おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

赤羽緑道公園。JR赤羽駅下車。その1。

2014-05-31 23:46:20 | 鉄道遺跡
 北区の王子、赤羽付近には、軍隊の施設がたくさんありました。その施設への引き込み線が張り巡らされていました。それらの施設は、戦後、ほとんどが民間工場などに転用された後、現在は、学校施設、スポーツ施設や住宅地になっています。十条にある「自衛隊十条駐屯地」以外ありません。線路跡も残ってはいません。しかし、道路の形状や建物の位置などで類推出来る廃線跡もあります。
 中でも、「北区赤羽緑道公園」は、線路跡を緑道公園化していますので、比較的分かりやすいものになっています。ただ、緑道公園のいわれなど説明板やモニュメントがどこにもないのは、残念。
 反面、木々に囲まれた静かな遊歩道のあしもとがが線路模様になっていて、それをたどることで、かつては線路だった、と。さらに、横断歩道橋の手すりに車輪がかたどられている、そんな見える工夫はされていました。また、草花も豊か、小鳥のさえずりも聞こえてきて、味わいながら散歩できる緑道でした(自転車通行は厳禁)。


明治時代後期の頃のようす。↓には「兵器庫」との表示。この敷地に線路は入っていきます。


戦前のようす。上の↓には「火薬庫」とあります。○は被服庫。ここに支線が伸びています。


2000年代初めの頃のようす。↓A「火薬庫」は、桐ヶ丘団地に、↓B「兵器庫」は、現在は「味の素フィールド西が丘」、○D「被服庫」は、赤羽台団地になっています。○Cは、当時から台地(軍施設があった)脇の田んぼ地帯で、現在、「赤羽自然観察公園」や「赤羽スポーツの森公園」として整備されています。(以上「今昔マップ」より)。

赤羽駅西口から少し坂を上がったところからスタート。正面の建物と左の空地が線路跡と思われる。

未整備の土地が残っている。

西側から望む。

 もともと、線路は、現在、新幹線の高架下をくぐった先にある「赤羽八幡神社」の脇を抜けて本線と合流していました。
赤い線が線路跡。↓が「赤羽八幡神社」。1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。新幹線がまだ建設されていない。その後、神社の脇に新幹線の高架ができて周辺のようすも大きく変化しています。

ここから「赤羽緑道公園」が始まる。静かで落ち着いた散歩道。

車輪のモニュメント。JR赤羽駅西口広場から通じる道路に架けた歩道橋。

振り返って望む。右手に小鳥のブロンズ像が並んでいる。

ほぼかつての線路と同じように進んでいく。

ところどころ、すれ違う箇所のように線路が分かれている。

遊具などもなく、自転車も入って来ない。

かつての団地のイメージとは様変わり。ここが「被服庫」跡とは想像もつかない。支線の跡はもちろん皆無。

先には、鉄橋のようなものも。歩道に描かれた線路の模様も少し変わってくる。

右手は福祉施設の建物。線路跡に沿ってカーブしている。この先で「赤羽緑道公園」はおしまい。

 では、この先、線路跡はどうなってしまうのか? 「味の素フィールド西が丘」まではまだまだ先。はたして?
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読書「鐘の渡り」(古井由吉)新潮社

2014-05-30 22:39:29 | 読書無限
 時・空を、あるいは人称を越えた語り口。これが、この方の小説作法なのだろう。夢うつつ、その端境に聞こえる声、声、声・・・。鳥の、赤子の、老人の、両親の、兄弟の、・・・。そして、晩鐘の。否、外界の音だけではない、自らの内から聞こえてくる音。これらの深みに対しては、彩りをなす花々は、どれもこれも「淡い」イメージ、もっといえば、セピア色、さらにいえば、無色透明さえも感じ取らせる。
 死者は、息を引き取る際、五感のうちの聴覚が最後まで残っていると聞いたことがある。生者と死者との交流は声をもって終わりとなすか。そして、さまざまな、肉親を含めて人間を看取る主人公。いつか自分も。
 老いてますます研ぎ澄まされる聴覚、そして視覚、嗅覚、・・・五感。身体へ心へ染み渡り、醸し出される、不思議(思議せず)な「小説」世界。登場人物たちは、自在に己の世界を紡いでいく、その語り部としての作者に徹底する姿勢は、読者をうならせる魅力にあふれている。
 「窓の内」から始まる八つの連作。騒然と、何かにせかされるように生きる(しかない)現代人に静寂をかぎ取る感性というものの豊かさを気づかせる見事な語り口でした。
 「鐘の渡り」。3年ばかり暮らした女をついふた月ほど前に亡くした友人に誘われて晩秋の山にでかける男。自身は春には女と暮らすことになるだろうと思っている。
 「―鐘の音に目を覚まして、ひさしぶりにぐっすり眠った気がした。思うことも尽きたように鳴り止んだ。明日からは物も考えなくなるだろう。」
 山から帰った晩、女の部屋を訪ね、目の前の女にのめりこんでいく男。山で聞いた鐘の音は二人の幻聴だったのか、とも。 
 「朝倉のつぶやきが隣でまどろむ自分の内に鐘の音を想わせ、余韻の影を追いきれなくなり目をさました自分の声が朝倉の内に、幻聴ながらおそらくくっきりとした、鐘の音を響かせた。これはつかのまながら交換になりはしないか。暮らした女を亡くした男と、これから女と暮らす心づもりの男との間の。」

 こうして、幽冥の世界が描き出される。過ぎ去った者の生の声、声、声。連作を通して通奏低音のごとくに響いてくる。
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いまさら自民党にこびを売ることもできず。はてさて。未練ばかりが残る双方。

2014-05-29 00:12:19 | 世間世界
維新「分党」へ…旧太陽議員、石原氏に同調か(読売新聞) - goo ニュース

 イシハラ以外の御仁は、維新のメンバーに入っていなければ、前回の総選挙、参院選で全員落選していたはず。もちろん、維新の若手もそういう人間もたくさんいるだろうが。・・・
 「イシハラ」さんを見捨てるわけにも行かず・・・。
 そこで、こうなったら昔の夢でも見ながら己を振り返るのもよし。自民党にこびを売ることも出来ず、どこまでも節を通して産経文化人に全面協力してもらって、次回に備えるもよし。ここで、かのカメイさん、再登場か? 
 いずれにしても、お好きにしたら、という感想。
 しかし、政治家は落ちればただの人ということの怖さを知っている連中ばかりだから、もとのさやにおさまるかもしれないぞ、と。
 イシハラの読みでは自民党が公明党切りに走ったら、出番だぞ、と。でも、公明党はそうやすやすと政権与党から下りない、と踏む小生。アベがどう出るかって、イシハラ一派ごとき「暴走老人」連中は、所詮、相手にしないさ。
 
