おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ほっこり。傍示石。旧草津川。草津宿追分道標。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その7。)

2015-10-31 19:02:53 | 旧東海道
 まだまだ旧跡碑が続きます。「𦾔跡 人吉藩主相良候御対面所跡 山本家」。詳細は不明。

大きく右折する角に「岡ほっこりマップ 岡まちづくり委員会」

 「ほっこり」とは、この地域の合い言葉のようです。それに因んだおまつり。

東海道 ほっこりまつりとは?

第9回 (2015年度) ほっこりまつりは、10月25日(日)に開催予定! 「ことしもやります!」

私たちの想い

何気ない一言でした。
「東海道に車が通らなかったら・・・」
 いつもは通過交通が多く、安心して歩くことができない東海道。 でも本当は、歴史と文化、そして私たちの想いあふれる東海道。
 この東海道をほっこりしながら、ゆっくり味わい歩いてみたい。
 そんな私たちの想いから始まった、手作りのまつりです。
 東海道ほっこりまつりは、岡・目川地域の歴史的景観文化を後世に継承してゆくため、また、年々増え続ける街道を旅する方々の憩える場として、「岡まちづくり委員会」「目川まちづくり委員会」が中心となった、街道に愛着をもつ住人の心ばかりのおもてなしです。
 2007年(平成19年)の「第1回 東海道ほっこりまつり」から数え、今回で9回目を数えます。 年々ご来場者も増え、イベントもますます充実してきました。

(以上、「東海道ほっこりまつり実行委員会」公式HPより)

 地元の、粋な試みです。道中、何しろ交通量が半端じゃなかったですから。

「足湯」。来た道を振り返る。

前方は「新幹線」のガード、左手は「(旧)草津川」。

旧草津川の土手。

「天井川」らしく、道路面よりも宅地等の地面はかなり低くなっています。

    
                                             左は「新幹線」。

                     傍示石。従是東膳所領」。

 その先の右手には、

    

史蹟老牛馬養生所趾

 栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老朽馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。

右手に立て札があったので

近づいてみると「高札場跡」。「東海道小柿村 高札場  大谷」(上部に屋号)。 

「東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)」。

 この地域ではかつての字名、村名が残っています。また、「NPO 街道をいかしたまちづくりの会」による解説板が設置されています。

 いよいよ草津市に入ります。左の「(旧)草津川」土手に上がって進む道(江戸時代の「東海道」)を行こうとしましたが「通行止め」。

さてどうするか? 

道しるべでは土手に上がるようになっていますが。

「わが町のシンボル いろはモミジ」。

 やむを得ず「国道1号線」方向へ進みます。ここで大きなミス! 
 「国道1号線」を突っ切っていけば、国道の向こう側で土手に上れたのですが、「国道1号線」のトンネルをくぐってしまいました。

この上が「旧草津川」。

 「国道1号線」を渡って「草津宿」側に行きましたが、西に向かう道がありません(通行止め箇所あり)。

 すでに「旧草津川」は廃川となっています。

HPより)

 そのため、旧草津川跡地利用計画が進められています。特に、渋滞と危険性があった「国道1号線」の「草津川トンネル」と堤防・土手を撤去する大工事の真っ最中です。来年度中には安全で見通しの良い国道へ生まれ変わる、とか。この辺りの景観も大きく変わることになりそう。東海道歩きのコースもどうなることやら、と。そのため、「旧東海道」を残すために「歩道橋」が出来るようです。

 そんなこともまったく知らなかった旅人は、しかたなく、国道脇を行ったり来たり。用水路跡のような道を見つけ、曲がりくねった、細い路地を抜けていくと、「神宮寺」脇のところで旧道に何とか出会えました。

振り返って「東海道」を望む。 

左手に解説板。

草津川ずい道(トンネル)の由来

 草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。
 これが容れられて明治18年12月4日総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。
 翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。
 構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6米、幅4.5米のずい道が造られた。
 同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。
 中山道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。

 左にはその時の「中山道草津砂川ズイ道開削並びニ東海道筋大路井村新道開築事業起功ノ義願書」が記されています。
 さらに、広重の浮世絵と開通以後のトンネル付近の写真があります。

「広重中山道六十九次 草津」。(「Wikipedia」より)

 「草津川」を徒歩で渡っているようすが描かれています。

 この隧道(トンネル)の完成によって、「東海道」の道筋も変わってきます。

 明治19年(1886)3月、アーチ式煉瓦両側石積で造られた旧草津川隧道(通称、まんぽ)の完成とともに、江戸時代260年余り続いた近世の東海道も一新され、現在の県道下笠大路井線の位置に新しい東海道が栗東市新屋敷までの約900m開通することとなります。これにより、従来旧草津川南側にあった東海道と中山道の分岐点は、当時、中山道に面していた覚善寺南西角に移り、明治19年3月に大路井道標が新東海道と中山道の分岐点に建てられましたが、現在は覚善寺門前に移築されています。
(「」HPより)

     
                        大路井(おちのい)道標(新東海道と中山道の分岐)


   1892年(明治25年)~1910年(明治43年)のようす。(「今昔マップ」より)

 上図から、江戸時代の東海道は↓のところから左へ行くルートだったようです。広い道(現「県道143号」)は明治19年以降に新設された「東海道」。左の○のところで「旧中山道」と合流しています。右の○は「目川」。
 
 さて、道が突き当たる右側角には道しるべ、等。ここが「(江戸期の)東海道」と「中山道」(右のトンネルからの道)と合流点(分岐点)。

    
                                          来た道を振り返る。


 
市指定文化財 道標「右東海道いせみち」「左中仙道美のじ」一基

 ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化13年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかっての草津宿の名残りをとどめている。

 昭和48年10月15日指定 草津市教育委員会

 ここから京までは二つの街道は合わさって進みます。道路の反対側には、小ぶりですが「高札場」が復元されています。

      

 「高札場」は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていました。

 これから、草津宿の核心部に入って行きます。
                     「中山道」方向を望む。
      
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子午線。鈎(まがり)の陣所。目川一里塚。田楽茶屋。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その6。)

2015-10-29 22:36:18 | 旧東海道
 さて、後半の歩き。

神社脇の石碑。「栗太八景」のうち「手原行人」漢詩碑。

 雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々

 手原を通る行人

雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天 
終日鞭を著け痩せ馬は馳せ 往来故(ふる)くから有り幾年々 

奥に見える三角屋根がJR「手原」駅。

しばらく行くと右手に石柱。「東経136度 子午線」

 子午線は南極点と北極点を結ぶ大円。「子午線」という語は、子の方角(北)から午の方角(南)に伸びていることから。

      

 イギリス・ロンドン郊外の旧グリニッジ天文台跡を通過するグリニッジ子午線が本初子午線(経度0度)に設定され、西側の経度は西経、東側は東経と呼ぶ。

 日本標準時子午線(にっぽんひょうじゅんじしごせん)は、東経135度の経線。日本では、日本海に面した京都府京丹後市から明石海峡に面した兵庫県明石市、淡路島北端の兵庫県淡路市を通り、和歌山市沖ノ島西端(友ヶ島灯台近傍)をかすめて太平洋に至る。
 経度135度では英国グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線(経度0度線)より9時間の時差があり、東経135度は9時間進んでいる。

      「子午線・東経135度(明石市)」

(以上「Wikipedia」参照。写真、図を含む。)

 「子午線」というと、木下順二の戯曲『子午線の祀り』を連想します。

 『平家物語』を題材としたもの。平知盛を主人公に、一ノ谷の戦いで源氏に敗れた平家が壇ノ浦の戦いで壊滅するまでの物語。独誦から俳優全員による合誦までを自在に組み合わせた「群読」という独特の朗読形式を導入しています。
 岩波文庫の巻末に、作者の木下順二は、
       
 「遠く地平の北から大空へ昇って遥かに天の北極をかすめ、遥かに天頂をよぎって遠く地平の南に降る無限の一線、大宇宙の虚空に描かれるその天の子午線の大円を、平家滅亡その日の朝7時、月齢23.7日の月が、38万4400キロのかなたで、南中時約70度の高さ、角速度毎時14度30分で通過したゆえに(ゆえに?)、そのあと―水路部の「同時潮図」によれば―約9時間たつとこの海峡への漲り潮は落ち潮へと変り始め、潮は激しく西へ流れていた。月は、誰がどうしようもなく、そのとき子午線を通過したのである。・・・」

 平家の滅亡と源氏の台頭、知盛や義経たち多くの源平の武将・兵士、女房、・・・らの個々の感情、思いを越えて歴史は形作られていく。時代(の流れ)というものの冷厳さ、厳粛を群読によって進められます。時空を越えた壮大なドラマ。
 ふと思い出します。

 その先の右手には、東海道手原村 田楽茶屋 すずめ茶屋跡地」碑。

    

 広い道路を横断して道なりに左に曲がっていくと、左手に「上鈎池」の高い土手が現れます。その先には、たくさんの石碑が並んでいます。「九代将軍 足利義尚公 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地 文明19年(1887年)」。さらに、それに因む歌碑がずらり並んでいます。

    

足利義尚と鈎の陣所

 「応仁の乱」後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった中、義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。
 高頼がゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。
 義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなり、また、側近を重用して専ら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果となった。
 長享3年(1489年)3月26日、近江鈎の陣中で病死した。享年25。

しばらく進むと左手に! 「飛び出し」坊やならぬ爺さんが!

