おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「人はなぜ歴史を偽造するのか」(長山靖生)光文社知恵の森文庫

2015-01-31 22:07:51 | 読書無限
 本書での中心は、明治末期に起きた「歴史教科書」をめぐっての「南北朝正閏(せいじゅん)論争」。歴史学者のみではなく、政界をゆるがし、「北朝」の流れをくむ明治天皇の裁可によって決着した「南朝」正統論。
 後醍醐天皇の建武の新政が失敗した後、皇統は京都の北朝と吉野に逃れた南朝との二つに分かれ、天皇が二人いるという、いわゆる「南北朝時代」が57年間続く。そこで、どちらの天皇が正統か、という論争が起こってくる。その発端が「歴史教科書」であった。
 その結果、「明治維新」を「建武の中興」の再来とし、自分たちを楠木正成をはじめとする南朝の忠臣になぞらえることで、王政復興(天皇親政)を実現した、そのことに自らの寄って立つ基盤を作り上げた「明治」の元勲。それらの政治的思惑によって、当時の教科書から5人の天皇が消された。
 この書では、それらの歴史的背景、政治家、文学者、歴史学者がどういう立場で発言し、行動してきたかを克明に描いていく。「大逆事件」との関連も追及していく。
 その後、大正デモクラシーのうねりの中で、歴史学者の間では再びこの時代を「南北朝時代」としたが、

 「『満州事変』以降、歴史教科書における日本の中世は、南朝の忠臣顕彰と足利尊氏ら『逆賊』への筆誅が最大の使命といった様相を呈するようになっていく。」(P219)

 さらに、その後も登場する、南朝神話に群がる人々が、たとえば「熊沢」天皇―我こそは南朝の正統後継者である―の出現につながっていったことなどを取り上げる。
 その上で、筆者は、史実を無視して、「道徳」「道理」を振り回し、そうであってほしい「歴史」を結果的には偽造し、広めていくことの危険性を指摘する。
 その典型として

 「歴史が美しいとそのまま受容したくなるという危険」について、『教科書が教えない歴史』を取り上げ、

 「語られる物語が美しければ美しいほど、我々はその物語に寄り添ってしまい、批判はおろか自分自身で考えることもせずに受容してしまうことになりがちだ」(P254)

 と、その例として李王朝最後の皇太子李垠と梨本宮方子との結婚の取り上げ方を批判する。

 こうして、人はなぜ歴史を偽造するのか、と自問自答し、その答えの一つとして、「自分さがし」の精神病理をあげる。

 「いまの自分は本当の自分ではない。本来の自分はもっと立派で偉大であるはずなのに、世間はその『事実』を認めようとせず、自分を正当に処遇しようとしない、間違っているのは世のなかの方なのだ。自分は、本来の、あるべき自分を取り戻したい。
・・・
 『本当の自分さがし』、この場合の『本当の自分』とは、実際の、あるがままの真実の自分の姿を認識しようといういとなみではなく、むしろ現実の自分をはなれて、『あるべき自分』『願望としての理想的な自分』を自分のアイデンティティーとすることで心の平安を得たいというメカニズムであるように思われる。・・・自分の願望をそのまま受け入れてくれる世界観を作り上げる方向へと向かってしまうのである。
・・・
 そこに自分にとって都合のいい物語を見出そうとしている。それははじめから事実でない故に、かえっていかなる史料批判も科学的説明も届かない強固な信念をもって、彼らは自分の物語に固執する。」(P22)   

 今の世相、とりわけ政治家の発言を思うとき、実に言い得て妙な表現です。
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読書「関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する」(田原 洋)岩波現代文庫

2015-01-30 21:57:31 | 平和
 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、南関東地方は大震災に見舞われた。マグニチュード7.9、震源地は東京から南々西約100キロの相模湾海底。
 被害は1府9県に及び、死者9万9千人、行方不明者4万3千人、家屋全壊12万8千戸、半壊12万6千戸、津波による流失870戸、焼失44万7千戸、焼失した市街地面積4780ヘクタール。東京の火災は3日午前10時頃ようやく鎮火した。(著者の引用資料による。便宜上、数字はおおよそのものにした)。
 こうした「関東大震災」の大混乱の中で引き起こされた、「朝鮮人虐殺事件」「亀戸事件」「大杉栄殺害事件」は、不当な虐殺事件としてよく知られている。
 そうした中で、筆者は、日本在住の中国人のためのセツルメント活動をおこなっていた「王希天」の死の真相に迫っていく中で、朝鮮人や社会主義者への日本人及び官憲による虐殺とともに、多くの中国人が殺害された事実を明らかにしていく。
 震火災による死者・行方不明者約14万人余のうち、約8,000人は、戒厳令と流言飛語によってパニックに陥った群集心理の相乗作用によって引き起こされた「不当殺人」の犠牲であり、その大部分は朝鮮人だが、400人以上の中国人、数百人単位の日本人も含まれていた、という。
 そして、中国人虐殺が集中的におこなわれたのは、東京府下南葛飾郡大島町(現在の江東区大島、亀戸。JR「亀戸駅」南東)だった、と地図入りで紹介し、王希天の殺害現場を明示している。 

 当時、日本国内での朝鮮人―「日韓併合」によって植民地化された―と、中国人―当時は「中華民国」の国民―の置かれた立場(状況)の決定的な違いから、中国との外交問題になってしまったとき、朝鮮人と「誤って」中国人たちを殺した(誤殺であった!)、という言い訳(居直り)をする日本政府関係者。王希天についても、いったん収容した(多くの中国人、朝鮮人とともに)警察から釈放した後の行方は知らない、と言い逃れする。
 「行方不明」になった王希天を捜索するために亀戸に赴く中国人同胞。そうした中で、知らぬ存ぜぬとしらを切りつづけた軍部と警察当局は、中国との外交問題化になると見るや、軍当局(戒厳令下の)、警察(亀戸警察)、さらに政府を巻き込んでの大がかりな隠蔽工作を行う。

 こうして、いつしか「王希天事件」は歴史の闇の中に消えてしまった!

 筆者は、そうした過去の歴史の暗部を、とりわけ中国人虐殺の真実を調査し、ついに王希天殺害の真犯人(直接手を下した者)を突き止める。そこに至るまでの、資料発掘、証言の収集など日本政府の欺瞞をくつがえす新資料の発見(アメリカの国会図書館に眠っていた資料など)、さらに、加害者へのインタビュー、・・・。関東大震災の時の朝鮮人、社会主義者への虐殺に忘れ去られた中国人虐殺、その典型としての王希天にたいする虐殺を浮き彫りにしていく。

 筆者の、真相に迫ろうとする執念は、けっして加害者をあぶりだすことにとどまらず、当時の日本の官憲の実態、一般日本人が陥った群衆心理、軍をはじめとする権力構造、それらが今もなおまったく無縁のものではないことを訴えている。

 王希天殺害現場は、旧中川に架かる「逆井(さかさい)橋」付近であった、という。 

逆井橋。 
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読書「炎凍る 樋口一葉の恋」(瀬戸内寂聴)岩波現代文庫

2015-01-29 23:39:37 | 読書無限
 最近、大阪などにばたばたと出かける機会が重なりました。行き帰りの新幹線、飛行機などで読書する時間も。文庫本を読みながらの往復。その中で、いくつか読書感想(文)を。その一つ。
 
 一読して、筆者の鋭い感性(同性の、同業?の、人生の酸いも甘いも見据えた者の)に圧倒されました。

 一葉の、一生を貧困と病苦の中に生きた薄幸の人、それでいて、わずかの期間で多くの不朽の名作を残した女性、というイメージをその「虚像」をはいでみせた、と。
 桃水との関係もけっしてプラトニックな、一葉の片想いとらえつつも、性的な関係が存在したのではないか、と。日記を読み解く中で、むしろ破り捨てられた部分に注目して二人の関係をひもとく。男女の関係をめぐる一種の推理、探偵もののような印象。
 当時、一葉と桃水との関係をゴシップとして噂され、それをことさら公に否定していくことで、作家として自立していかんとする一葉の心のひだをえぐりだしていく。
 さらに、一葉が仕事、生計を立てる手段としての物書き、「ものをかけばおかねになる」という発想につながっていった、一葉周辺の人間関係、文学的・芸術的環境の存在などが掘り下げられている。
 その前段として駆け落ちして江戸に出てきた両親のようす・野心、人となり。そして、一葉の幼少期の恵まれた環境、婚約者らしい男の裏切り、家運の没落・・・、それらの「小説的」世界を小説家の感性で追っていく。

 特に、貧窮したのち、桃水、のちには占い師?の男にお金を無心する、一葉と、それを受ける男(けっして純粋な関わりではなく、何らかの代償、報いを意識しての)との間の「生」と「性」。これらの心の機微を見て見ぬふりをしてはならない、との指摘は鋭い。

 解説で田中優子さんも語っているが、この書は、一葉論であるとともに瀬戸内寂聴の人間観であり、人生観でもある、ようです。

 筆者は、「一葉の真剣な恋は、わずか一年の間に十年の恋の深さを味わいつくした。しかも、その恋は、死の床までひそかに一葉の胸底に生きつづけていた。」と記しながらも、直後、「もし、桃水との恋がつづいていたら、一葉の文学的開眼は永久に訪れなかったであろう。」と。

 その上で、筆者は、「一葉は小説家である前に天性の詩人であり、詩人である前に、ひとりのなまなましい若い女であった」、と。生きる(一家を支えながら生活する)女性としての生き様への共感をこのように表現しています。
 
 下世話的には、一葉が通った菊坂の質屋さんの建物が解体の危機にあるらしい、との記事が最近の新聞に載っていた、と、つい、よけいなことを書いてしまっても、寂聴さんは許してくれるだろう。

 
 
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府中宿東見附。伝馬町。本陣、脇本陣。西郷・山岡会見跡。・・・(興津から静岡まで。その5。)

2015-01-27 21:08:35 | 旧東海道

 しばらく道なりに進み、JR東海道線、東海道新幹線をくぐり、国道1号線に合流、斜め前の道を進む。静鉄線路脇に標識。

「東海道府中宿東見附」。ここから「府中宿」。

 横田町は駿府でも古い地名のひとつで、横田の名は平安中期の書物にも登場しています。
 江戸時代、府中宿は、上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ本陣、脇本陣が設けられ、問屋場、旅籠が四十三軒もある東海道最大規模の宿場でした。
 伝馬町から呉服町、札場のある札の辻の七間町、新通り川越町の西見附まで二十七の町で構成されており、ここ横田町には、駿府城町に入るための東の入口である 『 東見附 』 が置かれていました。
 徳川家康公は、1607年に大御所として駿府 ( 府中 ) に入られ、天下泰平の基礎を、亡くなるまでの九年間、この地で固めたのです。