 ところで、マスコミ。分裂と言わないで、「分党」と。「みんなの党」の時は「ぶんれつ」と騒ぎたてたのに。 
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JR常磐線亀有日立引き込み線跡。JR亀有駅~中川公園。

2014-05-27 22:00:48 | 鉄道遺跡

 1938(昭和13)年、日立製作所亀有工場が足立区大谷田町、現在の大谷田団地および中川下水処理場一帯(JR常磐瀬・亀有駅の北東、西新井に向かう「環七」が、大きく西にカーブするあたり。)にできました。最盛期には2万人以上の従業員が働き、戦時中には、戦車など兵器が作られていました(ちなみに、飯塚橋の通りは「戦車街道」とも呼ばれていた)。
 この工場を「亀有日立」と地元の人は呼んでいました。現在も周辺には日立関連企業があります。
 戦後、大型重機などを製造していましたが、都内にあった大規模工場の地方移転策により、1974(昭和49)年に土浦工場に統合され、操業を終えました。

 「亀有日立」への引き込み線の跡が一部に残っていて、現在、住宅地になっています。高架線となっているJRが、亀有駅を出発して金町に向かうところ。
 航空写真で見ると、まるで貨車が連結されているかのように見えます。
2010年代のようす。




1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上方に「亀有日立」の工場があったが、跡地はほとんど更地に。引き込み線も廃線となって線路跡の部分はすでに建物が建っている。残された常磐線との分岐点付近のみ整地が進んでいる(→)。


「亀有日立」工場のない頃。

「工場」が出来た頃。引き込み線がある(青い線で表示)。

引き込み線が工場奥深くまで続いている頃。

工場が移転し更地になっている頃。

現在。

 (「今昔マップ」より。注:↓「正法禅庵」の位置は変わっていない、と思われる)

分岐点付近。現在は高架になっているが、かつては地上線だった。
正面奥が引き込み線跡の住宅。
   敷地境界線の大きな表示石が左右にある。
東側から見たところ。


通りの方から見たところ。
 
ブロック塀の向こう側。


正面の建物から奥の方へ続いていく。中央奥が常磐線の高架。

通りを挟んで反対側(「亀有日立」側)への延長線。この先、線路跡は定かではない。

「亀有日立」工場の南側の部分・「中川公園」横の交番の向かいの建物。この付近までが線路跡のはずだが・・・。

←が「常磐線・亀有」方向、↑が「環七」方向。
広々とした空間。



その奥にある都下水道局の大きな敷地。「中川水再生センター」。
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一里塚。八丁畷。(旧東海道を歩く。京急「生麦」~「八丁畷」。その4。)

2014-05-25 21:09:09 | 旧東海道
 鶴見川を越えて「鶴見市場」、「八丁畷」方向へ。

「鶴見川橋」(旧鶴見橋)。「鶴見橋」の名称は「第一京浜」が「鶴見川」に架かる橋の名になった。

「鶴見川に架かる橋(鶴見区内)一覧」(www.asahi-net.or.jp/~tv4y-szk/turumigawa/turumigawa.htm‎より)

対岸(鶴見市場方向)から望む。

「鶴見市場」方向。

 橋のたもとの公園にあった説明板。


 「鶴見橋」界わいの情景
 この橋から見えた富士や箱根の山々、海原に浮かぶ帆掛け舟などが多くの旅人や文人たちの心をとらえました。
 ・・・界わいは、名産だった梨の木が一面に続き、街道沿いの茶店には鶴見名物の「よねまんじゅう」が売られていました。また、橋のたもとには当地の産物などが運ばれた「市場河岸」があった・・・


 
 「鶴見川橋」
 慶長6年(1601年)頃架けられたといわれており、東海道とほぼ同じ歴史をもっています。
 大正末期までは「鶴見橋」の名称で多くの人に親しまれ、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、長さ25間、幅3間といわれておりました。(多摩川は「渡し船」で渡った)
 橋の周辺は視界が開け、橋上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所でありました。
 ・・・平成8年に鶴見川をひとまたぎするアーチ橋として生まれ変わりました。

案内板。

ほぼまっすぐな道が続く。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

「市場西中町一里塚公園」。2013年に整備されたばかり。塚に当たるところには、鳥居と小さな神社(祠)が祀られている。かつての写真を見ると、祠の南側に接するように民家があった。

 上の地図で、ほぼ北西から南東に流れる川(地図上では六郷川・多摩川の支流から分かれ、鶴見川に注いでいたようだ)に架かる橋付近。川は現在は道路になっていて、バス停が「市場橋」。
「市場橋」の親柱。

「武州橘樹郡 市場村一里塚」碑。

説明碑。

【市場の一里塚】
 慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
 里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
 ここは、江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
 昭和8年(1933)6月「武州橘樹群市場村一里塚」の碑が建立されました。
 平成元年(1989)横浜市地域文化財に登録されました。
     横浜市教育委員会文化財課 財団法人横浜国際観光協会  平成5年3月

「由来記」碑。

【市場村一里塚由来記】
 昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。
     昭和三十八年五月 
        熊野神社宮司   萩原 豊英
        一里塚保存会代表 鈴木規久藏
                      松本喜代之介
                     外有志一同

案内板。

【市場西中町一里塚公園】

 「市場西中町一里塚公園」は、現存する一里塚の横にあることから、地域の要望により命名され、平成25年3月に整備されました。
 一里塚は、慶長9年(1604)、徳川家康が街道を整備する際に、里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えたものです。ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。一里塚は、明治9年(1876)地租改正で民間に払い下げられ、現在、民有地の一里塚はほとんど残っていません。
 市場村一里塚は、地元の人々の史跡を残そうとした努力もあって、昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」(添田担書)の碑が建立され、当時の場所に現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。平成元年(1989)には、横浜市地域文化財として登録されました。
 公園の園名柱は一里塚の碑をイメージしてデザインされました。昔から一里塚が地域に愛され残されてきたように、この「市場西中町一里塚公園」が地域に親しまれることを祈ります。

