おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その4。曲尺手(クランク)。利根運河。東京理科大。山崎宿。常夜灯モニュメント。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-30 21:10:20 | 日光東往還

           この先、突き当たりに曲尺手(クランク)が残っています。右・左・右に折れる。

1880年代のようす。 2010年代のようす。

   

解説板。                   成田山道標。

江戸時代、将軍の日光東照宮参拝などに大名たちが使用した日光街道の脇往還。クランク脇の道六神(どうろくしん)には、成田山と刻まれた道標がある。

来た道を振り返る。右折する。

県道に戻り、「運河駅」を右手にして進むと、

利根運河。

         運河上には、鯉のぼりがたくさん泳いでいます。右が利根川側、左が江戸川側。

「利根川」歩き(分岐点)、「江戸川」歩き(合流点)に続いて、3回目になります。

利根運河を渡った先には、「東京理科大理工学部」野田キャンパスが広がります。

右上が理科大の校舎。

東京理科大は葛飾にも大きなキャンパスがあります。

       (「東京理科大」HPより)

もう一駅進むことに。

「ガスト」の先、左手を入った先に「山崎貝塚」跡があります。

野田市山崎交差点。

このあたりが「山崎宿」の入口で、手前のゆるやかなS字カーブは枡形の名残りと言われています。

※「山崎宿」が「日光東往還」の最初の宿場。

     振り返る。緩やかにカーブする坂道。

          右手には、門塀をめぐらせた大きな旧家が。

野田市まめバス・「山崎宿」バス停。

交差点左手に、「日光東往還 山崎宿」と記されている

「常夜灯」のモニュメント。

山崎宿は、日光東往還(水戸街道から分かれて現在の栃木県宇都宮市勧めの宮で日光街道に通じる)の最初の宿場です。野田市内には、山崎宿の他に中里宿、関宿宿がありました。将軍による日光参詣や大名の参勤交代の時に、日光街道は大名・旗本など多数の通行がありました。東往還では、将軍が参詣をする時に警護の諸大名が山崎宿に休憩・宿泊した記録があります。江戸時代には三十数戸の家がありました。特定の本陣(大名や幕府の役人が泊まる宿)がなく、そのつど名主・問屋との協議によって本陣・脇本陣を定めました。明治二十二年(一八九九)四月一日、山崎村・今上村・花井新田・堤根新田が合併し、梅の五弁になぞらえて東葛飾郡梅郷村が誕生しました。山崎宿の絵図(文化三年・一八〇六年)には道路の中央に秋葉夜灯(常夜灯)が記されています。常夜灯は昭和の初期に地元の人々によって復元さ老朽化により南部梅郷公民館に移設・保存するとともに、梅郷駅西口交差点に改めてそのモニュメントを設置し、山崎宿を後世に伝えようとするものです。

左へ行く流山街道と分かれて、右側の旧道へ進みます。

       歩道橋から。右へ進むのが旧道。

来た道を振り返る。

この付近の今昔。

                     1880年代のようす。町場が形成されている。

                     2010年代のようす。旧道は線路方向に進む。

今回は、ここまで。「梅郷駅」に向かいます。

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その3。ふれあいの森。日光橋。江戸川台駅。慈眼院。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-29 19:58:34 | 日光東往還

「西初石ふれあいの森」。

右に「初石駅」。

右手にかなりの豪邸の旧家。

ほぼ直線の道。

        

「常磐自動車道」の上を通過します。

「日光橋公園」。

「日光東往還」を意識したネーミング。ここで小休止。けっこう暑くなってきました。

     

道なりに左折します。

この先で東武野田線の踏切に接近し、線路沿いの住宅地へ。

                                                                                                                       

1880年代のようす。○が左折点。                2010年代のようす。斜めは常磐自動車道。

左図にある上部のクランクは、現状不明。

線路沿いにある遊歩道を次の駅・江戸川台駅に向かって進みます。

住宅裏手の道が旧道?

 

        

                東武野田線(アーバンパークライン)。

江戸川台駅。

江戸川台駅を過ぎて左折し、旧道歩き復活。

 左手から来て、右に折れる。

            

         

「流山の塩せんべい 利根運河」。

「観音山慈眼院発祥の由来」碑。

・・・ 慶長五年九月 関ヶ原の戦いに於て石田治部少輔 三成公の居城佐和山落城に際し 番頭山田上野之助と嫡子隼人との訣別に当り 父上野之助の遺命に起因すること大なり。佐和山落城記に依れば 汝此の世になかりせば誰か 我が菩提を弔ふものなし 我がなき後の一遍の念仏を手向くれるは汝一人なり又 主人 三成落方しれず運のつきたる人なれば 如何なる害のあらんも知れず 見届けくれよ 其の上今最期の人々の仏果菩提を弔ふべし 又 時節もあらばこの恥辱をもそそぐべし とあり。・・・慶長五年九月関ヶ原の戦い 同月十八日午 刻佐和山落城 上野之助は嫡子隼人に自害を思いとどまらせ 佐和山脱出を言明し己は自 刃 父の遺命により隼人は五才の宇吉郎を背負い 美濃国池田郡(岐阜県揖斐郡)の山中 に落ち行き 後 巡礼の姿となり諸国を巡り 慶長十五年関東に下り周易墨占を業とし 宇吉郎に医術を習わせ深井の里(流山市東深井)に住す。慶長十九年 大阪冬一乱となり 隼人は大阪に馳せ参じて木村長門守重成の軍に加わり元和元年五月六日 夏の陣にて 討死。・・・慈眼院建立の年代は未詳なるも 喜庵歿後に創建したることと推察し 得る。・・・山田上野之助の遺言とも言うべき遺命を無言の中 に継承し連綿と続く山田家々主は先祖の菩提を弔うべく 慈眼院を氏寺として維持し 今日に到った。・・・茲に本堂 再建 山門 塀の新築を記念し 慈眼院発祥の縁起を撰書して後世に伝うるものなり。

昭和五十六年七月
          山田家当主 山田要次郎 撰

(「発祥地コレクション」HPより借用しました。※「・・・」は、当方で省略した箇所。)

慈眼院。

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その2。一里塚。流山おおたかの森駅。オオタカ。旧道復活。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-28 20:42:18 | 日光東往還