 「西見附」まで3,600㍍と。大きな宿場であったことがわかる。家康ゆかりの「駿府城」下町でもあった。。

これから辿る道は、「伝馬町通り」。赤く塗った道。

   
     このあたりは、アーケードもところどころ壊れている商店街の一角。

 しだいに賑やかな町並みに移って、車も人の通りも多くなっていく。

「横田町西」付近。

 右側に大きく丁寧な説明板。絵図入り。

        

 府中宿

 府中宿は江戸から約44里(約176㎞)、品川宿から19番目の宿場です。東見付は横田町、西見付は川越町にあり、天保14年(1843年)には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道最大規模の宿場でした。
 伝馬町には馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な任務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいでした。
 参勤交代の大名たちは、家康公の祖母の菩提寺である華陽院にお参りしました。
 家康公の墓所がある東照宮に向かう久能街道は、駿府の町に物資を運ぶ重要な道でした。

     
                            「久能山東照宮道」。

所々に設置してある旧町名表示。

艾(もぐさ)屋さん。

 もぐさ(艾)は、ヨモギの葉の裏にある繊毛を精製したもの。主に灸に使用される。西洋語にもmoxaとして取り入れられている。
 もぐさは、夏(5~8月)に、よく生育したヨモギの葉を採集し、臼で搗(つ)き、篩にかけ、陰干しする工程を繰り返して作られる。点灸用に使用される不純物(夾雑物)のない繊毛だけの艾を作るには、多くの手間暇がかかるため、大変高価である。高級品ほど、点火しやすく、火力が穏やかで、半米粒大のもぐさでは、皮膚の上で直接点火しても、心地よい熱さを感じるほどである。
 百人一首の51番目にある、藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)の歌、「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 萌ゆる思ひを」から、滋賀県の伊吹山がもぐさ原料ヨモギの特産地(製品もぐさを80%生産)と思われているが、滋賀県ではもぐさ用ヨモギはほとんど作られておらず、新潟県、富山県など、もぐさ原料のヨモギは北陸産が多い。
 また、この「伊吹山」は、滋賀県ではなく、栃木県栃木市にある小さな山だという説もある。もぐさの商標には、お釜のマークの「釜屋」が有名だが、これを名乗る業者は数社ある。
 もぐさはその精製の度合いによって、点灸用・灸頭鍼用、温灸用の区別がある。また現在では、せんねん灸など、様々な「もぐさ加工品」が売り出されている。

(以上、「Wikipedia」参照)

「下伝馬本陣、脇本陣跡」。下本陣は「小倉家」、脇本陣は「平尾家」。

   
                           町並み絵図。

 しだいに繁華街に。静岡市(県)挙げての「家康公400年祭」の記念行事が始まっている。

                       

   
   「上伝馬本陣、脇本陣跡」。

「伝馬町の由来」碑。

 伝馬町の由来

 伝馬町の歴史は慶長14年(1609)に家康公が駿府を町割して、東海道五十三次の宿(しゅく)と定めたことに始まる。宿には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑いを呈した。
 明治以後も静岡宿といったが、明治22年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった。以来、況不況の波を克服し、或は静岡大火、空襲の災禍にもめげず、人々は手を携えて住みよい街づくりに努力、県都の玄関口、商店街として今日の繁栄を見るに至った。
 ここに近代的な市街地再開発事業の竣工に当り先人苦心の跡を偲び、併せて未来への発展と、ゆかりの人々の多幸を念願して記念のしるしとする。

 昭和59年11月20日

        

 「伝馬町由来碑」のすぐ近く、静鉄「新静岡」駅の南に「西郷・山岡会見跡」の碑がある。

 西郷・山岡会見の地

 慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町松崎屋源兵衛宅で行われた。
 この会見において、十五代将軍徳川慶喜の処遇をはじめ、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、五日後の3月14日、江戸・三田の薩摩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。
 明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置づけられるものである。

 平成16年9月  静岡市教育委員会

   
                  「江川町」交差点。遠くに「駿府城」の石垣。

 次回は、ここから。
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「旧東海道記念碑」。兎餅。長沼一里塚。曲金。(興津から静岡まで。その4。)

2015-01-26 23:11:05 | 旧東海道
 土、日。お葬式とお祝い事で大阪と和歌山に出かけていた。大阪へは東京発「のぞみ1号」。早朝なのに、指定席はけっこう混んでいた。翌日は、今度は「羽田」から「関空」へ、と。
 日曜の関空。同じようなお祝い事の帰り客が多いのか、満席。搭乗ゲートでは、「この便は、満席です。もし後の便に振り替えてもいいという方がおりましたら、申し出て下さい。謝礼として1万円・・・」。
 キャンセル待ちの人がたくさんいるのだろう。それを聞いて、一瞬迷った! 一万円か(というようなアナウンスに聞こえただけかも)! う~ん、急ぐ旅でもなし・・・、一万円に目がくらんだと思われるのも・・・、と、逡巡しているうちに、「おかげさまでご協力下さる方がおりましたので、・・・」。
 予定通りの便で帰ってきた。

 前回の続き。

 JR「草薙」駅前のベンチで少し休憩して、出発。駅から県道407号線の地下道をくぐり、最初の通りを右に折れる。この道が、旧東海道。十字路で広い通りをはさみ、左側からの道とつながっているので、このあたり、旧道が不明になっているのかもしれない。
 車の往来が激しく、商店なども目に付く県道に比べ、南側のいくらか曲がりくねった道。車もほとんど通らず、静かな住宅や農地がある中を進む。振り返ると富士山。

左手にあった案内板。

「ここは古!東海道 中之郷村← 谷田村→」?ちょっと判読不能なところもある、古い木で出来た説明板。

左奥にあるお茶畑。

 しばらく行くと、左手に再び立て看板。

              「旧東海道です 有度村萬樹園 (←)一里半 江尻之宿(→)一里半 駿府之宿」。

民家の屋根越しに富士山。

 坂道にさしかかると、左手に「閻王寺」。この坂を「閻魔坂」。

 道が少し下り坂になって「東名」の下をくぐる。

   
  行く先。                   振り返る。橋脚は「東名」。

道の右手にあった「常夜燈」。

道の両側には「こうじ屋」さんの看板が目立つ。


 旧道は「総合運動場」の前を右折。交差点を横断し、「静鉄」の線路の手前の道を左に入っていく。
 しばらく歩くと、JRの大きな操車場にぶつかる。大きな記念碑と説明碑。

   


旧東海道記念碑由来

 東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。
 これは古来より主要街道の一つであり、府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で、弥次郎兵衛喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。
 国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和三十七年、国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、さらに静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。
 その昔を偲び、なおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。
 尚、この記念碑のみかげ石は静岡市追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので、昭和初年の御用邸改修の折、栗原町内会が払下げを受けたものであります。

 平成3年5月吉日 静岡中央ロータリークラブ 

注:「静清国道」とあるが、現「国道1号線」をさす。そのため、旧東海道は忘れ去られた存在に。もちろん、それ以前より痕跡が失われつつあった上に、国鉄操車場の建設ではっきりと分断されてしまった。(栗原地区は、操車場の南北に広がっていた。)

来た道を振り返る。

 すぐ右に見えるトンネルをくぐって、向こう側に渡ることに。といっても、この地下道、車も双方向で通行できる道路。見通しも悪く、狭い。中間にすれ違い用の空間はあるが、けっこう恐い!(車も人も)

地下道から出て、振り返る。

 こうして分断はされてしまったが、地図上だとたしかにかつてはつながっていた道に再び続く(鉄道線路等で分断されたケースはこれまでもたびたびあったけれど)。

 旧道はしばらく進むと、国道1号線に合流。この辺りは、「古庄」。

「兎餅」跡地。

 静鉄「古庄(ふるしょう)」駅のあたりでは、江戸時代、安倍川もち、追分羊かんと並ぶ駿河三大名物「うさぎ餅」が売られていました。 薄皮の餅で小豆あんを包み、満月の焼印を押した餅菓子です。 この餅菓子を売っていた茶店の店先で飼っていた兔が、名前の由来になっているとのこと。 文化文政時代の狂歌師・大田南畝(おおた なんぽ)が詠んだ「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物」によって評判となり、 駿河の名物となったそうです。
古庄には昭和45年頃まで、うさぎ餅の店があったそうですが、閉店・廃業で途絶えてしまいました。 これに憂慮した静岡伊勢丹が、平成6年(1994年)に「古庄うさぎ餅」の商標登録を得て、 鷹匠にある明治43年(1910年)創業、菓子処松木屋に「うさぎ餅」を託し、復活させたとのことです。 松木屋さんの「駿河の三大名物の一つを絶やさぬように」という強い思いとともに、一度はいただきたい一品です。
HPより)

 駿河三大名物の一としての由緒ある逸品で、現在は当店のみ製造販売しています。餅の上に押された焼印は当時使用していたお店より譲り受けた物を使用。焼印の焦げ目がちょっぴり香ばしく、さっぱりとした餡とのバランスが特徴の逸品です。静岡のお土産として是非どうぞ!!
 うさぎ餅は、文化文政のころに活躍した狂歌師・大田南畝の歌によって評判となり、駿河の名物となりました。
 その後、作り手が時代とともに変遷し、しばらくの間、姿を消す時期を迎えます.これを憂慮した静岡伊勢丹が平成6年に「古庄うさぎ餅」の商標登録を得て、かねてから和菓子を納品していた当店に製造を託されたことから、うさぎ餅が復活することになり現在に至ります。
 当店では、「駿河の三大名物の一つを絶やさぬように」という強い思いを込め、これからも伝統を継承していく所存です。

(「松木屋」HPより)

●問い合わせ先 株式会社 松木屋 〒420-0839 静岡市葵区鷹匠3-1-7


 しばらく国道沿いに歩き、長沼の交差点で、斜め右の道に入る道が、旧東海道。

交差点近くにあった古い家。

 旧道に入ってしばらく行くと、「長沼一里塚」跡。

 日本橋から44番目の一里塚だが、特に説明板等は、見当たらなかった。

その付近からの旧東海道。

 静鉄「長沼駅」付近から線路に沿うように道が続く。

   
                            静鉄と富士山。

しばらく進むと、国道1号線に合流する。
                                   ↓が富士山。

 本来の道は、国道を横断し、さらに南西に進んでいたのだが、大きなショッピングモールと操車場に阻まれ、道筋は不明。再び旧道を歩けるようになるのは、JR線をくぐり抜けた南側になる。

                                      

         歩道橋からの富士山。左手は静鉄「柚木」駅。

 JRの地下道を通り、反対側へ。

曲金。

 この地名の由来は?

