私的図書館

本好き人の365日

閑話休題

2003-06-28 02:42:00 | 日々の出来事
涼しさを求めて、岩井志麻子の「ぼっけえ、きょうてえ」を開きました。

岡山地方の方言で「とても、怖い」と言う題名のこの作品。

・・・結論。
蒸し暑い日には、素直にクーラーを使いましょう(笑)。

日常の中に潜む恐怖。
そういうことって、かえって怖いよね~。
イヤ、うちの実家でもあったんです。
近所の神社の境内に、なんとワラ人形が釘で打ちつけてあったんです。しかも、そこには、顔見知りの男の人の名前が・・・

場所は公民館も隣接する普通の神社。夏休みには、子ども会で「きもだめし」をやるくらいで、そういう話は聞いたことがない。

さらに母親の話によると、そのワラ人形に名前のあった近所の郵便局職員の人が、その後、はしごから落ちて怪我をしたとか。

関係あるのか、それ!?

まあ、「丑の刻参り」に効果があるのかどうかはともかく、それをしてしまう人の情念はかなり怖い。
一時的に感情が湧き上がったり、嫉妬心や敵愾心を抱くことはある。それは自然なことだし、義憤や憤りを感じない方が嫌だ。だけど、夜中にワラ人形を打ちつけている自分の姿なんて、もっと嫌。

感情には色々あるけど、健全なのは、そういうプラス面とマイナス面を二つとも自分として認めてやることだと思うな。
他人の所為にばかりして、恨んでばかりいるのも疲れるけど、他人を無制限に愛して、マイナスな感情はすべて悪と決め付けてしまうのも疲れると思う。
いいこともわるいことも、それ単体じゃあ意味がないような気がするし。

いろんな感情に振り回されて、クタクタになって帰ってきて、お風呂に入って、ソファーに腰掛け、TVを見て笑う。ふと一歩引いて自分を見てみると、そんなに悪くないじゃん、と思う。くやしかったり、傷ついたりしている日もあるけど、そんな日ばかりじゃないんだし、四苦八苦しているのも、生きてるって感じがする。

ともかく、生きてるんだし。

なんか、そう思います。

怪談、奇談で幽霊や霊魂の話しがよく出てきますね。そういう場合、死んでしまった人間の方が生きている人間より強い力を持っていることが多いんですが、そこが信じられない。
やっぱり、生きているってことの方が強いような気がするんですけど。

「葉隠」に、こんな話しがあります。
密通したかどで死罪になった者の幽霊が、夜な夜なあらわれるというので、皆が怖がっている時、殿様が「さてさて気味のいいことだ。死んでも行くところへも行けず、迷い出て幽霊になり、浮かばれず苦しんでいるとは愉快ではないか。よしよし、いつまでも成仏せずに迷っておれ。」と、言ったところ、その夜から幽霊は出なくなったとか。

そのひと本人が持っている恐怖心が人を怖がらせる。幽霊はそれを利用するだけ。もしかしたら、幽霊自身を作り出しているのもこの恐怖心なのかも。

本当、人間って面白い。














六月の本棚3

2003-06-22 13:54:00 | 新井素子
自分で買った初めての本って憶えてます?

親が選んだり、買ってもらったんじゃなくて、自分のお小遣いで買った、欲しくて欲しくてたまらなかった本。

私の場合、それが今回ご紹介する本。
新井素子の「二分割幽霊綺譚」なんです☆

当時(消費税はまだない時代)880円を使うのには勇気(!)が必要でした。
本屋で何時間も立ち読みし、それでも自分の物にしたくて、とうとう手に入れた自分の本。
小さな文庫本じゃなくて、ズッシリと重い初めてのハードカバー。
今見ると、本の裏側に購入年月日と自分の名前が書いてある(笑)。

この本を手にすると、そんなワクワクドキドキしながら本を読んでいた気持ちが甦ってきて、変なところが痒くなります。
今も私を読書に駆り立てているのは、このワクワクドキドキなんですね。

さて、内容はというと・・・

主人公は「仮性半陰陽」という病気により、中学三年生の時に、それまで男だと思っていた自分が、実は女だったことを知らされます。ショック状態の家族。手術に転校。恋人(もちろん女性)との別れ。昨日までの男子中学生が女子中学生として送る学生生活。ところが、ストーリーは彼女が大学生になり、女性に幻滅し(理由は想像して下さい)、かといって今更男性に夢も抱けず(う、想像したくない)生きているのか死んでいるのかわからないような生活をしているところから始まります。

