ぶらぶら人生

心の呟き

赤間硯

2006-05-19 | 身辺雑記

 大きさの割合に、ずしりと手に重い小包が届いた。差出人は東京の友達になっている。冗談のように取り交わした会話だったのに、彼女は本当に赤間硯を送ってくれたのだ。
 実は、「朝倉彫塑館」で、その友人と、書斎の書棚に並んだ書籍や遺品を見ているとき、装飾的にも見事な、実用品というよりも優れた工芸品といった方がよさそうな硯が、幾つか並んでいるの見た。私が何気なく、
「こんな硯が一つ欲しいな。これほど立派なものでなくても、こちらで結構ね」と、実用として役立ちそうな硯を指して言ったのだった。
「私、赤間硯、持ってるのよ、差し上げましょうか。こんなに立派じゃないけれど」と、そう彼女は言った。

 私はそんな会話を交わしたことさえ忘れていた。
 が、先日(5月17日)、山口県立美術館で、「ウイーン美術アカデミー展」を観、常設展会場で、「JAコレクションの軌跡」を観た後、ついでに覘いた郷土工芸室の「山口の工芸(金工と赤間硯)」展で、また赤間硯に出合ったのだ。このときも、妙に赤間硯にご縁があるなと、「朝倉彫塑館」を思い出した。
 そこに陳列されていた赤間硯は、堀尾信夫という人の作品。それらも実用品というより工芸作品といった方がよさそうな、手の込んだ秀作ばかりだった。

 そして昨日、彼女所蔵の赤間硯が私の手元に届いたのだった。手紙を添えて。

 「硯のことですが、改めてよく見ましたところ、○○中学校から、夫が、昔、もらったもののようです。今度初めて裏を見て、「ヘエー優等賞」と思いました。
 あなたが小学校から使用しているのは、ついマックロの普通の石のでしょうから、気持ちが悪くなければ使ってください。きっと硯も大満足。
 どうせ私が死んだら、子どもたちは、何もかも、投げ捨てますよ。
 実の娘でも、好みが全く違いますので、みんな、捨ててしまうという予感がします。」

 本当にいただくいていいのだろうか。この硯の、かつての所有者である、彼女の夫は、すでに他界されている。旧制中学校を優秀な成績で卒業され、大学も一流校を出ておられる。が、最後は旅先でのあっけない死であったと聞いている。
 彼女も大病を患い、私から見ると、物への執着心が薄く思える。
 それでも、他人の私に渡したことを悔やまれる時があるのではないだろうか。息子と娘、二人のお子さんがある。どちらかに、
 「これ、お父さんの形見よ」
といって、渡される方がいいのではないだろうか。

 磨り墨の汚れの全くない硯を、私は暫く手にとって眺め、思案した後、ありがたくいただいておこう、と思った。きっと彼女もそれを喜んでくれるだろうと。
 私は硯箱を取り出した。それは、祖父の形見である。特別、書の勉強をしていたわけでもない私に、なぜ祖父がくれたのか、そのいきさつは思い出せない。
 今日は物思うことが多い。
 この八雲塗りの硯箱を所有してから幾年がたつのだろう? 祖父の死は、私がまだ二十代の時だったように思う。長生きした父は、祖父の33回忌を執り行ったのだから……と、おぼつかなく過去に遡って考える。
 白くて長い顎鬚と、鼻髭を蓄えた、威厳のある顔を思い出した。明治・大正・昭和と生きてきた祖父であったが、あれは明治人の顔であった。
 永訣の日は、四月の花冷えのする雨の日だった……。
 過去帳を見た方が早い。私は仏壇に行って、祖父の死の年月日を確かめた。四月の記憶は、間違っていなかった。
 四十余年が過ぎている。
 硯箱は、その間私の手元にあったわけだ。暫く使っていない箱の上に、かすかに埃がのっている。綺麗にふき取ると、小学生の時から、半世紀余り使ってきた黒い硯を取り出し、そこに赤間硯を納めた。

 冗談から、立派な、謂れのある赤間硯をいただいた私は、これから折に硯に向かって書をたしなむ、静かな時間を持ちたいものだと、今は殊勝な思いに浸っている。
 
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝倉摂の絵

2006-05-18 | 旅日記

 縁は不思議なものである。

 私は、素朴な絵の前に立って、「あら?」と思った。それは、その絵に猫がいて、作者が朝倉姓であったからだ。私の頭に、先日上京したとき訪れた「朝倉彫塑館」のことが閃いた。
 彫刻家・朝倉文夫は無類の猫好きだったらしく、猫に囲まれた写真があり、沢山の猫を、実に見事に彫り刻んでもいた。その記憶が鮮明なところに、また猫と朝倉である。
 横に記された解説を読んで、納得!
 私が知らなかっただけだ。朝倉摂は朝倉文夫の子供であり、日本画からスタートして、今は舞台美術家として活躍中の、有名な人だった。1922年生れとあるから、かなりの高齢者ということらしい。

