私的図書館

本好き人の365日

五月の本棚 7

2003-05-25 09:07:00 | 哲学
『子どものための哲学対話』の第二回です。

20代の頃は、「生きる意味」とか、「宇宙の果て」について、友人と徹夜で語り合ったものですが、お互いの意見を発展させて新しい認識を生み出すという、”対話”の魅力に惹かれていたのかもしれません。
ロマン主義の申し子、ヘーゲル先生は、これを『弁証法的発展』と呼びましたが、この対話という方法は、プラトンの時代から物を考える時の有効な手段として使われてきました。特に、ひとに伝える手段として。そのコツは、「自分が何も知らない」という態度を保つこと。
プラトンはこの『無知の知』ということをソクラテスを使ってうまく表現しています。
いい例は、子供に説明すると考えること。幼稚園の園児に国会議事堂に見学に来てもらう。居眠りしている議員や、委員会での怒号のやりとりを見てもらう。(迷惑な話だ)料亭での勉強会に同席してもらい、事務次官殿に、答弁書の通訳をお願いする。不祥事の記者会見も、彼等の前でやればいい。子供には、『暗黙の了解』なんて通用しない。『タブー』も、『常識』も彼等を止められない。

・・・本当は、私達大人が、社会のルールを逆手に取ったそんな横暴を許しちゃいけないんですけど、普段そのルールを利用している手前、声高に言えないんですよね。

「世の中にはね、その世界を維持するためにどうしても信じてもらわなくちゃならない”公式の答え”というものがあるんだ。『学校へは行かなければならない』というのもその一つだけど、でも、どうしても信じられなければ、その学校という”世界”の外にでればいいのさ。」「行かなくてもいいってこと?」「小さな世界には必ずその外ってものがあるからね。」

我々もつい、常識にとらわれてしまいがちですが、『常識』というのも実は狭い世界だったりします。

「『ネアカ』と『ネクラ』って知ってる。表面的な暗さじゃないよ。根だよ、根。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強している時も、仕事をしている時も、目標に向かって努力している時も、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人のことだ。」「たったひとりの時でも?」「そうだよ。根が明るいっていうのはね、なぜだか、根本的に自分自身で満ち足りているってことなんだ。ただ存在しているだけで満ち足りているっていうのは、つまり、上品ってことでもある。逆に、根が暗いっていうのは、なにか意味のあることをしたり、他の誰かに認めてもらわなくては、満たされない人のことだ。つまり、下品な人ってことだね。」「いい人か悪い人かってこと?」「違うよ。いい人か悪い人かなんて、そうたいした区別じゃないさ。少しマシな区別は、ちゃんとした人間かどうかってことだ。これは、未来の自分のために”今”の自分を犠牲にできるか、それとも、”今”の自分のために、自分の未来を犠牲にしちゃうかっていう区別だ。ついでにいうと、他人のために自分を犠牲にできるのが善人で、自分のために他人を犠牲にしちゃうのが悪人なんだけど、善人や悪人になれるのはね、ちゃんとした人だけなんだよ。」「ネクラかネアカかって区別の方がそれより大切なの?」「そうさ。ネクラな人や下品な人がちゃんとした人になるには、なにか人生全体に対する理想のようなものが必要なんだな。自分の外にしか頼るものがないからね。そして自分に言い聞かせなくちゃならないんだ。今やっていることには意味があるんだって。ネアカの人や上品な人は違うよ。そんなものなしに、未来の遊びのための準備それ自体を、現在の遊びにしちゃうことができるんだよ。道徳とかの外の善悪なんて重視しないけど、過程自体を楽しむことができるから、ズルをする必要もないしね。」

二人の対話はまだまだ続きます。
どうです、たまにはこういうことを考えてみるというのも?