 「上鈎池」」脇から、旧東海道は「県道116号線」となります。しばらく道なりに進み、シーボルトが立ち寄ったという「善性寺」を左に見て、突き当たりを右に曲がって土手下の道沿いに進みます。

突き当たりに石柱が二つ。
左は「中郡街道・東海道」、右が「東海道・中仙道」。

後ろは土手、前は街道、というおうち。

 この付近、道幅は狭く、見通しもよくありません。対向車が行き交うのも大変。それでいて車の通行量も多く、歩行者レーンもない中を歩くのですから、けっこう要注意。何度かヒヤッとする場面もあります。



この辺りから「目川」。

「東海道目川村栄町 飴屋甚五良」。

 大小さまざまな形をしたひょうたんが軒先に。「目川ひょうたん展示・販売」。

    

 道幅も直線で少し広くなり、周囲は落ち着いた住宅地に。そこに「目川一里塚」があります。



一里塚
 東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋や松などの木立があった。
 目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅とその向かいの旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている。

 日本橋から118里目の一里塚です。残り6つ、となりました。

来た道を振り返って望む。



 しばらくすると街道名物・田楽のお店の跡碑が3つ続きます。



目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡
 東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
 ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
 天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。
 与野蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。
 作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。

 隣には、「従是西膳所領」傍示石。



名代 田楽茶屋 古志ま屋跡
 東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
 ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
 田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田屋)、京伊勢屋(西岡屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。



名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡
 東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
 ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
 田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋(岡野屋)と、この京伊勢(西岡屋)、古志ま屋(寺田屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家には当時からの藤棚がある。

 歌川(安藤)広重はここにあった田楽茶屋を描いています。


 東海道五十三次之内 石部 目川ノ里 / 歌川 広重

 図は目川の里。長旅もようやく京に近づいたという思いであったろう。茶屋は実在したもので、田楽は美味で名物だったという。名は伊勢屋。湖の奥に比良山が見える。木や山の様子からは、早春の静けさが感じられる。そして、店の前の人々は浮かれて踊るやら川辺に佇むやら、和やかに描かれている。

(「知足美術館」HPより)

 この解説文によれば、茶屋のモデルは「伊勢屋」ということになるが、実は、「元伊勢屋」と「京伊勢屋」と「伊勢屋」は二軒となります。はたしてどちらだったのか?

現在の「京伊勢屋」跡。

大正期のようす(「同」HPより)
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六地蔵一里塚。近江商人。肩がえの松。手ハラベンチ。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その5。)

2015-10-28 22:05:55 | 旧東海道
 振り返って望む。右手に旧「和中散本舗」の建物がみえます。

「間の宿・六地蔵」から「目川」方面へ。北西方向を望む。

 いったん県道に合流して、すぐ右の道を進むと、左手に「六地蔵一里塚跡」碑。     
                         日本橋から117里目の一里塚。

「東海道名所図会 梅の木」

 江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)がおかれ、梅木(うめのき)立場と称された。「ぜさい」を名のる道中薬の「和中散」を商う店があることが京・大坂・江戸まで知れ渡っていた。

 当時の「和中散本舗」が現在と変わらぬたたずまいで載せられています。

整えられた植え込みの中に新しい石碑が建っています。

 その先から屋号が登場します。紅殻塗りのおうち。

        「東海道六地蔵村両替商 茶太」。

「修青学校跡 巡査駐在所跡」。

「行商旅籠 出羽屋」。

 「行商」といえばすぐ「近江商人」を連想します。

 近江(今の滋賀県)を本拠地として地元の特産品を中心に全国各地へ行商に出かけていった商人が「近江商人」。
 近江商人は江州商人(ごうしゅうしょうにん)とも。

 主に鎌倉時代から昭和時代(特に戦前期)にかけて活動した近江国・滋賀県出身の商人。大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである。現在でも俗に、滋賀県出身の企業家を近江商人と呼ぶことがある。通常、近江国外に進出して活動した商人のことを近江商人と言い、活動地域が近江国内に限定される商人は「地商い」と呼ばれて区別された。
 愛知郡(愛知川・枝村)、蒲生郡(八幡・日野)、神崎郡(五箇荘・能登川)などの出身者が多数。なかでも得珍保(延暦寺領荘園)を拠点とした保内商人の活動が近江商人の前駆となっている。初期の頃は京都・美濃国・伊勢国・若狭国などの近隣地域を中心に行商を行っていたが、徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れた。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地(現在の北海道)で場所請負人となる者もあった。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引くものは多い。
 その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳や陰徳善事を重んずる者が多かった。様々な規律道徳や行動哲学が生み出され、各商家ごとに家訓として代々伝えられた。成功した近江商人が私財を神社仏閣に寄進したり、地域の公共事業に投資したりした逸話も数多く残されている。
 当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されている。

近江商人の思想・行動哲学

・三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」
 売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならない。三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の中村治兵衛が書き残した家訓であるとされる。ただし、「三方良し」は戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、昭和以前に「三方良し」という用語は存在しなかった

・始末してきばる
 「始末」とは無駄にせず倹約することを表すが、単なるケチではなくたとえ高くつくものであっても本当に良いものであれば長く使い、長期的視点で物事を考えること。また「きばる」とは本気で取り組むこと。

・利真於勤
 利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方であり、営利至上主義の諫め。陰徳善事
人知れず善い行いをすることを言い表したもの。自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。

※近江商人の成り立ちに関し「(松尾)芭蕉の教導訓示によりて出来たもの」と言う勝海舟の談話が残されている。

近江商人の流れを汲むとされる主な企業

・大丸
・高島屋(高島郡出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が創業。社名は高島郡に由来)
・藤崎(創業者藤治右衛門は日野出身との説がある)
・山形屋(近江商人の血を引く羽前庄内出身の源衛門が創業)
・トヨタ自動車(彦根出身の豊田利三郎が初代社長。また、グループ創始者豊田佐吉は後述の児玉一造に多くの支援を受けた)
・伊藤忠商事・丸紅(犬上郡出身の伊藤忠兵衛が創業)
・住友財閥(初代総理事広瀬宰平は野洲郡出身、2代目伊庭貞剛は蒲生郡出身)
・双日
・トーメン(彦根出身の児玉一造が中心となって創業)
・兼松(前身の一つである江商は、犬上郡出身の北川与一が創業)
・ヤンマー(伊香郡出身の山岡孫吉が創業)
・西武グループ(愛知郡出身の堤康次郎が創業)
・日清紡
・東洋紡(前身の一つである金巾製織は、滋賀県知事の勧奨から複数の近江商人が創業)
・東レ
・日本生命保険(彦根出身の弘世助三郎の呼びかけで創業)
・ワコール(仙台出身神崎郡育ちの塚本幸一が創業。社名は「江州に和す」に由来)
・西川産業(八幡出身の西川仁右衛門が創業)
・武田薬品工業(日野発祥の薬種仲買商である近江屋喜助からののれん分け)
・白木屋(長浜出身の大村彦太郎が創業。1967年に東急百貨店に吸収)
・三中井百貨店(神崎郡出身の中江勝次郎が創業。1945年の終戦とともに消滅)
・ニチレイ(前身である帝国水産は、野洲郡出身の西川貞二郎らが創業)
・西沢本店「アルバ」「トゥインクル」(ルーツが異なる同名の別企業であるが、どちらも滋賀県内で創業したのち佐世保へ移ったという共通点がある)

(以上、「Wikipedia」参照)

 そうそうたる企業がずらり。驚くべし! 「近江商人」!

 そういえば、現役時代。そろそろ欲しいなあと思っていて、何人も営業マンが来るのですが、今一つ乗る気にならない。
 するとタイミングよく、必ず御用聞きにくる営業「じいさん」がいました。ストレートに売り込むのではなく、あちこちの同業者の噂とか実態とかの情報をおもしろおかしく話しながら、実に急所をついていて、うまくこちらの心をくすぐり、結局、その商品を採用することになります。
 その人につけたあだ名が「近江商人」。的確かどうかはかなり語弊がありますが・・・。あの方は今どうしているか?


現・古をうまくマッチさせた建物。紅殻塗りもおしゃれ。

そしてさりげなく自己主張する「飛び出し」坊や。

右手にある「西厳寺」には「肩がえの松」。  

 小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。
 旅人足等が子の松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である。


しばらくは古い家並みがちらほら。「東海道小野村 飴屋」。

町並みを振り返って望む。

 しばらく進み、「名神高速・栗東IC」と「国道1号線・8号線」をつなぐ道路のガードをくぐると、

「行者堂」。ここは「手原」の地。

 右手に「国指定の有形文化財」の建物があります。

    


 「東海道手原村 手原醤油 塩屋藤五郎」。

    

その先、左手に「稲荷神社」。「手ハラベンチ」が。

 ちょうど午後1時。手のひらのベンチ。座り心地はいまいちですが、そこに座っておにぎりを食べながら休憩。
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栗太八景。旧和中散本舗。大角氏庭園。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その4。)

2015-10-27 21:49:49 | 旧東海道

 栗東(りっとう)市内に入っていきます。

その手前のおうちの軒先には大石を運搬する荷車?