 この案内板には、昭和8年当時のようすを示す写真が掲示されています。

「京急ストア」前。商店街になっていきます。「鶴見市場」駅付近。熊野神社前には、三叉路が組み合わさってのスクランブル交差点あり。
そこを抜けると、しばらく住宅街が続きます。まもなく横浜市鶴見区から川崎市内に入ります。
「市場上町」交差点。ここから「川崎市」。道幅も広くなります。
地名は「下並木」。かつての「八丁畷」。

 鶴見川橋手前の案内板。この↓のところが「八丁畷」。


1880年頃のようす(「同」より)。直線の道が「八丁畷」。田畑の中を幅も広い、並木道になっている。下方が「鶴見市場」。
 
 こうしてJR・京急「八丁畷」駅に着きました。
正面の高架がJR線。

京急のホームから見上げるJR線ホーム。

 「京急鶴見」駅前などの商店街を含め、「旧東海道」が道筋も道幅も、ほぼ当時のままに残っていることは驚きでした。
 今度は、神奈川宿から西へ挑戦してみましょうか。以上、品川宿~神奈川宿でした。
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京急鶴見駅前。鶴見川橋。(旧東海道を歩く。京急「生麦」~「八丁畷」。その3。)

2014-05-24 21:10:47 | 旧東海道
 第一京浜との交差点を渡って、京急鶴見方向に進みます。だんだんと賑やかな商店街に入っていきます。これまで違って人通りも多くなってきました。


「蛇族 まむしや 戸山生命堂」。もう廃業したようすの古い店先。

繁華街。



駅前の交差点を越えて進むと、旧東海道の案内板。鶴見は川崎宿と神奈川宿との間の「間(あい)の宿」として賑わったようです。品川の先から川崎宿と少し内陸寄りに進んでいた「東海道」。この辺りから再び海岸に沿って南の方向、「神奈川宿」に向かいます。視界が開けるこの地は風光明媚な土地だったようです。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。西側にある直線は東海道線。JR鶴見駅が「鶴見乗車場」と記されている。「杉山社」とあるのが、現在の「鶴見神社」。旧東海道は、現在の通りのまま。

「鶴居堂」跡。
 ここには、せきの特効薬「苦楽丸」で街道筋に知られた「鶴居堂」を営む黒川四郎左衛門の屋敷がありました。・・・

正目奥が「鶴見神社」。

「身禄道」。鶴見神社の参道をいう。富士山信仰を広めた食行身禄の像がまつられていることによる。境内の奥に「富士塚」が残されている。
 なお、「食行身禄」と「富士講」について、「『富士山コスモロジー』(藤原成一)青弓社」P109~に詳しく記載されている。

「富士塚」(「Wikipedia」より)
 「富士塚」とは、富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚のこと。都内にもいくつか残されている。神奈川県内にも多く残されているようだ。
 鶴見神社は、古来、杉山大明神(杉山神社)と称された。「杉山神社」と称する神社は、全国でも横浜市と川崎市、特に鶴見川流域にのみ散在・鎮座し、数十社が現存する。

「鶴見駅」方向を望む。

案内板。↓が旧東海道(赤い線)。これから「鶴見川橋」に向かいます。

繁華街を抜けて静かな文教地区へ。この辺の道幅は旧東海道当時と同じようにいくぶん広くなっている。

道標「寺尾稲荷道」。

馬場稲荷社(寺尾稲荷)

 寺尾城址の西山麓に寺尾稲荷が祀られている。現在は地名が馬場になったことから馬場稲荷と呼ばれているが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていた。
 江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として有名になり、江戸からの参詣者も多かった。それを物語る奉納絵馬・石碑類が多数残されている。
 正一位相国稲荷の位をもつこの寺尾稲荷は、『新編武蔵風土記稿』の「馬場村 稲荷社」に、「正一位相国稲荷と号す。相国の文字いかなる故と云ことを知らず。馬術を学ぶ人当社に祈誓して大いに感応ある由。いづれの頃か紀伊殿厩を預かれるもの信仰して相国の号を与へしと云・・・・」とあり、江戸時代に紀州藩や江戸城の馬回り役から信仰されていたことを裏付けている。
 旧東海道鶴見村の東海道との分岐点(現鶴見図書館前)にある「寺尾稲荷道」の道標は3度も建て替えられている。
HPより)

 この「古道」は、現・東横線菊名駅に通じていて、「寺尾稲荷(馬場稲荷)」はその途中にある。

「鶴見川橋」。もともとは「鶴見橋」と称したが、旧名は「第一京浜」に譲った。

「鶴見橋」絵図。

橋の手前にある旧家の表札に住所の変遷が記されている。

 東海道武蔵国橘樹郡鶴見村字三軒家→神奈川県橘樹郡生見尾村鶴見三家→横浜市鶴見区鶴見町1,921→横浜市鶴見区鶴見中央2-17-18

(注:①橘樹郡(たちばなぐん)=かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられ、日本武尊・弟橘媛を祀る橘樹神社がある。
   ②生見尾村=旧生麦村の「生」、旧鶴見村の「見」、旧東寺尾村の「尾」を合わせて「生見尾村」となった。)

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海岸電気軌道・鶴見臨港軌道「総持寺駅」跡。(旧東海道を歩く。京急「生麦」~「八丁畷」。その2。)

2014-05-23 22:02:34 | 鉄道遺跡
 しばらく進むと、「第一京浜」にぶつかります。
「国道」駅付近。

正面の道が旧東海道。

振り返って生麦方向を望む。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。→の付近が現在の「第一京浜」との交差点付近と思われる。


2010年代のようす。海岸側が開発されている。

 ここでちょっと寄り道。川崎大師まで運行していた路面電車の軌道。産業道路建設を機に廃止された。その総持寺駅跡と路線跡を探索してみました。

海岸電気軌道

 神奈川県横浜市の総持寺駅(京急本線の京急鶴見駅 - 花月園前駅間にあった駅)から川崎市の大師駅までを結んでいた軌道線(路面電車)。
 臨海地区の工業地帯の通勤輸送を目的に1925年(大正14年)に開業。しかし世界恐慌の影響で利用客数が伸び悩み、1930年(昭和5年)にJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道に譲渡されたが、鶴見臨港鉄道が本線で旅客営業を始めた影響を受け、産業道路建設を機に1937年(昭和12年)に全線が廃止された。


