私的図書館

本好き人の365日

ホ~クの教習所日記

2003-07-31 23:43:00 | 日々の出来事
今日から教習所に通い始めました。

普通二輪免許を取るのさ♪

三十歳を過ぎてからの習い事。
はたして、うまくいくかどうか…
だけど何事もやってみなくちゃわからない。
やりたいことをやるって決めたんです。

きっかけは、やはり祖母の病気かな。

私達はいつまでも生きているわけじゃない。いつかやろうとか、そのうち機会があったら、なんて思っているうちに、“その日”が来てしまうかも。
だったら、やるなら今しかない。

ドラマ『北の国から』の名セリフ。
「や~るなら今しかねえ~♪」が最近のメインテーマです☆

バイク乗りは、やっぱりカッコイイですよね。子供の頃は憧れでした。

さてさて、いよいよ教習のはじまりはじまり。
久しぶりの緊張感で足がすくむ。
一通り説明を受けた後、まずはエンジンをかけずにバイクを押したり引いたり。倒れた状態から起こしたり。400ccだけど、思ったほど重くない。
次はスタンドを立てての、ギアの切り替え。エンジンをかけてクラッチを操作するんだけれど、普段オートマの車に慣れているものだから、これは苦戦。
次はブレーキ&止まり方。

…と、止まらな~い!(両足でジタバタジタバタ)

右と左を間違えて、必死でクラッチ握ってました(冷汗)
前輪は右手、後輪は右足なのに~。
左手をクラッチから放して再挑戦。教官の声もヘルメットを付けているので聞き取りにくい。そのあと、行ったり来たりを数回。

「じゃ、外周まわるからついてきて」

「エ、もう?」

始まって30分程でコースデビューです。
最初こそ、もたついたけれど、だんだんスピードも出せるようになってきて…

こ、これは気持ちいいぞ~☆

スキーを習いはじめた時もこんな感じだった。遠くを見つめて、顔で風を受ける。
この一体感は・・・正直、楽しい。
いつまでも走っていたい気がする。

こうして、第一日目は終ったのでした。

ところが、さて帰ろうかと階段を登ろうとした時、妙な違和感が…
(あれ、なんか足がおかしい)
そう、太ももが張っていたんです。なんだかんだでけっこう筋力使ってたんだね~。

いつまでも走り続けるためには、やはり体力が必要か…

仕事との両立が大変だけど、免許取るまでがんばるぞ!



閑話休題

2003-07-29 22:41:00 | 日々の出来事
理想のくしゃみってのがあります。

くしゃみです、くしゃみ。
私のくしゃみは「ハァー・・クション!」て感じで、どうしても「ハァー」と息を吸い込んでしまう。しかもけっこう音が大きかったりする。
これがけっこう恥ずかしい。
息を吸い込まないようにしたいんですけど、意識してくしゃみなんてできない。
まわりに人がいると、鼻水が出ないか心配で、口でくしゃみしてしまいます。エ、わかりますよね?鼻から空気を抜かずに、口から抜くやつです。気持ち悪いやつ。

もっとおとなしめのくしゃみがしたい!(イヤ、できるならしたくない)

実は急に気温が下がったりするから、風邪をひいたみたいなんですよ。やれやれ。

部屋では、たいていTシャツにパンツという、おもいっきり気の緩んだ格好をしているので、そんな時、急にドアチャイムなんかが鳴ると、慌てます。(冬はジャージ姿)

足を入れたズボンが後ろ前だったり。
ファスナーが上がらなかったり。
それでもなんとかインターホンにたどり着いて出てきた言葉は…

「はい、もしもし?」

・・・電話じゃないって。

今のマンションに越してきてかなりたつのに、インターホンには慣れてません。
それと宅急便にも…

あれ、外で話すか、中に入るのかハッキリして欲しい。
うちのマンションのドアって、開けても放っておくと閉まっちゃうから、相手が話している間、ドアを押さえていなきゃならない。しかもその格好でサインしたり、荷物を受け取ったり。
一度なんか、宅急便の人の目の前でドアが閉まっちゃったこともありました。

携帯電話もよく行方不明になります。
部屋の中にあるのは確か。
着信音が鳴っているんだから。でもどこ?

