おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「能取(のとろ)岬」・「能取岬灯台」・「オホーツクの塔」。(網走行。その4)

2019-11-15 20:35:02 | つかのまの旅人
                       9日(土)。ホテルからの網走湖。明け行く空と湖水と木々。
                              

眼の下を列車が通過中(↓)。
 「石北本線」。1932年(昭和7年)10月1日に難所だった北見峠を越える石北線が全通して、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。通過しているのは、「旭川」行きの列車?
(「Wikipedia」より)

 今日も天気はよさそうですが、ホテルの道路や車のガラスは夜の内に降った雪で、一面びっしり凍り付いています。

 余談ですが、レンタカーを借りたとき、助手席の足下に大きなブラシが置いてありました。ちょっと邪魔くさいな、何でこんなものがあるんだろうと後ろの座席に放っておきました。

 朝出発するときに初めて気づきました。ああ、このためにあったのだな、と。これでゴシゴシとフロントガラスにびっしり張り付いた氷を落とします。東京では、お湯を掛けたりして溶かしたりしますが、それでは瞬時に凍ってしまうのですね。

 「能取岬」に向けて出発。網走市街地から約20分。右手にオホーツク海を見ながら。周囲はすっかり冬景色。
 牧場地帯を通過、目の前が一気に開けてきます。
  

すばらしい景観。

能取(のとろ)」の名は、アイヌ語の「ノッ・オロ」(岬のところ)に由来するそうです。

 ちなみに「オホーツク」はロシア語で「狩猟」(英: hunting)から来ているとのことです。

案内板。
           

 前方に八角形、黒と白のツートンカラーの灯台が。
    
         「能取岬灯台(のとろみさきとうだい)」。1917年(大正6年)10月1日に初点灯。
 八角形の外観はフランスの技師レオンス・ヴェルニーが設計した江戸条約の灯台の影響を受けたとされています。

 ※「江戸条約」=徳川幕府が米、英、仏、蘭の4か国と結んだ改税約書。その中で、第11条に「日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ」とあり、航路標識の設置が義務づけられました。

 日本が今のような灯台を建てるようになったのは、今から約140年前に、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国と結んだ江戸条約で、灯台などを建てる約束をしたことが始まりです。
 もちろん、日本人のだれも西洋式の灯台を見たことがありませんので、フランスとイギリスに、灯台のレンズや機械の買入と指導を頼んでいましたが、そのころ徳川幕府の政治がおわったので、明治新政府が、この仕事を引きつぎました。
 このようにして、明治2年1月1日に神奈川県三浦半島の観音埼に、日本で初めての西洋式の灯台が誕生しました。作ったのは、ヴェルニーというフランス人です。
 フランス人の作った灯台は東京湾のまわりの4か所だけで、それから後は、ブラントンがひきいるイギリス人によって作られました。
 ブラントンは、灯台を26か所に建て、灯船(灯台の役目をする船)2隻をつくっています。
 また、ブラントンは、新しくできた灯台にイギリス人の灯台員をすまわせて、日本人に灯台の仕事を覚おぼえさせ、そのための教科書も作りました。
「観音埼灯台」。

(この項、「」HPより)

                            

 何やら案内板が。かすれて見えないのか、と。ところが、同行の方が手で払うと、何と雪がうっすら覆っていたのです。
「知床の山々の案内図」。よく見えず、残念!

