おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その4。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-30 19:07:24 | 甲州街道

 (13:29)「木舟」の集落に入ります。



バス停「木舟」。

「東京から189㎞」ポスト。

 大きなお屋敷が並んでいます。


                       

 集落のはずれ右手に「カーショップ」があり、その手前のカーブした急坂を上っていきます。「甲州街道」の表示有り。
  

(13:40)その先でJR線の上を越していきます。

上り電車が通過。                
跨線橋を渡ったら、左折し線路に沿って進みます。遠くには「東洋バルブ茅野工場」へ向かう高架橋。




「宮川」沿いののどかな道筋。

マンホールの図柄は「諏訪湖流域 御柱祭」。

(13:55)「早川橋」を越えると、ダンプなどが行き交う道に合流し、「宮川」沿いに左折します。
 

 「宮川」の向こうを走っていた中央線が鉄橋を渡って街道側に。


 (14:05)やがて国道20号線の宮川板室交差点。その右手には古仏群と常夜燈が建っています。


「弓振川」を渡り、「板室」の交差点に出ます。
 

国道沿いに進むと、向こうには「中央道」の高架橋が。


                        

(14:25)しばらくすると、「宮川」交差点。ここで国道と離れて、少し右手の道を進みます。


すぐ左手に鈿女(うずめ)神社と三輪社。
 「鈿女神社」の「うずめ」は、日本神話に登場する神「アメノウズメ(アマノウズメ)」にまつわる。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神。
 岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
 「古事記」では、アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った、と。
 「神々を笑わせた」ということから、をこ(滑稽)な所作をするワザヲキ(俳優、隠された意味を指すワザを招く/ヲク者)即ち芸人、コメディアン、俳優の祖とされ、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。芸能・技芸全般の神として信仰されている。
 鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められている。村境や道路の分岐点などに立てられる道祖神は、サルタヒコとアメノウズメであるともされる。
(以上、「Wikipedia」参照)

(14:32)向かい側には「丸井伊藤商店」という「マルイ味噌」の味噌蔵。ここは工場と店舗を兼ね、中に入ると独特の香りに包まれます。
 

                          

 沿道には現代建築になまこ壁を取り入れた建物なども。
 

(14:40)「上川橋」。これを渡れば茅野駅はすぐそこ。

 橋の上から東(上流)を望むと、中央本線の鉄橋が見えます。この鉄橋の右、少しだけ見える土の斜面が、御柱祭上社の木落しです(↓)。
 

 ここからじきに茅野駅(14:50着)。今回はここまで。次回でやっと完結することになりそうです。

 途中で見かけたお店。「こてえ 天香館」。

こて絵(こてえ、鏝絵)
 日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことである。左官職人がこて(左官ごて)で仕上げていくことから名がついた。題材は福を招く物語、花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現される。これは財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いられた。
 漆喰装飾の一技法で、。古くは高松塚古墳、法隆寺の金堂の壁画にあり歴史は古い。また天平年間の立体塑にも見られる。具体的には小さなこてを焼いて、それによって紙または板を焦がして描く。焼き絵、鉄筆ともいう。 木で心柱を作り、その外側に荒土や白土にすさ糊を混ぜた材料で作るのがこて絵の源流。 漆喰は、貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作る。
 江戸時代中期から徐々に盛んになり、静岡県松崎町出身の名工、入江長八がこて絵として芸術の域にまで昇華させたが、戦後、在来工法の衰退と共に腕利きの左官職人が減少。一時は幻の技巧となったが、近年、建築の分野で再評価が進んでいる。長八の故郷の松崎町では1984年に長八美術館が開館し、松崎町では毎年「全国漆喰鏝絵コンクール」が開催されている。
顔料として土や岩、焼いた貝殻を粉末にし、黒はまつやロウなどのスス、また墨を砕いたものであったりといろいろ工夫がみられた。

(以上、「Wikipedia」参照。)

 そういえば、何軒かこの装飾を掲げたおうちを見かけました。

 「鏝絵天香館」は、茅野市ちの駅前の小川天香(本名善弥(ぜんや))の鏝絵作品を展示したギャラリーです。
 鏝絵とは、日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことで、左官が壁を塗る鏝で、絵を描いた装飾品です。古くは法隆寺の金堂の壁画にも代表される漆喰技法の一技法であり、西洋のフレスコ画も同様の技法です。題材は福を招く物語や花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現されています。
天香は、左官を業としましたが、早くから鏝絵の名人伊豆の長八に憧れ、その高い技術を磨くため18歳で上京、長八亡き後の高弟今泉善吉に師事し、東京、千葉、京都、新潟で数々の重要な建造物を手掛けました。45歳以降は左官業を廃業し、地元茅野に戻り、長八の残した鏝絵技術を継承し、それ以上の作品を作成するために生涯一生稽古を心情に、100点ほどの作品を残しました。鏝絵天香館は、平成25年4月に地元の機運が高まり展示公開の運びとなり開設され、60点余りの作品を展示しています。
HPより)
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その3。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-29 19:59:22 | 甲州街道
 「金沢宿」に向かいます。 セイコーエプソン関連の体育施設が左手に続きます。

 広くなった旧道が狭くなっていきます。

右手に見える山は全山、見事な紅葉。

次第に下り坂になると「金沢宿」の一角に入って行きます。

道ばたの民家沿いにある古仏。

(12:42)国道20号線に合流します。その手前には「金沢宿案内図」。


                        

「東京から187㎞」ポスト。

(12:51)その先の交差点には「金沢宿本陣跡」解説板。

金沢宿本陣跡
 五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き約4里(約15km)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。甲州街道の宿場には25人の人足と25匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
 本陣は大名や公家が泊ったり休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には2軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安4年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
 本陣の敷地は約4反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた4代三郎左衛門は、延宝6年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され 家は闕所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の3藩であったが、 江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。

 平成11年5月吉日 金沢財産区金沢区金沢歴史同好会

 小松三郎左衛門が本陣を勤めた頃、諏訪藩の命令により金沢宿の所有地および、大沢山の入会権を隣の茅野に奪われてしまいました。そこで、三郎佐衛門は諏訪藩に直訴、しかし捕えられ、妻子まで処刑されてしまったのです。この地では「みょうり様」と呼ばれ親しまれている。
 その後、明治17年裁判で金沢宿の権利が認められました。