ようやく上着のポケットにあるらしいと判明し、あっちこっちのポケットを探している内に留守番電話サービスに切り替わり…

すぐにかけ直すと相手は話し中。(だから、留守番電話サービスに伝言を入れてるんだってば)

相手が自分宛のメッセージを入れ終わるのを待っている姿は、マヌケなもんです。
思わず世の無常を感じてしまいます。

…自業自得なんですけどね。



七月の本棚5

2003-07-26 21:09:00 | 日本人作家
あなたは日本語のこと、どのくらい知っています?

普段、自由に使いこなしているので、日本語のことはよく分かっているつもりになっていますけど、実はあまり知らないものなんですよ。

『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』

この本を読むとそれがよく分かります。

知ってます?
例えば「彼」とか「彼女」といった三人称を表す言葉。
これ、明治時代から使われ出した言葉で、それまでは三人称を表す言葉は日本語にはなかったんです。西洋のモノマネで始まった明治維新は、言葉も模倣しようとして、三人称も導入してしまったんですね。
「彼」はもともと男女両用の人称代名詞。これを男用とし、女用として「彼女」を作った。しかも最初「かのじょ」とは読まず「かのおんな」と読んでいた。「かのじょ」という読みは明治二十年前後から。
確かに、時代劇で「彼女はどうした?」なんて聞きませんよね。ちなみに英語の翻訳本で「…と彼が言った」とか「…と彼女が言った」というフレーズをよく見かけますが、これは言葉に性別がないから、いちいち区別しなければならない。そう、日本語には言葉に性別があります。ほら「男言葉」とか「女言葉」とかあるでしょう。「あら」とか「まあ」と付けば女性のセリフだとすぐ分かる。

「先ぶれの副詞」にもご注意。
「さぞ」とか「まだ」「どうも」というやつですね。
文章の途中で「まだ」とくれば、下に否定がくることが分かる。「私は昼御飯を、まだ…食べました。」なんて言う人はいないですよね。(吉本のギャグじゃあるまいし)日本語は文のポイントがそのおしまいに来るので、長い文章だとこういう副詞を付けて読み易くしてやる。判断を助けてあげるわけです。

一番面白いと思ったのは助詞と助動詞。
例えば助詞の「を」。
なぜ「水を沸かす」ではなく「湯を沸かす」なんでしょう?
「飯を炊く」も同じ。「米を炊く」とは言わないでしょう。つまり、「を」には材料というより、出来あがった物を必ず指す決まりがあるんですよ。だから「水」ではなく、「湯を沸かす」になる。

外国の人が日本語を学ぶ時、最初に教わる「は」と「が」の使い方も、日本人は聞かれると分からない。
無意識に使い分けている。

「は」も「が」もだいたい主語に付きます。
「象は鼻が長い」という文章だと、「象は」と「鼻が」の二つ主語があるように見えますよね。これを「象が鼻は長い」に変えると、日本人なら誰でもおかしいと分かる。でも、何がおかしいのか説明しようとすると案外難しい。

「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました」「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に…」これも同じ。「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんは住んでいました」これだとおかしいと思うでしょう。続いて「おじいさんが山に芝刈りに、おばあさんが川に洗濯に…」だと、続きの文としては変。

これを簡単に説明した人がいて、それによると「は」というのは、もう明らかになったことに付く。対して「が」は、まだ未知なものに付く。最初におじいさんとおばあさんが出てきた時は、まだよくわからない未知なものだから「が」と付く。「…おじいさんとおばあさんが住んでいました」これで、おじいさんとおばあさんについては分かったから、その後は「は」を付ける。だから「象は鼻が長い」の「象・は」は、主語ではなくて「皆さんよくご存知の象という動物に付いて言えば…鼻が長い」という意味なんです。

こんなこと、考えたこともなかった。

改めて辞書を読んでみるとこれが面白い。
愛用は岩波書店の『広辞苑』。

「左」とか「右」を言葉で説明できますか?

「左」は右の反対。じゃあ、ダメですよ(笑)

「うつらうつら」と「うとうと」の違いは?