「栗東市 生涯学習都市のまち 伊勢落」との標識。向こうに「三上山」。

「飛び出し坊や」がお出迎え。

「栗太八景 伊勢落晴嵐」碑。

 梅痩せて柳疎らにて柴扉(さいひ)鎖す 簷外(「えんがい)は半ば晴れ野草肥ゆ
 山色の末分の雲気は晴れ 一声鳥啼き霧破って飛ぶ
 
 寛延三年十二月 素月作  恵津子書

 中国文化への憧憬のもと、中国の瀟湘八景をふまえて、全国各地でその土地の八景を詠むことが流行しました。そのうちで最もよく知られているのが近江八景です。
 また近江八景が広く知られるようになるにつれ、江戸時代以降、全国各地でご当地の八景が選定されるようになりました。栗東周辺でも、栗太郡を範囲とする栗太八景が、寛延3年(1750)ころに、大橋(現栗東市大橋)慶崇寺の僧致遠(ちおん)によって選定されています。
HPより)

注:栗太八景
 「蓮台寺晩鐘」「赤坂帰樵」「上野夜雨」「金山暮雪」「伊勢落晴嵐」「松島秋月」「手原行人」「砥山夕照」
 この詩碑もその一つで、個人宅の敷地内に建てられたそうです。

二人の「飛び出し」坊やが行く手に。

玄関先には黒いマントを羽織った「飛び出し」坊や。

「東海道」「中山道」。いいよいよ「中山道」も登場。

「新善光寺道」との道標。
この後も出てきます。

「東海道林村 人力車 人力屋」。

道幅はかつてのままのよう。

「上野夜雨(かみののやう)」碑。(林村)

「従是東膳所(ぜぜ)領」榜示石。

右手角に「新善光寺道」道標。

 ここにきて、紅殻(べんがら)塗りのおうちが目立ちます。

    
                                        東海道六地蔵村麹屋 糀屋太郎兵衛

振り返って望む。大きく左折しています。

 左手前方に大きく立派な建物が飛び込んできます。「和中散本舗」。旅人を圧倒する迫力。
              
                     

国指定名勝 大角氏庭園」(平成13年1月29日指定)。

 書院の南庭(離れ家の西庭)である。正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。

【備考】
 国指定史跡 旧和中散本舗 昭和24年7月13日指定
 重要文化財 大角家住宅 昭和29年3月20日指定

 平成16年3月 滋賀県教育委員会

東海道・中山道に挟まれた交通の要衝 栗東

 昔から、交通の要所として栄えてきた栗東は、江戸時代に入り、整備された東海道・中山道に挟まれた交通の要衝として、一段と賑やかになりました。
 近江地方における東海道は、伊勢参宮道としての要素を兼ね備え、「伊勢道」とも言われていました。
 東海道の石部宿(湖南市)と草津宿(草津市)の約中間点に、「梅ノ木立場(うめのきたてば)」(現在の栗東市六地蔵あたり)がありました。立場とは、幕府公用の馬や駕籠などを止めて休息する所で、ちょうど宿場と宿場の中間地点に設置される事が多かったようです。
 また、旅人の休憩等に利用された「間の宿」でもあり、旅人に薬を売るため、梅ノ木に和中散屋が生まれました。
 和中散とは、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝され、その始まりは元和元年(1615)、本家是斎家(大角家)が、京都の名医半井ト養(なからいぼくよう)の娘をめとって、和中散や小児薬の奇妙丸の製法を伝授され、大きな梅樹の木蔭で旅人に売るようになったと伝えられています。
 また、慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したとあります。
 和中散を商う薬屋は最も多い時には7,8軒あり、宝永年間(1704~1711)には、すでに東海道名物として全国的に有名になっていたようで、「是斎(ぜさい)」・「如斎(じょさい)」・「定斎(じょうさい)」・「是済(ぜさい)」などの屋号を名乗り、互いに競い合っていました。
 和中散屋を営むかたわら、小休屋も兼ねていた大角弥右衛門家には多くの大名が休憩に立ち寄っていたようです。
 小休屋として賑わっていた大角家(おおすみけ)に、安永2年5月4日、雲洲様と言われていた松江藩(島根県)の藩主松平治郷が、参勤交代の途中、旅程が1日延びたために、草津宿・石部宿に宿泊できなくなり、急遽大角家に宿泊の依頼があり、村人総出で対応したと記録が残っています。
 文政9年(1826)、ドイツの医学者でオランダ商館の医員として長崎に来ていたシーポルトは、江戸へ向う途中、大角家に立ち寄り、当主弥右衛門との話がはずみ、薬を参考資料として貰い受け、周囲の植物を収集して、長崎の出島に送ったとされています。

・・・

(以上、HPより)

 「和中散」については、旧東海道の大田区美原通り商店街(「間の宿・大森」にもあったこと以前紹介したことがあります。

「和中散」。



《大森の和中散》
 江戸時代、東海道の大森宿付近には『食あたり、暑気あたり』に効く漢方薬『和中散』を売る店が三軒あったという。上記の絵は『江戸名所図絵』(斉藤月岑編 天保年間)に描かれた店の風景である。
 絵の屋号『梅木堂』店は、三軒の中でも一番の大店であろう。大森村南原にあった。もともと「和中散」は近江・栗太郡地蔵村(現在の滋賀県栗東市六地蔵)の梅木が発祥の地である、東海道草津宿に近いことから、『梅木の和中散』として知られていた。創業は慶長年間と言われている。また大角家が創始であると言われるなど諸説がある。
『馬込と大田区の歴史を保存する会』HPより)

 ここで、その本家・本元に出会ったわけです。

「本家ぜさい」とあります。「是斎(ぜさい)」。

    

これも古い建物。

 ここに車を駐めて、若い女性が木戸口を開けて中に入っていきました。今も現役の建物なんですね。

                         
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田楽茶屋。石部一里塚。西の見附。三上山。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その3。)

2015-10-26 22:47:55 | 旧東海道
 「田楽茶屋」のある角を右に曲がります。本日は休みとのこと。

    

石部宿 田楽茶屋

 石部宿は、東海道51番目の宿場町として栄えました。
 歌川(安藤)広重が天保3~4年(1832~1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。栗東の岡に「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の代表的な田楽茶屋あり、ここは平成14年旧石部町制百周年記念事業として再現されました。

 湖南市観光協会

 ところで、「田楽」とは? 

 近江国目川(現在の滋賀県栗東市目川)の菜飯田楽は、串に刺した豆腐に葛を引き味噌を付けて焼いた田楽に菜飯を組み合わせ、東海道を行く旅人に好評だった。

菜飯田楽の一例。愛知県豊橋市の飲食店にて。

(この稿、「Wikipedia」より)

田楽の名の由来

 串に刺した豆腐を焼いて、木の芽みそやゆずみそ、黄味みそをつけていただく田楽。ひなびたなつかしい味は、豆腐料理の定番です。 この「田楽」という名はどこからきたのでしょうか。よく調べてみると、時代は平安から室町時代にまでさかのぼります。

田楽踊りと田楽法師

 当時の農村では、田植えや祭りなどのときに田んぼで太鼓に合わせて踊る風習がありました。田楽舞い、あるいは田楽踊りといわれていたものです。やがてこの舞いを職業にする人々が表われてきます。
 白い袴をはき、その上に色のついた上着をはおった田楽法師。彼らは単に踊るだけではありません。竹馬のような一本棒にのってピョンピョンはねたり踊ったりするのも中にはあったのです。
 白い豆腐に色のついたみそをつけて食べる串焼きが、ちょうどこの田楽法師らの衣裳にそっくりなところから付いた名前が「田楽」。こうして人々は、豆腐の串焼きのことをいつしか「田楽豆腐」とか、略して「田楽」と呼ぶようになったのです。
 この串焼き料理は、箸や皿を使わずに手軽に食べられることから、田楽法師のようにいつの間にか村から村へと広がっていきました。食材も豆腐だけでなく、こんにゃくや里いも、しいたけなどの野菜はもちろん、にしんなどの魚にまでバリエーションが及んだようです。
 ところで、冬の料理としてお馴染みの「おでん」も、もともとは豆腐の串刺し、つまり田楽のことを指していたのをご存じでしょうか。「お」は接頭語の御で、「でん」は田楽を略したもの。こんにゃくを串に刺してみそをつけたものをおでんと呼ぶのは、そのなごりだといわれています。
 ちなみに、現在のように大根やこんにゃく、昆布、はんぺんなどを煮込んだ料理を「おでん」と呼ぶようになったのは比較的新しく、江戸時代も終わりごろといいます。
 さて、田楽踊りは消え去りましたが、熱々の香ばしい田楽は、いまでも郷愁をさそう馴染みの深い一品です。

(この稿、「」HPより)

 なお、東京の「おでん」は味噌仕込みではありません。これは江戸っ子が「ミソを付ける」に通じ、げんが悪いとしたからだ、という。 

ここでは、お蕎麦やおにぎりなどを売っているようです。  

来た道を振り返って宿内を望む。

 その先の正面を左に折れます。鈎の手(枡形)になっています。

    

鈎の手道

 京都方面から来て、見附を通り過ぎると街道が鈎の手に二ヶ所設置されていて、敵がむやみに侵入しにくい構造になっていた。
 石部宿には八ヶ所の交差点があったが、宿内を見通せない遠見遮断で防御の役割をはたしていた。

 湖南市観光協会

 左に折れてすぐ右手にあるのが「石部一里塚」跡。 

    

石部一里塚跡

 慶長9年(1604)東海道が整備された翌年に、西横町宮道が東海道に出た所あたりに設置されていた。
 北側には榎、南側には椋の木が植えられていたが、明治2年に宿駅制度が廃止された時に撤去された。
 これより西は梅の木の立場にあった。東は夏見の立場にあった。

 湖南市観光協会

 日本橋から116里目の一里塚。

「西の見附」跡。

石部宿西の見附跡

 見附は桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見附」と言われています。
 東の見附より西の見附の間が石部宿であり、宿場の街頭の出入口にも見附が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西二ヶ所にありました。見付の西側には、目見改場(めみえあらためば)が設けられていました。

 湖南市観光協会

宿内を振り返って望む。

小公園。

南の山の斜面で遊ぶ子ども達。

石部宿を過ぎると、前方遠くに「三上山」の姿が見えます。

右に折れてJR草津線「石部」駅前の公園へ。東海道に因む。

 午前11時15分。早帰りの高校生の姿も。中間考査中?
 まだまだ先に向かいます。




 再び「東海道」に戻ります。江戸時代、ここは宿内に入る手前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木がありました。

