好きなんですよね、家具の配置を考えたり、収納を工夫したりするの♪
整理していると、懐かしい物が出てきたりして、ついつい手が止まってしまいます。
中学生の頃から、気の向いた時に日記をつけてきたんですが、細々と続けていつの間にやらノートに十数冊。
今、読み返すと日記というよりもアイディア帳に近い。
書きかけの物語や、人物の設定。
面白かった出来事や小さな事件など。
懐かしいので、ちょっと載せてみました。
おかげで部屋はちっとも片付いていません。
街の明りの一つ一つに、誰かがいて、家庭があって、人々の生活があるんだと思うと、不思議な気持ちがしますね。
おそらく、一度も会うこともなく、知らないまま通り過ぎていくであろう人々。
だけど、その人達にも人生があり、喜びや悲しみを抱えて私達同様日々生きている。
繰り返すわずらわしい毎日の雑用に辛抱強く耐え、家族のためにと世話を焼き、家を清潔にし、食事の支度に追われながら…
今回ご紹介するのは、そんな隠された愛すべき人々に送られた物語。
エレナ・ポーターの『スウ姉さん』です☆
かく言う私だって、毎日毎日「泳げたいやき君」みたいに鉄板の上で焼かれる日々、いいかげん「いやになっちゃう」時もあります。
物語の主人公「スウ姉さん」ことスザナ・ギルモア嬢もそんな一人。
なにかといえば「スウ姉さんにきいてごらん」と繰り返す父親に、「スウ姉さん」を連呼する妹と弟。
母親が亡くなってからは、ギルモア家のいっさいが、「スウ姉さん」なしでは何事も運ばないらしく、「自分を犠牲にしてまで妹の靴の心配や、弟の野球道具の世話までしてらんないわ」とうんざりする日々。
それでもなんとか、売り出し中の作家である婚約者の甘い励ましと、大好きなピアノに不満をぶつけることで、平凡で空しい毎日を乗り切っていたスウでしたが、二十歳になったその春、ついに自由を手に入れるための革命に立ち上がります!
「人々の注目を浴び、光の中、舞台でアンコールの波に包まれる自分」を夢に描き、ピアニストになろうと決心するスウ。
家族の反対を押し切り、恋人に打ち明けた時、思わぬ反撃にあいます。
「あたし、こんなにも愛されてるとは思わなかった…。男性の愛情って、こんなにも強いものだったんだ…」
恋人の甘い囁きに、ピアニストへの道はあきらめ、その日のうちに七月には結婚することを約束してしまうスウ。
…ダメじゃん、スウ(笑)
ところが物語は急転直下、ここから本編へと入って行くのです。
なんと父親の銀行が破産。
疲労困憊で倒れた父親は、心痛による痴呆症で、あわれにも子供同然となり、一生介護のいる身に。
財産も家屋敷も失い、なんとか残ったのは田舎の小さな別荘だけ。
不満ばかりで役に立たない妹弟と、泥んこ遊びに興じる父親を抱え、スウ姉さんの受難の日々が始まったのでした。
慣れない台所仕事に父親の介護、妹や弟の学費の工面から家計の算段と、辛抱強く、その一つ一つを懸命にこなしていくスウ。
その姿にエレナ・ポーターは、当時の、そして今でも、日々掃除や洗濯、繕い物や食事の支度に追われ、家族のために必要とされている女性達を重ね、自分達の自由な生活を諦め、けなげに働く彼女達の生き方に光をあてました。
「自分の役目は皮むきなのよ」
華やかな晩餐会の裏方として、台所の片隅で馬鈴薯の皮をむき、料理を作り、みんなに食べさせてからその皿を洗う。
誰に褒めてもらうわけでもなく、感謝もされず、それでも不平もいわずに「わずらわしい毎日の雑用」を果たしながら、その耳の奥に響くのは、
「アンコール! スザナ・ギルモア! アンコール!」
と叫ぶ幻の聴衆の声。
父親のもとを離れられない彼女は、結婚して家を出て欲しい婚約者とも、しだいに気まずくなっていき…
こんな話を読んでしまうと、三十年以上も黙々と食事の支度をしてくれた母親のありがたさが身に染みます。
そして同じぐらいの年月、毎日会社に通いつづける父親にも。
そして多くの人達が、「スウ姉さん」のように、この「日常」という偉大な業績を日々培っているわけですよね。
物語は後半、アッと驚く展開をみせます。
父親を看取り、妹達も立派に独立させて、自由の身になった「スウ姉さん」のとる行動とは?