考えてみると不思議、ということは、実は私達の周りにはあふれています。なんだかわからなかった。という方も、それでイイんです。他の本もそうですが、「何か自分にとって重要なことが書かれている」と思ったら、それが本当の意味なんです。もちろん、本以外でも。
人間って基本的におもしろいもんです。そしてこの世界も、きっと・・・

この本が、新しい発見と、新しい認識の助けにでもなれば、そしてもちろん、そんなものにならなくったって、「エ!なにそれ?」という、そのひと時の驚きと、喜びのために。
では、今回はこんなところで。






永井 均  著
内田 かずひろ  絵
講談社

五月の本棚 6

2003-05-24 01:31:00 | 哲学
『友だちは必要か?』

「友達って、必要だと思うかい?」「そりゃあ、絶対必要だよ。ひとりぼっちじゃ寂しいじゃん。」「僕は友達なんかいなくたってぜんぜん平気だよ。」「ペネトレは猫だからさ。」「人間だって、本当は同じなんじゃないかな。今の人間達は、なにか間違ったことを、みんなで信じ込みあっているような気がするよ。」「猫のことは知らないけど、人間は、自分のことを本当にわかってくれる人がいなくては、生きていけないものなんだよ。」「そんなことはないさ。そんな人はいなくたって生きていけるさ。それが人間が本来持っていた強さじゃないかな。他人から理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、一番大切なことだって言うのは、今の人間達が共通に信じ込まされている、間違った信仰なんだ。人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なにより大切なことなんだ。そして、友情って本来、友達なんかいなくても生きていける人達の間にしか、成り立たないものなんじゃないかな?」「そんな話は、初めて聞いたよ。」

どうも、前置きがちょっと長くなりましたが、今回ご紹介する本は、永井均教授の『子どものための哲学対話』という本です。
内田かずひろ氏の絵も相まって、楽しく読むことのできる作りになっています。

内容はご覧の通り。

驚きと発見に満ちた、目からウロコと言うより、「いま初めて目を開けました、これが私の生きてる世界?」って、ここまで言うと、ちょっと大袈裟かな。まあ、それくらい、わたしにはうれしい出会いとなった本です。

”ぼく”が拾った猫の「ペネトレ」は、とってもかわった変な猫。
人の言葉を話し、しかもその内容ったら、普通の人とはぜんぜん違う。

「人間って、何のために生きているの?」
「結局は・・・遊ぶためさ。」

「あの人、走ってるね。」
「ランナーだからね。」
「走るからランナーなんだよね。」
「いや、ランナーだから走ってるんだよ。」

「クジラは魚に見えるけど、本当は哺乳類なんだよ。」
「その逆も言えるよ。哺乳類に思えるけど、肝心な形や生活環境からしたら魚なんだって。」
「なんで形や生活環境が肝心なのさ?」
「じゃあ、なんで内部の仕組みの方が肝心なのさ?」
「見かけや外形の奥に隠されているものこそが、その物の本当の姿だなんて、 君が科学に洗脳されているからだよ。」
「違うの?」
「それは、ひょっとしたら、奥にあるものを知っている人が、知らない人達に対して権力を持つために作りだした作り話だったんじゃないかな?みんな、うまくだまされちゃったのかもしれないよ。」

この他、二人はつぎつぎと難問、珍答を繰り広げます。
それがどれも、おかしいのに考えさせられるものばかり。
次回は、そのいくつかを紹介しましょう。

この世に『当たり前』なんてないってことに、ドキドキしたい方に、ぜひ。








永井 均  著
内田 かずひろ  絵
講談社  

五月の本棚 5

2003-05-21 22:36:00 | 哲学
「ソフィーの世界」の四回目は、いよいよ20世紀の哲学者が登場します。

キルケゴールやニーチェ、ハイデガーなど、そうそうたるメンバーですが、彼等はちょっと飛ばして、実存主義のリーダー的存在、ジャン=ポール・サルトルから、この物語から脱出するヒントをもらうことにしましょう。
キーワードは、もちろん、『実存』。

「実存は本質に先立つ。」

人間の本質とは、『人間とは何か?』という定義のことです。しかし、サルトルによれば、人間にはそういう本質なんかない。人間は自分をゼロからつくらなければならない。なぜ、何のために生きているかは、自分達で決めなければならない。と言うのです。

「人間は意味のない世界に投げ出されて、疎外感を抱き、絶望、倦怠、嘔吐、不条理感に襲われる。人間は、『自由の刑』に処されているのだ。」

「私達は、自分を自分で自由であるようにつくったわけではない。にもかかわらず、私達は、自由な個人であるのだ。そして、その自由のために、私達は自分でなにもかも決めるように、死ぬまで運命づけられている。頼りになる永遠の価値も基準もない。私達がどんな決断をするか、どんな選択をするかが、とてつもない重みをもってくる。『仕事だから』とか、『みんながしているから』なんて、責任を押し付けるわけにはいかない。人間は、自分のしたことの責任から絶対に逃れられない。」
サルトルは生には決まった意味はないと主張しましたが、だからと言って、なにもかもどうでもいいと思ったわけではありません。
サルトルは、『生には意味がないわけにはいかない』、と考えました。

