ぶらぶら人生

心の呟き

7月1日の風景 9 (ヒマワリ) <補 吉田秀和>

2007-07-02 | 身辺雑記

 昨日の散歩コースの二箇所で、ヒマワリの花を見た。
 一つは花壇に植えられたミニのヒマワリで、もう一つは畑の中央に植えられ、私の丈より高いヒマワリであった。
 丈こそ高いが、花は小ぶりで、沢山咲いていた。(写真)
 もっと大きな、お日様を思わせるようなヒマワリがいいと、けちをつけながら眺めた。

 向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ(前田夕暮)

 ヒマワリは、この歌のようでなくては、と思ってしまう。が、昨年もブログにそんなことを書いたような気がする。大きなヒマワリに会いたいと。しかし、そのチャンスはなかった。今年も、だめかもしれない。


 今回も、向日葵には関係のない話。
 N響アワーの時間に、ブルックナーを聴いたことは前回のブログに書いた。
 それを聴き終え、さあ入浴をして…、と思ったところ、テレビに、10時からの放映画面が出た。
 <「言葉で奏でる音楽」 吉田秀和の軌跡>
 と、題された番組。
 これは聞かなくては、とまたテレビの前に座りなおした。
 そして、感動の一時間半を過ごした。
 93歳でなお執筆活動も続けておられる吉田秀和という人の明晰な頭脳、表現力のすばらしさに、改めて心打たれ、氏の音楽評論の一部でも、読みたいと思った。膨大な全集など、いまさら読めはしない。せめて数冊。
 一、二冊は、私の書棚にありそうな気がして、放送終了後、本棚を探したが、すぐには見つからなかった。
 私の師が健在であった当時、幾度か吉田秀和について語り合ったことがある。そんな、とある日を思い出し、懐かしんだりしていると、テレビの吉田氏に、師の晩年の姿が重なり合ってしまうのだった。

 吉田秀和の話の中で、ピアニスト、グレン・グードルのことが語られていた。
 入浴後、私のCDの中から、ただ一枚だけ持っているグレン・グードル(バッハの数曲を収めたもの)を探し出し、そのピアノを聴きながら、就寝した。

 このところの、私の体調不良を妹が気遣って、朝、電話をくれた。
 そして、早朝の雷雨のひどかったことを話していたが、私は、朝の五時まで、白河夜船であった。
 

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7月1日の風景 8 (カンナ) <補 ブルックナー・尾高忠明>

2007-07-02 | 身辺雑記
 昨日の朝、散歩途中で目にしたカンナは、葉と茎の色が変わっていた。これは何色と表現すればいいのだろう? 
 草花舎の庭で、スモークツリーを初めて見たとき、なんと変わった葉の色だろう! と、驚いた。あの色に近いだろうか?
 ただ今、「大辞泉」のカラーチャートを開き、この葉色に近いものを探してみたが、ぴったりのものはない。あえて言えば、チョコレート色?
 花色は、黄色を帯びた朱色に近い。(写真)
 
 茎、葉の色と付き方、さらには花の色と形などの違いで、カンナの種類は、相当な数になるらしい。今は、ミニのカンナが出回っているとも聞いた。
 これから夏の間、いろんな場所で、様々なカンナに出会うことだろう。


 カンナの花とは関係ない余談。
 昨夜、N響アワーの時間に、尾高忠明指揮で、ブルックナーの交響曲第8番を聴いた。今までご縁のなかった指揮者であり、ブルックナーの曲であった。
 長く続いた蒸し暑さが、昨日はおさまり、心地よい気分で、夜のコーヒーを飲みながら、長大なブルックナーの曲を聴くことができた。
 かなり長い上に、楽しいともいいがたい曲だが、集中して聴くことができた。あるときは荘厳な雰囲気に浸ったり、あるときはもの悲しいような美しさにしみじみと聴き入ったり……。
 ブルックナーの名前は知っていても、どんな作曲家であるかは知らなかった。

 「ブルックナー,アントン(1824~1896)は、オーストリアの作曲家。交響曲とミサ曲の大家。オルガンの名手。徹底的にカトリック信仰に生きた音楽家。」
 と、私の持っている簡単な音楽辞典には紹介してあった。
 交響曲はベートーヴェン同様、九曲を作曲しているようだが、第1番の前に、実は未出版の2曲があり、あわせると11曲にのぼるという。
 昨晩聴いた第8番は、1984年9月4日、60歳の誕生日に作曲を開始し、1887年8月10日に完成したものだそうだ。
 聴き終わって、是非ブルックナーのCDを求めようというほどの熱意はもたなかったが、聴いている間は、いい音楽に浸り、満たされた気分だった。

 尾高忠明の指揮にも熱がこもっていた。
 指揮者であり、作曲家でもあった尾高尚忠(1911~1951)の次男。長男の惇忠は作曲家で、音楽一家らしい。 
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7月1日の風景 7 (ヒメヒオウギスイセン) <補 国吉清尚>

2007-07-02 | 身辺雑記
 私はこの時期、野に咲く朱色の花を見かけると、なんのためらいもなく、、ヒオウギが咲いてる、と思ってきた。つい先刻まで、その名を信じて疑わなかったのだが、念のため、ネットで調べてみたら、同名の植物には、いろいろな花色があり、花の形からみても、疑問が湧いてきた。
 が、調べ続けているうちに、私が野で見かける花と、ほぼ同じ写真をやっと見つけることができた。それには、「ヒメヒオウギスイセン」の名がついていた。私が勝手に、「ヒオウギ」といっている花の正式名は、「ヒメヒオウギスイセン」というらしい。
 夏の緑の野にあって、映える花だと思う。いかにも野生じみているが、気取りなく自然に溶け込んでいる。(写真)


 花の話ではないが、昨日、NHKの「新日曜美術館」を見て、感動した。
 沖縄の陶芸家、国吉清尚の作品を私は観たことがない。テレビの画面で紹介される作品には、陶芸および自分自身に対して、全く妥協することのない、作者の魂が投影されており、好き嫌いを超えて、感動した。
 テレビ番組の紹介欄に書かれた、
 <沖縄の土と炎と魂と>
 <沖縄の土に魂を刻む>
 <鬼才陶芸家>
 <勝つのは炎か器か・1300度の闘い・壮絶な人生>
 といった言葉を見ても、一陶芸家のゆるぎない闘いの人生を想像できる。
 なまっちょろい生き方に終始している私は、脳天に鉄槌を下された思いだった。自分にできない生き方だから余計に、心を打たれたのだろう。世の中には、すばらしい生き方で、人生を全うする人もいるのだ。その生き方に接し得ただけでも、今日は精神を純化された思いだった。
 国吉清尚の作品に接する機会があれば、陶芸に込められた魂に向き合ってみたい。
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