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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

神川橋~平塚駅。その7。平塚宿。問屋場跡。江戸見附。お菊・番町皿屋敷・帯坂。(「中原街道」をゆく。第6日目番外編。)

2025-04-02 14:00:29 | 中原街道

旧東海道を平塚駅まで戻ります。

「平塚宿東問屋場跡」。

平塚宿は、東海道五三次の一つの宿場として慶長6年(1601)に成立しました。宿場は、旅人が休憩するための茶屋や宿泊するための旅籠(はたご)といった施設が整っているばかりでがなく、緒荷物の継立(つぎたて 人足や馬を取り替える)といったことも重要な役割でした。こうした人馬や御用旅宿の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいました。平塚宿では、問屋場が二カ所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。

※1 問屋場には、問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が10    余人以上勤務していた。

※2 東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていない。

「ひらしん 平塚文化芸術ホール」などがある広場。商店なども軒を連ねています。

※2014年(平成26年)、旧東海道歩きのときには、ありませんでした。

その隣には、

「ひらつか市民活動センター」。旧東海道沿いには、

「平塚宿の江戸見附」跡。

平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。本来、見附は城下に入る「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。・・・平塚宿の見附は二箇所」、江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の間が平塚宿内で・・・本陣、脇本陣、東西二箇所の問屋場、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して200軒を超える町並みが続きました。・・・一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。

※平塚の由来
 江戸時代の天保11年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)2月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなった、という。

そこから宿内(高麗山方向)を振り返る。

「紅谷町」。

この近くの「紅谷公園」にはお菊の墓があります。旧東海道歩きのときに訪れました。

「お菊塚」。「紅谷町公園」の一画にある。

説明板。

 番町皿屋敷・お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
 平塚市観光協会

お彼岸で香華が手向けてあった。

小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。

ついでに、

「市ヶ谷」駅から「靖国通り」に出て、右手。三菱UFJ銀行の脇を緩やかに上る坂が「帯坂」。

「帯坂」。

 この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市ケ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。

 怪談『番町皿屋敷』

 牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。
 承応2年(1653年)正月2日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。
 やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
 この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず、了誉上人は250年前の1420年(応永27年)に没した人物である。また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった、というようにまったくの史実ではないという。
 が、東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られ、東海道・平塚宿にもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。

 (以上、「Wikipedia」参照)

何だか話題が発展しすぎました。

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神川橋~平塚駅。その6。旧東海道・平塚宿へ。ほぼ失われている道筋。高麗山(こまやま)。(「中原街道」をゆく。第6日目。)

2025-04-01 20:30:30 | 中原街道

広い道に合流した後、さらに南に進みます。

          

※この道が旧東海道と合流する「中原街道」道ではなさそうですが。

公園の手前、三叉路。分岐点に道祖神。

                           左の道を進みます。

この付近の今昔。

                             (1870年代)

                             (現在)

赤い線は「国道1号線」現在の東海道。「中原御殿」付近から旧東海道への道は消滅している。

現東海道(国道1号線)に出ます。  

                     西方向を望む。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

(「日本橋まで65㌔」ポスト。

少し東方向に戻ります。

この道が旧中原街道?

旧東海道・「平塚」交差点。

西を望むと、独特の山容の山が。

          高麗山(こまやま)。

高麗山(こまやま)は神奈川県平塚市大磯町に跨る大磯丘陵の東端にあたり、標高168m。

広葉樹の自然林が残り、「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれている。一帯の県有林約29haは、高麗山県民の森に指定されている。歌川広重の『東海道五十三次』では平塚宿にその姿が描かれた。名称は高句麗中国東北部から朝鮮半島北部にわたる地域)からの渡来人に由来するといわれる。地元では高麗寺山(こうらいじさん、こうらじやま)とも呼ばれているように江戸時代まで高麗寺という寺が山中にあり、現在の高来神社高麗神社として寺内にあった。高麗寺は高句麗から渡来した高麗若光を祀った古い寺院と言われるが、室町時代には数度の戦火に見舞われ、廃寺寸前にまで追い込まれる。しかし江戸時代に徳川家が権現信仰のあるこの寺を上野寛永寺末寺とし東照宮を置いたことから隆盛を取り戻した。 しかし明治時代に入るとこのことが仇となり、徳川色を消し去りたい明治政府によってこの寺は廃寺とされ、廃仏毀釈で山内の堂塔は悉く破壊され高麗神社だけが残った。高麗神社は明治時代に高来神社(たかくじんじゃ)と改名し現在に至っている。高麗寺が健在の時は、山頂の大堂とその西側の西天照(現在の八俵山)東側の東天照三権現と呼ばれ、大堂、東天照の地名は今も山中に残る。なお、江戸時代には高麗寺領高麗寺村という独立した村となっていた。

高麗寺山から現在の高麗山になった。7世紀に滅亡した高句麗からの亡命者の一部がこの付近に定住し、寺院を建立してこの名をつけたと考えられている。このことは付近の古墳群から出土した装飾品や山の南側にもろこしが原(現在は唐ケ原、とうがはら)という地名が残っていることなどからも推測できる。唐ケ原は菅原孝標女(すがわら たかすえのむすめ)が更級日記に「もろこしが原に大和撫子(やまとなでしこ)しも咲きけむこそなど人々をかしがる」と書いた地とされる。この地に一旦は定住した大陸からの移住者は、その後現在の埼玉県にあった高麗郡に集められ移住していった。旧高麗郡埼玉県日高市高麗神社と高麗山聖天院(現在は真言宗)があり、どちらも高麗若光に縁がある。