 朝倉摂を知らないというのは、マイノリティーに属するのかもしれない。私は、今日存分パソコンに付き合い、沢山の情報を得た。そして、朝倉摂なる人物と長時間対話した。沢山の人がそれぞれの形で触れ、紹介している。
 かつてのマラソンの走者、増田明美さんのブログに、「前へ前へひたすら進む姿―舞台美術家・朝倉摂さん―」という記事があり、そこから入門という形になった。
 舞台芸術家としての実際の仕事は眼にすることは出来ないが、その評価は国内外で高いらしい。私はその世界については無知に等しい。だから、今まで朝倉摂を知る機会に恵まれなかったということなのだろう。
 仕事の内容を知らないのに、朝倉摂はすばらしいと感じるのは、その人の発する言葉からである。言葉の中身からである。
 幸い、対談(昭和52年11月発行の別冊「婦人画報」に掲載された玉三郎との)記事あり、インタビュー(「新世紀への提言」という題での)記事ありで、その人柄に接することが出来た。
 常識に頼らない自信に満ちた言葉や生き方が、実に見事だ。すばらしさの上に「超」を付けたくなるような魅力を感じた。
 父である朝倉文夫は、教育を強要しなかったという。型にはめられなかったことで、自由に才能が開花した面も否めない。教育に対する考え方、現代日本の社会のあり方等々、自信を持って日本の今のあり方を批判できるのは、確たる考え方があるからだろう。それが私の心に響くのは、常識論ではなく、真実が語られているからだ。そして、語られる言葉には、教養に裏打ちされた味がある。

 たとえば、舞台装置、舞台美術の魅力について、次のように語っている。
 「消える魅力だと思う。虹がきれいだっていうでしょう。それは消えちゃう魅力よ。」
 「そしてやはり舞台が生であるということは魅力なのね。」
 玉三郎の美しさについては、
 「栄泉の浮世絵を見るような線のきれいさ」と、語っている。
 そんな言葉を拾い出せばきりがない。

 1957年に富沢幸雄と結婚。一人娘が女優の富沢亜古。

 舞台芸術の仕事の傍ら、絵も描き、個展も折に開催の様子。
 「猫の展覧会」という個展では、猫をテーマに描いた絵やリトグラフ、布にそめつけた作品などを展示、という情報もあった。
 やはり猫の作品は多いらしい。
 「自分は濃い色の縞猫が好きで、それは子供の時飼っていた猫がそうだったので……」と語っている記事も読んだ。私が見た絵も、黒っぽい縞猫だった。
 イラストレーター、装丁家としても活躍とあり、パソコンの中でも、朝倉摂の、幾匹かの猫を見た。次々開いてゆくうちに、朝倉摂の猫に関する本の紹介から、「山猫の住処」というブログに行き着き、朝倉摂とは関係のない記事まで余分に読んで楽しんだ。

 私の見た絵は、山口県立美術館の小さな部屋で開催中の「JAコレクションの軌跡」展示場だった。「ウイーン美術アカデミー名品展」を観にいった付録の鑑賞だったのだが、嬉しい出会いとなった。

 写真説明 小さくて見えにくいが、朝倉摂の絵の左側は、香月泰男の「太陽と自転車」、右横は、巖島虹石の「白鷹山水図」、その右が、松田正平の「燈台」である。三作とも、それぞれに画家の個性を感じる作品だった。)
 


 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野 美術館巡り 1 (国立西洋美術館)

2006-05-16 | 旅日記

 5月10日、東京の朝は小雨に煙っていた。が、九時、ホテルを出る頃には、その雨も上がっていた。
 まず、谷中に行く。東京にいる間は、毎朝、師のお墓に詣でることにしている。
 「今日は美術館をめぐりましょうね」
 虚しいこととは知りながら、そう誘いかける。そして一緒に出かけるのだ。現身は存在しなくても、心の中に、人を伴うことは可能なのだから。

 スタートは、国立西洋美術館。
 東京の美術館の中で、一番回数多く訪れており、、それだけに思い出の最も多いのが、この美術館だ。師に最初に連れて行っていただいたのも、この美術館だった。最近では、昨年の桜の季節に「ラ・トゥール展」を観た。