                     農家の大きな納屋。

先に進みます。

「ローソン」の先の信号を右折します。

「きらら公園」。

「一里塚」の標識が公園の角に。

元々あった場所なのでしょうか? この先々、「一里塚」(跡)に出会うことはありませんでした。

日光東往還(旧日光街道)

「日光東往還」は、江戸時代に五街道のひとつ日光街道(表街道)の脇街道です。

江戸幕府初代将軍徳川家康の命日に日光東照宮で催される大祭に歴代将軍参拝するとき、表街道とともに利用され、地元では古くから「日光街道」とよびならわしています。

公園周辺の曲尺手(クランク)の道(通称・西初石クランク)は、拝礼のために日光へ向かう武士一行が敵に襲撃されるのを恐れ、道中の安全のために設けたともいわれています。

また、街道は幕府直轄の小金牧(土手に囲まれた軍馬育牧場)のひとつ上野牧の中を通っており、牧の出入り口には土手に木戸が作られ通行のたびに開閉していました。

公園周辺にも木戸があったとの伝承があり、曲尺手(クランク)は木戸を通過するために設けられた可能性もあります。

※日光参拝の道中で敵に襲われる、ということは考えられない。木戸口ために設けられたという可能性が大。この先も何ヶ所か当時のクランクが残っている。

この付近のようす。

この先、左折しますが、マンションや道路のために行き止まり。旧道は失われています。

         

「流山おおたかの森駅」前広場に。イベントを行っています。

流山おおたかの森駅

「東武野田線」(愛称:東武アーバンパークライン)と「つくばエクスプレス」が乗り入れ、両路線の乗り換えができる接続駅となっています。周囲は高層マンションやショッピングセンターなどがあり、けっこう賑やかです。

流山の中心地は、「江戸川」沿岸付近から、このへんに移ってきているようです。千葉都民がおおぜい? 住む街。

たくさんの人が集まって、賑わっています。

※駅名の由来 

 駅近傍の「市野谷の森」に絶滅危惧種であるオオタカが生息する森が駅周辺に広がっていることと、市内に緑が多く残されていることから。(「」HPより)

※オオタカ 

鷹類の代表的な種である。古今、タカといえば、オオタカを指すことが多い。(「Wikipedia」より)

      駅西口。

都市軸道路。

        ※この道路が、現在、江戸川で建設中の「三郷流山橋」につながるようです。

「三郷流山橋」は埼玉県道路公社を主体として、千葉県と埼玉県の3者が共同で事業を行っています。

「三郷流山橋有料道路」は、つくばエクスプレス沿線市街地である千葉県流山市と埼玉県三郷市とを結ぶ都市軸道路の一部として整備されています。

三郷流山橋有料料道路を整備することにより、JR新三郷駅周辺からつくばエクスプレス流山おおたかの森駅周辺の市街地間の移動が現在の30分から20分に短縮され、同時に近隣橋梁の渋滞緩和が期待されます。

旧道の復活。

        この先、寄り道。トミーマートの角を折れていきます。

野菜畑。

大きな農家の一画に野菜即売所。けっこうお客さんが寄っています。キャベツ、ネギ・・・。

おばあさんが留守番。キャベツは大きくて思いので諦めて、ささやかですが、菜の花を購入。

庚申塔が3基。

大きな農家。

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JR「南柏駅」~東武線「梅郷駅」。その1。豊四季・開墾の歴史。豊四季駅。(「日光東往還」を歩く。第1回目。)

2022-04-27 20:28:15 | 日光東往還

                 旧日光街道との分岐点。右が「旧日光街道」。左へ行く道が「日光東往還」。

今回から「日光東往還」歩きを。

南柏で「日光街道」と分かれ、雀宮付近で日光街道と合流する道筋。柏、流山、野田、境、古河、結城などを通過します。

第2回目に歩いた、野田市役所前にある解説板より。ずいぶん薄汚れた案内板ですが。

         

日光東往還

この通りは江戸時代に日光東往還と呼ばれた。「東」と付けたのは千住から栗橋に延びる正式の日光街道の東側を通る脇道という意味によるものだろうが、正式には関多孔多功道、別名関宿道、久世街道、結城街道などともお言言われた。

水戸街道の向小金新田を起点に、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城を経て雀宮で正式の日光街道と合流する。その道のりは17里14町(約70㎞)、宿場は10ヶ所設けられ、市内には山崎と中里に宿場が置かれた。

将軍がこの街道を通って日光東照宮に参詣したという記録は残っていないが、その準備のために表街道を避けた諸大名などが通過した。

※距離については70㎞、79㎞、82㎞などという説がある。

※宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10ヶ所設けられた。

              

「日光」と名が付く街道はいくつかあります。

①日本橋から幸手を経由し、宇都宮で「奥州街道」と分かれる「日光街道」=本街道。

将軍の社参のために使われ、本郷で「中山道」と分かれ幸手で本道と合流する「日光御成道」。

③京の勅使が使用した「中山道」の「倉賀野宿」から分かれ、「下今市」で本道と合流する「日光例幣使街道」。

④本街道の「小山(おやま)」から分かれ、「楡木宿」の手前で「日光例幣使街道」と合流する「壬生(みぶ)街道」。

⑤八王子千人同心が日光東照宮火番勤務のために往来した街道で、 八王子市の千人町から「佐野(天明宿)」で「例幣使街道」と合流する「日光千人同心街道」。

があります。

すでに上記の街道は歩きました。それぞれ趣を異にしていて有意義でした。

残る一つがこの「日光東往還」。

沿道の市街化が進み、旧街道や宿場らしい雰囲気があまり残っていないようですが。

また、鉄道との接続が十分でなく、バスで行き来するので、距離以上に時間がかかりそうです。

※東武野田線「川間駅」までは、東武線を利用できます。

第1回目 JR「南柏駅」から東武野田線「梅郷駅」までの歩き。

第2回目 東武線「梅郷駅」から関宿・宝珠花橋まで歩き、帰りは、そこから朝日バスで東武線「川間駅」まで。

第3回目 「川間駅」からバスで宝珠花橋。そこから歩きはじめ、利根川を渡って茨城県・境町へ。帰りは、「境車庫」からバスで東武線「東武動物公園駅」まで。

第4回目以降も電車とバスを乗り継いでの歩きになりそうです。

その第1回目の報告です。

旧日光街道から分かれ、JR線の跨線橋を越えて、進みます。

 

国道4号線に「旧日光街道入口」という信号機が。

              