わからないことより、もうわかりきったことを調べると、新しい発見があります♪

「窓から首を出す」を英訳する時、頭はどうなるんでしょう。
「腰を下ろす」も同じ。
「膝が笑う」なんてどうなるの?(笑)

こういうことを知っていくと、言葉を使う時は、もっと丁寧に使わなくては、と思います。
ちなみに作家の司馬遼太郎さんは「おもう」を漢字で書きません。≪おもう≫はどう考えても大和ことばだから、平仮名にひらいて使っているそうです。

この本は平成八年に岩手県の一関市で行われた「作文教室」という講座をもとにつくられています。だから基本的には作文の書き方を伝えるものです。その中で、上記のような話が出てくるわけですが、読み物としても面白い。

さすがは井上ひさしって感じです。

文章は知識で書いても、ちっとも面白くありません。それは作者も言っています。
自分の言葉で、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書く。これができたら、プロ中のプロだそうです☆

















井上 ひさし 他 文学の蔵  編
新潮文庫

七月の本棚4

2003-07-24 21:07:00 | 日本人作家
たまには、趣向を変えて、純文学でもひも解いてみますか。

ということで、今回ご紹介する本は、平成六年度、毎日芸術賞受賞作。
遠藤周作の

『深い河(ディープ・リバー)』

です。

自身、カトリック教徒である作者が、落ちこぼれの神学生「大津」に言わせる言葉は、胸に響いてきます。

「私はイエスにつかまったのです。」

この野暮ったい大津を、同じ大学に通う美津子は誘惑します。「神様、あの人をあなたから奪ってみましょうか」

「神」という言葉に嫌悪感を抱き、神のことを「玉ねぎ」と呼ばせる美津子。しかし、彼女も、他人を本気で愛せない自分自身にこう問いかけるのです。(一体、何がほしいのだろう、わたしは…)
実業家と結婚した後も、その思いは彼女から消えません。

それぞれの思いを抱いた人々が、インドへと向かう旅で一緒になります。

「必ず…生まれかわるから、この世界の何処かに。探して…わたくしをみつけて」
亡くなった妻の言葉に、信じてもいない生まれかわりを探す磯辺。

生きることは罪深いことなのか。
戦友の法要にと、かつての戦地を訪れる木口。

その中には、大津の噂を聞いた美津子の姿も。

すべてを包み込み、流れていくガンジス河。そのほとりで、人々は死体を焼き、その灰の流れる中、沐浴し、祈り、水を口に含む。

ヒンズー教の様々な神々。
ガンジス河に集まる様々な価値観。

そんな中、行き倒れた人を、火葬場に運ぶ大津の姿が…

この小説。内容は確かに重いです。でも、不思議と心に響いてくるものがあります。湖に小石を投げ込んだような波紋が、いつまでも、どこまでも広がっていくような。

神父になるため留学した地で、ヨーロッパの基督教に違和感を感じる大津。
彼は異端的とみなされても、「玉ねぎ」から離れることができません。
美津子は、「玉ねぎ」が、大津を完全に彼女から奪ったことを知ります。

『さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか』

不器用なほど、自分の中の「玉ねぎ」に正直でありたいという大津の生き方。それがインドのすべてを包み込む力と相まって、こちらにぐいぐいと迫ってきます。

何のためにそんなことをするのかと、美津子に聞かれたマザー・テレサの尼さん達は言います。

「それしか…この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」

行き倒れの人々を世話する彼女達の中に、そして大津の中に、二千年ちかい歳月の後も、転生し、生き続ける「玉ねぎ」の姿を見る美津子。

いい本です。

記憶に残ると言いましょうか、刻まれたと言えばいいのか。誰の中にも、神聖なものへの思いはあります。それが「自然」に対してなのか「玉ねぎ」なのか、はたまた自分自身なのか・・・

生と死を見つめ、生きる業の深さに震える時、苦悩と共にある種の神聖さが垣間見れる。醜く老い果て、苦しみに喘ぎながらも、乳を与えるヒンズー教の女神、チャームンダーのように。

悲しみを背負った人々の河。
母なる河、ガンジスのように流れていく、人間の河。

人間の深い河の悲しみ。
その河の流れの先に向かい、祈る人々。

時にはこんな本を読んでみるのもいいもんですよ。
息抜きに読むのには、お薦めしませんが(笑)


彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい人は彼を蔑み、みすてた忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られるまことに彼は我々の病を負い我々の悲しみを担った



















遠藤 周作  著
講談社

七月の本棚3

2003-07-22 19:42:00 | 荻原規子
勾玉って知っていますか?