 今日は、 「ロダンとカリエール展」

 
かなり昔、大規模なロダン展を観たのも、この美術館だった。ロダンの彫刻は幾度も見てきたが、カリエールは初めてだ。名前さえ知らなかった。ロダンと親交があり、芸術家として互いを高めあうよき相手であったらしい。
 この展覧会が開催中であることを知ったのは、NHKの「日曜美術館」だった。

 オーギュスト・ロダンは1840~1917の人。ウジェーヌ・カリエールは1849~1906の人。 二人が知り合ったのは、1880年頃で、カリエールの死去まで、二十余年の交流があったようだ。
 彫刻家と画家というジャンルの異なる二人を様々な角度から、その関係を見てゆく展覧会は、珍しいことらしい。私も今までにこうした類の展覧会を見たことがないように思う。

 5つのセクションに分けて展示がなされていた。
 1 ロダン像とカリエール像
 2 ロダンとカリエールの直接の交流
 3 ロダンとカリエールをめぐる人々の肖像
 4 ロダンとカリエールにおける象徴主義
 5 ロダンとカリエールを結ぶ糸

 二人の交わり、関わりの深さが、芸術に対する心のありようからくる、内面的な深い繋がりにあることを、痛感出来る展覧会であった。
 ロダンの彫刻は、多くがブロンズ像だが、今回最も印象的だったのは、大理石の「最後の幻影」であった。

 カリエールの絵画は、魅力的だ。茶褐色のモノトーンで、輪郭線が不鮮明な、独特な作風である。そこからかもし出される不思議な世界に魅了された。色彩が豊かなだけが絵画ではない、とつくづく思った。
 ロダンとの関わりを抜きにしても、カリエールの絵、そのものに出合えたことで、十分満足出来る展覧会だった。
 再びカリエールの絵に出合えるときがあるだろうか。その機会があったら、たちまちカリエールの名を思い出すだろう。
 それだけ印象に残る絵画だった。特に「母の接吻」など、母性を描いた絵がいい。

 今回は次の美術館へ急いだが、次回は常設展もぜひ見たいと思っている。
  

 
 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野 美術館巡り 2 (東京都立美術館)

2006-05-15 | 旅日記

 5月10日、二つ目の美術館。

 「プラド美術館展 」

 
大変な人だ。どこから、こんなに沢山の人が集まるのだろう?
 昨年春の「ゴッホ展」(東京国立近代美術館)は、更にもっと多かった。あれは身動きできないくらいだった。
 昨年暮れの「プーシキン美術館展」も、今日より沢山の人だった。
 それを考えれば、まだましな方かもしれない。
 65歳以上は800円、バッグから健康保険証を取り出して、入場券を求める。普通に買えば、1500円。少し得した気分になる。

 ティツィアーノからゴヤまで、81点の名作が並んでいる。

 第1章 スペイン絵画の黄金時代―宮廷と教会、静物
 第2章 16,17世紀のイタリア絵画―肖像、神話から宗教へ
 第3章 フランドル・フランス・オランダ絵画―バロックの躍動と豊穣
 第4章 18世紀の宮廷絵画―雅なるロココ
 第5章 ゴヤ―近代絵画の序章

 この展示の構成からでも、絵画に詳しい人なら、豪華な展示の世界をおおよそ想像できるのかも知れない。
 私は画集でしか見たことのなかった絵に、多くお目にかかることが出来た。
 人波にもまれながらの鑑賞だったが、ティツィアーノ、ルーべンス、ベラスケス、ムリーリョ、スルバランなどの絵を
興味深く眺めた。
 「○○美術館展」というのは、一度に多くの画家の絵に接し得る利点もあるが、少々頭の中が混乱気味にもなる。好みからいえば個展がいい。が、大画家たちの、あちこちの美術館に所蔵されている名画を一堂に集めることは到底無理な話だから、やはりこういう機会に、数点ずつ鑑賞するしか仕方ないのだろう。(外国に旅して、個人の美術館を訪ねる元気は今やない。)
 展示の所々に、数は少ないが<ボデゴン>と呼ばれる静物画が並べられている。その前に立つと、小休止を与えられたような安らぎを得た。今、記憶にあるのは、サンチェス・コタンやスルバランなどのボデゴン。

 ボデゴン――初めて聞く言葉だ。会場を出てからすぐ電子辞書で確かめたが、広辞苑には出ていない。スペイン語なのだろうと想像し、帰宅後、少しばかりスペイン語を勉強している妹に電話で尋ねた。妹の学習範囲では、学んでいない単語だったようだが、すぐ辞書で調べてくれた。間違いなく<ボデゴン>とは、<静物画>を意味するスペイン語だった。スペルはローマ字で書くのと同じて、<bodegon>、<gon>の<o>の上に<´>の記号がつき、アクセントも<gon>にあるのだそうだ。