ひたすら道なりに進む。

                  豊四季へ。

住宅地として開発が進み、街道らしい雰囲気はありません。

     振り返る。

かつての農家風のおうちも。

「日光街道」と「日光東往還」との追分付近の今昔。 

1880年代のようす。斜め左の道が日光東往還。
        


2010年代のようす。跨線橋の広い道に。

《付》小金牧 ~開墾と野付村の生活~
 水戸街道を松戸・小金宿を過ぎて北に向かうと、土手に囲まれた木戸に突き当たります。茶店があり、木戸番に頼んでその木戸をくぐると、小金原・上野牧に入ります。旅人を誘う松並木が植えられ、野馬たちには炎天を遮る日陰を提供してくれていました。「下陰をさがして呼ぶや親の馬」と一茶が詠んだのもこの辺りでしょうか。この原は小一時間で柏の木戸(現在の旧水戸街道千葉銀の辺り)を出て再び街道に出ます。水戸街道を旅する誰もが通過する小金原の道でした。

鹿狩絵図(大久保忠寛家蔵)

 小金が原は40里野とも呼ばれ、佐倉牧と共に下総台地中央を南北に連なる牧の総称です。高田台牧(十余二)、上野牧(豊四季)、中野牧(初富・五香・六実)、下野牧(二和・三咲)、印西牧(十余一)の五牧があり、約2千頭弱の野生馬が育まれていました。江戸の中期までは野生の鹿も多く、ごくまれにはオオカミも生息していたという記録もあります。200年前には、この北総の原にオオカミがいたことを想像してみて下さい。他にもイノシシやウサギや、狸や狐などが駆け回る自然があったのです。
 牧と周辺の集落は、野馬土手(野馬堀)と谷津で緩やかに仕切られ、水田の用水と野馬の飲み水は共用していました。この様な広大な原野が広がっていたのは、海抜20メートルほどの痩せた赤土の北総台地上でした。水が乏しく風の早い原地で(風早という地名も残っている)、森林にもならない不毛の荒れ地が多かったようです。幕府や御三家の鷹場が設定されたためか、江戸からわずか30キロ圏とは思えない程、自然に囲まれていたのです。現在の人口急増の旧東葛飾郡の市街地への変貌は、明治維新に始まる小金原開墾以後の事です。

(以上、HPより)

ところが、その開墾は並大抵のものではありませんでした。

「豊四季開拓百年記念碑」。

明治維新の社会変革は、武士と此れに関連する各方面の失業者を族生、兵乱と凶作等に拍車をかけられ、社会不安は限りなく拡大していった。明地維新政府が第一に考慮しなければならぬ問題は、民生の安定であった。

政府は失業救済、貧民対策として「不毛地開墾等の業を以て広く窮民に生産を与え候より他無之、先近国より手始めとして下総国小金佐倉等の原野開墾」を採りあげ、小金佐倉牧を廃止し、東京窮民を救い遊休労働力の生産労働カヘの転換と、耕地拡張生産増加を求め、明治二年民部省に開墾局を設け、三井八郎右衛門等三十六名に基本金二十万円を貸出し、両牧の開墾会社を設立させた。政府は一万戸の入植を計画し各藩に、募集を依頼し、六千四百六十一人を、二年十月より三年八月の間に逐次入植させた。

入植者即ち力民以下は掘立長屋で飯米一人一日雑穀四合五勺を給され、その他入費一切は計上され、ニヶ年にして一人四十二両の負債が生じた。会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した。勤勉実直な者のみが茨の道を切り拓いていった。

此れ等の人々の血と汗で一歩ずつ開拓が進み、二年十月最初の着手初富から順次に二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、ハ街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三の村名が立てられた。この時豊四季は地積六百十八町歩、東京窮民八十戸百六十三人、野付き村移民及ひ通い作人百二十二戸四百三十七人、総て此れ六百人であった。

我が先人、未来をかけて村名とした豊四季其れは真に美しい平和と幸福を謳っているが、しかし簡単に地上の楽園は到来しなかった。筑波颪颯颯たる曠野に痩躯を曝し、草蒸す叢林に吾か非力に自ら鞭打ち、伸び行く郷土の将来子孫の行く末をかけて、四季豊かに稔れと念じつつ一鍬一鍬と開拓の努力は連綿百年の星霜を経て現代の一繁栄を招来した。

滋に百一年の第一歩を踏み出すに当たり、静かに先人の労苦を偲びその教訓を学び、今日への感謝と供に展開する明日への資とする。尚に此の碑を建て、以て永く先人の志を伝える。

 昭和四十八年四月吉日       山野辺南薫 撰並書

※碑文を抜粋して掲載しました。

開墾の苦難は、まさにこの碑の如くであったようです。

そして、先人の苦難の歴史の上に今日の豊四季があるとし、この碑を残していることはすばらしいことです。

交通量は多い。

      緑豊かな住宅街。

整地された畑地が広がる。

        

正面が、東武野田線・豊四季駅。

春爛漫のお花屋さん。

ここは、露地栽培。

この付近の今昔。

                     2010年代のようす。「日光東往還」はどの道か?

                     1880年代のようす。斜めの道が「日光東往還」。

現在はたくさんの道がありますが、明治初期は畑や雑木林の中の一本道だったのですね。

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向島百花園その2。百花繚乱。オキナグサ。カザグルマ。サクラソウ。ハナシノブ。エビネ。こんにゃく。・・・

2022-04-26 21:20:29 | 向島百花園

     おきなぐさ。紫の花は「カラスノエンドウ」。

かざぐるま。

                  

ボタン。

ザクロ。

      朧夜や たれをあるじの 墨沱川(すみだがわ) 其角堂永機

さくらそう。

園内ではサクラソウの鉢植えがたくさん。

         

             

解説板。

ここにもある「田島ヶ原」。サクラソウの自生地として国の天然記念物に指定されています。

(「」より)

「荒川を遡る」歩きで訪れたことがあります。JR「西浦和駅」からの歩きでした。

昨年3月20日。少し時期が早かったようです。

・・・

 

                                    碑の足もとに「さくら草」。

                                                  

一面、ノウルシの花。その間にちらほらとさくら草が可憐な花を咲かせています。自然のままのようす。

・・・

 