 興味深いのは、同じ「曲金」という地名が、東京・葛飾区、京成電鉄「高砂」駅付近にかつてあったこと。
 葛飾の場合は、中川(旧・古利根川)がこの付近で大きく曲がっていたことによるとか。直角に近い角度ならまさにさしがね。
 一般には「指金」と書くが「曲金」とも。
 このことから類推すると、このあたりには、高砂のような「曲金」にあたるような河川もないので、旧東海道は大きく曲がっていたのか(同じ葛飾には旧水戸街道が大きくカーブする地点付近を「大曲」と称していた)。
 これまでたどってきて、JR線でいったん消失した旧道は、JRの敷地内で大きく曲がっていて、この道に続いていたのかもしれない。あるいは、現在ある痕跡のように、ほぼ直角に曲がっていたのか。・・・
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静鉄。ちゃっきり節。草薙一里塚。・・・(興津から静岡まで。その3。)

2015-01-23 21:45:08 | 旧東海道
 JR東海道線と静岡鉄道の踏切を渡る。上下4本あるせいか、両線ともけっこう通過電車が多い。

   
 静鉄。ラッピング型の車両が次々。            JR。こちらはオーソドックスの車両。
 それにしても、静鉄の車両。大学から清涼飲料水、カラフルなのにはビックリ。東京でも派手な車両は目に付くが。

 「静鉄」は、鉄道以外にも不動産など多角的な経営をしているが、鉄道路線は現在、新静岡から新清水間11.0kmを結ぶ静岡清水線のみ。駅の数も15と多く、また運転本数も多い。しかし、今後ははたしてどうか? 一方で、40年ぶりに新型車両を導入するなど積極的である。

路線図。


 緩やかに上りながら道は右に曲がり、左からの道と合流する。そこにあるのが「久能寺観音道」道標。

   

久能寺観音道

 この道標は安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺、鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。
 久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国の攻略の根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移されたものである。
 明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、鉄舟寺と改め現在に至っている。

 有度まちづくり推進委員会 有度ふるさとマップ委員会 清水西ロータリークラブ
 
注: この旧道は、南東方向に位置する久能山(「日本平ロープウェイ」あり)へ向かっていく道。「鉄舟寺」(旧「久能寺」)はかつての位置より北西の方に移設されて存在する。 

 右に曲がった、正面のところにある説明板。

「東海道」説明板。

東海道

 東海道という言葉は崇神天皇10年9月、四道将軍として武淳川別(たけぬなわけ)を東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。
 ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。
 中世には「いざ鎌倉」のために整備され、徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。
 慶長12年(1607)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。
 善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語りを残した東海道も国の発展と共に、昔日の面影は消えてしまったが、ここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。

 昭和39年1月  有度まちづくり推進委員会 有度公民館歴史クラブ


 この辺りは「狐ヶ崎」と呼ばれる地域。左手には大きな池があり、その向こうには「イオン」の大きな商業施設がある。実は、かつて、この池を中心に遊園地があった、という。それが、有名な民謡『ちゃっきり節』誕生のきっかけになった。
 

 『ちゃっきり節』(ちゃっきりぶし)

 北原白秋作詞、町田嘉章作曲の歌曲。「茶切節」ないし「茶切ぶし」「ちゃっきりぶし」と表記される場合もある。現在では静岡県民謡と見なされているが、新民謡のひとつである。
 歌は30番まであり、静岡市を中心とした静岡県中部の地名・方言がふんだんに盛り込まれている。
 現在では、作詞・作曲者のはっきりした「新民謡」でありながら、古くからの伝統的な静岡県民謡と誤認されるまでになっている。
 また、歌詞については、地元の老妓が白秋が作詞のために泊まっていた旅館の窓から外を見て「蛙が鳴いているから (明日は)雨だろうね」という意味の方言「蛙(きゃある)が鳴くんて 雨ずらよ」を取り入れており、この部分を甚く気に入った白秋は、各コーラス共通の囃し詞として用いている。
 本来の歌詞は「蛙(きゃある)が鳴くん"て"」という方言であるが、この曲をヒットさせた市丸が、レコード化する際に「蛙が鳴くん"で"」と標準語風に濁音で歌ったため、現在でも誤った歌詞のまま歌われることが多い。ただ、市丸は正しい歌詞を知った後の再レコーディングでも濁音のまま歌っていることから、何かしらのこだわりを持っている可能性も否定できない。白秋自身も「『鳴くん"て"』が正しい」と言明している。

  (以上「Wikipedia」参照)

狐ヶ崎遊園地のCMソングが静岡民謡として誕生。

 いまでは静岡県の民謡としてし親しまれている「ちやっきりぶし」は、昭和2年、静岡鉄道(当時、静岡電気鉄道)が狐ヶ崎遊園地の開園を記念し、沿線の観光と物産を広く紹介するために、北原白秋に依頼して作詞された珠玉の名篇です。町田嘉章による軽妙芳香なメロディを得て、全国の人たちに愛唱されるようになり、郷土静岡の観光と名物・特産品のアピールに少なからぬ貢献をしてきました。
 「ちやっきりぶし」は、いまや私たち郷土の無形の宝であり、これからも永く歌い伝えていきたい尊い一曲です。「ちやっきりぶし」誕生80周年に当たり、ここにその由来とこれまでの過程をご紹介いたします。

白秋をねばりでくどき落とした長谷川氏
 北原白秋は明治18年(1885)福岡県山門郡沖端村(現在の柳川)の酒造業「油屋」に生まれた。本名隆吉。同42年には処女詩集「邪宗門」を、その2年後には柳川で過ごした幼少時代をしのぶ「思い出」を出版して、詩壇にデビュー。
 昭和元年(1926)には、すでに押しも押されもせぬ詩文学の重鎮として、童謡集の「二重虹」「からたちの花」「象の子」、さらにまた随筆集「風景は動く」や詩誌「近代風景」の発刊など、幅広く積極的な活動を続けていた。
 その当時、東京・谷中にあった白秋宅へ、ある日ひとりの男が訪ねた。取り次ぎの者に手渡した名刺には、静岡電鉄・遊園部長 長谷川貞一郎とあり、用件というのは「静岡から清水への沿線に、新しく狐ヶ崎遊園地がオープンすることになったので、その完成記念に白秋先生にぜひ唄をつくっていただきたい」とのことだった。しかし白秋は、取り次ぎの者を通して「私は民謡をつくったことがないから」と、面会を断った。要するに、門前ばらいをしたのである。そして長谷川部長は、その後も数回にわたって白秋宅を訪れたが、そのたびに同じ理由で用件も面会も断られたという。
 しかし、それから半年の後たまたま政宗白鳥と親しいある友人の彫刻家と巡り合い、長谷川部長はさっそく白鳥から白秋への紹介状を書いてもらい、それを持って大森近くの緑ヶ丘に引っ越したばかりの白秋を訪ねたところ、今度はようやく会ってくれた。だが、肝心の用件については相変わらず許諾してくれない。
 はたして何時間ねばったのだろうか。地域開発と発展のために一私鉄である静岡電鉄が、社運をかけて遊園施設の建設に踏み切ったこと、園内には料亭兼旅館(翠紅園)があり、名産のお茶やミカンの買い付けのため、全国各地から訪れる人々にも広く利用されるよう願っていること、したがって、その利用客や入園者にも愛唱されるサービス用の唄が、どうしても必要なこと、その唄を通じて特産品が認識され、輸出産業として発展すれば国策にもかなうこと、など長谷川部長はじっくりと熱意をこめて説明した。その結果、白秋もついに長谷川部長の熱意に感動し、唄をつくることを快諾したばかりか、今までの非礼を詫び、励ましの言葉さえかけてくれたのだった。
 このときの長谷川部長のねばり強さには、白秋も大いに心を動かされたらしく、後日部長に、「目の尻の線の動きやもずの声」の一句を贈っている。

1.
唄はちやっきりぶし、
男は次郎長、
花はたちばな、
夏はたちばな、
茶のかをり。
ちやっきり ちやっきり
ちやっきりよ、
きやァるが啼くから雨づらよ

2.
茶山、茶どころ、
茶は縁どころ、
ねえね行かづか、
やぁれ行かづか、
お茶つみに。
ちやっきり ちやっきり
ちやっきりよ、
きやァるが啼くから雨づらよ。

3.
駿河よい国、
茶の香がにほうて、
いつも日和の、
沖は日和の
大漁ぶね。
ちやっきり ちやっきり
ちやっきりよ、
きやァるが啼くから雨づらよ。 ・・・

(注:30番まである。)

30.
やっさ、もっさよ、
お茶屋の前は、
まっちゃ、おまっちゃ、
あっちゃ、おまっちゃ、
はりこんぼ。
ちやっきり ちやっきり
ちやっきりよ、
きやァるが啼くから雨づらよ。

HPより)

 今、遊園地もなくなり、こうした「ちゃっきり節」誕生秘話も忘れ去られていく。歌詞も最後のフレーズが微妙に変化している(赤字に注目)。

 旧道は、池をめぐるように進む。

右手の奥には富士山。

右手に鉄道関連のモニュメント。

 ちょっと立ち寄ってみる。
   
                         「旧上原跨線橋」。

 旧上原跨線橋は、昭和2年に当時の安倍郡有度村の南北を結ぶ生活の主要な道路として、「太鼓橋」などの愛称で親しまれていました。
 橋が架けられた当時は車の少ない社会で、人と荷車の往来が主目的であったため、構造も鉄道レールを用いた簡単なものでした。
 正面に立ててある部材は橋脚に使用された鉄道レールで、右側横置きの部材は橋桁に使用されていた鉄道レールです。
 右側のレール表面には「DICK,KERR,SANDBERG,D,K1911」と刻印されており、1911年(明治44年)にドイツの製造メーカーであるドイチェカイザー社が、サンドバーグ法というレールの硬頭処理で製造されたことがわかります。

 平成16年3月 静岡市

 全国に鉄道網が敷かれ、地方の鉄道にもこうした外国製のレールが使用され、またその役割を果たした後も再活用されていたことがわかる。ここにこういうかたちで保存されていた。

                      そこから望む富士山。

 左手に「上原子安地蔵」。
   

 説明板によれば、
 天正10年2月徳川家康がと武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の武将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果、梅雪は家康に降り、武田氏滅亡のきっかけとなった、という由来を持っている。昭和7年(1932)に再建された、という。