ある日、そんな彼女のところに自称16才の少女が転がり込みます。
男と見れば誘惑する彼女の正体は齢300才を超える吸血鬼。主人公の生い立ちに興味を持った彼女はしばらく同居することに…
さらに二人の住むアパート「第13あかねマンション」は、どうやらパラレルワールド(別世界)と繋がっているらしく、しょっちゅう人が消えたりしている。そんなところに現れた謎の美女、東くらこ。

もはや謎とかそういう問題ではないような気もするんだけれど、彼女はモグラに育てられ、別世界にモグラの楽園を作ろうと、モグラとヒミズ(日見ずモグラ。日本特産のモグラ科の生き物。小型。)の移民計画を進めている。

そんな東くらこに見つかった主人公は、彼女とその部下の言葉をしゃべる巨大モグラ(?)により、催眠術をかけられそうになりますが、不幸な事故により自分が死んだと思い込みます。
さらに死体の処理に困った東嬢が、それをシチュー(!)にして、アパートの住人で砂姫(例の吸血鬼)に血を吸われた山科と、その後輩で主人公のかつての親友で、しかもかつての恋人の兄でもある真弓(…男です)の二人に食べさせたもんだから、主人公は左右に分割された世にも奇妙な幽霊として二人の前に現れることになり・・・


????????


・・・これで物語が成立しているのかって?
大丈夫、ちゃんと300ページくらいで納まります。

新井素子のスゴイ所は、普通の作家なら飛び付きそうな設定を用意しても、決してそれに惑わされる(?)ことなく、物語を進めて行く力があるということです。いや本当。

隕石があと一週間で地球に衝突するという「ひとめあなたに」という作品でも、主人公は地球を救うでもなく、ただ恋人に会いに行きます。
地球も救われません。

・・・面白いです。

物語はモグラとヒミズのモグラ大戦争に発展し、二組の恋愛事情も絡まって、まさにハラハラドキドキの展開。
これほど先の読めない作家も珍しい。

ただ、新井素子の作品の底辺に流れる生命観が大好きなんです。
「ひとめあなたに」のあとがきに、こんなことを書いています。

「小学生の頃。命は大切なものだって教わってきて、で…そういう教育、受けといて、知るの。(中略)もと、にわとりであったものを、殺して、食べて、あまつさえ、殺したのに、そのにわとりさんの肉、残したりする。」「だから。私、自分の御飯をおいしくしておく為にも、いきものを殺して喰う罪悪感をなんとかしなきゃいけなかったんです。そこで。私、思ったんです。仮にここがジャングルだとして。私、雑食性の動物だから、野菜も肉も食べる。故に私、生きてる限り、あっちゃこっちゃの動物を殺すだろう。でも。動物界の第一法則が弱肉強食である以上、私より弱いいきものが私に殺され、食べられるのは当然の宿命でしょう?残酷なことでも極悪非道なことでも何でもないよね。大体、自分の体内で合成できないアミノ酸を複数もってる生物が、他の生物のアミノ酸を食べるといった形で体内にとりこむことに罪悪感抱いてたら、そんなもん、生物じゃないわい。だから。逆に。私、人間を特別なものだとはまったく思わないことにしたんです。人間だって、動物である以上、ライオンだとか、虎だとか、人間より強い、人間を食べる生物に出くわしたら、食べられてしかるべきだって思うようにしたんです。」

人間なんて、他の生物の犠牲なしには、びた一秒だって生きていけないくせに。

作者21才の時のこの感性が、15才の私にはとても嬉しかったんです。そして、それは今も、続いています。

なかなか、手に入り難いとは思いますが、他の作品でも、このテーマは垣間見れて、独特の生死観が面白い雰囲気を作ってますよ。
しかもコメディーだったりします。

それでは、今回は新井素子風に終わりたいと思います。

読んで下さって、どうもありがとうございました。気にいっていただけると、とても嬉しいのですが。そして、もし。気にいっていただけたとしたら。もしも御縁がありましたら、いつの日か、また、お目にかかりましょう―。