松並木の復元事業が行われています。

「東海道五十三次」の地図。現在地 ↓ 。京まであとわずかに。

突き当たりを左折します。


 川沿いの道の両側には採石工場などが並んでいます。北側には野洲川。景色も開けた感じがします。

左手に解説板。

五軒茶屋道と古道

 天和2年(1682)8月出岩地先で(「野洲川」の)大洪水により東海道が流出して河原となる。天和3年4月18日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約2倍の2㎞の距離となった。
 新道が山の中を通過するために安全を願って元禄2年(1685)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。
 明治4年(1871)には新道の距離がながいために旧道が整備されて今までの東海道が復元された。

 湖南市観光協会

 左手に工場の間を縫っていく上り坂が見えます。それが「五軒茶屋道」に通じるみちなのでしょうか? 地図では上部に「五軒茶屋草の根ひろば」という表示がありますが、その先は不明なところも・・・。
JR草津線沿いの道を行きます。

「名神高速道路」の下をくぐります。

のどかな景色。

「三上山」が右手に。手前には「辻行燈」。

まっすぐな道。右手はJR草津線。

                    「三上山」。

三上山

 『古事記』『延喜式』にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山である。
 紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように、「近江富士」という愛称がある。

 藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説が残ることから「ムカデ山」の異名も持つ。

 中世以降、周囲の山々が燃料などの採取目的に伐採が続けられて、大規模にはげ山化していったが、三上山は取り残されるように青々とした山様を維持した。
 このことからランドマーク的に存在感を増し、松尾芭蕉が「三上山のみ夏知れる姿かな」と詠んでいる。

(以上「Wikipedia」参照)

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うつくし松。石部宿東見附。本陣跡。石部金吉。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その2。)

2015-10-24 20:51:13 | 旧東海道
 「家棟(やのむね)川」。以前は天井川でしたが、河川改修の結果、普通の川のように橋で越えることに。
当時の隧道の扁額。

 この場所から東約50m先の交差点付近には、以前天井川の家棟川があり、隧道(トンネル・マンボ)がありました。
 旧東海道の家棟川隧道は、長さ21.8m、3.6m、4.5m、欠円アーチ断面両側壁とも花崗岩切り石積みで、1886年(明治19年)に築造、家棟川の平地化に伴い1979年(昭和54年)にその姿を消しました。
 当時のものとして県令(知事)中井 弘 筆「家棟川」扁額(頚学)が、ここに残されています。
 現存する隧道は、1886年(明治19年)に竣工した由良谷川隧道と1884年(明治17年)、竣工した大沙川隧道の二ヵ所でで、国指定重要文化財に相当する土木遺産と評価されています。
・・・

 平成26年6月(2014) 三雲学区まちづくり協議会

 「家」の「棟」という川の名に「天井川」という印象を持たせます。残る二つのうち、「由良谷川隧道」も早晩、消えゆくことになりそうです。

 この付近には国の天然記念物「うつくし松」の自生地があるようです。

    

国指定天然記念物 うつくし松

 平松に自生する赤松の変種、根から放射状に出て傘をひらいたような美形の松で、その名も「うつくし松」。大小200本が群生し、日本でここだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。
 平安時代、体が悪く弱々しい生活を送っていた藤原頼平という青年がこの地を訪れたとき、美娘が突然現れ、松尾神社のつかいで頼平のお供を命じられたといって須賀Tを消した。辺りを見ると周辺の木々が美しい松に変わったという。
 この地を頼平の平と美松の松をとって平松となったと言われています。

 湖南市観光協会

 行くことができなかったので、

                  

 美松山の斜面だけに群生する、極めて珍しいマツ。劣性遺伝による変種といわれ、国の天然記念物に指定されています。根本近くから枝が放射状に分岐した樹形は、まるで扇か傘のよう。平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れた際、松尾神社の使いの童女が現れ、周囲の山を美しい松に変えたとか。そんな伝説にふさわしい、神秘的なムードをたたえた名所です。

(「」HPより)

広重も描いています。「隷書版」
                       ( HPより)

先に進むと、左手に「高木陣屋跡」。

 元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を領するようになった。その後、文化年間(1804~1817)に宏壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。
 しかし、陣屋の門は、その後所有者が転々とするが、現在は三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、当時の面影を残している。

 湖南市観光協会

旧街道らしい家並みを進みます。振り返って望む。

左に曲がる付近には「常夜燈」。

その向かいには「お休み処」。
                          「ようこそ! きずな街道(東海道)へ」。

小さな橋を渡ると、「石部宿」。時刻は、午前10時20分前。

    
                             宿内のようす。

しばらく進むと「石部宿・東見附」跡。

 東の見附は目川屋より約30㍍東にいったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた幅3㍍ばかり高さ2㍍程度の台場であり、石部宿の両入口にあった。
 枡形城門の俗称で番兵が通行人を見張るところから「見附」と言われた。
 石部宿には東西二ヶ所に設けられていた。

 湖南市観光協会 

「行書版」。
                     ( HPより)

そのそばにある「目川米穀店」。

道路沿いの街灯には「東海道」の幟が続きます。ここでも地元の熱意を感じます。

 「石部中央」の交差点脇は小公園になっていて、常夜燈や石部町の案内等があります。

    

石部町

 石部町は、古くは東海道五十三次の五十一番目の宿場町として栄えた。
 明治22年4月1日に石部村、東寺村、西寺村の三ヵ村連合区域の統合によって「石部村」として誕生、明治36年6月1日には、県下で12番目、甲賀郡では2番目の町制施行によって「石部町」となり、今日まで永い歴史が刻まれています。

 2000年(平成12年)3月吉日

さらに「高札場」跡の解説板。  

 高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所で、現在の県道113号(とんや道)と旧東海道の交差点の道路の中ほどのあたりで問屋場の横にあったと伝えられている。
 約80センチメートル程度の石垣の上にたっていた。
 元禄の頃は、みのや橋の横にあったが、いつの時代か問屋場の横に移転された。

 湖南市観光協会

 その隣には「石部城跡」の解説板。
壁には広重の浮世絵。

 「都(つ)つじいけて その陰に干鱈 さく女 芭蕉 (つつじいけて そのかげにひだら さくおんな)」

 も紹介されています。 
 
《昼の休(やすら)ひとて旅店に腰を懸けて》と詞書あり。貞亨2年、『野ざらし紀行(甲子吟行)』の旅で、大津から水口宿に出る途上での一句。ただし、『野ざらし紀行』には載せられていません。『泊船集』に所載。                   
季語は「つつじ」で春。6・8・5の破格の句。

 石部宿内の「真明寺」境内に、この句の句碑があるようです。 

通りの反対側には「問屋場跡」の解説板。

 石部宿の問屋は、人馬・伝馬・荷馬を集めて宿の業務(継立て事務)を行うところを問屋と呼び、いつも役人が3名~5名ほど在中し人馬の継立てをする仕事を分担して賑わっていました。
 場所は石部中央の信号から北へ100メートルほどの砂川の東門にあったが、後に信号の北西の角あたりに移ったと言われています。
 
 湖南市観光協会

 その隣にはかつてあった、回り舞台を備えた芝居小屋「常盤館」の解説文があります。

 しばらく行くと、左手角に「いしべ宿駅」という無料休憩所。

 建物の中には、江戸期の宿場の地図や浮世絵、さらに囲炉裏などもあって、ゆっくりと休憩できるようになっています。dも

    

 トイレをすませ、ここで小休止し、草津宿まで出発です。午前10時50分頃。

道標。 

 しばらく進むと、左手に本陣跡の碑。奥には大きな「明治天皇聖蹟」碑。

    

石部宿 小島本陣跡

 石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を許されました

 湖南市観光協会
 
広重「石部 目川の里」。

 「目川」は「石部宿」を出て、草津宿に寄ったところになります。

 ところで、「石部宿」というと、「石部金吉」を連想します。近くに金山があり、「石部金吉」はここから出たといわれます。

 辞典では

 石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語》非常にきまじめで物堅い人。特に、女色 (じょしょく) に迷わされない人。また、融通のきかない人物。堅物(かたぶつ)

 とあって、特に「石部宿」との関連はなさそうですが。

 昔はたしかにいました、こういう方が。現在は果たして・・・。「あいつは石部金吉だからなあ」などという表現はすでに「死語」?
       