 金沢宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠17軒でした。

その隣には「長野県」と記された石碑。

宿内のようす。国道に面しています。

 
左側に旅籠屋「松阪屋武右衛門」で二階に連子格子を残す家。入口に昔のくぐり戸も残している。また「旅館 HOTEL 松阪屋」と英語が使われている古い看板も掛かっている。明治時代に掛けられた看板と思われますが、なかなかユニーク。隣の理髪店の回転式サインポールとが奇妙な趣。

古い家並みも残っています。

 (12:56)しばらく歩くと右手に、二階に連子格子を持つかなり大きな建物。昔、馬方宿を営んでいたという小林氏宅。家の前の大きな石の前に「馬継ぎ石」が一つだけ残っています。馬方はこの穴に馬を結びつけて、同家に宿泊などしたわけです。
 

「金沢下町」バス停。

 この先「金沢橋」へ向かいますが、旧道は右へ枡形となって、国道脇を通るようになっていましたが、失われているので、国道を通ります。

 (13:02)橋を渡ってすぐ右手に「権現の森」。
 
 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長15年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安3年(1650)の大火を機に南方の現在地に移転し、翌4年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。
・・・ 
 信仰の場、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。

 平成17年7月 茅野市教育委員会

 ここで、小休止。


 (13:19)しばらく国道を進むと、左手の田んぼの中に「寒天の里」という大きな看板が目に入ります。

諏訪地方の寒天の歴史
 寒天は天草などの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品です。
・・・
 美濃屋太郎左衛門が営む旅館に、参勤交代の途中の薩摩藩主、島津候が宿泊した際、主人の太郎左衛門は、さまざまなご馳走でもてなしました。そのひとつに、テングサを煮て作ったところてん料理があったのです。
 主人は残ったところてんを外に放置しておいたところ、真冬の寒さでところてんは凍結し、日中自然に解凍されては乾燥し、やがて白い半透明の美しい乾物に変わっていったのです。主人はこれを見つけて、試しに煮てみると、ところてん独特の臭みがない透明のかたまりができました。
 この出来事が寒天誕生の始まりで、研究の結果、製造方法が確立されたと伝えられています。当時はまだ「ところてんの干物」という認識でしたが、これを試食した高僧隠元禅師が「寒天」と名付け、その後各地に広がりました。このように、寒天の歴史は古く、日本で生まれた伝統的な食材なのです。
・・・
 茅野市に伝えられたのは、170年以上前のことです。(1840年代)
 角寒天の形状を維持して、天然製造で日本一の生産量を維持しています。
茅野市は「寒天の里」です。そしてこの寒天が、高血糖や高コレステロール、高血圧や肥満の改善及び予防に有効だと、平成17年(2005)2月16日放送のNHKのためしてガッテン!で取り上げられました。


HPより)

 その先、左手奥にこんもりした森が見えます。そこにあるのが「木舟の一里塚」。
 
 この一里塚は日本橋から49里目(50里目とも)の塚で、その場所は中央線の敷設や耕地整理のため移動し、本来の場所ではないそうです。見に行くには、川を向こう側になります。
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その2。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-28 22:38:10 | 甲州街道
 (11:37)開けたところに出てきます。左手の林の中に小径。この道が残された甲州街道だという話も。
 

左手が広い田んぼ(現在、大規模に土地改良工事中のようです)、左手の高台が「カゴメ富士見工場」と続きます。のどかな山里の風景。


                     駐車場が上の方に。

入笠山方向。

           晩秋の装い。

(11:49)神戸(ごうど)地区に入ります。

「甲州街道サルビア通り」の名称。

季節はずれのため、枯れています。

咲いていると(「Wikipedia」より)、

火の見櫓のところを直進して急坂を下ります。

                       

坂道の途中に「庚申塔」などが建っています。

(11:58)「国道20号線」に合流します。回り込むように左手へ。

「富士見リゾートパノラマ入口」交差点。

 (12:01)その先の右手に大きな記念碑。「博愛 孫文」と刻まれた碑と「小川平吉先生生誕之」碑。
 
小川 平吉
 1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1942年(昭和17年)2月5日)は、日本の弁護士、政治家。号は射山。衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任。
 1892年(明治25年)弁護士となり、1901年(明治34年)近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。1903年(明治36年)衆議院総選挙に出馬当選、以来当選10回。日露主戦論の急先鋒となり、1905年(明治38年)日比谷焼打事件の主謀者として投獄され無罪。政友会に入り同会幹事長を経て1920年(大正9年)原敬内閣の国勢院総裁。1925年(大正14年)加藤高明内閣の司法大臣、1927年(昭和2年)田中義一内閣の鉄道大臣。1929年(昭和4年)私鉄疑獄、売勲事件に連座して逮捕され、1936年(昭和11年)懲役2年で入獄。政界を引退。1940年(昭和15年)恩赦。
 鉄道大臣当時、全国の駅名を右横書きにし、説明のローマ字を廃止した。平吉には“タコ入道”、“オガ平”、“ズル平”といったあだ名がつけられていた。
・・・
 小川は国粋主義者だった。日露戦争前の議会では主戦運動の先鋒となり、1905年(明治38年)9月、日露戦争講和の時には「戦いに勝ちながら屈辱的講和をなすとは何事だ」と日比谷焼打事件を引きおこし、日韓合併にも積極的に動き、第一次世界大戦後、左傾思想がさかんになると、治安維持法の制定にテコ入れをし自分でも日刊紙『日本』を創刊して左傾思想に対抗した。鉄道大臣在任中それまで左書きだった駅名標をすべて右書に改め、“国粋大臣”の異名をとった。
 小川は鉄道大臣を辞めた2ヶ月後、五つの私鉄買収にからむ収賄事件で起訴され、留置された。中村勝実著『信州の大臣たち』56頁によれば、「大臣在任中の二年間に、二百近い私鉄の営業許可を与え、そのうえ田中義一内閣が瓦解する直前にもその置き土産といって、十数本の私鉄敷設を許可した[12]。しかもそのほとんどが、国鉄や私鉄他社の並行線だったので、とかくの噂を呼んだ。」という。ことに、田中義一内閣瓦解直前の時期に集中して乱発された路線敷設免許の大盤振る舞いは、名阪間で最終的に直接競合することになる路線を構成する2社線に対して同時に認可を与えるなど交通政策上矛盾した、あまりに杜撰極まる内容であり、空前の愚策であるとして各方面の非難を浴びた。
 小川一族について、佐藤朝泰の著書『豪閥 地方豪族のネットワーク』442-457頁によれば、
「閨閥地図を広げれば、新旧の政治家、高級官僚、財界人の名がキラ星のごとく輝いている。地図上には歴代総理大臣が四人。地図をもう少し広くとれば、この倍以上にはすぐ増える。だが小川姓の総理がいるわけでない。輝く星の一つ一つがそれぞれ大きな星座を形成している。たとえていえば、有力家系を縦横に繋げる真綿や星雲のような一族なのである。政界人なら元首相宮澤喜一や鈴木善幸、古くは林銑十郎や吉田茂。閨閥地図をもう少し広くとれば、鳩山一郎、岸信介・佐藤栄作兄弟などにも繋がる。
小川一族がこのような存在になったのは、女系の強さにもよるから、字義どおりの大閨閥なのである。この大閨閥の源は信州の諏訪。戦前の代議士、司法大臣・鉄道大臣などを歴任した小川平吉だ。この人が大閨閥の真綿の大元、つまり繭玉である。」という。

