おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

曲尺手。本陣跡。県境。キャベツの花。一里塚。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その5。)

2015-04-30 23:28:20 | 旧東海道

 行く手に宿場に特徴的なカーブが見えてきました。

「曲尺手(かねんて)」。

    

曲尺手(かねんて)

 曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。
 江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急避難をしました。

    
              「白須賀宿」の中心地へ。

「本陣跡」。

 本陣とは、江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中に宿泊・休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた立派な建物でした。本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもありました。
 この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪百八十三坪、畳敷二百三十一畳、板敷五十一畳とあります。

空き地。間口が狭く、奥行きの長いのが、宿場内の建物や土地の特徴です。

「脇本陣跡」。

家並み。

  問屋場跡。

 その先の交差点の右手角には、「夏目甕麿邸址」。

    
 

夏目甕麿邸址

 白須賀生まれの国学者。夏目甕麿(みかまろ)は通称嘉右衛門、萩園と号した。酒造を業とし、国学を内山真龍に学び、のちに本居宣長の門に名を連ねた賀茂真淵の「万葉集遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜家集」等数編がある。文政5年(1822)没。
 子供の加納諸平(もろひら)は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平の許に寄寓、乞われて加納家の養子となり、のちに紀州侯に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。
 諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集を始め数多くの著作がある。安政3年(1856)歿。

 湖西市教育委員会

 しばらく進むと、左手に火防と呼ばれる槙が植えられているところがあります。
         

湖西市指定文化財 白須賀宿の火防

 東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永5年(1708)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶのはこの為である。
 宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬季に西風が強く、たびたび火災が発生し、然も大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにも依る。
 そこで此の火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。
 火防の広さは、間口二間(3.6m)奥行四間半(8.2m)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防が有った。

 湖西市教育委員会

「火除け地跡」碑。

 宿内の家並の中で、道路側に支柱があり、軒をせり出したおうちを見かけます。

    

 車も人の通りも少ない宿内の道を歩きます。 

     多くのおうちでかつての「屋号」を掲げています。

 道なりに行くと、再び「白須賀宿」の案内図があります。「境宿(白須賀宿加宿)」とあります。


 そのすぐ先、右手の角には、「高札場跡」碑。

 いよいよ静岡県(遠江国)と愛知県(三河国)との県(国)境に近づいてきました。静岡県最後の宿場・白須賀宿内を振り返ります。
               

 正面の、緩やかな坂を上がっていくと、国道42号線に合流し、少し行った分岐点を右に入ります。この道が旧東海道。
    

 再び国道に合流して進むと、静岡と愛知との県境となっている小さい川を越します。
南側。右が愛知県、左が静岡県。

北側。右が静岡、左が愛知。

ちょうど橋の中央で河川管理の管轄が分かれます。

    
   手前が「静岡県」。                  その反対側が「愛知県」。

 愛知県内、最初の市は豊橋市。突き当たりの「一里山東」交差点で、で国道1号線と合流して「名古屋・岡崎」方面に進みます。

    「一里山七本松植樹」。
 平成12年3月に植えられたようで、東海道五三次宿場制定400年記念の植樹です。

そこから「国道1号線」を望む。

 幹線道路で激しく車の行きかう「国道1号線」沿いに進みます。右手は、キャベツ畑。黄色い花が一面に咲き乱れています。菜の花ではなさそう、キャベツにも黄色い花が。はてさて?
 


 しばらく行くと、右手にこんもりとした緑の一角が見えてきます。

    
                             「一里山一里塚」。日本橋から71里。


豊橋市指定史跡 一里山の一里塚

 慶長9年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には木陰の休所ともなった。
 江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが、明治以降その必要性も次第に失われ荒廃に任せられた。
 この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一基ずつあったが、南側のものは破壊されて屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末頃には全く滅失してしまった。現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を残す極めて稀な遺構の一つである。

 豊橋市教育委員会

 振り返って全貌を写そうとすると、看板が邪魔! 
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浜名旧街道・松並木。潮見坂。白須賀宿。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その4。)

2015-04-29 18:55:29 | 旧東海道

 宿場と宿場の間の街道は、今では(昔も? )ひたすら歩く場合が多い。今回の「浜名旧街道」もしばらく単調な道筋。しかし、松並木が続き、周囲も視界が広がるなど、次の一里塚まで約1時間の道のりもそれほど苦ではありません。

「国道1号線」との交差点「橋本」。

「新居宿加宿」とあるので、このあたりも宿場町が形成されていたのでしょう。「国道1号線」をしばらく進み、「橋本西交差点」を右に入ります。

「橋本宿」碑。

 民家の前の植え込みにありました。表札に「疋田」。新居宿本陣の経営者の名前でもありました。このあたりには「疋田」姓が多いようです。

この付近のようす。

 ここからが「浜名旧街道」。道の南側に松並木がつづきます。
 この「旧東海道」、大正時代からは「国道1号線」として重要な道路として存在していました。しかし、江戸時代からあった松並木は、昭和50年代に発生した全国的な松くい虫の被害によって、この街道の松も全滅しました。そこで、昔の面影を再現すべく昭和62年に植栽・復元したものだそうです。



 昭和50年代、「松食い虫」の被害は大きく、この地域でも4万本以上の松が枯れてしまったとか。全国でも、有名な古木などが次々と被害に遭って枯れたしまったことが大きなニュースにもなりました。
 今も東海道を歩いていると、赤茶けた松の姿が時々見かけられます。伐採して他の松への被害を最小限にとどめるしか方法はないようです。

(「農水省」HPより)

「紅葉寺跡」。室町幕府の将軍足利義教がここで紅葉を鑑賞したといわれています。

    
 振り返って、松並木を望む。                         左手には、田畑が広がる。

 多くの車が通行する、現在の「国道1号線」と比べて、車の通りも少なく、自然なカーブの中で、のんびりと田園風景を楽しみながら歩くことができます。

 大きな石碑。 藤原為家と阿佛尼の歌碑。

    

 風わたる濱名の橋の夕しほに
    さされてのぼる あまの釣舟   前大納言為家

 わがためや浪もたかしの浜ならん
    袖の湊の 浪はやすまで   阿佛尼

 藤原為家(1198~1275)
  鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え、父の没後家系と学統を継いだ。承久の乱後、「千首和歌」で歌人として認められ、「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」の勅撰集を始め、多くの私家集を編んだ。歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」巻第十九に収められている。

 阿佛尼(?~1283)
 朝廷に仕えた後、藤原為家の継室となり、夫の没後出家し、鎌倉下向の折、「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。
 よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。

 新居町教育委員会



 松並木の先に立場跡。

立場跡
 旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。
 この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。
 立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌を詠んだという話しが残っている。

 平成22年3月 湖西市教育委員会

    
                          現在の町並み。

 右手に「秋葉山の常夜燈」と祠。

「明治天皇御野立所(おのだちしょ)阯」。

 明治元年(1868)9月20日岩倉具視等を従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居へ向かう際に休憩した所。
 明治天皇はその夜、新居宿飯田本陣に宿泊、10月13日に東京に到着した。

 「白須賀宿」の案内図。

 「白須賀宿(しらすかしゅく、しらすかじゅく)」は、東海道五十三次の32番目の宿場。現在の静岡県湖西市白須賀。遠江国最西端で、静岡県最西端の宿場町でもあります。
 元々は海岸近くにありましたが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けたため、その後「潮見坂」の上の高台に移されました。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模です。
 宿場が廃止された後の1889年に白須賀町が成立、1955年に湖西町(現在の湖西市)に編入されました。
 明治の東海道本線敷設では、東の新居宿(静岡県湖西市新居町)から白須賀宿へ至る潮見坂の勾配が蒸気機関車運転の障害となり、浜名湖沿岸の鷲津経由となったため、現在も当時の家並みや面影を残しています。

しばらく進むと右手の民家の前に、「一里塚」と「高札場」跡の石碑と説明板。ここが日本橋から70里目。

    


一里塚跡

 一里塚は、徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のときに設けられたものです。慶長9年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約4キロメートル)ごとにつくられました。
 塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ二メートルほどの盛土をし、榎・しい・松などが植えられました。
 この辺りでは、一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。

高札建場跡

 幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など、人の目につきやすい場所に設置されました。
 白須賀宿には、ここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されたほか、加宿である境宿村にも一箇所、設置されていました。

長屋門のあるおうち。  

 いよいよ「潮見坂」に向かいます。右手へ。

 急坂をしばらく上って振り返ると、家並みの向こうに海が見えます。海(潮)が見えるから、「潮見坂」。ここからは遠州灘だけではなく、富士山も見えたそうです。

    
   現在のようす。                       大正期のようす(「知足美術館」HPより)。
 
 けっこう急な上り坂。振り返る。

遠くに遠州灘。但し、正面の道は県道に通じる道で、旧道ではありません。見晴はすばらしい。

    
  「潮見坂」説明板。

 潮見坂

 潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。
 西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれます。
 浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。

 坂を登りきると左に無料休憩所、「おんやど白須賀」があります。「おんやど白須賀」は東海道宿駅開設400年を記念して
設置された施設で、史跡のパネルなどが展示されています。ここで、お茶を飲みながら昼食休憩。

館内にある広重の浮世絵。

    

 さて、「白須賀宿」へ向かって出発です。潮見坂上には、いくつか石碑が立っています。

 左手には潮見坂公園跡の碑。

潮見坂公園跡

 明治天皇が江戸へ行幸する途中に休まれた潮見坂上は、かって織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康が茶亭を新築し、信長をもてなした所でもあります。
 大正13年4月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。
 現在は、公園敷地に中学校が建てられていて、当時の面影をみることができませんが、明治天皇御聖跡の碑だけは残されています。

    
                       「明治天皇御聖跡記念碑」。

潮見坂上の石碑群
                           潮見坂上の石碑群
 ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、白須賀出身の国学者夏目甕麿(みかまろ)と息子の加納諸平(もろひら)、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられています。
 また、ここから旧道を東へ百メートルほどいった所に元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興の尽くした石川榮五郎らの石碑も建てられています。

 眺望が開けて、遠州灘が遠くに。

 安藤広重の絵もこの辺りからの眺望でしょうか?


