おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。リタイヤ編)

2024-07-28 19:28:27 | 元荒川

白岡市のマンホール。

抽象的な「家族」を中央に配置。 その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。

「篠津一号橋」。「星川」。

              

星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。

橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。

けっこうな回り道。

「蓮田白岡環境センター」。

右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、

やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。

       

産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。

星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。

上流に橋が見えてきます。

橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。

※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町を流れ、春日部市で古利根川に合流する1級河川である。隼人堀川は、見沼代用水路の完成と共に周辺地域の灌漑用水が確保され栢間沼を干拓するにあたり、溜水を排水するために掘られたものである。この川の呼び方は、以前は庄兵衛堀川合流地点から下流を隼人堀川と呼び、上流部分は栢間堀と呼んでいた。今では河川行政上は全川を通して隼人堀と表示されている。

左折し、元荒川に架かる橋へ。

                    「根金(ねかね)橋」。

ここまで小1時間。もう汗びしょびしょ。

ここからは土手の道を歩くことになりますが。

振り返る。

この先は木陰のない土手歩き。

しばらく、小休止。この先どうしようか。

この付近を通るバス停の時刻を調べると、「蓮田駅」行きが、あと10分くらいで来るらしい。

この先はあきらめることにし、バスに乗り、蓮田駅まで戻ってきました。

この時期。炎天下の土手歩きは危険、危険。

この先は、涼しくなってからにしよう、と。

ということで、元荒川歩きは中断にします。

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7月27日(土)。向島百花園。カルガモの姿がなくなった池。風鈴。朝顔。そして隅田川花火大会。

2024-07-27 17:37:30 | 元荒川

向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?

ところが、どこを見渡してもいません。

親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?

そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。

帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。

こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。

園内には、

風鈴が涼しそうな音色を響かせています。

         

           

足下には木漏れ陽。 

炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。

そしてザクロの実が一つ。

朝顔展の準備が始まっています。

            

売店には「氷」の旗が。

この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。

アゲハチョウの姿が(↓)。

遠くにスカイツリー。

今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになるはずです。

間近で眺める機会もなさそうなので、開会前の様子を野次馬根性で行ってみます。

工事中の隅田公園(墨田区側)は立ち入り禁止のようです。

隅田堤も規制線が張られ、もう厳重警戒中。

シートが置かれ、番をする人も。

いつ頃かシートを敷いたのでしょうか? 

                    もう宴会をしている人たちも。

TV中継の準備中。

その向こうには、スカイツリー。

桜橋脇の打ち上げ地点の準備も着々と。

下流を望む。

何だかゴロゴロ雷の音が聞こえてきます。足立のときのように直前で中止にならないよう。

「隅田川花火大会」。

我が家で花火の音を楽しむことにします。飲むビールは「アサヒ」ではなく、キリンの「一番絞り(糖質0)」で。

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宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。リタイヤ編)

2024-07-26 18:34:20 | 元荒川

7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。

「八幡橋」方向。

             

かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな? と       

「さくらロードガーデン」。

川べりも歩けそうです。

左手に解説板があります。

                        「茅野(かやの)の渡し」。

現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました

渡しは対岸の二軒の家で交替に行われ、舟はそれぞれが持っていました。当番が向こう側の時には手を叩いたりして合図し、向こうから舟を持ってきてもらいました。大正初期で一銭だったといいます。この渡し場は下流に大正一二年五月に八幡橋が架橋されると次第に利用者は無くなりました。

なお、当地で船頭を行っていた杉崎家には「円空仏」が伝わっており、これは渡船の渡し賃として円空からいただいたものだと伝えられています。

対岸(蓮田市側)を望む。

この付近の今昔。

                                                                

(1880年代)渡し場がある。白岡側は砂地。        (現在)白岡側は住宅地。上は「星川」。

右手から「星川」が合流。

              

元荒川上流へ行くには、星川沿いを迂回します。

元荒川の下流を望む。

コスモスが咲き始めています。

※星川は熊谷市上川上を起点とし、白岡市西で元荒川と合流する延長約34km、流域面積約45平方kmの利根川水系の1級河川である。起点から小見(行田市)までを上星川といい、小見から上大崎(久喜市)の16間堤までを見沼代用水といい、16間堤から元荒川合流点までを下星川という。見沼代用水が伊澤弥惣兵衛為永によって半年間の短い工期で完成できた理由の一つはこの星川を利用したことであると言われている。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その7。白岡市。八幡橋・八幡の渡し。元荒川架橋記念碑。車站(しゃたん)之碑。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-24 21:03:30 | 元荒川