新井 素子  著
講談社

 「名前の掟」

2003-06-18 23:34:00 | 日々の出来事
今回は、私達だれもが持っている「名前」というものにまつわるお話しをアレコレ。

昔から、名前には「力」があるとされて、呪術などでは、欠かせないものだったんだって。
わら人形に、呪う相手の名前の書かれた札を入れたり、呪文を唱える時も、相手の名前をひと息で、一気に呼ばなければならなかったり。
ちなみに、ヨーロッパの王侯貴族が舌噛みそうな程、長ったらしい名前なのも、ひと息で言えるような名前だと、誰に呪いをかけられるかわかったもんじゃないからだとか。

長いと言えば、サウジアラビアの初代国王は正式には「サウド・イブン・アブドル・アジズ・イブン・アブドル・ラーマン・アル・サウド」と言うらしい。
名前の構成には決まりがあって、まず最初に自分の名前、次が父親の名前、その次は祖父の名前、最後は部族の名前と続き、「~の息子」という意味のイブンを付け、自分の名前と部族の名前が同じ時は、部族名に冠詞の「アル」を付けて区別するとか。
だから上の名前は「サウド家のアブドル・ラマーンの息子の、アブドル・アジズのそのまた息子のサウド」という意味。

さすがにこれでは呼びにくいので、普段は省略して呼ぶそうだけど、省略の仕方も色々あって、アラブ人以外の人には、その人の本当の名前がわからなくなることも多いらしい。そりゃそうだ。

「~の息子」という表現は世界中にあって、『指輪物語』でも「アラソルンの息子アラゴルン」なんて呼ばれていて、けっこう有名。
北欧では「~の息子」という意味の「~ソン」「~セン」で終わる名字が多いのも、昔は親子代々で名字にこの「~の息子」と付けていたから。
例えば、ヨハン・エリクソンの息子のカール君は、カール・エリクソンではなく、カール・ヨハンソンとなるわけ。
あの童話で有名なアンデルセンも、だから「アンデルスさんの息子」という意味になるんだけど、さすがに名字が変わっていくのは不便だということで、20世紀の初め頃から名字は変えないことになったんだとか。

ユーゴスラビアの一部に多い「~ビッチ」という名字には「~の子供」という意味があって、ロシアでは父親の名前にビッチを付けてミドルネームにしている。エリツィン前大統領の名前はボリス・ニコライビッチ・エリツィンだから、父親の名前はニコライ・エリツィンだったはず。

さらにロシアでは、フランス語に男性形、女性形の区別があるように、名字にも女性形があるんだなこれが。女性形は男性形の末尾に「a」を付けて呼ばれ、テレシコフさんの奥さんは、だからテレシコワさんになる。ゴルバチョフ前大統領の奥さんのライサ夫人は、そうするとライサ・ゴルバチョワとなるはず。もう!なんてややこしいんだ。

そうかと思うと、アジアの中には、名字という概念そのものがない民族もいて、ミャンマーなんかでは、ほとんどの人が名字を使わない。あのアウン・サン・スー・チー女史も別にアウン・サンがファースト・ネームというわけではないとか。
日本の天皇家にも名字がないけどね。(これは意味がちょっと違うけど)

先頃行われたエビアン・サミットでは、写真撮影の時に日本の小泉首相が、隣のイギリスのブレア首相に「英語で『ブレア』という名前はどういう意味?」と聞いたところ、前の段に立っていたアメリカのブッシュ大統領が振り向いて「ブレアとは『勇気』という意味だよ。」と教えてくれたとか。

日本でも昔は、幼名から元服して名前を変えたり、本人の成長によって名前が変わり「名は体を表す」とか「名実ともに」なんて言われ、そのひと本人を表す重要なものだった。歌舞伎なんかでは「襲名」と言って、今度は人が変わっても、その技術や役割に名前が付いていて、何百年も同じ名前が使われたりしている。

TVの『金八先生』でも、生徒一人一人にその名前の意味や由来を語るシーンがあって、感動したな~。

色々な習慣や風俗の違いはあっても、親が子の将来を思って頭を悩ましながら付けるのは万国共通。

いや~、おろそかにできませんね。






 ゲド戦記 補足

2003-06-14 08:13:00 | ゲド戦記
前回、アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」をご紹介しましたが、二日後、本屋でとんでもないものを発見してしまいました。

