ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「慈悲」って、ものすごく高い境地だって教えられてると思うけど、でも、よく分かんないなあ。「悲しい」って字がついてるけど、悲しいのかなあ。・・・なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『説法自由自在③ 真理の発見』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 慈悲の慈というのは恵みということです。それから悲というのは悲しみと書いてあります。なんで慈悲という言葉に悲しみという字がついているか。ほんとうに悲しいのだろうか。そういうことではないのです。それは、もちろん仏教のほうから出ていますけれども、奈良へ行けば東大寺の大仏、鎌倉に行っても大仏があります。ああいう大仏という姿でもって、神の姿、あるいは仏の姿を表わしているわけなのです。
 たとえば、地上から二十メートルもあるような大仏様からこの地上の人間を見たときに、その悲しみとか、優劣の気持ち、あいつが偉くなったとかならないとか、出世したとか、いい大学を出たとか、言い争っている地上の人間の姿はどう見えるかというと、ひじょうにかわいそうに見えると思うのです。ひじょうにかわいそうな気持ちになって、ああこういうことで苦しんでいるのか、と思うでしょう。
 ちょうど私たちが、蟻があっち行き、こっち行き、行きあたりばったりに動いているのを見て、かわいそうに思うのとおなじです。ああ、彼らはそういう試行錯誤をしないとまっすぐ進めないんだな、右にぶつかったら右曲がり、左曲がりして、どっちへ行ったらいいかわからない。私たちから見たら悲しいですね。
 そのように、慈悲というのは大きな、ずっとはるかに高い境地でもって人間を見たときの心なのです。愛の心であって、さらに高い愛の心、すなわち、「存在の愛」と私が呼んでいる段階に達した境地が慈悲の心であります。そういう境地になってくると、人と争う気持ちがだんだんなくなってくるのです。同じ土俵ではなくなってくるわけです。ですから、(中略)まず、みんなアラや欠点が見える段階は必ず通り越しますが、勉強したり努力したりするうちに、人の欠点がよく目につく段階を越えていったときに、人間は今度は単純になってくるのです。ひじょうに単純になってきて、人がよく見えてくるのです。ものすごく、いい人に見えてくるのですね。それは境地がだいぶ上がってきているのです。そういう境地までいかなければいけません。
 そうすると、あまりこだわりがなくなってくるのです。たとえば、この人、まだこんなことで夫婦げんかしているなあと思うけれども、たしかに自分もそういう経験があるし、だれそれさんのところもそうだったし、人間というのはそういうことはあるんだな。でもこの原因はこういうところにあるだろう。こういうところに原因があるけれど、まあいまの段階ではこれは解決できないだろう。一年ぐらいしたら。ういうアドバイスをしようかな──。そういう人は、こんなふうに考えます。
 ところが、そういう経験がない人はわからないので、あっちの味方になったり、こっちの味方になったりして、やいのやいの言って相手を責めるようなことを指導したりするようなことがあるのです。
(194~196ページ)

慈悲というのは、「存在の愛」、八次元の愛なのだと教えていただいてると思います。

それはたとえば、私たち人間が、蟻の動き回ってるのを見下ろしてるような感じで、仏さまが私たち人間を見て下さってる。そのときに感じておられるのが、「慈悲」なのだ、っていうこと。

なかなか難しいんだけど、少しでもその境地に近づいて行きたいものだと私は思うのです。

 

『説法自由自在③ 真理の発見』

 大川隆法著

 

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