これは逃れられない定めだ。『実存』するとは、自分の存在を自分で創造するということだ。

二人の人が、同じ部屋にいても、二人ともその部屋をまるで違ったイメージで捉えることがよくあります。これは二人の関心や意向のはたらかせ方が違うからです。つまり、私達が何を感じるかの決定には、私達自身が参加していて、私達自身の存在のしかた、生き方が、その部屋にあるものをどんなふうに認識するかを、大きく左右しているのです。
妊娠している人は、おなかの大きな人につい目がいってしまいます。今まで、周りに妊婦さんがいなかったわけではありません。自分が妊娠したことによって、それが新たな意味を持ったということです。
この世界を、こうならしめているのは、つまるところ、私達自身の生き方なのです。そして、もちろん、ソフィー達の世界も・・・

「だから、『存在するかしないか』は問題のすべてではない。『私達は何なのか』ということも問題なのだ。」

バークリの回の冒頭に掲げた言葉、esse est percipi (エッセ・エスト・ペルキピ)はラテン語で「存在するということは、知覚されているということだ。」という意味でした。
ソフィー達は確かに物語の登場人物で、紙とインクの存在かも知れません。しかし、ソフィー達の存在でさえ、私達の生き方、考え方が影響を与えて、『ありよう』を左右しているとしたら?
バークリの言う、『知覚しているもの』とはキリスト教の”神”のことでした。では、「ソフィーの世界」を『知覚しているもの』は誰でしょう?
少佐?
ヒルデ?
作者のゴルデル?
でも、本当に本を開いているのは誰?

哲学的マジックによって、ソフィー達は見事、少佐の意識からの脱出に成功します。
ことの顛末はどうぞご自分の目で。

ながながと書いてきましたが、ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。これに懲りずに、また遊びに来てやって下さい。

最後に、美しいビャルクリの夜空を見上げながら、父親がヒルデに宇宙の神秘について語るシーンでこの本の紹介はおわりです。
『今ここにいる』ということの不思議さを分かち合いたい方へ・・・

                   ☆

「わたし達がこの宇宙の小さな惑星の上に生きているなんて、考えるとへんだね。」「もうすぐ海にも星が見えてくるわ。」「きみは小さい頃、夜光虫のことを海の星って言ってたね。きみは正しかったんだ。なぜなら夜光虫も他のすべての有機体も、かつてはひとかたまりの星だった元素でできているんだ。」「わたし達も?」「そうだよ、わたし達も星屑なんだ。」










ヨースタイン・ゴルデル 著
須田 朗  監修
池田 香代子  訳
NHK出版

閑話休題

2003-05-19 00:13:00 | 日々の出来事
ようやく田植えも終わって、今日は新茶を摘みました。
明日は母親が、農業高校に持って行きます。
何日か後には、おいしいお茶が飲めることでしょう。

摘むのは大変だけどね。

嫁いでいる妹が、甥っ子を連れて手伝いに来てくれたので、一日で済みました。
みんなご苦労様。

自分で摘むと、ただのお茶も格別の味がするはず・・・
なんてことはありませんけどね。
やっぱり、高いお茶はおいしいし、入れ方しだいでぜんぜん違うから。

ヨウは、気持ちの問題です。

「今は大変だけど、そのうちなんとかなるさ。」

と、日々前向きにやっています。

気持ちの問題ですから。




閑話休題

2003-05-14 21:06:00 | 日々の出来事
幽霊って見たことあります?