1970年頃のようす(「同」より)。上の赤丸が総持寺駅跡。下のカーブして並んでいる建物が路線跡と思われる。
2010年代のようす。○の部分。

「総持寺前」(○のところ)からの路線が載っている。

廃止されて線路部分が空き地になっている。

現在。
(以上「今昔マップ」より)

「本山前桜公園」が総持寺駅跡。左手が京急本線。
京急線の高架下(合流していたあたり)からJR線をはさんで「総持寺」「鶴見大学」方向を望む。

京急線側から公園を望む。

正面の建物が線路跡に建てられたものと思われる。

その辺りから公園を望む。微妙にカーブを描いている。

細い「私道」が第一京浜まで少しカーブしながら続いている線路跡(の一部)。

家屋がわずかに左にカーブしながら縦に並んで建っている。線路跡に建てられた建物の特徴をよく表している。(JR常磐線・亀有日立引き込み線跡、京成線・白鬚線跡などにも見られる。)
常磐線・亀有日立貨物引き込み線跡。正面奥の建物が線路跡に沿って貨物列車のように並んでいる。左右の建物との向きが異なっていることに注意。

京成電車・白鬚線跡。左側の建物(と細い路地)が線路跡。終点の白鬚橋近く。

正面奥の家の向きが軌道に合わせて横向きになっている。塀の向こうが私道部分。

「第一京浜」から見た私道部分。右の建物群が線路跡。

右の茶色い建物が
線路跡と思われる。わずかに右にカーブしている。

「第一京浜」向かい側(線路跡の道路)から望む。白い建物と茶色い建物の間が先ほどの私道。したがって、看板のある建物が線路跡。

矢印が「私道」。右が線路跡。

この道(線路跡)は、鶴見川をこえて、「産業道路」方向に進む。鶴見川の手前付近から振り返る。

「臨港鶴見川橋」。この橋の名にもあるように、この橋が軌道跡。

「総持寺駅」方向を望む。

産業道路方向を望む。
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生麦魚河岸通り。国道駅。(旧東海道を歩く。京急「生麦」~「八丁畷」。その1。)

2014-05-22 21:43:39 | 旧東海道
 「京急生麦」駅下車。「生麦事件発生現場」から旧東海道を北に向かい、「八丁畷」駅まで歩きました。京急線「生麦」~「花月園前」~「京急鶴見」~「鶴見市場」~「八丁畷」。駅と駅の距離は短いので、歩数にして約13,000歩くらい、所要時間にして、約2時間15分(昼食時間を含み)。薄曇り、日差しも強くなくて、まあまあ。
 (先に報告しておくと、これで、断続的ながら旧東海道の「品川宿」から「川崎宿」、「神奈川宿」間は「歩き」でつながったことになります。)

 ここが出発点。
「生麦事件発生現場」碑。

道幅は当時よりは広くなっているようだが。

「正泉寺」付近から神奈川宿方向を望む。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。当時の「正泉寺」は鶴見川河口・海岸付近にあった。生麦事件の現場は付近。南が神奈川・横浜方面。南北に続く道が「旧東海道」。左上部、斜めの線が鉄道(新橋~横浜)の線路。



2010年代のようす。旧東海道の道筋はそのまま残っています。「正泉寺」も同じ位置。かつての鶴見川河口付近は工場地帯に。

「生麦魚河岸通り」。最盛期よりもぐっと数は少なくなったが、今でも魚屋・問屋さんが軒を連ねる。


 我が店が店を構える‘生麦魚河岸通り’は、横浜市鶴見区にあります。この通りは旧東海道でもあり、江戸時代は大名行列が通るなど交通の拠点として栄え「薩英戦争」のきっかけとなる有名な生麦事件もこの通りで起こりました。
 生麦の漁業の歴史は江戸時代までさかのぼると、言われています。江戸時代、生麦であがった魚は定期的に幕府に献上され珍重されていました。そのほか、お江戸日本橋にも送られていました。
 明治時代に入ると、工業地帯の埋め立て工事が開始され、地元漁師は新しい漁場を求め、東京湾全体で漁を行い、この頃から海苔やカキの養殖がおこなわれました。
 第二次大戦後、東京湾でイワシの豊漁が続き漁師たちは、それを生麦に押し寄せてくるヤミ業者に売りさばき、生活をしていました。この「ヤミ市」こそが、現在の魚河岸通りの起源となり、この頃、沖買いされたサバや三崎、小田原、伊東から買い集められた魚も販売されるようになりました。
 昭和三十年代頃になると、戦後の復興、経済発展、生活向上の社会状況の変化に応じて、取り扱う魚介類も高級、多様化し、すし屋、料理屋がたくさん集まるようになりました。しかし、埋め立ての拡大、水質の悪化により、漁師の数は年々減り、昭和四十年代半ばで姿を消してしまいました。しかし、魚河岸通りだけは残り、今も存在しています。
 現在、旧東海道の一部分約300メートルにかけて40ほど店舗が並び、そのほとんどが生鮮魚貝類店または関連の商品を扱う店舗であります。地元横浜、川崎を中心にすし屋、料理屋といった食のプロが仕入れに来ます。しかし、一般の方も利用でき少量でも買うことができます。
 午前8時頃に荷物が到着し、10時をすぎると業者の仕入れがおおかた終わるので一般の方はゆっくりと買い物ができます。スーパーなどにはない変わった魚や高級魚などを買うことができます。
 年末には一般の方を対象にした売り出しをしていて毎年多くの買い物客で賑わいます。さながら、横浜のアメ横といったかんじです。あなたもおいしい魚を求めて、この通りに遊びに来ませんか?
HPより)

 上にもあるように、業者の仕入れも終わったお昼前なので、人通りも少なく、どのお店も少しのんびりとした雰囲気でした。


来た道を振り返る。たしかに商店の数は少なくなっているようだが、何とか頑張って欲しい「魚河岸通り」。

JR「国道」駅の高架。


JR鶴見線「国道」駅



 相対式ホーム2面2線を有する高架駅で、ガード下の通りには昭和初期の風情が漂う。無人駅で自動改札機も未設置だが、簡易Suica改札機の設置駅。ホームがカーブしており、電車との間に隙間が発生するほか、電車の進入時に警報音が鳴る。