東海道五十三次之内 白須賀 汐見阪図 / 歌川 広重

 関西から下る人は汐見阪で初めて海を見るという。汐見阪を大名行列が通っている。画面の左右にバランスよく坂や松が描かれている。その間に藍をぼかした遠州灘を描くという見事な構図である。

 (「知足美術館」HPより)

                   

 宿場への道筋。
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山頭火句碑。新居関跡。新居宿。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その3。)

2015-04-28 21:59:15 | 旧東海道

 正岡子規の句碑で終わった前回。「新居町」駅を出て右に行くと、公園のところに種田山頭火(たねださんとうか)の句碑があります。今回はそこからスタート。



浜名街道
水のまんなかの道がまっすぐ 山頭火

 種田山頭火(1881~1940)大正・昭和の初期の俳人。
 明治15年山口県に生まれる。本名は正一。荻原井泉水に師事。俳誌「層雲」に俳句を発表。大正13年、仏門に入る。尾崎放哉に傾倒、妻子を捨て庵を結び、一笠一杖の乞食行脚でで各地を遍歴、禅味ある自由律の独自の句を残した。
 この作品は、二度目の遠州路を旅した昭和14年4月、当時の浜名街道を直截に詠んだものである。句集「草木塔」に所載。

 新居町教育委員会

 ここで、自由律句の巨頭・山頭火の句に出会うとは思いませんでした。

・あるけばかつこういそげばかつこう

・うしろすがたのしぐれてゆくか

・笠にとんぼをとまらせてあるく

・けふもいちにち風を歩いてきた

・この旅、果もない旅のつくつくぼうし

・また一枚脱ぎ捨てる旅から旅

・分け入つても分け入つても青い山


 けっこう気に入った句が多いです。 

 この先「栄町」の交差点で国道1号線と別れ、右側の道を行きます。

 しばらく行くと、「浜名橋」。

 橋の欄干には広重の浮世絵が6枚、モニュメントとして展示されています。


    

 このほかのものは、HPより拝借します。

  

   

 このように、安藤広重さんの東海道は売れに売れて、宿場によっては7種類の浮世絵が誕生しました。よく目にする保永堂版以外にも、隷書、行書、人物、狂歌入、美人、竪絵。そのうち、「新居(荒井)宿」は、六つ(「美人」がない)。

 道筋には関所、宿場町を意識した建物が目立ちます。
    
  新聞販売店。                                  お蕎麦屋さん。

 地元消防団の詰所。

 そして、右手の敷地に「新居関所」の堂々とした建物が。観覧料:410円(旅籠紀伊國屋資料館とセットで)

    
                                          大正期のようす(「知足美術館」HPより)。



 新居宿が他の52の宿場と大きく違うところは、「関所」と「渡船」の2つの役割を持っていたところです。現在、関所前まであった海は埋め立てられて、宿場の雰囲気は失われてしまいましたが、当時は目の前まで浜名湖が広がっていて、舟は直接、関所に接岸しました。


東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図 / 歌川 広重

 今切を出た堂々とした大名行列の船と、なりふり構わぬ奴を乗せた供船が、対岸の荒井へ向かっている様子である。幔幕の家紋は亀山の石川日向守である。吹き流しや旗、毛槍の先などから風の様子がわかる。
(「知足美術館」HPより)

新居関所(「パンフレット」より)

 新居関所は江戸時代には今切関所といわれ、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖の今切口に近い位置にありましたが、元禄12年(1699)・宝永4年(1707)と度重なる災害によりわずか7年の間に西北へと2度移転を繰り返しました。関所は常に浜名湖岸に建ち、構内には東海道の新居・舞坂を結ぶ今切渡しの渡船場があり、浜名湖を往来する旅人の監視と「入り鉄砲でっと出女」を取り締まりました。
 関所は慶長5年から江戸幕府が管理していましたが、元禄15年(1702)以降は三河国吉田藩に移管されました。明治2年(1869)正月の行政官布告で全国の関所は廃止されることとなりました。約270年間江戸の防衛を目的とした関所はその役割を終え、以後小学校や役場として使われました。
 現存している関所建物は安政2年(1855)から5年かけて建てかえられたものです。昭和30年(1955)国の特別史跡に指定され、同46年には解体修理を行い、今では全国で唯一現存する関所建物として大切に保存し、公開しています。・・・

    

 実物大の役人達。それぞれに丁寧な説明があります。武器の展示も。

    

 江戸時代、新居と舞阪の間は、渡船による交通が行われた。
 この渡船場跡は、宝永5年(1708)に今切関所が現在地に移転してからのものである。
 大正年間の埋立により、今はその面影をまったくとどめていないが、平成14年(2002)に渡船場の一部を復元整備した。

 平成22年3月 湖西市教育委員会

                              

大御門。

 大御門の枡形には新居宿の高札場があり、大御門より西は新居の宿場でした。

    

 関所を出て、すぐ近くの「旅籠 紀伊国屋」へ向かいます。

    
                          「旅籠 紀伊国屋資料館」。

 江戸時代中期より昭和30年代に廃業するまで約250年にわたり旅館業を続けていたそすです。なかなか風情のある建物でした。

    内部。

    内庭。
                 水琴窟。

2階からの眺め。

箱まくら。
              当時の旅の様子なども資料としてあって、興味深い。

「旅籠 伊勢屋」跡。

 そのまま宿内を西に進むとT字路。その正面にあるのが、「飯田武兵衛本陣跡」。そこを左に曲がります。
    


飯田武兵衛本陣跡

 飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪百九十六坪で、門構え、玄関を備えていた。
 飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約七十家が利用した。
 明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり、同年の還幸、翌二年の再幸、明治11年(1878)の巡幸の際にも利用された。その行在所は明治18年(1883)、奥山方広寺に移築された。

 平成22年3月 湖西市教育委員会
 
 そのすぐ先に疋田八郎兵衛本陣跡。

疋田八郎兵衛本陣跡

 新居宿に3軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪百九十三坪で、門と玄関を備えていた。
 八郎兵衛本陣には吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。疋田家は、新居宿の庄屋、年寄役などを務めた。

 平成22年3月 湖西市教育委員会

 さらにそのすぐ先には寄馬跡。
    

寄馬跡
 江戸時代の宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に百人の人足と百疋の馬を用意していた。
 しかし、交通量が多い場合は助郷(すけごう)制度といって付近の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。
 この場所は寄せ集められた人馬のたまり場になったところである。

 平成22年3月 湖西市教育委員会
 
 その先の右手には、
「常夜燈」。

 さらにしばらく行った左手には、「新居一里塚跡」。ここが日本橋から69里目。
    

一里塚跡

 一里塚は、江戸の日本橋を起点として街道の一里(4キロメートル)ごとに土を盛り、その上にエノキなどを植えた
 里程の印として、旅行者にとっては馬や駕籠代の計算などの目安となった。
 慶長9年(1604)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では104ヶ所あった。
 ここには左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。

 平成22年3月 湖西市教育委員会

 その先で東海道は右に曲がります。この道筋は枡形。
 ただ、ちょうどその付近で、国道1号線へ繋がる道路工事が完成間近。そうすると、枡形という形状がはっきりしなくなる感じです。そんなことで佇んでいたら、近所の壮年の方がこちらに気を取られてしまい、工事中の溝に足を取られて転倒。大丈夫ですか、と声を掛けると、こうして道が出来るという地元の念願が叶うまではけっこう大変だった、とのこと。しばらく雑談。

    
                                         振り返って宿内を望む。
 今度は、左に曲がります。「棒鼻跡」碑。


棒鼻跡

 ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。棒鼻とは駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき先頭(棒先)を整えたのでこの場所を棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。

 平成22年3月 湖西市教育委員会

 左手の角の休憩スペースで一休み。

 ここで、新居宿ともお別れです。
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舞阪宿脇本陣。雁木。正岡子規句碑。・・・(舞阪駅から二川駅まで。その2。)

2015-04-27 23:24:59 | 旧東海道

 穏やかな日差しの元での散策。高い建物がなく、視界も明るく開けてきます。今回のコースは、「舞阪宿脇本陣」、「新居関所」、「二川宿本陣」など見所・見学地があります。

    
 振り返って宿内を望む。                         前方は浜名湖。

 右手のところに、「本陣跡」碑。



舞坂宿 本陣跡
 この地は東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中宿泊・休憩したところです。

 そしてそのすぐ近く、左手に「脇本陣」跡。立派な建物です。

    

東海道舞坂宿脇本陣

 舞坂宿は、慶長6年(1601)の東海道宿駅制度制定に伴い開設された五十三次のうち江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では人口1,204人・戸数265戸でした。
 また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
 建物は主屋.繋ぎ棟.書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行15間ありました。
 現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
 平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保9年(1833)の建築であることが判明しました。

 平成9年 舞阪町教育委員会
 
 見学が出来るので、入ってみました(入館料:無料)。

坪庭から奥を望む。

  上段の間。

2階から「東海道」・宿内を望む。

裏手にある土蔵。古い家屋が並んでいます。

 この建物、大正時代には、役場として利用されていた、とのこと。

 《江戸時代の宿泊施設》

 「本陣」=大名・公家・幕府役人などが宿泊したり、休憩するための施設。平屋建てを原則とする。
 「脇本陣」=本陣の補助的旅舎で、副本陣にあたる。平常、旅籠屋を営んでいるが、代通行のときなど、本陣の利用が重なった場合には本陣の代わりをつとめた。2階建ての場合が少なくない。
 「旅籠屋」=武士や一般庶民を宿泊させた食事付きの旅館。
 「木賃宿」=旅人が薪代を払って自炊する宿屋。 

 大変丁寧に案内してもらいました。「今日はちょうどいい天気ですね。歩くのにはもってこいの陽気。浜名湖もきれいですよ。お気を付けて。」



 宿場の出口近くの左手の角にあるのが、舞坂の三つ目の常夜燈、「西町の常夜灯」。

西町常夜灯

 舞阪には往還道路沿いに3つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇太神宮、西面が秋葉大権現、東面が津島牛頭天王、南面が文化10年2月吉日、願主 西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことがわかる。
 舞阪宿では文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。

 浜松市教育委員会

 注:これまでの説明板の設置者は「舞阪町教育委員会」になっていましたが、この説明板は「浜松市教育委員会」と修正されています。平成の大合併によって「舞阪町」は「浜松市」になったわけです。浜松市も静岡市を引けを取らない大都市になった、とも。

「本雁木」跡説明板。

舞坂宿の渡船場、本雁木(ほんがんげ)跡

 江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。
 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。

 浜松市教育委員会

    灯台。

 昔はここから舟で渡りました。

  
  右手に見えるのが「魚市場」。
           
 ここからは対岸の新居関までは船旅ですが、勿論、船旅はありませんし、今回は歩くのも省略し、現代の足・鉄道を使って対岸の「新居町」へ移動することにしました。そこで、浜名湖沿いに歩いて、JR「弁天島」駅を目指します。