私は一度だけあるんですよ。いや、別に本人に確認したわけじゃないんで、本物かどうか確証はないんですけどね。

あれは高校卒業後、新聞奨学生として住み込みで働いていた時、朝方の三時頃からとある団地を配っているときでした。

朝方とはいえ、まだ空には星が輝き、街灯の明りがポツンポツンと地面を照らしているような状態で、もちろん人影なんてありません。

軒数が多いので、アルバイトのおばさんと二人で配っていたんですが、ふと見ると、小学生くらいの男の子が、おばさんのあとについて階段を上っていくのが見えたんです。

(ああ、お子さんでも連れて来たんだな。)

と、最初は思いました。
でも、新聞を分ける時にはいなかったし、こんな時間に子供が一人で出歩いてるとも考え難い…

「…エッ!?」

・・・きっと見間違いにちがいない。

そう自分に言い聞かせて、配達を続けましたよ。怖くておばさんに確認することすらできませんでした。だって、あやふやにしといたほうが自分を納得させやすいし。

だけど、シャツの柄とか、半ズボンをはいていたこととか、姿も本当に違和感なくハッキリしていたんだけど、アレはいったいなんだったんでしょう?

宇宙人とかは、案外気軽に「信じてるよ。」とか言えるのに、「幽霊は?」と聞かれると、「いない!いるわけない。」と言い張ってしまうのは、(いて欲しくない)という気持ちの裏返しなのかも。






五月の本棚 4

2003-05-11 22:43:00 | 哲学
「ソフィーの世界」三回目は、『無意識』の世界にメスを入れた、ジークムント・フロイトの『夢判断』からです。

「若い男が従姉妹から風船を二つもらう夢をみた。さあ、この夢を解いてごらん。」
「…風船が二つ欲しかった。わけじゃあないわよね。」
「ちがうだろうね。だとしたら、わざわざ夢を解く必要もない。」
「じゃあ…本当はこの人は従姉妹が欲しい。二つの風船は彼女のおっぱい!」
「うん。その解釈はおそらく正しい。フロイトは夢は変装した願望の変装した充実だ、と言っている。」

生まれてすぐの私達は欲望にストレートに生きている。でも、成長するに従い、両親や社会から「いけません!」とか「ダメ!」とか言われ、道徳上の命令を突きつけられて、『良心』といわれるものを育てていく。これが『超自我』と呼ばれるものだ。と、フロイトは言います。

『超自我』は我々がけがらわしい、あるいはふさわしくない願望を抱くと、これを抑圧し、心の奥に追いやってしまう。
こうして無意識に押し込まれた願望が、様々な心の病を引き起こす原因ではないか。

さらにフロイトは続けます。
特定の誰かの名前を度忘れする。話しながら服の端をいじくる。何気なく部屋に置いてあるものを配置替えする。言おうとしたことがスラスラ出てこない。一見さり気ない言い間違いや書き間違いをする。こうした行動はすべて無意識の意思表示だ。とフロイトは考えました。

「こうした無意識の衝動に有効な対策は、不快なことを無意識の中に押し込めようとしゃかりきにならないで、意識と無意識の間のドアを少し開けておくことだ。」

不快なことを意識から閉め出すことにエネルギーを使いすぎると、精神的にも疲れ果ててしまう。心の扉を開いて、不快なこととでも向き合い、無意識を意識することで、問題を直視することが出来る。
それが心を健康に保つコツなのかも。

「でも、少佐は一つ忘れている。」
「なにを?」
「これが少佐の変装した夢でもあるってことさ。ぼくは少佐の無意識のずっと奥まで潜り込んでやる。」

ソフィー達の計画は、ヒルデをも巻き込んで、いよいよ佳境に入っていきます。

「ソフィーの世界」の残りページもあとわずか。
最後のページをのぞく誘惑と戦うヒルデのように、どうぞ、最後までお付き合い下さい。

無意識の存在に気が付くと、他人の言動も少しは理解できるかも。
それともこれも思い込み?

初期のギリシャ哲学から中世までで千年。
キリスト教中世は千年つづき、さらに時は流れる。
そんな三千年の歴史に根ざしてこそ、私達は空っぽの空間の根無し草ではなくなる。それがわかってこそ、裸のサル以上の一人前の人間になれるのだから。





ヨースタイン・ゴルデル 著
須田 朗  監修
池田 香代子  訳
NHK出版

五月の本棚 3

2003-05-11 17:22:00 | 哲学
 esse est percipi

   ― ジョージ・バークリ―


すべての『物質』の存在を否定した、アイルランドの主教、ジョージ・バークリはこう言います。

「存在するのは我々が知覚するものだけだ。しかし、我々は『物質』も『物体』も知覚しない。」

さて、「ソフィーの世界」の二回目です。
いよいよ、ソフィーは物語の真髄に迫ります。謎解きの部分にも触れますので、そこを楽しみたい方は、ここから先は読まないで下さいね。

ソフィーは反論します。
「ウソよ!ちょっと見て。」
ソフィーはげんこつを固めてテーブルを叩きます。
「痛い!これは、このテーブルが本物で、存在するってことの証拠じゃないの?」
でも、考えて下さい。このテーブルはどこにあるのでしょう。そもそもソフィーは存在するのでしょうか?