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ざじずぜぞ。ヒッタイト・・・

2015-10-23 23:15:11 | 世間世界
 最近、朝、見る番組に「テレビ朝日」の『羽鳥慎一モーニングショー』。政治問題などでも思い切った特集を組んだりして私的(わたくしてき)には興味深い番組。
 今朝は、和歌山県の特集をやっていました。中でも「ざじずぜぞ」が苦手というコーナー。「ザジズゼゾ」が「ダジヅデド」と発音してしまう、とか。
「象の 銅像を 雑巾で・・・」が「どうの どうどうを どうきんで・・・」どこまでホントかどうか分かりませんが、ずいぶん昔のことを思い出しました。

 高校の世界史。

 「ヒッタイト」。紀元前15世紀頃アナトリア半島(現在のトルコと重なる地域)にあったヒッタイト帝国(王国)。高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服し、最初の鉄器文化を築いたとされるヒッタイト(人)。

 当時足立区出身の世界史の先生が担当した授業。試験問題で出ました。生徒が答えに「シッタイト」と書いたら×にされました。猛烈に抗議。

「先生、『シッタイト』で合っているじゃないですか」
「いや、答えはシッタイト。シッタイトではないよ。」
「だから、シッタイトって書いたじゃないですか」
「それは間違い、シッタイトが正しいの」
「だから、先生の言うとおり『シッタイト』って書いたんですよ」
「何遍言ったら分かるんだ、君は。答えは『シッタイト』なの」

 二人の会話を聞きながら周りはクスクス。もう30年以上の昔の話です。かつては足立区、東京東部の下町の人は「ヒ」と「シ」の発音の区別が苦手でした。

「朝日新聞」は「アサシヒンブン」。「消費税は」「ヒョウシゼイ」てな具合。
 今どきこんなことを言ったら、地元の方に大いにしかられてしまいます。今、こんな風に「ヒ」と「シ」の区別がつけにくい人はいなくなりました。それなりのお年寄りでない限り。・・・

 ここ和歌山でもいつまでこのような「風習」「習慣」? が残るのでしょうか。

 海中の郵便ポストの話。ちゃんと投函すれば、ちゃんと届くらしい。ギネスブックにも登録されている、とか。
 でも、赤い丸形郵便ポストは海中にあるので錆びやすい、古い丸形ポストあったら譲ってほしい、とのコメント。「東海道」をあるいていると、いまだに見かけます、懐かしい、赤い丸形ポスト。どこかが譲ってあげればいいのにね。

 他にもミカンの皮のむき方、美味しい梅干し・・・。自然が作り出した川に囲まれた円形の土地。究極は、30年間漬け込んだというサンマの寿司(長嶋のコメントが「フグだって今のように食べるまで何人も死んでいるですから」というわけの分からないコメントあり)、和歌山県は酢の消費量が日本一だとか、・・・盛りだくさんで楽しめました。
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横田常夜燈。大沙川隧道。夏見一里塚。・・・(「三雲駅」から「草津駅」まで。その1。)

2015-10-22 22:24:45 | 旧東海道

 翌13日(火)。ホテルを出て、コンビニで買い物。駅に向かうと通学する高校生が続々。「三雲」まで一駅戻って再開。駅に降りて少し東へ。「常夜燈」をパチリ。


    

東海道五十三次石部宿 横田常夜燈

 東海道13の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場。湖南市側に建立されている。
 安永8年(1774)に東講中によって建てられた大袋付の常夜灯である。高さ4.85㍍、五段の石積みの上に建っている。水口側の常夜灯より50年以上前に建てられていた。
 建立された当時は現在地よりも200㍍ばかり上流に建っていたが、いつの時代か現在地に移転された。

 湖南市観光協会

      
                この道(旧東海道)の先が「野洲川」。向こう岸に水口側の常夜灯がある。

 時刻は8時半過ぎ。晴天。今日の予定は「(51)石部宿」から「(52)草津宿」まで。
 駅前の交差点の角には、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」「妙感寺」と刻まれた石碑。

その先の民家には「明治天皇聖跡」の巨大な石碑。

途中には大きな案内図。
                  「東海道(きずな街道) 歴史探訪・史跡巡りマップ」。行く手を指し示してくれます。

 道なりに進み、野洲川の支流の「荒川橋」を越えると左手に三基の石碑。

その奥に「草津線」の踏切が見えます。

 しばらく進み、草津線の踏切を渡ります。線路際に大きな道標と案内図。

    

 しばらく進むと天井川である「大沙川」の下をトンネルで通り抜けます。

    
                              「大沙川隧道」

 大沙川は東海道の上を流れる天井川である。奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿げ山となり、大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと言われている。明治17年(1884)3月に県下最初の道路トンネルとして築造され、花崗岩の切り石積みの頑丈な構造で地元では、「吉永のマンポ」と呼ばれ親しまれている。(先ほどの「案内図」より) 

 トンネルを抜けると左手に「弘法杉」の解説板。

    

弘法杉

 天井川になっている大沙川の堤の上にそびえる大杉は樹齢750年と言われる「弘法杉」、弘法大師がここを通りかかった時にこの場所を昼食場所に選び、その時に使われた杉箸を脇に刺された。後にそれが成長して大杉になったと伝えられている。以前は二本あったが、一本は江戸時代に台風で倒れている。(「同」より)

「大沙川隧道」を振り返る。

三雲城跡と八丈岩」。 

 三雲城は山の中腹(標高340㍍)の八丈岩付近に安土の観音寺城主佐々木六角高頼の逃げ込み用の本城として長享2年(1488)三雲典膳に築かせた。
 しかし、織田信長の京都侵攻で、信長の家臣佐久間信盛に攻撃を受け、元亀元年(1570)山裾にある三雲屋敷と共に落城した。
 城跡には石垣の枡形虎口や、石組みの古井戸、八丈岩の背後の巨石群の中に六角氏の家紋「四つ目結」が刻まれた岩も残っている。

 湖南市観光協会

 山の方に目を向けると大きな白い岩(↓)があります。

    

しばらく進むと「夏見の里(藤棚)」。

 この辺が夏見の里と言われ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。
名物のトコロテンや名酒桜川が茶碗酒として計り売りされ、店先では水車を廻し旅人の目を楽しませていた。
 又、いなりやという茶店があり歌川広重が描く(藤の棚)の店として紹介されているが、へ平成21年に藤と共に棚も撤去された。

隣にはかなり古びた解説板。

夏見の里
 「方丈記」に行く水の流れは元の水にあらずといへども、この木偶(にんぎょう)の行衛は元の水にして、しかも昼夜すてず、ただ過ぎにすぐる物と「枕草子」にいいひし類とやいはん

???

旧道らしい家並みを進みます。

電柱の陰から「ドラえもん」が顔をのぞかせ、

 しばらく進むと、「夏見一里塚」跡。

    

夏見一里塚

 一里塚とは、大きな道路の側に一里(約3.927㎞)毎に旅人の目印として設置した塚(土盛)である。
 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年に江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令が出され、徳川家康の命を受け、大久保長安の指揮の下に行われ、10年ほどで完了した。塚の大きさは5間四方(約9m)、高さは1丈(約3m)で多くは榎が植えられ、木陰で旅人が休息をとれるよう配慮されていた。
 この夏見の一里塚は江戸の日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は石部にそれぞれ一里塚があります。しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり、そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけになっています。この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにもあったと想像されます。

 平成27年1月(2015) 三雲学区まちづくり協議会 

 今年になって設置された解説板のようです。「笠寺一里塚」にここで再会するとは思ってもいませんでした。東海道に関する地元の方々の力の入れようを感じます。

道路の反対側には祠? があります。

来た道を振り返って望む。

その先「湖南市立夏見診療所」の所にも解説板が。

石部宿一里塚

 この辺が夏見の立場といわれ、ここでも何軒かの茶店があり、立て場の役割を果たしていた。名物トコロテンや名酒桜川を売っていた。
 又ここから約70㍍ばかり東に行った所に一里塚があった。道路の南側に約30㌢四方の枠が埋められている。一里塚に植えられた榎の木陰で旅人はトコロテンを食べながら一休みした場所である。

 湖南市観光協会 

すぐ先にトンネルが見えます。二つ目の天井川「由良谷川」です。工事中で、歩行者と自転車のみ通れます。

 由良谷川隧道は大沙川隧道の2年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切り石を追石に使用しているどっしりとした重厚な造り。由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である。毎年辺りは紅を差したように明るくなる見事な桜並木である。(「同」より) 

その脇には「新田道」の道標。

 「由良谷川隧道」をくぐり抜けたあと、そこにいた工事関係者の方に「トンネルの拡幅工事ですか? 」とたずねると、
 「いや、川を道路の下に通す工事ですよ。大雨での洪水防止のため、天井川を解消するするのです。この先はもう完成していますので。」
 「では、天井川ではなくなるのですか」
 「そうです」。
 「ということはここは橋になるということに。」

「天井川」の土手を見上げる。
 
 流路変更の工事によって、この隧道はなくなる運命にあります。

ところで、「天井川」とは?

 川底が、周辺の地面の高さよりも高い位置にある川のことを天井川といいます。
 川に流れる土砂が多い川では、堤防を作って流路を固定すると、土砂がたまり川底が上がります。洪水を流せなくなるため堤防を高くしていき、天井川になってしまいます。
 このような川では、川より地盤が低い堤内地に洪水が流れ込むと、川に水を戻しにくいため被害が大きくなります。

                    
                          イメージ画像

(以上「」HPより)

 「天井川」というと、つい、東京・江東区など下町のゼロ㍍地帯を流れる川・用水路で、見上げるような高い堤防になっているものを連想してしまいましたが、ここでいう「天井川」とは成り立ちがまったく異なるもの、ということなのですね。
 
振り返って望む。

 「東海道・きずな街道」には、行き交う旅人の便宜を図って随所に「お休み処」があります。ここもその一つ。

そこにあった解説板。

針文五郎顕彰碑
 天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に蜂起した天保一揆である。この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。
 針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、江戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。
 しかし、全員獄死した。
 針の文五郎は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。天保14年4月18日死亡後年五十歳

 湖南市観光協会 

その先に、造り酒屋の老舗・北島酒造。

    

明るく開けたところに出てきました。昨日泊まったホテルの最寄り駅「甲西」駅が見えます。一駅分歩いただけです。約1時間。

    
                                       「案内図」もそろそろ終わりに近づいてきます。
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北脇縄手。泉一里塚。横田の渡し。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その7。)

2015-10-21 22:16:17 | 旧東海道
どこまでもまっすぐな道が続きます。車もほとんど通らず、のんびりと。
道の反対側に移動しても景色は変わらず。

周囲には田園風景が広がります。「国道1号線」方向。

街道歩きを応援してくれています。 
 
振り返って望む。はるか遠くまで一直線。

やっと集落に入って行きます。

    