そして結末は?
スウの最後のセリフから、どうぞみなさん推察してみて下さい。
きっと、納得のいく結末だと思いますよ。
「そんなこと、ちっとも犠牲じゃありませんわ!」
エレナ・ホグマン・ポーター 著
村岡 花子 訳
角川文庫
ある時友人にこう言ったことがあります。
「人生には読んでおかなくっちゃならない本ってあるよね。」
彼はサラッと答えました。
「そうだよ。」
・・・なかなかの名言でした。いまだに忘れられない一言です。
さて、『昔気質の一少女』の紹介です。
前回は十四歳だった主人公ポリーも二十歳になり、家計を助けるためにピアノ教師として働くことにします。
ますます貴婦人として磨きをかけた友人ファニーは相変わらず。
幼かったその妹モードもようやくRの発音が満足にできるようになり、いつもポリーをからかっていたトムは大学で伊達男として名を馳せることに。
今回の見どころは、このファニー嬢の変化と、ポリーとファニーの恋模様♪
そして時代に先駆けた女性の自立をテーマにしたオルコットの見事な文体です。
アメリカで女性参政権が実現するのはこの小説の発表後半世紀がたった1920年なんですから、考えてみるとスゴイ!
「男だって女だってその心情や気概はみんなが考えているほど違うものではない」
ポリーの友人として登場する若き芸術家達。
お金や流行や地位に振り回されず、才能と若さで世間に立ち向かう彼女達。
そして独立を獲得するために一本の針で戦うあわれなジェーン・ブライアントのような多くの女性。
彼女達に、そしてポリーに誘発されて、あのファニーが「真に大切な物」に目覚めていく過程は胸がスーとします。
ファニーの一家を襲うことになる大きな困難でさえ、彼女を、そしてトムを大きく成長させる助けとなります。
もちろん、どんな時でも物事のよい半面を見る才能を持つポリーの存在は欠かせません。
「自尊心は懐の中にしまっておきなさい。そして貧乏は何も恥ずべきことではない、不正こそ恥ずべきことだということを忘れないようにおし」
貧困と労働の中にも喜びを見出し、人生を楽しむ術を知っているポリーのなんと魅力的なこと♪
そんな彼女が悩まされる恋愛模様は、「もうお願い、かんべんして!」と思わず叫びたくなるほどじれったい!
オルコットは読者を惹きつける天才ですね。
読者にはお互いの気持ちがわかっているだけに、ちっとも進展しない二人に「早く気づけよ!」と突っ込みたくなります(笑)
思いやりと取り越し苦労、よけいな告げ口に根拠のないウワサ話。
ファニーじゃないけど次の汽車で西部に行ってポリーの恋敵をひとにらみで倒し、意中の彼氏をばポリーへのおみやげにさらってきたくなります(…ファニーならやりかねない☆)
作者が読者に語りかける(いいわけかな?)シーンもあって、全編に流れる愛情とユーモアは、爽快感を与えてくれます。
物語中でオルコットが危惧していますが(笑)「この昔気質の娘の表紙が図書館でよれよれになっているのを発見するというような名声」は間違いなく与えられたことでしょう。
なんてったって百年以上たった今でもこんなにも熱烈な読者を獲得する魅力を持っているんですから。
現れては消えていく様々な時代の価値観にも揺るぐことのない人間の真実。
ぜひ若い人達に読んで頂きたい。
私の人生の中で、まさに「読んでおかなければならない本」の一冊です。
ルイザ・メイ・オルコット 著
吉田 勝江 訳
角川文庫
「フィンおばさん。ご迷惑をおかけするのをどうぞお許しください。でもこうするよりほかないのです。私は生きていけるだけのお仕事をみつけることができません。お医者様は静養しなくては病気は治らないと言います。でも私は他のかたの重荷になるのはいやなんです。ですからもうこれ以上誰にもご迷惑をかけないですむところに行こうと思います。おばさんから拝借したお金をお返しするために、身の回りの物を売りました。どうぞ私をこのままにしておいてください。人を呼んできて私を見せたりしないでくださるように。こうすることが罪深いことでなければいいと思います。でもこの世界には私のいる場所はないような気がします。私は今は死ぬのはこわくはありません。生きていて、正しい生活をすることができないで悪い人間になることを考えるとそのほうがこわいと思います。赤ちゃんによろしく。さよなら。さよなら。
