ぶらぶら人生

心の呟き

不気味なあくび

2006-04-21 | 身辺雑記
 昨日は、不思議な一日だった。

 あくびが、しかも気だるい感じの生あくびが、ひっきりなしに出てくるのだった。「あくび病」というのがあるのでは? と、いぶかしく思うほど。
 私は平素、あくびの少ない方だと思っている。時折、寝るべき時間が近づいた時、就眠の予兆のように、あくびが出ることはある。
 が、昨日は爽やかなはずの朝から、あくびの連発。体も気だるい。それでも、昨日は病院へゆく日。起き出して、朝の日課である「ラジオ中国語講座」を聞いたり、ラジオ体操をしたり、一応はやるべきことをこなしたのだが、その間、幾度あくびを繰り返したか知れない。久しぶりに血圧を測ってみると、180と75。上がかなり高かった。
 それでも日中、病院で検査を受けたり、友人に会ったりしている間は、あくびが影を潜めていた。
 再び、出始めたのは夕食後。自らのあくびが不気味なほど。 
 疲れがたまっているとしか思えない。今晩は早々に休むことにしよう、と決断。入浴する元気もなく、九時過ぎには床に就いた。
 それでも睡魔に襲われるまでは本を読んだ。一年前に買ったままの未読本『進化しすぎた脳』。無意識に、その本へ手が伸びたのは、あくびは脳と、何らかのかかわりを持っているに違いない、との思いからだったかもしれない。
 
 あくび連発の原因として思い当たることといえば、前日の夕方、戸外や部屋が暗くなるのにも気づかず、パソコンの「マイピクチャ」 画面を開いて、たまりすぎたフォルダの整理をしたことだ。
 最近は処理の仕方を心得て、二重手間にならぬよう、多少はうまく整理できるようになったのだが、二年前、パソコンを始めたばかりのころから一年余の間は、、何も分からず、簡単な名前を付けては、写真を一回撮るごとに一つのフォルダに収めてきた。その上、下手な「ペイント」画も、たまっている。
 その処理に時間をかけてしまったのだ。
 自分がやりたいことをしている時には、時計が止まってしまう。気づくと二時間あまり、今まで撮った写真をいちいち開いて確認し、整理に余念がなかったのだ。その集中力は見事だが、そのことが昨日の不調につながったのだとすれば、これは考えなくてはならないこと!

 今日は早速、インターネットで、「あくび」関連の記事を調べた。これまた読みきれないほどの分量だ。
 その前に広辞苑をひき、あくびは<血液中の酸素の欠乏等によって起こる>ことは、調べていた。
 あくびをすることで、鈍くなった脳の働きが活性化し、新しい酸素を沢山吸い込むことで、脳ばかりでなく、体全体の蘇生を図ってくれているのだという。
 この程度の生理学は、誰でも知っていることなのだろう。が、今まで、昨日のような病的なあくびに悩まされた経験のなかった私は、あくびという生理現象に全く無関心だったらしい。
 まだ昨日の不調やあくびの原因が、パソコンの画面を見続けすぎ、異常な熱中の仕方で、時の経つのを忘れたことによるものかどうかは分からない。

 とにかく今日は、まるで昨日とは異なる快適さだ。

 
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「日和は、また来る」

2006-04-18 | 身辺雑記
 急に季節が動き出したようだ。
 山ツツジの淡いピンクが際立って目につく。
 今日は町に出てきた。行きつけの、レストランにも喫茶店にも、一つは大きな瓶(かめ)に、一つは小さな花瓶に、葉っぱの緑はまだない、花ばかりの山ツツジが、活けられていた。
 なんとなく心を和ませてくれる花だ。
 バスの窓から眺めると、欅だろうか、新芽が美しい。欅に限らず、木々が新しい衣をまとって、ふくらみ始めた。
 戸惑いさえ感じさせる、急激な季節の移ろいだ。
 
 しかし、三日続いたお天気は下り坂らしい。
 もわもわした大気は、雨の近いしるしに違いない。
 外出ついでに、友達に届け物をしておこうと思い立ち、友人の携帯電話へかけてみた。呼び出し音がかなり続いて、やっと通じた。
「今、写真クラブの集まり。あんたも、おいでよ」
 私は一人で、気ままに撮る、下手な写真で満足している。芸術的な写真の域に近づきたいとは露思わない。そんな才能はないと諦めている。したがって、グループの勉強会で、腕を磨こうという気概もない。
「私はいいの。会議中にごめんなさい。……お天気が崩れそうだから、崩れぬ前に、書道展の写真を届けておこうかと思ったの」
 
