7日~9日。所用のため、網走まで初めて出かけました。東京は、20℃ほど、網走は7℃ほど。寒いから冬の格好で、と言われ、ダウンのコートを携えて。
三日間とも雪雲は時々通りすぎましたが、日中は、おおむね晴れ。特に、8日は快晴。しかし、夜になると、雨が雪に変わってちらつきます。翌日、周囲は、うっすらと霜が降りたよう。道路は凍っています。
同行の方がかつて網走で仕事をしていた方で、レンタカーで三日間。市内の様子も、運転も慣れているようで、安心して同乗。
初日。羽田を飛び立ち、午後1時前に「女満別空港」に到着。足下がひんやりして、寒さを実感。さあ、出発です。
「網走に来たら、ぜひここは見学した方が」ということで、「網走監獄」へ向かいました。
「鏡橋」。左手に「監獄食堂」。
網走刑務所の囚人は皆、収容される時も出所の時も、刑務所の外堀に沿って流れる網走川に架かる橋を必ず渡らなければなりません。「川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をぬぐいおとす目的で岸に渡るように」と、誰とはなしに鏡橋と呼ばれるようになりました。
網走刑務所鏡橋は現在までに、4回に亘り架け替えが行われておりますが、この鏡橋は京都五条の大橋に付けられている擬宝珠を模倣し作られた網走刑務所二代目鏡橋の面影を残し、再現しています。
昼食は、「監獄食堂」で網走刑務所の受刑者が昼食として食べている「監獄食」を。ご飯(米7割・麦3割)、味噌汁、焼き魚(ホッケ)、副菜のセット定食。
ところで「ムショ帰り」などと言いますが、この「ムショ」の語源は?
「刑務所」の略ではないそうです。
江戸時代には牢屋のことを「虫寄場(むしよせば)」と呼ばれていました(牢屋が虫カゴのような形をしていたから)。そこから来た。
また、食事の麦と米の割合が6対4であったから「六四(むし)」とも。この方が、何か言い当てているようですが。
正直なところ、刑務所の施設を見て回っても、と思いましたが、1時間以上ぐるりと見学。
「入場ゲート」。奥が「正門」(煉瓦造り)。
明治24年に始まった中央道路開削工事などの、外役労働が終わり、網走刑務所が自給自足による農業監獄を目指して本格的な開墾が始められました。
明治29年には、現刑務所から西方6㎞の二見ヶ岡に外役所が設けられて、やがて日本一の広大な(16,181,266m)刑務所農場がつくられました。
この門は、博物館に移築復元されている二見ヶ岡農場の正門を再現し、博物館網走監獄の入場ゲートとしたものです。
「映画『網走番外地』撮影地の碑」。
「映画監督・石井輝男の作品「網走番外地」のシリーズは、網走刑務所を舞台に作られた。石井監督の墓は、網走市内潮見霊園にある。」
高倉健が主演した『網走番外地』は、1960年代の世相を反映して大ヒットし、『続網走番外地』『網走番外地 望郷篇』などシリーズ化されて、石井監督で10本、降旗康男監督らの『新網走番外地』シリーズで9本の人気作品となりました。
このように、高倉健さん主演の映画「網走番外地」シリーズが人気となったことで、「網走刑務所」の名は全国レベルでの観光名所となっています。しかし、小生はこの映画を1本も観たことがありません。
「正門」。
「正門」裏から「教誨堂」を望む。
「庁舎」。
囚人が切り開いた北海道開拓の歴史と施設内の見所を展示したコーナーあり。
庁舎の展示物、解説やパンフレットを見て、まったくの誤解と知識の無さに気づかされました。
1868年(明治元年)約260年余り続いた徳川幕府が終わりを告げて、天皇を中心とする明治政府が誕生しました。明治政府は、徳川幕府の鎖国政策によって世界の変化から取り残された日本の近代化を推し進めるため、すなわち古いシステムや制度を壊して新しい政治を行う中央集権化を始めました。
しかし、明治天皇はこの時、16歳という年齢で、新しい政治で手腕を発揮するには幼すぎたので実際には江戸幕府を倒すために功績があった薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らが中心となって政治を行いました。
まず真っ先に行ったことは、武士による政治は終わったと宣言する王政復古の大号令でした。新政府にとって、徳川家を中心とする幕府の生き残りは大きな脅威でした。