岬の突端の方に大きな塔があるので、向かいます。
                            海を隔てた遠くに知床の山々。

 途中、左手が断崖絶壁。荒々しい波が打ち寄せています。


                     

来年1月下旬には流氷で埋め尽くされる。


 オホーツク海の最北西部沿岸で厳しい寒気に吹き付けられた海水は、-1.8度まで冷えると海面近くに小さな針や板状の氷に変化します。氷晶(ひょうしょう)の誕生です。これが少しずつ増えて、やがて海面を覆います。それが互いにぶつかり合ったり、結合したりして蓮の葉状の氷に成長します。
 11月頃に誕生した蓮葉氷は強い北西の季節風と東カラフト海流に乗って、さらに成長しながらゆっくりとオホーツク海を南下します。それが1月下旬~2月上旬に北海道のオホーツク沿岸へとたどり着きます。


(「」HPより)

オホーツクの塔」。
 1978年の設置。裏側の銘文には「水産日本の発展を希求」と。網を肩にかけ、鋭い視線で遠くを見やる漁師の姿。本郷新 作。

 本郷新の作品には
「わだつみの声」

「北の母子」。など。

(作品紹介は、「」HPより)

さて、戻ることに。



振り返る。

「能取岬」看板。

北西方向を望む。
        はるか遠く紋別付近。左奥には「サロマ湖」。

 雄大な自然を堪能しました。車を運転してくれた方に深い謝意を。

 伝え切れない能取岬の自然を「」HPなどから拝借して紹介。



                        

アッケシソウ。

エゾカンゾウ。

                        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「オホーツク流氷館」・「天都山展望台」。(網走行。その3)

2019-11-14 20:27:42 | つかのまの旅人
                     遠くにオホーツク海、その向こうに知床半島の山並み。 

 「網走監獄」の近くにある「オホーツク流氷館」、「天都山展望台」へ。

   
 流氷とオホーツク海の生き物をテーマとした観光施設。

 正面と左右上下に展開する総インチ数400インチの大迫力5面「流氷幻想シアター」が、ちょうど始まったところ。
 視界すべてに広がり、映像に包み込まれます。オホーツク海の四季。特に流氷のど迫力に圧倒されます。


展望台では、一面に広がるオホーツク海、網走湖、能取湖、濤沸湖、藻琴湖、知床連山の雄大な絶景を体感できます。

「館内」。

                  

   


「クリオネ」。 

小さくて何を撮ったのか分からず。画像を拝借。


「流氷体感テラス」。
                           (写真は、「」HPより)
マイナス15℃の室内で本物の流氷に触れ、夕景や夜明け、低緯度オーロラの再現を体感。今年の流氷が100t展示されています。
 濡れたタオルを凍らせる「しばれ実験」が人気のようで、振り回すようにやってみましたが、見事に凍りました。

  

屋上の展望台へ。

 「天都山」は、眺望がすばらしく、「天の都のような山」という意味で付けられました。

                

遠くに網走の街並み。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「博物館 網走監獄」その2。(網走行。その2)

2019-11-13 22:29:46 | 歴史・痕跡
                             現在の網走刑務所全景。(「Wikipedia」より)

 「博物館 網走監獄」は、元々の「網走監獄(刑務所)」があった位置ではありません。
 1973年(昭和48年)に網走刑務所の改築計画が公表され、貴重な建築物が失われることを憂慮した網走新聞社(現在は廃刊)社主の佐藤久が、刑務所建築物の移築保存=「刑務所施設の博物館構想」を提唱しました。これに網走市、北海道、法務省などの関係機関も協力し財団法人を設立することになります。建物の移築や復原のために9億円の資金を財団が借り入れるため、佐藤は借入金の個人保証をするなどの努力があり、金融機関も資金を貸し付けることで実現しました。今では全国にある博物館の中でも、「網走監獄」は、多くの訪問客を集めています。

1980年(昭和55年):財団法人設立認可。 1983年(昭和58年):開館。

 

哨舎」。登録有形文化財。

味噌・醤油蔵」。

 
                              「休泊所」。
 明治5年の監獄則で罪囚のまくらは丸太を半分にした「半円木」を定められたが外役所や休泊所では手間を省いて一本の丸太のまま使われたこともあったといわれている。この方法はのちの「たこ部屋」にも使われて朝になると丸太の一端をたたいて一斉に起こしたといわれている。