虎女の伝説

虎女(とらじょ)とは富士の裾野の仇討ちで有名な曽我物語の中の虎御前のことである。曽我物語の語り部でもあった晩年の虎女は高麗寺の近くに住んだといわれている。

          高麗山が描かれている。※東海道歩きの時にもこの山容の印象深かったことを思い出します。

「平塚の郊外を流るる花水川に架せる花水橋の此方(こなた)より高麗山及び富士の遠景を眺めたる光景」と『東海道』(大正7年刊行,保永堂版『東海道五十三次』と当時の現状写真を対照した図書)にある。左側中景に小さく見えるのが花水橋である。写真で見る高麗山は,図のように左右非対称で(左側がゆるく右側がやや急な)こんもりと趣のある形ではなく,はるかにゆるくほぼ均一な弧を描いている。道も,図のように雁木状ではなくほぼ真っすぐである。もし,実景により近く描いているとしたら,はるかに平板な絵になっていたに違いない。
『浮世絵を読む5広重』(平成10年)
(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)

 通りの向こうに見える「高麗山」。ここまで眼前に山が登場しなかったせいか、視界が開けると同時に、独特の山容が目を引く。

    
  現在のようす。              大正時代のようす。(「知足美術館」HPより)


 今も昔も「東海道」から眺める山のようすは変わらない。

          この地が地図上では「平塚」となる。

この付近の今昔。

                                                           (1870年代)        (現在)

旧東海道・平塚宿との合流点。                お寺の二本東側の細い道が「旧中原街道」?

「中原街道」歩き。横浜市内でのアップダウンにくたびれたこと、平塚市内に入ってから中原御殿まで迷ったことなどけっこう時間がかかりましたが、虎ノ門から旧東海道との合流地点まで。ここで終了。

この先、旧東海道歩きの際にも歩いた「平塚宿」内を平塚駅まで。次回、番外編で紹介。

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神川橋~平塚駅。その5。「中原宿高札場」碑。「中原御殿」。善徳寺三門。(「中原街道」をゆく。第6日目。)

2025-03-30 18:25:14 | 中原街道

「平塚市マンホール・中原」。矢印は北方向を示す。

            足元の表示で東西南北が知れる。

「中原宿高札場跡」。

中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向かう大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。高札場とは幕府などから出された禁令を機の札に書き掲示した場所のことです。「中原御宮記」を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられている部分には屋根がついていました。

ようやく「中原小学校」へ到着します。

                  

        

相州中原御殿之碑

この地は慶長年間江戸に幕府を開いた徳川家康公が旅のやどりとして造営した中原御殿の跡である。御殿はまたの名を雲雀野御殿ともいい、家康公が鷹狩りや江戸と駿府往来の途次に宿泊した。文献によると文禄元年、肥前国名護屋陣に赴く際中原に止宿したのをはじめとし係わりには深いものがある。中原は御殿の勝地にとどまらずこの地に与えた影響は大きい。江戸時代初期の大住郡の行政、中原御林、中原街道など皆この地より発したという。・・・

中原御殿」解説文。

・・・御殿が造られたのは、慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説があります。寛永19年(1642)に修復されますが、明暦3年(1657)には引き払われました。その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。

明暦3年(1657)江戸の大火(明暦大火)の後、御殿は引き払われたといわれています。ここから約500㍍南西にある善徳寺の山門は、御殿の裏門を移築したものだとも伝えていますが、はっっきりしません。大正2年(1913)の測量図によると、御殿は東西百間弱(約180㍍)、南北75間(約135㍍)の不整長方形(なお、江戸時代の記録には京間で東西78間、南北56間とあります)で、土堤は高さ3尺(約90㌢)、堀は、幅6間、深さ1丈8尺を測り、要所は石垣が積まれていたといわれ、堀を埋めるとき、たくさんの屋根瓦が出土したといいます。・・・

                             (1870年代)

  御殿地と囲ってある場所が現在の中原小。町はずれに当たる。周囲には畑が広がっている。

                             (現在)

地名が、かつての「中原下村」から「御殿」に変わっている。

「善徳寺」。

遠くに大山。

「三門」。

・・・この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移建したものであると昔からいい伝えられているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。

ここから、旧東海道まで歩いてみようと思います。

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神川橋~平塚駅。その4。「三菱ケミカル」・「第一三共プロファーマ」。「中原中宿」。「中原上宿遺跡」碑。(「中原街道」をゆく。第6日目。)

2025-03-27 18:39:04 | 中原街道

旧道もほんの少し。県道に合流します。

長い塀が続くお屋敷。

「大野農協前」バス停。

その先を右に曲がります。(この先、ジグザクに南西に進みます。)

大きな建物に沿って右に回ります。「日本ムーグ株式会社」。

右奥に「三菱ケミカル 関東事業所 」。

「東中原」。

市章入り。相模湾の波をイメージしたデザインの左右に 関東三大七夕祭りの一つ湘南ひらつか七夕祭りのシンボルマークを配し、下 には蓋の設置場所名や「SR」「70」「MS」年度等を表す文字と、上には蓋の北方向を示す↑があります。 全ての町ごとに、町名が記入されている。

「第一三共プロファーマ(株)平塚工場 」。

大きな「西友平塚店」。

左が三共、右手は住宅地。

敷地の西側。

敷地内は空き地が目立ちます。工事中の車両もちらほら。

平塚工場は敷地面積266,000m2を有し、1966年(昭和41年)消化酵素タカヂアスターゼの原薬製造工場として操業を開始しました。その後、他工場からの品目移管や新製品立ち上げにより成長を続け、第一三共グループの主力となる製剤工場に発展しています。

