夢七雑録

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東京の古民家めぐり・次太夫堀公園民家園(世田谷区)

2017-11-30 19:32:16 | 東京の文化財

成城学園前駅を南口に出て南に向かう。成城二の交差点を過ぎて右側の歩道を歩き、明正公園の中を通り抜け、成城三丁目緑地に沿って坂を下り、世田谷通りを渡る。喜多見大橋で野川を渡り、その先を右に入ると次大夫堀公園に出る。ここを左に入り、次大夫堀公園民家園の案内板を確認して、正門から民家園に入る。

この民家園では、江戸後期から明治にかけての農村風景を再現することを目的とし、その中核となる名主屋敷を、旧安藤家住宅主屋と旧秋山家住宅土蔵とで構成している。世田谷区指定有形文化財(建造物)の旧安藤家住宅主屋の旧地は、旧・多摩郡世田谷領大蔵村本村(現・世田谷区大蔵5)で、西方には永安寺、北側は氷川神社、南側は次大夫堀に面していた。創建年代は、安藤家が大蔵村の名主を勤めるようになった天保5年(1834)以降で、建物は順次整備されていったようである。民家園に移築された現在の建物は、明治28年に建てられた内倉も含めて、安藤家が繁栄していた明治中頃の姿に復元されているという。安藤家住宅主屋の屋根は寄棟造り茅葺で、現在は葺き替え工事が行われていたが、建物の裏側から内部に入ることは出来た。

安藤家住宅主屋は一部2階付平屋で、名主としての公務の場と生活の場を兼ねた八つ間取りの大形民家になっている。主屋の東側部分は名主役宅として使用され、玄関、仏間のほか、役人などの接客に使われた八畳の上座敷と十二畳の座敷、名主の執務室であった十畳があり、何れも畳敷きで役宅ならではの造作になっている。

一方、西側は安藤家の日常生活の場所であり、ドマ(土間)、囲炉裏を設けた板間のダイドコロ、ヒロマ、寝室として使われたナンドで構成されている。

世田谷区の有形文化財(建造物)に指定されている旧秋山家住宅土蔵は、旧・荏原郡世田谷領深沢村(現・世田谷区深沢6)にあった秋山家の、敷地内の土蔵のうち穀倉として使われていた一棟を民家園に移築したもので、茅葺屋根で漆喰塗りの初期の姿に復元されている。祈祷札墨書銘に文政13年(1830)とある事から江戸時代後期の創建と推定されている。

民家園には、昔の村で使われていた消防小屋と火の見櫓が再現されている。櫓の半鐘は宇奈根で使われていたものという。

世田谷区の有形文化財(建造物)に指定されている旧加藤家住宅主屋を見に行く。加藤家住宅は、旧・多摩郡世田谷領喜多見村(現・世田谷区喜多見7)にあった一般的な農家住宅で、間取りは田の字型とも呼ばれる整形四ツ間取り、屋根は茅葺になっている。この住宅は安政2年(1855)以前に建てられたと考えられているが、明治になって養蚕を始めた事などにより改修が行われ、ミソベヤも増築されている。

上の写真は、手前がヒロマで、畳をあげると炉が切られた板間になるらしい。その向こうが床の間を備えた上座敷、オクになっている。ヒロマの右側には囲炉裏のあるカッテがあり、オクの右側は寝室として使われていたヘヤになっている。

民家園では藍染も行っているらしく、土間には道具も置かれている。旧加藤家主屋の周囲を見て回ると井戸があり、屋敷神も再現されていた。

世田谷区の有形民俗文化財に指定されている旧・城田家住宅主屋を見に行く。城田家住宅があった場所は、旧・多摩郡世田谷領喜多見村本村(現・世田谷区喜多見4)で、次大夫堀公園の南にある知行院の斜め向かいにあった。知行院の東側には江戸から稲毛・登戸に向かう街道が通っていた。また、知行院の前の道は品川と府中を結ぶ道で、青梅から筏で多摩川を下ってきた筏師が帰りに使用したことから筏道とよばれていた。城田家があった場所は、喜多見村で最も賑やかな場所であったらしい。

城田家主屋の創建年代は弘化3年(1846)以前と考えられているが、当初から農家と酒屋を兼ねた建物であったらしい。城田家の間取りは、ザシキ、ナンド、ヒロマ、カッテから構成される食い違い四ツ間取りになっているが、ダイドコロを板間として張り出し、ドマを店として使うほか、せがい造りにより軒先を深く出して中二階を設けている。その部屋で、筏道を帰って来た筏師たちのために飲食を提供していたのだろう。

民家園の正門近くに、世田谷区の有形文化財(建造物)に指定されている旧谷岡家表門がある。旧・荏原郡世田谷領深沢村(現・世田谷区深沢5)にあった、谷岡家の表門を民家園に移築したもので、柱の墨書銘から天保9年(1838)に再建されていることが分かっている。この門は平屋建ての寄棟造り茅葺の建物で、正面に向かって右側をドジ(土間)と呼んで納屋として使い、左側の板間の方をクラ(倉)と呼んで穀倉として使用していた。もともと、ドジとクラは別の棟であったが、天保9年に、この二つの棟の間に門扉を設けて長屋門の形にしたということらしい。

民家園の正門を出て、次大夫堀の水路跡に再現された水路を渡る。江戸時代の初め、和泉で多摩川から取水し、六郷35ケ村に農業用水を供給する六郷用水がつくられたが、幕府の代官として工事を指揮した小泉次大夫に因んで、上流部では次大夫堀と呼ばれていた。次大夫堀は、安藤家、加藤家、浦野家の住宅の近くを流れていたが、今や次大夫堀も消滅してしまい、水路跡に昔をしのぶだけになっている。 

 


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