 道路の突貫工事の進行に伴って、1,200人の受刑者が、休泊所を解体したり建てたりを繰り返しながら、前進しました。別名、「動く監獄」と呼ばれていたようです。

二見ヶ岡農場」遠景。重要文化財。
 ここは自給自足を目指し、受刑者自身の自立を促す開放的処遇施設という重要な役割を担っていました。馬鈴薯等の作物の管理から収穫まで受刑者が行っていました。建物は、庁舎、舎房、教誨堂、教誨堂、食堂、浴場等が渡り廊下でつながっています。
 遠方に「高見張り」。

 網走刑務所二見ヶ岡農場は、明治20年(1887年)に設置され、刑務所農場としては日本一広い土地を有効に活用しながら、受刑者に働く喜びを体験させ、健全な心身を作ることをも目標として、寒冷地農業に取り組んでいます。・・・

 この施設は移築されたもので、現在も「刑務所農場」が別のところに存在しています。
 約359ヘクタールの敷地内で全国唯一の和牛肥育のほかタマネギや小豆、ジャガイモなどの野菜、牧草の栽培をしています。95頭の黒毛和牛を育て、出荷する4割が最高のA5ランク。一部は「網走監獄和牛」のブランド名で市場に出回っています。
           

網走刑務所の開放農場公開 法務省「信頼関係が必要」(産経ニュース 2018.6.11 21:16)より
 法務省は11日、塀のない開放的矯正施設の網走刑務所二見ケ岡農場(北海道網走市)を報道陣に公開した。同じ開放的施設の松山刑務所大井造船作業場(愛媛県今治市)で4月に脱走事件があり、受刑者の心情把握徹底などを図るとしている。
 農場は1896年、網走刑務所から約6キロ離れた網走湖畔に開設された。面積は東京ドーム約75個分の359ヘクタールで、当初から農場の周囲には逃走防止用の塀は設置していない。網走刑務所で1~2年服役し、生活態度の良さや就労意欲を認められた受刑者が農場内の寮で共同生活し、牛の世話などに従事する。
 この日は寮と食堂、牛舎などを公開。現在は刑務所の受刑者約740人のうち20人が暮らしており、目覚まし時計やCDプレーヤーを購入できるなど優遇されている。農場に移った受刑者の多くは半年から1年程度で仮出所するという。

五翼放射状平屋舎房」。重要文化財。

                   中央見張り所」。重要文化財。
 1912年(明治45年)から実際に1984年(昭和59年)9月まで使用されていました。刑務所の施設としては 日本最古。木造の刑務所としては 世界最古と言われています。
   (「博物館 網走監獄」HPより) 

  

浴場」。

                         
脱衣に3分、第1槽入浴3分、洗身3分、あがり湯の第2槽入浴3分、着衣に3分と、入浴時間は合計で15分間。これは現在も同じ15分のようです。

煉瓦造り独居房」。登録有形文化財。
 明治時代、監獄内の規則を守らない者には食事の量を減らし、一定の監禁生活させる罰がありました。窓のない真っ暗な、この独居房での生活は受刑者にとって大変つらい生活でした。
 この煉瓦造り独居房は、明治末期に造られ、平成3年3月に博物館網走監獄に移設しました。

             教誨堂」。重要文化財。
 囚人達に精神的、倫理的、宗教的な指導を行うための施設。寺院を思わせる外観とは対照的に内部は柱のない広い空間になっています。

釧路監獄署網走囚徒外役所正門(再現)」。
 網走刑務所は、明治23年3月、釧路監獄署の外役所として設置されました。
北海道中央道路の開削工事にあたり、道東から工事を始めるため、釧路監獄署から網走に囚徒1200名を移動させ外役所を開設しました。
 外役所施設を囲む塀は、この木塀でしたが、木塀では脱走や外部からの侵入を防ぐことが難しいので、時代とともに、社会を遮断する威厳のある煉瓦正門へと変化していったのです。