バークリは、簡単に言うと、世界は『神』の見ている夢のようなもので、確かなものは『神』だけだ、と言うのです。

ヒルデ・ムーレル・クナーグは、リレサンの自宅の屋根裏部屋で、ベットの上に座っています。
十五歳の誕生日を迎えたヒルデは、父親から送られた自作のプレゼント、『ソフィーの世界』を広げて考えます。
「かわいそうなソフィー、彼女達はパパに手も足も出ない。」

作者である”少佐”は、まさにソフィーにとっての『神』のようなもの。
しかし、私達は知っています。ヒルデもまた、ソフィーと同じ存在だということを。そしてその問いは、私達にも跳ね返ってきます。

…じゃあ、私達は?

「人間が知りうることには、はっきりとした限界がある。」とした哲学者カント。
例えば、サングラスをかけて周りを見ると、辺りはその色に染まって見える。我々の中で、サングラスの役割をしているのが『理性』だ。
人間の意識は、経験や情報に積極的に形式(フォーム)を与えるクリエイティブな装置で、『ありのまま』を知ることは出来ない。
それに対し、ヘーゲルは「真理は基本的には主観的なものだ。」と主張しました。
だから永遠の真理も永遠の理性もない。人間の認識基盤は、人や時代によって変化するからだ、と。

ヘーゲルで有名なのは『弁証法』ですが、それはまた別の機会に。

ソフィー達は”少佐”の存在には気が付きますが(それさえ、作者である少佐の思惑なのですが)その奥にある、ゴルデルや、私達”読者”の存在を知ることは出来ません。

物語の登場人物が、自分達が印刷物の登場人物にすぎないことに気が付くなんて、そんなのアリ?
しかも、ソフィー達は哲学の助けを借りて、この少佐の『ケチな意識』からの脱出を試みます。

登場人物が作者を出し抜く?
物語から飛び出すことなんて本当に出来るの?
飛び出したソフィー達はどうなるの?

キーワードは『無意識』と『実存』。

私達の読む「ソフィーの世界」は、さらにハラハラドキドキのクライマックスへと突入していきます。

父親が娘へのバースディープレゼントに送った、物語の形をとった物語。
二重三重の謎解きを散りばめたこの物語の紹介は、実はまだ続いたりします。
ゴメンナサイ。
この物語大好きなんです。

「でももしもよ、ヒルデの父親がわたし達の物語を考え出しているように、ヒルデの父親の物語を考え出している、そんな作者がほんとうにいるとしたら…」「としたら?」「だとしたら、その作者もそんなにいい気になるべきではないんじゃない?」「どういうこと?」「どこかにそんな作者がいて、彼の頭の奥深くにわたしとヒルデがいる。でも、彼だってもっと別の意識の中にいるってことは考えられない?」






ヨースタイン・ゴルデル 著
須田 朗  監修
池田 香代子  訳
NHK出版

閑話休題

2003-05-11 00:42:00 | 日々の出来事
今回は、ちょっとお休みして、おしゃべりを少し。

先日、タケノコの味噌汁と、裏山で取れたタラの芽の天ぷらを食べました。
春先の我が家の定番なんですが、これが済むといよいよ田植えの準備が始まります。
まあ、両親と三人で自分達の食べる分だけ作っているので、趣味みたいなもんですが、土と格闘していると、自分の手足が実感できて、会社とは違った充実感が味わえます。

昨年までは、祖母も手伝っていたのですが、今年の初めにガンであることが発覚し、三月に手術、今は厳しい闘病生活を送っています。
だから、前回紹介した「キッチン」には、身につまされるところがたくさんあって、自分なりに考えさせられることもあるんですが、くよくよ悩まず、今を精一杯生きることにしています。それしかできないですしね。