                             (1970年代)まだ工場ができていませんでした。

「中原中宿」バス停。ベンチで小休憩します。

※平塚駅を発着点にし、市内にバス路線網が広がっています。「神奈中(神奈川中央交通)」のバスをいたるところで見かけます。

この角を右に折れて進みます。  

畑地と大きなおうち。

広い通りに出ます。右手に「遺跡公園前」バス停。

「中原上宿遺跡」碑。

平野の中でも砂州・砂丘(以下砂丘)に立地した中原上宿遺跡群は、平塚伊勢原新県道新設道路工事に伴う調査で、昭和53年8月から翌年の6月までに実施された上宿遺跡・厚木道遺跡・山王脇遺跡の総称です。ほぼ南北に走る道路は東西に延びる砂丘列を縦断しており、砂丘の生成時期を知る上で貴重な調査でした。長さ約800m、調査面積8,000m2の成果は平塚市の考古学史に残るだけの内容の濃い遺跡です。現在、調査を記念して「遺跡道路公園」として残されています。
 ここでは、多くの成果の中から弥生時代にスッポトをあてることにします。発見された集落は弥生時代後期の後半(3世紀頃後半)のムラで、古墳時代直前に位置付けされます。20数年前の考古学の状況では、砂丘から弥生時代の集落が発見されることは想像していいませんでした。それだけ砂丘の実態が把握されていなかったからです。現実に弥生集落が発見されたことにより、砂丘での農耕が弥生後期に始まったことが立証されました。その後の調査では、弥生中期の集落が発見され、確実に砂丘での生活が遡っています。今後の最大の課題は、縄文時代の集落が発見です。というのは、中原上宿遺跡以来、砂丘からの縄文土器が発見されていますので、その可能性が十分にあるからです。
 農耕を基盤とした弥生人は着実に耕地を砂丘に拡大しつづけ、来るべき真土大塚古墳を生み出す土壌を創り上げていきました。

インパクトのある珈琲店「高倉町珈琲」。※郊外を中心に展開しているお店。

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神川橋~平塚駅。その3。「真土城」跡・真土神社参道。「古道 中原街道」碑。「真土大塚山神獣鏡」碑。(「中原街道」をゆく。第6日目。)

2025-03-26 20:53:51 | 中原街道

前回迷って途中で諦めた地点から再開。3月22日。快晴。汗ばむほど。

この先、住宅地の中をウロウロしてしまいます。

西に向かって歩いていて、ふと見上げると、北の高台に神社が。

「大真土西の道祖神」。

見上げるような城壁のつくり。「真土城」跡。何とかたどり着けました。

真土城は杉浦屋敷とも呼ばれ、北条氏の家臣である杉浦藤左衛門によって築かれた城です。杉浦氏は1590年(天正18年)の「小田原の役」で徳川氏と戦い、この地で討死すると、そのまま廃城になったと思われます。城址は現在の真土神社のある高台であると考えられていますが、残念ながら遺構は残っていません。

(この項「」HPより)

「真土神社」があります。

真土神社参道。西を振り返ると、

参道脇に「古道 中原街道」の碑があります。

解説板。

古道中原街道

古来より真土を斜めに横断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り、真土・川田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州に至る古道であった。家康は、関東移封のときや、その後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど、好んでこの道を用いた。その後、江戸が政治の中心となるにしたがい、東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ、脇街道となっていった。しかし、この道は起伏が少なく江戸への短距離であったため、急ぎ旅の者や物産輸送におおいに利用された。いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最もよく昔の面影を残しているのは、真土地区であるといわれている。この道で展開されたロマンや役割を大切につたえていきたいものである。

その側には、「真土大塚山神獣鏡の碑」。

大塚山古墳から見つかった鏡のレプリカがはめ込まれています。

真土神社の北西四百mにあった真土大塚山にはかつて古墳時代前期の古墳があり昭和十年ここから神獣鏡が出土した。経二十二・一cm青銅製の三角縁四神二獣鏡である鏡の縁の断面が三角で東王父西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており周囲に「陳是作鏡甚大好上有王父母左有倉龍右白虎宜遠道相保」の文字が刻まれた銘帯がある同笵鏡が京都や岡山などから四面出土しており真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な資料である 私たち真土地域はここに碑を建立しこの郷土の宝を未来に伝える

「神宿る里 氏子中」。

道が二手に分かれています。

               たしかに古道らしい雰囲気が伝わります。

振り返る。

左手の道を進むことにします。

         

残すは「中原御殿」跡。

しかし、ここからも、けっこうわかりにくい道筋に。ほとんど消滅してしまった古道です。

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神川橋~平塚駅。その2。一里塚。平塚大空襲。「中原街道」碑。(「中原街道」をゆく。第6日目。)

2025-03-19 18:40:59 | 中原街道

前方に三叉路。 

                    右の細い道が旧道のようです。

「ゑの木處一里塚 南 中原道 北 奥州道」跡。

すぐに国道に合流します。

この先、旧道は不明な点、多し。

実は、平塚市。昭和20年7月16日〜17日の未明にかけ、アメリカ軍B29爆撃機132機による大規模な攻撃を受けます。これが「平塚大空襲」です。この空襲により、平塚市の60%近くが破壊され、362名以上の尊い人命が奪われました。また、空襲による被害は、軍需工場より市街地に多く、罹災戸数7,678戸、罹災者数35,336人を数えました(神奈川県警察調べ)。

 

 

平塚市は、軍需工場が多く存在していました。

         現在の「藤沢市総合公園」付近。

                             (現在)上方に「藤沢市総合公園」。

                             (1970年代)工場が跡地のまま残っている。

国道から右にそれて歩きます。

                   「四之宮西町」。

しばらく歩くと、民家のところに、「中原街道」碑。さらに、

        

慶安三年(1650)村民の金左衛門が自ら醸造した酢を幕府や親藩に献上した。後に水戸宰相光圀の銘で代官端山源左衛門祐重宛に礼状を頂く旨の碑が真土史跡研究会により令和元年に建てられている。