ぐるっと一巡して館外へ。

 この時期に訪れてもけっこう肌寒いのに、厳寒期はさぞかし過酷な自然のもとでの生活環境であったことが想像できます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「博物館 網走監獄」その1。(網走行。その1)。

2019-11-12 20:26:41 | 歴史・痕跡
 7日~9日。所用のため、網走まで初めて出かけました。東京は、20℃ほど、網走は7℃ほど。寒いから冬の格好で、と言われ、ダウンのコートを携えて。
 三日間とも雪雲は時々通りすぎましたが、日中は、おおむね晴れ。特に、8日は快晴。しかし、夜になると、雨が雪に変わってちらつきます。翌日、周囲は、うっすらと霜が降りたよう。道路は凍っています。
 同行の方がかつて網走で仕事をしていた方で、レンタカーで三日間。市内の様子も、運転も慣れているようで、安心して同乗。

 初日。羽田を飛び立ち、午後1時前に「女満別空港」に到着。足下がひんやりして、寒さを実感。さあ、出発です。
 「網走に来たら、ぜひここは見学した方が」ということで、「網走監獄」へ向かいました。 

「鏡橋」。左手に「監獄食堂」。

                     
 網走刑務所の囚人は皆、収容される時も出所の時も、刑務所の外堀に沿って流れる網走川に架かる橋を必ず渡らなければなりません。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をぬぐいおとす目的で岸に渡るように」と、誰とはなしに鏡橋と呼ばれるようになりました。
 網走刑務所鏡橋は現在までに、4回に亘り架け替えが行われておりますが、この鏡橋は京都五条の大橋に付けられている擬宝珠を模倣し作られた網走刑務所二代目鏡橋の面影を残し、再現しています。

 昼食は、「監獄食堂」で網走刑務所の受刑者が昼食として食べている「監獄食」を。ご飯(米7割・麦3割)、味噌汁、焼き魚(ホッケ)、副菜のセット定食。
   

 ところで「ムショ帰り」などと言いますが、この「ムショ」の語源は?
 「刑務所」の略ではないそうです。
 江戸時代には牢屋のことを「虫寄場(むしよせば)」と呼ばれていました(牢屋が虫カゴのような形をしていたから)。そこから来た。
 また、食事の麦と米の割合が6対4であったから「六四(むし)」とも。この方が、何か言い当てているようですが。

 正直なところ、刑務所の施設を見て回っても、と思いましたが、1時間以上ぐるりと見学。

「入場ゲート」。奥が「正門」(煉瓦造り)。
 明治24年に始まった中央道路開削工事などの、外役労働が終わり、網走刑務所が自給自足による農業監獄を目指して本格的な開墾が始められました。
 明治29年には、現刑務所から西方6㎞の二見ヶ岡に外役所が設けられて、やがて日本一の広大な(16,181,266m)刑務所農場がつくられました。
 この門は、博物館に移築復元されている二見ヶ岡農場の正門を再現し、博物館網走監獄の入場ゲートとしたものです。

                「映画『網走番外地』撮影地の碑」。
「映画監督・石井輝男の作品「網走番外地」のシリーズは、網走刑務所を舞台に作られた。石井監督の墓は、網走市内潮見霊園にある。」

 高倉健が主演した『網走番外地』は、1960年代の世相を反映して大ヒットし、『続網走番外地』『網走番外地 望郷篇』などシリーズ化されて、石井監督で10本、降旗康男監督らの『新網走番外地』シリーズで9本の人気作品となりました。
 このように、高倉健さん主演の映画「網走番外地」シリーズが人気となったことで、「網走刑務所」の名は全国レベルでの観光名所となっています。しかし、小生はこの映画を1本も観たことがありません。

「正門」。

「正門」裏から「教誨堂」を望む。


 