「東北新幹線」。

白岡町(白岡市)の表示が。

※「白岡市」

白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。

昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。
誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。
このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。

交通面では、都心まで40分程度で結ぶJR宇都宮線が南北に走り、白岡駅、新白岡駅には上下線とも1日100本前後の電車が停車し、通勤・通学の足となっており、東京都心まで約40キロメートルに位置し、ベットタウンとして発展してきました。

また、東北道、国道122号、県道8路線が市内を通過し、東北道久喜インターチェンジや圏央道白岡菖蒲インターチェンジにも良好なアクセスが可能であることから、広域的な交通利便性に富んでいます。

特産品の「梨」は県内有数の埼玉梨の主産地であり、4月中旬には市内の梨園が梨の花で白一色となります。
白岡市は、『みんなでつくる 自然と利便性の調和したまち しらおか』をスローガンに、自然と調和した新しいまちづくりに取り組んでいます。

(この項、「」HPより)

対岸は、蓮田市。

     東北新幹線・橋梁。

             水位計。

振り返ると通り過ぎるところ。屋根しか見えませんが。

上流に「八幡橋」が見えてきます。

           

叢の中に石碑と解説版。

          

対岸は蓮田市貝塚で、以前この地は「八幡(やわた)の渡し場」があった。明治43年に白岡駅が開業を始め、駅周辺の商家を中心に近隣の有志の援助を受け、大正12年に「八幡橋」を架けた。現在の永久橋は平成6年に架け換えられたものである。(「白岡市」HPより)

※渡しの仕事は「かっこし(川越し)の家」の屋号で呼ばれる早川家で行っていた。

左手には「元荒川架橋記念碑」が残っている。

上流方向。

今回は、ここまで。炎天下、宇都宮線「白岡駅」に向かいます。

白岡駅前に大きな石碑。

旧国鉄東北線白岡駅は、明治43年(1910年)2月11日に開業しました。本碑は、その開業を記念して同年5月、白岡駅前に建てられました。
撰文と書は中島撫山。篆額は亀田雲鵬。裏面には、本碑建設のための寄付者氏名が列記されています。

白岡駅と車站之碑 
 明治維新後、国は輸送手段の一大改革として鉄道建設を推進し、その一環として1885年(明治18)7月、日本鉄道会社により大宮-宇都宮間が開通しました。 しかしその際、白岡駅は設置されませんでした。
 そのため、地元有志は交通の利便化と産業の振興を願って、日本鉄道や帝国議会に駅の設置を請願市、駅用地の寄付も行いました。しかし、その後の日露戦争(1904~1905)で設置は遅れ、再三の請願の結果、1910年(明治43)2月11日になってようやく駅が開設されました。駅名は白岡八幡宮から名をとって「白岡駅」とされました。
 「新設白岡車站之碑」は駅開設の5月に立てられたもので、開設までの苦労や、駅開設後に人々が利益追求に走ることを心配する内容などが、久喜の漢学者中島撫山の撰文により刻まれています。また、記念碑の寄付人名には久喜、岩槻、蓮田の人々も含まれ、周辺地域の人々も白岡駅開設に関心の高かったことがうかがえます。
   平成13年6月    白岡町教育委員会

【新設白岡車站(しゃたん)之記】 明治43年(1910)建立。高さ 364cm。

※ ( 「站」は立ちどまる意 ) 車が中途で立ち寄る所。停車場。鉄道の駅。

「白岡駅」ホーム。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その6。新今宮橋。今宮橋。東北新幹線。白岡市入り。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-23 19:25:04 | 元荒川

日差しが強くなってきます。

木々があるので、

                 歩くのにはちょうどいい。

ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。

次の橋に近づきます。

振り返る。この先には運動公園はなさそう。

広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。

「新今宮橋」。

下流方向。

             

上流方向。

大きくて見事なサボテン。

水管橋。

蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。

「今宮橋」・今宮けやき通り。

     下流方向。

上流側から橋を望む。

川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。

                                これがけっこう長い。

この付近から白岡市入り。

対岸に東北新幹線。

この付近の今昔。

                                                                                                                       

(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。          (現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市

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7月22日(月)。大暑。土用丑の日(19日)。桐。入道雲。オシロイバナ。ニガウリ。打ち水。・・・

2024-07-22 19:55:10 | 二十四節気

今日は、二十四節気の第12番目・「大暑」。一年でもっとも暑さが厳しく感じられる頃。というか、とうに猛暑でです。

夏という季節に当てはまる二十四節気は、5月5日「立夏」からスタートし、小満、芒種、夏至、小暑、大暑となりますが、今や「大暑」「猛暑」という季節感。「立秋」もまだまだ暑い夏が続きそう。

梅雨明けから連日、一段と厳しい暑さになっています。夕立も来ていますが。

土用丑の日は、24日(水)と8月5日(月)。そういえば、最近、TVでやけにウナギの蒲焼きを特集しています。

※うなぎを食べるという習慣の「いわれ」は?