       この付近の街並み。中央の道を進む。

突き当りの角に、「庚申塔」。

この通りを右に進めばよかったのですが、・・・

この先、左に進んでしまい、国道に。1時間ほど、うろうろした挙句、結局、JR平塚駅前に出てしまいしました。

結局、ここまで。再度チャレンジすることにしました。

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神川橋~平塚駅。その1。神川橋。相模川。田村の渡し場跡。旧田村十字路。駒返橋。(「中原街道」をゆく。第6日目。)

2025-03-17 21:00:40 | 中原街道

「神川橋」。対岸は寒川町。

                   相模川。

相模川は、その源を富士山(標高3,776m)に発し、山梨県内では「桂川」と呼ばれ、山中湖から笹子川、葛野川などの支川を合わせ、山梨県の東部を東に流れて神奈川県に入り、「相模川」と名を変え、相模ダム、城山ダムを経て流路を南に転じ、神奈川県中央部を流下し、中津川などの支川を合わせて相模湾に注ぐ、幹川流路延長113km、流域面積1,680km2 の一級河川です。
 流域の土地利用は、山地等が約73%、水田や畑地等の農地が約7%、河川・湖畔が約3%宅地等の市街地が約12%となっており、下流部の厚木市等の市街化された地域に人口が集中しています。
 富士箱根伊豆国立公園および丹沢大山国定公園と2つの県立自然公園に指定されている等、豊かな自然環境に恵まれています。また、相模川の水は、上流部は主に発電用水等として利用され、中下流部では農業用水、水道用水等として利用されており、現在では神奈川県の給水人口の約6割に水道水を供給するなど、生活を支える重要な川です。

※上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)と呼ばれている。

「甲州街道」歩きの際に桂川に架かる「猿橋」に立ち寄りました。




橋の下(眼下30㍍)は「桂川」。なかなかの渓谷美。

猿橋や 月松にあり 水にあり 芭蕉

甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋  野口雨情

・・・

河口から上流を望む。

左手の土手に、「田村の渡し場跡」碑。

「解説板」。

田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。
渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。
渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。
また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。

阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ ここの渡しに 中村清四郎

※阿夫利嶺:神奈川県の大山(おおやま)を指す。

下流方向を望む。

「旧田村十字路」。 

                                 「十王堂跡碑」。

解説板。

江戸時代にはかつてこの田村十字路に十王堂が建てられていた。伝承によると、天文六年小田原の北条氏が河越の上杉氏を攻撃する際、相模川で合戦があり、多くの戦死者を出した。この戦死者を妙楽寺の住職が集めて、篤く弔い後生のため十王堂一宇を建てたといわれる。

「旧中原街道」。    

平塚市のマンホール。

中央に市章。相模湾の波をイメージしたデザインの左右に 関東三大七夕祭りの一つ湘南ひらつか七夕祭りのシンボルマークを配し、下 には蓋の設置場所名「田村」や「SR」「70」「MS」年度等を表す文字と、上には蓋の北方向を示す↑があります。 全ての町ごとに、町名が記入されているようです。

「駒返し橋」バス停。

  「田村こまがへ橋跡」碑。

                                                       もう1基の石碑には「庚申供羪塔」

「説明板」。

ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発生したものと思われる。
古歌に

ふるさとを たちいでる幾月ぞ 夕月あおぐ 駒返の橋

天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康の最も好んだ狩場となった。

たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労を思んばかって、ここから馬を返したという伝説がある。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その5。長屋門。旧道。日産工機。「中原街道」解説板。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-03-06 22:04:07 | 中原街道

「大蔵」バス停。

この先、左手に大きなお屋敷。立派な長屋門。

来た道を振り返る。

二叉になっていて、右の細い道・旧道を進みます。

分岐点の今昔。(現在)(1880年代)

                            旧中原街道は、直線で続いている。

高座郡・寒川町のマンホール。

町の花「水仙」をデザイン。下部に「さむかわ」「おすい」の文字。

すぐ「日産工機」工場の敷地にぶつかります。

         

工場のフェンス沿いに進み、左折します。

「寒川小学校前」交差点。

二叉になっている、右手を進みます。

           

坂道を下っていくと、墓地の脇に、

「中原街道」解説板。

江戸虎ノ門(東京都港区)を起点に中原(平塚市)に至る脇街道で、寒川町内では大蔵・小谷・岡田・一之宮を通り、田村の渡しで相模川を越えました。
古代・中世にもこのルートを通る道があったとされますが、江戸時代初期に徳川家康が鷹狩りの拠点である中原御殿や、駿府静岡市)への往復に頻繁に通行するようになり、中原街道として整備されました。江戸時代中期以降は物資輸送にも広く利用され、中でも中原近在で生産した「成瀬酢」を江戸へ運ぶのに使われたため「お酢街道」の別称もありました。
町内では、ここ宮山の根岸地区や、小谷などに江戸時代の街道の名残をみることができます。

平成三十年三月 寒川町教育委員会

振り返る。

坂道を下って行きます。

※マンホールは、中央に町章、その下に「汚水」の文字入り亀甲模様。

この付近の今昔。

(現在)この先、旧道は消滅?  (1880年代)  

                                           細い直線の道。

※今回歩いた道は、墓地脇に「中原街道」の案内板があった道でした。

いつも参考にしている「歴史的農業環境閲覧システム」1880年代では、現在の中原街道がすでに本道として確立しています。

今回歩いた旧道は細い道ですが、直線で続いています。当初の街道の道筋であるようです。

しかし、この先、相模川・田村の渡しへの道は定かではなくなっています。※相模川の流路変遷が複雑。

JR相模線の踏切へ。左へ折れると「寒川駅」に。

しかし、駅に向かう前に、右に折れていきます。実は、廃線跡があります。次回、番外編で紹介。そして、意外な展開に。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その4。ジムニー歴史館。新幹線のガード。用田辻。植木屋さん。「N cafe」。はまぐり最中・・・。寒川町へ。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-03-02 20:02:58 | 中原街道