(以上、「Wkipedia」参照。)

このおうちにも「雀おどし」の意匠。

「御射山神戸(みやまごうど)」交差点。


 大きな冠木門のあるおうち。


                          

「東京から184㎞」ポスト(12:08)。

「御射山八幡」交差点。

国道から左手の道を上っていきます。

 
 (12:15)旧道を坂道で登ってゆくと右側に馬頭観音の群れが現れます。新しい馬頭観音が目立ちます。青・チビ・花などの名が刻まれています。

(12:18)その先、左手に目指す「御射山神戸一里塚」。

富士見町指定史跡 御射山神戸の一里塚
 ・・・
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から四八里め(四九里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ三八〇年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲六・九メートル、樹髙は約二五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。

平成10年3月 富士見町教育委員会
 

 見事な一里塚。しばし見とれるほどの歴史的な風格があります。
 

「標高917m」という標識。



そこから来た道を振り返る。

一里塚を振り返って望む。
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とち(芧)の木~金沢宿~茅野。その1。(「甲州街道」をゆく。第13日目。)

2017-11-27 21:01:42 | 甲州街道
 
 11月15日(水)。晴れ。
 今回は、富士見駅から歩いてとちの木集落のはずれ、一里塚まで(11:00)。ここから出発。
 
重修一里塚碑」。
 江戸から47里目(48里目? )。後方に見える小山が現存の一里塚。その傍に「甲州街道コース」と記された道標が立っています。
 土地としては「塚平」と呼ばれる地区に位置しています。

少し集落に入戻ったところに、「甲州街道」の解説板があります。

進む方向を望む。

 しばらく進むと、旧道は立入り禁止の私有地にぶつかるので。左に折れてその先を右折、太陽光パネルがたくさん設置された敷地を横目で見ながら進んで行きます。


                                    

(11:13)回り込むと「原の茶屋」地区に。

「富士見駅」からの道と合流。

 ここまでのちょっとした道筋。何となく熊が出てきそうな雰囲気を感じました。帰ってから調べてみたら、このもっと山奥の林道に熊の目撃情報があったようです。 

古い家並みが続きます。

入笠山方向。

(11:18)集落の中ほどに「富士見公園」があります。
公園由来
 明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。
 この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、「財ほしき思いは起る草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損わぬように公園を作りたい。」と腹案をもらされた。
 村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年左千夫の指示を受け、富士見村や原之茶屋の協力によって富士見公園は出来上がった。
 早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い多く、左千夫歌碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り3基の句碑と共に歌碑公園として、文学愛好者の訪れが絶えない。

 アララギ派歌人のゆかりの公園で、伊藤左千夫・島木赤彦・斎藤茂吉・森山汀川等の歌碑があります。

 このほかにも、芭蕉句碑が公園入口付近にあります。元禄7年芭蕉が箱根を越えたときに読んだ句です.

眼にかゝる ときや殊更 五月不二 

しばらく公園内を散策。 

「松丘句碑」。
 草に入る 光れる水や 秋晴るゝ

「伊藤左千夫歌碑」。
さびしさの極みに堪へて天地に寄する命をつくづくと思ふ

※碑の書は島木赤彦のもの。

「斎藤茂吉歌碑」。
高原尓足乎留而目守良無加飛騨乃左加比乃雲比曽武山

「ゝ山(ちょんざん)句碑」。
富士さして蒲公英並ぶ野路哉

「森山汀川歌碑」。
郭公者国之最中尓鳴機乎里而?羅比久日能?萬寸

「島木赤彦歌碑」。
水海之冰者等計而尚寒志三日月乃影波爾映呂布
※碑の書は斎藤茂吉のもの。

「富士見公園解説板」。

 四阿のところで小休止。紅葉も見事で、しっとりと落ち着いたたたずまいのすてきな公園です。


 (11:31)旧道歩きの再開。沿道のおうちの屋根に独特の飾りが目につきます。


                

 「雀おどし(おどり)」と呼ばれる棟飾り。本棟造(ほんむねづくり)という長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式で、切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾りが特徴だとか。これから先、目にすることになりそうです。

集落のようす。

「明治天皇駐輦之處」碑。

注:駐輦(ちゅうれん)
(「輦」は天子の乗り物) 天子が行幸の途中で車を止めること。

その先に「明治天皇御膳水」。

 民家の横に「常夜燈」。

句が刻まれたちょっとユニークな常夜燈。

 (11:36)集落のはずれには 道祖神や筆塚。
 
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その6。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-24 20:35:02 | 甲州街道
 これから「金沢宿」に向かいますが、途中の「とちの木」の集落で街道歩きは終えて、JR「富士見駅」から帰ることとします。

 瀬沢の集落に入ると急坂が続きます。「吉見屋」の先で道は二股に分かれますが、左の急坂を上って行きます。


(14:10)分岐点に道標らしき石碑。
                              中央に「富士・・・・」、「右・・道」、「左・・道」?