江戸時代に、本草学者・地質学者・蘭学者・医者など幅広い分野で業績を残した、平賀源内のアイデアによるものという説が挙げられる。

当時のうなぎの旬は秋から冬とされており、売れ行きの悪さに困ったうなぎ屋の店主は、発明家としても有名な平賀源内に「夏にうなぎを食べてもらうにはどうしたら良いか?」と相談した。平賀源内の助言により店先に「本日、土用の丑の日はうなぎの日」という張り紙をしたところ、集客に成功した。このうなぎ屋の繁盛を見てほかのうなぎ屋も真似するようになり、徐々に夏の土用の丑の日にはうなぎを食べることが定着したとされている。

さて、昔から「梅雨明け10日」。暫く晴れが続きそうです。

若い頃は、すわ!登山だ! と。この10日間のうちに、北アルプスとか南アルプス、はたまた東北の山などの縦走に当てていましたが。今は、炎天下を避けて引きこもりです。「元荒川」歩きも、いったん中止に。何しろ上流はほとんど木陰のない歩きになりそうなので。

七十二侯でいうと、7月23日から次の二十四節気の第13番目・立秋の8月7日(水)までの期間。

・初侯 7月22日〜7月26日頃

桐始結花 きりはじめてはなをむすぶ

桐が花を咲かせる頃。盛夏を迎える頃には、卵形の実を結びます。桐は、伝統的に神聖な木とされ、豊臣秀吉などの天下人が好んだ花であり、現在も日本国政府の紋章として使用されています。

                 

・次侯 7月27日〜8月1日頃

土潤溽暑 つちうるおうてむしあつし

熱気がまとわりつく蒸し暑い頃。

入道雲がもくもくと。

・末侯 8月2日〜8月6日頃

大雨時行 たいうときどきにふる

夕立や台風などの夏の雨が激しく降る頃。

のものとしては、

・白粉花(おしろいばな)

黒い種子を割ると、白い粉質のもの(胚乳にあたる部分)があり、それがおしろいの粉のようなので、この名がつけられています。「夕化粧」とも言います。

白い花が咲く。

           赤い花が咲く。

・ゴーヤ(ニガウリ)

沖縄県の特産物であるゴーヤ。小さな花が咲いています。

かつての新築前の我が家では、道路に面した西側の窓際にゴーヤを2,3本植えて、暑さしのぎと収穫を楽しんでいました。真夏は、南の日差しよりも午後からの西日の方がはるかに強烈でしたので。

日中の暑さを和らげる工夫として、「打ち水」があります

庭先や道路などに水をまいて涼を得る、という生活の知恵。水が蒸発するときの気化熱が周囲の温度を下げて地表の温度を上がりにくくし、濡れた地面を通る風を冷やしてくれるという狙いがありますが、直射日光にさらされた日向に水をまくとすぐに蒸発して湿度が上がり、かえって逆効果になるのが、現実のようです。

我が家でも庭先や道路に打ち水でもしようものなら、暑さが倍増という感じ。

この打ち水も、もう見かけませんね。

今は、地元の公園などに設置されている「ミスト(霧)散布」システムがはやっているようです。

・カブトムシ

・金魚

縁日などでの「金魚すくい」が子どもの楽しみです。でも、その後、金魚鉢で育てているのでしょうか?

以前水槽で育てていた金魚。大きくなって水槽が窮屈になりそうまで育って大往生しました。

次は8月8日「立秋」。

去年の夏は、炎天下の歩きは遠慮して、JR「五井駅」から「小湊鐵道」と「いすみ鉄道」を乗り継いで、大原まで列車の旅を皮切りに、関東エリアのローカル線をクリアしました。

今年は、読書三昧にしようか、と。

午後からは、近所の図書館に涼みがてら本でも借りに行こうか。

※写真は、向島百花園などで撮影したもの。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その5。河川敷の公園。パークゴルフ。荒川橋。色鮮やかな草花たち。新荒川橋。キウイ。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-21 20:21:02 | 元荒川

運動広場が続いています。

パークゴルフ? それともグラウンドゴルフ?

