私的図書館

本好き人の365日

「深夜の模様替え」

2003-10-30 00:23:00 | 日々の出来事
部屋の模様替えをしています。

好きなんですよね、家具の配置を考えたり、収納を工夫したりするの♪

整理していると、懐かしい物が出てきたりして、ついつい手が止まってしまいます。

中学生の頃から、気の向いた時に日記をつけてきたんですが、細々と続けていつの間にやらノートに十数冊。

今、読み返すと日記というよりもアイディア帳に近い。
書きかけの物語や、人物の設定。
面白かった出来事や小さな事件など。

懐かしいので、ちょっと載せてみました。

おかげで部屋はちっとも片付いていません。


追憶の夜空

2003-10-29 23:49:00 | 日々の出来事
涙が止まらなかった

仕事の帰り

夜空を見上げた

星が出ていた

涙がこみ上げてきた


あの涙だ


もう、ずいぶん忘れていた・・・・・あの涙だった

中学生の頃、元旦の朝、まだ日が昇る前

灯ろうの石段に腰掛けて星を見た

高校を卒業して親元を離れ、初めて一人で暮らした

アニメーターをやめ、やることもなく実家にいて、父とケンカして家を飛び出した

どれも、こんな星空だった

とてつもなくみじめな気持ちだ

ああ、悲しくはない

感情もわいてこない

ただ、自分じゃないみたいに、次から次へと涙がこぼれていく

どんどん、どんどん、こぼれ落ちていく

僕は泣いているんだろうか

冷静な自分

きっと、頭の中がパニックで、飽和状態で、もう感情がパンクしてしまい、物理的限界を超えて、涙が吐き出されているのだ

こんなことは久しぶりだった

嬉しかった、また思い出せて

そう、僕は何度もこの涙を流していたじゃないか

どうして、今まで思い出しさえしなかったのだろう

こんな星空をながめていた自分

この気持ちを

でも、きっと

また、忘れてしまう。


           2000.10.30.

「実録、ワイドショー?」

2003-10-26 00:47:00 | 日々の出来事
私みたいな人間でも、運命は見逃してくれないみたいですね。

十月は本当に色々ありました。

母方の祖父が一人暮らしになった時、名古屋に住む母の長兄がその身を引き取ったのですが、空き家になった田舎の家には時々掃除に来たりしていました。

祖父はしばらくして急死し、田舎に住む身内は誰もその死に目には会えませんでした。
その後、残された子供達は話し合い、名古屋に住む長男が、家と土地を管理することに決まり、その他の財産は兄弟でわけたそうです。

ところが、その長男も半年とたたずに他界してしまい、財産を継いだ長男のお嫁さんは、今月になって田舎の家と土地を競売にかけてお金にかえようとしました。

自分達の生まれた家を知らないうちに売りにだされた母達、他の兄弟は、「約束が違う。家の管理をするという約束だったはずだ。処分するなら一言あってしかるべきではないか」と言っています。

父方の祖母は今年の初めから肺ガンのため、入退院を繰り返していたのですが、放射線治療に移ってから、体の痛みがヒドクなったため、モルヒネの投与を始めました。

最初はまだ希望を持っていた祖母ですが、自分の死期がわかるらしく、薬の作用もあって、感情が不安定になり、急にふさぎ込んだり、激したりするようになり、目が離せないということで、母も含め、数人の身内が交代で病院に泊まり込んでいます。

この間そんな話をしている最中、急に母が泣き出してビックリしました。
もともと、うちの母は精神的に強い人ではないので、このところの心労で、感情があふれ出したみたいです。

父が長いこと単身赴任で家を空けていたため、母と祖母は十年近く二人だけで暮らしてきました。
他人には言えないような嫁姑の確執もあったみたいです。

泣いてくれて良かった。

少しでも感情のはけ口になれたのなら、それでいいと思っています。

男は不便ですね。一緒になって泣くこともできないし、下手な励ましの言葉しか出てこない。
ただ聞いてくれる相手がいれば、案外感情を吐き出すだけで楽になれるのに、変に問題を解決しようと考えて助言を探してしまう。

涙が流れ落ちた時には、たいてい本人の中では半分は解決してるもんですよね。
少なくとも、心は決まっているんです。
助言なんて、涙の後では、刺身のつまほどの役にも立たない。

そうじゃないんでしょうか?

