昨日は、<一日労働者>になった。
朝から、家の内外の掃除をしただけのことであるけれど……。
しかし、私にとっては、かなりの労働であった。
長い間、動かしたこともない洋間の大小のソファを移動して掃除をしたり、萎れ始めた紫苑を鎌で刈ってみたり……。
掃除というのは、し始めるときりがない。
明日のない人間のように働いて、夕方にはぐったりした。
私は、実に要領の悪い人間だとつくづく思う。
大邸宅ではないのだから、もう少し計画的に、自分の力を慮って、計画性をもってやればなんということはないのだ。それができない。
草を刈るとき、背筋を痛め、どうなることかと思ったが、今朝起きてみると、意外に痛みは薄らいでいた。それより、平素使わない筋肉を労働のために使ったらしく、身体のあちこちが痛む。明日になれば治るだろうけれど。
昨日は労働(掃除)が、今日は髪のお手入れが、一日仕事となった。
昨日、働きすぎた疲労もあるのだろう。今日は心身ともに、快調とはいかなかった。
パソコンを開くのも、夜になってしまった。
今朝カレンダーをめくり、捨てる前に、16日分に記載してある印刷文を読んだ。
<悲しみ苦しみは人生の花だ>
と、記してある。
坂口安吾の言葉である。
読みつつ、そんな生き方は、私には至難のことだなと思った。
悲しみは悲しみ以外のなにものでもなく、苦しみは苦しみ以外のなにものでもない。悲しみや苦しみを人生の花に昇華するなどでっきこない、それが朝の感想だった。
夜の今も、その思いに変わりはない。
安吾の言わんとすることは、理解できるけれど。
この人生訓は、何に出ているのだろう?
坂口安吾と言えば、「堕落論」「白痴」くらいしか読んでいないのでは?
書棚から、文学全集を取り出して、ぱらぱら拾い読みをしてみたけれど、そんなことで、日めくりカレンダーに出ていた言葉が見つかるわけはない。
ふっと『日本名言名句の辞典』(小学館)には出ているかもしれないと思い、<作家作品別索引>で調べてみ。
坂口安吾の言葉は、かなりたくさん載っていた。
もちろん、前記の名言も。
出典は、『悪妻論』(昭和22年)ということも分かったが、私の持っている坂口安吾集の中にはその作品がない。
どういうくだりに、その名句が出てくるのか、今は調べようがない。探してまで読もうという気はないけれど、何かの弾みで『悪妻論』に出会えたら、読んでみようと思っている。
夕刻、家に帰ってみると、今朝はまっすぐ立っていたコスモスが、お辞儀の形をして、私を出迎えてくれた。<お帰りなさい>と言わぬばかりに。(写真)
今年も、ATさんから、実のついた一枝をいただいた。
それは、<テリハバンジロウ>の小枝。(写真)
花瓶に挿して眺めている。葉と実の彩を楽しみながら。
実りのプロセスが一枝の中におさまっていた。熟した赤い実から、半ば色づき始めたもの、更には緑色の実まで、
葉が艶やかなところから、<テリハ>の名を持つらしく、ネットには、漢字で、「照り葉蕃柘榴」と書いたものもあった。
英語名は、「strawberry guava (ストロベリー グァバ)」というらしい。
箱に入れられて、塾した実も、添えてあった。
酸味のある甘い実を美味しくいただいた。
秋の味。
庭のツワブキが咲いた。13日の夕べの庭に。(写真)
咲き方が、少し早すぎるのではないだろうか?
ツワブキ(石蕗)の花は、歳時記の上では<冬の季語>である。
ここ幾日も続く秋日和には、いささか不似合いな気がする。
中・高校生のころ、日本海の海沿いを走る山陰本線の列車に乗って、6年間通学した。車窓に眺めた、初冬の寒風の中に咲く、あの黄色い花こそが、私にとってのツワブキなのである。
心身共に軟弱な私であったが、この花の咲くころは、ツワブキに励まされるように、意志強くありたいと念じた。
「この花の如く……」と。
近年、ツワブキの咲く時期が早まっているように思うのは、私の個人的な思いであろうか?