 その町並みも終了、その先のY字路を左に進むと、「舞込橋」橋のたもとに道標。

            

橋の向こうに見えるのが、「日吉神社」の森。

その道沿いに「泉一里塚」があります。その手前には、「日吉神社御旅所」という石柱。

    

東海道泉一里塚
 東海道を整備した江戸幕府は江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4㎞)塚を築いたが、本町域では泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。
 塚上には榎などを植えて旅人の目印とし、道中奉行の管轄下に維持管理がなされた。当時のものは現在地よりやや野洲川寄りにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。

そのまま進むと、「横田の渡し」に。広場になっています。



東海道横田渡
 鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。
 伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。
 江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。
 そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。
 これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。
 野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。
 「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。

    

東海道横田橋常夜燈
 この巨大な石燈篭は文政5年(1822)増加する旅人の目印になるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。
 その高さは10.5メートル、燈火を灯す火袋は大人でも通れるほどで、どうちゅうでも最大級のものとされています。
 建造には多額の費用を費やしたため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。
 明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。



横田橋の歴史
 横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。
 江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管理下におかれ渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
 明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。
 その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。

「横田橋」の説明板のある場所から、かつての横田橋は架けられていました。
                     

 現在はここから向こう岸に渡ることは出来ないので、迂回して「国道1号線」へ向かいます。

「(日本橋から)456.5」という表示。甲賀市から湖南市入り。

現「横田橋」で「野洲川」を渡ります。午後5時少し前。

 橋を渡って「国道1号線」から離れて左に曲がって行くと、JR草津線「三雲駅」に。駅前の道が旧東海道。先ほどの「横田の渡し」からの道につながります。駅の東方には「石部・横田常夜燈」がありますが、それは明日の朝に。
 歩きはここまで。約6時間の行程でした。

 JR「三雲」駅から一つ先の「甲西」駅に向かい、「国道1号線」沿いの「ビジネスホテル」に泊まることに。
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問屋場。曳山。林口一里塚。美冨久酒造。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その6。)

2015-10-20 20:14:54 | 旧東海道

左手に「問屋場」跡の解説板があります。

問屋場跡
 問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。
 水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。

 右手にお休み処があります。ここで、小休止。若者達の団らんの声が聞こえます。からくり時計と「曳山」のモニュメント。

    

曳山の由来
 江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。
 曳山の登場は享保20年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。
 当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。
 「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。

通りを進むと常夜灯とからくり時計があります。ここが三筋の合流地点。

    
                          振り返って望む。真ん中の道を来ました。

 「近江鉄道」の踏切を越えると、曳山が格納されている「山蔵」があります。
           

この先、城下町特有の屈折した道が続きます。

この角「湖東信用金庫」を右折。

その脇にある解説板。広重の絵と「曳山祭り」の写真。

来た道を振り返る。

突き当たりまで進み、左折。さらにその先の突き当たりまで進みます。

突き当たったら、左へ。さらにその先を右に曲がります。曲がり角にあるのは、水口石と呼ばれる力石。



水口石
 東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。
 この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。

その先の公園には「百間長屋」跡。

 小坂町に百間長屋がありました。百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約180㍍)棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいました。南側(郭内)に玄関があり、東海道に面した北側は出入口がなく、町場とは自由に往来が出来ませんでした。これは敵が攻めてきた時に郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたのです。長屋には往来に向かって小さな高窓があり、これを与力窓といいます。買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来する物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、その銭に見合う品物をざるに入れてもらって其れを引き上げる方法で買い物をしました。明治初期の絵図によると21軒が明記されています。

 写真も掲示されています。

 そのまま進んで広い通りに出る、右手「五十鈴神社」の角に案内板。

ここは、「林口一里塚」跡になっています。

一里塚跡
 一里塚は街道の両側に一里(約4㎞)ごとに築かれたもので、東海道では慶長9年(1604)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。
 塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。
 林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。
 本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。  

 この一里塚は、日本橋から113里目。また、ここは水口宿の「西見附」(京口)でもあった所のようです。ここで、「水口宿」ともお別れ、広い通りを左折、すぐその先の信号を右に曲がります。
しばらく行くと、「美冨久酒造」。

ちょうど新店舗のオープンセール中で、大勢のお客さんが。なんでもお酒を量り売りにしているそうです。

    

 「純米吟醸 生原酒」。純米吟醸酒を加熱処理せず生のまま氷温の冷蔵庫で半年じっくり熟成をかけたお酒だ、とか。そこで、一杯。う~ん、搾りたてのお酒そのもの。あと1時間歩く予定ですが、これで少し元気に。

 「量り売りといえば 甲賀のうまし酒 美冨久酒造」さんでした。

 気分をよくして。午後4時少し前。

 前方には、遙か彼方まで見通せる直線道路が。これが「北脇縄手」。西の終わりまで約2㎞の距離。

北脇縄手と松並木
 東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
 江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木蔭に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。
    
                                       かわいらしい「甲賀忍者」バージョン。

 まっすぐな道をひたすら歩き続けます。この辺りから集団で歩く方達と抜きつ抜かれつに。
 「旧東海道ツアー」の企画のようで、資料片手に案内する「コーディネーター」の方と歩きながら会話。
 バスでの行き来のようで、断続的に日本橋から歩くという企画とのこと。今回は、土山宿と水口宿の途中から「三雲駅」まで。けっこう老人が多く、無理なく計画をしているようす。「三雲駅」からはまたバスに乗って「草津」まで出て泊まる予定だそうです。いつも同じメンバーかどうかは定かではありませんが、和気藹々と楽しげです。

 追い抜いて後ろを振り返ると、姿が見えなくなりました。小休止かな?

「柏木公民館」に着くと、鐘楼のモニュメントが。

ふたを開けて中を覗くと、干瓢干しの作業のようすが。

 裏側には安藤広重の辞世の歌

東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む

が記されているということですが、見落としました。

注:この歌を「東海道五十三次」の歌川(安藤)広重がつくったのかどうか、疑問符がつくようです。たしかに内容がうまくできすぎている感じがします。
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今在家一里塚。水口宿東見附。本陣。三筋の町。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その5。)

2015-10-19 22:57:23 | 旧東海道
 ちょうど2時。「水口宿」にはすぐ右の上り坂を進みます。

 とその前に。

 今朝、「テレビ朝日《羽鳥・・・》」の番組で「旧東海道」歩きを放送していました。
 石原良純さんがガイドの方と箱根東坂(箱根湯本・三枚橋から芦ノ湖・箱根関所まで)のレポート。
 ところが、二人とも軽装もいいところ。ラフな格好で何も持たずに、早雲寺、石畳、畑宿の庭園などを紹介していました。半日かかるくらいの、けっこうきつい上り坂もあるのにそれはないでしょう! 所々カットなので、途中、車で移動しているのがありあり。 
 もしこの放送を観て、秋の箱根路の魅力に惹かれ、これから(寒さが本格化する時期に)飲料水、雨具、非常食も持たずにあんな格好で歩いてみようかと出かける方がいたら、無謀。
 せめて、番組では箱根路を歩く心構え、服装とか持ち物とか最低限の配慮があってほしい、と思います。歩いた経験者として。


 さて、本題。  

 坂の途中には「今郷歴史街道マップ」。

坂を上がると平坦な道になります。

 そういえば、一年前の今頃は9番目の宿場「小田原宿」辺りでうろうろしていました。そして、今は50番目の「水口宿」、そして(51)「石部」、(52)「草津」、(53)「大津」と残すのみです。

しばらく行くと「今在家一里塚」。  

    

一里塚跡
 一里塚とは、江戸時代、街道の両側に、一里(約4キロ)ごとの築かれた塚で、江戸日本橋を起点として整備され、本町域では泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。 塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。行程の目安となり、又日陰を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去されてしまいました。

 「お江戸日本橋から112里目の一里塚」と銘記されています。ただし、この一里塚は復元されたもの。

 「一里塚」を過ぎたら、最初の角を左に折れて下り坂を進み、突き当たりを右に曲がります。目の前は「野洲川」。

              

右手に「高札場」跡。  
高札場
 高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設であり、江戸時代六万箇所を越える全国の村々にあまねく立てられていました。多くの人々の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多く、この付近には今在家村の高札場がありました。また、小里村の高札場も「東海道分間延絵図」に描かれています。

司馬遼太郎「街道をゆく」の碑。

 古い道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。
 あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道
 東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。

右の道に進みます。

 静かで落ち着いた家並みの中を行きます。

    

すぐ県道に合流したあと、正面の家の右の道に進みます。

道標に従って右に曲がります。

かつての松並木を偲んで松が植えられています。
    

東海道の松並木
 江戸時代東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒やしたのです。
 街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も称賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くは失われました。
 水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます。

「古城山」が前方に見えてきます。水口宿はその麓に。

「田町」という石碑。

坂道を上がった右手に「案内図」。

「東見附(江戸口)」跡。

 見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。
 この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長10年(1605)以降のことである。
 特に天和2年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。
 なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。

全景。枡形を残しています。東海道は右奥から手前に進む。

    
                          宿内のようす。

「元町交差点」を渡ってしばらく進むと「本陣」跡。
                                奥には明治天皇の記念碑。



東海道水口宿

 水口は道によって開け、道によって発展した所です。
 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。
 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正13年(1585)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、15年の間に市街地の基礎が形成されました。
 関が原合戦翌年の慶長6年(1601)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。
 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西2キロ余りに及びました。このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。
 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保14年(1843)の記録によれば、家屋692(うち旅籠屋41)を数え、この地に小規模ながら水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。
 このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。
 なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。

