おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その4。「枡形」。「五井陣屋」。「小湊鐵道」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-20 18:59:37 | 房総往還
                         街道筋には大きなおうちが並ぶ。
        

手入れの行き届いた庭木のあるおうちが目立つ。

庭先には「ナツミカン」がたわわに。

途中の魚屋さん「寿々喜鮮魚店」。粋な店名。人通りもほとんどない中、熱心にさばいています。その先には「すずき旅館」。
カジキマグロ。

サバ。

路地の奥に「共同墓地」(↓)。宗派を問わずに地域の中に。

この付近、海に通じる運河が多い。

「割烹かしわ寿司」。

落ち着いて静かな街並み。

海に通じる運河。
                右手奥に「八幡御所」疑定地あり。
 小弓公方足利義明が小弓城に入る前に一時館を構えたといわれているところで、「ジョイフル本田」の裏手付近か?

市原市のマンホール絵柄。



                 

「北五位学校跡」碑。

                         

「五井(五位)」の町への入口は大きな枡形のようです。
「小倉酒店」が曲がり角手前に。

大きく左に曲がり、

振り返る。

それから大きく右へ折れます。
                            正面に見える大きなおうちが存在感あり。

振り返る。
    家並みがない分、枡形がよく分かります。
               

この付近の今昔。


1880年代のようす。→が枡形の道筋。



2010年代のようす。現在、この付近は、宅地造成が行われているようです。

 「五井」の町に入ります。

古くは「御井・後井・五位」などの文字が混用されていました。
のち「五井」に統一され、五井村村誌に「天正18(1590)年8月1日徳川家康公、関東を領するに及び、同9月1日御家人の知行となる、同年松平家信五井五千石を賜る」と記述が残っています。江戸と安房を結ぶ海運・陸運の交通の要所として昔から栄えていました。

注:五井藩主有馬家が歴代「従五位下」であったこととの関連はなさそうだが。

奥に白壁の蔵が。

看板建築の商店。

「五井駅入口」交差点。

来た道を振り返る。

 「五井駅」西口ロータリーが「五井陣屋」があったところのようなので、駅方向に向かいます。

 「五井駅」は小湊鐵道の乗換駅でもあり、去年、養老渓谷に行く時に利用しました。


弘文洞跡」。

        
小湊鐵道線(こみなとてつどうせん)
 千葉県市原市の五井駅から夷隅郡大多喜町の上総中野駅までを結ぶ小湊鐵道の鉄道路線である。
 東京湾沿岸から房総半島内陸部を結び、路線の大半が市原市内に属する。

「五井陣屋」跡。特に解説板等はなし。

カラー版のマンホール。
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その3。「村田川」。「八幡宿」。五所。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-19 21:41:13 | 房総往還
                        「村田川渡船場跡」解説板。
街道をはさんで両側に緑地帯(公園)があります。

          


 この地は、南房総と結ぶ房総往還の要衝でした。古来、村田川は下総国と上総国との国境で、防衛上の必要あってか、橋が架けられなかったといわれています。このため、明治20年(1887)頃までは船による渡しがありました。この道を古くから文人客をはじめ多くの人びとが渡って行きました。水戸黄門の甲寅紀行にも自ら川を越えたを記し、また、小林一茶も渡って行きました。
 康生2年(1456)10月、千葉氏の内紛で千葉宗家胤貞父子を滅した馬加城主馬加康胤は、将軍足利義政の命を受け追討に向かった一族の東常縁(古今伝授を受けた人)の軍に敗れ、市原市八幡で敗死し首を村田川岸に晒されたと伝えられています。また1868年4月江戸城明け渡しに不満な撒兵隊は江戸を脱走し木更津方面に集結した。いったんは勢力を盛り返し、追討軍と村田川・養老川を挟み激戦を交え、敗れて木更津方面へ退却しました。今は川筋もかわり元の川は埋め立てられて公園となり、当時の姿を偲ぶよすがもありません。

 市原市北部を流れる村田川は全長20.8㎞、八幡海岸の埋め立て地を経て東京湾に注ぎ込みます。現在の村田川は河川改修で旧川筋を直したものであり、昔の村田川はもっと蛇行し、暴れ川だったようです。

          
          
          
1880年代のようす。蛇行しているようすが分かる。      2010年代のようす。現在の村田川。上に旧村田川跡の緑道(公園)。 

来た道を振り返って望む。

車のナンバーも変わる。 「袖ケ浦」に。

現在の「村田川」を渡ると、「八幡宿」の街並みに入ります。

               下流方向(東京湾)。

「県道24号線」。 

振り返って望む。右手に庚申塔などいくつか。

「八幡宿商店街」。

「八幡宿駅入口交差点」。

その先のバス停で一休み。バス停名が行く手を示す(○)。

左手に分かれる道。
 現在は、この先で交差する「大多喜街道(通称)」と合流する道のようです。

     
1880年代のようす。          2010年代のようす。

その先、用水路に架かる朱塗りの太鼓橋。

                        

「八幡宿」方向を振り返る。

「金杉川」。

                     

「五所」の町に入ります。

                      

 ・・・中世においては千葉氏の勢力下にあったが、千葉氏の勢力が次第に衰えると、里見氏などの新興勢力の伸張を許した。現在の千葉市生実町に館を構えた小弓公方足利義明も、一時期この地に拠っており、その時の御所があったとされる場所は、五所という地名として残っている。
足利 義明(あしかが よしあき)
 室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称した。
 父と兄・高基が対立すると、下野国に移って名を足利義明と改め、下総国小弓城を攻撃して千葉氏家臣を破って同城を占拠する。そして、「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。
 天文7年(1538年)、義明は軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った(第一次国府台合戦)。一時は晴氏・氏綱軍に対して優勢だったが、次第に劣勢となる。義明は氏綱軍に突撃するが、その反攻に遭って戦死した。 (この項、「Wikipedia」参照)

御所跡はこの先にあるようですが。
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その2。「伊南房州通往還」、「国道16号線」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-18 18:47:30 | 房総往還
                   右手には「JFEスチール」関連会社の施設が。


上流にJR内房線の鉄橋。

街道を行き来するバスは、「小湊バス」。

                        

大きなおうち、門構えも立派。

旧道らしいカーブ。

ここにも古い面影を残すおうちが。

この付近の今昔。
        
                
1880年代のようす。                 2010年代のようす。→が街道。右に、内房線。 


丁字路に突き当たり、右にある「塩浜橋」を渡ります。

曲がりくねった道を進む。

その先、丁字路を左折する道は「茂原―大原―勝浦」を通って館山に至る道。「伊南房州通往還」。
 伊南とは東上総海岸沿いの夷隅地方が、伊南荘・伊南領の名で慣習として呼ばれていたことによる。房総往還との分岐点は浜野とその先の八幡宿で、潤井戸で合流し茂原→上総一宮→大原→御宿→勝浦→小湊→鴨川→和田→丸山と進み、館山で再び房総往還と合流する。(この項、「坂道散歩」HPより)


この付近の今昔。
 
1880年代のようす。○が分岐点。


2010年代のようす。現在、その一部は「茂原街道」(茂原まで)と呼ばれている。

「房総往還」は、そのまま進みます。

広い通りとの丁字路で、左折。

交差点の信号名がユニーク(↓)。

「国道16号線」を渡ります。首都圏の街道歩きではしばしば横切ったり、歩いたりする国道。


                 

「日光千人同心街道」(八王子~佐野)
で紹介した記事を再掲。
・・・
国道16号線
■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。
 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。
 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。  
・・・
来た道を振り返る(↓)。

河川跡の緑地帯。

 「市原市」に入ります。かつての「下総国」と「上総国」との国境。先ほどの緑地帯はその境であった「村田川」の旧流路。
         
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JR「蘇我」駅~「姉ヶ崎」駅。その1。「蘇我」。「旧国道踏切」。(「房総往還」をゆく。第3日目。)

2020-02-17 18:44:26 | 房総往還
              「房総往還」第3日目。2月8日(土)。晴れ時々曇り。最近は、自宅を出るのが遅く距離が伸ばせません。


  街道はほぼ南に向かうので、写真を撮ると、逆光気味になってしまいます。
こんな風にスッキリとは撮れません。 

道標「大がんじ道」。ここから北東にあるお寺への道。

「鬼そば」。ネーミングが奇抜!