途中にあった北雁木跡。  

史跡 北雁木(きたがんげ)

 ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1675年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたために積みなおしたものです。雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み下ろしをした渡荷場(とうかば)。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷きつめられています。

    

安藤広重「舞浜 今切真景」。

 目の前には広大な海の風景が展開しています。穏やか内海。

    
 遠くの橋脚は「浜名バイパス」。                     大正期のようす(「知足美術館」HPより)。


 しばらく岸壁で眺めたあと、「弁天橋」を渡って弁天島に向かいます。

「舞阪宿」方面を望む。

 途中には弁天神社。

弁天島と天女

 昔、弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まってほしいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原に立ち去って行きました。
 それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、洲崎の一部であった弁天は湖(うみ)にとり残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永6年(西暦1709年)今切渡海安全のため、この島に辨天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」といい、海上・交通・家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人々に信仰されています。
 なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があります。

境内にある「正岡子規句碑」。

    

 「天の川濱名の橋の十文字」。この句は明治28年(1895)秋に上京した際、途中汽車の車窓より浜名湖を眺めて詠んだ作品とされています。・・・

 その先で「国道1号線」に合流します。

右手に見えるのがJR「弁天島」駅。「日本橋から271㎞」という表示。

 「弁天島」駅から一駅先・「新居町」駅まで乗車します。電車に乗らずに歩けば、約40分(3㎞ちょっと)かかります。15分近く待って乗りました。乗車時間は約3分。「新居町」駅には10時20分前に到着。20分以上、短縮できました。勿論、船旅ならもっともっとかかるでしょうが。
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舞阪・東海道松並木。浪小僧。見付。一里塚。・・・ (舞阪駅から二川駅まで。その1。)

2015-04-26 22:36:59 | 旧東海道

 久々に「東海道」の旅。4月22日(水)。ぐずついていたお天気もようやく晴れ間が出てきた、そんな一日。今回は、静岡県湖西市から愛知県豊橋市へ。伊豆・駿河・遠江と来て、いよいよ三河の国に入るわけです。

①箱根峠から三島
②三島から片浜
③片浜から富士
④富士から新蒲原
⑤新蒲原から興津
⑥興津から静岡
⑦静岡から宇津ノ谷峠
⑧宇津ノ谷峠から藤枝
⑨藤枝から金谷
⑩金谷から掛川
⑪掛川から磐田
⑫磐田から舞阪

 そして、今回。

⑬舞阪から二川(愛知県)

 「三島から片浜」では、沼津の廃線跡を往復し、千本浜に立ち寄り、また「富士から新蒲原」では、出先からの寄り道のため、午後の時間の少しだけ、「宇津ノ谷峠」では、明治のトンネル、旧東海道、それ以前の古道(蔦の細道)等を探索し、と予定よりも日数がかかりましたが(そうそう、「薩埵峠」は、白雪の富士山を見たさに二度行きました)、何とかやっと静岡・遠江から愛知・三河へ。
 「富士川」「安倍川」「大井川」「天竜川」を渡り、西風の強い中を歩き、富士山を右手前から真横、そして次第に後ろへ振り返るようになり、そしていつしか見えなくなり・・・、さまざまな思いも込めての今回。
 江戸時代なら、往還する旅人は一日40㎞近く歩いたそうです。箱根峠からここまでは、5、6日の行程だと思いますが。
 それにしても、静岡県はもともと三つの国があって、東から西へと細長い、ということを実感しました。

 JR舞阪駅から東海道に復帰です。すぐ行く手にあるのが「松並木」。

    「東海道松並木」。

 左側の歩道沿いに東海道53次の各宿場のプレートが安藤広重の53次の浮世絵をレリーフにして、順番に並んでいます。


    
         起点の「日本橋」。                  「掛川宿」。

そして「舞坂宿」。ひときわ大きな石碑。

舞坂 今切真景

 舞坂宿は江戸日本橋から67里(264.9キロ)、品川宿から数えて30番目の宿である。
 東海道の陸路は舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖は、かって遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。

 左には、広重の浮世絵の大きなレリーフ。


   東海道五十三次之内 舞坂 今切真景 / 歌川 広重

 舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。
(「知足美術館」HPより)

そこから振り返って望む。

「白須賀宿」。

「舞坂橋跡」。

 ここには江戸時代舞坂宿唯一の橋である舞坂橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南側から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水が流れていました。
 天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。
 字 舞坂橋
 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立弐組
 是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛りにて御普請これあり、・・・、もっとも土橋のため保持に難あり宿役で板橋に架換えをした。

 舞阪町教育委員会

 東海道の終点「京都」。

そこから松並木を振り返る。
 
松並木の最後の地点には金色の小僧像。

    

浪小僧

 むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。
  遠州七不思議より

 その後、「国道1号線」新町交差点を斜めに横切ります。

静かな道となります。

 しばらく進むと道の左右に石垣がある交差点となります。ここが見付跡。道幅も狭くなります。

    

史跡 見付石垣

 この石垣は舞坂宿の東はずれに位置している。
 石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永6年(1709年)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。

 舞阪町教育委員会

 こうして30番目の宿場、舞阪に着きました。宿内に入ってすぐに、

                           
 左手にある「常夜燈」と「一里塚跡」碑。                   右手にある「一里塚跡」碑。

    

一里塚跡

 江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより日本橋を起点として1里(3.9㎞)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松等を植えた一里塚が整備されていった。
 一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。
 舞阪の一里塚は日本橋から68里(約267㎞)に位置し、松が植えられていた。

 舞阪郷土史研究会・浜松市


新町 常夜燈

 舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809年)元日、宿場の大半を焼き尽くす大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜燈を建て、秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。
 常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入を防ぎ、地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。

舞阪郷土史研究会・浜松市

    
  かつての宿場の詳細情報。                       現在の町並み。

 宿内に入ると、今でも古い町並みの雰囲気が残っています。

案内板。

 これによると、見付石垣から渡船場の雁木(がんげ)まで約800㍍。本陣・問屋場など宿場の主要施設は西町にあった、という。

 少し進むと左手に2つ目の常夜灯があります。

    

仲町 常夜灯

 文化6年(1809)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、4年後の文化10年5月吉日にこの常夜灯が建立されました。両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7㍍あります。なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってあります。ちなみに、ここ宝珠院は舞阪町において、明治6年(1873)小学校が初めて開かれた所です。

 舞阪町教育委員会
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東武・亀戸線再訪(廃駅跡をたずねて)

2015-04-24 21:15:35 | 鉄道遺跡

 6年前に訪ねて以来、その後、縁が無くて、乗ることもなかった「亀戸線」。このところ、雨続きだった、そんな雨の合間、4月21日(火)午後に出かけました。前回中途半端だった「廃駅」の痕跡を訪ねがてら。

 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。

〔主な年表〕(「Wipedia」による)

1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となるも、乗り入れは継続。
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。

 その後、隅田川に架橋して現在の「浅草」駅が完成、東武鉄道は都心に乗り入れることになりました。そうなる以前、今の「東京スカイツリー」駅(その前は「業平橋」駅)が、「浅草」駅となっていた時代もありました。
 こうして、亀戸線はローカル線として存続することになります。

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。一方で、曳舟付近の低層住宅(亀戸線以北地域)は偶然にも類火を免れました。亀戸線が防火線になったようです。gooの1946年(昭和21年)当時の航空写真を見ても歴然としています。

 亀戸線は、現在、「曳舟」~「小村井」~「東あずま」~「亀戸水神」~「亀戸」の駅がありますが、今も東京・下町の大事な足として、地域とのつながりも深い路線となっています。

 年表にもあるように、かつては「曳舟」と「小村井」(ある時期から、この読みも「こむらい」から「おむらい」に変わっています)の間に、「虎橋通」駅と「十間橋通」駅があり、「亀戸」と「東あずま」(旧「平井街道」)との間に「北十間」駅がありました。
 また、「Wikipedia」には、「天神」駅という駅名もありますが、「小村井駅」から曳舟方に進んで1つ目の踏切付近に天神駅があった、とされています。

 そういうわけで、今回、「亀戸線」の踏切をすべて訪ね、立ち止まり(やってはいけませんが)踏切内外から撮影して、写真上でもそれぞれの駅跡がないかどうかを探ってみました。駅には駅入口への道と踏切がつきものですから。

 曳舟~虎橋通~十間橋通~天神~小村井~平井街道~北十間~旧亀戸水神~亀戸。踏切の数にして19ヶ所? 結論的には明らかな痕跡は「虎橋通り」駅と「旧亀戸水神」駅の2ヶ所を確認できただけでした。前回に比して、1ヶ所「虎橋通り」駅が増えただけです。

《地図上の変遷》

1896(明治29)年ころ。

1917年(大正6)年頃。

1944(昭和19)頃。

1965(昭和40)年頃。

1983(昭和58)年頃。

現在。

 (以上、「今昔マップ」参照)。それぞれ地図上での変遷が興味深い。

曳舟駅側から2番目の踏切。

 その亀戸駅側に旧亀戸天神駅跡にあったのと同じ土台跡。ホームを支えていたコンクリート製の土台と思われます。これが「虎橋通り」駅跡。

    

 以前来た時には、この踏切の北側の通り沿いに「虎橋通り」と表示してある新聞販売所の記憶がありましたが、今回、歩き回ってもそれらしいお店は見つかりませんでした。

 さて、次の駅跡。


 キラキラ橘商店街へ向かう通り。この通りの踏切の亀戸側に「十間橋通り」駅が存在したと思われます。

この付近。

 「曳舟起点891㍍」という標識があります。反対側には目立つ標識は見つかりませんでした。この距離表示に意味があるのかもしれません。

現在の十間橋通り(正面奥)を通過する電車。

 かつての「十間橋」通りは現在の「キラキラ橘商店街」に通じる道路だったようです。「十間橋通り」が今のようにバス通りの広い道になったのはもっと後のような気がします。

 なお、商店街の名称は、昭和6年に映画館の橘館がこの通りにできたことに由来し、戦前から「橘館通り」として地域住民に親しまれてきた、とのこと。そのために乗降客の便宜を図ってつくられた駅だったようです。

(「キラキラ橘商店街」HPより)