平安な人生なんて長続きしませんね。
でもこの運命の変化も、楽しむくらいの覚悟で受け止めるつもりです。

自分の人間性を試せる機会なんてそうそうないんですから。


十月の本棚 4

2003-10-23 21:59:00 | 家庭小説

街の明りの一つ一つに、誰かがいて、家庭があって、人々の生活があるんだと思うと、不思議な気持ちがしますね。

おそらく、一度も会うこともなく、知らないまま通り過ぎていくであろう人々。

だけど、その人達にも人生があり、喜びや悲しみを抱えて私達同様日々生きている。

繰り返すわずらわしい毎日の雑用に辛抱強く耐え、家族のためにと世話を焼き、家を清潔にし、食事の支度に追われながら…

今回ご紹介するのは、そんな隠された愛すべき人々に送られた物語。

エレナ・ポーターの『スウ姉さん』です☆


かく言う私だって、毎日毎日「泳げたいやき君」みたいに鉄板の上で焼かれる日々、いいかげん「いやになっちゃう」時もあります。

物語の主人公「スウ姉さん」ことスザナ・ギルモア嬢もそんな一人。
なにかといえば「スウ姉さんにきいてごらん」と繰り返す父親に、「スウ姉さん」を連呼する妹と弟。
母親が亡くなってからは、ギルモア家のいっさいが、「スウ姉さん」なしでは何事も運ばないらしく、「自分を犠牲にしてまで妹の靴の心配や、弟の野球道具の世話までしてらんないわ」とうんざりする日々。

それでもなんとか、売り出し中の作家である婚約者の甘い励ましと、大好きなピアノに不満をぶつけることで、平凡で空しい毎日を乗り切っていたスウでしたが、二十歳になったその春、ついに自由を手に入れるための革命に立ち上がります!

「人々の注目を浴び、光の中、舞台でアンコールの波に包まれる自分」を夢に描き、ピアニストになろうと決心するスウ。
家族の反対を押し切り、恋人に打ち明けた時、思わぬ反撃にあいます。

「あたし、こんなにも愛されてるとは思わなかった…。男性の愛情って、こんなにも強いものだったんだ…」

恋人の甘い囁きに、ピアニストへの道はあきらめ、その日のうちに七月には結婚することを約束してしまうスウ。

…ダメじゃん、スウ(笑)

ところが物語は急転直下、ここから本編へと入って行くのです。

なんと父親の銀行が破産。
疲労困憊で倒れた父親は、心痛による痴呆症で、あわれにも子供同然となり、一生介護のいる身に。
財産も家屋敷も失い、なんとか残ったのは田舎の小さな別荘だけ。

不満ばかりで役に立たない妹弟と、泥んこ遊びに興じる父親を抱え、スウ姉さんの受難の日々が始まったのでした。

慣れない台所仕事に父親の介護、妹や弟の学費の工面から家計の算段と、辛抱強く、その一つ一つを懸命にこなしていくスウ。

その姿にエレナ・ポーターは、当時の、そして今でも、日々掃除や洗濯、繕い物や食事の支度に追われ、家族のために必要とされている女性達を重ね、自分達の自由な生活を諦め、けなげに働く彼女達の生き方に光をあてました。

「自分の役目は皮むきなのよ」

華やかな晩餐会の裏方として、台所の片隅で馬鈴薯の皮をむき、料理を作り、みんなに食べさせてからその皿を洗う。

誰に褒めてもらうわけでもなく、感謝もされず、それでも不平もいわずに「わずらわしい毎日の雑用」を果たしながら、その耳の奥に響くのは、
「アンコール! スザナ・ギルモア! アンコール!」
と叫ぶ幻の聴衆の声。

父親のもとを離れられない彼女は、結婚して家を出て欲しい婚約者とも、しだいに気まずくなっていき…

こんな話を読んでしまうと、三十年以上も黙々と食事の支度をしてくれた母親のありがたさが身に染みます。
そして同じぐらいの年月、毎日会社に通いつづける父親にも。

そして多くの人達が、「スウ姉さん」のように、この「日常」という偉大な業績を日々培っているわけですよね。

物語は後半、アッと驚く展開をみせます。
父親を看取り、妹達も立派に独立させて、自由の身になった「スウ姉さん」のとる行動とは?
そして結末は?