この先、公園ではどこもゴルフを楽しんでいます。

河川敷なので大雨なのでは水没する可能性も。

両の島水門。

橋が見えてきます。

「荒川橋」。

JR宇都宮線・鉄橋。

                     白岡駅方向。

「椿山住宅地」。

川沿いの緑地・公園へ。

                

この公園の土手際には、様々な花が咲き誇っています。

 

  

                                 ベンガルタイガー(カンナ)。 

知らない名前の花たちが、

色鮮やかに。

          

                       

素敵なおうち。

「新荒川橋」。

少し河川敷から離れて進みます。

キウイがたくさん実る棚の下を抜け、河川敷に。

この公園でもゴルフを楽しむ人たちの姿。

元荒川の流れ。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その4。久伊豆神社。宮前橋。蓮田駅。「元荒川」解説板。「空飛ぶアヒル夢公園」。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-20 19:47:38 | 元荒川

「川島久伊豆神社」脇の解説板。

              「元荒川の水はどこから来るの? 」

「久伊豆神社めぐり」。

蓮田市には七つの久伊豆神社があり、すべて元荒川流域のみに分布しています。これは舟での運搬が深く関係しており、川の流れに沿って土地が開発されていったからではないかと思われます。したがって、「久伊豆」の神は、豊作の神、水の神としての性格を持ち、稲作の信仰として祭られたと考えられ、当時の村の鎮守様であるなど、それぞれ個性的な歴史を持っています。

「宮前橋」。

下流方向。

上流方向。

              

左に向かうと、JR宇都宮線「蓮田駅」に出ます。

蓮田市のマンホール。

            蓮田市の木「ハナミズキ」のカラーデザイン。

橋のたもとに「元荒川」解説板。

元荒川(もとあらかわ)
元荒川は、熊谷市から南東に流れ、白岡市で野通(やどおり)川を、蓮田市で星川を合わせ、吉川町で古利根川(中川)に合流する、長さ約六〇キロメートルの一級河川である。
現在県中央部を流れる荒川は古来しばしば流路を変え、県東部地区低地を乱流していた。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の流路を本流とし、一部は分流として現在の綾瀬川の方にも流れていた。このため沿岸一帯はしばしば大きな水害を受けたので、関東代官頭伊奈備前守忠次は現在の桶川市に堤防を築き綾瀬川への流入を防いだ。しかし、これだけでは根本的な解決にならず、寛永六年(一六二九年)には、荒川の流路を変えることとし現在の熊谷市久下(くげ)地先で荒川を堰き止め、その流れを入間川の支流の和田吉野川につないだとされる。こうして、新しい流路を荒川と呼び、旧流路は元荒川となった。


平成二年三月   埼玉県蓮田市

背後の河川敷は、「空飛ぶアヒル夢公園」。

                       ※たくさんのヒマワリが大人気のようです。

上流に向かって歩きます。

            

上流にも公園が続きます。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その3。土手を歩く。一面田んぼ。かつての自然堤防・県道。川島橋・なかよし橋。東北自動車道。川島の富士塚。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-18 20:01:32 | 元荒川

草刈りを行った後なので、歩きやすい。

次の橋まではけっこう歩きます。

右手には一面、田んぼが広がります。

県道が奥に。

川面。

この付近の今昔。

(現在)。自然堤防が舗装道路に。

(1880年代)。幅広い流路と河川敷が混在。

振り返る。

大きく右に曲がっていきます。

       

県道に合流、木陰で一休み。

「はすだセントラルクリニック」。

やっと川島橋に出ます。

しかし「なかよし橋」と。

右岸に移ります。

バス停「橋場」。

「東北自動車道」。

       ↑「蓮田SA」。

左手に築山が。頂上まで参道があります。

大木の根っこだけ残され、木々が取り払われ、整備されています。

「川島の富士塚」。 

都内ではいくつか残っていますが、久々に見ました。

※富士山信仰。それぞれの地域ごとに「富士講」をつくり、先達に引き連れられ、実際に富士山登山をすることもあります。 
 また、地域の神社の一角に、富士山を模して築山したものに登って、富士山信仰のよすがにします。出来る限り富士山にある溶岩や岩・石などを敷き詰めたり、置いたりします。
 また、砂走りや大沢崩れなどを模し、お中道巡り、1合目から頂上までを順路のようにつくります。それぞれの講ごとに「碑」を建てたりします。
 不思議と猿の親子の石像があるのも特徴です。富士山と猿との関係はどういうことなのでしょうか。現在の富士山には、野生の猿は生息していないはずですが。「庚申」信仰と関係があるのかもしれません。
 小さな山を築いてそれらを置くのですから、実に込み入っています。それはそれでおもしろく、風情があります。

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向島百花園。カルガモ。秋の七草。そして、ソウタ。(附)夏姿の富士山。

2024-07-16 20:42:37 | 向島百花園

カルガモ親子は、どうしているか? 