その先、左手の石垣のところにも「道標」。「右・・・」。

古仏群。

 この付近の「国道20号線」沿いに『瀬沢古戦場』の碑があります。
瀬沢の戦い
 天文11年(1542年)3月に信濃瀬沢で行なわれた甲斐守護・武田晴信(信玄)軍と信濃諏訪の領主・諏訪頼重軍並びに信濃守護・小笠原長時連合軍の戦い。
 天文11年(1542年)3月、諏訪頼重は晴信の政権基盤がまだ盤石でないのを見て、信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐への侵攻を図った。これに対して晴信は自ら出陣し、諏訪・小笠原連合軍を甲信国境で迎撃する。この合戦での被害はまだ盤石な体制を築けていない武田軍にむしろ被害が出たとされ、激戦が繰り広げられた。しかし晴信は瀬沢に本陣を布いて徹底的に抗戦し、遂に連合軍を退けたとされる。
ただし、確実な史料においてこの合戦に関するものは一切見られない。
 「瀬沢の戦い」は武田氏による諏訪氏の滅亡を正当化するために後年に創作された合戦ではないかとする考察もあり、合戦そのものの存在が疑問視されている。
(以上、「Wikipedia」参照。ただし、出典・論拠が不確かなようです。)



                    

けっこうな上り坂が続きます。

(14:19)右手の丘の上に「知的障害者厚生施設「しらかば園」が見えてきたら、急坂も終わりです。
 
                                                     振り返って望む。

ゆるやかな上り坂になります。

「とちの木」の集落に入ります。

                               

(14:30)「とちの木公民館」。
                              「とち」は漢字表記だと「」と書きます。

 ここで「芧の木」集落からJR「富士見駅」へ向かいます。約1600㍍ほど歩きます。



                               

「国道20号線」を越え、ゆるやかな上り坂を進みます。

(14:59)「富士見駅」。

 東京起点 182.9キロメートル
 標高 955.2メートル
 富士見駅は中央本線の中では標高が一番高く、分水嶺に位置する。
八ヶ岳山麓の裾野に広がる富士見町は鉄道が開通してから避暑地として知られ分譲別荘地などが増え、今は四季を通じてスポーツが盛んである。

富士見駅・跨線橋からの八ヶ岳。


 ここ「富士見町」には、かつて、結核の高地での長期療養を主目的としたサナトリウムとして「富士見高原療養所」が存在し、多くの著名人などが入院、療養に専念したところです。
 中でも、堀辰雄は1931年(昭和6年)夏に大喀血をし、療養生活に入ります。
 1935年(昭和10年)婚約者の矢野綾子の療養のため高原療養所にともに滞在しましたが、5ヶ月後に綾子は25才で死去。
 彼女との療養生活を元に「風立ちぬ」(1938年・昭和13年作)が生まれました。

 その後、この施設は現在、総合病院「JA長野厚生連富士見高原病院」として、1981年(昭和56年)に長野県厚生連の管理に移管、後に周辺地区の病院・診療所・老人福祉施設を運営する組織として「富士見高原医療福祉センター」が成立すると、富士見高原病院はその富士見事業部下の本院として位置付けられました。
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その5。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-22 21:48:26 | 甲州街道
                          「鳥沢宿」のような印象です。


 その先、右手に「御膳水(ごぜんすい)」があり、その奥に与謝野晶子の歌碑があります。
 
 この水は七里ヶ岩から出る湧水であり、明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。
 その御膳水と、あと2箇所の湧水を利用して、明治39年頃、蔦木宿の街道筋に、16箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和26・27年頃まで使用されていたものです。
 当時の施設の石が保存されていたのでここに復元いたしました。

・与謝野晶子歌碑
 白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな  

 歌碑の書は与謝野晶子の孫である与謝野馨の手によって書かれています。

 (13:05)その先、左側(西側)に「西桝形跡碑」が建っている。宿の北口に当たる「枡形道路」が残っています。


道路の中頃には、石仏群。

サイカチ。
 川除古木(かわよけこぼく)。
 釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤と呼ばれる堤防があります。川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株です。
 明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれています。

 そのまま進むと、まもなく国道に出ますが、その手前・左にある小道に入ります。この小道が旧道ということですが。
 

(13:12)国道20号線には「東京から175」㎞」ポスト。

 国道20号線をしばらく進むと、左手に「岩田屋建材」。砂利が大量に山積みされています。旧道はそこを左に入って土手沿いに進んでいたようです。 が、その道が再び国道に合流する付近には高圧電流が流れるネットが張ってあり、そこを抜けるには大変危険! そのまま国道を進んだ方が無難です。
 

(13:26)旧道と国道が合流する付近に「庚申塚」などが。

しばらく国道を歩きます。

右手には「ドライブイン赤石」。

(13:33)その先、道路下、左手に「平岡一里塚」。
                                   日本橋から41里目。

 (13:40)しばらく行くと、右手に「机」方面へ進む坂道があります。その坂を上って振り返ると、遠くに富士山(↓)が山の向こうに見えました。
        

けっこうな上り坂が続きます。

右手にあるおうち。

 上り坂を進み、「旧落合小学校・現落合保育園」(小学校は2012年3月31日をもって閉校)の先で、小川を越します。
集落を振り返る。

 (13:54)やがて、「国道20号線」を見下ろす地点へ。左眼下は水田、右手は崖になります。
 

国道に合流し、「瀬沢大橋」に向かいます。

来た道を振り返って望む。

(14:04)橋を渡ったら、国道から離れ、川に沿って左手の道に入り、旧道を上って行きます。


久々に見かけた「飛び出し坊や」。

旧家らしい家並み。瀬沢の集落。
                        珍しいベンガラ塗り。

軒下には「めどでこ」。

教えて!御柱祭(6) 
[Q]メドデコとはどんな物?