 鑑賞の途中で、中央の椅子に座りたくなったが、空席がない。次の展示室に移動してみても、空席なし。皆、疲れて一休みしたいのだろう。立ち上がる人も見つからない。美術館には、見渡すと老人が結構多い。老人には時間のゆとりがあるということだろうか。
 私は諦めて、81点を見終わり、レストラン「ラ・ミューズ」へ急いだ。
 「プーシキン美術館展」の時も、そうだった。
 大窓に向かった席に案内された。お腹がすいているわけでも、喉が渇きを訴えているわけでもない。とにかく椅子に座りたかったので、ほっとした。水を得た魚のように生き返った。
 目の前には、大窓が一枚の額入りの絵のようになって、上野公園の木々が収まっている。窓越しに五月の緑が美しい。
 私は前回、このレストランで知り合った松山の人を思い出した。一度メール交換をしただけで、その後の消息を知らない。絵画や美術館の話をしたのを思い出し、人柄を懐かしんだ。

 (帰宅後、二度目のメールを送った。折り返し、返事が来て、「プラド美術館展」には会期中にぜひ行きたいと思っていること、「プーシキン美術館展」を観た後、どうしてもロシヤに行きたくなって出かけたこと、モスクワの「トレチャコフ美術館」がよかったこと、偉大な芸術と汚い街とに違和感を感じたこと、などが記されていた。)

 私の両隣の席にいるのは、いずれも鑑賞をし終えた、連れのない女性だったが、今回は言葉を交わすこともなかった。人と人との有縁無縁は不思議なものだ。

 疲れを癒すと、三つ目の美術館へと向かった。
 
        (ポスターを撮った、添付の写真は、ムリーリョの「貝殻の子供たち」)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野 美術館めぐり 3 (芸大美術館)

2006-05-14 | 旅日記
 上京を心に決めた時から、ぜひ訪れたいと思った美術展、その一つが「エルンスト・バルラハ展」であった。
 今まで耳にしたことのない彫刻家なのだが、この作家の紹介を新聞で読んだり日曜美術館で見たりした時、すぐに「ケーテ・コルヴィッツ」を思い出した。
 三月、九州に旅した時、熊本県立美術館で女流彫刻家・版画家ケーテ・コルヴィッツの作品に出会い、心を打たれた。(そのことは、ブログを始めたばかりの3月末に、感想を書いて投稿している。)
 ほぼ同時代を生きたエルンスト・バルラハに、何か共通項を見出すことが出来るのではあるまいか。再び類似の感動に浸れるかも知れないという期待感が深かった。
 当然のことだが、いくら同じ国に、同じ時代を生きたからといって、芸術家の思想が作品に反映された時、似通ったものが生まれるはずがない。コルヴィッツとバルラハは、それぞれに自らの表現形式で、自らの真実を語りかけているのだった。
 ただ一つ、作品143「ギュストロー戦没者記念碑の頭部」(1927ブロンズ)の前に立って彫像を見、その説明を読んだ時、「ケーテ・コルヴィッツの面影を宿したような悲しみを秘めて祈りを捧げるような表情に……」の文を見出し、二人が、底辺のところ、潜在的な一面において全く無縁ではない、という思い抱くことが出来、期待が僅か報われた気もした。
 作品は、版画、デッサンなど数多くあったが、すべて思ったより小さかった。その中で、一番興味を抱いたのは、彫刻群であった。木彫やブロンズ像など。
 ポスターにも使われている、木彫の「苦行者」は、宗教性をたたえた作品として評判だし、確かに静謐で、内省を促されるような、いい作品だと思った。
 が、精神構造の単純な私は、作品141「笑う老女」の前に立った時、心底ほっとした気分になり、ひとりでに頬を緩ませていた。

 笑いは、どうしてこうも、人の心を和ませるのだろう!
 私は家にいる時、心が沈みがちになると、本箱の上に置いている、北村西望の「笑う少女」(? 題名は不確か)の写真を眺める。<残念ながら、彫刻ではないけれど……>
 少女と同じく、左手を口に当て、写真に微笑み返すと、たいていのことはどうでもよくなる。人の笑みに接することも、自らが笑むことも、精神に好作用をもたらすようだ。

 バルラハは、劇作家でもあるのだそうだ。時間を惜しむようにして、沢山の作品に接し、帰宅後、持ち帰ったパンフレットを読んでみると、引用されている文章がすばらしい。むしろエッセイなどに、心を打たれるものが多いのではないかと思ったほど。
 画家や彫刻家には、概して卓越した文章を書く人が多い。おそらく物を見る眼、物の本質を見抜く心の目が、人並みはずれているのだろう。
 関連映画も上映されていたらしいのに、それも見ずに、次の会場に急いだことが悔やまれる。