さくらそう。

春の七草。

鉢植えの小さな草花。

きばなおきなぐさ。にほんすずらん。くろゆり。しゅんらん。はなしのぶ。

はなしのぶ。

        おどりこそう。うらしまそう。おだまき。

 

※ウラシマソウ・・・仏炎苞の内部にある花の先端が細く糸状に伸びるようすを浦島太郎の釣り糸に見立てたことが名前の由来です。

※ウラシマソウ、ユキモチソウは、サトイモ科テンナンショウ属にあたります。

       他に園内には「ムサシアブミ」があるようです。

               じゅうにひとえ。えびね。

こんにゃく。

様々な草花が咲き誇っています。

エビネ。

           

※「年間パスポート」を購入したので(280円)、機会をつくって訪問することにしました。

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向島百花園その1。色とりどりのツツジ。普賢象。ヒメウツギ。シラン。タラヨウ。ユキモチソウ。他の草木も・・・

2022-04-25 20:00:36 | 向島百花園

                  4月21日(木)。向島百花園。フジ棚。

遠くにスカイツリー。

新型コロナ感染拡大で、去年の暮れから閉園、3月の梅も見ることが出来ず(3年連続で梅の季節が・・・)。

3月22日。やっと蔓延防止が解除されて来たときは、梅も桜もあまり見るべきものはない(足もとの小さな草花も含めて)、ということも。

しばらくぶりに自転車で「国道6号線(水戸街道)」を走っていると、ツツジが満開。

百花園はどうだろう、と少し足を伸ばしてやってきました。

水戸街道の歩道沿いにも色とりどりのツツジが。

        

古びた(失礼! )バイク屋さんの屋根には見事なフジが。年中通りますが、始めて気づきました。

屋根を覆うように。

平日の昼下がり。三々五々訪れる人たちがいます。

筍や牡丹などは、4月20日・「穀雨」のときに紹介済み。そこで、ツツジを中心に百花園の今を。

八重咲きのサクラ「普賢象(ふげんぞう)」とツツジ。

名前の由来は、花の中央から出ている雌しべの先端が曲がっており普賢菩薩の乗る白の鼻に似ているため。別名はフゲンドウ(普賢堂)もしくはシロフゲン(白普賢)荒川堤で栽培されていたサトザクラの一つ。樹高は高木で、樹形は傘状。花は八重咲きの大輪で花弁は淡紅色。東京の花期は4月下旬。

歴史的な文献には、フゲンゾウの名の付くサクラの始まりは神奈川県鎌倉の普賢菩薩が安置されていたお堂にあったサクラの名木を「普賢堂」と呼んだこと、その白い花を普賢菩薩が乗る白象に見立てて「普賢象」となったことが書かれており、1552年に成立した『塵塚物語』には、室町時代には「普賢象」が名桜として知られていて、京都の千本ゑんま堂の「普賢象」に後小松天皇が感心した事、この「普賢象」の枝が足利義満に献上されたことが記されている。このためサトザクラの中でもかなり古い品種であるとされるが、これらの「普賢象」が現在のフゲンゾウと同一の栽培品種であったかは議論の余地があり、室町時代時点の「普賢象」は特定のオオシマザクラに付けられた名称であり、室町時代以後の京都で現在の品種となった可能性も指摘されている。

(この項「Wikipedia」参照)

※文殊菩薩が獅子に乗っているのに対し、普賢菩薩は白い象に乗っている。

園内の所々にツツジ。

        

          

他の草花も春爛漫のようす。

ハナミズキ。

ヒメウツギ。

タムケヤマ。

新緑の雰囲気。

セイガイ(青崖)。

              

※4月の初旬に明るい紅色の新芽となり秋にも紅葉する。夏の葉は緑色。

     

コデマリ。

         

          

               シラン。

ユキモチソウ。

※花のように見える部位は仏炎苞(ぶつえんほう)と言います。これは内部にある花を包むように発達した葉です。

ユキモチソウ・・・仏炎苞から雪のように白い餅に見える付属体があることからこの名がつきました。(解説は「百花園便り」より)

ハナモモ。  タラヨウ

※タラヨウ(多羅葉)。

日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたため、その多くは寺社に植樹されている。

また、葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。

文字を書くことのできる性質がインドで経文を書くのに使われた貝葉の原料であるヤシ科のタラジュ(多羅樹)という木のようだということで、タラヨウ(多羅葉)名前の由来となっている。(「Wikipedia」より)

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京葉線「市川塩浜駅」往復。その2。干潟・三番瀬(さんばんぜ)。江戸川右岸先端。(「江戸川」を歩く。第7回目。)

2022-04-24 20:10:11 | 江戸川を歩く

目の前が開けてきます。

                  「三番瀬(さんばんぜ)」。水面は深くなさそうで、さざ波に。

西の展望テラス解説板。

三番瀬のエリア。中央に航路がある。

「三番瀬」というと、「潮干狩り」などで賑わう、船橋市にあるエリアしか思っていませんでした。

習志野・市川・浦安も含む大きな干潟なのですね。

                      

現存する三番瀬は、浦安市の埋め立て地の東沖に位置する江戸川(江戸川放水路)の河口付近の干潟および浅海域を指し、市川市船橋市習志野市の沿岸に接する。東端には船橋航路や千葉港があり、西端には猫実川河口や日の出新浦安駅付近)の埋立地が広がる。埋立が進む以前は、より西側の旧江戸川河口付近まで干潟や浅海域が広がっていた。

旧江戸川から供給される土砂によって、旧江戸川河口一帯の前置斜面の前浜干潟および浅海域に広く干潟や浅海域が形成され、現在の三番瀬は、その一部が埋め立てを免れて現存している状態である。

江戸川(江戸川放水路)河口の沖合いにある深さ6.5メートルの市川航路によって中央部で分断されており、東半分を「船橋側」、西半分を「市川側」と呼ぶこともある。東西5700メートル、南北4000メートルの範囲に広がっており、水深1メートル未満の面積は約1200ヘクタール。水深5メートルまでの海域を含めると面積は約1800ヘクタールに達する。千葉県企業庁によれば、以浅の範囲は陸岸から沖合3 - 4キロメートルの広い範囲にまで広がっており、海底勾配は1/1000程度と非常に緩やかな勾配で傾斜している。大潮時に干出する面積はそのうち140ヘクタール。