7月15日。曇り空の下、向島百花園にでかけました。

訪問客もチラホラ。静かな園内。

                         

                さぎそう。花がシラサギの姿によく似ています。

※サギソウは、日本各地の日当たりのよい低地の湿地に生える球根性のランです。親株から走出枝(そうしゅつし、ランナー)を伸ばして、その先端に翌年の球根をつくります。3~5枚の細長い葉を根元近くにつけ、中心からまっすぐに茎を伸ばして、先端に1~5輪の花を咲かせます。花は純白で唇弁(しんべん)の先端が3つに割れ、その左右の裂片には多数の深い切れ込みがあって、その形は白鷺を思わせます。冬は球根だけになって冬越しします。

おみなえし(女郎花)。

ききょう(桔梗)。「秋の七草」(お好きな服は)の二つ。

ところで、カルガモは?

池の中で泳いでいるのは、親鳥とあと1羽。

残りはどこに? いました!池の端の草地に集まっていました。数えると、6羽。ということは、皆、健在(ということ)。

  

池の中に入るヒナともぞもぞして行動しないヒナと。それぞれ個性(?)が出てきているのでしょうか?

水中にもぐるも巧みに。思いがけないところから姿を現します。

和傘をさした3人連れ。池に映って。

オナガの雛が孵ったのか、けっこうにぎやかに飛び回っています。時折、親鳥の甲高い鳴き声が。

すばっしこいので、カメラでは、なかなか捉えられません。写りません。

さて、どこにいるでしょう?

さて帰宅すると、ソウタが上を見上げています。クモでもいたか?

                               

このあとはいつものように。顔を隠して。

そして、いつもの寝姿に。

7月7日(日)。夏姿の富士山。久々の富士山遠景。

                       (富士宮にて)。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その2。元荒川水管橋。伊豆島の大蛇全3ヶ所。河川敷の小道に。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-15 16:53:53 | 元荒川

右手は工業団地。

          

「元荒川水管橋」。

※元荒川水管橋は城北大橋から500m上流に架けられている。元来は水管橋(元荒川の上を水道水を渡らせるためのもの)だったが、平成14年に改修され、歩行者も渡れるようになった。

             

上流方向。

下流方向。

土手沿いの道を進みます。

「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。

※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。

民俗行事の一つで、春祈祷(はるきとう)に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け、災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の2ヶ所に立てたと言われています。集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は細く作りますが、これは何でも悪いことは食べてしまうようにとの願いが込められています。
胴体の巻き方は、注連縄と同じ「左巻き」に撚って作られています。藁で全長約2メートルに作り上げられた大蛇は、「破竹(はちく)」と呼ばれる竹に刺し、現在は3ヶ所に立てられています(東岩槻方面への新たな道路の完成によるため)。以前は、大蛇と共に榛名神社のお札(家内安全・五穀豊穣)を辻札として立てていたようです。これは春祈祷行事も兼ねていたものと思われます。

以前は5月1日でしたが、現在は5月の日曜日に実施されています。令和5年は5月7日(日曜日)に行われました。
かつて、向いの笹山地区でも実施されていましたが、現在は行われていません。伊豆島の大蛇は、市内で唯一現存する藁作りのフセギ行事です。

「伊豆島の大蛇全3ヶ所の北側」。

(この項、「蓮田市」HPより)

※「西側の大蛇」を見逃してしまいます。

道脇の電柱にあったようです。

(「Wikipedia」より)

※道切りの一種。

道切り(みちきり)とは地域)の出入り口にあたるで行われる民俗習慣のひとつ。辻切り(つじぎり)とも称される。

日本の村落においては、村と山の境界にあたる野良(ノラ)、あるいは村と村の境(サカイ)には古くから疫病をはやらせるなどが出入りすると考えられていた。出入り口にあたる道には魔を防いだり、追い払うために道祖神が祀られたり、注連縄(またはで作った)を張ったり草履草鞋が供えるなどの道切りが行われていた。

関西地方では近畿地方を中心として、村境や辻、寺社の境内などに注連縄を渡す勧請縄(かんじょうなわ)という行事が多く行われている。また、比較的都市化の進んだ千葉県北西部地域(佐倉市市川市船橋市八千代市)を含む[2][3][4]千葉県各地で、名称はさまざまだが、道切りに相当する行事が現在も行われている。形態も、百足や蛇や龍の形をした綱を境界の木に据え付けるもの、同様の綱を道に張り渡すもの、人形や魚介類(蛸や海老)を模したものや草履などを吊り下げるもの、鹿島人形やお札を立てるものなど、多様性に満ちている