            「庁舎」。
                 囚人が切り開いた北海道開拓の歴史と施設内の見所を展示したコーナーあり。

 庁舎の展示物、解説やパンフレットを見て、まったくの誤解と知識の無さに気づかされました。

 1868年(明治元年)約260年余り続いた徳川幕府が終わりを告げて、天皇を中心とする明治政府が誕生しました。明治政府は、徳川幕府の鎖国政策によって世界の変化から取り残された日本の近代化を推し進めるため、すなわち古いシステムや制度を壊して新しい政治を行う中央集権化を始めました。
 しかし、明治天皇はこの時、16歳という年齢で、新しい政治で手腕を発揮するには幼すぎたので実際には江戸幕府を倒すために功績があった薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らが中心となって政治を行いました。
 まず真っ先に行ったことは、武士による政治は終わったと宣言する王政復古の大号令でした。新政府にとって、徳川家を中心とする幕府の生き残りは大きな脅威でした。
 この結果、旧幕府の家臣たちと新政府は戦うことになり、日本を二つに分けた内乱戊辰戦争(1868年~1869年)がおきました。この戦いにより、江戸城の無血開城がなされ、新政府は江戸城に入城しました。もちろん旧幕府軍の中には納得しない人たちもいました。彼らは江戸をあとにして会津に向かいました。会津藩と新政府軍の戦いでは白虎隊の悲劇が有名です。更にこの戦いは当時蝦夷地と呼ばれていた北海道に移ってきました。戦いの舞台は函館、五稜郭という城に新選組の副長だった土方歳三や榎本武揚らが立てこもり、彼らは蝦夷共和国という政権を樹立しましたが4ケ月で敗北、城を明け渡し戊辰戦争が終わりました。
 これにより、明治政府による本格的な政治がはじまったのです。明治政府は富国強兵というスローガンを掲げ、諸外国に追いつき、追い越すために産業を育成し、国を豊かにさせ兵力を強くし国力を充実させようと必死でした。その目標達成のためには、蝦夷が島の手つかずの資源が必要だったのです。しかし19世紀に入って蝦夷が島周辺には、イギリスやアメリカ、ロシアの艦船がやってきて調査を行うようになりました。ロシアは、シベリアやカムチャツカ、サハリンを植民地とし、蝦夷が島をもロシアの植民地にしそうな勢いでした。
 そこで、1869年(明治2年)明治政府は蝦夷地を北海道と名づけ、開拓使という役所を置いて開拓を進めることにしました。
 一方で明治政府は欧米の進んだ文化を学んでみようと大使節団を派遣することにしました。このリーダーに選ばれたのが岩倉具視です。 使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを2年間かけて訪問し諸外国の進んだ文化に感嘆し殖産興業への意を固めたのでした。このことが、留守を預かっていた西郷、板垣らとの考え方に溝を深めることになりました。
 この頃、日本と朝鮮は国交断絶状態にあり、国交回復を何度か朝鮮に呼びかけましたが、拒絶されたことに憤慨した板垣退助は、武力で開国させようとしましたが、この考えに意を反したのが、使節団として派遣された人たちでした。
 先進国の進んだ文明を見せつけられた彼らは武力による開国に反対しました。 使節団と留守部隊の考えの相違により、西郷と板垣は明治政府を去ることになったのです。ここから板垣退助は国会開設を政府に要求する自由民権運動を開始します。西郷は地元鹿児島に戻り私学学校を作り若者の教育に努めました。
 この時、同じように明治政府を去った江藤新平らが佐賀の乱(1874年明治7年)を起こし、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が相次ぎました。そしてとうとう1877年(明治10年)西郷が立つ日がやってきました。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台とした8か月に及ぶ内戦は西郷の自害で幕を閉じました。
 征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。
 広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。
 当博物館は、このような歴史的背景や政情により犯罪者となった人々が未開の地、北海道集治監に送られ北海道開拓という使命のもと北海道開拓に果たした功績と、彼らが罪を償いながら暮らした証である五翼放射状舎房をはじめとする明治の行刑建築物を文化財として保存公開しております。これらの行刑建築物は、西欧の建築技術を模倣し近代的で且つ斬新に建てられました。その結果北海道に設置された5つの集治監の建築物は偽洋風建築という特徴のある建物となったのです。
 特に網走監獄は、広大な土地に永久的に監獄を存続させようとの意図がありましたので、他の集治監よりも整備された建築物でした。
 「博物館網走監獄」は北海道行刑という明治の黎明期に忽然と現れ、北海道開拓の布石としてその役目を終え、消え去った行刑の歴史を名勝天都山中腹の緑豊かな森に甦らせ、網走の風土と共に語り継いでいくことを理念とする「野外歴史博物館」です。