珠のように丸くはなく、ややつぶれて、耳のように曲がった形をしている。主に瑪瑙や翡翠などで作られた古代の装身具。

三種の神器の一つにも八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)がありますね。

光あるところには、かならず闇がある。
今回ご紹介する本は、そんな光と闇に彩られた物語。
荻原規子の

『空色勾玉』

です。

この本を紹介できることがどんなに嬉しいことか♪

神代の上代、神秘と荒々しさが混在する古代の日本は、私の憧れの世界なんです。

主人公の狭也(サヤ)は、幼い時に村が焼かれ、両親を殺された過去を持つ十五歳の少女。時折その時の悪夢に悩まされるものの、今では拾われた羽柴の村で闊達な少女に育ち、友達と”かがい”(男女が互いに思う人に歌を送り合う、ま、集団告白タイムみたいなもの)の話題で盛り上がる。しかし、その”かがい”の夜、サヤの運命は大きく動き出します。

「闇(くら)の一族」の「水の乙女」である証、空色に輝く勾玉を渡されるサヤ。

闇の気配を追って現れた「輝(かぐ)の一族」の御子、月代王との出会い。

高光輝の大御神を父神とし、天より降り下った神の御子、照日王と月代王。
不死の一族であるこの姉弟神と敵対し、八百万の神を拝し、闇御津波の大御神に仕える「闇の一族」。

その一族で「大蛇(おろち)の剣」の巫女である、狭由良姫のよみがえりだと言われるサヤ。二つの一族は豊葦原をめぐり、熾烈な戦いを続けている。

『古事記』の神話をベースにして作者が創り出すこのファンタジー世界の魅力は数知れず。

情緒豊かに語られる日本の四季の移り変わり。
身の回りに溢れる鮮やかな色彩。獣達の声さえ聞こえてきそうな緊張感。
そしてなにより、主人公サヤの・・・考えのない行動。

・・・おいおい(笑)

だけど、この、思い立ったら即、行動。自分に正直に生きていくその姿勢に好感が持てる♪

確かに、人に利用され、危険を招き、後悔することも多いんだけど、その力が運命を切り開いていくのもまた事実。

美形の月代王に惹かれて、輝の宮にふらふらついて行くサヤ。(ちょっと顔がいいからって・・・by鳥彦)

輝の宮にある池に、夜中でばれないからって、裸で飛び込むサヤ。(夏の夜に魚になりたくなるのは、私ばかりではなかったのか・・・by稚羽矢)

残酷な運命も彼女を襲います。

神は激しく、不死ゆえに、冷酷です。
人は弱く、過ちを犯します。

物語だからって、そこを避けて通らないのが、このお話しのいいところ。

サヤは思います。
(この世に、美しくないものなど一つもないわ・・・)

それは、大切なものを失い、もう一度探しだそうとして、ついに見つけた時の思い。

死して生まれる人としての運命。

変わることのない、不死の神々の孤独と哀しさ。

(変われるということは・・・ありがたいことだわ)胸元に深々と穿たれた矢傷に死ぬこともできず苦しむ稚羽矢(ちはや)を見かねて、「闇の一族」の一人、科戸王が呟きます。

「あれが不死身ということなのか。苦痛は変わらないのに、断末魔を人の何回分も味わうことが」

このシーンは何度読んでも背筋が凍ります。

国家統一を目指す「光」と、土着の「闇」が烈しく争う、神と人が共に生きた乱世を舞台に、人の持つ葛藤と生きることの大切さを描いたこの作品。
勾玉三部作として、他に『白鳥異伝』『薄紅天女』の作品があります。

最初、この『空色勾玉』は福武書店で出されましたが、今は徳間書店で三冊とも手に入れることができますよ。

「そして二人はいつまでも、幸せに暮らしましたとさ」で終る海外の物語もいいですけど、この物語は、サヤのこんな言葉で終ります。

「祝言には、羽柴の両親を呼ぶわ。そして、いやほどたくさん孫の顔を見せてあげると言うの」

いや~たくましい!