 友人の奥様は書道家である。先日、その展覧会を観に行き、デジカメに収めた。帰宅後すぐ、数点の作品をA4サイズの用紙に編集した。
 そのまま日を重ねて、十日余りが過ぎている。それを今日こそ、雨にならぬうちに、届けようと思ったのだ。急ぐ必要もないことだが、思い立ったら、実践したくなるのが私の癖。
 彼の返事は、いとも伸びやかであった。
「日和は、また来る。そのうち遊びに行く」と。
 
 <日和は、また来る>
 ツツジ日和のような、のどかな言葉だ。彼のどこから、あの伸びやかさは生まれるのだろう? 大病後は、誰の眼にも病弱で、彼自身、息絶え絶えに生きている、と言いながら、その心の有り様には、どこかゆとりがあるように思える。
 私はといえば、このところ特に、<生き急いでいる>ような気がしてならない。あれもこれもしておかなくては、と妙に気ぜわしいのだ。

 明日は、間違いなく雨になるだろう。明後日も雨かもしれない。が、友達の言葉通り、永遠に降り続くはずもない。きっと日和は、また来る! 
 しかし、とまた考える。七十を過ぎた人生に、どれだけの猶予があるのだろうかと。やはり私は私の志向する生き方を、自分が満足できる形で、歩んでゆくしかないのだろうと。いささか気ぜわしく……。
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赤瀬川原平&尾辻克彦

2006-04-17 | 身辺雑記

 四月初めの日曜日、朝日新聞の新刊書籍の紹介欄で、赤瀬川原平著「四角形の歴史」が取り上げられていた。紹介記事を書いているのは、イラストレーターの南伸坊氏。
 その記事欄には、著書の中にある赤瀬川氏の絵も一枚添えられているので、南氏の紹介文は大変短い。が、それがなかなか面白い。「画期的」という言葉が数回使われている。今新聞の切抜きで正確に数えてみると、合計七回。勿論意図的に。
 <画期的な本><テーマも画期的><表現方法も画期的><文字数も画期的><オモシロさも画期的><画期的な形式>そして締めくくりに<画期的だ>とくる。
 また文中には、こんな表現もあった。
――「世の中の物がだいたい四角形になっているのは、子供のころから変に感じていた」と、著者は「あとがき」で書いている。
 そんなことを考える子供、あるいはそんなことを子供の時に考えていたのを憶えている大人。――


 上記の文を読んで、私は新聞をお腹の上に置き、周囲を見渡した。(私はここ十数年、新聞は朝ベッドの中で読むのが習慣になっている。お行儀が悪いとは思いながら……)
 天上、襖、障子、窓、テレビ等等。皆、四角形だ。数え上げられないくらい多数の四角形に囲まれて生活していることに、改めて気づかされた。
 この「画期的」な本を読んでみようと思った。
 早速インターネットで注文。ウンウンと頷いているうちに読み終わった。紹介文に<文字数も画期的>とあったように一冊の書物に収められている文字数は少ない。だが値打ちは勿論文字数によらない。画家の、感受性の鋭い眼が、四角四面にではなく、柔らかな感性、説得力のある優しさで、四角形の成り立ちを捉え説明しているのが面白い。

 数年前(?)、赤瀬川原平著「老人力」を読んだ。
 この本を読んだ時にも、作者のどこかとぼけたような、それでいて説得力のある文章を楽しく読んで、感心した記憶がある。ところが、私にも「老人力」がどんどん高まってきて、読んだ内容を仔細に思い出すことは出来ない。
 が、いかなる人も、長い歳月を生きれば当然のごとく「老人力」はつくもので、物忘れ、度忘れなど、老人的なマイナス現象を深刻に悩まず、考えすぎず、あっけらかんと生きればいいんだ、という感じがして、気が楽になったような記憶がある。この本に出てくる話に比べれば、私の「老人力」はまだまだだなと読みつつ思ったり、いずれ遠からず似たような力を付けてくるに違いない、とも思ったりしたものだ。