スウの最後のセリフから、どうぞみなさん推察してみて下さい。
きっと、納得のいく結末だと思いますよ。


「そんなこと、ちっとも犠牲じゃありませんわ!」



エレナ・ホグマン・ポーター  著
村岡 花子  訳
角川文庫


十月の本棚 3

2003-10-23 01:12:00 | 家庭小説

ある時友人にこう言ったことがあります。
「人生には読んでおかなくっちゃならない本ってあるよね。」

彼はサラッと答えました。
「そうだよ。」

・・・なかなかの名言でした。いまだに忘れられない一言です。

さて、『昔気質の一少女』の紹介です。

前回は十四歳だった主人公ポリーも二十歳になり、家計を助けるためにピアノ教師として働くことにします。

ますます貴婦人として磨きをかけた友人ファニーは相変わらず。
幼かったその妹モードもようやくRの発音が満足にできるようになり、いつもポリーをからかっていたトムは大学で伊達男として名を馳せることに。

今回の見どころは、このファニー嬢の変化と、ポリーとファニーの恋模様♪
そして時代に先駆けた女性の自立をテーマにしたオルコットの見事な文体です。
アメリカで女性参政権が実現するのはこの小説の発表後半世紀がたった1920年なんですから、考えてみるとスゴイ!

「男だって女だってその心情や気概はみんなが考えているほど違うものではない」

ポリーの友人として登場する若き芸術家達。
お金や流行や地位に振り回されず、才能と若さで世間に立ち向かう彼女達。
そして独立を獲得するために一本の針で戦うあわれなジェーン・ブライアントのような多くの女性。
彼女達に、そしてポリーに誘発されて、あのファニーが「真に大切な物」に目覚めていく過程は胸がスーとします。

ファニーの一家を襲うことになる大きな困難でさえ、彼女を、そしてトムを大きく成長させる助けとなります。
もちろん、どんな時でも物事のよい半面を見る才能を持つポリーの存在は欠かせません。

「自尊心は懐の中にしまっておきなさい。そして貧乏は何も恥ずべきことではない、不正こそ恥ずべきことだということを忘れないようにおし」

貧困と労働の中にも喜びを見出し、人生を楽しむ術を知っているポリーのなんと魅力的なこと♪

そんな彼女が悩まされる恋愛模様は、「もうお願い、かんべんして!」と思わず叫びたくなるほどじれったい!

オルコットは読者を惹きつける天才ですね。
読者にはお互いの気持ちがわかっているだけに、ちっとも進展しない二人に「早く気づけよ!」と突っ込みたくなります(笑)
思いやりと取り越し苦労、よけいな告げ口に根拠のないウワサ話。
ファニーじゃないけど次の汽車で西部に行ってポリーの恋敵をひとにらみで倒し、意中の彼氏をばポリーへのおみやげにさらってきたくなります(…ファニーならやりかねない☆)

作者が読者に語りかける(いいわけかな?)シーンもあって、全編に流れる愛情とユーモアは、爽快感を与えてくれます。

物語中でオルコットが危惧していますが(笑)「この昔気質の娘の表紙が図書館でよれよれになっているのを発見するというような名声」は間違いなく与えられたことでしょう。
なんてったって百年以上たった今でもこんなにも熱烈な読者を獲得する魅力を持っているんですから。

現れては消えていく様々な時代の価値観にも揺るぐことのない人間の真実。

ぜひ若い人達に読んで頂きたい。

私の人生の中で、まさに「読んでおかなければならない本」の一冊です。



ルイザ・メイ・オルコット  著
吉田 勝江  訳
角川文庫


日曜日の食卓

2003-10-19 23:56:00 | 日々の出来事
松茸食べました♪

うちの近所の親しくしているお宅からのおすそ分けです。

しかも採りたて☆
その人は近所でもキノコ採りの名人と呼ばれていて、どうやら秘密の場所があるらしい…ただし、その人が採りにいく姿を見た者は誰もいません。
ミステリアスなおばあちゃんです。