 芸大コレクション展「大正・昭和前期の美術」
 
 高山辰雄の「砂丘」を始め、大家らの名作、大作がずらりと並んでいた。残念ながら、相当疲れていて、実に大雑把な鑑賞に終わった。
 佐伯祐三の「セーヌ河の見える風景」(1924)や「自画像」(1923)、萬鉄五郎の「自画像」(1912)の前で、少し長く足を止めたくらいだった。

 今日だけで三つ目の美術館巡り。馬鹿馬鹿しいと人は笑うだろう。が、東京滞在の日程が限られているし、日ごろ田舎に住む私は、文化に飢えているのかもしれない。
 昨日は友人と「朝倉彫塑館」を見学した後、上野まで歩き、更に有楽町に出て銀座を散策し、宿泊地・新橋のホテルまで歩いたのだった。おしゃべりに夢中になりながら。
 疲れが出てきて当たり前だ。下半身がばらばらになってしまった感じで、早くどこかへ座り込みたくなった。年相応の老いを感じる夕べだった。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝倉彫塑館

2006-05-13 | 旅日記

 谷中の桜並木は、葉を茂らせていた。もう新緑というには緑が濃くなっていた。
 蝉の声? と、耳を澄ます。春蝉であろうか。
 一瞬、山口市後河原の桜並木の風景が、今歩いている谷中の桜並木と重なる。
 ここからは遠い、あの並木にも、春蝉が鳴き始めているのだろうか。毎年、夏になると、蝉時雨があたりを包んだものだった。 
 生前の師を偲びながら歩いていると、蝉らしい声は、たちまち烏の騒々しい声にかき消された。
 谷中の墓地には、烏が多い。猫も多い。
 いつもは一人でお参りするのだが、今日は友人と二人での墓参である。故人への関わり合いには違いがあっても、お互いにとって師であることには違いない。
 昨年の十二月以来のお参りであった。

 その後、谷中にある、台東区立「朝倉彫塑館」を訪ねることにした。
 墓地の周辺に限らず、地図が現在地と周辺図を示してくれているのはありがたい。
 互いに方角に自信がないので、佇んでは目標物を頭に入れる。ポストから左に曲がる、といった具合に。
 朝倉彫塑館は、墓地から程近いところにあった。
 ここは、彫塑家朝倉文夫が明治40年から昭和39年、81歳で没するまでの56年間、アトリエ兼自宅として使用していたところ。増改築を繰り返し、現在の建物は、旧アトリエが大正12年、住居棟とアトリエが昭和10年竣工とのこと。
 彫刻もいいが、茶室や部屋ごとのたたずまいや調度品がすばらしい。皆、芸術の香りがする。数多くの遺愛品や収集品にも、その人柄が偲ばれる。
 建物の真ん中には、「五典の水庭」と名づけられた日本庭園がある。自然の湧水を利用したものだという。
 案内のパンフレットによると、儒教の五常(人の常に守るべき五つの道徳)を象徴した仁・義・礼・智・信の巨石が配され、四季折々白い花をつける木が植えられているとのこと。折しも白い花をつけた木があったが、それが何であるかを、後で受付の人に尋ねてみようと思いながら、忘れてしまった。
 この庭は、朝倉氏自身が自己反省の場として設計されたものだそうだ。

  仁も過れば弱(じゃく)となる
  義も過れば頑(かたくな)となる
  礼も過れば諂(へつらい)となる
  智も過れば詐(いつわり)となる
  信も過れば損(そん)となる

 何事も、「過ぎたるは及ばざるが如し」ということであろうか。中庸であることの難しさ! 等々思いながら、説明文を読んだ。精神修養の足りない私自身を省みながら。
 有名人の人物像、更に「時の流れ」といったような抽象的な概念を具象化した作品も、芯の通った作者の心を感じる秀作ばかりであった。
 朝倉氏は愛猫家でもあったようだ。沢山の猫に囲まれた写真があった。猫好きの人でなくては、こうも猫を造形できなかったであろうと思えるような、様々な姿態、表情の猫たちに出会い、楽しませてもらった。
 屋上庭園もあった。今は花の少ない時季だったが、季節ごとに草木を愛でることができるようになっている。
 屋上に立って、五月の風に吹かれていると、自らも庭園の一部になったようで、雑念から開放され、心地よかった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野散策 正木直彦像