 赤瀬川原平は画家としてのペンネーム。小説家としてのペンネームは尾辻克彦。本名は赤瀬川克彦の由。今回作者の年譜を見ていて初めて知った。画家と小説家それぞれのペンネームに苗字と名前を入れるとは、しゃれているなと感心。本名と関わりのない「原平」や「尾辻」に、どんな謂れがあるのかは分からないけれど。

 私が初めに接したのは尾辻克彦の方だった。勿論著作の上での話だが。
 芥川賞受賞の作品が「父が消えた」であることは知っているし、その作品は読んだはずだと思う。いい作品だと思ったから、その作者及び作品名が記憶に残っているのだろう。ところが老人力の悲しさ。作品の内容が全く思い出せないのだ。
 そこで昨日読み直した。以前読んだのは「文学界」だった。昭和三十年からずっと購読し続けてきた「文学界」を現住所に引っ越した二十一年前、二階の自室から書籍類を運び出すのが大変で、とりあえず雑誌は処分しよう、そう考え、丁度近くの中学生が廃品回収をしていたので、生徒に頼んで、運び出してもらったのだった。(それは後で後悔する事になったのだが、仕方ない。)だから、その小説の掲載誌(昭和五十五年・十二月号の「文学界」)も、手元にはない。
 今回は、私の蔵書「芥川賞全集」の十二巻で読んだ。
 読み返す価値があった。作者の人生や生い立ちが凝縮されたような、味のある作品だ。特に文章がいい。独特な会話もいい。飄々としていて、心に染みるものがある。
 ディテールに妙味がある。作者は私より○歳若いのだが、同世代に近く、描写の一つ一つが、幼い日の生活と重なり合う。作者は子供の時代に、四角形に不思議を感じたくらいの人だから、幼少時に見たもの、経験したことなどが鋭い感受性で捉えられ、心に深く記憶され、それらが作品の中に生かされているのだ。中には同じ経験、似た体験をしながら、凡庸な私は、大方忘れ去っている。だが記憶の底には、共感できるものが、遠くに霞んで残っていて、小説を読むことで掘り起こされるのは楽しいことだった。一種の快感である。
 題名からも察しがつくように、背景には父の死があるわけだが、その死の捉えかたにも作者らしいものがある。あえて「消える」と表現するところに。父は行方不明になったのではない。むしろ消えるように幸せな死を迎えたのだ。紆余曲折の人生ではあったようだけれども。
 この小説は、主人公が、教え子の、今は雑誌社に勤める馬場君と、「都営八王子霊園」を見に行く形で話は進められる。その過程で、眼に触れるもの、心に思い浮かぶことを通して、主人公とその家族の人生が書き込まれてゆく。短編でありながら、大作を感じさせる作品だ。登場するのは、戦前戦後の時代を生きた、どこにでも存在する人々だが、作者の感性を通して、人物の姿が生き生きと描かれている。
 クスクス笑ったり、ウン、そういうことですよねと頷いたり、馬の糞の話から「馬糞紙」という言葉が出てくると、今は死語になったかと思われる言葉に懐かしさを覚えたり……、読書の醍醐味を存分味わうことができた。

 一度読んだ小説をほぼ忘れてしまう恐ろしさ。これも老人力!
 忘れるために読む、それって無駄なこと? とも考えるが、読む瞬間、その時に何らかの感動を覚えるだけで、いいのかもしれない。いずれ消える命。今を楽しみつつ、読んだり書いたりしてゆくことにしよう。

 全集に載っている尾辻克彦の年譜(作者自身作成)も、念入りに読んだ。ここにも読ませる力がある。ただしこの年譜は、<昭和五十七年十月、記>とあり、この年譜では、その後二十余年についての詳しいことは分からない。その間、私にご縁があったのは、「老人力」と「四角形の歴史」の二冊の本ということになる。

 余録
 年譜の昭和四十四年(一九六九)欄に、<九月、時評的文章とイラストレーションによる「現代野次馬考」を『現代の眼』に連載(一九七二年五月まで)。>とあるのを見て、私の持っている『現代の眼』を本箱の奥から探し出した。
 二冊出てきた。
 一冊は、一九六六年七月号。したがって、尾辻克彦氏の作品が掲載されているわけはない。実はこの号には、私の随筆が掲載されている。勤めの傍ら、地方の文芸誌に作品を書いていた時期がある。その当時、『現代の眼』の編集者?(故南坊義道氏)に勧められて書いたもの。こんな時もあった、と往時を懐かしみながら、古びた雑誌を眺めた。定価が150円とある。
 もう一冊は、一九八三年二月号。定価も550円となっている。この雑誌がなぜあるのか、暫くは分からなかった。ゆっくりページをめくっていると、南坊義道氏担当の記事があり、そこに私が地方の文芸誌に書いたエッセイ「カーキ色の哀しみ」についての評が載っているのだった。
 遠ーい、遠ーい思い出である。
  