母親がさっそく茶碗蒸しにしてくれました。残りは松茸の炊き込みご飯にするとのこと。

茶碗蒸しはあの玉子のプルプルが命ですね☆

鶏肉に白菜、かまぼこにメインの松茸! 銀杏はちょっと苦手です。

香りを楽しみながらいただきました。
実りの秋に感謝です♪



十月の本棚 2.5

2003-10-19 00:47:00 | 家庭小説

「フィンおばさん。ご迷惑をおかけするのをどうぞお許しください。でもこうするよりほかないのです。私は生きていけるだけのお仕事をみつけることができません。お医者様は静養しなくては病気は治らないと言います。でも私は他のかたの重荷になるのはいやなんです。ですからもうこれ以上誰にもご迷惑をかけないですむところに行こうと思います。おばさんから拝借したお金をお返しするために、身の回りの物を売りました。どうぞ私をこのままにしておいてください。人を呼んできて私を見せたりしないでくださるように。こうすることが罪深いことでなければいいと思います。でもこの世界には私のいる場所はないような気がします。私は今は死ぬのはこわくはありません。生きていて、正しい生活をすることができないで悪い人間になることを考えるとそのほうがこわいと思います。赤ちゃんによろしく。さよなら。さよなら。

         ジェーン・ブライアント」

『昔気質の一少女(下巻)』より。 十七歳の身寄りのない少女ジェーン・ブライアントの遺書。

内容をそのまま引用するのはルール違反のような気もしましたが、あまりの文章につい書き込んでしまいました。

心がふるえた一瞬でした。



ルイザ・メイ・オルコット  著
吉田 勝江  訳
角川文庫


十月の本棚 2

2003-10-18 23:53:00 | 家庭小説

アニメーターになって、初めてもらった仕事は世界名作劇場の「愛の若草物語ナンとジョー先生」の一シーンでした。

そして、めでたくも、これが見事リテイク(やり直し)第一号となりました(苦笑)

オルコット先生ゴメンナサイ。

だけど楽しい仕事だったな~♪ (生活は苦しかったけど…)

ボストンの名門出ではあるものの、父親の事業の失敗などで貧困生活を余儀なくされたオルコット。
それでも筆をとりつづけた彼女は、二十年目にしてようやく『若草物語』がヒットして日記に「借金はのこらず返済、安心して死ねる気持ち」と書き残しています。

今回ご紹介する本は、そんな『若草物語』の作者が送る、ちょっと趣きの変わった物語。

ボストンを舞台にした、ルイザ・メイ・オルコットの『昔気質の一少女』です。


ボストンの上流社交界に浮き身をやつす少女ファニーのもとに、昔気質の教育を受けた田舎娘、ポリーが遊びにやってきます。

まるで毎日お菓子ばっかり食べて暮らしているようなファニーの都会的で華やかな生活に、田舎育ちのポリーは振り回されっぱなし。
おしゃべりとファッションが幅を利かすファニーの友達とのお付き合いにも辟易してしまいます。

そんなポリーでしたが、喧騒と社交辞令の中で知らず知らずのうちに心の明りを曇らせてしまっていたファニーの家族にとっては、彼女の昔風の、そして優しい心遣いは、忘れていた家庭の幸せに光を投げかけてくれることとなるのです。

「今の女の子は、悲しいことに美しい昔気質というものを、まるで知らないようにみえる。知っていてもそれを恥じるような風潮にあるように思われる。真に女を美しくし、家庭を楽しいところにするのは、古きよき習わしであると思うのだが…」

序文でオルコットはこう書いていますが、オルコット自身、「女が結婚もせずに小説なんか書いて…」という時代の中で作家を続けていました。
しかもこの物語が書かれたのはアメリカ南北戦争後というのだから、「昔」の定義も難しい。

だけどこの”旧式な”ポリーの行動には、時代を越えた『真実』のようなものを感じます。

「取るにも足らない自分でさえも、何かよいことをすることができるかもしれない」

ファニーの父親が家に帰るたび、このバラ色の頬をした少女が小走りで向かえに出て、小さい両手を彼の大きな腕にまわすシーンは読んでいてついつい微笑んでしまいます。
カワイイ娘に、こんな出迎えを毎日してもらったら、たまんないな、父親は(笑)

ファニーはおやすみのキスも「赤ちゃんみたい」とバカにしますが、ポリーは気にしません。

一人でいることの多いおばあさまのお話を真に嬉しそうに聞くポリー。

こうしたポリーにとって「当たり前」の愛情が、生活を浪費することに忙しいファニーの一家に暖かな変化をもたらしていく様は、現代の私達にも「大切なこと」を教えてくれます。

ポリーの母親はいつも彼女にこう言い聞かせていました。
「たとえ小さい女の子でもこの広いせわしい世の中に何か力を尽くせるし、いくらでも善行をほどこせるものです」

自身、南北戦争に看護婦として志願したオルコット。
その時にかかった熱病がもとで、終生健康な体には戻れませんでしたが、衰える体力に鞭打つように小説を発表し続けていきます。