(以上、「博物館 網走監獄」HPより)

庁舎内の「展示」。
 北海道の集治監は、北海道開拓において重要な役割を担いました。北海道開拓といえば屯田兵や入植団が知られていますが、開拓の礎となった囚人労働のことはあまり知られていません。
 明治時代の初め、政府はロシア帝国の南下政策に備えるため、北海道開拓を急ぐ必要があり、北海道に集治監を設置し、囚人を労働力として使うことが考え出されたのです。網走監獄は1890年(明治23年)に釧路集治監の外役所として開設され、1200人の囚人が、道路建設に昼夜兼行で使役され、北見道路(国道333号)は、僅か1年で、網走から北見峠まで約160kmが開通したと言います。
 しかし、過酷な労働でありケガする者、遠くで働いている際に食料運搬がうまく行かなく栄養失調になる者も多く、死者は200名を越えました。
 その後も、網走港、現在の女満別空港辺りの広大な農地の開拓などにも受刑者が駆り出されました。北海道の大地を貫く道路や鉄道も、農地も切り拓いたのは囚人たちでした。
 逃亡を防ぐため、囚人は2名が鉄の鎖で繋がれていたと言いますので、作業も過酷だったようです。うまく逃げたとしても、今の北海道と違って周りは原生林ですので、生き延びられる可能性は低い状態だったようです。網走の冬は外気温が零下20度まで下がると言う厳しいところでした。
 その後、囚人は炭坑や火山の硫黄採取などにも動員されますが、過酷な労働を課すことが国会で問題となり、明治27年には廃止されました。

《補足》
 道央とオホーツク海沿岸を結ぶ道路開削工事は、険しい自然の地理的条件と野生動物のヒグマとの戦いであったといわれており、囚人労働史上で最も悲惨な事例とされている。1891年(明治24年)4月の雪融けを待って5月から原始林に駆り出され、斧を振りかざし大木を切り倒し、土砂や切り株をモッコに入れ担ぎ、夜にはカガリ火を焚き、松明をかざしながらの重労働が行われ、連日昼夜兼業で強行された結果、わずか8か月後の同年12月末には、北見峠・白滝 - 網走間の163キロメートル区間を完成させた。
 道路建設では、囚徒200人(220人とも)を一団として4組に分け、3里から4里(約12–16キロメートル)を1区画として受け持ち、15間幅(約30メートル)に立ち木を切り倒して、3間幅(約6メートル)の道路を建設する工事が進められたが、割り当てが早く終わった組には次の工区の選択権が与えられていたため、空知集治監と網走監獄の各組の看守間で熾烈な競争が起こった。囚徒たちへの過酷な強制労働は、山岳部の奥地に建設現場が進むにつれて食糧運搬がうまくいかなくなったことにより、栄養失調や怪我で211人とも言われる多くの死亡者を出す事態となり、多大な犠牲を払った。囚人たちの傷だらけの身体にヤブカややヌカカの大群が襲来したほか、寒さや過労、食糧不足からくる栄養失調から水腫病とよばれる全身が膨れ上がる病が大量発生し、北見では半年間で、出役した1150人のうち900人以上が発病して180人から230人以上が死亡した。
 当時、囚人たちの人権は無視されていたといってもよく、「囚徒らがたとえ死んだとしても監獄費の経費節減になる」という思想がまかり通っていた時代であった。囚徒たちの労働生活は、全員が1本の丸太を枕として眠り、夜明け前の午前3時半の起床では看守が大声で叫ぶほか、丸太枕を叩いて起こし、逃亡防止のために2人の足を鎖でつないで使役させられていた。看守たちは携帯したピストルとサーベルや長棒で囚徒たちの後ろから威嚇し、強制労働の苦痛に耐えきれず逃亡を謀った者は「拒捕惨殺(きょほざんさつ)」といって、見せしめのために看守にその場で切り殺されるか、逃亡できたとしても、食糧を見つけることが困難な山中では食いつなぐことも出来ず、結局は作業場へ戻るしかなかったと伝えられる。病死や惨殺されていった囚徒たちの屍は、そのまま現場近くへ捨てられて風雨にさらされたといい、やがて当時の仲間の囚人たちによって土を盛るようにかぶせられて埋葬された。
 のちにそうした「土まんじゅう」は入植者らによって見つけられ、掘り起こされると土に還りつつある人骨と、墓標の目印として置かれた鎖がそのまま出てきたことから鎖塚とよばれるようになり、鎖でつながれたままの2人の白骨も発見されている。北見市のJR緋牛内駅の周辺でも3基の鎖塚が残されている。
(この項、「Wikipedia」より)