 
 

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流鏑馬神事

2006-04-16 | 身辺雑記

 初めて「流鏑馬」というものを見た。(津和野町鷲原八幡宮にて)
 この町で復興再開されたのが、1976年、三十年前だという。私は、あまり予備知識のないまま、お祭り(?)に参加した。
 どこでも、いつでも見られるというものではないから、観光バスで、遠路訪れている客も多かった。
 折りしも、鷲原公園の桜は満開。

 古式ゆかしい装束の人々によって、お祭りは進行する。
 馬上の人は、馬を馭して走りながら、三箇所に置かれた的をめがけて矢を放つ。的は方形の板で出来ていて、射抜かれると、小気味よい音を立てて射落とされる。成功すると、観衆から拍手が起こる。全部命中すれば「皆中」というのだそうだ。しかし、中にははずれの矢もある。観衆は陣取った位置から、馬場の全体を見ることは難しいので、音によって、中り、はずれを察知しなくてはならない場合もある。

 馬が駆け抜けるときの樋爪の音、射手の掛け声(<陰>と<陽>の二字が独特な節回しで叫ばれているのだそうだ)、矢が的板を射抜く音、それに続く喚声は時に拍手を伴い、時に落胆のため息を伴うのが面白い。
 思いの外静寂な雰囲気の中で、「流鏑馬」の場でしか味わうことのできない音の交錯を楽しんだ。

 馬上の射手は、皆堂々としていたが、馬を馭し、走りながら的をめがけて矢を放つ技は、相当訓練を要すことなのだろう! 私には神業のようにさえ見えた。

 四月の第二日曜日のこと。

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菜の花

2006-04-15 | 身辺雑記

 菜の花は、幼い日への郷愁を誘う花――
 黄に燃える花の風情は、
 華やかなのに、
 どこか寂しげで。

 菜の花を眺めていると、
 お花畑に、
 頼りなげで、
 心細そうな、お河童の少女が佇む。

 それは、
 遠い、昔のわたし。

 
今年の菜の花は、美しさが格別だったような気がする。しかし、なかなか気に入ったシャッターチャンスに巡りあえなかった。やっと「菜の花畑」らしい黄の群がりにあえたのが、岩国の吉香公園。
 この時も、黄一色のお花畑に、なんだか自信なげに、幼いわたしが佇んでいた。

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会津八一の歌

2006-04-15 | 身辺雑記

 4月14日 岡井隆編「集成・昭和の短歌」(小学館)
 会津八一(1881~1956) <来嶋靖生選>より
 
 
この歌人の歌に接する機会は今まであまりなかった。「集成・昭和の短歌」で取り上げられた多くの歌は、すべて平仮名(表音文字)で書かれている。漢字(表意文字)を織り交ぜた文章に慣れてきた者には、大変読みづらい。文語表現も多く、音読しながら、躓いてしまう歌もあった。それでも、読み進めていくうちに、次第に作者の顔が見えてくる。会津八一ならでは精神的世界も理解できる。
 気に入った幾首かを書き留めておこう。

ほほゑみてうつつごころにありたたすくだらぼとけにしくものぞなき
たびびとのめにいたきまでみどりなるついぢのひまのなばたけのいろ
おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ
あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ
みやじまとひとのゆびさすともしびをひだりにみつつふねはすぎゆく
                                   (以上、「鹿鳴集」より)
まちゆけばばうくうごうのあげつちにをぐさあをめりあめのいとまを
よみさしておきたるきぞのふみさへもつちのぬくみともえさりにけり
やまばとのとよもすやどのしづもりになれはもゆくかねむるごとくに
あひしれるひとなきさとにやみふしていくひききけむやまばとのこゑ
ひとのよにひとなきごとくたかぶれるまづしきわれをまもりこしかも
うゑおきてひとはすぎにしあきはぎのはなぶさしろくさきいでにけり
ちちわかくいませるころもほたのひはいまもみるごともえつぎにけん
あなごもるけもののごとくながきよをほたのほかげにせぐくまりをり
                                   (以上、「寒燈集」より)