三番瀬の付近には、谷津干潟行徳湿地(行徳鳥獣保護区・行徳近郊緑地特別保全地区・市川野鳥の楽園・宮内庁新浜鴨場)などの干潟や水辺などが散在する。

(この項、「Wikipedia」参照)

右手に干潟が見える。

もう少し先まで行きます。

東側にある展望テラス。

市川航路を大型船が行き来。

      

      遠浅の海。

この先で行き止まり。

行徳漁協の許可を得て、先に。

やっと目的地まで。対岸を望む。↓が前回歩いた「左岸」の先端。

右岸の先端からの「江戸川」。

東京湾。

小さな漁船が出航。

              

目的を果たし、戻ります。

松林が続く道。

帰り道。干潟が広がっています。

右手にある会社の正面にモニュメントが。

             「boundary rift」高山夏希

「・・・ところで今あなたの目の前にうつる海はどうだろう」

        

干潟。

    何羽もの水鳥の姿が。

干潟が大きく広がる。

              

岩場のようなところも。

     

来た道を振り返る。

こうしてJR「市川塩浜駅」へ戻ってきます。

赤い線が歩いた道筋。

歩いて、往復約2時間でした。

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京葉線「市川塩浜駅」往復。その1。松林。大型物流施設。漁港。行徳漁業協同組合。干潟(三番瀬)。(「江戸川」を歩く。第7回目。)

2022-04-23 18:13:37 | 江戸川を歩く

                         松林が続きます。

   

      海浜を意識した趣。

4月19日(火)。晴れ。

というわけで、またまた江戸川放水路右岸の河口探索にやってきました。

                     2010年代のようす。

「江戸川放水路(現江戸川)」歩きの時は利根川の分岐から右の○、左岸の突端まで歩きました。

今回、左の○のところまで行こうと思います。右岸の突端とみなして。

最寄り駅は「市川塩浜駅」。周囲は大型の工場や物流施設が並んでいる地域です。

    

左奥に江戸川放水路。

やっと海がみえるところへ。

港湾施設になります。

左に折れると、漁港が続きます。

         

左手は「GLP・MFLP市川塩浜」。 

大小たくさんの漁船が係留されています。

        

猫の姿が。 

東京湾への出入り口。 

                       干潟が広がっています。

対岸は、新浦安地区。

市川市行徳漁協漁具倉庫。

ブロックごとに係留。 

            

干潟が広がる東京湾。

             

中央、はるか遠くには市原の工業地帯。

左手はMFLP市川塩浜II。

    これら物流施設の向こう側(北側)は大きな港になっています。

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その4。葛西臨海公園その2。あれこれ。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-22 20:30:08 | 江戸川を歩く

          

何回か来ていますが、この辺りまで歩くことはありません。

解説板。

ここは遠浅の海でした

昔の東京湾は豊かな海でした。ハゼ・キスなどの魚やアサリ・シジミなどの貝がたくさん生息していました。それと同時に、たくさんの野鳥たちも集まってきました。しかし、埋め立てや公害のために生きものたちが生息する場所は、だんだん少なくなってしまいました。

ここ葛西の海は東京湾に残された数少ない干潟で、野鳥の集まる場所として知られていました。この鳥類園は、失いかけた自然を取り戻すと同時に、野鳥観察の場として造られました。野鳥とは野生の鳥のことです。人間が近づくと怖がって逃げてしまいます。あせらずに遠くからそっと双眼鏡や望遠鏡などで観察しましょう。野鳥も学習します。野鳥が「人間は怖くない」と知ればもっと近くで観察できるようになるでしょう。「おどかさない、近づかない、行動を妨げない」の3つのルールを守って観察しましょう。

この掲示板が設置されてどれくらい経過したが分かりませんが、現状はどうなのでしょうか?

     

パークトレイン。

東京水辺ライン発着場。

     

              写真は、東京ゲートブリッジ。

公園案内図。

芝生広場。

           

左に「西なぎさ」。

「西なぎさ」へ。

                中央遠くに「東京ゲートブリッジ」。

          

左は「ディズニーリゾート」。

西に砂浜が広がります。

         

葛西なぎさ橋。葛西臨海公園駅へ。

          

JR「葛西臨海公園」駅。

大観覧車(ホームから)。

これで、旧江戸川両岸の河口付近歩きを終了。

そういえば、江戸川放水路。左岸はクリアしましたが、右岸の方は?

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その3。旧江戸川右岸河口付近。葛西臨海公園。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-21 20:19:17 | 江戸川を歩く

                    

舞浜大橋の下を通って葛西臨海公園側へ。

通路にはペンギンやイルカなどのイラストが。

舞浜大橋の下流に出ました。

               ここは、葛西臨海公園内(裏口? から入った)。対岸は、ディズニーランド。

右手の角が現在の河口の末端?

この付近の今昔。

1880年代のようす。※この南側は地図が掲載されていない(海になる)。

     2010年代のようす。

西を望む。東なぎさ。

       

対岸は、ディズニーランド。

      

突端から東京湾を望む。 

この付近が旧江戸川の河口とみなし、

葛西臨海公園内を歩きます。久々の訪問です。

               

解説板。

野鳥と自然環境

野鳥たちは豊かな自然環境の中で生活していました。しかし、都市化が進むにつれ、林や草原がなくなり、水辺も少なくなりました。都市の中から野鳥たちが逃げ出しています。「自然の豊かさのバロメーター」とも言われる野鳥を再び呼び戻すために、私達ができることはどんなことなのでしょうか?