 諏訪大社御柱祭で「メドデコ」「メドデコ乗り」といった言葉を耳にします。どんな物なのでしょうか。
 メドデコは、御柱の前部と後部に穴をあけて差し込み、V字形に取り付ける木の柱を指します。漢字を当てると「目処梃子(めどでこ)」。それぞれのメドデコに氏子たちが鈴なりに乗って気勢を上げ、おんべを振りながら進む姿は上社側だけの勇壮な光景です。
 今回の御柱祭で諏訪市中洲・湖南地区の曳行(えいこう)の統括責任者「斧長(よきちょう)」を務める守屋幹彦さん(56)の解説では、上社側の曳行路がまだ舗装されていなかった時代、八ケ岳山麓の火山灰を含み、ぬかるんだ土から脱出するために、メドデコを左右に振り、勢いを付けて前に進んだのが始まりといいます。他の大総代らによると、明治期ごろに導入され、やがて氏子が乗るようになったようです。
 御柱はモミの木ですが、メドデコは丈夫なナラの木。かつては10メートルを超え、1本に10人以上乗せた地区もありました。しかし、狭い道で着脱するなど祭りの進行の妨げとなる面もあり、今回の御柱祭では6メートル以下に制限します。

(「信濃毎日新聞」2016年2月10日掲載)
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その4。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-20 18:54:27 | 甲州街道
                                     下蔦木の集落に入ります。
蔦木宿
 戦国時代、この地は甲州領域にありました。幾度の諏訪勢と甲州勢との戦いの末、1535年、堺川で両者は和睦の会盟を行いました。1540年、諏訪頼満の孫頼重は、武田信虎の息女祢々を娶り、化粧料として堺方18ヶ村を信虎から頼満へ譲られたと伝えられています。この時、この土地も武田家から諏訪家へと移りました。
 江戸時代の旅人は、「蔦木日暮れて道三里」と言って蔦木で日暮れてから三里は歩いたそうです。甲州街道は甲府まで開かれた後、中山道の下諏訪まで延びたようであり、その時ここへ宿場が作られました。道路は500mほどの一直線で、その両脇に梅と柿の木の並木があり、旅人の心を癒したそうです。
 開宿時から明治に至るまでの宿場の賑わいは相当なもので、商店が建ち並び南諏訪の繁栄の中心でもあり、住民の鼻息も荒かったようです。
・・・
(以上、HPより)

 蔦木宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒でした。江戸幕府の宿駅制度によって、慶長16年(1611)ころ、甲州道中第43番目の宿駅として設置されました。

「高座石」(敬冠院)脇にある石碑群。

 (12:32)その先、すぐ左手に「三つ辻柳由来」解説版。
 川路下りょか逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳
 蔦木日暮れて道三里 さてどうしよう道三里
 下蔦木小唄の一節です。ここに詠まれた三つ辻柳のモデルとなったしだれ柳の古木が甲州街道の此処堂坂の登り口にありました。
 それは情趣ゆたかな大木で敬冠院の百日紅、椿とともに住民からたいそう貴ばれ親しまれておりましたが樹勢次第に衰え強風の折ついに倒伏してしまいました。
 以来六十年余経た今日ありし日の堂坂三つ辻柳の景観を偲び後生に伝えるよすがにと此処に植樹をした。
 平成二十一年三月二十日 下蔦木集落組合
                      

のんびりと宿内を歩いていきます。

「731m」という碑。

 この先で道は二股になり、左へ向かいます。
 

 (12:40)周囲が開けた道に出てくると、正面奥には「上蔦木」。旧道は集落を抜け、向こうの山の鞍部に向かって進みます。


 道沿いの木々には何やら札が下がっています。「みんなできれいに甲州道中」「味わい深い蔦木宿」・・・・。地元の熱意が伝わります。
 

                  

すっかり熟した柿の実が陽に映える。

 「応安の古碑」。応安とは北朝の年号で、応安5年(1372)。諏訪郡で最古のもので、六角灯篭や常夜燈が建っています。
 (なお、この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇、後円融天皇。南朝方が長慶天皇。室町幕府将軍は足利義満。)


                  

しばらく進むと、国道20号線を眼下に望む道にぶつかります。

キウイ? 

台地の上を進みます。

(12:47)集落に入ると、「蔦木宿」という大きな看板。

「常夜燈」、「祠」などの石造群。

 宿内には屋号を掲示したおうちが並んでいます。「元気を出すぞ蔦木宿の会」のみなさんにより古くから伝わる屋号の看板が軒先に設置されました。
 

その先に「枡形道路」跡。


 蔦木宿は、甲州街道(道中)の宿駅として、慶長16年(1611)ころつくられた。
 この宿駅は、新しい土地に計画されたので、稀に見る完備した形態となっている。
 枡形道は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割をはたしてきた。
 平成3年度の道路改良工事のために、南の桝形路を移動したので、その形態を碑面に刻し、これをのこす。

 国道沿いに宿場は続きます。「上蔦木」交差点の角に「本陣大阪屋」跡があります。
「甲州街道蔦木宿 家並みと屋号」。

本陣跡
 蔦木宿の街は街道に面していて、屋敷割りをし、本陣・問屋などが位置づけられた。 本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。現在は、門のみ存在している。
 

「明治大帝御駐輦跡」、甲州道中蔦木宿本陣跡」碑。

「甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革」解説版。
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その3。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-17 22:30:40 | 甲州街道
                          眼下に田園風景が広がります。
              
(11:26)明治天皇が通ったとき、田植えが行われていて、それをご覧になったという記念碑があります。大きな台座に大きな記念碑。
「明治天皇御田植御通覧之趾」。明治13年6月23日のことです。

「上教来石」。

晩秋の趣。

 (11:35)左手には立派な碑。「御膳水跡」碑。
 明治13年、明治天皇がご巡幸の際にこの細入沢の湧き水をお飲みになり、お誉めに与かりました。

 現在は、涸れ沢になっているようです。
 紅葉の盛り、静かな道筋。

(11:38)国道に合流します。

すぐに右手の道を進むようになります。

「白州町観光名所マップ」。

豪壮な造り。

(11:51)しばらく進んだ右手に「山口関所跡」。
  
町指定文化財(史跡)  山口関所跡
 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
 この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治2年番所が廃せられるまで勤め、明治6年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
 今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。