歴史
1930年(昭和5年)10月28日 - 鶴見臨港鉄道の駅として開業(旅客営業のみ)。
1943年(昭和18年)7月1日 - 鶴見臨港鉄道線の国有化により、国鉄鶴見線の駅となる。
1971年(昭和46年)3月1日 - 無人駅化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道の駅となる。
2002年(平成14年)3月22日 - ICカードSuica供用開始。

駅名の由来
 鶴見線と京浜国道との交点にあることから命名された。京浜国道とは、現在の国道15号(第一京浜国道)の前身である当時の国道1号である。

 1949年(昭和24年)の黒澤明作品『野良犬』をはじめ、2007年の木村拓哉主演テレビドラマ『華麗なる一族』最終話など、しばしば映画・ドラマのロケ地として使用される。高架下が異様なムードを醸し出す駅として、紹介されることもある。駅構内は建設当初から、全く改築されていない。

 建物正面右の角の中段(ちょうど歩行者信号の右側あたり)の外壁の凹凸は、第二次世界大戦中の米軍による空襲においての機銃掃射の銃弾の痕である。
○で囲ったところ。
(以上「Wikipedia」参照)

商店を営業している雰囲気はない。

看板だけが妙にリアルに掲げられてある。

左の階段は、ホームに向かう階段。



高架下は、ドーム状。

「旧東海道」から国道駅のホームを見上げる。駅構内から外に出ると、異空間にいたような気分になる。

「旧東海道」に架かる高架橋。「旧国道架道橋」という表示。
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読書「石巻市立大川小学校『事故検証委員会』を検証する」(池上正樹・加藤順子)ポプラ社

2014-05-21 20:01:50 | 世間世界
津波で児童犠牲 大川小の裁判始まる(NHKニュース&スポーツ) - goo ニュース

 「付記」の中で、最終報告書を出した後、事故検証委員会の室崎委員長は遺族説明会後の会見でこう語った、と。
 「・・・もっと核心的な責任を負うのは学校です。早い時期に逃げると決断しなかった人たちは、厳しく問われるべきです。また、市の行政にも、保護責任を果たしたのかというと、その対応にはとても大きな問題があると思います。」(P269)
 3・11の大地震後の大津波によって児童生徒、教職員84名の命が奪われた「 大川小学校」。その事故検証委員会は、有識者を委員として設置された。5700万円(追加予算含む)の費用をかけて行われた委員会は、当初から遺族の方達と検証内容や方法について齟齬が大きくあった。が、委員会は遺族の声をほとんど取り入れることなく、最終報告(その内容も不備だらけのもの)をまで行って解散した。
 遺族達は、自分の子供(未だに行方不明の子供もいる)がなぜ助かる命をみすみす失ってしまったのか、裁判に訴えた。その裁判が始まった。双方の主張の違いは大きい。


 遺族達は、唯一生き残った教員の証言を求めている。
 この書を読むと、遺族の思い。「裏山に逃げようと声を上げた子供の声を無視して、なぜ校庭に50分間も待機させ、そのあげく、川沿いの微高地に移動中に大津波に飲み込まれてしまったのか」
 事故検証委員会では、まったくといっていいほど検証されなかった「憤り」、「無念さ」の叫びを遺族の立場に寄り添って「検証」した書。
 航空機事故、列車事故、学校事故(自殺)などに設置される「事故調」「事故検」などの公の機関がいったいどういう役割を果たしているのか、被害者・遺族の思いに真に答えようとしているのか、そうなってはいないのではないか、と。そういう本質・根本に迫った、問題提起の書でもある。

  
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読書「源氏物語の乳母学 乳母のいる風景を読む」(吉海直人)世界思想社

2014-05-18 16:10:04 | 読書無限
 平安時代の宮廷社会。様々な役割を担った大勢の女房達の存在。なかでも、「源氏物語」では具体的な姿で登場する(活躍する)人々。そのうちで、「乳母(めのと)」に着目して取り上げています。
 なじみの深い登場人物。「夕顔」「末摘花」「明石の姫君」「女三の宮」「浮舟」・・・。ストーリーの展開では気にはなっていた存在でしたが、こうしてその存在に焦点を合わせての「読み」を示されると、あらためて「源氏物語」という作品のおもしろさも深まる感じがしました。
 特に有名な「夕顔」の巻。逢瀬中に起こった夕顔の頓死の後始末。その場での(それ以降の)惟光という「乳母子」の活躍に、つい目が向いてしまいます。が、源氏が、惟光の母親で、源氏の乳母の一人だった「大弐乳母」を見舞いにいった時に、「夕顔の宿」の女性に関心を寄せる場面。そこでは、源氏が臨終間際の乳母の元を訪問するという設定に、当時の乳母という存在の意義を追究していきます。さらに夕顔の遺子「玉鬘」を守っていく乳母(その後の源氏との関わり)の姿を描いていきます。
 また、「末摘花」(これも有名な逸話)。ここに登場する「大輔の命婦」は、源氏のもう一人の乳母「左衛門の乳母」の子。ここでは、この乳母子が、うまくことを仕組んで、源氏と末摘花の仲介役をする役割を担うことに。
 源氏29歳の春、「明石の君」に姫君が誕生。これで、源氏には三人の子ができました。かつての予言「御子三人、帝(藤壺との不義の子・冷泉帝)、后、太政大臣(葵上のとの子・夕霧)」通りの展開に。したがって、この姫君が将来の「后」を約束された存在になっていくストーリーなわけです。この乳母の選定にめぐるやりとり、都から明石の地に下向させなければならない・・・。源氏の深謀遠慮。さらに、作者・紫式部自画像を読み取っていく。
 ・・・このように、たんなる「乳母」論にとどまらずに、物語に登場する「乳母」「乳母子」を具体的に取り上げながらの論考は、大変興味深いものがありました。
 
 この「乳母学」や「垣間見論」など「源氏物語」を独自の視点で読み解く方法は、より深い当時の文化論、社会論につながるものを感じます。

 
 
 
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浜川崎。八丁畷。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その4。)

2014-05-17 12:48:44 | 鉄道遺跡
 産業道路の頭上には相変わらず「横羽線」の高架が「続きますが、「浜川崎」に近づくにつれて少し視界は開けてきて、貨物線を高架で越える頃になると、目の下には貨物線が広がっていきます。
「鋼管通五丁目緑地」。この脇の大きなスペースがバスの発着場になっています。かつての駅跡?


