ぶらぶら人生

心の呟き

<しみじみ味わう>

2010-11-27 | 身辺雑記
 斎藤孝著『声に出して読みたい日本語』は、どこからでも読み始められる楽しさがある。
 今日は、その②<四、しみじみ味わう>の章を読んだ。
 取り上げられた詩文は声を出して読み、それに添えられた、1ページほどの解説文を読む。

 この項は、周知の作品ばかりであった。

  中原中也「汚れつちまつた悲しみに…」
  蓮如『五帖御文』<白骨の章>
  石川啄木 短歌5首
  山上億良 「子らを思へる歌」
  八木重吉 「草に すわる」
  西條八十 「かなりや」
  「あおげば尊し」

 「かなりや」と「あおげば尊し」は、声に出して唄ってみる。
 「かなりや」を唄いながら、子どものとき、家にあった蓄音器を思い出した。「かなりや」も、レコードで聞いて覚えた歌である。
 「あおげば尊し」を唄うと、来し方に出会った師のお顔が脳裏に浮かんだ。
 小学校の1年生から、大学を卒業するまで、様々な個性をお持ちの先生方にめぐり合った。
 今も健在なのは、小学校の5、6年のとき、担任していただいた先生だけである。枚方市にお住まいなので、一度出かけてお会いしたいと思いながら、賀状の挨拶だけで60余年が過ぎた。
 他の先生は、すべて鬼籍に入られた。
 「あおげば尊し」を唄うと、ひとりでに涙ぐんでしまう。
 唄って涙する歌は、そう多くない。

 蓮如の御文書<白骨の章>は、宗教心の乏しい私だが、時に仏壇の前に座って唱えるので、おおよそ諳んじることができる。
 冒頭の<夫(それ)、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。>の言葉に、人間のはかなさを自覚しながら…。

 今日は、八木重吉の詩に、関心を抱いた。
 そして、しみじみ味わった。
 八木重吉の詩は、平易なことばによる短詩が多い。
 「草に すわる」も、例外ではない。

  わたしのまちがいだった
  わたしの まちがいだった
  こうして 草にすわれば それがわかる

 1、2行は、同じ言葉を繰り返している。
 しかし、2行目は、<わたしの>の後に、1字分の空きがある。それは意味のある、作者の意図的な空白である。作者は、自ら納得するかのように、自分の間違いに頷いている。草に坐って。
 短い詩であるけれど、詩人の姿も内面も、容易に想像できる。

 考えてみると、人生のいろいろな場面で、大なり小なりの、様々な間違いを繰り返してきた。自分の非にうすうす気づいても、どこかで自分をごまかし、間違いを間違いとして自己肯定することを拒んだりして。
 わずか3行の詩が、あなたの生き方は? と、しみじみ問いかけてくる。

           × × × × × × ×

 25日、歯科の定期検査を受けに出かけようと、準備をしているとき、腰の辺りに不愉快な痛みが走った。歩けないわけではないので、予約日を変更せずに、ゆとりをもってバス停に向かった。小走りなどしなくてもいいように。
 歯科医院の入り口に、菊の鉢がいくつも並んでいた。バッグにカメラを入れ忘れ、見事な咲きぶりを記録に留めることができなかった。携帯のカメラで撮ってはみたが、大輪の菊が、うまく収まってくれなかった。
 腰をいたわって、タクシーで帰る。
 
 昨日も、郵便局に出かけただけで、終日、おとなしく暮らした。
 体のどこかに違和感があると、すべての生活が無気力になる。

 今日は、腰の調子がほぼ平常に戻ったので、快晴の庭に出て、日差しを楽しんだ。
 この時期は、赤い実が目立つ。庭の万両、藪柑子も、赤く熟していた。
 妹が植えてくれた<フユシラズ>の花が、ひとつ咲いた。

          万両(マンリョウ) 

          藪柑子(ヤブコウジ)

          フユシラズ 
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