新幹線のガードに向かいます。

                    前方、右手の建物は、「ジムニー歴史館」。

スズキの小型四輪駆動車「ジムニー」にほれ込み、ジムニーを約30台展示する博物館を建てた男性が神奈川県藤沢市にいる。同市用田の県道45号沿いにある、真っ白い壁面が特徴の「ジムニー歴史館」。館長の尾上茂さん(75)は、ジムニーで海外でのラリーに出場したこともあるジムニー・マニアで、「歴代ジムニーを集めた施設を作り、多くの人にジムニーの魅力を知ってほしい」と、2018年8月にオープンした。車好きの記者が、現地を訪ねてみた。

館内には、初代から3代目の軽自動車のジムニーを中心に、約30台を展示。ジムニーの海外仕様「Samurai(サムライ)」や、オーストラリアから取り寄せ、修復した「ジムニー・トラック」などの希少車、雑誌の企画でジムニーをフォードの四輪駆動車・ブロンコ風に改造した「ブロンコ号」、ボンネットから丸いライトが目のように飛び出たボディーキットをまとった「SANTA MONICA(サンタ・モニカ)」などの変わり種もあり、来場者を飽きさせない。・・・

尾上さんの「大好きなジムニーの展示施設を作りたい」という夢は、自宅近くに広さが適当な土地が売りに出たことから具体化し、2階建ての建物を新築。車両を2階に上げることができるリフトを備え、外装、内装、エンジンなどをピカピカに整備した歴代のジムニーを集めた。「相当な金額がかかったのでは」と質問を向けると、「まあ、いっぱいお金は使いましたね」とほほえんだ。車の前で説明する時より、ジムニーの運転席に座り、ハンドルを握りながら話すと冗舌で、笑顔になる尾上さんの姿に「ジムニーを本当に愛しているんだな」と感じた。・・・

歴史館のスタッフとしても尾上さんを支える妻、ちづ子さん(72)は「自分の好きなことにとことんこだわるのは素晴らしいこと。私自身、ジムニーは3台乗り継ぎましたし、海外ラリー参戦の背中を押したのも私です」と語り、茂さんと一緒に、大きな夢をかなえたという達成感に満ちあふれていた。

(この項「讀賣新聞オンライン・デジタル編集部 長野浩一」より)

ジムニー。

新幹線のガードが前方に。

藤沢市のマンホール。

            中央に藤沢市の市章、その周りに市の花フジをデザイン。

       

「用田辻」バス停。

用田の名は、相模国一ノ宮である寒川神社の「御用田」があったことに由来するといわれ、戦国時代初期にはその名が定着していたようである。用田辻付近は、大山街道・中原街道・厚木街道と合流するところであり、旅籠や茶屋で賑わっていたようである。中原街道に宿場に当たる継立場が置かれていた。

この付近の今昔。

(現在)  (1880年代)東西の道は大山街道。

「中原街道」。

ここに「山田うどん食堂」のお店がありました。北関東ではよく見かけますが。

「中原」バス停。

         この道が古くから続く中原街道の証?

奥に畑が広がります。

「植木商 湘南園」。

 街道の沿道には植木を扱うお店がいくつか。

太い材木を輪切りにした塀。

                        なかなかお目にかかれません。

こちらは、

             「N cafe(植木屋あいはら敷地内)」。

藤沢市にある植木屋「あいはら」は、もともとは植木屋さんでしたが、植木に親しんでもらおうと敷地内を庭園にリノベーション。園内には遊歩道やベンチなどもあり、ゆっくり植木を眺めることが出来ます。

240225

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植木屋あいはらの庭園内にあるカフェ。
メニューは基本的にグルテンフリーで、からだに優しいものを提供しています。

◇植木屋あいはら& N cafe
 住所:藤沢市宮原 1403

◇N cafe
 TEL:080-7944-0302
 営業時間:10:30~17:00
 定休日:不定休

(この項「」HPより)

「はまぐり最中 ゑびすや」。

○はまぐり最中○
創業当時から変わらぬ味のはまぐり最中。はまぐりの貝殻は対になっているものでなければぴったりと合わないことから「夫婦円満」や「良縁」の縁起物とされています。ギフトや手土産に是非。

1895年創業以来110年以上にわたって和菓子店を営み、現在4代目となる店主。地域の皆さまに愛されながら、老舗ならではの伝統的な本物の和菓子を作り続けています。JAさがみ・わいわい市等でもお団子やどら焼き、お饅頭を販売しております!

(「」HPより)

満開の梅。

「菊野屋」。

✿湘南クーヘン✿
材料にこだわった“湘南クーヘン”
地元藤沢の厳選たまごと国産バターのみを使用してお作りしております。卵白別立てで、昔ながらの製法を守り、口どけの良さと食感を大切にしています。

大正10年創業。和菓子と洋菓子のどちらも数多く販売する店内では、ご年配の方からお孫さんのお土産まで、一度にそろえることが可能です。豆から製餡する自家製の餡は、地域のみなさまに大変好評です!是非お立ち寄りください。

藤沢市から「寒川町」に入ります。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その3。大法寺・ピラミッド。高座豚・大久保商店。女坂。綾瀬市から藤沢市へ。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-03-01 09:30:40 | 中原街道