2006-05-12 | 旅日記

 谷中の「朝倉塑像館」を見学した後、友達と二人、上野に向かって歩いた。
 芸大の前を通り過ぎ、都立美術館の方に向かう途中、大きな木の門柱に気づき、四、五段(?)の階段を上がってみた。
 右手に、椅子に座った立派な人物像があり、正木直彦と記されている。
 記憶の遠くにある名前のようでもあり、初めて聞く名前のようでもあった。
 「これ、誰でしょう? 勲章などぶら下げて」
 私たちは、その像の前に佇んで、それぞれの記憶箱を開けて考え込んだが、分からない。
 バッグから電子辞書を取り出し、広辞苑で調べてみたが、その名はない。
 「こんな調べものは、パソコンに限りますね」
 「メモしないと忘れるわよ」と、友達。
 二人とも七十を過ぎ、「老人力」がついてきている。私は、妹の名前に「正」がつくので、妹をイメージして記憶することにし、そのことを友達に告げた。
 「<正>はいいとして、その続きがちゃんと出てくるの?」と、友達は訝った。
 私も、あやしいものだと思う。が、メモを取るほど熱心でもない。
 「記憶訓練法として、最初の文字だけ頭に入れるの!」
と言ってはみたが、覚束ないことだと思った。
 私たち同様、ここはなんだろう? と、不審げに階段を上り、像を眺めたり眺めなかったり、気まぐれに首をかしげて去ってゆく人が幾人かいた。

  折しも修学旅行シーズン、それに都立美術館80周年記念祭とかの行事も重なって、平日というのに、公園内は人々で賑わっていた。
 上を見上げると、風に吹かれて、歳月を経た大木の数々が、新緑の葉を大きく揺るがせ、地上に風が吹きぬけると、常緑樹から枯れ落ちた無数の古い葉っぱが、路面を忙しく駆け巡り、天も地もざわめく五月の風情であった。

 上野散策の日から今日は三日目。
 「正木直彦」の名は、無事、私の頭にインプットされたていた。
 早速、インターネットで調べてみた。 
 東京美術学校の第5代校長を、足掛け32年間(1901~1932)務めた人。茶人でもあり、「十三松堂」と号し、その日記なども作品として公開されている様子。(1862~1940)
 私たちが佇んだ位置は、「正木記念館」(1935年竣工)の入り口だったようだ。
 正木直彦像は、沼田一雅(いちが)<1873~1954>作で、陶製。

 以上のような知識を得て、納得した。知り得たことを、東京の友人にも、メールで知らせた。

 今なお、私の頭の中には、公園の木々の緑が揺らぎ、一方、見ぬようにして見た、木々の下に青いビニールのテントを張って生活を営んでいる人たちのことが、複雑な思いを伴って胸をよぎる。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結城哀草果の歌

2006-05-09 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌小学館)
 結城哀草果(1893~1974)<大島史洋選>より

貧しさを口にさけびて働かぬ村人多くなりにけるかも
飼猫が背戸畑にゐて草噛むをかなしきさまにわれは見にけり
険しき山を炭負ひくだるをみならが幼児つれてゐたるあはれさ
病める身はたやすく疲れ遠く来し友に対(むか)ひてもだしがちなる
病み臥(こや)るわが枕べをとびめぐりやんまは雨降る庭にそれたり
山峡(やまかひ)にあらく流るる水音が夢に入りきて一夜ひびけり
覇気なくなりし己おもへばかりそめの病のゆゑとばかり言はれず
高原(たかはら)にたまれる水をのむ禽が鋭く啼きて飛びゆきにけり
秋雨の暗くふる午後床をはふ蟻を殺してなぐさまずをり
胡桃の木しげれる下にむらがれる石赤さびて蟹の這ふ沢
貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり
収入のなきをおもへば売りに来る秋刀魚を買ひて食ふことなし
小作米に足らぬ俵をなげきしが老いし農夫は床に臥しけり
義捐品貰ふ村人よたはやすくたよるこころに溺るるなかれ
南瓜ばかり食ふ村人の面わみれば黄疸のごとく黄色になりぬ
五百匁の同情甘薯(いも)をもらふとて隣同志が争をしぬ
雪降りし山にのぼりて草根ほり木の実をひろふ獣のごとく
木の実と草根を食ひ飯食はぬ人らは黒き糞たれにけり
四人の児を妻にのこして出稼ぎに人目をしのび友旅立ちぬ
冬枯れし山の低きを黒き牛しづかにゆくはさびしかりけり