「アースシーの風 ゲド戦記Ⅴ」

帯には「待望の最新作」の文字。
奥付を見ると、今年の3月に第一版が刊行されている。

し、知らんかった。
だって、第四巻に「最後の書」って書いてあったんだもん。

イヤ、嬉しいですよ。店頭でその本を見つけた時、驚愕と共に、(また読める!)という歓喜の感動で、立ち尽くしてしまいましたから。

第三巻での戦いで、魔法の力を失ったゲドは、第二巻で救い出された闇の主の巫女、テナーと共に、故郷ゴント島で普通の人間として生きていくことを決意します。そこにいたるまでのゲドと、テナーの等身大の女性としての葛藤を軸に、竜と人間の関わりを描いた第四巻。確かに、すべての謎が説明されたわけじゃなかったけれど、誰もがこれで完結だと思ったはず。

今、第五巻のページをめくっています。

…お、おもしろい。

第四巻から十一年もたってからの刊行とはとても思えない。
さらに、来年(2004年)にはゲド戦記の外伝ともいうべき短編集「TALES FROM EARTHSEA」が読める予定だとか。

どうしたんだル=グウィン?
こんなに嬉しいニュースが続いていいの?

…それもなんで紹介した二日後に?
一週間前だったら、もう少し書き様があったのに。

と言うわけで、番外的に補足を付けるしだいとなりました。
さらに今月(六月)発売の白泉社の雑誌、月刊「MOE(モエ)」七月号の紙上に、完結記念「偉大な魔法使いゲドの世界」と題した「ゲド戦記」の特集記事が載っています。作者のル=グウィン氏からのメッセージもありますので、興味のある方はこちらも読んでみてはいかがでしょう。そう、第五巻で「ゲド戦記」は完結してしまうらしいのです。しかし、もう私は信じません。たとえどんな結末を迎えるにしても、アースシーの世界は、姿を変え、別の物語となって、私達の前に現れることでしょう。

私達が竜と魔法の物語を待ち望む限り。

では、「MOE」の魔法図書館で取り上げられていた、有名なファンタジーの一節を借りて、今回はお別れです。

「あなたの最後の望みが、あなたを導いてくれます。それをなくしてはだめよ!」









アーシュラ・K・ル=グウィン  著
清水 真砂子  訳
岩波書店

六月の本棚

2003-06-10 03:13:00 | 日本人作家
今回は私の大好きなマンガ家、川原泉の作品をご紹介します。

とはいえ、妹が「なかよし」派だったため、読むようになったのは、ごく最近なんです。NHKの「BSマンガ夜話」という番組で紹介されていて、いっぺんにファンになってしまいました。

少女マンガとはおもえない(失礼)文字の量。
登場人物のとぼけた(…ほ、ほめてるんです)
表情に、ケレンみのない言動。
まさに、「てん目は口ほどにものを言う」を実感させる表現力。(ほめてるんだってば!)

フッと肩の力が抜けるのを感じる。
いつの間にか、片意地張っていた自分に気づかされる。
理想じゃないけど、うらやましいような、そんな、ホワッとした気分にさせてくれる。

あーもう!
こんな文字だけじゃあ、とても伝え切れない。とにかく読んで下さい。読めばわかります。(って、あたり前か)

今は文庫本で、まとめて読めるので、とってもお買い得です。
まずは「美貌の果実」から。

普段少女マンガは読まない私でも、この作者の作品は、もう何度も読み返えしています。
こころのばんそうこうみたいに、ちょっと痛む時にめくり、お風呂につかるみたいにリラックスするためにめくり、ひと息いれるティータイムのかわりにページをめくる。

最後に、「美貌の果実」と同じ本に収録されている「架空の森」という作品から。

主人公の女性”苑生”は、お見合いの席に一世一代のユーモアとして、怪獣(?)の着ぐるみを着て出席し、相手を怒らせてしまいます。
しかし、苑生は思うのです。(―せめて、これを見て笑い飛ばせるぐらいの、度量のある男であったなら…)

この絵を見たら、絶対笑います。
それも、大笑いじゃなくて、ニンマリと。

日常の中にこそ、真理は落ちている。
不思議な川原ワールドへ、あなたもいかがですか?








川原 泉  著
白泉社

六月の本棚2

2003-06-07 00:38:00 | ゲド戦記
ある音の組み合わせに、不思議な力があると言ったら、皆さんどう思います?