元始女性は太陽だったという言葉が納得できる。
自信を持ってお薦めできる日本のファンタジー。

初夏の涼しげな風の中で、あなたも古代の世界に思いを馳せてみませんか?











荻原 規子  著
福武書店

「倭は国のまほろば」

2003-07-20 12:17:00 | 日々の出来事
崇徳院は五歳で即位した崇徳天皇のこと。

この人、歌を読むのが上手で、勅撰集に七十七首が入っている。
しかし、やっぱり有名なのはその生き方。『雨月物語』を始め、多くの物語に書かれているように、劇的なんだなこれが。

形ばかりの天皇に祭り上げられたかと思いきや、父親の鳥羽上皇のお気に入りの后に、男の子が生まれると、自分は退位させられ、その子が天皇になってしまう。

まったく、男って奴はしょうがない。若い奥さんに弱いんだから。
崇徳帝二十二歳。新しい帝、近衛帝にいたってはたったの三歳。

この近衛帝、十七歳で夭折してしまうんだけど、その後継者の決め方も、後々に禍根を残すことになる。
崇徳院を疎んじていた近衛帝の母の美福門院が、鳥羽上皇(この頃は法皇になっていた)と図って、崇徳院の息子を差し置いて、待賢門院(崇徳院の実母)と鳥羽上皇との第四皇子、のちの後白河天皇を帝位につけてしまったのだ。さらに、その皇子の守仁親王を東宮(皇太子)に据える。
…やれやれ、女の嫉妬も恐ろしい。

自分の息子の即位の夢を断たれた崇徳院は、
その翌年、鳥羽法皇が崩御されると、ついに謀反を起こします。(なんか応援したくなっちゃうな)

こうして起こったのが世に言う「保元の乱」(1156)←勉強、勉強。

しかし、敵も強かった。
源義朝(牛若丸の父)、源頼政(鵺退治で有名)、平清盛(言わずと知れた平氏の大将)などの軍勢に敗れ、捕らえられて讃岐の国に流されてしまう。(う~、なんだなんだ、このラインナップ?卑怯じゃないか~)

天上人がこんなことやっている間に、武士達が台頭してきたのもなんとなくわかる気がする。

崇徳院は讃岐の地で写経にいそしみ、五部の大乗経(大乗の説法を説く経典)を写して、都に送るが、それさえ突き帰されてしまう。

ここからがすごい。

これを恨んだ崇徳院は、その五部の写経を魔道に捧げ、自らの血で「この功徳をもって、日本国の大魔王となりて、天下を乱し国家を悩まさん。どうかこの願い成就させたまえ」という誓文を書き込んで、讃岐の海に沈めるのです。

その後、源義朝は「平治の乱」(1159)で清盛に敗れ、家臣の長田忠致に殺されてしまう。美福門院も四十代の若さで亡くなり。清盛の平氏も、義朝の子、源義経により滅亡。(1185)
その源氏も兄弟、親子で争い、北条氏に取って代られる。

…これは、崇徳院の祟りといわれても仕方ないかも。

物語を書くために、後世かなり脚色されたはずだから、歴史的事実はともかく、人間関係は本当はこうじゃなかったかも知れない。(本当は崇徳院は第七魔王の化身で、世界を混沌に陥れようとしていて、それを三人の勇者とお姫様が協力して、四国八十八箇所の聖地に封印した。そしてこれで危機は去ったかに見えたが・・・四百年後。魔王は復活し、織田信長として再び天下をねらって動きだしたりなんか・・・しませんね、やっぱり☆)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。」

        ―『平家物語』―

崇徳院には、あんな誓文よりも、恋の歌を読んでいて欲しかったな~。

崇徳院が荼毘に付された白峰の御陵を、西行法師が訪れ、七日の間、回向(死者の冥福を祈ること)したという。

今は、香川県坂出市の白峰宮や仲多度郡の金刀比羅宮、京都の白峰神社などで祀られ、参拝されているそうな。

かつて、天叢雲剣(草薙の剣)を振るい、各地を平定した、倭建命(やまとたけるのみこと)はこの国の美しさをこう読んでいる。

「倭は国のまほろば

 たたなづく青垣

 山隠れる

 倭しうるはし」

人々の営みは相も変わらずだけど、昔から、この豊葦原の瑞穂の国の美しさは、そこに住む人々の心の風景になっていたということかな。











「笑顔の法則」

2003-07-17 00:03:00 | 日々の出来事
うちの甥っ子は、もうじき一歳になるんですけど、子供って面白いですね。

たまに見かけるこっちの顔が珍しいのか、いつもジィーと見つめられてしまう。カニ歩きで視線をはずそうとすると、あるのかないのか定かではないその首をまわして、見つめ続けようとする。
そういう時、思わず反対側に移動して、こちらを追う、そのおぼつかない動作を楽しんでしまいます。(笑)