                             水口町


 東海道五十三次之内 水口 名物干瓢 / 歌川 広重

 水口では干瓢作りが女性の労働だった。夕顔の皮をむき、干す手仕事が夏の水口の様子を表わしている。奥にある集落の様子から閑静な農村であることがわかる。

 (「知足美術館」HPより)

    
 大正期の水口(「同」より)。                    現在のようす。

「桔梗屋文七」。

 「水口宿」は三筋に分岐した道路の形態になっている珍しい宿場。

 まず「高札場」のある分岐を左に進みます。

    

風情のある家並みが続きます。

次の分岐を右に進みます(三筋の真ん中の道)。

人通りはほとんどありません。

「曳山」山車の倉庫が点在しています。    
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間の宿。鴨長明。杉玉。水口へ。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その4。)

2015-10-17 21:07:08 | 旧東海道
 左手に「野洲川」の流れを見ながら西に向かいます。

 街道筋には、かつての旅籠跡や屋号が目立ってきます。この辺りは「土山宿」と「水口宿」との間にあった「間の宿」になります。

    
                                         「東海道大野村 指物屋」。

 「大野公民館」前には布引山の解説板と鴨長明の歌碑があります。

    

布引山
 布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月さえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿はうるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。
 平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。

 あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ 
          むらぎえ渡る布引の山

 水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に技を引く。
 江戸時代、東海道の大改修により道すじは変わるも東西布引にそったコースに変わりなく、近世、明治天皇明治13年行幸の供奉池原香採のよまれし歌に
 ○吾が袖に 通ふも涼し 布引の 山より下す 夏の朝風
 ○みゆきます 道のとばりと 見ゆる哉 布引はへし 山の姿は

 平成3年3月25日 土山町教育委員会  

 「布引山」は、ここから少し北に位置する山です。

また漢詩碑もあります。 

過土山即興     土山を過ぎて即興する。

採茶時節事匁忙  採茶の時節 事匁忙(そうぼう)す。
緑髄青芽壮僻郷  緑髄(りょくづい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)に
清風一瀹(れん)君知否  清風あり。一瀹、君知るや否や、
遠到紅洋黒漠香  遠きに到る。紅洋黒漠として香し。

    眞風軒  

 [意訳]

 茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。
 茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。
 この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。

 尚、眞風軒という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。
(注)「一瀹」は、「いちれん」とも「いちやく」とも読む。

 土山の町並みを愛する会 

振り返って望む。    

間の宿として旅籠が多くあったようです。 

こんな格好をした屋根のおうちが目立ちます。

? 

作り酒屋さんが左手に。

おなじみの「杉玉」。
               新酒の出来たときの目印です。時間がたつにつれ茶色くなっていき、お酒の熟成を表します。

 しばらく進むと、「国道1号線」にぶつかるので、横断歩道(「歩道橋」もあり)で向こうに渡ります。

    


交差点の手前には、「三好赤甫」旧跡があります。現在は、「赤甫亭」という食事処。

「土山ろまん第11号」より

みよし赤甫亭(せきほてい)

 「おかみさん、あんたもうちょっと赤甫の研究をしとかなあかんでー、と来られたお客さんに言われます。またすこし俳句に興味のあるような人は、料理の下に敷いてある紙に思い付いた句を書いて帰られます。」と、赤甫亭のおかみさんが話されるように、三好赤甫は俳句を愛する人の中ではなかなか有名です。それも地元の土山ではそれほどでもないのに、京都あたりで名が高いというのも面白いものです。
 赤甫さんは大野で代々魚屋を営む三好家の長男として、寛政十年(1798)に生まれました。普通ならば商売に励んで穏やかに暮らすところを、俳句への思い如何ともしがたく、常明寺の虚白禅師に師事して俳句の教えを受け、やがて虚白さんが京都の東福寺に移り住むや、家業を妻子に託し、また老いた父母を残し、師の後を追って故郷を後にしたのです。その時の句に「うぐいすや早苗に影を落としいく」とあり、現在、若王寺の境内に句碑が建っています。
 京に出た赤甫さんは文人墨客と交流を深め、三十余年の間、俳句の研究に没頭し、句集「窓あかり」など何編もの名著を残し、俳壇に立つ人々に高く評価されました。晩年になって郷里に帰り、近在の子弟に文学の道を教え、明治五年(1872)に亡くなられました。
 その赤甫さんの生家の魚屋さんが今も続く「みよし」さんです。おかみさんが小学生のころ、赤甫を偲ぶ百年祭があり、句碑の除幕をされたのですが、当時はどんな人かも知らず、そんな偉い人とは思いもしなかったそうです。今年三月、今の店を新築された時、赤甫さんの名を取り入れ「みよし赤甫亭」と名付けられたのですが、今まで「みよしさん」と呼んでいた近所のおばちゃんも、今では「赤甫亭」と呼んでくれるようになったそうです。
 学校で教わる歴史も大切ですが、こんな小さな郷土の歴史もまた大切なものです。虚白さんって誰?赤甫さんって誰?って子どもが尋ねてくる。それをきちんと教えてやれる、それが郷土を愛することにつながるのではないでしょうか。

                          (以上「土山の町並みを愛する会」HPより)

 ちなみに「土山の町並みを愛する会」は、郷土・土山の歴史・文化・伝承に関わって積極的な活動をされている団体です。

藁葺き屋根のおうち。

「旅籠 東屋跡」。

 左側を走る「国道1号線」、右側を歩く旧道、周囲にはのどかな田園風景が広がります。午後1時半。のんびり歩こう。

     

 左側に大きな「常夜燈」が見えてきたら「国道1号線」に合流し、今度は向こう側に横断します。

    
                         振り返って望む。ここで「土山町」ともお別れ。 

路傍の道祖神。

いよいよ次の宿場、「水口」宿へ向かいます。

「国道1号線」から分かれて「県道549号」に入ると小公園になって甲賀市の観光案内図があります。そこで、小休止。

7,8月の炎天下とは段違いの快適な旅。
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「歌声橋」。茶畑。大野市場一里塚。松並木。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その3。)

2015-10-16 20:34:58 | 旧東海道
 本来、「旧東海道」はこの先、「国道1号線」を突っ切って細い道へと入っていき、さらにその先にある野洲川を渡っていたようですが、 現在の地図ではその道は「野洲川」の河原で行き止まりになってしまいます。さて?
 前方をよく見ると、「国道1号線」を渡った先に石造りの道標が見えますので、そこに向かいます。



道標 御代参街道起点
 この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。
 御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還である。
 この道は中世においても重要な間道てあったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。寛永17年(1640年)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。
 江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。
 ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明8年(1788年)に建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち 文化四年と刻まれており、日野、八幡、また多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。 

 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

標識に従い、この道を進みます。

 しかし、上記のように、その先で「野洲川」を渡れる道はなくなりますので、少しだけ旧道を歩いてその先の道を左折して「国道1号線」に復帰します。

旧東海道からは離れて進むことに。後に合流しますが。

「国道1号線」。振り返って望む。

しばらく行くと、左手に「鈴木製作所」があります。そこで「国道1号線」から左の道に入ります。すると、


 「←先へ。足進めれば歌声橋 のんびり歩こう、旧東海道 これより三キロ先に、松林」と手書きの看板。この道は江戸時代の東海道とは異なっていますが、車の激しく行き交う国道歩きよりは、まさにのんびり歩ける道。

    
                                    「歌声橋」。人と自転車のみ通行可。

             「歌声橋」からの「野洲川」。渓谷美です。

    
                                         「国道1号線」の橋脚。

「桑名歯科クリニック」のところを左へ。

茶畑。道は赤茶色に舗装されている。

しばらく進むと、右手・三叉路に「案内図」。女の子が手を挙げて。

江戸時代の東海道と近辺地図 
 左側の狭い道が江戸時代の東海道で明治13年3月1日に右側の道ができて東海道の道路が変更された。

この道が江戸時代の東海道ということに。

 かつては、先ほどの道標の細い道とつながっていましたが、現在は分断されてしまい、通ることはできません。

「東海道頓宮村 たばこ屋」。

横断歩道の向こうには「飛び出し」坊や。

 周囲には、茶畑が広がります。

    

「東海道前野村 聴松園茶舗」。

                      

しばらく進むと、右手のお寺の門前に解説板が。

林丘寺宮御植栽の茶
 御水尾法皇(1596~1680)の御影・御位牌安置所建立の宝永年間(1704~1710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。
 当時、鐘楼門の参道両側は、広き宮ゆかりの茶畑で地安寺が管理し、この茶畑で収穫された茶は毎年、正月、五月、十月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。
 この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。

 平成4年3月 土山町教育委員会

 この地域一帯で栽培されるお茶は、「土山茶」として有名なようです。

とあるおうちの車庫には  
                   「ミッキー」や「ショクパンマン」など、みんな揃ってお見送り、お出迎え。

    
     「米屋」という屋号。                     独特の形をした屋根。

左手には「垂水頓宮御殿跡」碑。

垂水頓宮御殿跡
 伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
 土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。

 平成16年3月 土山の町並みを愛する会 

 その先の小公園で10分ほど小休止して、12:30過ぎに出発。西からやってくる方と立ち話。「日本橋」を目指して断続的に歩いていて、今日は「道の駅・土山」の手前まで、と。
 「鈴鹿峠」越えについてバスの便などの情報を提供。寒くならないうちに越えたいが、一月に一回位なので・・・、日本橋まで行ったら、帰りは「中山道」で帰ってくるつもりだ、という。
 お互いの「健闘」? を祈ってお別れ。