例えば名前。
自分の名前を呼ばれた気がして、つい振り返ってしまったなんて経験は誰にでもあるはず。悪口や誉め言葉だって、自分の名前がはいると、はいらないとでは大違い。人を傷つける音の組み合わせや、癒す組み合わせ。様々な組み合わせが人に影響を与え、そして人を操れるとしたら。
私達が『言葉』と呼んでいる体系を『魔法』と言い換えてみれば、その力にあらためて気が付くはず。大勢の人の中から、あなただけを振り向かせることのできる呪文だなんて、素敵だと思いませんか。

今日ご紹介する本は、そんな『名前』の持つ、特別な力をあつかったファンタジー、

アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」です。

ダニーと呼ばれる少年は、大魔法使いオジオンにより、十三才で名前を取り上げられ『真の名』を告げられます。それが彼の名、「ゲド」です。
ものには、他のものと区別するために私達が勝手につけた「通り名」と、そのものが本来持っている「真の名」があり、その真の名を知っていると、そのものの本質を正しく知っていることになり、それを操ることができる。
これが、この世界の魔法です。ですから、万一敵にでも知られたら一大事。

ゲドは、魔術の才能を見込まれ、魔術の学院で学ぶことになりますが、ゲドの負けん気の強さが災いして、彼は『影』を呼び出してしまいます。『影』は闇に属する「名なき者」。しかも『影』はゲドの「真の名」を知っている。さあ、名前を持たぬ者とゲドはどうやって戦うのか?

ゲドのアースシー世界での冒険は、彼を魔法使いとして、そして人間として大きく成長させていきます。
手に汗握る展開だけではなく、冒険の道中の描写や街の様子が、独特の異世界の雰囲気を醸し出していて、この物語に美しい奥ゆきを与えているのも魅力のひとつ。

第一巻の「影との戦い」、第二巻「こわれた腕輪」。第三巻「さいはての島へ」。そして、最後の書「帰還」と物語は進んでいきます。

名前は昔から重要視され、今でも、その力は衰えていないと思うのですが、いかがですか?

それは言葉にも言えること。
言葉には意味があります。
その人に触れることなく、傷つけることのできる「力」のある言葉の使用にはご注意を。
どこかであなたの『影』が目を光らせているはず。
そして逆に言えば、どんなに美辞麗句を並べてみても、あなたの胸の奥から出た言葉でないと、相手には通用しないということでは?

小学生高学年から読める丁寧な作りになっています。もちろん、大人の方でも十分楽しめます。

さあ、あなたもアースシーの世界で胸躍る冒険に出かけてみませんか?








アーシュラ・K・ル=グウィン  著
清水 真砂子  訳
岩波書店

愚者の楽園

2003-06-06 05:36:00 | 創作
人間は愚かで、
どこまでも愚かではありますが、
それゆえに、
夢や希望が輝いて、
明日への道を照らしてくれます。

私達は、どこまでも、どこまでも、あやまちを繰り返しながら、
それでも、
より良い未来を信じて、
人を信じて、
歩いて行くのでしょうか。

青い空と白い雲の下で、

満天の星空を見上げながら、

いつの時代でも、どんな時でも。

「ここから、また、はじめればいい。」

そんなことをつぶやきながら、
自分で一歩を踏み出す。
何回でも、何十回でも。

明日は信じられる。

だって、まだ誰の手も加わっていないから。







とある日曜日

2003-06-02 01:00:00 | 日々の出来事
朝、散歩に出かけ

洗濯をして部屋をかたづけた。

TVをみて、昼食に出かけ

買い物をして、しばらく車を流す。

ゲームの「真・三国無双3」をプレーして

「キノの旅」という小説を読んだ。

その間、電話の着信音が四回鳴って、留守番電話サービスに切り替わる。

ケンカなんてするもんじゃない。

わかっているのに気持ちの整理がつかなくて、電話に出るのが怖い。

いつもながら、回復には時間がかかる。

そしていつものように

こういう時、私はのんびり「その気」になるのを待つ。

おとなになって、待つことをおぼえた。

ゆっくりと、時間は流れる。

感情だって、時間と共に流れ去る。

残ったものが、私のもの。

自分で自分がわかる時、私はなぜだか笑ってしまう。

自分で自分が可笑しくなったら、

なんとなく、「その気」になってくる。

でも、今日はもう遅い。

寝ることにします。

みなさん、おやすみなさい。