 別の蔵書『日本名歌集成』によると、<八一は、昭和二○年、東京で戦災に遭い、病中の養女きい子とともに帰郷、西条村の村はずれの荒廃した観音堂に移り住んだ。きい子は、二○歳から一四年間、独身の八一の身辺を支えた。疎開後病勢が進み、観音堂で死去。>とある。
 このことを知って読むと、
赤字の歌の心情を一層深く味わうことが出来るように思う。

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今日から開始 読書メモ

2006-04-13 | 身辺雑記

 唯一の財産は「書物」といえるほど、長年にわたって本を買いすぎてしまった。今や身軽になりたくて、少々もてあまし気味である。少しずつ処理することを考えようと思いながら、一向にはかどらない。新聞雑誌類を資源ゴミとして出せる日に、ひと束ねずつでも、と思ってはいるのだが……。
 手にとって見ると、そう簡単にはゴミに出来ない。愛着があったり、買っても読む暇なく、新書のままに古びさせた本もあったり。そんな具合で、即座に廃品には出来ず、また書棚に返す始末。
 その上、現在も購入癖はおさまらず、書店で読みたい本を見つければ買ってしまうし、インターネットで注文する本も増えてしまった。(ただ昔と異なるのは、購入したら必ず日を置かず読了することと、読まないかも知れぬ本は買わなくなった点である。)
 どんなに長生きしても、書斎の本を読み終えることは出来そうにもないが、一日に僅かずつでも楽しむ読書をし、過日開始したばかりのブログに投稿することで、記録にも留めておこうと思う。前置きは以上。

 4月13日 岡井隆編「集成・昭和の短歌小学館)
 窪田空穂(1877~1967) <来嶋靖生選>より

 
筆者の生没年を見るだけで、その人の人生の一部はおのずから見えてくる。心に響く歌が沢山あったが、その中から、関東大震災の経験によって生まれた歌戦争で子息をなくされ、深い悲しみの漂う歌、その他、身辺雑詠の中から印象に残った歌など、メモしておくことにする。

焼け残り赤き火燃ゆる神保町美崎町ゆけど人ひとり見ず
とぼとぼとのろのろとふらふらと来る人らひとみ据わりてただにけはしき
深溝におちいりて死ねる小き馬たてがみ燃えし面を空に向けて
妻も子も死ねり死ねりとひとりごち火を吐く橋板踏みて男ゆく
時計台残りて高し十二時まへ二分にてとまるその大き針

わが手紙返りきたりぬ便りせぬわが子の兵やいづちへ行きし
親ごころおろかしくして必ずや生きて還ると頼みたりしを
まさやかに眼にうかび来る事どもの次ぎ次ぎありて茂二郎生く
膝すぼめからだ真直に碁盤を見石置くとせぬ茂二郎見ゆ

面白き何物もなし本読みて人の心に触れつつ生きむか
弥勒仏あらはれまさむその日までただに独をつつしみて居む
人避けてひと日ををれば午過ぎて歌ごころ湧けりよしやひとりは
鳳仙花ちりておつれば小き蟹鋏ささげて驚き走る
低き星高き星とのへだたりの明らかに見ゆ緑の空に
春山のむらさき帯びてにほふ上に雪にけはしき常念が岳
たふとめる物の一つを胸にもち生くらくわれのさびしとはせず
顧みて愧づる心のなきにあらねさもあらばあれあるに任せむ
百日紅真紅に咲ける花むらのありてうつくし秋づける庭
生を厭ふ身となりたりと呟けば哀しき顔して妻もの言はず
日本人は日本の花をみな好む木花草花花ならぬ花

 以上は、多数の歌から、好みの歌に●を付け、更に精選してを付けた歌。

 

 

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隠れ左利き

2006-04-11 | 身辺雑記

 身体上のことで、私にとってはいささか驚きに近いことを、テレビを見ていて知らされた。ほとんど偶然にしか見ない番組なのだが、お昼の休憩中(? 一日中が休憩時間のような暮らしではあるけれど)に、みのもんた氏司会の放送に眼が留まった。
 自分は右利きだと信じている人のうち、40%が「隠れ左利き」だというのだ。
 それは両手の指を組み合わせる時、左右どちらの親指が上にあるか、また腕組みをするとき、左右どの腕が上に来るかで判断できるのだという。
 私の場合、いずれも左が上。私が「隠れ左利き」であるとは!