 明治創業の4代目が切り盛りするお店。日本蕎麦から中華まで幅広いメニュー。
 本当の店名は「林遊庵」。その昔、お店の瓦が "鬼瓦" だった為、ご常連さんから「鬼そば鬼そば」と呼ばれ、「鬼そば」の方が定着した為、看板や暖簾の方も「鬼そば」にしたようです。

 年季の入ったお店。営業しているのかどうか。

 すぐ西側を通る幹線道路(「湾岸道路」)にはお店もたくさんあるので、廃れてしまったような街並み。そこが、街道歩きにはけっこう!

広い道路を横切るときの西側のようす。
                        「湾岸道路」とその海側にある「千葉市蘇我スポーツ公園」方向。


ジェフユナイテッド千葉のホームスタジアムであるフクダ電子アリーナのほか、サッカー、野球、テニスなどができる大規模なスポーツ公園です。
(この項、「」HPより)

この付近の今昔。


1880年代のようす。海岸線沿いに進む。。



2010年代のようす。公園施設を造成中。○が撮影地点(交差点)。
現在は、公園の西側に「JFEスチール」の工場が建設されている。

「蘇我比咩神社」何と読むのか?
「そがひめじんじゃ」と言うそうです。
 紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
 ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう

レンガ造りの倉庫。

                  

右手を望む(海岸方面)。

三叉路で、左手の旧道に進みます。

道の曲がり方が旧道らしい。

 左手奥に「曽我野藩陣屋跡」があります(小公園)が、見逃しました。

 その先で、「京葉臨海鉄道株式会社」が経営する貨物線の踏切を越えます。列車が通過するのをしばらく待ちましたが、来ず。
  
                                「旧国道踏切」とあります。
「千葉貨物駅」に向かう線路。

(「Wikipedia」より)


        一大工業地帯、各社を網羅する貨物線。
 総武線《新小岩→蘇我・鹿島SS》 の貨物列車。この踏切の通過時間がわかれば待ち構えていたところです。作業員の方が数人、蘇我駅方向を監視していたようにも見えましたので、・・・。
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向島百花園。梅まつり。2020。その2。

2020-02-13 18:42:22 | じじばばがゆく
                        園内には23種類の梅の木があるようです。
「福寿草」。
 春を告げる花の代表。そのため元日草(がんじつそう)や朔日草(ついたちそう)の別名を持っています。福寿草という和名もまた新春を祝う意味があり、縁起物の植物として古くから栽培されてきました。
 ただし、強い毒性あり。地面から芽を出したばかりの頃は、フキノトウと間違えたり、若葉がヨモギの葉に似ているので、誤食しやすく、重症の場合死亡することも。



これは「マユミ」。
 材質が強い上によくしなる為、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になりました。この木で作られた弓のことや、単なる弓の美称も「真弓」といいます。

「わびすけ(侘助)(太郎冠者)」。ツバキの一種。

      

             

「とうばい(唐梅)」。お座敷の庭に。

「はつかり(初雁)」。お座敷の門前に。

咲き始めた「ミツマタ」。
 ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分かれるために「ミツマタ」と名付けられた。三枝、三又とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している。
 古代には「サキクサの」という言葉が「三(み)つ」という言端(ことば)に係る枕詞とされており(例:「三枝〔サキクサ〕の三つば四つばの中に殿づくりせりや」〔催馬楽・この殿は〕)、枝が三つに分かれるミツマタは昔は「サキクサ」と呼ばれていたと考えられている。そう名付けられた訳(わけ)としては、ミツマタはあたかも春を告げるかのごとく一足先に淡い黄色の花を一斉に開(ひ)らくため、その故(ゆえ)をもって「先草=サキクサ」と呼ばれたのだとの考えがある。但(ただ)し他にも、ミツマタが縁起の良い吉兆の草とされていたため「幸草(サキクサ)」と呼ばれたのだとも言われる。最も古い用例である万葉歌人・柿本人麻呂の和歌(ヤマトうた)では、
春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあれば 後にも逢む な恋ひそ吾妹(『万葉集』10巻-1895) (春になればまず先に咲く「サキ」クサのように「幸〔さき〕」く〔つつが無く〕あることが出来たならば、のちにまた会いましょう。恋しがらないでください、わが愛しい人よ)
とあり、三枝(さきくさ)という言端(ことば)の元が「先草(サキクサ)」とも「幸草(サキクサ)」とも とれる表現となっている。(いずれにせよ、この「サキクサ」が三枝[さいぐさ、さえぐさ]という姓の語源とされる)。
 NHKのラジオ番組・「ラジオ深夜便」では、日本の季節に合わせて このミツマタの花を2月21日の「誕生日の花」とし、その花言葉を「壮健」としている。
 園芸種では、オレンジ色から朱色の花を付けるものもあり、赤花三椏(あかばなみつまた)と称する。
 和紙の原料として重要である。ミツマタが和紙の原料として登場するのは、16世紀(戦国時代)になってからであるとするのが一般的である。
(以上、「Wikipedia」参照)

 以前、ブログの中、「美濃」で取り上げた紙の原料の一つです。

「鴛鴦」。

 「鴛鴦」は、おしどりのこと。鴛」は雄のおしどりを意味し、「鴦」は雌のおしどりを意味します。
 この鳥は、いつも仲良く寄り添って泳いでいることから、「夫婦仲が良いことの象徴」とされてきました。

「花香美(はなかみ)」。

「見驚」。薄紅色。



そろそろ閉園時間。空はますます澄んで。


 訪れる人も少なく、ゆっくり散策。        

「梅まつり」。

              

錦絵などに描かれた百花園。

出口付近にあったスイセン。盆栽風。
 全草が有毒で、鱗茎に特に毒成分が多い。食中毒症状と接触性皮膚炎症状を起こす。中毒は初期に強い嘔吐があり摂取物の大半が吐き出されるため症状が重篤に到ることは稀であるが、鱗茎を浅葱(あさつき)と間違えて食べ死亡した例がある。
 葉がニラととてもよく似ており、厚生労働省によると、2008年~2017年に起きた有毒植物による食中毒188件のうち、最多はスイセン(47件)だった。
 Narcissus という学名は、ギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスに由来する。神話によると、ナルキッソスは、その美しさにさまざまな相手から言い寄られたものの、高慢にはねつけて恨みを買った。ついには、そんな彼への呪いを聞き入れた復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋してしまった。水面の中の像は、ナルキッソスの想いに決して応えることはなく、彼はそのまま憔悴して死ぬ(水面の像に接吻をしようとして溺死したという説もある)。そして、その体は水辺でうつむきがちに咲くスイセンに変わった、というものである。だからこそスイセンは水辺であたかも自分の姿を覗き込むかのように咲くのである。
 「スイセン」という名は、中国での呼び名「水仙」を音読みしたもの。「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という中国の古典に由来する。水辺で咲く姿を仙人にたとえたのであろう。別名に雪中花、雅客。
(以上、「Wikipedia」参照)

《番外》墨堤通りの河津桜。他の桜に先駆けて、一本、鮮やかな色で咲いています。


                      

         

               

 「隅田公園」も、もうじき早咲き桜の季節を迎えます。

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向島百花園。梅まつり。2020。その1。

2020-02-12 19:00:38 | じじばばがゆく
                     「梅まつり」を開催中の「向島百花園」へ。左:白加賀、右:一重寒紅。
芭蕉の句碑がお出迎え。

春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅 はせを

「梅洞水」。

                   

