ぶらぶら人生

心の呟き

結城哀草果の歌

2006-05-09 | 身辺雑記

 岡井隆編「集成・昭和の短歌小学館)
 結城哀草果(1893~1974)<大島史洋選>より

貧しさを口にさけびて働かぬ村人多くなりにけるかも
飼猫が背戸畑にゐて草噛むをかなしきさまにわれは見にけり
険しき山を炭負ひくだるをみならが幼児つれてゐたるあはれさ
病める身はたやすく疲れ遠く来し友に対(むか)ひてもだしがちなる
病み臥(こや)るわが枕べをとびめぐりやんまは雨降る庭にそれたり
山峡(やまかひ)にあらく流るる水音が夢に入りきて一夜ひびけり
覇気なくなりし己おもへばかりそめの病のゆゑとばかり言はれず
高原(たかはら)にたまれる水をのむ禽が鋭く啼きて飛びゆきにけり
秋雨の暗くふる午後床をはふ蟻を殺してなぐさまずをり
胡桃の木しげれる下にむらがれる石赤さびて蟹の這ふ沢
貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり
収入のなきをおもへば売りに来る秋刀魚を買ひて食ふことなし
小作米に足らぬ俵をなげきしが老いし農夫は床に臥しけり
義捐品貰ふ村人よたはやすくたよるこころに溺るるなかれ
南瓜ばかり食ふ村人の面わみれば黄疸のごとく黄色になりぬ
五百匁の同情甘薯(いも)をもらふとて隣同志が争をしぬ
雪降りし山にのぼりて草根ほり木の実をひろふ獣のごとく
木の実と草根を食ひ飯食はぬ人らは黒き糞たれにけり
四人の児を妻にのこして出稼ぎに人目をしのび友旅立ちぬ
冬枯れし山の低きを黒き牛しづかにゆくはさびしかりけり

 以上の歌は、昭和10年刊の「すだま」に掲載されたもの。
 「すだま」を辞書で引くと、「魑魅」の漢字があてられている。魑魅魍魎の魑魅である。作者の出身は山形県の由。戦前の貧しい農村の姿は、魑魅にも喩えられる状況であったことが、平明な歌から十分読み取れる。人間らしく生きられなかった哀しい時代!
 この歌の世界が十分理解できる、ということになると、どれぐらいの年齢までなのだろうか。衣食住に足りた生活しか経験していない世代には、確かな想像力なくしては理解不可能なのではなかろうか。
 戦中戦後の貧しさ、悲惨さを経験した者には、ここに歌われた世界を生きていなくても、<さもありなむ>との想像は容易である。
 作者を短く紹介した文の中に、<東北飢饉の悲惨な実態をリアルに詠んだ異色歌集>と、書かれている。別の本によれば、昭和9年から10年頃、東北は凶作に見舞われたとのこと。さらでも現在に比べれば、ずっと貧しかった農山村のこと、苦労の多い生活であったことは想像に難くない。
 初めて読む哀草果の歌であったが、素朴な歌風に心を打たれた。
 本名は光三郎。作者自身、農にいそしむかたわら歌人、随筆家として活躍した人のようだ。
 晩年がどのような人生であったかは、よく知らない。

 ここまで書いて、インターネットを開いてみた。
 その結果分かったことを追記しておこう。
 大正二年(1913)、土岐哀果に感化を受け、(哀草果の名は、哀果と関係があるのだろう?) 翌大正三年(1914)、生涯の師、斉藤茂吉に入門、とある。また、斉藤茂吉記念館の館長もつとめていた様子。

 昭和21年には、南山形小学校の校歌も作詞している。

 更に、随筆一篇も読んだ。「トンボのをる風景」と題し、昭和29年12月森村商報に掲載されたもの。作者の散歩から生まれた、飄々とした随筆に、ほほえましさを覚えた。

 高橋光義選の「哀草果秀歌二百首」というのもあり、ざっと眼を通した。晩年、九死に一生を得る大病もしたらしいことが、歌から読み取れた。
 次のような歌があり、同情しつつも、大胆な心境の吐露を面白く思った。病者でなくても、よく分かる。
朝夕の脱糞放尿と食事するこの大儀や生きるは苦し

 
また自分の歌暦をそのまま歌った、次のような随分破調の歌もあった。
善麿の生涯基盤に立脚し茂吉の実相観入実行したる作歌まさに六十年
 

 居ながらにして、色々なことを学べるインターネットはありがたい!)

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