人は一人では生きていけませんが、一人で生きていかなければならない状況が向こうからやってきます。人生は強制的です。そのためには、生きる力を養わネバ。
性格は環境に影響され、人格は育ちで創られ、人徳は日々の生活で得られる。
まあ、気負わず、キレイなものを見て、食事をおいしく摂って、イライラしないことですね。
あと、感情を過信しないこと。心は自分じゃないってこと。感情や心は経験によって後から作られた警報装置。自分を守るための制御盤。

いかん、いかん。インナーワールドに入ってしまった。このままいくと、じゃ自分とは何か、とか、心とは何か、なんてとりとめのない話になっちゃいそう。
・・・実は、次回への伏線だったりします。
では、よかったら、また、のぞきに来て下さい。


               hawk



五月の本棚

2003-05-11 00:41:00 | 哲学
今回はブタが主人公です。
マンガと言って侮れない。小泉吉宏の心を語る本。

「ブッタとシッタカブッタ」シリーズ

心の筋肉をやわらかくする、そんな内容になっています。
この本を気に入っている理由は、私が仕事やなんかで習慣にどっぷりはまっていた時、そのことに気付かせてくれたから。
「…その言葉が聞きたかった!」思わず叫びたくなりました。
習慣にしてしまえば物事は楽です。考えなくてもいいから。でも、それじゃあ満足出来ない人もいる。習慣の恐ろしい所は、普段は考えずにしている事だから、いざ考えてみても、自分ではなかなか気がつかないということ。
求めているものは人それぞれ違うでしょうが、きっとどこかでヒントが見つかる。
それを抜きにしても、マンガだけでも面白い。
そんな、いろんな解釈の出来る構成になっているのがこの本なんです。

主人公のシッタカブッタは、恋に悩む一匹のブタです。彼はこう言います、「どうしてこんなに苦しいんだろう。どうしてこんなに不安なんだろう。この不安をなんとかできないのかな~」もう一人(一匹?)の主人公、ブッタがこう言います。「不安を取り除くことなんてできないんだから、不安なままで安心しなさいな。」心はもともと不安定なもの、その心が作った”言葉の答え”で安心しているから、またすぐ不安に振り回される。言葉に頼らず、”そのまんまの自分”をみつめてみなさい。悲しんだり、浮かれたり、怒ったり、”心”って安定しないもの。そんな”心”に振り回される。それは”心”に頼っているから。もし、”心”が”自分”なら、自分が自分を振り回したり、自分が自分に頼っていることになる。”心”じゃない”自分”をみつめること。でも、”自分”を色々な言葉で語ってみても、”自分”とは別のものになってしまう。「比べない」「探さない」「答えを出さない」すると、まるごとの言葉では語れない”なぁんでもないじぶん”が見えてくる。

「そうか、そのまんまでいいんだ。」に、気が付くと、”本当の自分”だとか、”これが私”だとか、心が安定するために作り出した、言葉や考えは、雪のように溶けてしまう。
心(脳)は安定したがるもの。
答えを出して、安心するのは心の悪いクセ。

「不安定な心も含めて、そのまんまがあなただよ。」

おきてしまったことは、そのまんまでしかない。
私達はそのまんまの今を覚悟するしかない。
…まずは、「そのまんま」をみつめてみる。
お金が幸せをくれると思い込むブタ。
うまくやろうと思い込むブタ。
自分を哀れと思い込むブタ。
渇望を愛と思い込むブタ。
いつか幸運が舞い込むと思い込むブタ。

「自分で自分をイジメてどうすんのさ?」

誰かが作った価値観を信じて、思い込んで、自分を苦しめる。
そうじゃなくて、性格がイイとか悪いとか、スタイルがイイとか悪いとか、そんな言葉の判断はうっちゃっといて、今の自分を受け入れてやる。
だって、自分にそっぽを向かれたら、この”私”はどうしたらいいの?