「大法寺」。

深谷交差点に出現したピラミッド。

日蓮宗大法寺が建立した永代供養塔。内部に納骨室と礼拝空間がある。手前、小型のピラミッドはペット用の納骨塔。

「大法寺」バス停。

「比留川(ひるかわ)」。

「早川」交差点。

「高座豚発祥の地」。

高座豚(こうざぶた)は神奈川県旧高座郡で明治時代から飼育されてきましたが、一度は「成長が遅い」「飼育が難しい」などの理由で絶滅の危機に陥りました。
そんな中旧高座郡の生産者と手を取って復活させ、昭和56年から高座豚の生産・販売を開始し、昭和59年には高座豚の商標登録を取得しました。
現在は旧高座郡地域の他に、秦野市、横浜市、平塚市でも高座豚は生産されています。
一般的な豚肉に比べ肉質がきめ細かく柔らかで良質な脂質を含み、その味の良さから「かながわの名産100選」に選ばれています。

大久保商店「豚のみそ漬け」。

「綾瀬浄水場」。右奥に大きく広がります。

                        配水塔。

「佐川急便研修センター」。

道路の反対側に研修用の施設があります。

      「神奈川県内広域水道企業団・綾瀬浄水場入口」。

相模川から取水された水は、綾瀬市にある綾瀬浄水場に送られ、ここで浄水された水道水は、神奈川県営水道、横浜市営水道及び横須賀市営水道に供給されます。綾瀬浄水場は、酒匂川から取水された水を浄水することもできます

             

綾瀬市のマンホール。

        市の木「やまもみじ」をデザイン。

綾瀬市から藤沢市へ。手前のマンホール。

            綾瀬市の花「バラ」をデザイン。バラの花びらの中心に「あ」の文字。

来た道を振り返る。綾瀬市方向。

「女坂(めざか)」バス停。

                      峠になっています。標高28㍍。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その2。厚木基地。「大和ゆとりの森公園」。春日新道・本寥川。廻り坂。道標。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-02-26 19:11:52 | 中原街道

横田基地。広大な敷地。

                     遠くに富士山。

左から来る「現中原街道」と合流します。現在の中原街道は厚木基地を大きく迂回しています。

           左手に「大和ゆとりの森公園」。

南北に長い敷地の公園となっており、ところどころに人気エリアが存在しています。

  1. 仲良しプラザ・売店
  2. わんぱく広場
  3. ふわふわドーム
  4. 健康器具
  5. 多目的リンク
  6. 芝生グランド
  7. テニスコート
  8. 中規模多目的スポーツ広場
  9. 大規模多目的スポーツ広場
  10. ゆとりの森スポーツハウス
  11. バーベキュー広場

右奥に数機の航空機。

歩道沿いに進みます。

             右手が基地、左手が公園。正面には丹沢、富士山。

公園側にある「誘導灯」(滑走路の延長上)。

                 

        

「綾瀬大橋入口」交差点。

左折して進みます(旧道に復帰)。基地内を進んだ旧街道はここからかつての道筋に。

「中原街道(春日新道)」。

「本寥川(ほんたてかわ)」バス停。

寥川。

緩いアップダウンが続きます。

「綾瀬市浄水管理センター」。

     大和市と綾瀬市との市境。

「廻り坂」バス停。

直線の道が続きます。

庚申塔など。

「西 厚木 ? 江戸 道」。

「鶴ヶ岡」バス停。

旧家らしい大きなお屋敷。

梅が満開に。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その1。引地川。「厚木基地」。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-02-25 21:02:10 | 中原街道

今回からは、小田急江ノ島線・桜ケ丘駅からJR相模線・寒川駅まで。

2月23日(日)。晴れ。

駅前案内図。上は南方向。

       ※駅構内の案内図は、えてして上が北ではない場合が多い。下車した客の目線に合わせたものか?

「中原街道」に復帰。右に進みます。

踏切を越えた左手に、

解説板。「桜株十一面観世音菩薩の由来」。

此の尊像は昭和11年10月23日瀬谷村の秋の祭りと大和村小学校の運動会の見学の帰りに当時、もの珍しいオート三輪車にて、13名の者が同乗して、小田急桜株一号踏切にさしかかる折から驀進して来たりし江ノ島行きの電車に接触し大音響とともに三輪車もろとも11名即死、2名が重症という大惨事をまきおこし、これを契機に部落の先輩諸志が、交通事故防止を呼びかけ、設立運動をおこし翌昭和12年有志の善意が高まり、浄財のご喜捨により、当時綾瀬村報恩寺の住職の御懇篤なるご教導を仰いで、11名の尊きご魂のご冥福をを祈るために十一面観音菩薩が踏切わきのこの地に安置され、そして二度とこのような事故をおこさぬよう、永遠に交通安全を願い菩薩のご加護を祈願し慈に尊像を設立致しました。桜ヶ丘自治会

※「桜株」は「桜ヶ丘」の旧地名。

 「新道下大橋」。

「引地川」。

読み方・振り仮名は行政上は「ひきじがわ」で統一されたが、「ひきちがわ」「ひきぢがわ」などもある。河口はシラスウナギの捕獲で有名である。

河川名の由来には諸説があるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って河道を付け替えたことによるという説が有力である。かつては場所により長後川、大庭川、清水川、堀川などの名称で呼ばれていた。

湘南砂丘地帯に出てからは、かつては自由蛇行を繰り返し、大水の度に河道がつけ変わっていた。昭和初期に神奈川県の手で河川改修が行われ、現在の河道に固定された。相模湾東部の沿岸流は東流するため、河口は東に移動しがちで、江戸時代の絵図には境川下流部に合流するものも見られる。(「Wikipedia」より)

現中原街道は、大きく左に曲がる。

が、旧道は右に進んでいきます。

右手に厚木基地のフェンスが続きます。

厚木海軍飛行場。

神奈川県綾瀬市大和市にまたがる軍用飛行場で、アメリカ海軍海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設である。航空管制は海上自衛隊が行なっている。