 器用と不器用で、人間それぞれの一面(特に手先のこと)を分類するとすれば、私は不器用な方だと信じている。この不器用さは父から受け継いだものだとも信じている。器用さという点が母に似ていれば、随分得した面があると、長じてからよく思ったものだ。手仕事をする時、私は遅鈍だし、出来栄えのいいものを作ったためしがない。幼かった日には、母は私の頼りなさを見かね、非難めいた一言もなく、ただ黙って、折々手を添えてくれたものだ。
 小学校の家庭科の時間に、ボタンの穴かがりがうまく出来なかったことなど、今でも心の片隅に、悲しい思い出として残っている。

 利き手の右が不器用な上に、左手など、あって無きがごとき存在だと思い込んでいた。事実、役に立たない。
 今年のお正月に、ひどい風邪をひいてしまった。食欲がなくなり体重が3キロ減少した。風邪は長引き、12ヶ月のうち、1ヶ月をまるまる損したような気分だったが、2月に入ったところで、気分一新体力づくりから始めた。長く眠っていた器具を取り出し、ダンベル体操を開始したのだ。ところが間もなく、右肘を傷めてしまった。
 僅かな損傷でも、不自由千万。少しでも早くよくなりたい一心で、通院を始めた。3週間、根気強く治療を続けたが、完璧にはよくならない。少しは改善されたので、今は自然治癒力にすがって快癒の日を待っている状態だ。
 この間、私は随分左手の活躍を期待した。ところが左手というのは、全く役に立たなかった。左手に箒を持たせても、ゴミを掃き寄せることが出来ない。はたきを持たせれば、障子に穴を開けかねない。上手に出来るのは、お茶碗やコーヒーカップを持つことぐらい。左手に期待するのは無理なこと、私は本来右利きだからしようがない、と諦めていた。
 ところが、今日の番組を見て、悪いのは左手ではなく、私自身らしいと悟ったのだ。「隠れ左利き」である以上、左手自身が、自らを生かしうる能力を潜在させているということなのだろう。それを発揮させるよう、今まで使ってやらなかった私がいけない! 馬鹿にしてきた左手に、謝らなければならないのは、どうやら私の方らしい。

 「左右学」という言葉があるようだ。バランスよく、左右を生かして使うことは、健康のためにも大事らしい。
 諦めていた左手をこれからは意識的に使うことにしよう。不器用この上ないことに苛立たず、辛抱して左手に付き合ってゆこう。
 「君、頼みますよ!」と言いつつ、右腕で、ぽんと左腕を叩いた。右肘に痛みが走った。しかし、ひと月前に比べれば、ずっと軽い痛みだ。そういう大胆な動作が無意識に出来るようになったのも、快癒近し、ということだろう。

 目にも耳にも、利き目利き耳があるらしい。
 節穴など覗く時、私は左目で覗く。
 受話器を耳に当てる時、私は左耳に当てている。
 意識して、反対側も使うようにすることが、いいらしい。
 

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漢字力

2006-04-10 | 身辺雑記

 「」―この漢字の音と意訓について、どの程度の人が、辞書に頼らず解答できるのだろうか。
 漢字力の乏しい私は、先日岡本太郎の「芸術と青春」を読んでいて、初めてこの漢字を含む「嫩葉」という言葉に接した。(或いは書物の中で幾度か接していても、無意識に見過ごしていただけなのかもしれないけれど)
 「どんよう」とルビが振られていて、音読みが「どん」であることを知ったのだった。
 意訓の方は、わけなく想像できた。というのは、日本文の中で意識的に、この漢字と出会う以前に、中国語の方で勉強済みだったのだ。「嫩叶」( nen ye)や「嫩芽」( nen ya)という語は、それぞれ「若葉」「若芽」の意味であると。
 中国語の学習は、全くの独学なのだが、日本の現代文ではあまり使わない難しい漢字が折々登場する。そこで、便利な電子辞書を使って、「漢字源」へジャンプし、ついでにその音訓を確認することがよくある。