 振り返ると道の中央に富士山。

 「清水有度第一小」の脇を過ぎると、県道407号線(南幹線)の広い通りに合流する。右側に大きなタヌキの置物と標柱。

「草薙一里塚」跡。

   

一里塚の由来

 一里塚は徳川幕府より慶長9年(1604年)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里(3,920米)を36町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた。
 東海道は江戸(今の東京)日本橋を起点に京都までの120里(約4700キロ米)の道の両側に松並木を植え、一里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。
 草薙一里塚は江戸より43里(170キロ米)の処で四十三番目の塚です。道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は5間(9米)四方、高さ1間(1.8米)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・旅人の道しるべ・休息所等と成って居た。
 榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府、今の静岡市)二里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠、振り分け荷物を肩に、旅立つ姿が偲ばれます。
 因みに一里山の起源は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれる様になった。

バス停「草薙一里山」。 
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「江尻宿」。稚児橋。追分羊羹。ちびまる子ちゃん。清水の次郎長。・・・(興津から静岡まで。その2。)

2015-01-22 20:59:08 | 旧東海道
 ここから、「江尻宿」。ほぼまっすぐな道筋。国道1号線(東海道)の一本西側の道になる。旧道は落ち着いた町並み。

旧家の趣。

 国道を渡り、正面にJRの鉄橋が見えてきたら、右折する。

「テーラー雀荘(じゃくそう)」。
 かつては麻雀屋さんだったのか? 英国紳士服の仕立屋さんらしい。

 この付近が宿場の中心地だった。

 アーケードが続きよく整備された商店街だが、平日のお昼前とはいえ、人通りも少なく、お店も開いていたら移、閉まっていたり・・・。

店先の「東海道江尻宿スタンプポイント」。

 現在のJR「清水」駅。昭和初期には「江尻」駅と呼ばれ、駅の位置も「江尻宿」に近いところにあった、らしい。

クジラのモニュメント。

 清水港はマグロなどの遠洋漁業の基地。クジラとも無縁ではない。清水港には、「国際水産資源研究所」がある。ここは、遠洋における水産調査活動を行う組織。主にマグロ、クジラなどの資源管理に関わる調査、研究を行っている、という。
 かつて、清水港は、遠洋でのクジラ漁やイルカ漁などの基地でもあった、らしい。今は国際的な批判にさらされ、商業捕鯨は禁止され、まったくその面影はない。マグロも今後どうなるか?
 その昔、沿岸捕鯨も含めて、クジラ漁は盛んだった。南氷洋に出かける捕鯨船団。「捕鯨オリンピック」などという、今じゃ考えられないようなマスコミ用語もあって(あったような気がする)、まるで日本の遠洋漁業の威信にかけて獲っていた頃も。
 小学校でも、給食には「クジラの竜田揚げ」が定番メニュー。また、高校に通学する途中に、その名もズバリ「くじら屋」というお店があり、繁盛していて、教師も生徒もよく出入りしていた。昭和30年代から昭和40年代前半の話。
 たまに、あの懐かしい「クジラの竜田揚げ」を思い出す。

 そういえば、常用漢字で「魚」偏のつくものは、「鮮」と「鯨」だけだと聞いたことがある。それほど、日本人の食文化には「鯨」はなじみ深かった。
 そう、幕末、アメリカが日本に開国を迫ったのも、そもそもが捕鯨基地、補給基地としての要求だったと聞いたこともあるが、真相は?

「「江尻宿解説板」。

東海道 江尻宿

 むかし「矢倉の辻」より、秋吉町の東側に称名寺集落があり、また吉添町・大手町辺りに元宿という小字名が残っているので、その周辺がもとの江尻(家尻)の宿場があったと思われる。
 時代の変遷により、今川氏の頃から、この江尻は三日市場として栄え、永禄12年(1569)武田信玄が江尻城(小芝城)を築くことにより、江尻は城下町となり職人の町が発達した。
 慶長6年(1601)徳川家康は、東海道五十三次を定めるにあたり、それまで今の北街道が主要街道であったものをあらため、銀座通りを通すこととし、この地を江尻宿とした。
 慶長12年(1607)巴川に初めて稚児橋が架けられ、交通が便利になり、江尻宿は上町(魚町)、中町(仲町)、下町(志茂町)の宿通りを中心に、西は入江町の木戸、東は伝馬町・鋳物師町・鍛冶町・本郷町から辻村の木戸まで長さおよそ2キロメートルであった。
 宿は伝馬町と魚町で鈎の手に曲がり見通しが悪く、また紺屋町・七軒町は袋小路になっているのは、万一の場合の警備のためであった。
 宿には、人馬や物資の移動を管理する問屋場を中心に、大名の宿泊する本陣3軒、それに準ずる脇本陣3軒と一般の旅籠屋が50軒程たち並び、人びとの往来で栄えていた。江尻宿の昔の姿であった。

 江尻地区まちづくり推進委員会

   

 この角を左に折れる。

 「巴川」に架かる「稚児橋」の手前に「河童まんじゅう」。


   
                 「稚児橋」。             河童のモニュメント。
            
稚児橋の由来

 慶長12年(西暦1607年)徳川家康の命により、東海道五十三次沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日とはなった。
 さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるやするすると橋脚を登り、忽然と入江方面へ消え去った。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けられたといわれている。
 なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。
 清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童がいるのは、この伝説による。

                           
                                橋の欄干にも。

 橋を渡って二つ目の信号のある三叉路を右に行く。
       来た道を振り返る。

「江尻宿木戸跡」。
 ここが宿場の「西木戸」に当たる。

その場所から宿内を望む。


 江尻は現在の清水港である。ここから愛鷹山、箱根、伊豆半島までを遠望し、その手前に三保の松原を描き、白帆をはらませた船と停泊している船、街並までが描かれている。港の繁忙ぶりとうららかな春の風景である。江戸より約41里の地点であり、全体のほぼ三分の一経過した。

大正期の清水。

(「」HPより)。

 ここで、「江尻宿」ともお別れ。時間があれば、「三保の松原」に行くべきだったが。

 しばらく直線の道を進む。左手に石柱。

                      「是より志ミづ道」。

 そのすぐ隣にあるのが、「追分羊羹」のお店。

   

 「追分羊羹」といえば、「ちびまる子」ちゃんの地元。お店の裏手にある小学校「入江小学校(現在は「清水入江小学校」)」が舞台。

ちびまる子ちゃんと入江小学校
 
1.清水市立入江小学校
 清水市街に比較的近い静閑な場所に位置する小学校です。 入江小学校のすぐそばには、旧東海道があり現在も多くの車が行き来しています。
 学校自体の特色というものはこれと言ってありませんが、 原作ちびまる子ちゃんで登場している運動会での沖縄民謡披露や、 ちょっと変わった仮装行列などは実際に在学当時に行われていました。
 また静岡県に多くの被害をもたらした七夕豪雨では、原作通り入江小学校にも被害をもたらしました。 校舎1階は浸水し、かなりの被害が出ています。
 ちびまる子ちゃんに登場する多くのキャラクター達も入江小学校から生み出されています。 さくらさんがエッセイで話されているように、ハマジ、たまちゃん、カヨちゃん、ケンタなどは実在し、 ブー太郎などはそれっぽいキャラクターが当時居たと言っています。花輪君については、小学校時代だけでなく、今までの人生の中で出会ったキャラクターがミックスされて出来上がったキャラクターだと話されています。
 花輪くん、丸尾くんについては、小学生当時に非常に似た名前の人がおり、 私の視点から見てもこの人がモデルかなって思う人は実在していました。
 
2.入江小学校の付近 ~文進堂~
 入江小学校正門のすぐそばにある文房具店です。現在は残念ながら、お店は閉められていますが在学当時はよくお世話になったお店の1つです。さくらさんも家の方向から、この正門側にある文進堂でお世話になっていたのだと思います。学校の裏門側にも、文房具店が1軒あります。
 文進堂は、アニメの方でたまに登場してきます。”まる子、こずかい帳をつける”のエピソードでは、 まるちゃん、たまちゃん、藤木の3人で文進堂で小遣い帳を買った設定になっていました。
 
3.入江小学校の付近 ~追分羊羹~
 アニメでは清水名物としてたびたび登場する追分羊羹の本店です。お店は旧東海道沿いに位置しており、住所もズバリ清水市追分です。この追分羊羹本店付近は住宅街と言った感じで、ここより西側にはお店といったものは余りありません。 逆に東側にはスーパーなどが多くあり、大きな交差点を隔てて更に東に向かうと入江商店街へと入っていきます。
 この追分羊羹と言えば、やはり羊羹ですが和菓子なども販売しています。 ちびまる子ちゃん効果があったのか判りませんが、 たまに大型バスで観光客の方達が買いにみえていることがあります。

4.入江小学校の付近 ~通学路~
 さくらさんの自宅は、この入江小学校から東に10分ほど歩いた場所にあります。追分羊羹のある旧東海道を歩いて行けばいいのですが、道幅の関係から歩道の整備はされておらず、住宅街の路地を通学路とするように小学校から指導されていました。
 アニメや漫画では、たまちゃんといつも一緒に通っている設定になっていますが、家の方向は一緒なのですが、たまちゃんの家の方が小学校からは圧倒的に近い距離にあります。

(www.geocities.co.jp/HeartLand/8752/chibi_s_01.htm)HPより

 お店からすぐ先のところに、清水の次郎長に討たれた侠客・都田(通称都鳥)吉兵衛の供養塔がある。

   

都田吉兵衛供養塔

 春まだ浅き文久元年(1861)正月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。
 此處を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。

 入江まちづくり推進協議会 清水観光協会

 一本、卒塔婆が立てられていた。

 清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)

 幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。 浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
                                          (「Wikipedia」より)

・・・

「清水みなとの名物は、お茶の香りと男伊達・・・」

 幕末、明治維新にわたり、東海はもとより、その暴れん坊ぶりは全国にその名を轟かせた世紀の大親分、清水の次郎長。広沢虎造の浪曲をはじめ、数々の時代劇、映画などによりその武勇伝も、今日まで多くの人に親しまれている。特に咸臨丸の件や山岡鉄舟との逸話は有名。

 次郎長の生家は清水港近く。「次郎長通り」と名付けられた商店街にある。次郎長の写真や使った道具類、資料などを展示。居間も当時のまま保存されている、らしい。

 清水出身の叔父は、戦後、新宿西口のテキ屋の親分。組名を出せば、たぶんバレる。日本刀を抜いたまま若い衆が何人も飛び出していくのを目撃したことも。・・・(余談)

 しばらく進むと、「金谷橋」。

   

 追分と金谷橋の今昔

 昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていた。
 周囲には数軒の家が並び街道の漁際は松並木が続き、その外側は田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。
 往来の旅人は土橋であった金屋橋wお渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は橋際の土手を下り渡川して土手に上がり街道に合流した。
 古来、牛道と言われた名残を今にとどめている東海道の史跡である。

 
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「うなぎや洋品店」。清見潟。「坐漁荘」。細井の松原。辻の一里塚。・・・(興津から静岡まで。その1。)

2015-01-21 23:38:11 | 旧東海道
 今回は、「興津」駅から静岡まで。当初の目標は「安倍川橋」まで、と。結局、「府中宿」にちょっと入っただけ。せめてもうちょっと核心部くらいは、と思いました。が、久々の長い距離。足にまめが出来たようで、痛みが・・・。
 そこで、次回、宿内のジグザクコースから頑張ることにして、「江川町」交差点でリタイアして、静岡駅へ。

「166㎞」ポスト。ここからスタート。

 この先は、かつての「清見潟」あたり。その街道筋で見かけたお店、二つ。
 
「うなぎや洋品店」。
 「うなぎ」と「洋品」との組み合わせがインパクトあり。昔は「うなぎや」さんだった?

こちらは「小川梅吉式剪定鋸」。

小川梅吉製鋸所は、天保年間(1830年代)に鉄砲と丸鋸の製造から始まりました。
四代目の梅吉(1868~1923)からは、丸鋸、薪挽鋸、根切鋸等、鋸一切を取り扱っていました。
六代目の嘉吉(1903~1985)から、現在の主力商品である果樹剪定鋸の製造が始まりました。
皆様ご存知のように静岡はみかんの名産地で、当店の製品は多くの柑橘農家や研究者の方々に愛用して頂き
県内のみならず、県外からも多くの注文を受けています。

なお、七代目の一男(1931~)は、以下の賞をいただいております。
☆1996年11月 静岡県優秀技能者功労表彰(知事功労表彰)
☆2002年11月 「卓越した技能者(現代の名工)」認定(厚生労働大臣表彰)
☆2003年11月 黄綬褒章受章(技能功労)

現在、娘婿の若月克己が、家業を継いでおります。
当店の剪定鋸を末永く使用して頂くよう、目立ても随時受け付けております。
どうぞ、ご利用ください。



(以上、「小川梅吉製鋸所」HPより)

 さて、旧道の左に入ると、清見潟公園。万葉の時代から風光明媚なところだった。

「万葉歌碑」。

万葉集巻三
 和銅元年(708)三月 従五位上 田口益人大夫、上野の国司に任ぜられける時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌

廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦の 寛(ゆた)けき見つつ もの念(おも)ひもなし  

静岡市清水区の北部は、古く廬原郡といった。現在、この辺りは倉庫群が建ち並び、浜辺を見ることは出来ない。

 その奥には、正岡子規の句碑。月の秋 興津の借家 尋ねけり

「説明板」。

 明治33年、病床にあった正岡子規は、温暖な地・興津への移居を思い立ちました。叔父大原恒徳宛の書簡に「興津が墳墓の地」とあります。
 移転先として松川医院(現在の興津本町河村医院)の病室を、弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐らによって借りる手筈までつけましたが、周囲の反対などから興津行きは遂に断念しなければなりませんでした。
 二年後の明治35年(1902)9月19日、子規は36歳の短い生涯を終えます。
 果たされることなかった子規の想いを偲んで、野菊の歌壇を設けるとともに、病床にて詠める一句を碑に刻してここに建てることといたしました。
 〈月の秋興津の借家尋ねけり〉

 平成14年子規100年の忌日に正岡子規を偲ぶ集い
 子規の句=良知文宛書・石垣松黄刻
 野菊の花壇=興津花の会設営

 旧道に戻った左手には西園寺公望の別荘、「坐漁荘」。

 興津坐漁荘

 西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和三代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91歳の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
 坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
 坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されいます。
 そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力、ご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。

平成16年4月 

    

   
坐漁荘庭園より三保の松原を臨む(昭和20年代)。  現在の景観。建物越しにかすかに見えるのみ。

 その先、「波多打川」沿いに進み、左手に折れて、旧道に入る。

来た道を振り返って望む。
 頭上は、「静清バイパス」。

JR東海道線「横砂踏切」。

再び1号線と合流。正面には「常夜燈」。

 通りの左手にある「井上侯爵之松」
 興津にあった別荘・「長者荘」との関連があるか?

「袖師ケ浦」。
 「横砂」から「袖師」へ。興津からこの辺り一帯にかけて、白砂青松の地であったのだろう。現在、海岸線は見えない。

 しばらく進むと、「辻町」の三叉路へ。その右手に一本の松。旧道はその脇を進んで行く。

「細井の松」。

ほそいの松原(細井の松原)

 慶長6年(1601)徳川家康は東海道五十三次の宿場を制定し、江尻宿場が設置された。同9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門・奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612)完成したと伝えられている。
 元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、辻村戸数110戸 松原の全長199間2尺(約360米)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
 ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。
 いまの松は平成四年二月、社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。

 辻地区まちづくり推進委員会

「無縁さんの碑」。

 辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に祈念碑を建て霊を慰めた。平成13年、東海道400周年を記念しこの石碑を建立した。

 平成14年3月 「生き活き」街づくり辻の会

 「袖師ケ浦」(西久保)からこの付近まで見事な松並木であったことが想像される。それにしても、伐採されるとは。当時は、お寺の梵鐘なども供出させれらた時代ではあったが・・・。

そこから来た道を振り返る。
 中央、通りのはるか遠くに白雪の富士山が見える。


 しばらく歩くと右側の壁に看板。

   

 秋葉道入口

 東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。
 この入口には戦後まで「秋葉山五丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
 この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶店も3,4軒あり、東側は細井の松原に接していた。
 平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会

 しばらく進むと、左手に看板。
「辻一里塚」跡。

 ここが日本橋から42番目の一里塚。

一里塚跡

 江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
 塚は五間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
 辻の一里塚は江戸より四十二番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。

 平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会

東側を望む。

 それからすぐの交差点の右側に再び看板が。ここが「江尻宿」東木戸跡。

「江尻宿東木戸」跡。

 江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
 この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。

 平成13年2月 「生き活き」街づくり辻の会

くの字かどうかわかりにくいが。
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薩埵峠再訪。その3。

2015-01-19 21:57:24 | 旧東海道

 同じ道を下っていく。今度は、正面に富士山。

 そのため、人によっては、「由比」側からではなく、「興津」側から上った方が感動が大きい、という。

 あえぎあえぎ上っていくと、突然、視界が開け、目の前に駿河湾と富士山が。その景観を堪能したのち、正面に富士を見ながら下って行く・・・。

  

 すると、目の前に二人の若い女性。二人ともそれぞれ大きなキャリーバッグ(海外旅行用くらいの大きいもの)を引きながら上ってくる。足元はしゃれた靴。

 「すいません、展望台はまだですか」
 「もうちょっと先だよ。でも、その先は階段になっているよ」
 「えっ、じゃあ、この道を引き返すしかないかなあ」
 「君たちなら、えいっやーって持ち上げて下って行けるよ」
 「ありがとうございます」

 さてその後、どうしたか? 後ろ姿をパチリ!  

松。先端が折れてしっまっている。
  
  
                         ミカンとビワと富士山。

中には大きなミカン? 

峠の坂道もそろそろ終わり。
 
 再び、間の宿へ。

 上るとき、目星をつけていた食事処「くらさわや」。

 午後1時30分にもなっていたので、すぐ入れた。桜エビのかき揚げと魚と野菜の天ぷら。それにビールと地酒「正雪」の濁り酒。腹ぺこだったので、一気に呑んで食べて・・・。写真を撮り忘れた! 半分くらいになった桜エビのかき揚げ。

さくさくとした食感、歯ごたえが最高。

 このまま食べても、ちょっぴり塩味がきいていて、磯の香りも漂う感じ。お酒も美味しかった。

 昨秋は不漁で、恒例の桜エビのお祭りも中止だったとか。ここのお店でも「かき揚げ」は、一人、一品限りとなっていた。

 桜エビ漁はきちんと管理され、ここの産のものしか獲ることが出来ない仕組み。それ故、「特産品」として大切に扱われてきたのだろう。
                            

 果たして今後は?

お店の窓下。

         

 正面に富士山を望みながら、由比駅に戻る。違う季節に訪れよう、今度はじっくりと。 
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薩埵峠再訪。その2。

2015-01-18 22:20:57 | 旧東海道
 青々と輝く駿河湾。対岸は、伊豆半島。

   

 遠くに見えるのは、「愛鷹山」。その右奥に小さく見えるのが、「箱根連山」。その向こうの小田原から箱根を越え、ここまで歩いてきた(断続的ではあるが)、という「実感」。

                    頭上には、トンビが悠然と。

 少し興津側に進んだところ。

椿の花と富士山。

  
                 遠く「清見潟」から「三保の松原」方向。

   
 興津側への下り口。階段状になっている。その周囲にはワシントン・ポトマック河畔の桜と同じ「薄寒桜」の木が植えられている。

 薩埵峠。今回のようにミカンがたわわに実る季節もいいが、ビワの実がなる季節、桜の咲く季節もさぞかしすばらしいに違いない。富士山を遠くに見ながらの季節の旅もまた、よさそう。

  

 時の過ぎるのも忘れてしまうほどの景色。そういえば、女性お二人、海を眺めながら四方山話に興じていた。

  
        伊豆半島・波勝崎方向。             愛鷹山方向。

 そろそろおなかも空いてきた。峠の突端のようなところから再び戻って、「由比」駅へ。

木々の間からの富士山。心地よい遊歩道が続く。

 足元には、スイセンの花が咲き乱れている。

「山の神」碑。

    ビワと小松と灌木と。

こっちの方が広重に近いかな?

 再び駐車場へ。「サントピアゆい」の旗。
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薩埵峠再訪。その1。

2015-01-17 23:40:39 | 旧東海道


        東海道五十三次之内 由井 薩埵嶺 / 歌川 広重

 薩埵峠は一方は山高く、一方は大海に望む東海道の「親不知」といわれる難所である。峠からの眺めは、五十三次中で最も美しいといわれている。遠くの富士山と青い海と白い帆掛船。そそり立つ崖の上の道を旅人と村人が通る。風雨に耐え立つ二本の松は、さらなる難路を想像させてくれる。
(「」HPより)。

  
  大正期の由井                       左の撮影地点の現在のようす。
「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より 

 当時、はげ山同然の山肌を整地し、ミカン畑を造成中。現在は、このように緑も濃いみかん山になっている。峠への道は現在とほぼ同じか?


 前回来た時は、惜しくも富士山が雲に隠れて見えずじまい。そこで、快晴の日を狙って再び訪問した。「薩埵峠」再訪。思った通りに晴れ渡って、最高の日だった。

木の間越しの富士山。
 右手は東名、国道1号線、東海道線。

  
                間の宿・寺尾の集落も明るい日差しの下。

「柏屋」。

「藤屋」の「なまこ壁」。

裏手から見る富士山。
 2階からの眺望がいいのだろう。右は東海道線の架線。

 上り坂の途中からの富士山。真っ白な富士山が遠くにくっきりと。



 「地すべり対策事業」が盛んに行われているようす。かなり見上げるほどの急斜面。
   
         完成した工事区間(峠の途中)。    工事車両の入るのも厳しい条件下での工事らしい。

はるか下には、東名、国道1号線。

振り返ると、富士山。

たわわに実ったミカン畑。

   
                         駐車場からの富士山

 少し先に進み、展望台からの眺め。
  
 海岸沿いは、左からJR東海道線、国道1号線、東名高速。

 トリミングして、広重の絵とほぼ同じ構図にしてみたが。

           

左手の木は特産品のビワ。 
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興津宿。もくネジ。本陣跡。一碧楼水口屋。清見関跡。更級日記。・・・(新蒲原から興津まで。その6。)

2015-01-15 20:49:27 | 旧東海道

JR「興津駅」に到着。駅前の小公園で小休止。大きな案内版の中に、特産品の紹介に並んで、「もくネジ」が興津の主力産業とか。

 「ネジ」の漢字は「螺旋」。「らせん」。「螺」は、タニシ(田螺)やサザエ(栄螺)のような巻き貝の貝殻。

 「もく(木)ネジ」=木材にねじこむのに適した先端形状とねじ山をもった小ねじ。


 弊社の製品は、住宅・建材をはじめとして建築、住設機器、自動車、電気製品、ホームセンターなど、様々な業界で活躍しています。
 昭和14年に木ねじ工場としてスタートした当社がステンレスねじの可能性に着目したのは昭和42年のこと。その後、よりきめ細かにお客様のニーズに応えてゆけるようにとステンレスねじ一筋で歩み始めたのが昭和55年のことです。現在、興津螺旋はステンレスねじ業界において国内No.1の生産量を誇ります。
 ねじは極めてシンプルな基盤部品であり、目立つことはありません。しかし、ときに「産業の塩」と呼ばれるほど、私たちの社会生活に決して欠かすことのできない重要なものです。
 興津螺旋は、当社のねじを愛用してくださるお客様はもちろんのこと、ひとりでも多くの人たちにさまざまなかたちで貢献し、より大きな満足と喜びを届ける企業を目指します。人々が安心して豊かな生活を営むことができるよう、私たちは常に切磋琢磨を続け、日本一の山、富士山を望むここ興津から、より高品質なねじ部品を供給し続けます。

興津螺旋株式会社(おきつらせんかぶしきがいしゃ)
〒424-0204 静岡県静岡市清水区興津中町1424  電話054-369-0111 FAX054-369-0116(代) 

(以上、「興津螺旋株式会社」HPより)

 なるほど。

 興津には、木ネジ製造の協同組合組織もあるようだ。

 さて、本題。  

一直線の旧東海道・興津宿。

右手の小公園が「興津宿公園」。

位置 
 北緯35度3分00秒 東経 138度31分10秒 海抜 4.793m
 東の由比宿に2里12町(8㎞と120m)
 西の江尻宿に2里2町(8㎞と20m)

由来
 東海道五十三次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。
 地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。

 位置などをここまで詳細に記載したものは初めて見た。さすが本場の「木ネジ」らしい精密さがうかがわれる。



 興津宿の由来 興津区まちづくり推進委員会

 慶長6年(1601)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて17番目の宿である。
 参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も二十四軒と言う賑やかな宿場となる。
 ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩埵峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。
 この付近一帯が興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神(興津島姫命)ここに住居を定めたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が住居していたのでその名を地名としたとの説もある。
 古代からの呼び名は、奥津・沖津とも言われていた。

「沖津宿案内版」。

 これによると、この公園の位置は、当時の「伝馬所」跡に当たるようだ。当時の屋号など詳細に復元されている。

「府中屋」。

                        

  
                         「沖津宿東本陣」跡。

  
                         「沖津宿西本陣」跡。

  
                         左手前にある「一碧楼水口屋」跡。

「沖津宿脇本陣水口屋跡・一碧楼水口屋跡」。

 水口屋初代当主は、武田信玄の家臣、興津砦の主であり、武田家亡き後、塩や魚などを甲斐へ物資を送る商人だった。江戸時代には脇本陣、明治以降は、政治家、皇族、財界人、小説家、画家などの各界著名人の別荘旅館として愛され、昭和32年の国体の天皇皇后陛下の宿舎としても選ばれた。
 第二次大戦後、占領軍に接収されたなか来日したアメリカ人オリバー・スタットラー氏が昭和36年に「JAPANESE INN~東海道の宿 水口屋ものがたり」を出版し、評判となり、多くの外国人観光客が訪れた旅館だったが、昭和60年に廃業し、現在はギャラリーとして代々水口屋に受け継がれた資料を公開している。

 しばらく進んだ、向かい側に「(日本橋から)166㎞」ポスト。

 右側の駐車場にある朽ちる寸前のような標柱。

 左は「榜示杭」跡、右には「清見関跡」とある。つい見逃してしまいそうな標識。表面の字もかすれ、特に説明文等も見当たらなかった。

 そこで、

清見関(きよみがせき)

 駿河国庵原郡(現・静岡県静岡市清水区)にあった関所の名称。
 跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中(673年 - 686年)に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている。
 1020年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した更級日記には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。
 その後、清見関に関する記述は吾妻鏡や平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失なったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。
 設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された。

(以上、「Wikipedia」参照)

『富士の山はこの国なり。わが生ひいでし国にては西面に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さま異なる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなく積もりたれば、色濃き衣に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。
 清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ。清見が関の波も高くなりぬべし。おもしろきこと限りなし。
 田子の浦は波高くて、舟にてこぎ巡る。
 大井川といふ渡りあり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、速く流れたり。』

(菅原孝標女『更級日記』より)


   
                        道路側にある案内版「東海道 興津宿」。

興津宿の歴史

 興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち17番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。
 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は板東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。
 鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。
 慶長6(1601)年東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。
 江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。


東海道五十三次について

 慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで天下の覇者になった徳川家康は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など街道の整備を行いました。
 なかでも特に東海道は、朝廷のある京都と政治の拠点である江戸を結ぶ重要な幹線道で、家康は、ここに宿駅をもうけ、東海道伝馬制度を実施しました。宿駅の数は次第に増え、寛永元年(1624)に53を数えるようになりました。東海道五十三次の誕生です。
 以来、東海道53次は、参勤交代制度の大名行列や庶民の旅、商人の通行などによって飛躍的な発展を遂げました。

興津宿の規模

 東海道17番目の宿場ですが、東の由比宿には2里12町(9.2キロ)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿に至ります。
 また、西の江尻宿には1里2町(4.2キロ)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。
 興津宿の宿内、町並みは東西に10町55間(1.2キロ)人馬継門屋場1ヶ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人匹
 天保14年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人女859人)でした。

「清見寺」。

 徳川家康の幼年時代に教育を受けた「手習いの間」があり、家康公が接木したと言われる「臥龍梅」、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの文化財があり、境内全域が朝鮮通信史関係史跡に指定されている。
 朝鮮通信使、琉球使節が訪れ、寺内に朝鮮通信使の扁額が残っており、異文化の窓口でもあった。この寺は三葉葵の紋を許され、徳川家の帰依をうけていた。

朝鮮通信使とは…

 家康の要請により1607年から約200年間12回、国賓として来日している。清見寺で宿泊し、地域の人たちと儒学・医薬学、詩文、書画等の交流を、夜を徹して行われた。隣国同士が約260年もの間平和で対等な交流を行っていたことは世界中でも珍しいことである。

 「興津駅」に戻る途中に見かけた老舗のお米屋さん。

「米屋博物館」でもあるらしい。

 今回は、ここまで。
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興津の薄寒桜。女体の森。身延道。興津の一里塚。(新蒲原から興津まで。その5。)

2015-01-14 23:27:30 | 旧東海道

 足を踏み外したら転落しそうな、急な階段を下りきると、大きな墓地の一角。新しく造成された墓地のようだ。

「案内図」。休憩施設も備わっている。

 直線の下り坂。「往還坂」。振り返って望む。

 下りきって左の道。かつての「下道」に通じる道。

 そのまま進み、左折すると、JR東海道線の踏切に(本来はまっすぐ進む道が旧道)。旧国道1号線に出る。その先は、「興津川橋」。

 橋のたもとの案内版。上、中、下道の解説。

 

「興津川橋」。向こうの橋は、国道1号線。

当時は人足による川渡し。川の水量により運び賃が変わっていたらしい。JRの鉄橋の辺りがそのところ。

広重「奥津」(「Wikipedia」より)。
 奥津(興津)は興津川沿いの宿場であり、川は浅く架橋はなく徒歩渡りで、河口での力士の川渡りの様子が描かれている。一人は馬、一人は駕籠であり、人夫との対比も面白い。遠くには、三保の松原が描かれている。

 「興津川橋」を渡って右の下り坂から東海道線沿いに進む。

    

おそらくこれが旧東海道らしい。そして、合流する通りは「国道1号線」。その先、左手にあるのが、

「興津の薄寒桜」。

 平成12年2月植樹

 この樹は1912年(大正元年)ワシントンのポトマック河畔に当時尾崎東京市長が桜の「苗碑を寄贈する為、当地の農水省果樹試験場にそれの育成を懇願された際の一種である。
 従ってこの時の苗木はポトマック河畔の桜と同年生まれの兄弟である。尚、この薄寒桜はその子供に当たる

   興津商工会

 「米国、ワシントンの「桜」と清水区、興津の「薄寒桜」は兄弟だった! 」

 日米友好のシンボルとして、日本の桜がアメリカに送られたことは有名ですが、その苗木が興津で生産されたことは、意外に知られていません。

~~~日米友好の桜の誕生の地、興津~~~

 日本の桜の苗木がアメリカに送られたのは、1912年(明治45年)、いまから100年前のことです。
 この苗木が作られたのは、静岡市清水区にある「果樹研究所カンキツ研究部興津」(通称、興津カンキツ試験場)。担当したのは熊谷八十三技師でした。
 実は、東京興農園より2000本の苗木が明治43年にも送られたのですが、農薬のない時代、苗木は船上で病害虫が大発生し全て焼却処分されしまいました。
 日本の威信をかけて再度送るため、苗木づくりを興津カンキツ試験場に委託されたのです。大変な労苦の甲斐あって明治45年6040本(59種類)を送ることができました。病害虫の発生もなく無事に到着でき、ワシントン、ポトマック河畔に植えられました。
 ワシントンに贈られた苗木と兄弟とされる苗木が、興津カンキツ試験場に残されましたが、戦争を経てほとんどが枯死してしまい、薄寒桜一本だけが残りました。
 残ったこの薄寒桜をなんとか残そうと頑張ったのが、今は亡き青木氏でした。(静柑連技術者 )
 当時青年だった佐野林作さんは、青木さんのことを知り、青木さんの思いに感銘を受けて行動をともにしたのです。接ぎ木から増やした二世は薩埵峠にも植えられました。
 佐野さんは、日米友好のシンボルである桜の100年の歴史は、興津の歴史でもあるこの桜を大切に次の世代に伝え、「興津から世界に羽ばたくように」との願いを込めて、「薄寒桜を育てる会」を立ち上げたのです。
 興津の海岸沿いは、バイパスが通ることとなり、歴史的にも有名な座漁荘や清見寺を代表する建物、風光明媚な海浜は、変容してしまった。
 連合自治会の副会長を務めていた佐野さんは、以前の興津を再建したいと、国や県に対し交渉を続け、人口海浜の着手など、「地域町並みデザイン推進協議会」にかかわり、自らができることを実践すべく、平成12年に「緑化推進事業」のなかに「薄寒桜を育てる会」を取り込み、地域ぐるみの活動を始めたのです。清見潟公園を中心に植樹を始め、今では町内、興津川沿いなどにも1,000本ほどが植えられているそうです
 その後、商工会議所の地域の町おこしと連携し、「興津 薄寒桜まつり」が始まりました。今では来場者が3万人を超える盛況となっているそうです。
 接ぎ木で増やした二世は、由比の薩埵峠にも(15本ほど)植えられました。一月に咲く、日本の中でも最も早いとされる薄寒桜は、峠でも見事に成長し咲き誇っていました。
 今では、ハイキングに来る人々を楽しませてくれています。

(「興津の薄寒桜 100年の歴史 - 健康いきいき心ときめき www.kenkouikigai.jp/archive/03/039EAWW3K7OLYN.asp」より)

 このいきさつは、初めて知った。

右手にある「女体の森 宗像神社」。

「女体の森」とはいかなるいわれが。

 創建は平安時代中期といわれ、祭神はスサノウノミコトの子の3人の女神(宗像三女神)で航海安全の神。女神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われている。江戸時代に木、豊穣、音楽、知恵、水の神として信仰する弁天信仰と同化され、境内の森を「女体の森」、池を「弁天池」と名づけている。
 地元の漁師は、神社の森やクロマツを灯台代わり目印にしていた。

 実は、パソコンで「女体の森」を打ったら、こんな記事がトップに。

Amazon.co.jp: 女体の森: みうらじゅん, リリー・フランキー: 本.
          

 本書は、『週刊SPA! 』の「グラビアン魂」の対談中から厳選して収録したものです。
「グラビアン魂」とは、グラビアをこよなく愛する者たちの代表、みうらじゅん&リリー・フランキー両氏による巻頭グラビア企画。
 これまで約7年半、のべ300人以上の「グラドル」と呼ばれる女性たちについて、時にそのパーツの造形美を、時にその女性が喚起させる妄想を語り尽くしました。
 その途方もない時間を費やして、粋人たちが出した「美女」の定義とは一体!?
 これは、世界最高水準の知的エロトーク集なのです。

 ?? こっちの方が面白そう! 

 それにしても、「女体の森」はインパクトがありすぎ。東海道の「旅人」にはけっこう受けているらしい。

 不謹慎でした

 しばらく進むと、右手に「身延道」碑。「題目碑」など所狭しと建てられている。

  

身延道

 身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、 鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。また江戸時代初期には身延山参詣の道として使われるようになった。

 その先の右手には、「興津の一里塚」跡。

日本橋から41番目の一里塚。

来た道を振り返る。

 午後3時少しの前の空はすっかり晴れ渡り、次の17番目の宿場・「興津宿」に入っていく。

 品川―川崎―神奈川―保土ケ谷―戸塚―藤沢―平塚―大磯―小田原―箱根―三島―沼津―原―吉原―蒲原―由比―興津。

 やっと3分の1弱。距離にして約164キロメートル。
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薩埵峠。(新蒲原から興津まで。その4。)

2015-01-13 22:58:52 | 旧東海道

 いよいよ「薩埵峠」。

 最初は、急な上り道。そのうちゆるやかになり、山肌を巻くように進む。
 はるか目の下には、駿河湾と「東名」、「国道1号線」、「東海道線」が見えてくる。

 少し上り坂が続いて、しばらくすると、駐車場。
 そこまでは、両側がたわわに実ったミカン畑やビワの木々に囲まれた山道。

 時折、上り下りする自動車、軽トラには要注意。軽トラは農作業らしいが、タクシーは通るし、マイカーは通る。

 のんびり景色を眺めながら歩いていると、クラクション! 観光目的ならそんな長い距離でも標高差もあるわけでもない。景観をじっくり楽しみながら歩けばいいのにねえ。
 
振り返ると、富士山のてっぺんだけがかすかに。

日差しは出てきたが、富士山付近は厚い雲に。

 右も左も急な斜面にミカンの木がたくさん植えられている。今がちょうど収穫期のはずだが、人の気配はほとんどない。
 運搬用のレールがあちこちに。収穫するのは人の手だからたいへんな農作業。使われなくなり、すっかりさび付き、使用されていないようなレールもけっこう見かける。

  

途中にあった案内絵図。

「薩埵山合戦場」。

薩埵山合戦場

 古来、ここで二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義(ただよし)が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍は敗退した。
 二度めは永禄11年(1568)から翌年にかけてで、武田信玄が駿河に侵攻したので今川氏真が清見寺(せいけんじ)に本陣を置き、薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。
 そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州に引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し、このとき蒲原城を攻略した。

 平成17年12月 由比町教育委員会

 しばらく上ると、見晴らしの良いところへ。

道標。「さつたぢざうミち」とある。

 これまで、薩埵峠には4つのルートがあった。

①薩埵地蔵道/由比、蒲原の人が北西にある東勝院にある地蔵へお参りに行くための道。

②上道/1654年幕府が朝鮮通信使を迎えるため開いた道。参勤交代の大名も通った。

③中道/1682年東海道として整備した道。朝鮮通信使のために整備したともいわれている。現在の峠道として歩いているルート。

④下道/古来より使われていた「親知らず子知らず」(潮の満ち引きのあいまに岩伝いに進む、という難所中の難所)の道。安政の大地震(1855年)で2m程隆起してからは常時通行できるようになり、のち、国道1号線(東海道)となる。現在、JR東海道線の線路付近。
 
 こうみると、「薩埵地蔵道」という道標の本来の位置は、もう少し北西側にあったものではないかと思われる。

 また、この「薩埵峠道」(中道)も、海沿いの「下道」が危険なく通行できるようになった以降(江戸末期から)は、「中道」は廃れ、近隣の人々が利用する農道になった。特に、明治以降はミカン畑などの整備、拡張に伴い、道幅も狭くなったり、改修が進んだ。

 その後、「国道1号線」が拡充整備されたり、「東名」が出来たりなどで、国道を歩いての通行が困難になってしまい、再び、歩行者用として「中道」が整備、復活され、さらに、広重の浮世絵効果も手伝って、観光客用にいっそう歩きやすい道になった。

 かつては峠西の下り坂などは、木も生えていない「はげ山」を下る、コンクリートで固められた道だったが、木々も植えられ、階段や手すりも整備されたため、ずいぶんとかつてとは趣を異にしているようだ。


 ところで、「薩埵」とは、

 サンスクリット語で、菩提薩埵の略。菩薩のこと。仏教において一般的に成仏を求める(如来=仏になろうとする)修行者のことを指す。

 「薩埵地蔵」は、「地蔵菩薩」と同意?

 ようやく、駐車場に到着。

 晴れていれば、富士山も見えて、絶景なのに。かすかに頭だけが雲の向こうに。無人販売所で100円玉を缶に入れて、「ミカン」を食べ、おにぎりを食べる。たくさんの人がいて、いずれも残念そう(でもないか)。

 駐車場の先の遊歩道を進む。西への下り道。

    
    展望台から。  正面には富士山が(見えるはず)。眼下には、東海道線。国道1号線。東名。 

 これが、有名な広重の絵とほぼ同じで、富士山が見えれば、感動的な「構図」。

      

 目の前には、駿河湾が広がる。 

                       

 何とか富士山を撮ろうと2,30分待ったが、晴れ間はあっても、富士山にはいっこうに雲がかかったまま。時折、頂上付近が見えるだけだった。

 しかたなく、下ることに。

途中の道標。「薩埵峠」。近くには「四阿」。

薩埵峠

 薩埵峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関ヶ原の戦から間もない慶長6年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
 薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。

風光明媚な絶景の地

その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。

 田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 
         不二の高嶺に 雪は降りける

 また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(太田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。

 山の神 さつた峠の風景は
        三下り半に かきもつくさじ


 この「狂歌」に関連して、

① 薩埵という名称が「去った」と読めて語感が悪いという理由で、江戸時代末期の和宮の徳川家茂への婚儀の行列はここを通らず、「中山道」を通過した、という。

② 「山の神」は、女神として信仰され、また恐ろしいものの代表的存在であったことから、中世以降、口やかましい妻の呼称として「山の神」と用いられるようになった。

③ 「三下り半(三行半)」は、離縁状の俗称。 離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このように称される。 もっとも、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではない。離縁まではしなくても、愛想をつかしたという意思表示程度でも「三行半をつきつけた」といわれるようになる。

④ 「かきもつくさじ」は、「書き尽くせない」の意。
 さて、狂歌全体の解釈は?


「牛房坂」。

振り返って望む。

 もともと旧道は4㍍ほどの幅があったらしい。ところどころにかつての道幅に沿って石垣が残っている。
 
   

 眼の真下には、道路、線路。目がくらみそうなほど下の位置に。



 この辺りは、「地すべり危険地帯」。大規模な土砂崩れが発生すれば、そのまま交通網を直撃する地帯。今後予想される大型台風や東海大地震の備えはどうか?

※ 昨年の10月のようす。「静岡新聞NEWS」(「静岡新聞」HPより)

<台風18号>静岡県内横断 東海道線土砂崩れ
(2014/10/ 6 14:50)