 以上の歌は、昭和10年刊の「すだま」に掲載されたもの。
 「すだま」を辞書で引くと、「魑魅」の漢字があてられている。魑魅魍魎の魑魅である。作者の出身は山形県の由。戦前の貧しい農村の姿は、魑魅にも喩えられる状況であったことが、平明な歌から十分読み取れる。人間らしく生きられなかった哀しい時代!
 この歌の世界が十分理解できる、ということになると、どれぐらいの年齢までなのだろうか。衣食住に足りた生活しか経験していない世代には、確かな想像力なくしては理解不可能なのではなかろうか。
 戦中戦後の貧しさ、悲惨さを経験した者には、ここに歌われた世界を生きていなくても、<さもありなむ>との想像は容易である。
 作者を短く紹介した文の中に、<東北飢饉の悲惨な実態をリアルに詠んだ異色歌集>と、書かれている。別の本によれば、昭和9年から10年頃、東北は凶作に見舞われたとのこと。さらでも現在に比べれば、ずっと貧しかった農山村のこと、苦労の多い生活であったことは想像に難くない。
 初めて読む哀草果の歌であったが、素朴な歌風に心を打たれた。
 本名は光三郎。作者自身、農にいそしむかたわら歌人、随筆家として活躍した人のようだ。
 晩年がどのような人生であったかは、よく知らない。

 ここまで書いて、インターネットを開いてみた。
 その結果分かったことを追記しておこう。
 大正二年(1913)、土岐哀果に感化を受け、(哀草果の名は、哀果と関係があるのだろう?) 翌大正三年(1914)、生涯の師、斉藤茂吉に入門、とある。また、斉藤茂吉記念館の館長もつとめていた様子。

 昭和21年には、南山形小学校の校歌も作詞している。

 更に、随筆一篇も読んだ。「トンボのをる風景」と題し、昭和29年12月森村商報に掲載されたもの。作者の散歩から生まれた、飄々とした随筆に、ほほえましさを覚えた。

 高橋光義選の「哀草果秀歌二百首」というのもあり、ざっと眼を通した。晩年、九死に一生を得る大病もしたらしいことが、歌から読み取れた。
 次のような歌があり、同情しつつも、大胆な心境の吐露を面白く思った。病者でなくても、よく分かる。
朝夕の脱糞放尿と食事するこの大儀や生きるは苦し

 
また自分の歌暦をそのまま歌った、次のような随分破調の歌もあった。
善麿の生涯基盤に立脚し茂吉の実相観入実行したる作歌まさに六十年
 

 居ながらにして、色々なことを学べるインターネットはありがたい!)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

散牡丹

2006-05-08 | 身辺雑記

 この見事な散牡丹!
 昨夕見たときには、まだこぼれる(崩れる―というべきか?)気配もなく、しかし、幾分生気を欠いたまま、二つの花が茎にとどまっていた。明日が見納めかな、と思ってはいたのだが、今朝は少し強めの風が吹いて、そのせいか茎には花弁の一枚をも残さず、地面を紅に染めていた。
 かの有名な蕪村の句、
 牡丹散(ちり)て打ちかさなりぬ二三片
を思い出したが、そんな上品な散りようではなく、こちらは壮絶な散牡丹!
 一句、物したいが、残念ながら、そんな才能がない。
  見事に咲き満ちた時には、木下利玄の短歌を写真に添えて記事にしたが、蕪村の、この句は、写真の情景にはふさわしくない。

 いい句はないだろうかと、歳時記を開いてみた。さすがに牡丹の句は多い。「ぼたん」を「ぼうたん」とも表現するようだ。単なる音調合わせとして長音化したのか、もともとそういう言い方があるのか、どちらか知らない。いずれにしても、「ぼうたん」の、やや間延びした言い方は、愛らしくもあり気取った感じでもある。

 散牡丹ぼうたんの葉に草の葉に         川端茅舎

 この句あたりが、今日の景に一番近いかもしれない。

 白牡丹ある夜の月に崩れけり           正岡子規
 
  この句の「崩れけり」は、「牡丹散る」形容として絶妙な表現だと思う。白牡丹といえば、観察の鋭い、有名な句がある。

 白牡丹といふといへども紅ほのか        高浜虚子

 歳時記には、約70句が載っているが、その中から、上記以外の、私の好みの句を挙げてみる。

 開きたる牡丹(ぼうたん)幹をゆるがしぬ     長谷川かな女
 牡丹(ぼうたん)や富むといふこと美しく      遠藤梧逸
 牡丹七日いまだ全容くづさざる           細身綾子
 世を去りしひとと牡丹を見てゐたり         野見山朱鳥
 牡丹にもうしろ姿のありにけり            塩崎彩雲望
 牡丹(ぼうたん)のひらき尽して昼深し       松野加寿女
 葉に隠れをりし牡丹のひらきたる          加藤高秋

