ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



心があるなんて言われても、目に見えないじゃないの。そんなの脳の作用にすぎないんだから、実際にあるはずないでしょ。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 目には見えない、手には触れることのできない、「心」というものが、人間にはあります。自分にもあり、他人にもあります。そして、よくよく見るならば、次元は低いかもしれないけれども、動植物にも心は存在します。それに気づくということが、まずは悟りの第一歩なのです。もし、これがわからないとするならば、その人は、「まさしく機械の一部として生きている」と言われてもしかたがないと思います。
「なるほど、心とは難しいものなのだな」と思われるかもしれませんけれども、簡単にいうと、まずは「人間は幸福感というものを感じることができる。なぜ感じることができるのか」ということを、もう一度問い直していただきたいのです。
 たとえば、子供であれば、おいしいものを食べたら幸福になったり、親や先生から褒められたりしたら幸福になることもあるでしょう。でも、それはなぜでしょうか。
 たとえば、おいしいものを食べたら幸福に感じるのは、人間を機械の一部とみて、「一定のものを投入すると、その神経作用でもって喜びが出てくるのだ」といぅように考えるのでしょうか。もちろん、そういう化学的な作用もあるかもしれません。しかしながら、みなさんは機械が喜ぶのを見たことがあるでしょうか。たとえば潤滑油を注したら、「ああ、これで滑らかに走れるようになった」と言って、歯車が大喜びをするというようなことを聞いたことがあるでしょうか。あるいは、ガソリンを満タンにしたら自動車が笑った、というようなことを聞いたことがあるでしょうか。おそらくはないでしょう。それと一緒です。
 しかしながら、人間は喜ぶものなのです。なぜ喜ぶのでしょうか。そこに、「自分自身の求めていたものが満たされた」ということに対する認識、「求めていたものが得られるということは、うれしいことなのだ」ということに気づく心があるのです。それに気づかない者は、機械と一緒です。結果として、油を注せば滑らかになるだけのことで、それを感じとる力がないのです。感じとる力があるということは素晴らしいことです。感じとる力があるということは、感じとることのできる実体がその奥にあるということなのです。
 感覚器官は確かにあります。(中略)しかしながら、舌の感覚が、それを「おいしい」として伝えるのは、伝える相手がいるからなのです。いったいどこに伝えているのでしょうか、その喜びを、この快感を、快楽を、楽しさを、うれしさを、どこに伝えているのでしょうか。それをキャッチするものは必ずあるのです。
 感覚があるということは、感覚を受けとって、それを判断する先があるのです。同じ舌であっても、甘いものを嘗めればおいしいと感じる。酸っぱいものを嘗めれば酸っぱいと感じる。塩辛いものは塩辛いと感じる。熱いものが舌に触れたら、火傷をして大変な苦痛がくる。そうした感覚を送っている送り手と、その送り先である受け手がいます。その受け手が、実は「心」といわれるものなのです。簡単にいえば、そういうことです。
(58~61ページ)

心を否定する人は、すぐ脳を持ち出します。

でも、その考え方というのは、大川隆法先生が教えておられるように、とても不合理で、非論理的な話ばかりです。

要は、〝見えないものは、あるはずがない″と言ってるだけなんじゃないでしょうか。

これを機会に、よくよく自分の頭で考えてみて、心はほんとにあるのだ、実在するのだってことを、ぜひとも腑に落としたいものだと私は思うのです。 

『心の挑戦』

大川隆法著

 

(↓ 更新の励みに、ブログランキングに参加しています。このアイコンを毎日1クリックすることで、応援していただけたらうれしいです!) 
ブログランキング・にほんブログ村へ

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 許される批判... 晩年を生きる... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。