧永代橋」が描かれたモニュメント。
「永代橋」からのスカイツリー。
 
 永代橋の西側一帯。「日本橋川」、「亀島川」に囲まれた地域は、旧名「霊岸島」と言いました。「霊岸島」の名は寛文元年(1661年)、この地に霊厳寺が建立されたことによります。霊厳寺は明暦の大火ののち、深川に移転し、跡地は町地となって以後埋め立てによる拡張工事が行なわれました。昭和46(1971)年、住居表示制度の実施により現在の形となり、行政地名としての「霊岸島」は消滅しました。
 その一画、「新川」という現在の地名はこの地に流れていた新川に由来します。亀島川から隅田川にかけて東西に流れていた新川は、万治3年(1660年)に豪商の河村瑞賢が開削したといわれています。江戸時代には川沿いに酒問屋が多く集まって繁盛していました。新川は水路として活躍していましたが、辺り一帯が戦災で壊滅的状態になり、戦後、残土処理のために埋め立てられ完全に消滅しました。
「霊岸島」。(「記念碑散策・中央区」より)。けっこう見所の多い地域です。
「永代橋」から「佃島」方向を望む。「永代橋」の少し下流に「大川口の渡し」がありました。右の橋は、「中央大橋」。その先が「浜離宮」。左が「相生橋」、その先が「春海橋」へと続きます。
明治13年頃のようす。左上が亀島川。
 
 徳川家康が関東へ下降する折の1590年8月30日(天正18年8月1日)、摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、1645年に元々あった名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、築島して定住することとなり、この島を故郷にちなんで「佃嶋」と命名しました。古い地図には「田」の字の島が描かれ、現在の地図においても同様の形状が佃一丁目の一部に確認できます。
 一方、佃島の北側にあった島は森島、鎧島などと呼ばれていましたが、江戸初期に石川八左衛門重次が徳川家光から拝領したため石川島と呼称されるようになりました。佃島とは独立した島でしたが、伊能忠敬江戸実測図(1817年)では一体となっており、それまでに何らかの形で地続きとなったものと推測されます。
 現在の佃1丁目・佃2丁目北部は、上記の佃島と石川島の場所を継承しています。
 水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、それが1979(昭和54)年に操業停止するまで、旧来の佃島の部分を除いて、佃の多くの部分はその敷地でした。
 その跡地において1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で、大規模住宅群「大川端リバーシティ21」の整備が開始されました。現在では開発主体の一つである三井不動産(マンション分譲・賃貸)の広告に度々使用されるなど、都心部における住宅地整備の成功事例として評価されるに至っています。また、超高層マンション群そのものの景観に加えて、第二次世界大戦前からの古い町並みや釣り船と超高層マンション群が隣接する独特の景観でも知られるようになりました。(以上「wikipedia」より)
「永代橋」からの夜景。(「Wkipedia」より拝借。)

「春海橋」のすぐ南にある旧貨物線の鉄橋。廃線後もそのまま残されています。
西を望む。

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同情。無情。非情。

2012-11-14 22:36:47 | つぶやき
かすむ小沢氏…解散でざわつき、討論も消化不良(読売新聞) - goo ニュース
 党首討論のTV中継。たまたまTVをつけたら、小沢さんとのやりとりが。この人、こんなに冴えない方だったの? というのが率直な印象。すぐ後の公明党とのやりとりも、ついでに。比較したら、結果的には小沢さんの方がずいぶんと見劣り。
 内容も話し方も冴えない、何を言いたいかよく分からない、攻めているんだか、説教したいのか、登壇して自己満足なのか・・・。準備不足なのがありあり。前置きばかり長い。かつての同志に遠慮があるのか、言葉遣いもおかしい。
 挙げ句の果てに、野田さんに軽く見事にいなされた。「完敗」の一言! 口元の、笑いともつかず、何とも言えない自信のなさそうな表情が印象的。これからの政界のリーダー的存在とはどう見ても思えなかった。
 イシハラ80じいさんの方が、敵ながらあっぱれ。「太陽の党」って、自己主張のすごさ、自意識過剰ぶり。「政治は芸術だあ!爆発だあ!」と渡辺さんが表現した通りで、まだ「現役」気取りというのが、すごい!
 それに対して小沢さん。「国民の生活」が第一なのか、「自分の立場」が第一なのか。無罪判決が出ても今や過去の人に近い印象。年齢で10歳若くても、すでに時遅し。賞味期限が過ぎてしまった。
 同情、というより政界の(マスコミも含めて)無情さ、非情さを一般国民として感じました。己もまた今や激しく動く社会から少し(かなり)後れを取ってしまっていると、自省しつつ。
 いよいよ12月16日、都知事選と同じ日の投開票。小沢さん、お得意の選挙戦術で巻き返しなるか。あの「日焼けヒゲ」おやじは、どうするつもり?
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