葛西臨海公園鳥類園には野鳥たちが快適に生活できる環境が作られています。人工なぎさや人工干潟には鳥たちのエサとなるカニやゴカイ類が住みつき、渡りの途中のチュウシャクシギやメダイチドリなどが利用できる採餌場となります。

           

    

遠くに「葛西臨海水族園」のドーム屋根と「大観覧車」。

※「葛西臨海水族園」

地上30.7メートルにもなる大きなガラスドーム。
この下では、2,200トンのドーナツ型の大水槽で群泳するクロマグロや、国内最大級のペンギン展示場で泳ぎ回るペンギンの姿など、600種を超える世界中の海の生き物たちを見ることができます。

※「大観覧車」

高さ117m、日本最大級の観覧車です。晴れた日には東京スカイツリーや東京タワー、海ほたるなど東京近郊の名所や遠くは富士山まで望むことができ、夜にはロマンチックな東京都心の夜景を鑑賞することが出来ます。

                 (この項、「葛西臨海公園」HPより)

鳥類園。

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その2。なぎさニュータウン。旧江戸川河口付近。舞浜大橋。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-19 20:31:04 | 江戸川を歩く

                  釣り人がチラホラ。

対岸は、見明川。

なぎさニュータウン。

河川敷の原っぱ。

          

散歩する人や釣り人がいます。川面。

「健康の道」。

                「舞浜大橋」、「京葉線」橋脚。

対岸は、「ディズニー」エリア。

河口らしい雰囲気に。

「旧江戸川」の標識。

上流を望む。

この付近の今昔。

                                               

1880年代のようす。         1970年代のようす。         2010年代のようす。

クランク状の堤防の位置にはあまり変化がなさそうです。水田が宅地化され、住宅地に。江戸川には4本の橋脚が。

今回は河川敷を歩いたので、道路は「確認できず。

そこで、2013年に歩いた時の記録を再掲。

ほぼ直角に曲がった道路。海岸堤防もこうなっていました。

の部分。

その曲がり角には土盛りのままの高台が、堤防の西側に幅広く残っています。

こんな感じ。「ゴルフ禁止」の立て札がありました。

上流を望む。

下流を望む。鉄橋はJR京葉線。
来た道を振り返る。

・・・

その後、この付近も護岸工事が進み、現在は、整備され遊歩道になっています。

 

舞浜大橋。 

遊歩道はここまで。

            

             橋脚は左から一般道、首都高湾岸線、一般道、そして京葉線。

この付近の水面はあまりきれいではなさそう。青黒く濁っています。

        

この先は「葛西臨海公園」のエリア。

向こう側に行くために、いったん堤防上へ。

        葛西臨海公園の大観覧車が見えます。

対岸の浦安を望む。

南葛西のマンション群。

「健康の道」案内板。

振り返る。

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東西線「葛西駅」~京葉線「葛西臨海公園」。その1。雷公園。左近川。なぎさ公園。オオバン。(「江戸川」を歩く。第6回。)

2022-04-18 20:35:41 | 江戸川を歩く

今回は、「旧江戸川」右岸(西側)歩き。右岸河口の「葛西臨海公園」まで。途中は省略して、東京メトロ・東西線「葛西」から「旧江戸川」に向かいます。

旧江戸川は、以前、「舞浜大橋」から「今井橋」経て新中川まで、自転車で遡ったことがあります。

今回。ところが、この付近の堤防は護岸工事のため、立入禁止。堤防下を歩くことに。

「雷(いかずち)公園」を過ぎ、「島忠」や「イトーヨーカドー アリオ」の脇を通り、「左近川親水緑道」のところへ。

※「雷公園」

旧江戸川の土手に隣接している公園。「いかずちこうえん」と読む。自然の高低差をそのまま活かして整備されており、園内にあるローラー滑り台は、少し高くなっている南東から勢いよく滑り降りる、子ども達に人気の遊具。園内に植樹されている桜の木のうち、1本は薄緑色の花を咲かせる「御衣黄(ぎょいこう)」という桜。ソメイヨシノの花が終わった5月頃に、その珍しい花を咲かせる。

HPより)

この付近は、かつては水田。周囲には自然堤防が連なり(「江戸川」の氾濫原)、上記のような高低差があったようです。

                                                                        

1880年代のようす。                       2010年代のようす。中央に「雷公園」。

左近川親水緑道。

※「左近川」は、かつては東京湾(袖ケ浦)に注いでいた。

1880年代のようす。

2010年代のようす。周囲はすっかり都市化。

※「左近川親水緑道」

川のせせらぎと緑が豊かな親水公園。

「なぎさ公園」の北側から南西の方角に流れ、「海岸水門」を経てからはさまざまなレクリエーション施設のある大きな水上公園風になる。

(「今昔マップ」より)
明治中・後期のようす。

赤い線が「左近川」、黄色い線が海岸線。

2013年(平成25)に歩いた時には、「海岸水門」が残っていました。かつての「左近川」河口。東京湾最奥、「海岸堤防」のおへそのような位置? その時の掲載記事を。

旧堤防(現・都道450号線)からの「海岸水門」。


「海岸水門」。右方向が「新左近川親水公園」。

「海岸水門」。往時を偲ぶ遺構。

コンクリート製の頑丈なつくり。ゼロメートル地帯の高潮・水害を防ぐ機能を持っていた。


道路をはさんだ「左近川」側に残る「海岸水門橋」の遺構の一部。

水門越しには埋め立て地に建てられた建物群。

※「海岸水門」は、2020年3月、再整備されて遺構として残されています。

・・・

なぎさ公園。

ここで、やっと土手の道に上がることが出来ました。

対岸は、千葉県浦安市。

河川敷は工事中。

なぎさポニーランド。

なぎさ公園。

水上ステーション(船着場)。

上流・対岸遠くに「堀江ドック」。

       江戸川区側・この付近にも「堀江町」があります。

河口に向かって歩き始めます。

眼下の草原にオオバンの群れ。

オオバン

頭をフリフリ泳ぐ真っ黒い鳥    白い額がトレードマーク

全長39cm。全体は灰黒色で額とくちばしは白色です。足は緑青色。「キュイッ」と聞こえる声を出します。陸上を歩くこともありますが、水上生活が多く、すばやく水上へ逃げていきます。「水鶏(にわとり)」と書いてクイナと読みますが、名の通り、その種類の多くは水辺の草やアシの中にすんでいます。このオオバンも、クイナの仲間ではいちばん大きく、太っています。黒いからだに白いおでこ、というモノトーンのしゃれた配色で、西洋では、その色彩やら身のこなしから美や雅(みやび)のシンボルとなるいっぽうで、白い頭部の連想から、英語で「額がハゲあがっている」ことをas bald as a coot(オオバン)といいます。池沼に生息していて、40年前は関東より北で繁殖していましたが、近年増加の傾向にあり、日本中で見られています。「|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動」HPより)

                 (「Wikipedia」より)

※千葉県我孫子市の「市の鳥」となっています。

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その6。舞浜海岸遊歩道(続き)。トイ・ストーリーホテル・・・。そして、舞浜駅。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-17 20:18:48 | 江戸川を歩く

左手に目新しい建物。

              東京ディズニーリゾート・トイ・ストーリーホテル。4月5日にオープンしたばかり。

ここを4月7日に歩いたので、まさにオープン直後。

          