しばらく進むと「大野市場一里塚」跡。

東海道一里塚跡
 旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8年(1603年)家康が日本橋を架設し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。 土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。
 塚の規模は、およそ高さ2.5メートル、円周12メートルの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。

 日本橋から111里目の「一里塚」となります。

振り返って望む。

視界が開けてきて「大日川堀割」碑。 

橋を渡った左手に「解説板」。

大日川(堀切川)堀割
 往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
 元禄12年(1699年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄16年(1703年)に完成した。

 平成7年3月 土山町教育委員会 

解説板は「東海道反野畷」という石碑に括られてあります。

 その先には、久々に松並木が見えます。
     

左の植え込みには

回り込んで見ると「是東淀領」と記された榜示石。

    
 「東海道反野畷」。                   振り返って望む。
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土山宿本陣。問屋場。高札場跡。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その2。)

2015-10-15 22:04:35 | 旧東海道
 「土山宿」のほぼ中央に位置する「うかい屋」。築180年の旧家を改造した民芸・茶房のおうち。なかなか趣のある店構え。時間があれば立ち寄りたいところですが。

「二階屋本陣跡」。

 その先、右手の広場の奥には「東海道・伝馬館」。
        

大きな案内図。要所要所にあってとても親切。

 「伝馬館」の入口には土山宿の「問屋場・成道学校跡」碑。 

問屋場跡
 問屋場は公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。
 土山宿の問屋場は、中町と吉田町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代とと共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。

その前のおうちが「八百屋」、現在も同じ商売を。

 その先の右手には「問屋宅」跡。

土山宿問屋宅跡
 近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
 土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。

    
                     その隣には本陣跡があります。

    

土山宿本陣跡
 土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より約110里、終点の京三条大橋まで約15里の位置にある。
 土山宿本陣は、寛永11年(1634年)、徳川三代将軍家光が上洛の際に設けられた。現存する土山氏文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代は甲賀武士土山鹿之助であり、三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めた。
 本陣は当時の大名、旗本、幕府役人、勅使、公家等が休泊した所で、当家には当時使用されていた道具や宿帳など貴重なものが今も数多く保存され、特に宿帳は江戸時代前期から連綿と書き記されており重要な資料である。
 幕末から明治初期にかけては、宮家が東西の往路の途次、土山宿に休泊されることもあり、なかでも明治元年9月の明治天皇行幸の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、近代日本としては初めて天長節が祝われた。この時には土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。
 幕末期に参勤交代がなくなり、さらに明治3年(1870)には本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役目を終えた。

 平成26年2月25日 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会

本陣の隣には石碑が二つ。明治天皇聖蹟の碑と井上圓了が詠んだ漢詩碑。

    

漢詩の読み

鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
維新の正に是、天長節なり。
恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。
 
土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人

解 説

 この漢詩は、大正3年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年9月22日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。

 明治期の天長節。当初、上のように旧暦9月22日でしたが、明治6年の改暦以降は新暦に換算した11月3日となりました。現在は、「文化の日」。こうして現在も「明治天皇」の誕生日が「祝日」になっています。

 井上 圓(円)了(いのうえ えんりょう)

 後の「東洋大学」となる「哲学館」を設立し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。

左手、「中央公民館」には林羅山の漢詩碑

    

林羅山の漢詩の解読と解説

(解読)
行李(あんり) 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭(きょうりょ)を憶(おも)ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か

(意味)
 東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
 さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。

(解説)
 作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。
 号を道春という。
 家康没後の元和2年(1616年)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。
 この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。



その先の交差点を過ぎると右手に句碑。
                       高桑闌更「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」。

2本並んで「本陣」と「問屋場」の跡。

少し離れて「高札場」の跡。

大黒屋本陣
 土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
 土山本陣は寛永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
 大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。古地図によると、当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。

                      

    
                        「大黒橋」。「鈴鹿馬子唄」。
 いよいよ「土山宿」ともお別れです。

    
                                       振り返って望む。

「国道1号線」南土山交差点へ。

その合流付近には「土山宿」の解説板。

東海道土山宿
 土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
 源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
 宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。

 平成7年3月 土山町教育委員会 (注:現在「土山町」は、甲賀市に編入されている。)
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富士山初冠雪。そして、「土山宿」あれこれ。・・・(「道の駅土山」から「三雲駅」まで。その1。)

2015-10-14 23:09:48 | 旧東海道
 
                 新幹線車窓からの富士山。

 富士山に初冠雪が観測された翌12日(月)。「東海道」の旅に出ました。

 6時30分東京発「のぞみ」で「京都」。そして「草津」を経て草津線「貴生川」駅。10:05発の「あいくるばす」で「田村神社前」=「道の駅・あいの土山」に着いたのが10時35分過ぎ。
 ここが、前回の最終地点。「あいくるばす」にこれでつごう二度お世話になりました。料金250円は安く、ありがたい!
食堂で腹ごしらえをし、10時50分過ぎ、さて出発。

 「土山宿」の中心に入っていきます。「田村神社」のところの解説文では「海道橋(田村川橋)」が出来る前は、現在の「国道1号線」の南側を徒渉していた、とのこと。この道がかつての道筋につながる?

 

このように道路は赤茶色に塗られています。

                    案内図と「土山宿」の石碑。

    

さすが発祥の地。これから先は、「飛び出し」坊やと共に。

それぞれの家にはかつての屋号が。「たば古屋」。

「お六櫛商・三日月屋」。

 これから先「三日月屋」の屋号が目立ちます。その「お六櫛」。

お六櫛(おろくぐし) 

 長野県木曽郡木祖村薮原で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。梳き櫛。(整髪具の櫛には、髪を梳かす梳き櫛と、髪に飾る挿し櫛などがある。)
 その名は、大きさが六寸だったからという説など諸説あるが、最も有名なものは、お六説。
 元禄年間(1688年 - 1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになった。

 (「Wikipedia」参照)

 お六櫛の材料になるミネバリの木は、カバノキ科の落葉高木で成長がとても遅く1ミリ太るのに3年かかると言われています。 それだけに目の詰まった木質となり、斧が折れるほど堅いことからオノオレ(斧折れ)カンバの名を持ちます。
その堅さゆえ、印材やソロバン玉、ピアノの鍵盤などに使われてきました。堅さのほかに独特のネバリが特長で、精緻な梳き櫛の材料として、他のどんな木材よりも優れていいるといわれています。

       (HPより)

        「お六櫛」
 (HPより)

 それにしても、生産地の木曽・薮原から「土山宿」まで直線距離にして約175㎞。木曾街道(中山道)、飛騨街道を南下し、尾張から伊勢街道(東海道)を経て土山に。現在、車を使っても約230㎞で4時間半はゆうにかかるほどの距離。
 当時の物流、交易の、思ったよりも広いことを感じます。

     (図は「木曽のお六櫛公式サイト」HPより)

左手にそれに因んだ句碑。

 上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。

 土山の町並みを愛する会

            吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風 

 「扇屋伝承文化館」。「本家櫛所」の看板も。

 江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地域の住民が購入し、平成21年に開館したものです。
 地域の良さ、古き文化の伝承と旧東海道を散策する人の憩いの場となることを願っております。

 扇屋社中一同

振り返って宿内を望む。

しばらく進むと右手に「東海道一里塚跡」碑。
                                    日本橋から110里目の「土山一里塚」。

東海道一里塚跡
 旅行者の便をはかって街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。
 この制度が整ったのは慶長8年(1603年)徳川家康が日本橋を架設し、翌九年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、そのおり一里三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上には榎などを植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。甲賀市土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのもこの一里塚に起因している。
 塚の規模は、およそ高さ2.4米、円周12米の大きさであったらしい。この近くで塚の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚で、塚の上には椋が植えられている。

 土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会


    まだ宿場は続きます。

 「道の駅・あいの土山」には大勢の人がいましたが、宿内には人通りはなし。時折、車が通ります。新しいバージョンの「飛び出し」坊やがお出迎え。

 

「油屋権右衛門」。

    
 「来見(くるみ)川」。「お茶を摘めつめ しっかり摘みやれ 唄いすぎては 手がお留守(土山茶もみ唄)」。

                

「土山宿旅篭六屋跡」。

 道の両側には次々と「旅籠跡」の石碑が登場します。

        

 左手に「井筒屋」、右手には「平野屋」。どちらも森鴎外ゆかりの旅籠です。
 
    

森白仙終焉の地(井筒屋跡)
 文豪森鴎外の祖父、白仙は、文久元年(1861年)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死した。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄であり、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師であった。
 万延元年(1860年)藩主の参勤交代に従い江戸へ出向し、翌5月に藩主は在府の任が解かれて帰国することとなったが、白仙は病のため随従することが出来なかった。やむなく江戸で養生した後、10月になり二人の従者を伴って帰国の途についたが、長旅の疲れもあり、11月6日投宿した井筒屋で発病し、翌7日急死した。遺骸はこの近くの河原の墓地に埋葬された。
 明治33年3月2日、陸軍小倉師団の軍医部長であった鴎外は東京への出張の途次にこの地を訪れ、荒れ果てていた白仙の墓を見かねて、南土山の常明寺に改葬を依頼した。後に白仙の妻清子、娘のミネ(鴎外の母)の遺骨も常明寺に葬られたが、3人の墓碑は昭和28年に鴎外の眠る津和野永明寺に移葬された。

 平成27年1月 甲賀市教育委員会 土山の町並みを愛する会


森鴎外の泊まった平野屋
 平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。
 「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。」乃ち金を借りて明日来り観んことを約して去る。寺を出つるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり。」 小倉日記

 平成17年12月 土山の町並みを愛する会

宿内を振り返って望む。

 地元の意欲的な取り組みに感心します。
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