「西番所跡」碑。
天保7年8月百姓一揆時に開門、その責任をとり名取慶助は若尾に改姓、明治4年廃藩により廃止 1992年 若尾法昭

来た道をふりかえって望む。

その先、直線道路が続きます。 

次第に「国道20号線」に近づいていきます。

 ふりかえって望む。

 「新国界橋」の手前で合流。旧道は国道を突っ切ってそのまままっすぐ進んで、「旧国界橋」を越えていたようですが、その道を行くと再び国道と合流する手前、動物除けの高圧電圧が流れる「感電ゲート」が設置され、そこをくぐり抜けるのは大変危険なため、不可能なようです。したがって、そのまま、「新国界橋」を渡って長野県入りとなります。
 国道の向こう側にかつてはコンビニがあって(現在、立入り禁止)、その駐車場の脇に、教来石出身の山口素堂の大きな句碑があって、有名な「目には青葉 山ほととぎす 初かつお」の句が刻まれていましたが、撤去されたのか目に入りませんでした。



左手奥の方に見るのが、旧「国界橋」。

(12:06)いよいよ長野県・富士見町へ。

旧道に架かる「旧国界橋」。

旧道。ダンプカーの先に「感電ゲート」があります。

(12:13)「下蔦木」交差点を過ぎ、しばらく進んで右手の急な上り坂に入ります。

すぐ右手に「日蓮聖人高座石」解説板。
 富士見町指定史跡
日蓮上人の高座石
 文永11年(1274)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時である。
 伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したといわれる。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたという。

 富士見町指定天然記念物
敬冠院境内付近の樹木
 敬冠院境内と付近に現存するサルスベリ、ヤブツバキ、シュロ、ビワなどの樹木は、冬もあたたかな暖帯に生育する植物で、当地方のような高冷地で数種がこれほど大木に生長していることはきわめて稀である。
 とくにサルスベリは推定樹齢200年と目され、これほどの大木は近隣に類例がない。

                              平成11年3月        富士見町教育委員会

 
                          (12:30)モミジが敷き詰められた境内で小休止。
            

  
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その2。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-16 20:35:21 | 甲州街道
                            白須の集落には立派な蔵のあるおうちが目につきます。

軒先には干し柿が。

 (10:20)しばらく進むと、台ヶ原の台地を抜け、前沢の集落へと下って行きます。正面には、「七里岩」。
            

 晩秋の田園風景。刈入れの済んだ田畑、周囲の山々はちょうど紅葉の真っ盛り。


                       

ゆるやかな上り坂。

(10:35)中ほどにある「林屋商店」の古い方の建物

その先、左手にある句碑。
                    玉斎吾七「槍もちの おくれて通る 日長かな」。

見事な紅葉。

集落をふりかえって望む。

「前沢上」の交差点で「国道20号線」に合流します。

 国道に出てすぐ、「神宮川」に架かる「濁川橋」を渡ります。
 神宮川の旧名は濁川。大雨が降ると流れが白く濁ったことが由来のようです。神宮川に沿って広大な敷地を保有するサントリーのウィスキー工場が出来た時、濁川から神宮川へ改名したそうです。明治神宮参道の玉砂利を献納していることから、住民の改名要望に企業イメージアップを図るため、サントリーが後押しし実現したと言われます。

国道から右手の道に入ります。

(10:51)街道沿いの左手にアカマツ。

 その先、右側には白州町の広大な総合グラウンド。


                 遠くに八ヶ岳。

この辺りの地名は「松原」。先ほどのような松並木があったのでしょうか? 

「荒田」の集落に入ります。

足下のマンホールは「甲斐駒ヶ岳」のデザイン。

手入れの行き届いたお庭。

常夜燈。この地区には常夜燈が目につきます。

(11:06)「荒田」地区。

 広々とした田園風景の中を進みます。


                          「南アルプス」。

 旧道は、「教来石」に入ります。「教来石」という地名の起こりは2世紀、日本武尊の時代にまでさかのぼるようです。

教来石宿(きょうらいし)
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠7軒であった。教来石宿は、下教来石が本宿で上教来石は加宿であった。
 村の西に教来石があり、高さ七尺(約2.1m)、竪三間(約5.4m)、横二間(約3.6m)の巨石である。昔は石の上に小祠があり日本武尊を祀ってあった。現在は近くの諏訪神社へ移設されている。日本武尊がこの石の上で休息したといわれ、村人が経(へ)て来石(こいし)と呼び、経を教と誤記したものと伝えられている。(この項、「人力(じんりき) - 旧街道ウォーキング」HPより)
 ただし、上記の石かどうかは、定かではなさそう、何しろ2000年ほど昔のお話ですので。「酒折」宮などヤマトタケルノミコト(「古事記」では「倭建命」という表記)の東征説話にちなんで、甲州街道もまたご縁がありそうです。

(11:12)宿の入口にはリサイクルショップ。

「流川橋」。ここから「下教来石」。

              

(11:18)まもなく国道に合流します。

 国道の左の高台に「明治天皇小休所址」碑。ここが宿の本陣だったのでしょう。
         

 左手に駐在所、右手に郵便局。そこを右に入るのが旧道。(11:21)


                        
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化けそこなったあげく、・・・正体がばれて逃げだすタヌキ。

2017-11-14 23:08:23 | 平和
小池氏、希望代表辞任へ…都政に専念

 結局、「民進党」解体に結びつけた功績はこれ以上の大は、なし。これで、よしとすべきとでも。

 どこぞ(日本会議?・・・)からお褒めの言葉やねぎらいを期待して。

 何しろ機を見るのは敏なお方。葛飾区区議選での敗北コメントもいかにも彼女らしかった。

 殊勝に反省しているとは思えません。この屈辱の仕返しは、必ずするぞ! との決意も新たに。捲土重来を期す、か。

 でも、あれだけ持ち上げたマスコミも「どぶに落ちた犬は叩け」とばかりの論調。

 お気の毒な感じすら。誰に泳がされたのかね?