 次の「天神」駅跡。

 現在の「向島警察署」前の通りがかつての「中居堀」(葛西用水・曳舟川からの流れの一つ)でした。現在は埋め立てられて道路になっていますが、この「中居堀」の通りの踏切、曳舟側にあったようです。
 なお、「明治通り」に「中居堀」交差点がありますが、位置が異なっていて、その手前の「東中居堀」交差点が本来の「中居堀」の用水路跡になります。

    
 踏切の手前(曳舟寄り)、少し盛り上がった線路沿いの駐輪場。このあたりではないかと思われます。

 ここから、「亀戸天神」までは直線道路(かつては「中居堀」沿い)で約1㎞で行くことが出来ました。「天神」駅という駅名は適切だったのでしょう。また、「亀戸」へのこだわりもあったのか。
 その後、用水路の埋め立てによる道路化、それに伴う周囲の発展や明治通りの完成等、東武線の延長計画の断念等で、旧来からの地名である「小村井」が駅名として採用された(一時期には「平井」という駅名だったことも)と思われます。全線電化の際に、小村井駅と統合された可能性も。

その地点からの「小村井駅」。 

 ホームを「中居堀」側に延長していることがホームの色の違いでわかります。今のようすだと「天神」駅跡と「小村井」駅が余りにも接近しすぎているような印象ですが、当時はもう少し(100㍍くらい)は離れていたでしょう。
 車両も、現在は2両編成の電車ですが、当時は1両(それも、今の1両の長さよりも小さいものだった? )編成だったので、ホームも短かくてすんだはず。

「明治通り」側の駅舎。

 所々に、空き地があります。

奥に見えるのが「東あずま」駅のホーム。

東あずま駅を出る曳舟行。

駅正面。
 この駅を「平井街道」駅と呼んだ時期がありました。駅前の踏切を進む道が「平井街道」(「行徳道(浅草道)」とも)だったことに因んでいます。。

旧中川にあった「平井の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。行徳道(浅草道)はその方向に向かって進んでいました。

東武亀戸線「東あずま」駅そばにある「地図」(通常とは異なり、上がほぼ東を示す)。
 中央、左上から右下に通じる道路が「浅草道」の跡と思われます(赤線でなぞった道)。その関係で、「平井街道」駅と称されていたわけです。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ☆Aが「小村井駅」、☆Bが「東あずま駅」付近。南北の用水路が「中居堀」、東西の道が「平井街道」。

南(亀戸駅)方向を望む。

 「北十間」駅は、「北十間川」に架かっていた鉄橋の南側にありました。北十間川(隅田川と旧中側を結ぶ)。

橋脚。ごついコンクリートの柱は何だったのでしょう?

この付近(亀戸方向)?


 現在の「亀戸水神」駅の脇を通り、しばらく行くと、踏切の向こうに痕跡を発見します。これが「旧亀戸水神」駅? 北十間駅とここにあった「亀戸水神」駅を統合して、曳舟側にに少し寄ったところに新「亀戸水神」駅をつくったものと思われます。

《歴史》
1928年(昭和3年)4月15日 - 開業。
1946年(昭和21年)12月5日 - 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。
(「Wikipedia」より)

 亀戸線が終点・亀戸駅に近づき、大きくカーブを描き始める辺りに、旧亀戸水神駅はありました。線路脇の道をたどっていくと、踏切と踏切に挟まれた線路脇にかつてプラットーホームを支えた、古レールが埋め込まれたコンクリートの土台が並んでいます。

    
曳舟方向の線路際。            レールが埋め込まれている。

    
 曳舟方向の線路際。                          亀戸方向の線路際。

    
                                   旧亀戸水神駅跡を通過する電車。

  
                           亀戸方向を望む。

JR貨物線(越中島に向かう)を行く貨物列車。

              亀戸駅を出発する東武電車。

 スカイツリーの完成や曳舟駅前の再開発による高層マンション群の誕生等で、沿線は変化の激しい地域です。その中にあって、「亀戸線」は、貴重な歴史を刻んでいます。
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猿でもできる反省。いな、居直り。

2015-04-23 22:20:39 | 平和
首相演説「深い反省」表明…「おわび」に触れず(読売新聞) - goo ニュース

「反省してます。」

「何を反省しているのだ?」

「だから、深く反省しています。」

「何を?」

「分からないですか、これだけ反省しているっていうのが」

「具体的じゃないでしょう、反省、反省だけでは。」

「そんなことはありませんよ、きちんと言っているじゃないですか。先の大戦の、って。」

「いったい、その何を?」

「だから反省している、といってるじゃないですか。」

「そんな言い方では世間じゃ通用しないよ。」

「未来志向ですから、私は。もう終わったことですし、深く反省しているんですからいいじゃないですか。その後、反省して平和志向で来ているじゃないですか。くどいですね、いつまでも、いつまでも。」

「そういってもねぇ、君。具体的にはこういうことを反省しています。だから、もう二度としません、と。反省文だってそうでしょう。ただ反省しています、だけじゃあ、何を反省しているんだか分からないでしょう。また同じことをしでかすかもしれないし。」

「ま、その時は別の事情が出てくるかもしれないし、反省するか、詫びるかどうかは、その時の責任者の考えであって、今の時点でどうするかなんて分かるわけないでしょう。何たって未来、未来志向でいきましょう、未来志向。いまさら、昔のことをあれこれほじくり返したってしょうがないでしょう。」

「君の先輩方もそれなりにお詫びしてきたんだがね。」

「そんな、お宅を侵略したかどうか、定義はいろいろあるし、それに同じことを言ってもしょうがないでしょう、終わったことだし。それこそ、その程度の真似ならば、猿でもできますよ。」

「そうやっていよいよ居直ってきたか。」

「だいたい、責任は、責任はって言ったて、お宅達にもあるんじゃないですか。こっちかから好きで仕掛けたものじゃないんですから」

「そのために多くの犠牲者が出たことにもほおかむりかね。」

「そうそう、バンドン会議で採択された平和原則ってやつですか、あれはすばらしいですよね。そのことは自信を持って引用しました。」

「話題をずらすのは相変わらず上手だね、君は。君ね、あの歴史的なアジアアフリカ会議には、あんた達は閣僚クラスも送り込まないで、アメリカの顔をうかがって、つかず離れずの様子見だったんじゃないの、あの時は。」

「いや、大歓迎されましたよ。日本が我々の地主の米・英に対して戦ってくれたんで、今の我々があるんだって、それこそ大歓迎でしたよ。」

「当事者の批判を一切受け付けずに発した大東亜宣言のことかね、大東亜戦争を遂行する為の錦の御旗だった、例の大東亜共栄圏賛美のあれのどこが? 」

「そんなこと、僕はよく知りませんよ。だって、あれからもう60年ですよ。平和国家であり続けてきたって、いいじゃないですか、すばらしいじゃないですか。過去の歴史にこだわってもしょうがないでしょう。未来志向でいきましょう、いきましょう。だいたい、お宅の家の方も相変わらずごたごた続きじゃないですか。そっちの方を心配してますよ。そうそう、お隣の家はどうですか、心配で心配で。我が家の連中にもそれなりの対応を取るよう、・・・」

「ちょっと、ちょっと。それもこれもお宅の家訓の第9条が抑止力として働いていたんじゃないの? それに目をつぶってはいけないと思うがね。」

「いや、未来志向で忙しくて、忙しくて。ま、今日はこれで。」

 と、そのまま意気揚々と去って行ったアベ。


平和十原則(正式名称:世界平和と協力の推進に関する宣言)。「バンドン十原則」。

1.基本的人権と国連憲章の趣旨と原則を尊重

2.全ての国の主権と領土保全を尊重

3.全ての人類の平等と大小全ての国の平等を承認する

4.他国の内政に干渉しない

5.国連憲章による単独または集団的な自国防衛権を尊重

6.集団的防衛を大国の特定の利益のために利用しない。また他国に圧力を加えない。

7.侵略または侵略の脅威・武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立をおかさない。

8.国際紛争は平和的手段によって解決

9.相互の利益と協力を促進する

10.正義と国際義務を尊重

 第二次世界大戦後10年を経て、過去の歴史の深い反省・教訓の上に、朝鮮戦争後、東西対立の厳しい中で、アジア・アフリカ諸国が満場一致で採択した「平和十原則」。文言のいいとこ取りでは困るのだが、今度は、この宣言の、別のいいとこ取りをする気配だ。
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読書「エッグ/MIWA 21世紀から20世紀を覗く戯曲集」(野田秀樹)新潮社

2015-04-21 23:24:44 | お芝居

 最近でもなく、ずっと以前から野田さんの芝居は高すぎて、人気がありすぎて(むしろ前者の理由でだが)近づきがたいものに。彼なりの計算があるのだろうけれど、はたしていかがなものか? キャスティングも含めて、どうも・・・。
 金持ちのひとときの慰めごとになってしまったら、せっかくの野田さんの意図も訴えも所詮、体制内の「世迷い言」、許容範囲になるだけ。しかし、最初から終わりまで、存分に言葉と肉体との関係性(自他)の魅力・魔力をちりばめながら、一気呵成に迫る、壮大なドラマは相変わらず野田さんらしい。
 細菌兵器開発のために「マルタ」を生体実験にしてきた、敗戦前後には一切の施設、資料を隠蔽・壊滅させ、一方で、アメリカ軍(GHQ)との取り引きの結果、一切、世に出なくなったあの「731部隊」を取り上げる、という大胆不敵な劇。
 それに「東京」オリンピック(1度実施、さらにまた計画されている「東京」オリンピック。こうして都合3回目。そのうち1回は中止になった)特に幻となった戦中のオリンピック、さらに唯一開催された東京オリンピックへの執拗な迫り方は、ただごとではない。そのこだわりの象徴はあの「悲劇の」マラソン・ランナーも登場させながらの「エッグ」。そして対戦国としての「中国」。一歩間違えば、危うい言動を軽やかに紡いでみせるのは、さすが。

 が、しかし。

 今のアベたちが言論弾圧を当然のごとくに行っていても何の抗議も発言もないままに、自粛していく日本国。そうした流れに「ごまめの歯ぎしり」すら出来得ない庶民にはお先真っ暗のご時世。
 万が一今の天皇の身に何か起こったら、かつての昭和天皇のときのようにまたしても(むしろそれ以上に)なるだろう。そうして国民に華やかな歌舞音曲を禁じる一方で、次期天皇候補の嫁さんのようす、また、皇太子自らの発言などに快く思っていない連中が騒ぎ出すに違いない。今の国の行く末は、気にくわなければ、天皇の首をすげ替えるのさえ、いとも簡単に行うだろう、というあらぬ危機感を持っている今日この頃。それほど遠い時期では無いと、ふと、思ってしまう。

 そういう焦りとあきらめの中で、「エッグ」を「読書」していると、たしかに心穏やかではなくなってくる。このままなし崩しのままの日本で(つまり、戦前回帰へひたすら「右向け、右」と号令をかけつつある)いいいのか、と。そんな斜に構えた人達はもうお呼びではないのかも知れない。

 TVで活躍している俳優・タレント(観劇すれば、たしかに出演する俳優達は野田さんの的確な指示もあってすばらしい才能の持ち主であることは実感できる、と思うが)が出演しているから、ではまったくもったいない感じがする。

 かつて無名ではあったがしゃかりににひたすら「舞台」に打ち込んでいた、大勢の若者達の「群像劇」はもう無いものねだりになってしまったか!



 そんなとき、『平田オリザ〈静かな演劇〉という方法』(松本和也)彩流社刊 を手にした。平田さんと「青年団」の芝居は、「ソウル市民」など、かつて、何本か観たことがある。また、平田さんが開いた「ワークショップ」に知人が参加し、その関係で何回か見学したことがあった。そんなことを思い出した。

 まさに開幕前(いや、すでに幕は上がっている)からの舞台の動き、それからいつしか舞台が始まる(いや始まっている)、・・・。かなりの緊張感を客席にもたらせながら、進んでいくのは、まさにリアリズムそのもの。「静か」な中に、舞台で「演じられる」人々の会話・仕草がじわじわと観ている側それぞれに与えるインパクトは様々。そこにこの方の作劇術があるのだろう(伏線を張り巡らせての)。小道具の一つひとつが、日常性の枠の中にありつつ、奥深い存在意味を持たせていく。

 余談だが、最近、少年時代まで満州で生活し、敗戦後、命がけで日本に戻って来た(帰ることが出来たのはまだマシだった)方の話を聞く機会があった。
 8月15日以降(ソ連参戦はそれ以前だが)の辛酸をなめ尽くした体験には、胸に迫るものがあったが、現地での生活(現地の中国人との関わりを含めて)を語ることはなかった。大方の引き揚げ者はそうだという。

 「ソウル市民」は、そういう意味できわめて「政治的」なメッセージ性を持つ芝居。植民地支配下のソウルに住む「在朝日本人」の家庭が舞台。芝居の内容は、台詞も含めて上記の書に詳しく解明されている。その一部。

 慎二は、「うちで使ってる朝鮮人」が「内心」を隠している可能性を考慮している。そのことにも明らかなように、「善意」に包まれた朝鮮人観の基底には、権力関係のヘゲモニー争いが見え隠れしている。つまり雇用/被雇用という表層の契約関係に重ねて隠された日本人/朝鮮人という、その実まったく根拠のない序列化とそれに基づく「無意識の差別」もまた、篠崎家をはじめとする劇中の日本人に通底する要素として、この家庭劇を構成している。(P91)

 ここでは、「まったく根拠のない序列化」とあるが、現実は日本人と朝鮮人を序列化するための「根拠」をそれがあやふやで覆されるかも知れない不安を持ちながらも強いて作り上げていったのではなかったのか。経済と政治と教育などによって、・・・。

 それを声高に(あるいは集団で、あるいは言葉で、肉体で)表現するのではないところに、平田さんの劇のすばらしさを感じた。もちろん、観客へに匕首はしっかり向けられていたが。

 改めて舞台芸術活動の多様性と可能性、ある意味では限界性をも感じた2冊でした。

 もちろん、芝居や映画は楽しければいい、いちいち考えされられたりするのじゃなくて、見終わった後の爽やかなのがいいのだ、というのが多くの観客だろう。こうして「脚本」を読んだり、「評論」を取り上げるのも無粋なものかもしれない。
 
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「三丁目坂」。「鉄砲坂」。「鳥尾坂」。「七丁目坂」。・・・(関口・目白台の坂。その4。)

2015-04-20 20:38:00 | 都内の坂めぐり

 「護国寺」前からまっすぐ南に伸びる、広い道が「音羽通り」。かつては長くて賑やかな門前町を形成していました。今も、「講談社」をはじめ、活気のある道筋になっています。
 さて、その「音羽通り」(音羽谷)から目白台へ向けて、東から西への坂道が並行していくつかあります。

 「三丁目坂」、「鉄砲坂」、「鳥尾坂」、「七丁目坂」、「目白新坂」、「目白坂」(北から南の順)。それらの探訪です。
 



 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 「三丁目坂」、「鉄砲坂」、「七丁目坂」、「目白坂」等が表示されています。まっすぐの広い道が「音羽通り」。その西側の直線道路も現在もそのまま存在しています。通りの東、西(目白台、小日向台)の台地沿いにそれぞれ「弦巻川」、「音羽川」がありましたが、現存しません(「弦巻川」は、首都高、「音羽川」は道路となっています)。

 「音羽通り」の北から南へ進んでいきます。「音羽通り」は、将軍が伴揃え1000名以上を引き連れて護国寺へ参詣する御成道でした。1丁目から9丁目までありました。
 どっしりとした大きな「講談社」を右手に見て、「大塚警察署前」の信号で右折すると「三丁目坂」。「大塚警察署」そのものは改築中。

    

三丁目坂

 旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていた。
 音羽町は江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり。」と記している。

 文京区教育委員会  昭和53年3月

 坂下を望む。正面は首都高の橋脚。
                          急坂で、首都高をくぐると、右に上っていく。

 坂下に戻り、首都高をくぐり、最初の道(音羽通りの一本西側にある通り)を左折します。江戸時代からの脇道で、当時のまま南北に通じています。
 


 しばらく進み、2本目を右折すると、「鉄砲坂」の上り。

    

鉄砲坂(てっぽうざか)

 この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽学校学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂をいうことで「鉄砲坂」とよばれるようになった。

 文京区教育委員会  平成8年3月

    
                           石垣沿いの急坂。

坂上から東を望む。

 けっこう昔風の趣のある坂道。女子大生がさっさと下って行きました。

    
       「音羽通り」西側の脇道。左の写真は北方向、右は南方向。 



鳥尾坂(とりおざか)

 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。
 明治になって、旧関口町92番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。北側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
 地元の人々は鳥尾家に感謝をして「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。

 文京区教育委員会  平成9年3月


「鳥尾坂」と刻まれた石柱。

     

 けっこう長い上り坂である「鳥尾坂」を進み、「獨協高校・中学校」のところを左折します。中学生らしい明るい声が響いてきます。坂道を駆け下る元気な子供達。
 住宅街に入り、2本目を右折すると、「佐藤春夫旧居跡」。

    

 佐藤春夫(1892~1964)詩人、小説家。昭和2年から、終焉の昭和39年5月6日まで住み、詩作、創作に励んだ異国風の住居のあった地。旧居は、昭和60年、生地和歌山県新宮市に移築、保存されている。
 春夫は、明治43年上京、団子坂上の森鴎外の観潮楼向かいに下宿して、慶應義塾大学に学ぶ。与謝野鉄幹、永井荷風らに師事し、詩、小説に多くの名作を残した。文芸時評、文芸史論の評価も高い。代表作は「純情詩集」(大正10年)「田園の憂鬱」(大正8年)「晶子曼荼羅」(昭和29年)など。昭和23年、芸術院会員、昭和35年、文化勲章受章。
 上京以来、2度ほど区外にでたほかは、47年間、千駄木、向丘、本駒込などに住み、部y文京区歌の作詞者(昭和26年制定)としても親しまれてきた。
 京都府知恩院が本墓であるが、電通院にも分骨され、夫人ととも眠る。
 
 文京区教育委員会  昭和63年3月

 現在地にある建物(「佐藤・・」の表札)も外壁がユニークで、異国情緒のある建物です。

 元の道に戻り、右折してしばらく進み、左に曲がって行くと、急な下りの石段になります。ここが「七丁目坂」。一気に「音羽通り」に下って行きます。

    
    上から。                            下から。
   
    
                            坂下から望む。

 「七丁目坂」の説明板はありませんが、旧音羽7丁目と8丁目との間に出る坂なので、そのように呼ばれたようです。この坂にも急な石段。
 石段がある坂道がけっこう多い地域。台地から谷筋への坂はそれだけ急なのでしょう。

 「音羽通り」に出たら、右折します。「目白坂下」の交差点から右折して西方へ上る、広い道路が現在の「目白通り」。その坂が「目白新坂」。

    

 この坂より南にある「目白坂」に対して、明治20年代の半ば頃に新しくつくられた新道の坂なので「目白新坂」というようです。
 この道は「椿坂」ともいわれました。坂の名は「椿山」という旧跡に因んでいますが、地元の人は「新坂」とも呼んでいたようです。坂を上った左側に「椿山荘」(山縣有朋別邸跡地)があり、その先で、「目白坂」(清戸道)と合流します。

この付近の案内図。

 改めて「音羽通り」を振り返る(北の方向)。

 今回の坂道探訪。緑濃き地域あり、女子大あり、高校あり、賑やかな繁華街あり、落ち着いた住宅街あり、と変化に富んだ道筋でした。
 かなりの急坂を自転車を押して上がる人、下る人。坂道に車を駐めて工事にいそしむ人達。講義を終えて軽やかな足取りの女子大生。校庭から華やかな歓声が聞こえてくる男子中学生・・・、日々の生活に密着した雰囲気も感じました。

 「坂道」はますます奥が深いところです。歴史と文化と生活と、・・・。
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清戸坂。幽霊坂②。薬罐坂。小篠坂。・・・(関口・目白台の坂。その3。)

2015-04-19 12:59:42 | 都内の坂めぐり

 「目白通り」から「不忍通り」に向かいます。「護国寺」方面への緩やかな下り坂。この付近の「不忍通り」は「清戸坂」と呼ばれていました。

           

【標識(東京都設置)】

 目白台上の目白通りは、江戸清戸(きよと)道といった。中清戸(現清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。
 この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で、清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。
 坂道の北側に、雑司谷清土村があったので、清土(せいど)坂とも呼ばれた。

【標識(文京区教育委員会設置)】

 延宝4年(1676年)、 御三家 尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現清瀬市) につくられた。 将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。 これが現在の目白通りである。
 首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向っての広い道は、昔から“清戸道に登る坂”ということで『清戸坂』といわれた。
 江戸時代、 この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
 明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。 牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。 旗竿には、『官許の牛の乳』と假名と、ローマ字で書かれていたという。

(以上、HP参照)

 日本女子大の敷地の西側にある坂が「幽霊坂」。

 日本女子大脇の歩行者専用の道路で、目白通りに向かう坂。「幽霊坂」などというイメージは想像もつかない印象ですが、
  1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ←Aが「幽霊坂」、↓が「本住寺」、Bが「清戸道」。

 かつては、坂道の西側にお寺の墓地があり、東側には茶畑が広がっていて、周囲が物寂しい、坂道だったことが想像されます。

右手が「日本女子大」。

    
         「幽霊坂」と「不忍通り」との角にある古風な建物。日本女子大の敷地内?

 「不忍通り」を進み、「聖ドミニコ修道院」の手前をを右折して、正面の石段を上がると、「窪田空穂終焉の地」の碑。


 窪田空穂(くぼたうつぼ)
 明治10年~昭和42年(1877~1967)。本名は通治。空穂は号。明治、大正、昭和の歌人、国文学者。
 その文筆活動は、短歌、小説、随筆、評訳と多彩であった。多数の歌集のほか、万葉集、古今集、新古今集の評訳、源氏物語の現代語訳などを著した。一方、早稲田大学教授として多くの人材を育てた。昭和16年、日本芸術院会員。昭和33年、文化功労者。
 明治45年(1912)竹早町(現・小石川5丁目)に居住して以来、文京区とのゆかりが深く、この地に46年間住み、昭和42年4月12日ここで没した。享年89歳。

 文京区教育委員会   平成7年3月

 おうちの東側にあった古木の切り株。2本ほど途中でバッサリと。

 そこから左に曲がり、突き当たりを左折すると、「薬罐坂」。

    
    南(「目白通り」方向)を望む。               北(「不忍通り」方向)を望む。 

       

薬罐坂(夜寒坂)

 江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
 やかん坂のやかんとは、野豻とも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
 この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
 この道を行きつつみやる谷こえて蒼くけぶる護国寺の屋根 (窪田空穂)

 文京区教育委員会  平成13年3月

 「薬罐坂」は、「音羽通り」をはさんで東側の小日向台にもありました。同じように物寂しいところだったようです。

「夜寒坂ムーンリッツ」。
 地図上では「夜寒桜ムーンリッツ」とあります。賃貸住宅のようです。

「不忍通り」から望む。

 「不忍通り」を「護国寺」方向に下って行きます。この辺りは「旧雑司ヶ谷町」。「雑司ヶ谷」は豊島区、文京区にまたがった広い地域でした。



 「不忍通り」の北側にある「トヨタ東京カローラ」の方に渡って、首都高速池袋線の下をくぐって護国寺方向に出ます。

    
                                   高速道路の下、池袋へ向かう道が「小篠坂」。
 

             

小篠坂(小笹坂)

 豊島区と境を接する坂である。この坂道は、江戸のころ、護国寺の北西に隣りあってあった幕府の御鷹部屋御用屋敷から、坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る坂として新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
 坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近くの目白台に長く住んだ『窪田空穂』は、次のようによんでいる。
  雑司が谷 繁き木立に降る雨の
        降りつのりきて 音の重しも

 文京区教育委員会  平成元年3月 

    
  池袋方向(豊島区側)「を望む。               南側(文京区側)を望む。

 「不忍通り」に戻ってさせしてしばらく行くと、「護国寺」前に出ます。


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幽霊坂①。豊坂。小布施坂。日無坂。・・・(関口・目白台の坂。その2。)

2015-04-18 20:25:23 | 都内の坂めぐり

 「目白通り」を左折し、「和敬塾」と「目白台運動公園」の間の坂を下ります。「目白通り」をはさんで、この付近をかつては「高田老松町」といいました。
 
「旧町名案内」。

 旧高田老松町 (昭和41年までの町名)

 明治5年、高田四ッ谷町の内と高田四ッ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩・6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩・1万石)、細川越中守(肥後熊本藩・54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして、町名を高田老松町とした。
 旧高田老松町76番地の細川邸の門前に、昔、2株のの老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松といい、右手の松はやや低く平なのを亀の松と呼んだ。
 町名は、この縁起のよい老松からとったといわれる。鶴の方は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年に枯れた。

 両側を高い壁で囲まれた坂道。「幽霊坂」。

    
 細い坂道。                            坂下から見上げる。

 「幽霊坂」はこの地域には2つありますが、そのうちの一つ。「目白台運動公園」と「和敬塾」との間にあります。昼でも暗く、おそらく幽霊でも出そうだということで付けられたのでしょう。(「和敬塾」の寮生達が名付けたのかも知れません。)
 この坂は、戦後、細川家で整備した私道だそうで、「新江戸川公園」(旧細川邸・庭園)へ通じる坂。

新江戸川公園。

 公園は回遊式泉水庭園で、園内にある湧水や背後の台地の起伏を生かしたつくりで、都会の喧噪を忘れさせる情緒があります。

門から入ると、目の前に大泉水への視界が開ける。広がりのある池と背後の高台の森を山並みに見立てている。

 公園の角を右折して、文京区と豊島区の区界になっている通りを西に向かいます。

    
 左手が文京区、右手が豊島区。この付近では、豊島区が切っ先のように入り込んでいる地域。

 「目白台保育園」の二つ先の道を右に入ると、「豊坂」への道。

坂の途中から振り返って望む。

    
 
 豊坂(とよさか)

 坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
「目白台に上がれば、女子大学校」程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素掘りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。

 文京区教育委員会  平成12年3月

「旧町名案内・高田豊川町」。

 急角度で左に曲がり、すぐ右に折れながら上って行きます。 

    
 坂の上から望む。この急坂をタクシーなどが下ってくるので、要注意。上がると、右手に日本女子大附属幼稚園。

 「目白通り」に出て、左折し、「日本女子大附属豊明小学校」の先を左折すると、「小布施坂」にさしかかります。

       

小布施坂(こぶせざか)

 江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。

 文京区教育委員会  昭和63年3月

                  

途中、石段になって下って行く。

 けっこう長い坂を下りきって突き当たりを右折、さらに一本目の細い道を右折して、住宅の間を上って行くと、「日無坂」。
 この細い道が文京区と豊島区との区界となっています。

右が「文京区」、左が「豊島区」。

 道はますます細くなって、上りの石段になります。

    
                                   坂上から望む。右が「豊島区」、左が「文京区」。

 明治時代には、この道を境にして、西が豊多摩郡(東京市外)でした。この付近の「不忍通り」の北側地域で、豊島区と文京区の区界がかなり入り組んでいるのも、その時の名残り(市内と市外の区分け)です。

 坂上で、「富士見坂」と合流します。

左が「日無坂」、右が「富士見坂」。

「富士見坂」(豊島区)。

 「富士見坂」との合流地点から見るとなかなか趣のある風情の和風つくりの家と遠くまで直線で下る坂の向こうには、新宿の高層ビル街。なかなか見事な景観をつくりだしています。「富士見坂」からは富士山は見えないそうですが。

          
           上からA「富士見坂」、B「日無坂」、C「小布施坂」、D「豊坂」、E「幽霊坂」、F「胸突坂」。
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目白坂。胸突坂。・・・(関口・目白台の坂。その1。)

2015-04-17 20:12:31 | 都内の坂めぐり

 久々の晴れ間。地下鉄「江戸川橋」駅スタートで、ぐるっと回って再び「江戸川橋」駅へ。約2時間、そして約15,000歩の上り下りでした。
 「神田川」沿いの桜もすっかり葉桜になってしまった4月16日。

 「目白坂」から「胸突坂」、「豊坂」・・・。
 前回訪れた「小日向の坂」と「音羽通り」をはさんで西側の坂めぐり。「小日向台」に対して、「関口台」「目白台」ということになります。

 なお、今回は、山野勝さん著『江戸と東京の坂』(2011年発刊・日本文芸社)をもとにしての探索です。




 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓Aが「目白坂」、←Bが「音羽通り」。中央の流れが「神田川(江戸川)」。「神田川」の北側沿いは現在は「江戸川公園」になっている。

    


目白坂

 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道路を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急に下るようになる。
 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。

   目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四五十かも 窪田空穂(1877―1967)

 文京区教育委員会 昭和63年3月

    けっこう急な上り坂。

              

清戸道

 神田川に架かる江戸川橋(現東京都文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約5~6里(約20~24km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。
 成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩の鷹場が清戸にあり、そこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも、農村であった清戸から、市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。5~6里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。これに沿道の豊島郡練馬村(現東京都練馬区)などから練馬大根をはじめとする農産物の輸送も加わり、そうした往来から自然発生的に道が成立したものと考えられている。
 1918年(大正7年)度に行われた1時間平均交通量の調査で、清戸道は中山道に次ぎ、川越街道(国道254号)よりも多かった。

 清戸道の経路
 神田川・江戸川橋(東京都文京区関口)-(東京都道8号千代田練馬田無線)-(目白坂下南交差点)-目白坂-(椿山荘前付近)-(「目白通り」)-(目白台二丁目交差点)-(豊島区南長崎3丁目付近・南長崎交番)-(南長崎郵便局)-(豊島区南長崎6丁目付近)-千川上水沿い(「千川通り」)-(練馬区・豊玉北六丁目交差点)-(「目白通り」)-(練馬区向山4丁目付近)-(練馬中入口交差点)-石神井川・道楽橋-(練馬福祉会館前交差点)-(「目白通り」)-(谷原交差点・富士街道(ふじ大山道)と交差)-(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-(練馬区西大泉・四面塔稲荷前交差点)

 なお、目白台二丁目交差点で「目白通り」に接続する「不忍通り」の坂道は「清戸坂」と呼ばれ、「清戸道へ上がる坂」がその由来となっている。

(以上、「Wikipedia」参照)

 「目白坂」をそのまま上り詰めると、「椿山荘」の前を通り、「目白通り」に合流します。が、「関口台町小学校」の手前で左折して道なりに進むと、「江戸川公園」の上に出ます。

    

 江戸時代には大洗堰が築かれ、「神田上水」との分岐点になっていた「大滝橋」付近の公園。このあたりは、すでに掲載済み。


 以下、一部再掲。



 神田上水取水口大洗堰跡

 徳川家康の江戸入り(天正18年―1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
 大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。
 大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。
 上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。

 文京区教育委員会 昭和62年3月

「大滝橋」より「江戸川(神田川)」上流を望む。

    
   「堰」の遺構の一部。

 神田上水取水口の石柱

 ・・・関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。
 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。 昭和58年3月 文京区役所

    

 かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は400㍍程上流に復元されています。
 大正8年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。
 左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年、この碑文のみが見つかりましたので、ここに設置しました。平成3年3月 文京区役所

(以上、2013/10掲載文より)

 公園を出て、神田川沿いの遊歩道を上流に進みます。右手が「椿山荘」。



    
                    「関口芭蕉庵」(「椿山荘」と一緒に紹介済。2014・6・11。)。

こじんまりと、風情のある「芭蕉庵」の庭。


 「関口芭蕉庵」のすぐ西側にある急坂が「胸突坂」。

    

胸突坂
 
 目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる、東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
 ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人びとの苦労がしのばれる。

 文京区教育委員会 平成10年3月

 但し、1880年頃は、「胸突坂」(→A)と「駒塚橋」(←B)との位置関係は異なっています。「駒塚橋」は、「江戸川橋」以外では数少ない「神田川」の架かる橋でした。


 (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 また、この辺りは文京区、豊島区、新宿区の区界が複雑に入り組んでいますが、「神田川」の旧河川時代の流れに沿って区界が成立しているためです。

かなりの急坂。胸突き八丁。

  
          自転車を押して下る青年の姿がたちまち視界から消える。

 坂道は「目白通り」まで続きます。その途中の左には、「永青文庫」、右手には「蕉雨園」。その先の右手は「和敬塾」本館。

    

 「永青文庫」
 日本・東洋の古美術を中心とした美術館で、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の収集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。

 「蕉雨園」
 田中光顕邸(1897年築)。1919年、田中光顕はこの邸宅を渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲り、その後、1932年に講談社創業者の野間清治が購入。現在は講談社の所有。

「和敬塾」。


1880年代のようす(「同」より)。
 西側の○が「細川邸」(現 新江戸川公園・永青文庫・和敬塾)、東側の○が「山縣邸」(現 椿山荘)、↑が「芭蕉庵」。「胸突坂」がその西側。
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幽霊坂。三分坂。円通寺坂。「野田岩」。・・・(じじばばがゆく。冷たい雨の降りしきる乃木坂編。)

2015-04-09 20:17:18 | じじばばがゆく

 生憎の雨、それも粉雪混じり。まるで冬に戻ったような寒さね。でも、ここまで出てきてくれた、感謝します。



 ここは、母親が生まれ育ったところなの。「溜池」なんかその通り、雨が降ると大変だったって聞いたことがある。

 それから、自分も結婚して近くの社宅に住んだことがある。不思議な縁よね。子供も小学校は母親と同じだった。
 夫の転勤でそんなに長くいなかったけれど。懐かしいわ。

    

 「乃木坂」。旧乃木邸と乃木神社があるので、そうなったらしいわ。昔は、「幽霊坂」って言ってたそうよ。どうしてそう言ってたのかしらね。そんな雰囲気、幽霊が出るような感じなんかまるでしないし。高台にはさまれた暗い所だったのかしらね。お寺も多いし、・・・。



 まさかこんな日に歩くとは思わなかった、でも、懐かしい。サクラはすっかり散ってしまったけれど。

     

 ここが、乃木さんのおうちだったところ。中に入ったのは初めて。乃木神社は知っていたけど。

     

 軍人のおうちで、木造だけどがっしりした造りよね、へえ、フランス陸軍の聯隊本部を参考に造ったのか。上野にある岩崎ちさんみたいにお金にあかして造った豪邸よりもいいわ。

    

 煉瓦造りの馬屋が残っている。

 乃木希典って明治天皇のご大喪の日に、奥さんと自決した方よね。
 「こころ」の先生もその報を聞いて自殺を決意した、とか。明治の精神に殉ずる、ってどういうことがよくわからないけど。

    

 何、血の付いたものを埋めたところですって、ここが。

・・・



 寒くない? けっこう冷えてきた。

 もう少し歩いてみようか? ・・・こんなところをあなたと歩くなんて思っていなかったわ、不思議な関係よね。

 坂道がけっこう多いよね、この辺り。

 赤坂の方に行ってみましょうか? たぶんこっちの方角だと思う。

      

 あれ! ちょっと道を間違えたみたい。 こんな急な坂があるなんて、思ってもみなかったわ。「三分坂」ですって。
 「TBS」じゃない、あれ。・・・ということはこっちに向かって行けばたぶん着けるはずよ。

    

 この辺りもお寺が多いわね。「円通寺坂」って書いてあるし、・・・。

 何だかずいぶんと歩いてしまった!「 赤坂見附」駅の方に向かっているのね、「薬研坂」を行けば、・・・。まだ時間があるから、寒いし、どこかでお茶でもしよう。

              

・・・

「不思議よね、人生って」

「相変わらず東海道を歩いているんでしょ」「へ~、もう浜松まで」

「日本橋から250㎞か」「次は、いよいよ愛知県ですか」

「静岡はたしかに横に広いわよね」「三島から、じゃない箱根峠から」「浜松、その先の浜名湖、もっとその先までですものね」

「あとどのくらいかかるかしらね」「一人で歩いてつまらなくない? 」「ホント! 夫婦で歩いている人もいるんだ」

「日本は広いし、まだ行っていない県もある」「今度、高知に行く予定なの」

「三条大橋が終点か」「ただ歩くだけじゃないわけね」

「西行、阿仏尼、業平、更級日記、ふ~ん、さすが東海道ね、昔から由緒・因縁があるんだ」

「因縁か、私達も不思議な因縁だと思わない? 」

「読書する時間もない、孫や娘や猫たちの世話で毎日忙しい、でも愚痴だけは言いたくないから。夫は、今日は同期会だって出かけた」

「明日からも朝早くからせわし、せわし、・・・」「こんなのんびり、散歩するなんてめったにない」

「せめて羽を伸ばすといってもこの程度だけど」「あんまり苦にしないのよ、苦にしたからってはじまらないじゃない」

「そうね、久しぶりでいろいろお話しできたし」「外は、雨はもう上がったかしら」

「背中が痒いって、奥さんにクリーム塗ってもらえばいいじゃない。あるいは何とか嬢とかにさ」

「年寄りは肌がガサガサになる」「おかげさまでこんな黒髪でいられる、白髪にはなりにくい体質かも」「けっこうふさふさしている」「長生きするって、何ともいえないけど」・・・

「もうこんな時間か。食事に行きましょう。ウナギ。大丈夫でしょ。浜松ではウナギを食べたの? 」

「昔、近所だったので、寄ったことがあるのよ。そんなに高くないし、昔からのお店みたいよ」

「だいじょぶ、だいじょぶ、こんな天気だし」「東麻布」」「電車に乗ればすぐよ」

「古稀か、古来稀なり」「でも、かわいいおばあさんでいたい。」

「こんな氷雨に負けず、身も心も温まるお話を聞いたし、聞いてもらった。ありがとう。」
 
「もうこんな時間か」「美味しかった」
                    「天然鰻のお吸物のきも、又はきも焼に釣針が入っていることがありますのでお気をつけ下さいませ。」

・・・

 《昨日は生憎のお天気でした。いろいろなお話しに眠っていた私の脳が久しぶりに回転してきました。お体に留意してご活躍下さい。また、ご連絡します。 F・A》



 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 ↑が「幽霊坂」(現「乃木坂」)、中央が「東京鎮台歩兵営」(現「東京ミッドタウン」)。は「檜町公園」、「赤坂中学校」付近に当たる)。



 同。
Aが「三分坂」、Bが「円通寺坂」、Cが「薬研坂」。「薬研坂」の北側の道が現在の「青山通り」。現在、「三分坂」を上がった右手の高台にあるのが「TBS」。 
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藤坂。釈迦坂。茗荷坂。環三通り桜並木。・・・(小日向の坂。その4。)

2015-04-06 19:12:18 | 都内の坂めぐり

 「蛙坂」を下ると、十字路。丸の内線のガードが2ヶ所ある。右折してガードをくぐると、伝明寺。その手前の坂道が、「藤坂」。「富士坂」とも「禿坂」とも呼ばれる。

    
    右手が「藤寺」。                         坂上から。

 藤坂 (ふじざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺である。
 『東京名所図会』には、寺伝として「慶安3年寅年(1650)閏10月27日、三代将軍徳川家光は、牛込高田田辺御放鷹(鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
 昔は、この坂から富士山が望まれたので、富士坂ともいわれた。
 『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり。一帯は湿地で、禿(河童)がいて、禿坂ともいわれた。
    藤寺のみさかをゆけば清水谷
      清水ながれて蕗の苔もゆ (太田水穂)

 「伝明寺」にそれほど大きくない藤棚はあったが、まだ季節外れで新芽もでていなかった(当時の藤棚は枯れてしまったのだろう)。坂上は、春日通り。上がってみると、ちょうど「文京区桜まつり」の真っ最中。「播磨坂」の桜が満開。親子連れや昼休みのサラリーマンたちで賑わっていた。ちょっと寄り道。
    

 この通りの桜並木は見事。

 環三通り桜並木の由来

 かつてこのあたりは常陸府中藩松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は戦後間もない昭和22年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備が進み、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。
 
 文京区教育委員会 平成8年3月    

     

 「環状三号線」については、「www.miwachiri.com › 東京発展裏話「東京発展裏話 #6東京放射環状道路網の夢 ~文京区小石川の環3通り~」HPに詳しく掲載されている。(一度、このblogで取り上げたことがある)



 それによると、この「播磨坂」以外の文京区内を中心に事業凍結されて全線開通にはいたっていない。言問橋付近で水戸街道から分岐する「三つ目通り」が「環三」の一部だということを初めて知った。今度の「東京オリンピック」関連で事業計画が復活するとなると、沿線住民との間で一大騒動になるのは必至だが、そういう計画はありやなしや。

 元の道を引き返し、もう一つのガードをくぐって行くと、屈折した上り坂になる。石垣にはさまれたこの坂が「釈迦坂」。

    

 釈迦坂(しゃかざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
 『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
 徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
 境内に、大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
 徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。

    
                                  坂上から。

 「釈迦坂」を下り、右折する。拓殖大学東門に突き当たり、大学の敷地を迂回しながら進む。緩やかな上り。右手の高台は「林泉寺」の境内。さらに細い道が「茗荷谷駅」まで続く。この坂が「茗荷坂」。

    
                                   今回、回った坂が掲載されている。

 茗荷坂(みょうがざか)

【標識(文京区)】 

「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。

地下鉄茗荷谷駅方面。狭い路地の雰囲気。

駅入口付近から「茗荷坂」を望む。人通りが激しい。



 1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 A→が「茗荷坂」、B←が「釈迦坂」、C←が「蛙坂」、D↑が「藤坂」と思われる。赤丸が「千川」。

 静かな住宅街から寺町、そして学生が行きかう街角、・・・今回も変化に富んだ坂道でした。満開の桜も見逃さずにすみました。日曜日を待たずして、強風であわただしく散っていく風情です。

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荒木坂。庚申坂。切支丹坂。蛙坂。・・・(小日向の坂。その3。)

2015-04-05 20:53:50 | 都内の坂めぐり



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
赤い←が、「荒木坂」(道の西側に「称名寺」)。したがって、今回歩いた坂の上部分は、後に新しく付け替えられた道筋と思われる(本来は、「称名寺」の裏手を通って北に向かい、「切支丹屋敷」方向へ通じていたようだ。現在もその道は残っている)。
 赤丸は「キリシタン屋敷跡」付近、上部の赤丸には「蛙坂」とある。現在の「庚申坂」(→)は、「切支丹坂」と表示されている(このことについては、後述)。
 中央部は、現在、「東京地下鉄小石川工場」の大きな敷地となっていて、「切支丹坂」などかつての道筋は寸断されている。

 「称名寺」の先を左折すると、「荒木坂」。

    

 荒木坂(あらきざか)

【標識(文京区教育委員会)】

 称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
 『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅弐軒弐尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。


坂上から。ここから左に入る道が「荒木坂」。

 けっこう急なところもあり、下る人の頭がすぐ見えなくなった。

 途中から右側に「東京地下鉄小石川工場」の高い塀が続く道を下って行く(この坂は「荒木坂」ではない)。突き当たりの右手ガードの向こうにある石段が、「庚申坂」。

地下鉄ガード内から見た庚申坂。

    
                                       坂上から。左手は「茗台中」。

 庚申坂(こうしんざか)

【標識(文京区教育委員会)】

「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・・・・略・・・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名“庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・・・・・」『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。
 したがって、キリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』
    とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
     春の暮れがたの切支丹坂  (金子薫園)


 「庚申坂」と「切支丹坂」とが丁度ガードをはさんで互いに対している形になる。

    
                          ガード方向を振り返る。

 「切支丹坂」は、切支丹屋敷の表門に通じる坂道(東から西への緩い上り坂)だったことに因む。

    

 坂上を右折すると、右手の建物のところには、 

 東京都指定史跡 切支丹屋敷跡

 キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。
 最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の訊問を受けています。シドッティ語は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。

 平成24年3月  東京都教育委員会

 上の記述では、「一応無事な生活が許されてい」た、とあるが、そうであったのだろうか? 「切支丹屋敷」では、多くのキリシタンが幽閉され苦難を強いられた場所だった、と見る方が正しいのではないか。
 また、解説文ではシドッティの名が挙げられているが、もう一人。

ジョゼフ・カウロ(1601~1685)。

 イタリア人でイエズス会の宣教師。寛永20年(1643)、筑前国大島で捕えられ、長崎から江戸へと送られて、切支丹屋敷最初の入牢者となった。拷問によって転宗、岡本三右衛門の名と妻を与えられ貞享2年、84歳で没するまで切支丹屋敷に監禁された。遠藤周作『沈黙』の主人公、司祭ロドリゴのモデルとなった人物である。

 また、1880年頃の地図では、「切支丹屋敷跡」に直接通じる「切支丹坂」は、存在していない。現在の「切支丹坂」は後になって付けられた名称ではないかと思われる。

 このことについて、

『切支丹きりしたん坂考 松本 崇男』(www.sakagakkai.org/contri/Kirisitan.html)が詳しく考察している。

 現在、切支丹坂と呼ばれている坂は、文京区小日向1丁目14と24の間を東から西へ上がる坂で、東京メトロ丸ノ内線を間にはさんで庚申坂の急坂と向かい合っている。
この坂が切支丹屋敷の跡地を通っていることから、江戸時代から存在した切支丹坂であるかのように思われている。しかし、江戸期を通じてこの道は地図に見当たらない。さらに明治初期に刊行された地図にも描かれていない。明治19~20年にかけて刊行された参謀本部陸軍部測量局作成による『五千分の一東京図』にも現在切支丹坂と呼ばれている坂はみあたらない。
 庚申坂(地図には切支丹坂と書かれている)を西に下った道はいったん南へ直角に曲りアサリ坂を通って坂上の南北に伸びる道に通じている。つまり、切支丹坂はこの頃、まだひらかれていなかった。
現在、切支丹坂と呼ばれているこの坂は明治になって新たにひらかれた道の坂であって、江戸の切支丹坂でありえない。
・・・
 新道(別名 七軒屋敷新道)の坂、庚申坂、現・切支丹坂が切支丹坂と呼ばれた坂であった。
切支丹坂と呼ばれた三ヶ所の坂は、そう呼ばれた時代がそれぞれの坂で異なっていたようにも思える。
 現・切支丹坂は、明治20年代に新たにひらかれた道で、この坂が切支丹坂と呼ばれるようになったのは、『新撰東京名所図会』が現・切支丹坂を真の切支丹坂だと唱えた明治39年以降のことであった。それまで切支丹坂と呼ばれた坂が庚申坂であった。
 問題は、庚申坂と新道(別名 七軒屋敷新道)の坂の関係である。両坂のいずれが切支丹坂であったかについて江戸時代すでに混乱をきたしていた。
 庚申坂は現在も利用されている坂だが、坂のひらかれた年代は明確ではない。しかし、遅くとも延宝年間に(庚申)坂があったことが確認できる。一方、新道の坂は、元禄14年(1701)にひらかれ明治初年に廃道となったことがわかっている。庚申坂は新道の坂より古くにひらかれた坂であったといえる。
 年代は不明だが、まず庚申坂が切支丹坂とよばれるようになり、元禄14年(1701)に新道がひらかれると、切支丹屋敷に沿った坂であることからいつのまにか新道が切支丹坂と呼ばれようになっていった。やがて、切支丹屋敷が火事で焼失し、再建されないまま寛政4年(1792)に屋敷が廃止され、跡地が武家屋敷に変って切支丹屋敷の記憶が薄れていくと、新道の坂にかわって再び庚申坂が切支丹坂と呼ばれるようになったと考えることはできないだろうか。(以上、概要)

 「切支丹屋敷跡」の碑を過ぎて、しばらく行くと下り坂になり、直角に右折したらすぐ左折する急な下りになる。そこが「蛙坂(復坂)」。
                                         
     

 蛙坂[復坂](かえるざか)

【標識(文京区教育委員会)】

「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
 なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。

    
                       振り返って坂上を望む。

 「蛙の合戦」という話は、全国にあるようだ。低気圧が近づくと、蛙の大合唱が聞こえて来る、という話も。

 そこで、「蛙の合戦」を紹介。

 葛西音彌が明治39年(1906年)に編さんした「青森市沿革史」という本があります。その本の天保13年(1842年)6月の項に、「蓮華寺に蛙の合戦あり」という記事があり、本文は難解な文語で書かれているので、口語に直し少し潤色して紹介します。

「このころ、蓮華寺の境内にたくさんの蛙が集まって鳴きたてるのでとても騒がしい。その声は町中に響きわたる程で、それをわざわざ見物にやってくる人もたくさんいた。(たぶん暮六つの鐘(午後6時ころ)がなるころに、)まず番神堂の池からひと一倍大きな蛙がのっそり上がってきて、まるで宣戦布告するかのように、高らかにギャーロギャーロと鳴いた。一方、山門の外の蓮池からも、これまたひときわ図体の大きな蛙が一匹這い出て境内までのこのこ歩き、敵方大将蛙と十分な間合いを取り、やおらにらみ合い、ギャローギャローとどすの効いた太い声で一声上げた。
 この一声を合図に、両方の池から次から次へと、ぞろぞろぞろぞろ、おびただしい数の兵隊蛙が出てきて、互いに負けてはならずと盛んに鳴きたてはじめた。
 緒戦は鳴き合いであったが、次第に両軍の戦意は高まり、ついに、激しいつかみ合いや壮絶なかみ合いへと戦況は展開した。そのうちにリタイヤした兵隊蛙、また奮戦力闘の末、討ち死にする兵隊蛙も少なからず出てきた。
 (やがて一時(およそ2時間)もたったろうか。)二匹の大将蛙は一声大きく鳴いて、ここでいったん休戦の宣言をした。すると兵隊蛙たちはそれぞれ負傷したり死んだりした戦友をくわえ、味方の池へ引き帰った。このような大合戦はおよそ一週間ほど続いたが、やがて境内は何事もなかったように元の静けさを取り戻した。」この話は、かつて鍛冶町かじまち(現在の橋本一丁目あたり)で米や塩を商っていた京屋の記録とされる「柏原筆記」などをもとに、「青森市沿革史」に収録され、現在に伝えられているものです。ちなみに、番神堂は現在も稲荷様といっしょに境内の一角に祭られています。
 明治のころまで、蓮華寺のまわりにはまだ田んぼがありました。したがって毎年その時期になると、近くの人たちはいやでも蛙の大合唱を聞かされていたはずです。
 ちなみに、「蛙合戦」の話は全国あちこちにあり、生物学ではこれを「蛙の群婚」と説明しているようです(敬称略)。

                      【近世部会調査協力員 木村愼一】

(※『広報あおもり』2002年1月1日号に掲載したものを引用。)

 「蛙の合戦」も、実は産卵に集まった「蛙の群婚」のこと。雄は鳴くことで雌を呼び、雌は雄の鳴声で相手を選ぶ。時には間違えて雄が雄に飛びつくこともある、らしい。産卵時期の水辺は大騒ぎになるという次第。
 明治の頃は、この「蛙坂」の下には水田があったようだ。さぞかし蛙の鳴き声もにぎやかだっただろう。とっくの昔に蛙の声は途絶えたに違いない。その意味で、末永く残したい坂の名の一つ。

 そういえば、井上ひさしさんの戯曲で「表裏源内蛙合戦(おもてうらげんないかえるがっせん)」というのがあった。
 1970年に発表された作品で、「エレキテル」の発明や「土用丑の日」などキャッチコピーを生んだ「江戸の天才」平賀源内の一代記。次々と才能を開花させながら、当時の社会からは「奇人」「変人」とされた源内。
 その才能やそれ故の葛藤を“表”と“裏”のキャラクターによる合戦にのせて展開。歌、踊り、そして言葉遊びなど、当時、意気軒昂な井上ひさしさんならではの「エレキテル」笑劇だった。
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