ジェーン・ブライアント」
『昔気質の一少女(下巻)』より。 十七歳の身寄りのない少女ジェーン・ブライアントの遺書。
内容をそのまま引用するのはルール違反のような気もしましたが、あまりの文章につい書き込んでしまいました。
心がふるえた一瞬でした。
ルイザ・メイ・オルコット 著
吉田 勝江 訳
角川文庫
アニメーターになって、初めてもらった仕事は世界名作劇場の「愛の若草物語ナンとジョー先生」の一シーンでした。
そして、めでたくも、これが見事リテイク(やり直し)第一号となりました(苦笑)
オルコット先生ゴメンナサイ。
だけど楽しい仕事だったな~♪ (生活は苦しかったけど…)
ボストンの名門出ではあるものの、父親の事業の失敗などで貧困生活を余儀なくされたオルコット。
それでも筆をとりつづけた彼女は、二十年目にしてようやく『若草物語』がヒットして日記に「借金はのこらず返済、安心して死ねる気持ち」と書き残しています。
今回ご紹介する本は、そんな『若草物語』の作者が送る、ちょっと趣きの変わった物語。
ボストンを舞台にした、ルイザ・メイ・オルコットの『昔気質の一少女』です。
ボストンの上流社交界に浮き身をやつす少女ファニーのもとに、昔気質の教育を受けた田舎娘、ポリーが遊びにやってきます。
まるで毎日お菓子ばっかり食べて暮らしているようなファニーの都会的で華やかな生活に、田舎育ちのポリーは振り回されっぱなし。
おしゃべりとファッションが幅を利かすファニーの友達とのお付き合いにも辟易してしまいます。
そんなポリーでしたが、喧騒と社交辞令の中で知らず知らずのうちに心の明りを曇らせてしまっていたファニーの家族にとっては、彼女の昔風の、そして優しい心遣いは、忘れていた家庭の幸せに光を投げかけてくれることとなるのです。
「今の女の子は、悲しいことに美しい昔気質というものを、まるで知らないようにみえる。知っていてもそれを恥じるような風潮にあるように思われる。真に女を美しくし、家庭を楽しいところにするのは、古きよき習わしであると思うのだが…」
序文でオルコットはこう書いていますが、オルコット自身、「女が結婚もせずに小説なんか書いて…」という時代の中で作家を続けていました。
しかもこの物語が書かれたのはアメリカ南北戦争後というのだから、「昔」の定義も難しい。
だけどこの”旧式な”ポリーの行動には、時代を越えた『真実』のようなものを感じます。
「取るにも足らない自分でさえも、何かよいことをすることができるかもしれない」
ファニーの父親が家に帰るたび、このバラ色の頬をした少女が小走りで向かえに出て、小さい両手を彼の大きな腕にまわすシーンは読んでいてついつい微笑んでしまいます。
カワイイ娘に、こんな出迎えを毎日してもらったら、たまんないな、父親は(笑)
ファニーはおやすみのキスも「赤ちゃんみたい」とバカにしますが、ポリーは気にしません。
一人でいることの多いおばあさまのお話を真に嬉しそうに聞くポリー。
こうしたポリーにとって「当たり前」の愛情が、生活を浪費することに忙しいファニーの一家に暖かな変化をもたらしていく様は、現代の私達にも「大切なこと」を教えてくれます。
ポリーの母親はいつも彼女にこう言い聞かせていました。
「たとえ小さい女の子でもこの広いせわしい世の中に何か力を尽くせるし、いくらでも善行をほどこせるものです」
自身、南北戦争に看護婦として志願したオルコット。
その時にかかった熱病がもとで、終生健康な体には戻れませんでしたが、衰える体力に鞭打つように小説を発表し続けていきます。
そんな中からこうした珠玉の作品達が生まれていったんですね。
この物語は南北戦争後のアメリカの人々の心を打ち、多くの要望に応えて、次の年には続編が書かれました。
舞台は六年後。ピアノ教師として自立したポリーの物語。
では続きは次回ということで。
ルイザ・メイ・オルコット 著
吉田 勝江 訳
角川文庫
今回ご紹介する本は、アメリカの文豪、
マーク・トウェインの傑作。
『ハックルベリイ・フィンの冒険』です。
マーク・トウェイン(本名サミュエル・クレメンズ)といえば、日本では『トム・ソーヤの冒険』が有名ですね。
ペンキ塗りの仕事を、口八丁手八丁で子供達に押し付けるシーンは秀逸!