「紅冬至(こうとうじ)」。

    枝振りが見事。

「白加賀」。

見上げるほどの高さまでつぼみが。

「紅千鳥」。



 一昨年、同じ時期に来たときにはメジロがたくさん集まっていましたが。去年、今年と見かけません。
「べにちどり(紅千鳥)」(一昨年撮影)。 

メジロ。(写真は「Wikipedia」より借用)

 その代わり、我が家の隣のキンモクセイの大木に集まってきてしきりに鳴いています。ムクドリも来て、「ギャーギャー」「ピーピー」にぎやかです。


      左が「冬至梅」、右が「シラタキシダレ」。

遠くには「スカイツリー」。

「冬至梅」。

「スイセン」。

「しろかが」。

        

「紅千鳥」。

         

園内を行きつ戻りつ。

「八重野梅」。枝先まで花を咲かせて。
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隅田公園。梅めぐり散歩道。2020。

2020-02-10 21:14:52 | じじばばがゆく
                     2月7日(金)。晴れ。寒し。
隅田公園の梅を観に行きました。6日の寒さが引き続き、けっこう寒い中での。でも、北風ではなくて幸い。
隅田公園はサクラで有名ですが、台東区側の北に梅が植栽されているところ=「梅めぐり散歩道」があります。
去年初めて訪問。今年はどうかな、と。少しずつ整備されているようですが。

上空の寒気で、飛行機雲が幾筋も。

満開に近い梅も。

バックにはスカイツリー。



                   

見物客もほとんどいない。公園全体も少なそう。雷門界隈ははたして?


     



      

正岡子規・句碑
             雪の日の 隅田は青し 都鳥(明治廿五壬辰年)
『寒山落木』明治十八年ヨリ同二十五年マデ
明治十八年 夏郷里松山ニ歸ル○嚴嶋ニ遊ビ祭禮ヲ觀ル○九月上京
仝 十九年 夏久松定靖公ニ扈從シテ日光伊香保ニ行ク○九月歸京
仝  廿年 春腸胃ヲ病ム上野ヲ散歩ス○夏歸省○九月上京
仝 廿一年 夏牛嶋月香樓ニ居ル○九月歸京常盤會寄宿舍ニ入ル
仝 廿二年 四月水戸ニ遊ブ徃復一週間○五月咯血 七月歸省九月上京不忍池畔ニ居ル後再ビ常盤會寄宿舍ニ入ル 十二月歸郷
仝 廿三年 一月上京七月歸郷 九月三井寺觀音堂前考槃亭ニ居ルコト七日直チニ上京
仝 廿四年 春房總行脚十日○六月木曾ヲ經テ歸郷 九月上京途中岡山寒懸ニ遊ブ○秋大宮ニ居ルコト十日 冬駒籠ニ居ヲ遷ス○川越地方ニ遊ブコト三日
明治廿五年 一月燈火十二ケ月ヲ作ル其後何々十二ケ月ト稱スル者ヲ作ルコト絶エズ 春根岸ニ遷ル 夏歸省ス 九月上京 十一月家族迎ヘノタメ神戸ニ行ク京都ヲ見物シテ上京○此年夏ヨリ日本紙上ニ投稿十二月ヨリ入社

【説明】隅田公園の北側の端に、大正時代まで「竹屋の渡し」と呼ばれる渡船場がありました。近くにある待乳山聖天からの眺めを詠んだものと思われます。(Untitled - 上野観光連盟)

そして、「花」歌碑。
                春のうららの 隅田川
           のぼりくだりの 船人が
           櫂のしづくも 花と散る
           ながめを何に たとふべき

           見ずやあけぼの 露浴びて
           われにもの言ふ 桜木を
           見ずや夕ぐれ 手をのべて
           われさしまねく 青柳を

           錦おりなす 長堤に
           くるればのぼる おぼろ月
           げに一刻も 千金の
           ながめを何に たとふべき


 武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。この碑は、羽衣自筆の歌詞を刻んだもの。



                       

サクラの古木と。



メジロが1羽飛んできました。梅の蜜を吸いに。



                    

吾妻橋を渡って墨田区側へ。

            

 例の騒ぎで、「スカイツリー」に向かう人は(特に外国人)少ない印象。     
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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その4。港町。銭湯。JFEスチール。「赤いサイロ」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-02-07 21:41:16 | 房総往還
                           旧道は、南に向かいます。
この付近の今昔。


1880年代のようす。↓が「君待橋」付近。海岸側から来た道と合流。




2010年代のようす。

この辺りは、「港町」。かつては海に面していた。


1880年代のようす。


2010年代のようす。←が街道。千葉港が左手に。

車の通りの少ない街道を進みます。
                                鄙びた街並みという印象。
 左手にある「寒川神社」を過ぎ、先に進みます。街道沿いに銭湯が目立ちます。
湯あそびひろば  石の湯」 
              
銭湯好きの小生には興味がわきます。以下紹介文を引用。


千葉市中央区寒川・末広界隈にある銭湯です。
浴室は2種男女日替わりで、露天風呂付 夕暮イメージの ’夕星’と
早朝イメージの‘ 暁‘ 2種の浴室を男女日替わりで楽しめます。
’夕星’は露天風呂ほかヘルツバス、うきうき風呂、ローリングバス、塩サウナ・水風呂があります。
暁には、エステバス、肩たたき、リラックスバス、水風呂、遠赤外線高温サウナがあります。
1908年(明治41年)創業で、1993年(平成5年)秋 現店舗に建て替えました。

それから100㍍ほど先に、
梅開湯(ばいかいゆ)」。
かなり太い柱や梁が見事。まるで映画のセットかと思うくらい、昔の状態に近い銭湯である。
シャワーと泡風呂の他は多分改装しておらず、昭和の前半の漁師町の銭湯である。
湯船はかなり熱い湯なので長湯できない。

そして、三つ目。
大和湯
大和湯は、本千葉駅から徒歩12分の場所にあります。また、大和湯の前には、駐車場スペースが10台以上あるので、車の人には便利ですよ。
ちなみに、近くには、梅開湯や石の湯などの銭湯もあり、銭湯密集地になっています。梅開湯のご主人にお伺いしたところ、昔、港がすぐそばにあり、漁師さんが漁から戻った後に、銭湯に立ち寄ったことから、このエリアには銭湯が多く作られたそうです。
(この項、「」HPより)

 近所ならきっと来ていたはずの銭湯紹介でした。

街並みもけっこうすてきです。

                     

りっぱな屋根のおうち。(↓)
              
街道筋に道標
             延享2年(1745)の造立。左側面に「右ハかつさみち 左ハちばてら道」。

「京葉線」の高架をくぐります。

 その先、左手に「稲荷神社」があり、そこに「甘藷澱粉製造発祥の地」記念碑があるようですが、境内が工事中のため、立入禁止。

 一本右の大きな通り(「国道357号」=「東京湾岸道路」一般道)には「アリオ」などの大型商業施設が並んでいます。


                    

「房総往還」街道は、狭い割には車の迂回道になっているようで、けっこう飛ばしています。


大きなお屋敷。

JFEスチール(株) 東日本製鉄所」の煙突が。

注:「JFEスチール」は、「日本鋼管」と「川崎製鉄」の統合に伴い誕生した。

今回は、ここまで。JR「蘇我」駅に向かいます。



                    

「蘇我」駅は、内房線と外房線との分岐駅。さらに、「京葉線」(東京駅から東京湾湾岸沿いを経由して蘇我駅まで)がつながっています。
「房総往還」はほぼ内房線沿いに進み、館山まで。

この付近の今昔。


1880年代のようす。海岸線沿いに街道。



2010年代のようす。「JFEスチール」の工場が広がる。右上に稲荷神社。

《番外》先日、パスポートの更新で有楽町の交通会館まで出かけました。
 そこには、各県のアンテナショップが集まっています。そこで、二品購入。
北海道「赤いサイロ」。売れ筋ナンバーワンらしい。

 富山県「しろえび紀行」。

向かいにある沖縄県のアンテナショップには行きそびれました。またの機会に。
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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その3。「市美術館」。「亥鼻城」。「君待橋」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-02-05 00:02:22 | 房総往還
                         広々とした道路(振り返る)。
                               