 大型で強い台風18号の接近に伴い、静岡県内は6日未明から暴風域に入り、午前8時すぎに台風の中心が浜松市付近に上陸した。静岡市の山間部付近で1時間110ミリの「記録的短時間大雨」を観測するなど各地が激しい雨に見舞われた。20市町が約35万世帯計約83万人に避難勧告・指示を出し、県と静岡地方気象台は25市町に土砂災害警戒情報を発表した。

・・・

 雨の影響で、土砂崩れも多発した。静岡市清水区の薩埵峠西側付近では、JR東海道線の上下線が土砂にふさがれた。


JR東海道本線の線路がふさがれた土砂崩れの現場=6日午前10時40分ごろ、静岡市清水区

・・・

 交通機関にも大きな混乱が生じた。東名高速道は高波と雨量規制により豊川インターチェンジ(IC)―沼津IC間が、新東名高速道は全区間が通行止めになった。
 JR東海静岡支社によると、東海道新幹線は午前6時15分ごろ、静岡―掛川間の雨量計が規制値に達し、午前10時半現在、品川―静岡の上下線で運転を見合わせている。東海道線と身延線、御殿場線はそれぞれ始発から運転を見合わせた。伊豆急行も始発から、静岡鉄道は午前7時半から、運転を見合わせた。


 この地域一体では、現在、大がかりな地すべり対策事業が行われている。

 しばらく山道を進む。

「薩埵峠」。

 薩埵峠は、古くから美しい眺めの場所として受け継がれてきた。薩埵峠からの富士山への願望は、前面の東名高速道路とバイパスにより近代的な構成となっているが、駿河湾と富士山は不変の景観財産として存在し、時代を超えて共有できる眺望景観として、将来にわたり大切に守っていくべき重要な場所であることから、眺望地点として指定する

 ずいぶんと大仰なモニュメントではある。この先の方が眺望はよさそうだが。

 岬の端を回るような地点に記念碑。正面は青々と広がる「駿河湾。」を一望する絶好の地点。

            

振り返って望む。

途中にあった二つの説明板。

「薩埵峠の歴史」。

これは右手のもの。左手には「薩埵峠の合戦」の説明板。

薩埵峠の歴史

 鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。

 (岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)

 ここに道が開かれたのは1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
 この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。

    興津地区まちづくり推進委員会

何度目かの「薩埵峠」碑。

 この先、急な階段を下ってゆく。
 結局、富士山の全貌は見ることが出来なくて、残念!
                              
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小池邸。あかりの博物館。藤屋。西倉沢一里塚跡。・・・(新蒲原から興津まで。その3。)

2015-01-12 23:44:02 | 旧東海道
 
 由比の宿場を過ぎてからJR由比駅までけっこう距離がある。
 「由比」は、「桜エビ」がウリの町。ぜひ食してみようと思ったが、あまり食堂が見当たらない。そうこうしているうちについに駅前に。駅前には食堂一軒あるのみ。時間も中途半端なのでそのまま「薩埵峠」方向へ進むことに。コンビニのおにぎりもまだあるので。

 道沿いにあった大きなおうち。

「せがい造りと下り懸魚(くだりげぎょ)」

 せがい造り
 軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁とし垂木を置いたもの。
 民家建築に美観を添えたもので、由比町の町並みに特に多く見られる。

 下り懸魚
 平軒桁の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。
 稲葉家は、この下り懸魚が施されている建物である。

 平成4年3月 由比町教育委員会
 

  
           せがい造り。                     下り懸魚。

「桜エビ」の看板はそこかしこに。

 この付近を歩いていると、間口が狭く、奥行きがある家並みに気がつく。

   

 通りに面して家を建てるケースと家の前を駐車スペースにして奥に建てるケース・・・。新旧問わず、そんな建て方が気になった。家と家の間も、狭い! 京都ではないが、古い町並みには多く見かける。ここまでの道中で見たような、通りに間口を広くどんと開けて建っている家は少ないように感じられる。それとも、この一角だけなのか?

「由比太郎左衛門屋敷跡」。

 「由比太郎左衛門」家は、代々由比・今宿の加宿問屋職を務めた家。由比で生産された塩の販売権を持っていて、由比家は、塩を敵方の武田家にも売ることにできる「半手商売」で繁栄した、らしい。

 「敵に塩を送る」という「逸話」とは、ちょっと違う? ←これは信州の上杉と甲斐の武田との関係で、商売上手だったのだ、由比氏は。

JR由比駅は、左手奥。

 その手前。こんな立て札が。

 いくら禁止し、鎖を取り付けても壊されてしまい、線路を渡る人がいるのだ。

 昔、子どもの頃、近所にもこんな場所があった。踏切に回るのはめんどくさくて、つい、線路を渡っていく。何度も禁止の立て札やフェンスが取り付けられるが、いつか壊されて、線路脇に立てられた枕木と枕木とのすきまから渡れるように。
 けっこう電車の本数が増えて来た頃で、危険きわまりない行為だった。
 それも、簡単に壊されないようなごついフェンスに代わり、いつしか高架線になり、遠い昔の話になってしまった。ついそんなことを思い出して、パチリ! 

 線路の向こうは、由比漁港。

                     駅付近は「今宿」。

「桜エビ」のモニュメントが頭上に。

 何だか雲行きが怪しくなってきた。

 駅前を過ぎ、来た道を振り返る。

「薩埵峠」への道。

 歩道橋を渡り、狭い曲がった道に入って行く。

「寺尾」(昔の海道をみる)。

 ここ寺尾には、昔、南方寺という真言寺があり地名の起源になったと伝えられている。
 昔の家並みは海沿いにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和3年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。
 現在の街道は当時のままの道幅、所々に格子戸、蔀戸の古い家をみることができる。

 平成4年3月  由比町教育委員会 

 

  
         「小池邸」。

 「国登録有形文化財 小池邸」

 小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。
 この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、なまこ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました

  静岡市 

 庭には、「水琴窟」があり、小石の上に水をたらし、備え付けの竹筒を耳にあてがうと爽やかな澄んだ響きが聞こえる。

 すぐ向かい側にある「あかりの博物館」。

 「小池邸」は、じっくり見学させてもらったが、ここには入らずじまい。

由比宿 東海道 あかりの博物館

暮らしを支えてきた"あかり"を観賞
提灯、油あんどんなど、なたね油、ローソク、石油のあかりの点灯展示を観賞しながらあかりの歴史が学べる博物館。東海道の旧宿場町由比の街中、大正8年に建てられた民家を移築した趣のある建物です。
たき火からかがり火へ。ローソクから電灯へ。さまざまに姿を変えながら、いつの時代も変わることなく暮らしを支えてきた"あかり"。
古灯具を中心に1000点以上が展示され、日本の古今のあかりの様子がわかります。火おこしの実演も見学できます

(以上、「myたび 静岡 shizuoka.mytabi.net」HPより)

「静岡新聞NEWS」より

 夫の遺志継ぎ「あかりの博物館」再開 静岡・由比 (2015/1/ 5 16:14)

亡き夫の遺志を継ぎ、博物館を再開した片山嘉子さん=昨年12月18日、静岡市清水区の由比宿東海道あかりの博物館
 昨年9月に亡くなった「由比宿東海道あかりの博物館」(静岡市清水区由比寺尾)の片山光男館長の遺志を継ぎ、妻の嘉子さん(72)がこのほど、館の運営を再開した。オープン以来、夫婦二人で切り盛りしてきた施設。嘉子さんは「主人が情熱を傾けた博物館。自分が元気なうちは頑張りたい」と語る。
 同博物館は電気関係の会社を営んでいた光男さんが「明かりの文化を後世に残したい」と、1996年10月に開いた。全国各地を回って集めた照明具など3千点以上の中から、厳選した約千点の“明かり”を紹介している。たいまつ、燭台(しょくだい)、ガスランプ、LED(発光ダイオード)照明−。人々の暮らしとともに変化した明かりの文化が一目で分かる。
 展示以外に、器具の解説や火打ち石を使った火おこし体験などを行い、来場者をもてなした。これまでに5万人以上が来館し、旧東海道由比宿の名物スポットに定着した。
 光男さんが亡くなり休館したが、嘉子さんは「家でじっとしていたら、主人に怒られてしまう」と昨年12月、再開を決意した。開館以来ほとんど休まずに光男さんが育てた博物館について、嘉子さんは「主人の意思でこれだけのものを集めた。多くの人に見に来てほしい」と話す。
 開館時間は午前10時から午後3時。入館料は高校生以上が500円。中学生以下は200円(大人同伴なら無料)。月曜定休。臨時休業あり。問い合わせは同館<電054(375)6824>へ

 こういう小橋を何度か渡る。 

 道沿いは、古い家並みが続く。新築の家もこの地域の伝統を損ねないようにつくられている。

「間の宿本陣跡」。

 ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で十軒ばかりの休み茶屋があって、旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を賞で旅だっていった。
 ここ川島家は、江戸時代慶長から天保年間凡そ230年間代々川島勘兵衛を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣とも呼ばれ、西倉沢村名主もつとめた旧家である。

 平成4年3月  由比町教育委員会

新旧入り交じった、それでいて落ち着いた家並み。

「明治天皇ご小休跡 柏屋」。

 江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。
 明治元年及び11年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。
 明治15,6年頃、静岡県令大迫貞清(おおさこさだきよ)が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところら、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。

 平成4年3月 由比町教育委員会

 これから先、ミカンに混じって、ビワの木が植えられていることに気づく。
 
 「薩埵峠」への上り坂の左手前にあるのが、「山岡鉄舟ゆかりの家 望嶽亭 藤屋」。

   

間の宿 藤屋

 薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶茶店を営み、礒料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物にしていた。
 ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれている。

 平成4年3月 由比町教育委員会
 
 また、「藤屋」には幕末、官軍に追われていた山岡鉄舟が座敷の地下から舟で清水に逃げたというエピソードもあり、鉄舟の残していったピストルも展示されている、らしい。

 上り坂の右手にあるのが「西倉沢一里塚」跡。

 日本橋から数えて40番目の一里塚。「薩埵峠」東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。

  

 「ふるさとを見なおそう」

 戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦せし古戦場として知られ、又東海道随一の難所「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている。
 峠は磐城山・袖崎ともいい万葉集に「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五三次のうち、ここ薩埵峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものはあまりにも有名です。
 山の神 薩埵峠の風景は 三行り半にかきもつくさじ 蜀山人

 昭和48年4月 倉沢区倉和会
 
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