アメリカ海軍は空母ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)艦載機の第5空母航空団(CVW-5)の本拠地として使用しており、海上自衛隊は第4航空群、実験航空部隊の第51航空隊、輸送航空部隊の第61航空隊の航空基地として使用している。

通称は厚木基地厚木飛行場。海上自衛隊の基地としては厚木航空基地、在日米軍施設としては厚木海軍飛行場と呼ばれる。米軍内における名称はNaval Air Facility Atsugi米海軍厚木航空施設)である。

1945年(昭和20年)8月30日ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。

総面積約506.9 haのうち、約395 ha(全体の約78 %)が綾瀬市で、残りが大和市である。

(「」より)

※厚木基地は綾瀬市と大和市にまたがって所在しており、厚木市にはない。なぜ厚木基地という名称なのか、由来については諸説あるが、いずれも確証がない。

上記の写真でも分かるように、市街地に囲まれている。騒音訴訟が5次にわたって行われ、さくねん11月20日に第5次訴訟の地裁判決が出ました。

・・・

 「とんでもない不当判決だ」。第5次厚木基地騒音訴訟で、横浜地裁は20日、過去分の騒音被害に対する損害賠償のみを認めた。閉廷後、弁護士らが「差し止め認めず」などと書かれた紙を掲げると、地裁前で待ち構えていた原告団からは怒号が上がった。

自衛隊機差し止め認めず 過去被害に59億円賠償命令―第5次厚木基地騒音訴訟・横浜地裁

 午後2時半からの判決言い渡しは、裁判長が主文を読み上げただけで閉廷。傍聴していた原告らも裁判所前で合流し、約100人が怒りや不満をあらわにした。

 原告団副団長の高久保さん(80)は、「第4次訴訟の地裁判決では飛行差し止めを認めたのに、今回は認めず怒りを感じている。裁判所は爆音被害者のことをまったく考えていない」と憤った。

 原告団はその後、横浜市内で報告集会を開催。福田護弁護団長は「(第4次訴訟の)最高裁判決をただ引用するだけで、(われわれの主張に)耳を傾けようとする姿勢がない判決だった」と批判した。一方、認められた賠償額については「基準額は過去最高の水準だった」と評価した。

 原告団長で神奈川県大和市議の大波修二さん(78)が「控訴したい」と宣言すると、会場からは拍手が湧き起こった。

(「時事ドットコムニュース」HPより)

フェンス沿いの直線道路を進む。 

日曜日のせいか、飛行機の騒音は聞こえなかった。

※本来の旧道は基地内にあったか?

この付近の今昔。

                             (現在)黄色の線が現中原街道。

                             (1880年代)現基地内を直線で進んでいた。

       左手には「富士山」。

振り返る。

「代官3丁目」バス停。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その3。「境川」・新道大橋。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-17 18:35:13 | 中原街道

丹沢の向こうに富士山。

「宗川(そうせん)寺」。

宗川寺は寛永2年(1625)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川。
山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。
「宗川寺」バス停。

中原街道瀬谷問屋場跡
中原街道瀬谷問屋場は天正6年(1578年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果した。(これより東方80米、桧林がその跡である。)(瀬谷区役所掲示より)

「境川」に架かる「新道大橋(しんみちおおはし)」が見えてきます。

上流方向。

下流方向。

「新道大橋」。

※「山山家」は地元では評判のいい居酒屋さんのようです。インパクトがあるネーミングと外装。

欄干の照明灯が洋風。

振り返る。「横浜市瀬谷区」。

「境川」は、源流から河口(江ノ島)まで歩いたことがあります。

※源流から町田市先までは「都県境」(東京都と神奈川県の境)。中流から、神奈川県内を流れる。

境川は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ、流域面積約211平方キロメートル、延長約52キロメートルの二級河川です。

片瀬橋から河口を望む。江ノ島を望む。

その時の写真(右岸沿いから見た「新道大橋」)。

                      

「大和市」へ。

上り坂が目の前に。この付近から、道路の拡幅工事が大がかりに行われています。

来た道を振り返る。

                   けっこう上ってきたようです。

自転車が必死に。下りも大変そう。

「都市計画道路丸子中山茅ヶ崎線街路整備事業」。大和市内の県道45号線の4車線化事業のようです。

坂を上ると、丘陵へ。

             心なしか富士山が大きく見えてきます。

「桜並木歩道橋」。右に折れると、「桜ヶ丘駅」に。

「桜株」バス停。

付近に「桜株」という地名があり、駅周辺にの名所が多かったことから、「桜ヶ丘」と名付けられる。「桜株」にしなかったのは、駅の開業前に桜株の踏切(通称、中原街道との踏切(現・桜ヶ丘1号踏切))で踏切事故があり、イメージが悪かったためである

大和市のマンホール。

             大和市の市の花「ノギク」のデザイン。

駅前のロータリー。

          「大和市コミュニティーバスやまとんGO」

今回はここまで。小田急江ノ島線「桜ヶ丘駅」から「中央林間駅」。東急田園都市線に乗り換えて、渋谷経由・半蔵門線で戻ってきました。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その2。「梛(なぎ)の木石碑」。「海軍道路(環状4号線)」。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-16 21:32:59 | 中原街道

相変わらずアップダウンが続く道。

「梛(なぎ)の木石碑」。

弘化元年(1844年)江戸城に大火がありその際、この中瀬谷の「島津久利」が、薩摩から取り寄せた梛の木の苗を植樹して育てたものを伐採して、中原街道を江戸まで急送して江戸城を復興させたという。