 右手に「千葉神社」を見て、街中を進みます。
千葉市美術館・(中央区役所)」。
 千葉市美術館は、現在の中央区役所が移転した跡スペースを活用し、新たな展示スペースを設けるなど2020年7月を目途にリニューアルいたします。リニューアルオープン後は、1〜5階が新たに美術館スペースとして拡張され、様々な体験・交流ゾーンが生まれることになる予定。

 1927年(昭和2年)に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店(矢部又吉設計)の建物は、千葉空襲で焼け残った歴史的建造物で、その跡地に総合支所と美術館を併設する構想が浮上したため、保存を求める市民らが約1500人の署名を提出して保存運動を展開し、これを受けて千葉市が部分保存の検討を含める形で基本設計を委託することになった]。
そこで、設計者の大谷幸夫は、新ビルで旧川崎銀行千葉支店を覆うようにする「さや堂」方式を用いて保存・修復と区役所と美術館の新設を両立する計画とし、1-2階にさや堂ホールとして歴史的建造物を活用した建築物となった。 (この項、「Wikipedia」参照)
 
     「さや堂ホール」。

けっこう気になる建物です。

「大和橋」で「都川」を渡ります。対岸に古風なおうちが(↓)。

下流方向を望む。

左手奥の高台が「亥鼻城(千葉城)」にあたる。
 平安時代末期に千葉氏の初代当主である千葉常重が千葉県千葉市中央区(旧:下総国)に居館を構えた平山城。通称は千葉城。周辺は亥鼻公園(歴史公園)として整備され、土塁、堀切などが現存する城跡は市の文化財に指定されている。
 千葉氏の居城があった猪鼻山は、北は都川、西は断崖に面した天険の要害の地に築かれた平山城である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に際し、いち早く参陣して東国武士団の動向に大きな影響を与えた重鎮千葉常胤の父である千葉常重が平安時代の1126年(大治元年)、上総国大椎城(現在の千葉市緑区大椎町)から拠点を移し、下総国(現在の千葉市中央区亥鼻町)に居館を構えた。拠点を移して以来、1455年(康正元年)、千葉胤直が下総原氏の原胤房に追われるまで、千葉氏13代(約330年)に渡り両総に覇を唱えた千葉氏の拠点である。
 1516年(永正13年)に落城後、江戸時代(幕末)の1861年(文久元年)には千葉八景「猪鼻山の望月」に選定されており、古くから名所・旧跡として親しまれていた。城跡は1909年(明治42年)以降公園として開放され、1959年(昭和34年)に歴史公園「亥鼻公園」(面積10,293平方メートル)として整備され、亥鼻山の中腹には、1967年(昭和42年)に千葉市立郷土博物館(模擬天守)、いのはな亭(茶室及び庭園)が建造された。
 城域は亥鼻公園(主郭)から千葉大学亥鼻キャンパス(外郭)を含む広大な領域が城跡であり、地名をとって「亥鼻城跡」と呼ばれている。土塁や空堀が遺構として残されており、その特徴から戦国時代の城跡と推測されている。また主郭部の突端にかつての物見台跡の神明社がある。二の郭跡に郷土博物館と千葉常胤像が建つ。
千葉県庁からの「亥鼻城」。(但し、天守は模擬、の建築)
 (この項、「Wikipedia」参照)

「千葉名産 貝煎餅」とある。

左手には昭和を感じさせる複合ビル。

                          

右手は「千葉県庁」。手前左に「羽衣公園」。

 その先、モノレール「県庁前」駅にある円形の歩道橋を進みます。モノレールの線路の先端。


「東金街道」の時にも。「千城台」駅。 

少し静かな街並みに。

 「本千葉駅」を過ぎ、「君待橋」碑のある小公園を左折します。
→が旧道。

 
 君待橋という名前の由来には3つの伝承がある。
①長徳元年( 9 9 5 年) 藤原実方が陸奥国へ下向の途中にここを通り、里人に橋の名を問うと、君待橋と答えたので実方は 「寒川や袖師ケ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。
②冶承4年(1080年)、千葉常胤一族が源頼朝をこの橋のたもとに出迎えたことから。
③昔、橋の近くの美しい乙女と対岸の若者が恋を語りあっていた。ある日大雨で橋が流され、対岸へ泳いで渡ろうとした若者が濁流に流された。 それを見た乙女は後を追い激流へ身を投げた。このことがあってから里人は君待橋と呼ぶようになった。(「日本伝説叢書」より)
(この項、「」HPより)
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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その2。「千葉公園」鉄道遺構。「大賀ハス」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-02-03 20:21:29 | 房総往還
               2両編成で頭上をけっこう早く走っているので、写真が撮りにくい「モノレール」です。
「道標」。判読は?

 右手、道を挟んだ向こうに「千葉競輪場」。壁絵がユニークです。


                    

 「千葉公園」駅付近でモノレールと分かれ、街道は左に曲がっていきます。 
右手奥が「千葉公園」。

                        

 「千葉公園」は、かつて鉄道遺跡として紹介。さらに競輪場脇の道から先も含めて、その一部を再掲。(2014/7/04~ 掲載)


 「千葉公園」。大きな慰霊塔をはじめ、戦前、戦中の軍隊施設の一部が残っています。そして、周辺のここかしこに残る「戦争遺跡」。

 「つわものどもと学園地域コース」。
 「つわものども」の跡が戦後、「学園施設」や「病院施設」そして、落ち着いた「住宅街」に大きく変貌し、まさに人々の命と生活と未来につなぐ地域となった。が、かつての遠い「出来事」がいつのまにか、現実になったら・・・。
 そんな複雑な思いも込めて、7月1日、お昼前から午後にかけて、探索してみました。

 鉄道大隊(のち、「鉄道連隊」)専用の軍用線路は現在の千葉駅付近から北西に向かって進んでいた。千葉公園一帯から千葉経済大学、さらにモノレールの東側一帯は、「鉄道第一連隊」「陸軍歩兵学校」などほとんど軍の施設であった。
「千葉公園」内にある高台「荒木山」。昭和8年12月に建てられたもの。
 この小高い丘は、以前、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになりました。
 満州事変で先頭に立って戦い亡くなった鉄道第一連隊の「荒木大尉」の名をとって名付けられました。戦前までは,この荒木大尉の銅像が建っていましたが,現在は展望台になっています。
現在の広場のようす。
 公園の奥を進むと「護国神社」と大きな「忠霊塔」がある広場に。

 「忠霊塔」を回り込んだところに「荒木大尉」の碑があります。
レリーフ。

《千葉公園内の鉄道遺構》
①架橋演習用に使用したコンクリート製の橋脚。高さ4㍍、幅5㍍、奥行き2㍍。上部の丘の上に一部が残っている。
見上げるほど、かなり大きな遺構。

当時の演習のようす。

西側の高台に残る橋脚。

②トンネル工事演習で使用したコンクリート製のドーム(外枠)。高さ6㍍、幅6㍍、奥行き5.5㍍。


これもかなり大きな遺構。

上部には「鉄道連隊」のマーク。

側面。 内壁。

③ウィンチ台といわれるコンクリート塊。
橋脚と「綿打池」のほぼ対岸にある。


 「ウインチ」は、動力で歯車を回しながらワイヤロープ等で大きな物を上げ・おろし、運搬、引張り作業などに使用する「巻き揚げ機」のこと。池をはさんで重量物を運搬する演習にでも用いたのか。