 でも、そのもっと上手をいくのが公明党・創価学会でしょう。

 小池百合子知事が14日に国政政党「希望の党」代表を辞任したことを受け、都議会公明党の東村邦浩幹事長は報道陣に「これまで小池知事寄りのスタンスを取ってきたが、これからは是々非々でやっていく」と述べ、小池氏が特別顧問を務める地域政党「都民ファーストの会」との「知事与党」関係を解消する考えを示した。
 公明と都民ファーストは7月の都議選で選挙協力し、都民ファースト大勝の一因となったが、東村幹事長は「代表を辞めようが残られようが、我々のスタンスはあの時で決まっていた」と述べ、小池氏の国政進出が知事与党離脱の決定打だったとの認識を示した。
 都議会の定数は127。都民ファースト(53人)と公明(23人)を合わせれば76人となり、都議会の過半数を占めていた。だが、今後は都民ファーストだけでは予算案や条例案を可決できなくなる。
 東村幹事長は「必要であれば自民との対話もしていきたい」とも述べ、都議会自民党との関係修復を目指す考えも示唆した。【毎日新聞 芳賀竜也】

 キツネとタヌキの化かし合い、か!
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台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その1。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-13 21:46:03 | 甲州街道
 このところ、土日に所用があってなかなか遠出できません。今回、久々の「甲州街道」。

 11月11日(土)。富士見町周辺。朝方までかなり強い風雨だったようですが、着く頃にはすっかりおさまって(北海道や東北は大変なようす)、快晴。西南の風が吹き荒れ、歩くのにはいささか苦労。しかし、すっかり吹き払われた風情の下、紅葉もちょうど見頃を迎えています。

 「富士見駅」からタクシーで「台ケ原宿」まで。若い女性の運転手さん。今年の夏も秋も天候不順で観光客もさっぱり。やっと落ち着いてきたかなと思ったら、まもなく冬化粧です、と。

(9:53)「台ケ原宿」。
日本の道百選・甲州街道
台ヶ原宿の歴史と由来
 台ヶ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ・・・」とあり、台ヶ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。
 元和4年(1618年)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ヶ原宿も宿場として整備拡充されていったと考えるのが一般的です。
 台ヶ原宿は江戸への里程四十三里十町余、韮崎宿へ四里、隣の教来石宿へ一里十四町、江戸より数えて四十番目、宿内の町並みは東西九町半の位置になり、天保14年の宿村大概帳によれば、人口670人、家数153(加宿共)とされています。
●本 陣 宿中にあり、建坪97坪余、門構え、玄関付き、1軒
●脇本陣 当時は無く宿役人の家において勤める
●問屋場 宿の中程にあり、問屋、年寄、馬指、各1人が勤める
●旅 籠 宿内14軒、大1、中6軒、小7軒、木賃宿1
●郷 倉 宿内1ヶ所
●一里塚 宿内1ヶ所 木立無之

・・・
                      白州町 台ヶ原宿景観形成推進委員会



国道建設から免れ、宿場らしい古い街並みを残す。

立場跡と共同井戸跡


◎立場跡
 立場は宿駅の出入り口にあり、旅人・籠かき・人足・伝馬などが休憩する掛け茶屋であった。建坪が42坪で、時には旅籠としても利用されていた。
◎共同井戸跡
 昔は、湧き水や川水などが生活用水として利用されていたが、衛生面から井戸を掘って、共同で維持・管理し、数戸から十数戸が利用していた。当初は、つるべ式の揚水施設であったが、後に揚水ポンプが導入され便利になった。・・・しかし、昭和30年から白州町になり全戸に町水道がふきゅうしたので、各所にあった共同井戸は廃止されるようになった。

 

⑭旧本陣跡
 大名が陣を敷いた場所というところから、大名級の者が宿泊した所である。したがって、規模は広大であり、門を建て玄関を設け、上段の間を有することで一般の旅籠と区別され、一般の旅籠には許されない書院造りの建築様式であった。
 天明2年の記録に、敷地は間口18間、奥行き19間の351坪で建坪は92坪であった。

⑬秋葉大権現常夜石灯籠の由来
 往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應3年「秋月講」というグループが誕生し、防火を念願して「秋葉大権現」の石灯籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。・・・
 

街並みを望む。

日本の道100選は、1986年、道の日制定を記念して旧建設省が日本の特徴ある優れた道104を選定したもので、東海道では瀬田の大橋、中山道は安中の杉並木などありました。甲州街道ではここ台ヶ原の宿場町が選ばれています。


甲州街道の宿場町・台ヶ原宿
 往時の脇本陣、旅籠屋、問屋場の原形を残しており、江戸時代の宿駅としての盛況がうかがわれる。国道二十号バイパスの建設により、現在は生活道路となっている。・・・

 その先、郷倉跡高札場跡の説明板があります。

⑨郷倉跡
 毎年の生産物より一定量を備蓄して、非常の時に対応するために造られた備蓄庫であり、囲い籾(古いもの)は、新しいものに取り換えられた。
 文化3年の記録に「壱ヶ所貯穀有之」と記され、凶作の時に時価をもって極難の者に分売したとある。また、明和4年には郷御蔵壱ヶ所、二間に三間の建物で敷地は除地であった。慶應2年の大凶作、嘉永7年の大地震のときに旧穀を借り受けたという。・・・
⑪高札場跡
 幕府からの命令を板の札に墨で書いて掲示した場所で、幕府の権威を人々に認識させる役割を果たしていた。
 文化3年の記録によると、その大きさは高さ二間余、長さ三間、横七尺であった。