ベンチがぽつんと片隅に。

枕木を再利用した柵。
広場の一角に折り返しのバスが停車中。
かつての市電はここから西に折れて川崎駅方向に進んでいた。正面の広い道路が「市電通り」。

 ようやく「浜川崎」駅に着きました。
鶴見線側のホーム。
南武線側の駅入口。

 浜川崎駅

 神奈川県川崎市川崎区にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅。
 乗入れ路線は、東海道本線(貨物支線)・南武線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)・鶴見線の3路線。ただし旅客営業を行っているのは南武線と鶴見線のみであり、両路線の乗換駅となっている。
 東京貨物ターミナル駅方面へ通じる東海道本線支線は貨物列車専用である。この東海道本線支線は南武線浜川崎支線と合わせて東海道貨物線を構成しており、2路線の相互間は当駅に停車せずに直通運転が可能な構造となっている。
 南武線と鶴見線の旅客駅は、道路を挟んで別の駅になっている。どちらの旅客駅も無人駅で、南武線側は尻手駅が、鶴見線側は鶴見線営業所が管理している。当駅で乗り換える旅客はいったん改札を出ることになる。双方の駅の改札にSuica対応の自動券売機および簡易Suica改札機が設置されている。ICカードのSF部分を利用し当駅で乗り換える旅客は、当駅の簡易Suica改札機に触れずに乗り換える必要がある。
 両路線はいずれも島式ホーム1面2線を有する地上駅で、南武線側に1・2番線、鶴見線側に3・4番線の番号がふられている。鶴見線の駅には跨線橋がありこの上に改札がある橋上駅の体をなす。跨線橋を北側に渡ると一般道・南武線に通じる出入り口がある。跨線橋の南側にはJFEスチール東日本製鉄所専用の出入り口も設けられている。
 南武線は鶴見線に直交する形で駅が設けられている。1番線側には川崎新町方面とJR貨物浜川崎駅構内・鶴見線扇町方面とを結ぶ連絡線が通っているが、停車する旅客列車はなく柵が設けられている。列車が停車する2番線は、終端部が車止めとなっている。(以上、「Wikipedia」参照)

駅近くの踏切から。
 駅前の通りにはお店もなく閑散としている。

二両編成のワンマンカー。
 頻繁に通過する貨物列車の写真を撮るため、何人かホームに。ここから「八丁畷」まで。平日昼下がりのせいか、乗客はまばら。

 八丁畷駅

 神奈川県川崎市川崎区池田一丁目にある、京浜急行電鉄(京急)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。両社の共同使用駅で、京急の管轄駅。
 旅客駅には京浜急行電鉄の本線とJR東日本の南武線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)が乗り入れ、両線の接続駅となっている。
 京急本線は相対式ホーム2面2線を有する地上駅。そのホームの上を浜川崎支線が高架で越しており、南武線は単式ホーム1面1線を設けている。南武線ホーム部を跨線橋として共同使用しているため、京急と南武線との間に中間改札はなく、簡易ICカード改札機のみが設置されている。
 JR東日本は駅業務を京急に委託しており、自動改札機はJRの乗車券やICカードに対応している。(同上)

 川崎に無人駅があるとは思いもしませんでした。途中、貨物列車の通過のため、信号待ちをするなど実にユニークな路線でした。この付近、貨物線や電車線などけっこう入り組んで走っていて、鉄道マニアにはなかなか面白いところのようです。
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あえてこの日にぶつけた意味は

2014-05-16 20:31:19 | 平和
社説[安保法制懇報告書]戦争する国になるのか(沖縄タイムス) - goo ニュース

 5月15日。1972年5月15日。今から42年前、沖縄は本土復帰を果たした。
 第二次世界大戦では、国内唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄。戦後、アメリカは沖縄を太平洋の軍事拠点として大規模な米軍基地を建設。
 1951年、沖縄は対日講和七原則により、アメリカの統治下に入り、ますます基地は強化されていく。1953年、米国民政府は「土地収用令」を公布、強制的に土地を取り上げる。
 粘り強く激しい復帰運動が日米両政府を動かし、1971年に結ばれた「沖縄返還協定」によって、1972年5月15日午前零時、 沖縄は27年ぶりに日本に復帰した、という歴史。

 あえてこの日を選んだのには、アベの深謀遠慮が。いよいよ戦争の出来る国。アベ一派の私的懇談会の報告を形の上で取捨選択した風を装いつつ(台本通りに)、「情緒的」に「静かに」「静かに」ことを進める手法。
 再び、沖縄が戦禍に巻き込まれる危険性のあることを十分に承知の上、実質的「改憲」策動で、またしても沖縄を切り捨てることに・・・。
 
 社説では「連立政権にとどまるのか、結党の精神を守るのか。党の存在意義が問われている」と「公明党」にアベの暴走への歯止めとして期待しているようすだが、そうした願望は間違いなく裏切られるだろう。
 にもかかわらず、「朝日」をはじめとして「公明党・創価学会」へのかなわぬ願いを願うのは、無残としかいいようがない。
 
 
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川崎市電。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その3。)

2014-05-15 21:43:10 | 鉄道遺跡
 産業道路沿いに「浜川崎」方向に進みます。右手が産業道路、頭上には「横羽線」の高架。左手が緑道(市電線跡)、さらにJR貨物線の高架。単調な道筋。もちろんコンビニなども自販機もない。産業道路の反対側は建物が並んでいますが、こちらはJR貨物線の海側に工業団地がずらっと続きます。そのため、車の出入りも多いところ。
 途中、「THINK(テクノハブイノベーション川崎)」という施設が目に付くようになります。

THINK(テクノハブイノベーション川崎)
 THINKは川崎市の方針のもと、民間主導により川崎臨海部渡田地区で進められているサイエンスパークです。JFEグループの既存研究開発施設をフル活用して、新事業の創出、新分野への支援や産学連携共同研究の実現を目指しています。

(以上「」HPより)