平らで四角い塊も。

ボルト痕。

 「千葉公園」を後にして、次に向かいます。

 「千葉公園」付近。頭上にモノレールの橋脚がある道路から左に入った道がかつての鉄道線跡。


 ここから「競輪場」の脇を通って、現在の「千葉経済大学」「附属高校」までが路線跡。千葉公園~競輪場~千葉経済大学。
大正時代。○が「鉄道材料廠」、→が「綿打池」。

昭和40年代。↓「国鉄貨物線」となっている。

現在。上から「千葉経済大学」、「競輪場」、「千葉公園」。線路は道路となっている(「今昔マップ」より)。

「千葉けいりん」の脇を直線で進む道が線路跡。


モノレール「作草部(さくさべ)」駅付近。

 「千葉経済大学」キャンパスを回り込んだ一番北の駐車場横に。
「旧鉄道連隊材料廠煉瓦建築」
 明治41年、鉄道連隊材料廠の建物として建築されたもので、煉瓦造アーチ構造、木造トラスの小屋組みで、南北にそれぞれ幅2.7mの下屋を付設し、面積695.6㎡である。煉瓦構造の主要部分は、54.4m(約30間)×7.3m(約4間)と細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積みと呼ばれる技法を用いている。
 県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築であり、特に南北の両壁にみられる10連の雄大なアーチ構造はこの建物の特徴で、全国的にも他に例がない。我が国の初期の煉瓦建築の構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。(千葉県教育委員会・千葉市教育委員会設置説明板より)

 現在、建物周辺は「立ち入り禁止」区域になっていて、残念ながら近づくことはできません。現在も使用されているようすです。
南東の角(建物入口付近)。

この建物の前に残っている当時の線路。



              線路が何カ所か残っていました。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)貨物線は廃止されたが、まだ建物は残っている。中央上の白い屋根の建物が「材料廠」。

 軍用線路は「材料廠」からしばらく北上し、西に転じて「鉄道第二連隊」のあった習志野(JR「津田沼」付近)に通じていました。
・・・

→が旧線路。

掲載時期からすでに6年が経ちました。「千葉経済大」校内は、現在どうなっているのでしょうか? 興味あるところです。

 同じ頃に「千葉公園」中央にある大きな池(「綿打池」)にある「大賀蓮」を掲載。

 「大賀蓮(オオガハス)」は、1951年(昭和26年)、東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス「古代ハス」。
 検見川総合グランド一帯の発掘調査により、丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれた。
 ハスの権威者であった大賀一郎博士が発掘品の中のハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月3日から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行い、地下約6mの泥炭層からハスの実3粒のハスの実が発掘された。
 大賀博士は3粒のハスの実の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試み、そのうちの1粒が育ち、翌年、1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせ、「大賀ハス」と命名された。ハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定された。
 この「古代ハス」は、1954年(昭和29年)6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られる。日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。
 2012年になって、東京大学が、大賀ハスの生育されている施設などの売却を検討している事が判明、これに対し、千葉市民らが、大賀ハスが千葉市の市花となっており、シンボルキャラクターともなっていることなどを考慮し、存続を求めている。
(以上、「Wikipedia」参照)



ちょうど見頃という感じ。

平日、それも天候が不安定なせいか人の数は少ない。その代わり、じっくり見物できる。



中央にある大きな池(綿打池)の一部に「大賀蓮」池がある。

「千葉公園マップ」。

・・・
この公園も再訪したいところです。

さて、広くなった街道は、JR「東千葉」駅の跨線橋(「椿森陸橋」)を渡ります。


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「京成稲毛」駅~JR「蘇我」駅。その1。「明治天皇御野立所」。「仲よし公園」。「千葉都市モノレール」。・・・(「房総往還」をゆく。第2日目。)

2020-01-31 19:52:58 | 房総往還
                     「房総往還」2日目。「京成稲毛」駅から。1月25日(土)。晴れ。
少し上り坂。駅方向を振り返る。

 街道は海岸から離れ、千葉までは台地上を進みます。

1880年代のようす。


2010年代のようす。すっかり住宅街になっています。

 ただし、明治中ごろから旧街道(↓)はJR(旧国鉄)「稲毛」駅から先が次第に失われ、海岸線沿いに新たに「千葉街道」(→)が千葉以南の道路として成立します。
 内陸部は陸軍の軍用地として利用されたり、そのための鉄道が敷設されるるようになったためと思われます。
(「今昔マップ」より)

沿道には、古風で趣のあるおうちも。

しばらく行くと、交差点。その先の三叉路を左に進みます。

 JR線のガードの手前の空き地に、
明治天皇御野立所」碑。
 この地は明治15年(1882)5月、明治天皇が近衛師団(天皇を守る軍隊)対抗演習をご覧になるため、八街市丹尾台(たんのおだい)、千葉市緑区東山科町四谷ヶ原(よつやがはら)に行幸されたときに休息をとられた所です。・・・(以下、そのときの細かな旅程が掲載されています。)

 昭和10年(1935年)に国の史蹟に指定された当時の石碑が残っています。(戦後、史蹟の指定は、取り消されました。)この「御野立所」は八街などこの近辺だけでなく、全国にあるようです。
 説明板の下には大きな切り株が。かつては大木が生えていたようで、当時はうっそうとした森だったようです。

ガードをぬけると、結構賑やかな街並みになります。右手がJR「稲毛駅」東口。

↓が「房総往還」街道。

左手にけっこう広い「仲よし公園」。
                  注:「なかよし公園」とひらがな表記する記事もあり。

 ネーミングは何だかかわいらしいですが、ここは、小仲台5丁目の一帯(園生小、小中台中、県立千葉女子高、仲よし公園など)は、千葉陸軍高射学校の跡地。「仲よし公園」の隅に「開拓の町小仲台」の碑があります。

 その碑文によると、この周辺8万坪は終戦まで「陸軍防空学校」のち「陸軍高射学校」だった。戦後、千葉県に縁故のある引揚者、戦災者用を入居させる公営住宅を450戸を建設した。商店もない焼け野原の地区は治安も悪く、住民は明日の米代にも困っていた。そこで、住民達は自治会を結成、以来今日まで町造りに精魂を打ち込んできた、と。(昭和59年現在)

注:「陸軍防空学校」は1938年(昭和13年)に設立された。

 こうした「美しい町造り」という自治会運動が、現在の小中台町の発展の礎となっているようです。
 

「県立千葉女子高」。千葉県初の女学校「千葉県高等女学校」。

しばらく進み、「園生十字路」交差点を右折。振り返る。

大きなお屋敷。

商店がほとんど見当たらない穴川地区を進む。

しばらく行くと、頭上に「千葉都市モノレール2号線」が通る広い通りに出ます。「天台」駅付近。
 

 この路線は、「東金街道」歩きのときに「都賀」駅~「千城台」駅間で利用しました。

 千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と、千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。1988年3月28日に最初の区間である2号線スポーツセンター駅 - 千城台駅間が開業し、1999年3月24日に1号線を含めた全線が開通した。総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、2001年にギネス世界記録に認定されている。
                  
(この項、「Wikipedia」参照)

《路線図》
(「千葉市」公式HPより)

この付近の今昔。
        
        
1880年代のようす。○が合流点。            2010年代のようす。

戦前は、現在の「天台駅」一帯には、「歩兵学校」など軍関係の施設が多くあった。(「今昔マップ」より)
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名鉄線「旧美濃駅」。路面電車。野口五郎。うだつが上がる。美濃和紙。関の孫六。美濃焼。・・・

2020-01-29 18:41:49 | 鉄道遺跡
                      1月26日(日)晴れ。所用ではじめて岐阜県美濃市に出かけました。
 新幹線「岐阜羽島」駅まで迎えに来てもらいました。開業当時は周りには何もなかったこの駅もビジネスホテルなどができて、少しは賑やかな感じ。
 車で約1時間。高速道路ができ、名古屋に行くのにもけっこう便利になった、とのこと。
 美濃市は、日本の中心部または岐阜県の中心部に位置しています。夏の猛暑でも有名。2007年8月16日には最高気温40.0°Cを観測、2018年には7月18日(40.6°C)、8月3日(40.3°C)、8月6日(40.3°C)、8月8日(41.0°C)の計4回、40°C以上の最高気温を観測した。このうち8月8日に観測した41.0°Cは、岐阜県下呂市金山(2018年8月6日)、高知県四万十市江川崎(2013年8月12日)と並んで国内観測史上2番目に高い記録で、岐阜県内の観測史上最高気温でもあった。・・・