七賢」。

          甲州台ヶ原見て歩きMAP」。

竹林の七賢
 中国,3世紀後半に河南省の竹林に集って遊んだ阮籍(げんせき),王戎(おうじゅう),山濤(さんとう),向秀(しょうしゅう),嵆康(けいこう),劉伶(りゅうれい),阮咸(げんかん)の 7人をさす。彼らは,老荘道家の思想(→老荘思想,道家)の影響を受けて,礼教を軽視し,世俗に背を向けて,竹林で気ままな生活を送ったと伝えられる。虚無厭世家の集団ともいわれ,清談の象徴的人物とみなされている。しかし,そのような見方は,西晋(→晋)の滅亡の原因を道家思想に転嫁しようとしたときに生まれた虚構の伝説である。実際には,七賢の大部分は高級官僚としての定職にあったのであり,竹林に遊んだという史実は見出せず,タケの林は北中国には存在しない。しかし,後世になると,世俗のわずらわしさから逃れて生きた賢者の集団として,中国人の生き方の一つの理想像となった。



                      
 明治13年、明治天皇山梨ご巡幸の際、北原家母屋奥座敷4間がご宿泊所「行在所」に指定され、ご一泊賜る栄誉に浴しております。また、奥座敷には高遠藩内藤駿河守より拝領、立川専四朗富種作の透かし彫りによる「竹林の七賢人」の欄間一対が残されており、酒銘「七賢」の由来にもなっております。

(「七賢」醸造元「山梨銘醸」HPより)

 まだ10時というのに、お客さんが続々と見えています。

問屋場」跡。

「七賢」の向かいには「金精軒」。有名な信玄餅の元祖のお店。ここにも観光客が訪れています。



登記所跡
 この登記所は、明治24年2月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するために開庁された。
 はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大正元年12月に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により、大正10年7月より現在の白州町と武川村をその管轄としたが、昭和50年3月韮崎出張所に統合され廃所になった。




(10:05)甲州街道一里塚跡碑 

                   
 日本橋から43里目。

「つるや旅館」の手前。旧館があります。右から左へ、「津留や諸国旅人御宿鶴屋」とあります。
 

向かう先を望む。

 国道に出る手前、右手にある火の見櫓のところを右に折れます。


(10:13)この先、白須の集落に入ります。
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「新宿御苑」菊花展、開催中。晩秋のぬくもりを求めて。

2017-11-02 20:54:25 | じじばばがゆく
 お久しぶり。4ヶ月ぶりかな。ご心配おかけしました。

 あれから色々ありまして、ご連絡もままならず、失礼しました。

 そう、我が身と家族のことで、病気の心配事が続いて、・・・。



 ま、わたしの方はやっと原因が分かったし、気長に病気とつきあうしかないかな、と。

 私の病気、遺伝的な要素もあるのかしらね。父親にもそんな感じがあったし。

 一病息災って、ありがとう。相変わらず親切ね。


 7月、8月とばたばたしているうちに、あっという間に過ぎちゃった。

 もう年だから、終活よ、終活。あなたも考えた方がいいわよ。

「大作り花壇」。
 まだ少し早かったかもね。

 でも、「too late」ってそう寂しいこと言わないでって。う~ん、それはそうだけどさ。


 こういうのは、みんな御苑の職員の方達が丹誠込めて作っているんですって。


 おしゃれなネーミングね。「堀切菖蒲園」なんかもそうだけど、世話もたいしたものよね。



                           

 天気もいいし、けっこう人も出ているわね、新宿御苑も。のんびりと散策もいいわね。

 残りの人生、じっくりじっくりやっていくしかないわよ。
ツワブキ。これもキク科の植物。

 今度の例会。そう、どうしようか迷っているんだけれど、やっぱりみんなと会いたいし。

 夜は足下がおぼつかない、って。たしかにね。大丈夫よ、まだ。

 にんじんを切ったり、白菜を切っていると、手元をえらく心配してくれているわ、家族みんな。

 でも、あんまり病人扱いはイヤですわ。

 すっかり秋、というか冬の雲らしいわね。鱗雲? 筋雲? 鰯雲?
 

            
 我が家の庭なんか、草ボウボウよ。手入れもできずに。髪の毛は何とか。


                 

 ・・・どこがですって、そういうくだらないことは、言わないの!


 大輪から小菊までまさに色とりどり。

 そうなんだ、菊の花ってお葬式を想像しっちゃて好きじゃないのか。

 
 ちょっとやせたかも。すっきりした顔になってるでしょ。よけいな憑きものがなくなったって。

 達観しはじめたのかしらね。あなたももう少し枯れた方がいいわよ、髪の毛だけじゃ無くてさ。

 どうする? 食事するなら「四谷三丁目」に知っている店があるけれど、島根の魚や地酒を飲ませてくれるところ。以前、知人が働いていたのよね。

 お店の名? 「善丸」だったかな? 前は違う名前だったようだけど。

 まだ時間があるからって、どこに行くつもりなのよ? どうせ、いつも同じパターンなんだから。

 ここで、ぼんやりするのが一番だわ、余計なこと考えないで。

 でも、人生80年、いや、90年。あと何年、元気でお会いできるかしらね。

 ユリノキ。見上げるほど、見事な大木。

 このユリノキは、明治20~30年代に日本で初めて植えられたものらしいわ。ということは、樹齢、約120年以上か。
 赤坂迎賓館から外堀通りの紀伊国坂をはじめ、都内の街路樹のユリノキは、このユリノキが母樹といえるようよ。

 120才はありえないけど、周りに迷惑を掛けない程度に元気でいたいわね、お互いに。

 少し休んでから、お店に行きましょう。ぬくもりを忘れないように。
 
菊を観る会(菊花壇展)
 毎年11月1日から15日まで、御苑内の日本庭園にて環境大臣主催で開催される。期間中は特別開館期間となり休園日もなく入園が可能。130年以上続く菊花壇展のルーツとなったのは1878年(明治11年)、皇室関係者向けの「菊花拝観」を宮内庁が主催して赤坂の仮皇居で開催。1904年(明治37年)より新宿御苑でも菊の栽培、1929年(昭和4年)から観菊会が行われた。同展示会の特色ある展示物のひとつである菊花壇「大作り花壇」とは、1884年(明治17年)より作られており、1株の菊を数百輪集めて、半円形の形状に仕上げて咲かせた技法の名称。他に回遊式の日本庭園の景観・順路に沿ってさまざまなテーマに合わせて上家(うわや)の建物内に趣向を凝らした花壇が展示されている。(以上、「Wikipedia」参照)

 11月1日(水)。晴れ。
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