 岡本太郎は、1911年生まれ。同世代の知識人は、「若葉」と表現するとき、書き言葉では、「嫩葉」を用いるのが、ごく普通のことだったのだろう。「広辞苑」にも載っている言葉なのだから。
 だが「若葉」のことを「嫩葉・どんよう」と言ったのでは、語感上、みずみずしい美しさに欠けるような気がする。これは私だけの感覚だろうか。まだしも中国語の「nenye」(ネンイエ)の方が、語感的には美しい気がする。

 私の漢字力のなさから生じた、ささやかな感想を記してみた。
 漢字力はないのだが、漢字は、表現の具として大切に思っている。

 

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2006-04-10 | 身辺雑記

 枕元で囀る鶯の声を聞きながら、私は亡き人の声を同時に聞いていた。
「○○ちゃん、朝だよ。そろそろ起きよう
と、呼びかけてくださっているのだった。

 新井満氏の「千の風になって」(著書及び曲)が、大切な人との永訣の日以来、どんなに私の心の慰めになったか知れない。その悲しみの冬から、三度目の春を迎えた今も。
 その詩の二連目には、
  (この世の者でない私は、)
    秋には光になって 畑にふりそそぐ
  冬はダイヤのように きらめく雪になる
  朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
    夜は星になって あなたを見守る
と詠われている。
 亡き人は変幻自在に姿を変え、<千の風になって>、私を見守り続けてくださっている……、その思いは今も変わらない。

 この春、鶯の初音を聞いたのは、三月上旬のことだった。遠い山や森からその声は届いた。やがて、次第に囀りが近づいて、ある朝、枕元で鳴いたのだ。初めは距離感を計ることが出来なかったが、間違いなくすぐ傍の椿の木か山茶花の茂みに身を潜めて歌っているに違いない、と思えるようになった。
 そんな折、近所の方に、
「お宅の庭に鶯が来ますね」と言われた。どの木で囀っているのかわからないけれど、一度空中に飛び立つ姿も目にしたと。
 私が間近に、鶯(亡き人)を感じたのは間違いではなかったらしい。その朝以来、数度鶯はやってきて、高音の美声で私の心に語りかけた。


 鶯には特別の思い出がある。
 私が亡き人と一緒に過ごしていた十年ほど前、洋間の窓辺に植えられたウバメガシの木に、鶯がやって来ては囀った。
 初めに飛来したのは、メジロ数羽だった。餌を与えてみようと話し合い、木の枝にご飯や果物を置いてみた。
 メジロは可愛い鳥だ。辺りを警戒しながら餌をついばむ姿は愛らしい。そんな他愛無いことを楽しみあっていたある日、予想もしなかった鶯がやって来たのだった。図鑑や辞書では、その姿を知っていたが、実際に自分の眼で鶯を見るのは生まれて初めてのことだった。囀りの美しさには似ず、醜いというのではないが、その姿の、意外に地味なのには驚いた。が、近くで聞けば聞くほど、やはり囀りの美しさは格別だった。
 餌作りは、私の、早朝の日課となった。作った餌が、鶯やメジロに食べられるのは嬉しい。ところが油断すると、やや獰猛で食い意地の張ったヒヨドリがやって来て、体躯の小さなメジロや鶯を追い払い、たちまち餌入れの器を空っぽにしてしまう。ヒヨドリを見つければ、二人は追っ払うことに懸命だった。
 威張っているのはヒヨドリ、次いで鶯、メジロは一番弱者であった。

 過ぎし日を思い出し、先日、裏庭の椿の木にリンゴをぶら下げてみた。果たして、鶯は餌をついばみに来てくれるだろうか。姿は見られなくても、窓辺近くやって来て美しい声で囀り、餌をついばんでくれたらいいのだが。
 すでに数日が過ぎたが、餌はそのままだし、鶯の、枕元への訪問もない。
 鶯の居場所が、里から山へ移動する時期に来ているのだろうか。それでも、遠くで囀る鶯の声は、今日も聞くことが出来る。
 私はその声に耳を傾ける。そして、かつてウバメガシの枝から枝に身軽に飛び交っていた鶯の姿を思い出しながら、パソコンの画面に下手な絵を描いてみた。スケッチの才に長けていた亡き人は、「お世辞にも褒められないな」と、きっとおっしゃるに違いないと、自ら苦笑しながら……。
 

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