ディズニー&ピクサー映画『トイ・ストーリー』シリーズがテーマのホテル

東京ディズニーリゾート・トイ・ストーリーホテルは、ディズニー&ピクサー映画『トイ・ストーリー』シリーズがテーマのホテルです。
訪れたゲストが『トイ・ストーリー』シリーズのおもちゃの世界に入り込んだかのように感じられる遊び心のある工夫が散りばめられています。
              (写真を含め、「TOY STORY HOTEL」公式サイトより)
 
孫を連れて来ようかしら。宿泊費は、親持ちで。
 
ホテルオークラ東京ベイ。
 
振り返る。散歩する人が何人か。
 
東京湾。
 
シンデレラ城が左奥に。
 
 
ディズニーシーの裏手。
 
     
 
釣り人が一人。
 
   遠くには東京湾アクアライン「風の塔」(↓)。
 
※「風の塔」
 
 川崎市浮島の沖合約5kmに作られた直径約200m、深さ75mの人工島。上には、高さ90mと75mの大小2つの塔がそびえている。これらはトンネル内部の空気を排気したり、外から空気を送気したりするための施設です。
 
 
      こちらには、「東京ゲートブリッジ」(↓)が遠くに。
 
※「東京ゲートブリッジ」

江東区若洲大田区城南島間約8kmを結ぶ東京港臨海道路の一部で、全長2,618m(陸上部アプローチ橋を含む)のトラス橋である。水面(荒川工事基準面、A.P.)から橋梁最上部の高さが87.8m、海上を跨ぐ区間の長さが1,618m(横浜ベイブリッジレインボーブリッジの約2倍)で、RC橋脚の上部に3径間連続トラスボックス複合構造の橋桁が架けられ、4車線道路が設けられている。建設地が東京国際空港(羽田空港)に近く航空機の飛行ルート上にあるため、航空法により橋の高さに制限(98.1m以下)が課されている一方、東京東航路を通る大型船舶が航行可能な桁下の高さ54.6mを確保すべく、吊り橋斜張橋ではなく、三角形に繋いだ鋼材を組み合わせて橋桁の荷重を分散するトラス構造が採用された。また、支間長は440mで、日本国内のトラス橋としては、港大橋(同510m)に次ぐ規模である

  (「Wikipedia」より)

橋の特異な格好から「恐竜橋」とも。

行ってみたい橋ですが、自転車・歩行者は通行不可。「東京湾遊覧船」などから見られるかも知れません。

向こうは、千鳥海岸。
 
振り返る。
 
S.S.コロンビア号」レプリカ。

1900 年代の蒸気船。カクテル ラウンジと高級レストランがあります。

左にカーブする道に沿って、「舞浜駅」方向へ。
 
ディズニーシー駐車場。
 
右手には「浦安市 運動公園」。多様なスポーツが楽しめます。入口のモニュメント。
 
 
 
駅まではけっこう歩きます。平日ですが、大勢の人が歩いています。
 
 
右手にはホテルやショッピングモールが並ぶ。ディズニーアンバサダーホテル、イクスピアリ、ディズニーストア 東京ディズニーリゾート店・・・。
 
ディズニーアンバサダーホテル。
 
             
 
イクスピアリ。
 
舞浜「お上りさん」には、何がどういう店なのか、まったく分かりません。
 
ようやくJR「舞浜駅」に到着。
 
みどりの窓口には、長蛇の列。
 
駅前の案内板。
 
        右上の○が展望テラス(上が南方向)。浦安市は東北に大きく広広がっています(埋め立て地)。
 
ディズニーランド入場口。
 
駅の時計もディズニー仕様でした。
 
しかし、舞浜駅。ディズニーランドに入らず、また、ホテルにも買い物にも、仕事やスポーツにも関係なく、ただ歩いてきたという人間がはたして何人いるでしょうか?
 
後期高齢者が一人ぶらつくのも、また良しかな、と。ミッキーづくめの若い華やかな人々の姿を見つつ。
 
・・・
 
こうして、「旧江戸川」の千葉県・浦安側の河口、と思われる地点までやってきました。
 
ついでに、東京・江戸川区側の河口を探ってみようと、後日、歩いてみました。
 
次回からは、その報告を。
 
  
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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その5。ようやく河口付近に、しかし・・・。舞浜海岸遊歩道。東京湾。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-15 20:03:52 | 江戸川を歩く

上流方向。右に「見明川」。

「なぎさニュータウン」。

          

遠くに「スカイツリー」(↓)。

葛西臨海公園の大観覧車(↓)。

                    「舞浜大橋」と「京葉線」鉄橋。 

 

この付近の案内板。上空からの眺め。

舞浜大橋と京葉線。

左手奥にディズニーランド・リゾート地区。

土手歩きはここまで。

堤防沿いに進みます。旧江戸川や東京湾の展望はまったく出来ないまま。

      「TOKYO DisNEy RESORT」。

こうして左手にあるホテルなどを眺めながらの歩きとなります。

駐車場入口。

このずっと先に「舞浜海岸遊歩道」があるはず。そこまで行けば海がみえるかな、と。

              

旧江戸川の河口(「0㎞」標示)がどこにあるか、ということではなくなりそうです。

    埋め立ての進み方。○が旧江戸川の左岸河口の先端部分? (「今昔マップ」より)

裏手からの眺め。あれは何だっけ?

ディズニーランドの徹底したところは、外から(裏からも)まったく内部をうかがうことができない、ということ。

シンデレラ城も遠くからは見えていましたが、この辺りからはまったく見えません。たしかに「夢の国」仕立てなのですね。

盛り土した細道を歩く。

           高い防波堤のため、ここからも海は見えません。左手にはホテルが建ち並んでいます。

もう少し海寄りの道を。立入禁止ですが。

東京ベイ舞浜ホテル。

        こちらは?

ようやく遊歩道へ。やっと東京湾が見えました!

高層ビル群。

 葛西臨海公園。

               東京湾。

                     右手に「東京ゲートブリッジ」。

展望テラス。

そこからの眺め。

この辺りが旧江戸川・千葉県側の河口に当たるか?

