ブログはお休みにしようかと思ったが、就寝の前に、やはりJさんへのお別れを記しておこうと思い、パソコンを開いた。外に出てみると、月が隣家の屋根の上に明るんでいた。ほぼ満月に近く見えるが、13夜の月のようだ。月を眺めているうちに、ひとりでにJさんを偲んでいた。
Jさんに月を眺める趣味があったかどうかは知らないが、Jさんはもう月を眺める側の人ではない。すでにこの世の人ではないのだが、ふと、Jさんの朗らかな声が聞こえてきそうだった。月のある空の高みから。<やっと楽になれたよ>と。
あたりに虫の声が満ちている。それもJさんの耳には届かないのだなと思うと、ひとりでに、涙で月が霞んだ。
お昼前、Jさんの訃報が届いた。
容態がかなり悪いようだとは、先日、草花舎でうかがっていた。が、こんなに早くお別れの日がこようとは思っていなかった。
しかし、意外な死ではない。十分予測し得る死であった。
Jさんの晩年は、癌とともに生きられる日々であった。余命の乏しい状態にありながら、Jさんはいつも気丈だった。
私よりはずっと若い、薬局の店主である。私はその顧客の一人に過ぎないのだが、ただ単に店主と顧客以上の親しみを感じて過ごしてきた。Jさんを知る人の心には、私同様の思いがあるのではないだろうか。
私の知るJさんは、ずいぶん話好きで、その話題が陽性だった。
Jさんのお店で、30余年間、常用の薬をいただいてきた私は、お店に行くと、用を済ませて、<ではさようなら>と、直ちにお店を後にすることはほとんどなかった。いつも、なにかしら会話が弾むのだった。Jさんはお客に合わせて、自在に会話を楽しむことのできる人だったようだ。
薬のまとめ買いをする私は、そうしばしば薬局を訪れているわけではない。
一週間に一度、抗癌剤の治療を受けられるようになって、かなり経ってから、お会いしたときも、病む人の暗さは全くなかった。しかし、実際は相当苦痛があったのだと思う。治療を受けた後の三日間はかなり難儀で、一週のうち気分のいい日は半分に満たないと話しておられた。それでも、お店に出て人に会っている方が気分が紛れる、と磊落に話しておられた。同情を請うような姿は全く見せられなかった。
その後、お店のしまっている方が多くなった。草花舎へ行くとき、あるいはバスや車の車窓から、入り口の閉ざされたお店に気づくと、いつもJさんの容態を気にしてきたのだが……。
昨年の五月ころであっただろうか、お店に寄った時、パソコンの話になった。Jさんは自らパソコンを店頭に持ち出し、パソコン歴の長い先輩として、実に気楽にいろいろなことを教えてくださった。なかでも、使い勝手のいい「ウィキペディア」のことを教えてもらったのは、その後の調べに大いに役立った。(その知識を得て、暫くしてからだった。朝日新聞が「ウィキペディア」についての特集を掲載したのは。)
私がブログを始めたと話すと、Jさんは、
「ぼくは専ら、アダルト系だから」
と、男女の機微を載せた記事内容について、楽しそうに語ってくださったのが、忘れられない。
「でも面白いよねえ、アダルトなんか見ているうちに、不思議なことに、深刻な病と闘う人の手記に行き当たったりして、馬鹿みたいにポロポロ涙を流して読んだりして……」
と、内面の一部をうかがい知ることのできる話をされたことも、今思い出す。
Jさんの人柄が、どんな話にも、そのまま出てきて、語らいの楽しい人だった。
もう再び、Jさんと話すことはないのだと思うと、やはり無性に淋しい。
28日の葬儀には、一応のお別れをしてこよう。しかし、人の心に想い出を残した人は、亡き後も、その人の心に生き続けるのだと私は信じている。そう思うと悲しみも、少しは薄らいでくれる。