 この地はいろいろ見所があるところのようですが、ちょっと帰りの車で寄っただけでした(それも一か所)。

          
美濃町線 旧美濃駅
 名古屋鉄道美濃町線の前身は、地元有志の方々により誕生した美濃電気軌道株式会社が美濃並びに関と岐阜間の交流を図るため、明治44年(1911)2月に神田町駅から上有知間を開業しました。
 大正12年(1923)10月に美濃駅が当所に開設されて以来、地域住民をはじめ多くの方々の重要な交通機関として、地域相互の交流・発展に貢献してまいりました。
 しかし、日本経済が急速な発展を遂げるとともに車社会の進展により、平成11年(1999)4月1日には、美濃町線新関駅から美濃駅間が廃線となりました。
 ここに残る旧美濃駅は、美濃町駅から美濃駅間の廃線にあたり、先人が築き上げられた功績を称えるとともに、永く歴史にとどめるものであります。
                                                                美濃市
より詳しく。
登録有形文化財旧名鉄美濃町線美濃駅本屋・プラットホーム及び線路
指定年月日 平成17年2月9日
 旧名鉄美濃駅は、大正12年10月1日に現在地にて開設されたもので、平成11年4月1日の名鉄美濃町線新関-美濃間の廃止により、当時の駅舎、プラットホーム、線路が保存されているものです。
 名鉄美濃町線・岐阜市内線の前身である美濃電気軌道株式会社は明治42年資本金50万円、社長才賀藤吉(大阪電気商)、取締役松久永助・正木三郎四・須田清英(美濃町)他4名で設立されました。明治44年2月1日に神田町(岐阜柳ヶ瀬)-上有知間24.9㎞を開業し、開通当初は終点である上有知電車停留所は臨時につくられ、明治44年4月1日現駅舎から300m北側に初代駅舎が建設されました。また、上有知町から美濃町へと町名が改称されたため、駅名も美濃町電車停留所と改称しました。大正12年10月1日国鉄越美南線美濃町駅が開通し、また広岡町通りが開通するのに伴い、美濃電美濃町駅舎は現在の地点に移転して新たな駅舎が建設され、駅名も新美濃町駅と改称されました。
 保存されている駅舎・プラットホーム・線路(カーネギー製、1919年)はほぼ当時のままであり、大正期の近代建築の様相をそのまま残しています。美濃橋(重要文化財)とともに、大正期の貴重な近代化遺産です。
(この項、「」HPより)

 地元の方々の保存運動、維持などが熱心に取り組まれているようです。
駅舎内。右の電車は段ボール製。

使用車両のパネルが掲示されています。

改札窓口には何やら写真がいっぱい。
「野口五郎」の出身地だそうで、気がつくと、至る所に若い頃の写真などが所狭しと飾られています。

 「西城秀樹」「郷ひろみ」とともに、新御三家の一人として、男性アイドルとして一世を風靡しました。妻はタレントの三井ゆり。子供は一女一男。
芸名は北アルプスにある「野口五郎岳」に由来する。現在では歌手・野口五郎の知名度が高く、山の名前が歌手にちなんで付けられたと誤解している人もいるという。なお、黒部五郎岳にちなんだ「黒部五郎」も芸名の候補となっていた。野口五郎とどちらかを選ぶように言われ「山の名前を芸名にするなら高い山のほうがいい」と考えて、黒部五郎岳 (2840m) よりも高い野口五郎岳 (2924m) にちなんだ野口五郎を選んだという。当初は「水城哲也」という芸名でデビュー予定であった。(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに初代「御三家」は、「橋幸夫」「舟木一夫」「西郷輝彦」だったかな?

 すでに齢65歳を過ぎているようです。
 ちなみに、我が家の近所に「野口六郎」商店というのがありました。そこは、更地になり、マンション建設中です。

 旧ホームにはモ510形512号、モ600形601号、モ590形593号、モ870形876号(前の部分だけ)が保存車輌として展示されています。


                          

 
                          路面電車なのが魅力。地元密着の庶民の足という印象。

車内にも入れます。家族連れが運転席に。楽しく操作しています。

この先が旧線路跡で、道路となっています。

          

 また、うだつの上がる町並み」も観光地として有名なようです。

 ・・・「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。
美濃市は、江戸時代の商人の町で、この「うだつ」が多く残っています。
 ・・・
(「ぎふの旅ガイド」https://www.kankou-gifu.jp/ HPより)
ここは、車から横目で眺めただけでしたが。

 岐阜県美濃市は、美濃和紙を基幹として栄えた商人の町です。長良川左岸の小倉山城の築城にあわせて造られた城下町は、二筋の大通りを中核とした「うだつの上がる町並み」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、2014年(平成26年)11月には本美濃紙「日本の手漉き和紙技術」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。美濃和紙とうだつが上がるのどかな町並みを歩いてみませんか?
(「」HPより)

 そう、「美濃紙(和紙)」の町としても有名です。

和紙とは・・歴史が産み、育てた紙
・・・
 日本での紙の基礎を作ったのは、聖徳太子で朝鮮から製紙の方法が渡ってきました。これが日本における最古の記録ですが、それより100年も前に福井県の今立町では紙漉きが行われていたという説があります。現存する、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。
 明治時代、インクや印刷機、洋紙が流入し、生活様式の変化もあり、和紙は洋紙に実用品としての地位を徐々に奪われた形になりました。現在では、生産量は伝統工芸品として漉かれることがほとんどです。
 現在、優美な和紙は美術の分野などではもちろん、耐久性、強靱(きょうじん)性を生かし文化財の修復に使用されるほか、天然素材の地球環境に優しい製品として、日本国内のみならず、世界中から和紙への注目が高まっています。江戸時代以降に海外から入って来た、木材パルプを原料とした機械生産による紙を、和紙と区別して言います。ここでは、和紙と用紙との違いを、歴史背景も絡めて紹介します。
 「洋紙は100年、和紙は1000年」という言葉があります。文字通り、和紙と洋紙では紙の耐久性に大きな違いがあります。
木材パルプとインクを使用した洋紙は、多くの薬品を使いほとんどが酸性であるため、100年も経つと黄ばんでボロボロになってしまいます。
 しかし、和紙は天然の植物繊維を、漉くことによって繊維を絡ませることができるため、強靭で保存性に富んでいます。日本で漉かれた紙で最も古いものは、正倉院に保管されている、大宝2年(702年)の日付のある美濃、筑前、豊前で作られた戸籍に使われたもので、洋紙は、19世紀中ごろに作られた本の3分の1が、今では補修もできないほど劣化してしまっていたといいます。
 見た目の美しさも、大きな違いです。洋紙では白くするために薬品などを使います。和紙の中にも化学薬品を使っていて、時間がたつと黄ばむものがありますが、そうでない和紙は逆に時間とともに光線にあたって白くなる性質があります。和紙は長く大事に使うことによって、時間とともに味わいとすっと手になじむ触感が感じられます。手漉きのため一枚一枚いちまい違った持ち味の和紙は、天然素材で地球に優しく、美しい和紙は、世界からも注目されています。
加工しやすく、強靭であるという点でも違います。洋紙は、低コストで大量生産するために、木材の繊維をすり潰して粉末のようにして使います。
しかし、和紙は繊維をすり潰さず、漉すことでそのまま生かすため、繊維が持つ本来の強靭さを失わず、加工性に富んだものができます。
 和紙は加工用として、雨傘・提灯・行灯・下駄の泥よけ・着物・食器など、私たちの生活と密着な関係にありました。現代では、国内だけでなく世界中で、美術品や文化遺産の補修など、さまざまな用途で和紙が使われています。