 さらに、「浜川崎」に近づくと、かつての日本鋼管、現在は川崎製鉄と合併してできた「JFE」東日本製鉄所(京浜地区)の大きな施設群が目立つようになります。
(「JFE」HPより)。
 まさに、京浜工業地帯の基幹・大動脈をなすところでしょうか? 貨物線も縦横につながり、貨物列車が頻繁に通過していきます。
左手が貨物の高架線。高架のため、頭上を通過する音が聞こえてくるだけで、ほとんど姿を確認することは出来ません。柵がJRとの境目。手前の緑道がかつての市電跡と思われます。
JR(国鉄)の敷地を示す標識。「」と記されている。
桜本方向を望む。
ほとんどが灌木に覆われた緑道ですが、日向には小さな花の群れ。
歩いている人は誰もいない。時折ママチャリが通るのみ。
緑道には敷石があって、線路跡を彷彿とさせる? 当方の勝手な思いですが。青いテントが点々と続きますが、住民の姿は一人も見当たりません。
枕木の表面を燃やして杭に用いている箇所が何カ所かあります。
「浅野町緑地」として整備されています。
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桜本駅前。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その2。)

2014-05-14 22:28:25 | 鉄道遺跡
 《「桜本駅」の歴史》(「Wikipedia」参照)

1945年(昭和20年)1月7日 - 東京急行電鉄(大東急)大師線・入江崎駅 - 当駅間延伸開業に伴い駅開業。
1945年(昭和20年)12月6日 - 川崎市電・浜町三丁目停留所 - 当停留所間延伸開業、大師線と接続。
1948年(昭和23年)6月1日 - 大東急解体に伴い、京浜急行電鉄の駅となる。
1951年(昭和26年)3月16日 - 川崎市電、京急大師線の一部区間に乗り入れ開始。
1952年(昭和27年)1月1日 - 川崎市電、京急大師線の当駅 - 塩浜駅間を買収、川崎市電単独の停留所となる。
1969年(昭和44年)4月1日 - 川崎市電廃線に伴い廃駅。
1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が路線。カーブしたあたりに駅(舎)があった。その南側には、「野球場」がある。
 その後、JR貨物の高架線が野球場の南側に建設されている。
 現在、旧駅一帯は、「池上新田公園」として、「池上新田野球場」とともに存在している。

「池上新田野球場」。草野球場として整備された球場。
野球場脇から産業道路方向を望む。
産業道路に面してガソリンスタンドがある。その裏手の微妙なカーブが線路跡か?

GSの裏手に広がる公園。この辺りは、木々が植えられている。右手が野球場。
広場。この辺りも線路跡か?
ささやかな遊具。
「池上新田公園」南西側入口。そのまま「産業道路」に沿って旧線路は続いていたらしい。
歩道と左側の緑地帯。まっすぐ続いていく。
 しばらく進むと「桜本駅前」「桜本」のバス停。

 「市バス」「京急」は「桜本」、「臨港」は、「桜本駅前」。ここに三者のこだわりが・・・。

川崎鶴見臨港バス
 現在のJR鶴見線の前身にあたる鶴見臨港鉄道のバス事業を起源とするバス事業者である。1954年から京浜急行電鉄の子会社となり、京浜急行線・JR線・東急線の駅を発着する路線を中心に、川崎市東部や横浜市北東部を基盤として路線を展開している。

沿革

1931年 鶴見臨港鉄道(鶴見線の前身)、バス事業を開始(鶴見駅西口~東寺尾~綱島間、鶴見駅西口~東寺尾~寺谷角~鶴見駅西口間)
1937年11月 鶴見臨港鉄道が全額出資の鶴見川崎臨港バスを設立
1937年12月 鶴見臨港鉄道が海岸軌道線を廃止し、バスに転換(鶴見駅西口~本山前~潮田~寛政~田辺新田~池上新田~大師河原~大師間)
1938年5月 鶴見臨港鉄道より路線譲受 営業開始
1938年12月 鶴見臨港鉄道と京浜電気鉄道の系列会社、川崎乗合自動車(通称・銀バス)と合併し、社名の鶴見と川崎を入れ替えて川崎鶴見臨港バスとする
・・・(以上、「Wikipedia」参照)

バス停を南から望む。

1970年頃のようす(「同」より)。産業道路(上部は「首都高・横羽線」)と貨物線との間に市電の線路があった。
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鶴見臨港軌道。(京急大師線・産業道路~JR、京急・八丁畷。その1。)

2014-05-13 21:11:22 | 鉄道遺跡
 日本の戦後の高度経済成長を支え、今もなお基幹産業工業地帯として存在する、京浜工業地帯・川崎臨海地区。物資の輸送はもとより、さまざまな工場で働く多くの労働者の通勤の足として、鉄道が担った功績は大きいものがありました。
 時代の流れとともに、鉄道から自動車への転換の中で、かつての鉄道網が集約、再整備され、大動脈としてまだまだ利用されている貨物線。さらに、マンションなどの進出により地元住民の貴重な移動手段としてある電車。
 そんな地域を産業道路沿いに探索してみました。

 一方、この地域は、長い間、大工場からの排気ガス、排水等の公害で多くの市民がぜんそくなどで苦しんだ地域でもあります。今、抜本的な公害対策、長年にわたる、行政と住民との一体となった取り組みですっかりそうした面影はなくなっています。

 ここで、川崎「公害」問題についてのまとめ。

 近世は湾岸部が新田開発され、農業として水田や桃・梨の栽培がおこなわれ、大師河原では塩田で塩が作られていました。近代に入ってからは、ノリ養殖がおこなわれていました。
 1910年ごろから工業化が進み、湾岸部では日本鋼管を皮切りに、鉄鋼・電力・石油化学コンビナートが次々と立地し、臨海工業地帯を形成していきます。1955年ごろにはいちじくの葉が一夜で大量に枯れるなど、大気汚染が深刻になっていきます。
 また、工場に隣接して幹線道路が建設され、工場への原材料、製品の搬出入、物流分野での自動車依存度が高いこと、川崎区発着の貨物量が多いこと、通過交通量が多いことから、道路の大気汚染が問題になっていきます。
 川崎市は市独自に1970年から発生源対策・患者救済を行ってきました。しかし、1978年に国は二酸化窒素の環境基準を緩和し、患者救済を行う公害健康被害補償法を改正して新たな認定を行わない動きがあり、公害病患者が多い川崎では、患者たちが裁判をおこしました。
 二酸化硫黄、二酸化窒素、浮遊粒子状物質の環境基準を達成すること、それ以上の排出をしてはならないという差し止め、公害患者と死亡者に対して生活・家庭の破壊を償うための損害金を支払ってほしいという裁判です。
 裁判は長期化し、17年かかりましたが、西淀川公害訴訟の和解をきっかけに工場と道路ともに和解をしました。
 解決後も、公害のない道路沿道のために運動を続け、川崎市成人ぜん息患者医療費助成制度をつくり、川崎市全域の全市民のぜん息患者の医療費助成ができるようになりました。
HPより)