モーターボートが快走。

この先は、遊歩道を東に向かって歩きます。

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都営新宿線「一之江駅」~京葉線「舞浜駅」。その4。浦安市の歴史・発展。旧江戸川河口はどこ? 変なホテル。(「江戸川」を歩く。第5回目。)

2022-04-14 21:00:07 | 江戸川を歩く

       

この先に「堀江ドック」。回り込んで進みますが、その先の土手は工事中のため、立入禁止。そのため土手下の道を歩くことに。

                     2010年代のようす。堀江ドック周辺。

※「堀江ドック」=「堀江の船溜まり」。かつてはびっしりと船がとまっていましたが、老朽化に伴い数は少なくなりました。現在は、主に屋形船の乗り場として機能しています。(1966年に整備・完成)

この南東側、1970年代にはほとんど住宅がありません。

                     (「歴史的農業環境システム」より)                              

浦安一帯は急速に変貌していきます。

堀江排水機場。

左手には住宅が建ち並んでいます。

再び土手の道に。

                 対岸は、江戸川区東葛西。

上流を望む。

視界が開けてきます。

遠くに「東京ディズニーランドホテル」が見えてきます。

ここで、浦安市の歴史を。

明治22年、町村制の施行に伴い堀江、猫実、当代島の3村が合併して「浦安村」が誕生しました。
当時の戸数は1040戸、人口5946人。その命名の由来は、当時漁村であった当地の漁浦の安泰を祈願する意味で、初代村長新井甚左衛門によって名付けられたといわれています。
また、一説には日本国は昔「浦安の国」と称したことから、この名を採用したともいわれています。

その頃の主な交通手段は、明治27年に開航した川蒸気船「通運丸」でしたが、大正8年には定期船「通船」「葛飾丸」が就航、浦安-高橋(江東区)間を約1時間半で結び、発着場となった「蒸気河岸」は大変な盛況ぶりでした。
その後、昭和15年に浦安-葛西間に浦安橋が開通するとともに自転車、自動車の普及が進み、60年余り浦安の重要な足として親しまれた船の交通は、19年に廃止されました。

明治42年9月「浦安町」がスタート。
昭和初期の浦安の産業は、のりの養殖やアサリ漁など水産業中心に栄え、境川や船圦川にはべか舟がひしめき合い、漁師町として発展しました。

一方では浦安の歴史は、さまざまな災害に立ち向かう歴史でした。大津波や大火によりいく度となく、まちは甚大な被害を受けてきました。

昭和19年には米軍の空襲に見舞われ、家屋の焼失など被害が相次ぎ、犠牲者を出しました。
戦後の混乱が続く24年8月31日、キティ台風の来襲による堤防の決壊や高潮の被害が続出し、家屋の倒壊・流出や農漁業などの産業にも凄まじい爪あとを残しました。

33年4月、本州製紙江戸川工場からの排水による魚介類の大量死滅が発生し、6月には工場に押しかけた漁民との間で大乱闘事件にまで発展しました。
この事件がもとになり、「公共水域の水質の保全に関する法律」などが公布。深刻化する漁場の汚染と京葉工業地帯土地造成のための海面埋め立ての進行を受け、37年漁民は漁業権の一部を放棄し、39年秋から海面埋立事業が本格化、住宅地造成などが進みました。46年には漁業権を全面放棄するまでに至りました。

44年3月、地下鉄東西線が開通し浦安駅が開業、東京のベッドタウンとして都市化が急激に進行しはじめました。
53年1月の首都高速湾岸線の一部開通によって道路のアクセスも良くなり、54年5月には人口5万人を突破。
56年3月第二期海面埋め立ての最終部分が終わり、市域が16.98平方キロメートルへ。
56年4月1日に念願の市制施行を果たしました。

58年4月、東京ディズニーランドが舞浜に開園し、新しい浦安のシンボルとなりました。
62年5月には人口10万人を突破、翌63年ベイエリアのホテル群がオープン。また、待望の京葉線が開業したことにより、ますます都心が近くなりました。
平成元年、浦安誕生100年の年にフロリダ州オーランド市と姉妹都市提携を果たし、着々と国際化を進めるなか、18年には市制25周年を迎えました。
その後も浦安市は、未来を見据えた都市計画を順調に進め、人が輝き躍動するまち・浦安を目指しています。

(この項、「」HPより)

※現在の浦安市の面積16.98平方キロのうち約74パーセントが海面埋立てでできた土地から成り立っている。

 

埋め立ての歴史。

(この項、「」HPより借用)大変参考になります。

しおかぜ緑道「富士山噴水」。

土手から本物の富士山が見えるそうです。今回は残念ながら見えませんでした。

この先「見明川(みあけがわ)」で行き止まり。

左手に「見明川」。

旧江戸川の最下流の浦安市富士見と浦安市舞浜との境界より分岐し、南東方向へ流れ三番瀬に注ぐ。舞浜地区の埋めたての際に川として残された人工河川で、川幅50m、コンクリート護岸の直線状の河道として整備された。汽水域であり、ニゴイ、ボラ、スズキ、ハゼなどが確認されている。(「Wikipedia」より)

「今昔マップ」より)

旧江戸川の河口。左岸は右の○付近、右岸は左の○付近。中央に「三角州」。

ということは、現在の「見明川」が東京湾と旧江戸川(左岸)との境界線だった可能性が。

実は、市川付近までは「海から○㎞」という標識があったのですが、上流の「広尾防災公園」にあった「東京湾5㎞」という標示からその先、全く見当たりませんでした。果たしてどの地点が「海から0㎞」なのでしょうか?

「見明川」脇を抜けて、「大三角線」通りに出て、橋を渡ります。その橋のたもとに「変なホテル」。

東京ディズニーリゾート®の最寄駅である舞浜駅から徒歩圏の「変なホテル舞浜 東京ベイ」。フロントでは恐竜ロボットで非対面チェックイン。客室にはコミュニケーションロボット「ロボホン」を全室設置。世界最先端のロボットが、皆さまの快適なホテルステイをサポートします。(「同」HPより)
(「Wikipedia」より)

ところで、「大三角線」通りのいわれは?

旧江戸川の河口に大きな三角州があったことから。その三角州を埋め立てたのが現在の舞浜地区。三角州の一辺が旧江戸川の本流で、もう一辺が旧江戸川から分流する人工河川の見明川。

※上図(「今昔マップ」)参照。

旧江戸川。

上流を望む。

「見明川」。

        この南には東京湾の干潟(三角州)・荒れ地が広がっていました。

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