※梛木・ナギの木は古来から縁起がいい植物とされ、日本各地の神社でご神木とされているほか、呼び名が凪(なぎ)に通じることから、海の安全のお守りともされている。

20m以上の大木になり、葉脈に沿った方向に引っ張ると、なかなか引きちぎれないことから、「チカラシバ」「センニンリキ」「ベンケイナカセ」などの別名がある。

(「」より)

※碑の周囲にはこうした巨木はありません。小さな空間にベンチが二つ。

「梛の木石碑前」バス停。

碑の前から振り返る。

先に進む。ゆるい上り坂。

右前方遠くに富士山。

けっこうはやっている味噌ラーメン店「麺場 田所商店」。

交差している道路は、「海軍道路(環状4号線)」。

海軍道路(瀬谷区・瀬谷中学校前交差点 - 瀬谷区・旧国道16号). 市内2位の長距離直線道路である。

元「上瀬谷通信施設」の西側を通っているため、通称「海軍道路」。

上瀬谷通信施設(かみせやつうしんしせつ)は神奈川県横浜市旭区上川井町瀬谷区北町瀬谷町に所在した在日アメリカ海軍基地(面積:2,422,396m2)。旧日本海軍の基地を第二次世界大戦後に接収して運し、2015年6月30日に施設を含めた土地全体が日本へ返還された

上瀬谷通信施設の海軍広場のヘリポート、2011年11月8日の防災訓練で撮影

旧日本海軍の倉庫施設として使用されていたものが、太平洋戦争の終戦により米軍に接収され通信基地となった。いったん接収解除されるも1951年に再接収された。返還時には部隊は常駐しておらず、在日米海軍厚木航空施設司令部の管理下となっていた。

海軍道路の桜並木(2024年)

フェンス等で囲まれて事務所などが位置する囲障区域は立入禁止区域となっていたが、囲障区域外は農耕野球場等の使用が認められているほか環状4号線(通称「海軍道路」)が通過して一般の通行が認められていた。海軍道路沿いはが多く植栽されて花見スポットとしても知られ、毎年4月の第1週目の土曜日に施設内の海軍広場で「日米親善桜祭り」が開催された。

瀬谷区の15パーセント (%) 近くの面積を占めていたことや本施設が海外からの微弱電波を受信する目的であったことから、同区の北半分は米軍から「電波障害防止地域」に指定されて1995年3月まで建物の高さ規制などが課され、瀬谷区の開発が遅れた

上瀬谷通信施設周辺の空中写真

画像上方に東名高速道路横浜町田インターチェンジ、左上から右側中央にかけて斜めに走る道路は国道16号保土ヶ谷バイパス、通信施設敷地中央を南北に走る直線道路が通称「海軍道路」である。
1983年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

(この項「Wikipedia」より)

「地神前」バス停。

この先、左手に「地神」と彫られた石塔など数基がまとめられている。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その1。「三ツ境(みつきょう)駅」。「二ツ橋地名由来の碑」・石橋供養塔・道標。和泉川。厚木街道。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-15 14:18:35 | 中原街道

夕方から予定が入り、短い距離を歩くことに。往復の電車賃を考えると、ずいぶんの無駄遣いでしたが。

前回の駅、相鉄本線「三ツ境駅」から小田急江ノ島線「桜が丘駅」まで。その先まで歩いても、バスで「桜が丘駅」まで戻るしかなさそうなので。

※「三ツ境」は「みつきょう」と発声するようです。「みつさかい」ではない!

駅前の歩道橋から、

遠くに真っ白な富士山。

               手前に丹沢・一番左が大山。

駅前から「中原街道」へは、住宅地で迷いましたが、やっと

                                 「中原街道」へ。

「二つ上橋」交差点。

※「二ツ橋」は和泉川下流(南)に架かる橋。

「二ツ橋地名由来の碑」。

           隣に「瀬谷村瀬・・・」、「石橋供養塔」など

  

「相模野の 流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな(道光親王 文明16年11月 詠)

 しみじみと 清き流れの 清水川 かけわたしたる 二ツ橋かな(徳川家康 慶長18年12月 詠)

二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳さではないが、二首ともにこのあたりの清らかなたたずまいにふれて詠まれたもので その昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。

二ツ橋学舎跡

ここより東方100mにある二ツ橋学舎跡は、文久3年(1863)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武相二州に亘って学業の実を挙げその子弟から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えられています。」

しみじみと 清き流れの 清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな 

徳川家康公詠まれたるものと伝えられ二ツ橋町名の源となる

中原街道道標。「右 八王子往来 左 神奈川往来」。

この付近の今昔。

                               (1880年代)「二ツ橋村」とある。

※北上すると、「川崎宿」にも通じていた。

                             (現在)「和泉川」の川筋が整備されている。

※中原街道と交差する直線道路は「厚木街道」。旧厚木街道は「三ツ境駅」付近に残っている。

和泉川は、旭区との境にある瀬谷市民の森付近を源流として、瀬谷区・泉区をとおり、戸塚区で境川に合流しています。瀬谷区内では、二ツ橋から宮沢の約2.8km区間で6つの水辺が整備されており、この長い区間が水と緑で繋がっていることが一番の魅力となっています。

(右が北方向)

「南台」交差点。交差するのは「厚木街道」。

江戸時代は大山道、相州道とも呼ばれ、厚木より東海道 保土ヶ谷宿神奈川宿を結ぶ道であった三ツ境から東希望が丘、二俣川小学校前を通り、本村町本宿町三反田町市沢町を経て保土ヶ谷区内に入る道で、江戸時代より明治中期まで賑わった旧道とされる。(「Wikipedia」より)

西方向。

○が、「二ツ橋地名由来の碑」がある交差点。↓が「厚木街道」、直線化されている。 (「今昔マップ」より)

先に進みます。

「茅ケ崎まで20k」。

現在の「中原街道」は、茅ケ崎に向かいます。

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