「美濃和紙」1300年の歴史
 美濃和紙の紀元は、およそ1300年前、天平9年(737年)ころ。奈良時代の「正倉院文書」の戸籍用紙が美濃和紙であったことが記されています。
 和紙の生産に必要なものは、原料である楮、三椏、雁皮がとれること。そして良質の冷たい水が豊富にあることです。美濃は、その二つの条件を満たしており、しかも都にも近かったため、和紙生産地として栄えました。・・・
 民間でも広く美濃和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間(1468~1487年)以後でした。
美濃の守護職土岐氏は製紙を保護奨励し、紙市場を大矢田に開きました。紙市場は月に六回開かれたので、“六斉市”と呼ばれ賑わいました。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へも運ばれ、美濃の和紙は広く国内に知られることとなります。
 大矢田の紙市は、天文9年(1540年)年には上有知(美濃町)に移ってきました。当時戦乱が続いており、上有知(美濃町)より長良川を利用すれば一夜にして交易港である桑名の港に到着できるうえ、運送は便利で危険が少なく安全であったからです。
 そして、慶長5年(1600年)、徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城しました。慶長11年(1606年)ごろには、現在も残る町割が完成します。さらに、現在川湊灯台として知られる「上有知湊」を開きます。上有知湊は、船運による物資集散の拠点として、また、和紙を中心とした経済活動の拠点と成長していきます。
こうして、江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は幕府・尾張藩御用紙となっていきました。
 明治維新以後も、国内の需要の高まりや海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えました。
 しかし、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになっていきました。
・戦後には石油化学製品の進出が続きます。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、これらの打撃はとても大きいものでした。 昭和30年には1200戸あった生産者が、昭和60年には40戸に減ってしまいました。
・・・
「美濃和紙」は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般のことを指します。美濃和紙の中でも、重要無形文化財指定の決まった材料、決まった道具を使って認められた一部の職人が漉いた和紙のみ「本美濃紙」と呼ぶことが出来ます。上品な色合いと、薄くても布のように丈夫で陽の光に透かしたときの優雅な美しさから、本美濃紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきました。
 長い歴史の中で伝統の技を受け継ぎ、本美濃紙は昭和44年に国の重要文化財に指定されました。平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙和紙技術(石州半紙・本美濃紙・細川紙)が登録され、世界的に評価されました。
和紙の原料
楮(こうぞ) クワ科
 現在の主な産地は高知県、茨城県。かつては岐阜県美濃でたくさん取れました。繊維が太く長いため、強い紙が作れます。奉書紙、水墨画用紙、書道用紙などから、和紙人形、工芸品の紙にいたるまで幅広く使われます。
三椏(みつまた) ジンチョウゲ科
 主な産地は四国・中国地方の山地。繊維が短くやや強さをかきますが、表面が滑らかで光沢のある紙ができます。襖(ふすま)紙、印刷用紙などに用いられます。
雁皮(がんぴ) ジンチョウゲ科
 栽培が難しいため山野に自生しているものを使います。細かい繊維で、薄くて強い光沢のある紙ができます。また虫害に強いので保存が必要な紙などに使われます。
トロロアオイ アオイ科
 紙漉きに欠かせないネリ(粘液)として、トロロアオイの根が使われます。くだいた根を水につけると、ドロドロの透明の粘液がとれます。粘液を入れることで、原料が漉槽全体に浮遊するので、漉簀(すきす)の上に汲んだ原料をうまくからませることができます。これにより薄くても強い紙が作れるわけです。・・・
(この項、「」HPより)

 「美濃和紙あかりアート展」(「© 美濃和紙あかりアート展実行委員会」HPより)
 

帰りに、「関」という地名を目にしました。運転してくれた方に、「この関というのは《関の孫六》で有名な日本刀の・・・」「その通りです。」

 鎌倉時代の昔から孫六の息吹が現代によみがえる、日本刀鍛錬。まさに秘伝の妙技。

 関市に刀鍛冶が誕生したのは鎌倉時代。刀祖「元重」がこの関の地に移り住み、刀鍛冶を始めたといわれています。良質の焼刃土と炉に使う松炭、そして長良川と津保川の良質な水・・・刀鍛冶にとって理想的な風土条件を備えたこの土地にいつしか多くの刀匠が集まりました。室町時代には刀匠が300人を超え、「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれた関の刀は、その名を全国に広めていきました。戦国時代には、武将の間で愛用され、無類の切れ味を発揮したといわれています。
 特に「関伝」を有名にしたのは、「関の孫六」で知られる「二代目兼元」です。兼元(孫六)は、独特の鍛刀法(四方詰め)により頑丈な刀を作ることに成功しました。その後、関市は日本一の名刀の産地として繁栄し、この卓越した伝統技能が現代の刀匠や刃物産業に受け継がれています。そして、今や世界でも有数の刃物の産地として知られています。
(この項、「」HPより)

 「美濃焼」にも触れたいところですが、字数に関係で残念ながら省略。・・・

 岐阜の「高山」にはかつて何回か出かけたことがありましたが、岐阜県は印象の薄い県でした。「美濃」は初めて。まだまだ見所がありそうな、岐阜も奥行きの深いところのようです。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」でご当地は盛り上がっているようです。「美濃国」といえば、斎藤道三。それに仕えたとされるのが明智光秀が、主人公。一時期、女優交代劇で、話題になりましたが・・・。
 次回(2月2日)は「美濃」が舞台のようです。

 また、機会があったら、じっくりと歩いてみたい、と。案内してくれた方に感謝、感謝。
 冬の最中、穏やかな日差しのもとでの一日でした。暑い夏はちょっと遠慮したいですが。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その7。「東関道」。「稲毛海岸潮干狩り」(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-27 20:52:44 | 房総往還
            「東関東自動車道」の下を進みます。目の前が一気に開けてきます。

来た道を(↓)を振り返る。

 この付近の変貌ぶりは著しい。ちなみに航空写真を南にそのままつなげると、
      
       
      
      
      



2010年代のようす。ここで、やっと海面が。        1880年代のようす。すぐ海面に。○が「東関道」との交差付近。

「東京から31㎞」ポスト。

その先で、左の細い道に入ります。旧街道の道となります。

1880年代のようす。↓が旧道。 2010年代のようす。

こんな細い道が旧道? 

小さな川を渡って行くと、旧道らしい雰囲気の道に。

住宅地の中を進みます。

しばらく進むと、県道に突き当たります。そこを左折。

来た道を振り返る。静かな住宅街。

県道の左手は稲毛浅間神社の小高い杜。

      
        
1880年代のようす。神社は海に接した高台に。      2010年代のようす。小山は残っている。 

稲毛園」。お茶と海苔のお店。
 稲毛に根付いて80年ー。
 まちに変わらぬ情熱とこだわりを。
 稲毛園は、1935年(昭和10年)10月1日に初代がこの地に本店を構えて以来80年、ここ千葉・稲毛にてお茶、海苔、お茶菓子などの販売を行っております。
 遠浅の海岸が埋め立てられる前の稲毛は、古くからアサリや海苔の養殖が盛んな漁業の町として栄えた街であり、また夏になると都心からの海水浴や 潮干狩りの客で賑わうリゾート地でもありました。稲毛のまちには今でも歴史的建造物や、有名な方々の別荘だった建物が現存し、まちの所々にその歴史を垣間見ることができます。
 店主が3代目となった今でも、新たな試行錯誤と挑戦を繰り返しながら地域に寄り添い、皆様に親しまれるお茶屋としてご愛顧を頂いております。
  
HPより) 

「京成稲毛」駅。  

「稲毛」というと遠足や家族で潮干狩りで来たことがあります。

 昭和36年 千葉市の稲毛海岸で、潮干狩りに熱中する子供たち(1961年05月撮影) 【時事通信社】(HPより)
 

                   

来たのは、昭和30年代の前半だったと思いますが。

「稲毛海浜公園」。(「千葉市」公式HPより)
ここでの潮干狩りは禁止されています。
「稲毛海浜公園」。

京成線には「京成稲毛」駅の一つ先に「みどり台」駅があります。

 みどり台駅は、1923年(大正12年)2月22日「浜海岸駅」として開業しました。その後、帝大工学部前駅→工学部駅→黒砂駅となり、1971年(昭和46年)10月1日より、現在に至っております。千葉大学が近いことから、学生向けアパートも多く、周辺は学生街としての顔も持っています。駅名と共に発展したこの街が今後どう変遷するか期待感いっぱいです。(「京成電鉄」HPより)

ここも海岸とは遠く離れてしまっています。

かつての駅名「黒砂」の方がなじみ深い印象です。
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その6。元は漁師町? 間口二間半。(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-24 20:16:02 | 房総往還
                      街道らしい道筋に新旧の建物。
                           

街道沿いには、間口が狭く(二間半ほど)奥行きが長いおうち、敷地が目立ちます。

これまでの旧街道沿いや宿場町にはよく見かけるものです。京都市中にも、そうした典型的な建物が多くありますが。

手造り味噌工房「櫻井麹店」。

こちらは昔ながらのお店。

他の店先には井戸の跡? 