 工業発展とともに公害が問題となり、住民による反公害運動は活発化した。早くも1951年には東渡田住民が煤煙瓦斯防止対策の会を作って市へ陳情した。1963年臨海地域は煤煙規制法による規制地域に指定、1969年には大師・田島地区が公害病救済特別措置法の指定地域になった。川崎の公害反対運動は全国の他地域よりも遅れ、ようやく1970年に公害病友の会が発足された。1970年、川崎市、横浜市、神奈川県と日本鋼管は、全国初となる公害防止協定を締結した。川崎市は公害病認定制度を施行、気管支炎に対する医療介護手当の支給を決定した。
 1971年、現在の川崎区全域と幸区のほぼ全域が大気汚染地域に指定され、上平間では初めての喘息発作の学童犠牲者が出る。大気汚染注意報は1969年29回、1970年19回、1971~75年はそれぞれ7~9回と減少し、主要47工場の硫黄酸化物の年間排出量は1972年の56919トンから1978年10083トンに減退した。1970年代の登録被認定患者は4158人に及んだが、1975年をピークに年々減少した。川崎市の公害病認定患者は、1994年までに5911人、死者1500人を数えた。
 1982年、川崎公害訴訟は国、公団および14企業を相手に、臨海部に住む喘息患者と遺族119人の原告となって一次訴訟提訴が始まり、1994年の判決後控訴に及んだが、1996年に原告に対し14企業が謝罪、約31億円で和解した。国と公団に対する訴訟は継続し、1999年5月の東京高裁で最終的に和解合意された。
(以上、「Wikipedia」より)

 その「産業道路」沿道。かつては自動車の排気ガス、工場の煙害などの公害で目を開けていられなかったほど、ひどかったようです。

 湾岸エリアを営業車で周っています。このところ、喉が痛いのですが、川崎の町自体がアスベストで汚染されていることはありませんか?
また、コークスや煙突から出る煙による公害問題は大丈夫なのでしょうか?とても心配です。


回答者:回答日時:2005/12/14 23:49.
 湾岸エリア、とのことですが、工業で大発展を遂げて政令指定都市になるくらいまでは、(具体的には昭和40年代前半までは)東海道線よりも南側には一歩足を踏み入れただけで目が開けていられなくなりました。車に乗っている場合は窓を閉めなければなりませんでした。
 公害というのは全国でみられる現象ですが、京浜工業地帯では「カワサキ」が公害そのものの名称の代表として使用されていますね。正確には大田区蒲田~横浜市鶴見区までについては、(前の方も書かれておられますが)改善はされたものの、産業道路付近は大気汚染は残っています。例えば県立大師高校は各教室に空気清浄機が設置されています。
 産業道路を通る時は平和島駅付近から神奈川新町付近までは窓を閉めて走行しましょう
 まとめますと、ご指摘の公害問題は川崎市川崎区・横浜市鶴見区付近の産業道路周辺に根強く残っています。

goo」HPより

 このやりとりは、9年前にあった質問と回答(赤字は当方で)。

 今回はそこをはじめて歩いてみましたが、上記のような印象はありませんでした。かなり環境は改善されているようです。(なお、質問内容に「アスベスト」云々とありますが、喉が痛いこととの直接的な関連はないとみていいでしょう)。
 1972年、川崎市は、全国に先駆けて独自の「公害防止条例」を制定、「総量規制」方式による徹底した規制を行いました。それによって環境改善が進み、1973年当時45,879トンも排出されていた「二酸化硫黄排出量」が2011年現在では635トンと1.4%以下になっています。(「川崎市」HPより)

 そうした取り組みが現在の川崎市臨海部のようすになっています。と同時に、そういう苦難な歴史、現状のあることを忘れてはならないと思います。

 京急・産業道路駅で下車。現在、地下化工事が盛んに行われています。
工事概要図。小島新田~産業道路間は地下化される。
 さらに川崎駅側に立体交差(地下化)構想によって工事が進捗中。大師線も大きく変化するようすです。

「大師」と「総持寺」を結ぶ路線「鶴見臨港軌道」がない頃。すでに「浅野セメント」工場への貨物線は存在している。

「鶴見臨海軌道」が運行している頃。

B地点が現在の市電通りと産業道路との分岐点。「鶴見臨港軌道」は、「東京急行大師線」と表示されている。
 「小島新田」から伸びてきた線路は、「入江崎」付近が終点になっていることに注目。「小島新田」から臨海部を回って鶴見方向に向かう「大師線」はまだ存在していなかった。1945年になって、「小島新田」~「入江崎」~「桜本」が開通した。
 一方、川崎市は市電を計画、京急(当時は東急)・桜本駅付近まで線路を敷設した。「桜本」が市電と京急の乗り換え場所だった。
臨港鉄道が廃止され、さらに、京急から大師線「塩浜」(臨海部寄り)~「桜本」(A地点)間を買収し、市電が川崎駅前まで運行されていた頃(B地点が産業道路との分岐点)。

市電が廃止され、市電跡に貨物線が開通した頃。○は「浜川崎」駅。(以上「今昔マップ」より)


大師~総持寺間を結んでいた「鶴見臨港軌道」線の跡である道路。
産業道路駅にかけて工事現場のため、近づけなかった。
産業道路方向を望む。
産業道路付近は、会社の敷地内となっていく。

 線路は産業道路沿いに進んでいく(吸収されたのか)が、痕跡はなさそう。
「出来野」バス停。
来た方向を振り返る。

「観音橋」交差点。橋の跡らしく、少し道路が傾斜している。 

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。大師河原と池上新田(現池上新町)との境目に流れていた川が「観音川」と思われる。海側に「塩田」との表記に注目。
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