人間ってさ、本性のままにおいとけば、欲望に振り回されて、悪いことばっかりするじゃない。罪の子なんて言葉も聞いたことがあるんだけど、やっぱりそうなんじゃないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
性善説というのは、「人間は本来的に善い性質を持っている」という考え方です。「その善い人間が、さまざまな社会経験をするうちに毒され、悪いことをするようになったりもするが、もともと本来的には、人間は素晴らしい輝いたものなのだ」という考え方が性善説です。
一方、性悪説というのは、「人間はもともと、欲に振り回されるものである」という考え方です。「人間は、その性質のなかに、もともと悪を含んでいるのであり、放置しておくと悪くなるいっぽうであるから、教育や法律、さまざまな社会的規制によって、それを抑えて、よく訓練しなければならない」という考え方が性悪説です。
性善説は、人間を、「その本質において、仏の子としての性質を持っているもの」として見ようとする傾向があるのに対して、性悪説は、どちらかというと、「人間は、自然のままに置けば、野獣のようになってしまう。その野獣性から脱した常識ある人間をつくり出していくためには、教育なり、躾なり、さまざまな社会的鍛練が要る」という見方をしています。
この二つの考え方が、人類史において、消えないで永らく遣っている以上、人間というものを観察すると、その両面がうかがわれるのではないかと思います。
しかし、私は、人間が本質的に信仰心を持っているという点において、やはり、「人間の本性は善なるものである」と言いたいのです。(中略)
「信仰(信じて仰ぎみる)」という言葉が、「仏をめざして、弛(たゆ)まぬ努力をしていこう」という気持ちに立脚しているとすれば、私は、性善説を、「人間は、その本性の持っている方向性においては、善なるものを求めている」という考え方にとりたいと思います。
すなわち、「人は本来、生まれ落ちてより、信仰心なるものを持っている。人間を超えたる仏を請い求める気持ちを持っている。ところが、たまたま、家族による教育や、学校でのさまざまな学習において、それが否定されてしまったために、本来の信仰心がまだまだ充分に芽生えていない状態にある方が、数多くいるのである」というように考えたいと思います。
そうした方を目覚めさせるために、私たちは、幸福の科学という組織の活動を通して、日本全国で、あるいは全世界で、日々、種播きをしているのです。種を播き、水をやり、肥やしをやって、人々が心の奥底に持っている信仰心を育て、偉大なる大木へと育つように導いているのです。
(43~45ページ)
あえて性善説か性悪説かと問われれば、性善説こそがとられるべきである。
人間は、その本性として、善なる方向性を求めている。
人間を超えたる仏を請い求める気持ち、すなわち信仰心を持っている存在なのである──。
要するに、人間は、罪の子ではなく、仏の子であるってこと。
だからこそ、その本来もっているはずの仏に向かう気持ち(つまり信仰心)を芽生えさせ、目覚めさせるために、幸福の科学は、日々、地道な伝道活動をしているのだと私は思っているのです。
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『宗教選択の時代』
大川隆法著 |
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