そんな中からこうした珠玉の作品達が生まれていったんですね。

この物語は南北戦争後のアメリカの人々の心を打ち、多くの要望に応えて、次の年には続編が書かれました。

舞台は六年後。ピアノ教師として自立したポリーの物語。

では続きは次回ということで。



ルイザ・メイ・オルコット  著
吉田 勝江  訳
角川文庫


「世の禍事はやがて正さる」

2003-10-11 23:47:00 | 日々の出来事
『ハックルベリィ・フィンの冒険』の他、ディケンズの『クリスマス・カロル』やジーン・ポーターの『リンバロストの乙女』などの翻訳で知られる村岡花子さん。

もちろん、その中でもモンゴメリの翻訳が一番有名ですね。

もう、彼女なしで日本のモンゴメリ物を語ることは出来ないでしょう。
『赤毛のアン』に始まるアンシリーズ。
この「私的図書館」の記念すべき第一回を飾った『丘の家のジェーン』。
『果樹園のセレナーデ』に『パットお嬢さん』。
そして『可愛いエミリー』で始まるエミリー・ブックス三部作。この第三部にあたる『エミリーの求めるもの』が残念ながら最後の翻訳となりました。

村岡花子さんの訳した文章は好きでしたね。
なかでも『赤毛のアン』でのマシュウの口癖が印象的。
嬉々として話すアンの傍らで「そうさな。」と物静かに聞いているマシュウ♪
まさに名訳! この一言がマシュウのすべてを物語っていますね。

エミリー・ブックス三部作の翻訳には四年の歳月がかかり、その間には眼疾治療のための入院生活がありました。
全国の読者から多くの催促の手紙を受けて、「すまない、すまない」とおっしゃっりながら、眼病をおして訳業を続け、『エミリーの求めるもの』の原稿を出版社に渡したその月に生涯を閉じられたそうです。

本来ならいつも訳者のあとがきがあるところ(このあとがきも楽しみでした)に、村岡花子先生の生涯と業績を讃える滑川道夫氏の解説が載っていて、その詳細が胸を打ちました。

1893年に甲府市に生まれ、甲府メソジスト教会で小児洗礼を受け、英語講師などを経て結婚。
疫痢のため亡くなった幼い息子の名前を取り、自宅に「道雄文庫」を開設して子供達に開放し、同人誌『火の鳥』の創刊に参加。翻訳業にも乗り出します。
昭和六年から十年間は「こどもの新聞」の放送を担当。戦後は翻訳業に主力を入れるようになりました。

来日したヘレン・ケラー女史の通訳も務めたことがあり、女史が日本の歓迎ぶりに感謝しながらも、
「日本にはわたし以上に不幸な人たちがいるのに、なぜその人たちにもっとあたたかい手をさしのべてくださらないのでしょうか」
と訴えられた時は、その言葉を感動的に通訳されました。
この言葉を、村岡さんは機会があるたびに子供達に伝えていたそうです。

昭和四十三年十月二十五日。
村岡花子さんが亡くなられて、もうじき35年になります。享年七十五歳でした。

村岡先生。
大好きな本の数々を、私達読者に届けて下さって、本当に感謝しています。

それが、どれだけ人生に彩りを加えてくれたことか。

これからそれらの本に出会うことになるだろう未来の読者にかわって、
そしてなにより、未来永劫かわらぬ『腹心の友』として、こころから…


ありがとう。


折りしも外は村岡花子さんが亡くなられた十月の空がひろがっています。
心からご冥福をお祈りいたしております。

十月の本棚

2003-10-11 21:36:00 | 児童文学

今回ご紹介する本は、アメリカの文豪、
マーク・トウェインの傑作。
『ハックルベリイ・フィンの冒険』です。

マーク・トウェイン(本名サミュエル・クレメンズ)といえば、日本では『トム・ソーヤの冒険』が有名ですね。
ペンキ塗りの仕事を、口八丁手八丁で子供達に押し付けるシーンは秀逸! 