「銚子往還」歩きのときに、銚子市小浜町で見かけました、

頭上に、

    道を横切るように、しめ縄、タコ(右)やイカ(左)などの作り物が渡されています。

・・・

先に進みます。

民家の垣根沿いに廃船。

林の中の道を進みます。

川沿いの道へ。

集落を振り返る。

河川敷の小道に入ります。

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アーバンパークライン「東岩槻駅」~宇都宮線「白岡駅」。その1。東岩槻駅。東宮(ひがしみや)歩道橋。慈恩寺橋。城北大橋。(「元荒川」をゆく。第3日目。)

2024-07-14 15:50:04 | 元荒川

今回から元荒川の上・中流歩きになります。利用する路線、帰路は東武線からJR線になります。

東武線「東岩槻駅」。

東武線鉄橋の上流へ出ます。

「東宮(ひがしみや)歩道橋」から上流を望む。

右岸(左手)にかつての流れ。

この付近の今昔。

               (現在)

東武鉄橋上流に「東宮歩道橋」。「江川地区調整池」が設置されています。

               (1970年代)

元荒川は大きく西にカーブしていました。その後、流路の変更が行われ、宅地化されました。

土手沿いの道(左岸)を歩きます。

右手は住宅地。

上流に「慈恩寺橋」。

             

河川敷に畑が広がっています。

                               (1880年代)河川敷が広がっています。

                                (現在)かつての河川敷が農地となっています。

              水道橋が左手奥に。

畑の正面に「水道橋」。

「城北大橋」。

下流の水道橋を望む。

この先に人が歩ける「元荒川水管橋」があります。

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『ヒトラーと暮らした少年』(ジョン・ボイン 原田勝=訳)あすなろ書房

2024-07-13 21:29:22 | 読書無限

                

「少年ピエロは、叔母と共にヒトラーの別荘で暮らすことに。憧れのヒトラーに認めてもらうために一生懸命になるあまり、大切なものを見失っていく。」

パリに住んでいた少年ピエロは、とても心優しい少年で体が小さいことでいじめられることが多かった。唯一の友達はアパートの下階に住んでいる生まれつき耳の聞こえないアンシェル。いつも手話で話をしていた。アンシェルは物語を作るのが好きで、ピエロはいつもアンシェルが書いた物語を読んで楽しんでいた。

しかし、主人公のピエロはドイツ人の父とフランス人の母が亡くなり、孤児院に行くことに。その後、叔母と共にヒトラーの別荘で暮らすことになる。「ピエロ」は、ドイツ語風に「ペーター」と名乗らせられる。

チビで弱くいじめられっ子、しかし優しい心を持った少年だったが、憧れの偉大なる指導者から贈られた制服に袖を通した時から変わっていく。自分には力があると思い、人を見下し、命令しかしなくなる。ヒトラーに直接声をかけられ、側近のように振る舞い、筋金入りのナチスになりきった少年。そして、ヒトラー暗殺計画を企てていたおばや運転手を実行寸前で密告してしまう。

いくつもの挿話が記されていますが、気を寄せていたカタリーナにむりやり迫っていくピエロに対し、厳しく止めに入ったエマ。・・・

 エマは一瞬、表情をゆるめ、じっとペーターの顔を見おろした。「どうしっちゃたんだい、ピエロ? ここへ来た時は、あんなにやさしい子だったじゃないか。無垢な魂は、こんなにもたやすく汚れてしまうものなのかい? 」(P255)

やがてドイツは降伏し、ヒトラーは自殺、ベルクホーフの使用人達はペーターを残し、皆去っていく。今や主なき山荘で逮捕され、捕虜収容所に送り込まれたピエロは、釈放後、長年の放浪の末、パリに戻ってくる。そこで、アンシェルと再会する。・・・

 山荘のメイドのヘルタの別れ際の言葉。「ここで何が起きていたか知らないふりなんて、絶対するんじゃないよ。あんたには目もあるし耳もある。・・・全部聞いたんだよ。全部見たんだ。全部知ってたんだ。しかも、自分のしでかしたこともちゃんとわかってる。でもあんたは若い。まだ十六なんだから。関わった罪と折りあいをつけていく時間は、この先たっぷりある。でも、自分にむかって、ぼくは知らなかった、とは絶対に言っちゃいけない。それ以上に重い罪はないんだから」(P261)

以下は、再会したときの二人の会話(手話)※文中の「わたし」はアンシェルを指す。

〈ピエロ〉と、手話で犬を表す指の動きをしてみせる。わたしは少年のころ、彼のことを、やさしくて人を裏切らない「犬」の印で表していた。〈アンシェル〉と、彼は指を動かし、「キツネ」の印で応じた。・・・