「典獄は語る」。

 「裏門」。

            「刑務所水門」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老嬢Sの寝物語。

2019-11-06 21:13:35 | じじばばがゆく

 今振り返ると、けっこう幸せな人生だった。いい人生だったわ。
 人並みの生活が送れて。あなたもそうでしょうけど。

 ・・・

 夢見ながら話しているの。

 10年、20年・・・。もうそんな長く生きたいとは思わないわよ。
 わがままいっぱいで来ただけ。ホントウよ。

 今、色々整理しているんだけれど。
 着物もすっかり全部処分した。他にもあれこれ。
 食器もアメリカで買ったすてきなコーヒーカップなど、色々あるんだけれど。
 けっこう高かったし、・・・。
 でも、娘達は要らないっていうし、バザーにでも出そうかしら。

 そうよね、食器って自分たちで気に入ったものを選ぶものよね。

 ・・・

 中学の時の先生にとても気に入られて、色んな所に連れて行って貰ったわ。
 海水浴とか銀座とか。あなたもご存じの先生よ。

 今じゃ問題になっちゃうかもね。
 もちろん誰かと一緒よ、誘ってね。

 先生って、生徒によって好き嫌いがあるじゃない、あの人なんか大嫌いだったみたいよ。今でもそうらしいわ。

 ちょっと人の話を聞いているの。何をごちょごちょやっているの? 
 ありがとう。でも、お茶なんか後でいいからさ、少しくらい話に集中してよ。

 高校の時も国語の先生がすっごく可愛がってくれて、ずっと後まで親しくして貰った。卒業して結婚してからも。
 家族ぐるみでね。

 奥さんから連絡があってもうあぶないからって。大船まで通って、先生の足をさすってあげた。3日間も通って。
 もう意識はなかったみたいだけど。80過ぎだったわ。

 九州の大学を出たけれど、文学がやりたくて京大に入り直して、それから大阪で女子高の先生に。
 修学旅行で東京に来たときに、そのバスガイドの方と知り合って、そのまま、東京の先生になった、らしいの。

 そんなすてきな話を聞かせて貰ったわ。

 ・・・

 高校を卒業して会社に入ったけど、当時の花形部署。そこで、主人と知り合ったのよね。

 何人も同じ高校から同じ会社に就職したけど、色々あったわね。女性同士の嫉妬って深いじゃない。私を目の敵にしていた人もいたし。

 そりゃあ、大変な時もあったわよ。それでも何とか結婚までは頑張ったわ。

 ・・・

 「野田岩」の鰻重は久しぶり。何年前かな、食べに行ったことがあったわ。
 でも、ちょっと味が変わったんじゃないかな、昔と違う感じ。

 眠くなった? もう少し私の話を聞いてくれる?