どんな時でも”私”はあなた。
どんな自分でも”あなた”は私。

今の自分をギュッと抱きしめてやる。
それが出来るのは私だけ。
無理をせず、ありのままを自然体で受け入れると、そのまんまの自分がみえてくる。これもひとつの考え方です。”自分”なりに利用してみてはいかがでしょう。少しは”心”が楽になるかも。ま、時には無理をすることも必要だとは思いますが。

そうそう、最後に、私が「その言葉が聞きたかった!」と思った箇所を抜粋しておきます。悩んだ時、ジタバタするお供にオススメの本です。
人生の迷路にちょっと迷ったら、地図の代わりにいかがでしょうか?

                    ☆

「中途半端な心の旅をして発見した『喜ぶ自分』を『本当の自分』と勘違いして、心の旅をした自分が、他人とは違うと思い込み、まわりを見下し、不安定なまま、日常に戻ってこれなくなる、あるいは、戻りたがらないブタもいる。」






小泉 吉宏  著
メディアファクトリー

五月の本棚 2

2003-05-09 21:44:00 | 哲学
誰でも一度はぶつかる問題ってあるとは思いませんか?
思い通りにならなくて、悩んで、でも、「人生ってこんなもんさ」と割り切るには抵抗があって、私ってどうしていつもこうなんだろう?
みんなはどうしてわかってくれないんだろう?
いったい、人間ってなんなの!
って。

「人間とは何?」という疑問は、大昔から人類の悩みの種でした。
そんな疑問になんとか答えを見つけようと四苦八苦してきた人々。
そんな人達の歴史を遡って、しかもミステリー風の謎解きを各所にちりばめた物語に仕上げたのが今回ご紹介する本、ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」です。

ソフィーはごく普通の14才の少女。
ある日、一通の手紙が彼女の元に舞い込みます。その手紙にはたった一行、「あなたは誰?」と書かれているだけ。でも、ソフィーは考えます。改めて考えてみると、当たり前だと思っていたけど「私って誰なんだろう?」と。

私ってどんな人?
まだよくわからない。
自分の顔だって気に入ってないし、第一、人間に生まれて来たのだって自分で選んだんじゃない。
それにいつの日か、私もこの世界から消えてしまう。この間亡くなったおばあちゃんみたいに。命に終わりがあるなんてあんまりだわ。

「・・・人間って、何?」

その日から、ソフィーの周りでは不思議な出来事が次々と起こり始めます。
哲学者から送られてくる手紙。
どうやらソフィー達を監視しているらしい”少佐”の存在。
そして、物語の鍵を握る少佐の娘、ヒルデ。

すべての謎を解くヒントは、ギリシャから始まる哲学者達のとんでもない発想と苦悩の歴史の中にあるらしい。

犬がしゃべりだし、赤ずきんちゃんに不思議の国のアリスが家に訪ねて来る。
ミッキーマウスやマッチ売りの少女が闊歩し、本屋で売られている本の題名は「ソフィーの世界」?

哲学なんて、硬っくるしいものってイメージがあったのに、この本ではわかりやすく、『エッ、こんなものまで哲学なの?』って具合に新しい発見をさせてくれます。

「あらゆるもののおおもとは水である。」と言ったミレトスの哲学者タレス。

「すべては目にみえないほど小さなブロックが組み合わさって出来ている。」と言って、そのブロックを『原子』、アトムと名づけたデモクリトス。

「女性は不完全な男性だ。」と考えていたアリストテレス。

今ではトンチンカンな考えだと思われるようなことでも、当時の人達は、なんとか世界を説明しようと真剣だった。
占星術とか神様を信じていた時代の名残。今も使っている”インフルエンザ”ってもともと、”星の悪い「影響(インフルエンス)」のもとに入っている”という意味なんだって。
彼等は確かなものと、そうでないものを分けようと、それこそ、何千年もかけて、そして今でも議論を続けています。

でも、ソフィーにとっての確かなものって?

そして、私達にとっての確かなものって?

「人間とは何か?」
誰もが一度はぶつかるこの疑問に答えようとしてきた、笑えるような、ますます考えさせられるような、とっても刺激的な人達の物語。

そして、ソフィーが気付くことになる「ソフィーの世界」の真実とは?

このお話しの紹介はもうちょっと続きます。
もし、気に入って頂けましたら、もう少しの間、お付き合い下さいませ。


 三千年を解くすべをもたない者は 闇のなか、未熟なままに その日その日を生きる


             ゲーテ





ヨースタイン・ゴルデル 著
須田 朗  監修
池田 香代子  訳
NHK出版