こちらが笑いかけると、ニッコリ笑顔を返してくれる。(か、可愛い~☆)
でも一番参っているのは、隣でだらしなく目尻を下げているうちの両親。孫がよっぽど可愛いらしい。

最近は唇を突き出して、口笛を吹くようなかっこうをするのだけれど、理由がよくわからない。理由なんてないのかも。とにかく、そのかっこうに家族みんな大ウケ。

こちらが笑うとむこうも笑う。この笑顔の力っていったいなんなんでしょう?

「私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ羽目におちいるかも知れないのだ。女は自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ」

これは太宰治の『女生徒』の一節。

確かに男は女性の笑顔に弱いところがあるよね~。いや、男女関係ないか。力があるだけに使い方も難しい。そう、大人になると笑顔も手段で使われちゃうんだよね。悲しいことに。

意識して笑うのは自分と相手を励ます時だけ。

「から元気も元気のうち」

辛い時は笑顔を作ってみる。それだけで、気持ちが前向きになるような気がする。
笑顔の力を利用しよう。
それでダメなら泣けばいい。泣きたい時もあるさ。

「泣いたらハラがふくれるか。
 泣いてるヒマがあったら、笑ええ!!」

 ・・・・・・・西原理恵子『ぼくんち』

お、おっしゃる通りです、お姉さん。
でもこの漫画、面白いけど、あまり笑いたくない。なぜか、やる気を吸い取られていくような気が・・・(笑)

笑顔は人を安心させてくれますね。

先程の甥っ子のお兄ちゃんが三歳になるんですけど、ちょっと落ち着きがない。
でも、ちゃんと見つめてやると、嬉しそうに微笑む。こっちも笑ってやると落ち着いて食事をしたりできる。
こちらの注意を引こうと大声出したり、走り回ったりしていただけ。
そして、自分の居場所に満足すると、安心して大声出したり、走り回ったりし始める(笑)

そんなお兄ちゃんを、母親(うちの妹)はさらに大きな声で叱り飛ばすんだけど、どうも叱られても嬉しいみたい。いつもまとわりついて怒鳴られてる。
う~ん、やっぱ母の愛は偉大だわ。







「神様に会える島」

2003-07-17 00:01:00 | 日々の出来事
「神様」と言われて思い出すのは、近所の神社。

子ども会の集会所になっていて、たいてい、かくれんぼやカン蹴り、三角ベースに“Sカン”なんかで遊んでました。

雪が降れば雪合戦にそり滑り。採ってきた竹を家庭のコンロであぶって曲げて、いかにスピードの出るそりを作るかが楽しい♪
凧を作る時も、なるべく竹で作る骨の部分を薄く削って軽くしたほうが高く飛ぶし。

ナイフをうまく使うと、皮だけが刀の鞘みたいに抜ける“かたなの木”。
手で左右にゆらすと、その葉っぱが閉じる“ねむの木”。
壊れたTVのスピーカーから磁石だけを取り外し、真空管は石垣に投げつけて「パン!」という音をさせたり。(危険なのでマネはしないで下さいね)
秘密基地作りに、木登り競争。

でも、どんなことをしている時でも、石垣の上の御社だけには近寄らなかった気がします。
大人達のしていることを見て、子供ながらに『敬って』いたのでしょう。


脳裏に焼きついている風景があります。

何年か前に、東ティモールが独立する前のインドネシア、バリ島を訪れたことがあるのですが、ホテルのビーチに隣接する形で小さな寺院が建っていました。

地元の人が朝夕掃除をし、子供達が騒いでいます。やがて海に向かって、一人の男性が進み出ると、お供えを置き、砂浜に頭を付けました。
彼の頭上には立派な木が枝を広げ、観光客で賑わっているはずのビーチから、そこだけが切り取られたみたい。