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土屋文明の歌

2006-05-08 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌小学館)
 土屋文明(1890~1990)<宮地伸一選>より

代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき
目覚めたる暁がたの光にはほそほそ虧けて月の寂けき
ほがらかに雲雀の声はうらがなし雪のこる牧場の中空にして
三月の尽くらむ今日を感じ居り学校教師となりて長きかな
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
事しあらば吾に寄り来るうから等の吾が貧しさは思はぬらしき
                         (以上は、昭和10年刊「山谷集」より)
山の上に吾に十坪の新墾(あらき)あり蕪まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に
少数にて常に少数にてありしかばひとつ心を保ち来にけり
吾が言葉にはあらはし難く動く世になほしたづさはる此の小詩形
日本語の抑揚乏しきを思ひ知りさびしみし北京の夜も忘れむ
にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華(あずまいちげ)の花も閉ざしぬ
評論はわけのわからぬを常として我がことあればそのめぐりだけ読む
                         (以上は、昭和23年刊「山下水」より)
一人出でて行くに堪へざる老となり伴ふ者はかの時未生
長生きは善いか悪いか分らねど天のまにまに長く生きたり
殖えすぎる人間調節の戦争と哲人言へば我は俗人
十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる
拙く生きいよいよ気弱なる老一人なほ四五年の道づれ頼まむ
黒髪の少しまじりて白髪のなびくが上に永久のしづまり
さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝を柩に
袷には下着重ねよとうるさく言ふ者もなくなりぬ素直に着よう
遠く住むに幾たびこの川渡りたる今日伴ふは其の時未生
歩まむといふ誘ひにも従はずかたくなに重き足今躬らに知る
生れたる曾孫を見むと出でたりき此の小き坂堪へて往来して
亡き人の姿幼等に語らむに聞き分くるまで吾あるらむか
                   (以上は、昭和59年刊「青南後集」より)

 百歳の長寿。作歌、歌論のほか万葉集の研究など、功績は大。

 つい最近まで生きていた歌人が、芥川龍之介や久米正雄らとともに第三次「新思潮」を始め、井出説太郎の筆名で小説も書いていたことを知り、ちょっと驚いた。私の心には、芥川龍之介、久米正雄などは、もう遠い過去の人、という思いがある。

 土屋文明は、短歌のあるべき姿について、
<短歌の吾々に歴史的に教えること、また現在でもそうである事は、それが生活の文学であり、生活即文学である>
<短歌というものは、決して一つの英雄を作り出す文学ではなく、一つの天才をめぐる文学ではなくて、同じ立場に立ち、同じ生活の基盤に立つ勤労者同志の叫びの交換である>と、述べている。
   (<  >の文言は、「現代日本文学大事典」からの引用)
 
 冒頭に挙げた短歌を読みながら、共感の思いで私は幼い日を思い出した。
 太平洋戦争開戦直前のころだったと思う。当時住んでいたG市の家の前を、H連隊の兵士たちが隊列を組んで、行軍する姿を何回か見かけた。その軍服姿の兵士たちを子供心にも、決して勇ましい姿として眺めることが出来なかったのだ。
 子供だから、自分の心をうまくは説明できないながら、涙ぐみそうになる悲哀を心に抱き、砂埃を立てて通り過ぎる「兵隊さん」を見送ったのだった。
 それ以来、カーキ色は私にとって、悲しみの色となった。
  戦争や兵隊を象徴する色が、私にはカーキ色であり、忌避する色となったのだ。

 最後に掲げた歌集には、老いと向き合う心境の歌が多い。作者92歳の時、2歳年上だった妻テル子が死去。その妻を歌った「黒髪の…」「さまざまの…」は、美しい挽歌だ。その次の「袷には…」の歌にも、妻の面影がある。

 「にんじんは…」の歌に出てくる<東一華>とはどんな花なのだろう?
 パソコンを閉じかけたが、どうも気になり、インターネットで調べてみた。
 幾人かによって撮影された、純白で清楚な、可憐な花の写真を見ることが出来た。
 関東地方に多いので、アズマイチゲと呼ばれるのだろう、との推測をしている人もあった。
 キンポウゲ科 イチリンソウ属 山地のやや湿ったところに生える草。
 花期 3月~5月 高さ 15cm~20㎝ などの情報を得た。

 朝、陽が昇ると開き、日暮れとともに閉じる、なかなか風情のある花のようだ。
 <アズマイチゲ>と、口ずさんでみると、音の響きもすばらしい。
 写真では眺めることが出来たが、いつか本物の花に会ってみたい。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする