ぶらぶら人生

心の呟き

京都の旅 5 平安神宮の紅枝垂桜 ②

2008-04-18 | 旅日記
 平安神宮の神苑は、四つのエリヤからなるという。
 友人と歩いたコースが、どこをどう歩いたのかよく分からない。大方の人が歩む方角に向かって、苑を巡ったのだと思う。

 途中には、春の七草が植えられていたり、池があって、湖面に映る眺めを楽しんだりもした。(写真)
 暑からず寒からずの、お花見日和であった。
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京都の旅 4 平安神宮の紅枝垂桜 ①

2008-04-18 | 旅日記
 京都には歳月を経た、古雅な歴史的な建造物の多い中にあって、平安神宮は思いの外、新しい建物であった。「平安」という言葉から受けるイメージが、私の心の中に、勝手に古風な印象を作り上げていたらしい。
 平安遷都1100年を記念して、明治28年(1895)に創建され、長岡京から平安京に都を移した桓武天皇と平安京の最後となった孝明天皇が祭られているという。
 新しいといっても、100年以上が経っている。
 明治の半ばに造られたことを考えると、やはりその規模の大きさに驚きを覚えた。

 平安神宮の桜は是非見たいもののひとつであった。
 谷崎潤一郎の小説「細雪」で、四姉妹が京都のお花見に出かける話に、最後はなんといっても平安神宮の桜と書かれていたのを思い出し、その見事さを自分の目で確かめたかったのである。
 「細雪」の書かれた時から、すでに半世紀以上が経っているのだから、その当時の桜ではないかもしれない。それでも、見事な華やぎは群を抜いていた。
 紅枝垂桜は、内に華やぎを静かに秘めて、自らの華やかさを誇張しすぎないところがいい。
 神苑の中に、どれだけの数の桜が植えられているのか知らないが、今、春という季節の華やぎが、みな、この神苑に集まったのかと思えるような美しさであった。
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京都の旅 3 哲学の道を歩く ③

2008-04-18 | 旅日記
 哲学の道には、桜は勿論だが、ミツマタ、ユキヤナギ、レンギョウなどの花々も、賑やかに咲いていて、目を楽しませてくれた。

 桜は<関雪桜>とも呼ばれるとか。
 疎水近くには、日本画家・橋本関雪(1883~1945)の旧邸宅「白沙山荘」が、記念館として残されている。疎水沿いの桜は関雪が植えたとも言われ、関雪桜と呼ばれるようになったらしい。
 桜見物が、主目的の旅だったので、<橋本関雪記念館>には立ち寄らなかった。

 哲学の道は、幾度散策してもよい。新緑、蛍、紅葉の季節、それぞれに趣を楽しむことができそうだ。
 再度、哲学の道を歩く機会に恵まれたら、記念館にも立ち寄ってみたいし、熊野若王子神社の御神木「梛(ナギ)」の古木にも会ってみたい。
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京都の旅 2 哲学の道を歩く ② 

2008-04-18 | 旅日記
 <哲学の道>は、銀閣寺から熊野若王子神社までの、疎水に沿った約2キロの小径をいうらしい。
 難なく歩ける道のりなのだが、途中、喫茶店を見つけて立ち寄った。
 その名は、「カフェ テラッツァ」。(写真)

 花吹雪を眺めながら、コーヒーをいただいた。
 <哲学の道>を思い出すとき、この喫茶店の雰囲気も蘇るだろう。
 旅のささやかな思い出として。
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京都の旅 1 哲学の道を歩く ①

2008-04-18 | 旅日記
 記憶がひどく薄れないうちに、旅の思い出を記しておこう。
 4月7日、京都に着いた日は、雨であった。
 見学は翌日からにしようと、到着の日は、早々にホテルに入り、寛いだ。

 8日、旅のスタートは<哲学の道>から。
 昨日の雨で、京都の桜はかなり散り始めた様子。お天気が回復したので、まずは<哲学の道>を歩こうということになった。
 京都に詳しい友人との二人旅。
 私は、随分昔、夏の季節にこの道を歩いて以来のこと、ぜひ今回の旅のコースに加えたかった場所である。

 銀閣寺前でタクシーを降り、桜並木の下を歩いた。
 <哲学の道>とは、少々いかめしい命名だ。京都大学の哲学者、西田幾多郎や田辺元氏らが、思索に耽りながら歩いた道、に因む名前のようだ。
 が、多くの人たちは、桜見物を兼ねて、ただ花の美に浸り、せいぜい儚く散る風情を、それぞれの思いで受け止めているくらいだろう。
 私も同様、今年の春を楽しんでいるに過ぎない。わが人生の、収拾のつかぬ思いを、いまさら掘り下げて考えてみようとも思わない。心を去来することといえば、混沌の思いを混沌のままに、人生の末路を歩んでゆくことになるだろう、といった思いを確認するくらいのことだ。

 桜は、満開のときを過ぎ、花吹雪の時期に至っていた。 
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