この結果、旧幕府の家臣たちと新政府は戦うことになり、日本を二つに分けた内乱戊辰戦争(1868年~1869年)がおきました。この戦いにより、江戸城の無血開城がなされ、新政府は江戸城に入城しました。もちろん旧幕府軍の中には納得しない人たちもいました。彼らは江戸をあとにして会津に向かいました。会津藩と新政府軍の戦いでは白虎隊の悲劇が有名です。更にこの戦いは当時蝦夷地と呼ばれていた北海道に移ってきました。戦いの舞台は函館、五稜郭という城に新選組の副長だった土方歳三や榎本武揚らが立てこもり、彼らは蝦夷共和国という政権を樹立しましたが4ケ月で敗北、城を明け渡し戊辰戦争が終わりました。
これにより、明治政府による本格的な政治がはじまったのです。明治政府は富国強兵というスローガンを掲げ、諸外国に追いつき、追い越すために産業を育成し、国を豊かにさせ兵力を強くし国力を充実させようと必死でした。その目標達成のためには、蝦夷が島の手つかずの資源が必要だったのです。しかし19世紀に入って蝦夷が島周辺には、イギリスやアメリカ、ロシアの艦船がやってきて調査を行うようになりました。ロシアは、シベリアやカムチャツカ、サハリンを植民地とし、蝦夷が島をもロシアの植民地にしそうな勢いでした。
そこで、1869年(明治2年)明治政府は蝦夷地を北海道と名づけ、開拓使という役所を置いて開拓を進めることにしました。
一方で明治政府は欧米の進んだ文化を学んでみようと大使節団を派遣することにしました。このリーダーに選ばれたのが岩倉具視です。 使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを2年間かけて訪問し諸外国の進んだ文化に感嘆し殖産興業への意を固めたのでした。このことが、留守を預かっていた西郷、板垣らとの考え方に溝を深めることになりました。
この頃、日本と朝鮮は国交断絶状態にあり、国交回復を何度か朝鮮に呼びかけましたが、拒絶されたことに憤慨した板垣退助は、武力で開国させようとしましたが、この考えに意を反したのが、使節団として派遣された人たちでした。
先進国の進んだ文明を見せつけられた彼らは武力による開国に反対しました。 使節団と留守部隊の考えの相違により、西郷と板垣は明治政府を去ることになったのです。ここから板垣退助は国会開設を政府に要求する自由民権運動を開始します。西郷は地元鹿児島に戻り私学学校を作り若者の教育に努めました。
この時、同じように明治政府を去った江藤新平らが佐賀の乱(1874年明治7年)を起こし、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が相次ぎました。そしてとうとう1877年(明治10年)西郷が立つ日がやってきました。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台とした8か月に及ぶ内戦は西郷の自害で幕を閉じました。
征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。
広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。
当博物館は、このような歴史的背景や政情により犯罪者となった人々が未開の地、北海道集治監に送られ北海道開拓という使命のもと北海道開拓に果たした功績と、彼らが罪を償いながら暮らした証である五翼放射状舎房をはじめとする明治の行刑建築物を文化財として保存公開しております。これらの行刑建築物は、西欧の建築技術を模倣し近代的で且つ斬新に建てられました。その結果北海道に設置された5つの集治監の建築物は偽洋風建築という特徴のある建物となったのです。
特に網走監獄は、広大な土地に永久的に監獄を存続させようとの意図がありましたので、他の集治監よりも整備された建築物でした。
「博物館網走監獄」は北海道行刑という明治の黎明期に忽然と現れ、北海道開拓の布石としてその役目を終え、消え去った行刑の歴史を名勝天都山中腹の緑豊かな森に甦らせ、網走の風土と共に語り継いでいくことを理念とする「野外歴史博物館」です。
(以上、「
博物館 網走監獄」HPより)
庁舎内の「展示」。
北海道の集治監は、北海道開拓において重要な役割を担いました。北海道開拓といえば屯田兵や入植団が知られていますが、開拓の礎となった囚人労働のことはあまり知られていません。
明治時代の初め、政府はロシア帝国の南下政策に備えるため、北海道開拓を急ぐ必要があり、北海道に集治監を設置し、囚人を労働力として使うことが考え出されたのです。網走監獄は1890年(明治23年)に釧路集治監の外役所として開設され、1200人の囚人が、道路建設に昼夜兼行で使役され、北見道路(国道333号)は、僅か1年で、網走から北見峠まで約160kmが開通したと言います。
しかし、過酷な労働でありケガする者、遠くで働いている際に食料運搬がうまく行かなく栄養失調になる者も多く、死者は200名を越えました。
その後も、網走港、現在の女満別空港辺りの広大な農地の開拓などにも受刑者が駆り出されました。北海道の大地を貫く道路や鉄道も、農地も切り拓いたのは囚人たちでした。
逃亡を防ぐため、囚人は2名が鉄の鎖で繋がれていたと言いますので、作業も過酷だったようです。うまく逃げたとしても、今の北海道と違って周りは原生林ですので、生き延びられる可能性は低い状態だったようです。網走の冬は外気温が零下20度まで下がると言う厳しいところでした。
その後、囚人は炭坑や火山の硫黄採取などにも動員されますが、過酷な労働を課すことが国会で問題となり、明治27年には廃止されました。
《補足》
道央とオホーツク海沿岸を結ぶ道路開削工事は、険しい自然の地理的条件と野生動物のヒグマとの戦いであったといわれており、囚人労働史上で最も悲惨な事例とされている。1891年(明治24年)4月の雪融けを待って5月から原始林に駆り出され、斧を振りかざし大木を切り倒し、土砂や切り株をモッコに入れ担ぎ、夜にはカガリ火を焚き、松明をかざしながらの重労働が行われ、連日昼夜兼業で強行された結果、わずか8か月後の同年12月末には、北見峠・白滝 - 網走間の163キロメートル区間を完成させた。
道路建設では、囚徒200人(220人とも)を一団として4組に分け、3里から4里(約12–16キロメートル)を1区画として受け持ち、15間幅(約30メートル)に立ち木を切り倒して、3間幅(約6メートル)の道路を建設する工事が進められたが、割り当てが早く終わった組には次の工区の選択権が与えられていたため、空知集治監と網走監獄の各組の看守間で熾烈な競争が起こった。囚徒たちへの過酷な強制労働は、山岳部の奥地に建設現場が進むにつれて食糧運搬がうまくいかなくなったことにより、栄養失調や怪我で211人とも言われる多くの死亡者を出す事態となり、多大な犠牲を払った。囚人たちの傷だらけの身体にヤブカややヌカカの大群が襲来したほか、寒さや過労、食糧不足からくる栄養失調から水腫病とよばれる全身が膨れ上がる病が大量発生し、北見では半年間で、出役した1150人のうち900人以上が発病して180人から230人以上が死亡した。
当時、囚人たちの人権は無視されていたといってもよく、「囚徒らがたとえ死んだとしても監獄費の経費節減になる」という思想がまかり通っていた時代であった。囚徒たちの労働生活は、全員が1本の丸太を枕として眠り、夜明け前の午前3時半の起床では看守が大声で叫ぶほか、丸太枕を叩いて起こし、逃亡防止のために2人の足を鎖でつないで使役させられていた。看守たちは携帯したピストルとサーベルや長棒で囚徒たちの後ろから威嚇し、強制労働の苦痛に耐えきれず逃亡を謀った者は「拒捕惨殺(きょほざんさつ)」といって、見せしめのために看守にその場で切り殺されるか、逃亡できたとしても、食糧を見つけることが困難な山中では食いつなぐことも出来ず、結局は作業場へ戻るしかなかったと伝えられる。病死や惨殺されていった囚徒たちの屍は、そのまま現場近くへ捨てられて風雨にさらされたといい、やがて当時の仲間の囚人たちによって土を盛るようにかぶせられて埋葬された。
のちにそうした「土まんじゅう」は入植者らによって見つけられ、掘り起こされると土に還りつつある人骨と、墓標の目印として置かれた鎖がそのまま出てきたことから鎖塚とよばれるようになり、鎖でつながれたままの2人の白骨も発見されている。北見市のJR緋牛内駅の周辺でも3基の鎖塚が残されている。
(この項、「Wikipedia」より)
「典獄は語る」。
「裏門」。
「刑務所水門」。