『トム・ソーヤの冒険』の最後でトムと共に大金を手に入れた浮浪児ハック・フィン。
自然児の彼がダグラス未亡人に引き取られ、様々な規律と窮屈な服に閉口しながら、”普通”の生活を送っているところから、物語は始まります。
時に抜け出して森で眠ることもあるけれど、未亡人とその妹ワトソン嬢の犠牲的精神により、学校にも何とか通うようになったハック・フィン。
そんなところに、飲んだくれのハックの父親が、息子が金持ちになったことを知って現われます。
まるで社会の矛盾と人間の赤裸々な真実を体現したかのようなこの父親。
未亡人の所から無理矢理さらわれ、棒で殴られる毎日に、ハックは独自の生活の知恵を駆使して、まんまと父親を出し抜くのですが、勉強は出来なくてもハックの生き抜くことにかけての才能は天才的☆
特にその口のうまさったらマーク・トウェインの筆の走ること走ること♪
こうして身を隠したハックと、逃げ出して来たワトソン嬢の所の黒人奴隷ジムが偶然再会し、ジムを自由州(奴隷制度を禁止した州)に送りとどけるための二人の旅が始まります。
ハックとジム。
このコンビがミシシッピー川を筏で下りながら出会うことになる様々な人々がとってもユニーク。
スウィフトの『ガリバー旅行記』にも似た、風刺の効いた人物描写がなされています。
難破船の沈み行く船上で、自分達の運命にも気ずかずに、分捕品を奪い合う盗賊達。
誰が始めたのかわからない理由で、何世代にも渡って争いを続ける二つの”家柄のよい”一族。
公爵と王様を名乗る下品な詐欺師達。
それぞれが、人間の持つ真実の姿(欲望や憎悪や権力欲)の代弁者として登場し、ハックやジムの”無知なる力”に挑んでくるのです。
その内容は作者が「大人の読み物」と考えていたのもうなずけるものですが、マーク・トウェインの人柄と性格故か、ちっとも堅苦しくなく、ユーモアと機知に富んでいて、子供でも楽しめる物語に仕上がっています。
かつてヘミングウェイは
「アメリカ近代文学の散文スタイルは、ハックルベリイ・フィンという一冊の書に源を発した」
とまでこの作品を激賞しました。
そこまで、アメリカ文学史に与えた影響は大きかったのでしょう。
後半には、再びトム・ソーヤが登場し、読者を圧倒する”悪戯”が巻き起こります。
トムこそは、「まったく男の子って!」
・・・と、思わず苦笑してしまう魅力を体現した少年。
圧倒されすぎて、大人の読者はついてこれるかな?
どうぞ、少年達の胸踊り、波乱に満ちた冒険物語を体験して下さい。
ただし、これがただの冒険譚でないことだけは、お約束しましょう☆
「冒険はどんなところにでも転がっている。」
マーク・トウェイン 著
村岡 花子 訳
新潮文庫