―静寂。

なにもわからないんですけど、そこには確かに神様がいました。

国民の90%がイスラム教徒のこの国で、バリ島だけはヒンドゥー教徒の割合が多いんですが、この島には一神教は似合わないって気がします。

そこかしこに神様がいる。

人間よりも、木や草花の方が豊かで力がある世界では、子供のように無力な自分を感じます。
とても対等に『契約』だとか『もっとこっちを見て!』なんて言えません。
ただ、いつもそばにいる。
私達は、その膝元で遊んでいるだけ。かつて神社の境内で日が暮れるまで駆け回っていたあの頃のように。

宗教と信仰は別のものですが、「神」について論理と理屈で攻められると、私のような者は諸手を上げて降参するしかありません。だけど、「これだっていいじゃないか!」と反対に開き直ることにしています。
とらえどころのないふわふわしたものが、実際私の中にあるんだし、それを他人の言葉で説明されても全然ピンとこない。

バリ島は海も山も厳しいけれど綺麗です。

お薦めはラフティング(川下り)とシュノーケリング(海の青さが違う!)ですね。
旅先での庶民外交(…ただのおしゃべりとも言う)も楽しいです。会話は身振りと気合でなんとかなるもんです。私も韓国や欧米の人と一緒に食事をしたり、バレーボールをしたりしましたが、拙い英語と気合の日本語でなんとなく伝わりました。

テロなんかする前に、一緒にボートに乗って共にオールを漕げばいいのに。いっぺんで友達になれます。(ならないと転覆します)

「神」や「正義」の名を使って人を扇動したり、戦いをする人が後を絶たないため、インドネシア辺りの治安も不安定なのが残念です。
でも、また行きたいな。
そしたらきっと、また違う神様と出会えるかも・・・







七月の本棚

2003-07-16 23:59:00 | 海外作品
老人は少年に言いました。

「おまえが何か望めば、宇宙のすべてが協力して、それを実現するように助けてくれるよ」

大切なのは、自分の魂の声に耳を傾けること、そして自分を信じること。

梅雨も半ばを過ぎました。夏、到来まであと少し。みなさん、いかがお過ごしですか?
今回はパウロ・コエーリョの

『アルケミスト』

をご紹介します。

この本は56もの言葉に翻訳され、150以上の国で出版された、世界中の多くの人に、今なお読み続けられているベストセラー小説です。

物語は、スペインのアンダルシアに住む羊飼いの少年が、夢の中で、宝物を見つけられると告げられ、その夢を信じて、エジプトのピラミッドまで旅をするというお話し。

その中には、様々な魅力的な言葉が出てきます。

旅。
ジプシー。
セイラムの王様。
キャラバンに予言者の娘の名を持つ少女。

極めつけは題名にもある、あらゆる金属を金に変える秘術を知るアルケミスト、『錬金術師』

主人公の少年は、それこそ、様々な人と出会い、様々な困難に遭遇し、そして様々な経験と知識によって、人が、その運命を実現しようとする時、必ず、それを実現させようとする力が働くことを学びます。

「僕は他の人と同じなんだ。本当に起こっていることではなく、自分が見たいように世の中を見ていたのだ」

あきらめるための言い訳はいくらでもあります。
ある小説家が締め切りに追われ、書きたくもないのに机の前に座っていたとき、一匹のハエが彼の目の前に置いてある、原稿用紙に止まったそうです。彼はそそくさとその場を離れました。

・・・「ハエの邪魔をしちゃあ悪い」

という理由で。

言い訳もウソも、言い続けていると自分でもそれを信じるようになってしまう。

「前兆にきがつくようになるのだよ。そして、それに従って行きなさい」

ひとは自分の望んだものになれる。
自分の心の奥、魂の声に耳を傾ける。
そして、そっと、自分自身に問いかけてみる。「これは本当にわたしの望んだこと?」

望んでもいないことをする時、きっと『前兆』があなたに囁きかけているはず。

気が乗らない。
気が重い。
ちょっとしたミスをしてしまう。
体調が悪くなる。
相手が電話に出ない。
四つ葉のクローバー。
こおろぎにとかげ。
ふいにあらわれる蝶は良い『前兆』のしるし。