『トム・ソーヤの冒険』の最後でトムと共に大金を手に入れた浮浪児ハック・フィン。
自然児の彼がダグラス未亡人に引き取られ、様々な規律と窮屈な服に閉口しながら、”普通”の生活を送っているところから、物語は始まります。

時に抜け出して森で眠ることもあるけれど、未亡人とその妹ワトソン嬢の犠牲的精神により、学校にも何とか通うようになったハック・フィン。

そんなところに、飲んだくれのハックの父親が、息子が金持ちになったことを知って現われます。

まるで社会の矛盾と人間の赤裸々な真実を体現したかのようなこの父親。

未亡人の所から無理矢理さらわれ、棒で殴られる毎日に、ハックは独自の生活の知恵を駆使して、まんまと父親を出し抜くのですが、勉強は出来なくてもハックの生き抜くことにかけての才能は天才的☆

特にその口のうまさったらマーク・トウェインの筆の走ること走ること♪

こうして身を隠したハックと、逃げ出して来たワトソン嬢の所の黒人奴隷ジムが偶然再会し、ジムを自由州(奴隷制度を禁止した州)に送りとどけるための二人の旅が始まります。

ハックとジム。
このコンビがミシシッピー川を筏で下りながら出会うことになる様々な人々がとってもユニーク。
スウィフトの『ガリバー旅行記』にも似た、風刺の効いた人物描写がなされています。

難破船の沈み行く船上で、自分達の運命にも気ずかずに、分捕品を奪い合う盗賊達。

誰が始めたのかわからない理由で、何世代にも渡って争いを続ける二つの”家柄のよい”一族。

公爵と王様を名乗る下品な詐欺師達。

それぞれが、人間の持つ真実の姿(欲望や憎悪や権力欲)の代弁者として登場し、ハックやジムの”無知なる力”に挑んでくるのです。
その内容は作者が「大人の読み物」と考えていたのもうなずけるものですが、マーク・トウェインの人柄と性格故か、ちっとも堅苦しくなく、ユーモアと機知に富んでいて、子供でも楽しめる物語に仕上がっています。

かつてヘミングウェイは
「アメリカ近代文学の散文スタイルは、ハックルベリイ・フィンという一冊の書に源を発した」
とまでこの作品を激賞しました。

そこまで、アメリカ文学史に与えた影響は大きかったのでしょう。

後半には、再びトム・ソーヤが登場し、読者を圧倒する”悪戯”が巻き起こります。
トムこそは、「まったく男の子って!」
・・・と、思わず苦笑してしまう魅力を体現した少年。

圧倒されすぎて、大人の読者はついてこれるかな?

どうぞ、少年達の胸踊り、波乱に満ちた冒険物語を体験して下さい。
ただし、これがただの冒険譚でないことだけは、お約束しましょう☆

「冒険はどんなところにでも転がっている。」



マーク・トウェイン  著
村岡 花子  訳
新潮文庫



「前略、秋桜畑から」

2003-10-05 20:14:00 | 日々の出来事
空が高くなりましたね。

成層圏を見上げて、流れるウロコ雲を見つめながら、秋の訪れを感じている今日この頃です。

両親が甥っ子の運動会に揃って出掛けてしまったため、朝もはよから実家に帰って犬とニワトリの世話をしています。

早朝の犬の散歩は気持ちがイイですね☆

休耕田いっぱいに咲くコスモスは今が満開。
草刈が終ったあぜ道に鼻を突っ込む我が愛犬は、群れのリーダーを自認していて、飼い主をひっぱり回して疲れること疲れること。
いったいいつになったら人間を主人と認めるんだ、この犬は?

家の背後にそびえる山々は、長野県まで県境を挟んで続いているのですが、紅葉間近の木々の下では実りの秋がもう訪れています。

口を開けたアケビの実を父親が見つけてきたのですが、街育ちの甥っ子達には不評でした。
どうやら姿形が怖いらしいのです。

栗の実もイガイガの中から顔を出し、おいしそうにピカピカ光っています。
地元の和菓子屋さんで、さっそく”栗きんとん”を買ってきていただきました。
これも秋の我が家の定番ですね。

食べ物で季節を感じることも少なくなってきましたが、旬のものはやっぱり美味しい♪
春夏秋冬を肌で感じるのが、食べ物ってところが性格をあらわしているんですけど(笑)

でもやっぱり、美味しいものは美味しい。

秋刀魚の表面をパリッと音がするくらいに焼き上げて、あつあつの処に若々しいかぼすなんかをキュッと搾る。
大根おろしをからめて醤油をたらすともう堪りません!

馬肥ゆる…じゃないですが、この季節は体重計も気になりますね☆