この建物は実に細長い! 
        
でも、家の間取りはどうなっているのでしょうか?
たとえばこんなようす? 
                   (HPより)

 車の通りも少なく、冬の日差しのもと、のんびりと。
  

昔の街道のままの道幅? 
               
こちらも車一台分の敷地。お隣も。しかし、奥行きが長い。

家並みを眺めながら進むと、広い通りに合流します。

そこに「階段下」というバス停。
                    左を見ると、「三峯神社」への階段がありました。

間口二間半くらいの建物が3棟並んで。

都内では間口も狭いし、奥行きもない家ばかり。それに比べればまだまし。

この建物も細長い! 

この付近の今昔。
1880年代のようす。すぐ左は東京湾。漁師町だったか。

2010年代のようす。←が旧道。

(「今昔マップ」より)
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京成線「大神宮下」駅~「京成稲毛」駅。その5。幕張海水浴場。青木昆陽。(「房総往還」をゆく。第1日目。)

2020-01-23 19:56:44 | 房総往還
                        小休止のあと、再開。このへんのおうちには立派な松が植えられています。

来た道を振り返る。落ち着いた家並み。

 街道は大きな道路にぶつかり、右手の信号機のところを渡って、向こう側に出ます。


                        (かつての)海側を望む。

街道に復帰して振り返る。↓が来た道。

 かつてはスーパーだった「八百石」さん、「志村薬局」さんなどの建物が昔を偲ばせます。


                
                   
                         

 すぐ車の行き来の激しい広い道に出ます。左手(北側)奥には「京成幕張」駅があります。この付近で海沿いの道になります。

この付近の今昔。
(「今昔マップ」より)
国鉄(JR)「幕張」駅。「馬加」という地名。      ↓が街道。○が横断地点付近。

ここで「幕張」の歴史を「Wikipedia」を参照して。
 「幕張」という名前自体の発祥は、定かではない。一説には、真桑瓜(まくわうり)の栽培に適しており、それがゆえんと言うが、「まくわうり」が栽培された記録は残っていない。近世までは馬加(まくはり:旧かな遣い)と表記し、まくわりと読んだ。
 千葉に多くみられる頼朝伝説のひとつとして、源頼朝が幕張の地にたちよった、馬を乗り換えた(馬を加えた)ので「馬加」になった、または、天幕を張ったので「幕張」になった、などという言い伝えもきかれる。
 12世紀後半、下総国千葉郡武石郷と呼ばれていた。領主は、千葉常胤の三男。武石三郎胤盛であった。その後、次第に開発が進められ、13世紀後半には、約1500軒を数えるまでの集落に発達したようである。・・・
 大正期に編纂された「千葉郡幕張町誌」(家鴨文庫所蔵)によれば、中世では須賀(または素加)すがと読ばれていた。子守神社の旧名も素加天王社といい、大須賀山、須賀原などの地名も見える。
 江戸時代には江戸町奉行の与力給地が置かれ、その関係で享保20年(1735年)に青木昆陽がサツマイモの試作を行った場所として有名である。このため、天明の大飢饉の際に餓死者は皆無だったようだ。弘化3年(1846年)に村人たちは彼の徳を敬い、昆陽神社を建設した。京成幕張駅の近くには昆陽神社や甘藷試作地記念碑がある。また、京成とJR線をくぐるトンネルは昆陽隧道と命名されている。また、江戸後期の大相撲で活躍した荒馬大五郎(宮城野馬五郎、二代目宮城野)の出身地であり、その墓が大須賀山にある。
 明治時代になると、千葉郡に編入され馬加、武石、長作、天戸の各村の役場を統一して、馬加に行政を統一した(明治11年)。そして同時期にJRおよび京成電鉄の幕張駅周辺は東京近郊の海水浴場として賑わった。そのため千葉市内にある駅としては幕張駅は千葉駅に続いて設置され、総武線の中でも古い駅の一つになっている。沖合いの埋め立てが始まるまでは幕張駅から数分のところ(国道14号辺り)に砂浜があり、その先に東京湾が広がっていた。そのため、昔は漁業も行われ、のり養殖なども盛んであった。また、首都圏の需要を支える野菜の産地としても栄え、特に砂丘部分の畑で収穫される幕張人参は味がよいことで高い評価を得ていた。
 この先の海浜部分の埋め立てが始まったのは1960年代中頃からである。全体が計画都市として設計され、団地や教育施設、公共施設などが計画的に配置された。また災害時の場合を考慮して道路が広く取られていることも特徴である。これとほぼ時を同じくして、人参畑やサツマイモ畑が広がっていた花見川区の総武線沿線でも風景が変わり始め、ベッドタウン化が始まった。埋立地では1970年代から住民の入居が始まったものの、予定されていた鉄道の開業が遅れ、1986年にようやく千葉港駅(現:千葉みなと駅)-西船橋駅間で京葉線が部分開通した。その後1989年には東京モーターショーが東京都中央区晴海から幕張メッセに移り、1993年には地域のランドマークとなるホテルも開業し、新都心への飛躍を果たした。
 一方、JR幕張駅周辺は1980年代ごろ、再開発計画がJR海浜幕張駅周辺の都市計画と同時に持ち上がり、幕張メッセへの総武線側の玄関としての構想が練られ、実際に一部自治体による土地買収も実施されたが、駅周辺や商店街の一部の商業者の賛同を得られず、計画は白紙撤回された。代わりに幕張本郷駅がその役目を担うことになった。

青木昆陽(あおき こんよう)》元禄11年5月12日(1698年6月19日) - 明和6年10月12日(1769年11月9日)
 江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。
 江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園(小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)と上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)とで試作させている。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。享保20年(1735年)『蕃薯考』(ばんしょこう)を発表した。
昆陽の薩摩芋試作が関東における普及の直接の理由なのかどうか、佐藤信淵の指摘に見られるように疑問視する説もある。だが、昆陽が同時代に既に薩摩芋を代名詞とする名声を得ていたことは事実である。後世“甘藷先生”と称され、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には「甘藷先生之墓」がある。また、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は芋神さまとして祀られている。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑が建てられている。
・・・
(以上「Wikipedia」参照)

幕張海岸潮干狩り 海水浴場入口」(「千葉県公式観光物産サイト」HPより)


1880年代のようす。遠浅の海が広がる。


2010年代のようす。旧道の道筋は市街地の中に。

しばらく進み、左側の道へ(「検見川神社」方向)。「花見川」に架かる「新花見川橋」を渡ります。


                    京成線の橋脚。

 「花見川」の上流は「佐倉街道」歩きのときに通過しています(「大和田機場」付近)。以下はそのときのブログ資料。

 

                 

(この図は「」HPより)

注:旧道に架かる橋名に「新」が付くのは? 下流の橋名は「幕張橋」。



              
 「検見川神社南側」交差点を右折。左手、京成線の向こうには「検見川神社」。街道筋らしい家並みが続く。


1880年代のようす。漁業だけでなく、砂丘ではニンジン、サツマイモなどの栽培が盛んだったようです。○が右折地点。


2010年代のようす。すっかり市街地化している。
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