〈ぼくらはまた、子どものころにもどれるかな?〉

わたしは首を横にふり、笑みを浮かべた。〈それには、あまりに多くのことがありすぎた。でも、もちろん、パリを出たあと、きみの身になにがあったのか、教えてくれないか。〉

〈この物語を語るには、かなり時間がかかるだろう〉ピエロは手話を続けた。・・・(P281)

この物語。まったくのフィクションです。しかし、ドイツ・ナチスの時代、ヒトラーに諸手を挙げて熱狂し、忠誠を誓い、行動したのは、大人も子どもも同様でした。むしろ、青少年の心を弄ぶように仕組んだのは、ナチスの巧妙な手段でした。当時の日本でも、「軍国少年」を純粋培養しました。

今、対中、対ロ、対北朝鮮ときな臭い状況の下、自衛隊の充足率がかなり低迷している中、青少年への勧誘が強化されそうな状況になっていくのではないでしょうか。

同じ作者の作品『縞模様のパジャマを着た少年』は、映画紹介で載せました。

ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。

 第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。

 学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
 シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。

 ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
 ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
 ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
 父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
 ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・

 この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
 ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
 これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
 
 ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
 家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
 精神的に追い詰められていく母親。・・・
 シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
 ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。
 
 それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。

 もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか? 主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。

・・・

この小説にも多くの問いかけがあるように思いました。

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東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。岩槻大橋・国道16号線。新曲輪(くるわ)橋。岩槻宿・日光御成街道。東岩槻駅。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-11 15:36:25 | 元荒川

国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。

        下流方向。

          

                       上流に「新曲輪橋」。

※「国道16号線」は首都圏の環状幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。

                        (「」より)

※環状路線であるものの、東京湾の海上区間があるため「東京環状道路」の別名に反して完全な環状道路となっておらず、また神奈川県横須賀市と千葉県富津市の端部はいずれも東京湾の港湾とも接続していない。法令上の起終点は横浜市になっているが、事実上の道路末端は、東側は富津市富津交差点で、西側は横須賀市走水で終わっている。

「富津」交差点。(「房総往還」歩きのときのもの)
ここで、「国道16号線(東京環状道路)」は終了。横浜から約220.5㎞の地点。
この先、直線道路も左折道路もどちらも「(千葉)県道」となります。特にそれらしい標識はありませんが、陸上道路としての国道16号線は終了となります。

「↑柏 春日部」。

 

すぐ上流に、「新曲輪(くるわ)橋」。

(くるわ)

の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。(くるわ)とも書く

主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖するを始め、最前線の、物見や攻撃を与えるが建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。

江戸時代には中心的な曲輪に、本丸(ほんまる)・二の丸(にのまる)・三の丸(さんのまる)などの名前が付く

    

            右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。

岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。

※「本郷追分」(東大赤門付近)で「中山道」と分かれ、「幸手」で「日光街道」に合流する。

その時の記録。・・・

日光御成道一里塚跡」碑。
 ・・・日光御成道が通っていた岩槻でも、桜久保、岩槻城下久保宿町、相野原(現存、県指定史跡)の三ヶ所に一里塚が設けられていました。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前のあたりに設けられていました。
 江戸日本橋より9里目、本郷追分から8里目。

・・・

モニュメントの人形。

旧岩槻市のマンホール。

蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。

「岩槻橋(仮)」。

岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の一部として重要な橋りょうです。
現在の岩槻橋は幅員が狭く、歩道も片側のみの設置であることから、通行車両や歩行者等の安全確保が課題となっております。一方、車道橋については昭和16年の竣工後、約80年が経過し、老朽化による損傷が著しい状況であり、また現在の耐震基準を満足しておりません。
そのため、歩行者や自転車等の安全性向上や緊急輸送道路の耐震化などを目的として、岩槻橋を架け替え、それにあわせて必要となる現道の影響範囲区間を都市計画道路として整備を行います。(「さいたま市」HPより)

工事中の新橋。

下流方向。

「興農事業完成記念」碑。昭和2年建立。

東武線の鉄橋が見えてきます。

今回の川歩きはここで終了。「東岩槻駅」に向かいます。

            東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。

※「東武アーバンパークライン」はかつて「東武野田線」という名称でした。春日部駅で乗り換え、帰途につきます。

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東武伊勢崎線「北越谷駅」~アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。文化公園・釣り堀・グリーンアドベンチャー。川沿いの小道。ハグロトンボ。(「元荒川」をゆく。第2日目。)

2024-07-10 20:42:26 | 元荒川

公園内の釣り堀。

                           賑わっています。

の中の下道。

公園内に。

           

森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。

                

        

案内図。

          「グリーンアドベンチャー 岩槻文化公園コース」。この木の名は?           

この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。

                            (1880年代)                              

                            (現在)

駐車場の向こうに元荒川の流れ。

川沿いの小道。

             

足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。

  ○のところに固まってとまっている。

中川歩きの時、幸手市付近で見かけた「ハグロトンボ」でした。 

ハグロトンボ

カワトンボ科トンボ。別名ホソホソトンボ

東アジア日本朝鮮半島中国ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北本州四国九州に分布する。成虫体長は 57-67mm、後翅長 35-44mm ほどで、トンボとしてはやや大型。の方がより若干大きいが、大差はない。が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。
他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある。

成虫は5~10月頃まで見られ、とくに7~8月に多い。主に平地から低山地ヨシなどの抽水植物や、エビモバイカモなどの沈水植物などが茂る緩やかな流れに生息する。幼虫は、おもに夜半から早朝にかけて、挺水植物などに定位して6~7月頃に羽化する。羽化後の若い個体は薄暗いところを好み、水域から離れての中で生活するが、成熟すると再び水域に戻り、明るい水辺の植物などに止まり縄張りを張る。交尾後、雌は水面近くの水中植物に産卵する。

日本においては、地域によっては絶滅危惧種にも指定されているように、例えば東京都では絶滅危惧Ⅱ類、青森県では準絶滅危惧種などと、個体数が少なくなっている地域も存在する。

(この項、「Wikipedia」より) 

なかなか写真に撮れない。

ハグロトンボは神様トンボ、極楽トンボ、仏トンボなどの別名があります。 別名の由来は諸説あるようですが、羽を閉じたり開いたりする姿が人が手を合わせて神様に祈る姿に似ているということから、黒いトンボは神様の使いとして昔から大事にされてきたようです。

また、ハグロトンボの言い伝えとして、黒いトンボのハグロトンボはご先祖様が姿を変えたトンボとして大切にされてきたとか。 ご先祖さまの魂亡くなった人の魂を運んでくる神の使いで見ると縁起が良い仏様が黒い羽に乗ってやってくるなどと言われています。

日本では縁起の良い生き物であり、幸運が訪れる暗示といわれています。

・・・中川歩きのときの記録(2022年6月)。

林の中を抜けるとき、真っ黒な羽をしたトンボが無数に飛んでいます。

動きが速く、茅の上に止まっているのを何とか。

全身真っ黒なトンボ。

初めて見ました。何というトンボか?

帰宅後、調べたら、「ハグロトンボ」というトンボのようです。

細長く、黒っぽい翅を持った、ヒラヒラと飛ぶトンボ。オスの胴体は金緑色に輝き、メスは全身が黒い。
河川の岸辺で見られる。平地や丘陵地の、水生植物のはえたゆるい流れを好み、住宅地の周辺でも発生していることがある。

(この項、写真も含め、「」HPより)

まさに色、かたち、飛び方、止まり方、「ハグロトンボ」でした。薄暗い林の中、しばらく見とれてしまいます。

オハグロトンボ、神様トンボ、仏トンボ、極楽トンボなどの別名を持ちますが、お歯黒の色に似ていたからなど、どれも翅の色形から来ているようで、薄暗いところをふわふわと飛ぶ黒いトンボに、幽玄さ、神聖さを感じたようです。

コオニヤンマやシオカラトンボなどが素早く飛び回り昆虫をとらえているのに比べこんなにふわふわしていてエサが採れるのか心配になってしまいますが、意外と俊敏で近づくとすいっと飛んで行ってしまいます。

梅雨の晴れ間、ちょっと神秘的なハグロトンボに林で出会えたらいいことがありそうな気持ちになります。

トンボは全国的に減少しているようですが、ハグロトンボも水質汚濁、河川改修などで数を減らしているようです。水辺のヨシなどで羽化するハグロトンボ、河川改修ではヨシなどは根こそぎ刈られてしまいます。産卵するのも水中の草の根際や水草などです。人にとっては害虫を食べてくれる益虫で、『勝ち虫』と呼ばれ縁起が良いとされてきたトンボたち。コンクリ―トで固めない、水辺の生きものに配慮した河川改修工事も少しずつ進んでいます。これからもトンボたちと共存していきたいものです。

 (この項、「」HPより)

生まれて初めて貴重なトンボを見ることが出来ました。

かつてはちょっと郊外に出れば、シオカラトンボ、オニヤンマ、ギンヤンマ、イトトンボなど見ることができました。今、身近に見ることはほとんどありません。

トンボたちが生息できる環境を大事に保存したいものです。

・・・

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