こうした『きっかけ』は自分をステップアップさせるための絶好のチャンス。
不幸や羨望、嫉妬なんかは否定的な力に見えるけど、実際は運命をどのように実現すべきかを示してくれている。「アルケミスト」がどんな金属でも金に変えられるように、人はどんな人生、運命でも自分の力で変えられる。「賢者の石」や「不老不死の霊薬」なんてなくったって、自分の心の声に耳を傾けることは誰にでもできる。その人、その人の学び方で。

作者のパウロ・コエーリョは、人間は目に見える現実と目に見えない感情が混ざり合っている。手に触れることのできる現実世界と共に、手で触れることのできない心の中の世界を重ね合わせてこの物語を作り上げた。と言っています。彼の中では、心の中の世界も、また現実なのです。だから、様々な体験をして、様々な感情に翻弄されてこそ、自分の心の中の宝物が輝いてくると信じられる。
本を読むのもそのひとつ。

「何をしていようとも、この地上のすべての人は、世界の歴史の中で中心的な役割を演じている。そして、普通はそれを知らないのだ」

読み返す度に、感じ取れる『何か』がある。
それは、きっと自分が成長しているから・・・

な~んて思わされるくらい、自分に改めて興味がわく、そんな物語。

東から吹く、アフリカの風「レバンタール」に乗って、あなたもピラミッドを目指してみませんか?













パウロ・コエーリョ  著
山川 紘矢+山川 亜希子 = 訳
角川文庫ソフィア 

七月の本棚2

2003-07-16 00:50:00 | 日本人作家
何を面白いかと思うことで、その人が何を大切にしているのかがわかりますね。
「琴線」に触れる。と、言いますが、同じ琴の糸でも、弾き手によって奏でる音色は様々。
風かなんかで、ふと、響いた音が心を振り向かせたり。
思わぬ弾き手につい、心を奪われたり。
この、「ふと」とか「つい」っていう日本語大好きです。

「ふと」振り向き、「つい」引き込まれてしまった小説、今回ご紹介するのはそんな出会いの本、川上弘美の

『神様』

です。

書評やなんかで知ってはいたんですけど、題名から内容が想像できなかった。

同じ階に住むクマに誘われて、散歩に出かける表題作の「神様」池に住むカッパから男女の閨でのことで、相談を持ちかけられる「河童玉」壷をこすると出てくる若い女、コスミスミコとの奇妙な盛り上がりを描いた「クリスマス」内容もさることながら、文章がとっても丁寧。普通ならとても納得できそうもない設定を、登場人物達が受け流すところも違和感がない。
解説を読んで、その感じが、夢を見ている時と同じなのを知りました。ほら、夢の中だと、自分が追いかけていたのに、いつの間にか追われる側になっていたり。車に乗っていたはずなのに、いつの間にか歩きに変わっちゃってたり。それでも話しはどんどん進んじゃうってことがありますよね。この小説は、作者の見ている夢の世界が、どんどん進んでいく。

ひとつひとつの言葉、特にセリフの部分が丁寧に選ばれていて、特異な登場人物(その他も含む)を通して、作者の大切にしているものが、読者の、そして私の琴線に触れていく。
二人の音色はそれぞれに近づいたり離れたりしながら、登場人物達に重ねられて、その言葉の中に帰結していく。

物語の中で、―私達はしばらく、黙って歩いた。という描写が何回も使われているとこなんかもイイ感じ。

物語が中断されて、一瞬、寂しいような気もするんだけれど、きっと登場人物(例外も含む)達にも一人で考えたいことがあるんだろうな、と、まるで本当に隣で歩きながら、友達の心配をしているような気になってしまう。

どうやって励まそう。
次になんて言おう・・・

会話の途中のそんな間ってありませんか?

そんな時の自分の経験がよみがえってくる。

他人の見た夢の話は大好きです。
それが、突拍子のないものならなおさら。
しかも、素敵な文章と面白い内容なんだから、もうラッキーとしかいいようがない。

読みやすくて、心にしみる九つの物語。
可笑しくもあり、ほろ苦くもある。
雨上がりの匂いのする、そんな物語です。









川上 弘美  著
中央公論新社