 ・・・

 この目の前の坂の先に大きな社宅があったのよね。けっこう広い敷地で、ここから子供達を小学校に通わせたの。
 そこ? 今は売って、その後、マンションなんかになっているみたい。その坂の先を行ったところが「六本木ヒルズ」になるわけよ。

 学校? 坂をけっこう下ったところにある「麻布小」。飯倉片町のところね。幼稚園も併設されていたわ、今でもそうだけど。

 母親が若い頃、麻布に住んでいたので、不思議な縁よね。自分も同じようなところに住むなんてね。
 今の家のお寺さんも麻布だし。

 母親も内幸町の銀行に勤めていたことがあったし、主人の父もそこに縁があったのよね。そういう縁つながりってあるのかしらね。

 お墓? 「大黒坂」のところ。そういえば、この辺の坂は歩いたことがあるんでしょ、あなたも。

 ・・・

 「七面坂」、「一本松坂」、「狸坂」、「潮見坂」、「暗闇坂」、「狸穴坂」・・・
 それから少し北の方には、「植木坂」、「鼠坂」、「於多福坂」、「雁木坂」なんていうのもあるし、・・・

「大黒坂」
    
 
「七面坂」。
    

「一本松坂」。
    
                                          一本松。
「狸坂」。
    

 「行合坂」っておしゃれな名前だと思わない?

「行合坂」。
    

 そう、さっきの「アマンド」から麻布十番へ下って行く坂は、「芋洗坂」とか言うんじゃない。「饂飩坂」だったかな。

 ・・・

 泣いてないわよ。

 ホント、この辺は、懐かしいわ。「有栖川公園」にもよく子供達を連れて行ったし、・・・。

 この辺もずいぶん変わったわね。久々に来ると。
 古いお店がなくなって、安っぽいチェーン店ばかり増えてきている感じ。

 さっきの和菓子屋さんなんて頑張っている方じゃない。「六本木」というネーミングの焼き菓子を買ってみたけど。

                  

 美味しいでしょ。他にもすてきな和菓子を作っている。「青野」さん。創業は安政3(1856)年。今でも六本木で和菓子を作る老舗なのよね。
                       (「和菓子 青野総本舗」HPより)

 ・・・

 それから国内であちこち転勤があって、ここの社宅を出て、転勤族よね。
 その後、海外出張でアメリカ、そして今の所に落ち着いたわけよね。
 もう子育てやら、姑の世話やらでてんてこ舞いだったわ。

 今も同じ。義母は施設に入っているけど。家事は相変わらずよ。

 子どもたちも皆巣立ってしまって、・・・。
 でも、何かというと、「バアバ」と呼び出されるし、家に何日も泊まりにきたりして、相変わらず、てんやわんやよ。

 眠いわよ、今朝は4時起き、3時頃から、うとうとして。主人が朝早くから奈良へ出かけるっていうんでね。
 まだまだ元気よ、元気。買い物なんかも積極的に手伝ってくれるし、あなたなんかしたことないでしょう。

 眠くて、眠くて。一寝入りしたいわ。

 ・・・

 でも、幸せな人生だったわ。もう、こうしてたくさんいい思い出をつくって。
 思い残すことはないわ、今日でお別れよ(笑)。

 独り言はこれでおしまい!

 ・・・

 そう、連絡してみたら、みんなの都合を。
 女の人って色々あるのよ。家を空けるって大変なことなの、意外と。男性の方はけっこう気楽そうだけれど。

 ふぐ料理で「忘年会」? それもいいわね。
 山口にいたときには、魚屋さんでふぐをさばいてもらって家でよく食べていたわ。

 ふーん、浅草か両国でか。連絡待っているわ。でも、皆さん、来られるかしら。
 年取ると、いろいろあるからね、自分のことだけじゃなくて。

 ・・・

 色々しゃべりすぎたわね。

 おやすみなさい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする