夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

半世紀前の旅の写真(3)

2011-10-30 10:10:56 | 古いアルバムめくり
 今回は、オリンパス・ペンで撮影した九州のカラー・スライドを取り上げる。

 次の写真は上から順に、建替以前の博多の駅ビルと飾り山笠、箱崎浜、それと芥屋の写真が2点である。




 次は呼子の写真で、上から順に、呼子の港、海釣り、七つ釜、名護屋城跡の写真である。




 次は佐世保近辺の写真で、上から順に、佐世保駅付近、佐世保重工業、水族館(現在は廃止)と西海橋、九十九島である。




 次は、武雄、嬉野温泉の轟滝の写真である。


 次は霧島の写真で、雨中のえびの高原の写真3点と、雨中の霧島神宮の写真である。




 次は桜島の写真で、上から順に、桜島への船の乗り場、桜島の袴腰、桜島の風景3点、そして最後に、桜島の全景である。







 ここまで、オリンパスペンによる写真を公開してきたが、今回をもって一区切りつける事としたい。
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半世紀前の旅の写真(2)

2011-10-24 19:17:43 | 古いアルバムめくり
 オリンパス・ペンで半世紀ほど前に撮影したカラースライドの中から、今回は、中部、近畿、中国地方の旅の写真のうちの一部を公開する。

 最初の写真は常滑市の写真である。メモ書きによると1962年7月の撮影である。

 次の写真は神戸の写真で、港の写真及びポートタワーの上からの展望写真である。





 次の写真は上から順に、原爆ドーム、牡蠣養殖、宮島口、宮島の写真2点である。






 次の写真は、錦帯橋、秋芳洞の入口、出口、そして秋吉台の写真が2点である。






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半世紀前の旅の写真(1)

2011-10-20 19:14:01 | 古いアルバムめくり
 オリンパス・ペンで撮ったカラー・スライドのうち、今回は、旅で撮った風景を取り上げ、その一部を公開する。当時は新幹線もなく、遠距離は夜行列車が当たり前、飛行機を利用する事も無かった時代である。旅行する機会も今ほど無かったが、旅に出かける時は大抵オリンパス・ペンを携行していた。オリンパス・ペンでカラー・スライドを撮り始めたのは1962年になってからだが、その後、カラーフィルムの価格が下がってハーフサイズのメリットが薄れたことと、一眼レフのニコマートFTを購入したこともあって、1965年頃を境にオリンパス・ペンの出番は無くなっていった。それ以来、オリンパス・ペンは、半世紀近くもタンスの隅に眠っていたことになる。

 旅先で撮った写真のうち、今回、取り上げるのは上信越の写真である。最初は軽井沢から志賀高原に出た旅の写真である。撮影年は1962年。上から順に、鬼押出の写真が2点、万座温泉の写真が2点、志賀高原の写真が2点である。






 次は信州の旅の写真で、上から順に、松本市郊外の入山辺の風景、松本城と松本の市街地、戸倉上山田の夕景である。




 次は佐渡の旅の写真である。上から順に、新潟港、佐渡島近く、七浦、尖閣湾、金鉱跡、相川、根本寺である。







 佐渡では観光バスを利用したが、その時にもらったソノシートが今も残っている。当時は道が狭く、バスも軒先ぎりぎりを慎重に通っていたが、広い道に出た途端、運転手が民謡を歌いだしたのにはびっくりした。それも、なかなかの美声だったのである。


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モノクロの風景・黒山三滝

2011-09-26 20:12:33 | 古いアルバムめくり
 オリンパス・ペンで撮ったモノクロの写真は他にも幾つか残っているが、今回は、その中から埼玉県の越生にある黒山三滝を訪ねた時の写真を取り上げる。撮影は1965年頃と思われる。黒山三滝は、荒川水系入間川の支流である越辺川の源流部にあり、高さ20mの天狗滝、10mの男滝、5mの女滝の総称である。この地は古くからの修験の場であったが、江戸時代、当地出身者により江戸に紹介されてからは、物見遊山客が杖を曳くようになったという。明治になると鉱泉宿が開かれ、文人も訪れるようになり、昭和25年には日本観光地百選の瀑布の部に入選している。現在の黒山三滝は東上線沿線の観光地の一つとして知られているが、全国的な知名度においては、いまいちかも知れない。


 
 上の写真は、黒山三滝の下車駅である、東上線の越生駅の写真である。




 上の写真は、天狗滝近くの沢の写真2点と、天狗滝手前の無名の滝の写真である。




 上の写真は天狗滝で、上から順に、滝の落ち口、滝の上部、滝壺である。




 上は天狗滝の上から撮った写真である。



 上の写真は女滝を撮った2点である。女滝の上の方に男滝が少し見えている。





 上の写真は男滝の写真4点である。









 上の写真は、途中の山里の風景である。

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50年前の秋保・松島・陸中海岸

2011-09-13 20:57:52 | 古いアルバムめくり
 オリンパス・ペンで1961年に撮影した、秋保、松島、陸中海岸のモノクロ写真が今も残っている。50年が経過して、変わってしまった風景もあれば、あまり変わらない風景もあるだろう。そして、震災のあと、今はどうなっているのか、気になる風景もある。

 最初は、秋保の写真7点である。上から順に、秋保の石切場の写真が2点、秋保大滝の写真が2点、磊々峡の写真が3点である。







 


 次の写真は松島の写真である。上から順に、塩釜港、松島への航路、双観山からの展望2点、雁金森付近からの展望2点、五大堂からの展望2点である。









 
 次の写真は陸中海岸の山田町の写真である。上から順に山田港、大浦への渡船、船から見た山田湾、小谷鳥海岸の写真2点、小谷鳥付近2点、ロラン局(現在廃止)付近から見た大釜崎近くの断崖の写真である。











 次の写真2点は山田線のSL貨物列車で、背景は山田湾と、船越半島の霞露ケ岳である。




 次の写真4点は、宮古の浄土ヶ浜とその近辺である。






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50年前の仙台の写真(2)

2011-09-08 20:26:59 | 古いアルバムめくり

「竜の口渓谷・太白山」

 竜の口渓谷は仙台城の南側にあり、長さ3km深さ70mに及ぶ渓谷である。この渓谷は化石の宝庫で採取に訪れる人もいたが、今は崩落も多く度々立ち入り禁止になっている。50年前は、崩落地一か所を除けば、他に荒れた個所は無く、比較的容易に通ることができた。なお、竜の口渓谷近辺の地形は現在と同じではない。

 当時、この渓谷を遡行した時に撮ったと思われる写真のプリントが今も残っている。ただ、元のフィルムを紛失しているため撮影順が分からず、撮影地も分からないものがある。下記の4点の写真は竜の口渓谷の下流部の写真と思われ、上から順に、渓谷入口の橋、入口付近の道、入口近くの青葉山側の絶壁、崩落地の写真である。竜の口渓谷は、入口から暫くの間は明瞭な道が続くが、渓谷が右に折れると道も細くなり、その少し先で落石が積み重なり倒木も重なった崩落地に出る。4番目の写真の撮影地は不明だが、この崩落地の上流側から撮ったのではないかと思われる。




 渓谷をさらに進むと八木山橋が見えてくる。八木山橋を過ぎると、進むにつれ谷幅が狭まっていく。やがて、右側から支流が流れ込んでくる。谷幅はさらに狭まり、屈曲する谷が続くが、そのうち、両側の崖が低くなり、谷は沢へと変わっていく。さらに進むと谷から解放されて空が広がるようになり、源流部の尾根筋が見えてくる。沢から離れ左に踏み跡を上がれば八木山から来る道に合する。
 
 下に示す8点の写真のうち、1番目は八木山橋を下流から撮ったものである。橋の手前の左側から滝が流れ込んでいた筈だが、この写真ではよく分からない。2番目は撮影場所不詳だが谷の幅から八木山橋のやや上流と思われる。3番目の写真も撮影地不詳だが、八木山橋の上流のように思われる。4番目は右側から合流してくる支流である。5番目の撮影地も不明だが、支流の合流点近くの谷と思われる。6番目の岩塔は、合流点近くの狭い谷でよく見られる形の岩塔である。7番目の位置も不明だが支流の合流点より上流の狭い谷と思われる。8番目は崖が低くなっているので、この渓谷の上流部の写真であろう。







 太白山に行くには、竜の口渓谷を経由せずに八木山を通って歩いていく方が遥かに楽である。この道を進むと、竜の口渓谷の源流部の尾根に出るが、この辺の地形が50年前と今では大きく異なっている。現在の太白区と青葉区の境界線を進むのが当時のルートで、亜炭の坑道の崩落現場に出る。その位置は、現在の東北工大のグラウンドの近くと思われる。下の写真は、その崩落現場で、遠くに見える三角形の山は太白山である。なお、亜炭は燃料としてのほか、仙台土産の埋木細工の材料としても使用されたが、現在は採掘されていない。

 ここから北へ尾根道を進むと、212.8mの三角点に出る。確か櫓のようなものもあったと思う。この三角点の位置は青葉台バス停の近辺と思われるが、三角点自体はすでに廃止されている。なお、現在の地形図では北側のゴルフ場付近に203.2mの三角点が設けられているが、この三角点も既に廃止されているらしい。さらに北に進むと、旧青葉山ゴルフ場(現在は廃止)の造成工事が進められていた。下の2点の写真は、オープン間際のゴルフ場を撮ったものであろう。


 ゴルフ場まで行かずに、三角点の少し先を左に折れ、鈎取山(金剛沢治山の森)に入って佐保山に抜けるのが、当時の太白山へのルートである。鈎取山一帯はかなり複雑な地形だが、それでも歩いていくうちに佐保山の集落の上に出る。下の写真は、集落の上から見た太白山である。太白山は標高321m。高い山ではないが、正規分布型の特徴ある山容を持ち、また伝説に彩られた山でもある。 

 当時は東北自動車道もなく、佐保山はまだ山村の雰囲気がただよっていた。鉄線が張られた急坂を上ると、岩石累々とした太白山の山頂に出る。周囲は雑木が茂っていて、思っていた程の展望は得られなかったが、木の間から下界を眺めることは出来た。

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50年前の仙台の写真(1)

2011-09-02 18:14:57 | 古いアルバムめくり
 オリンパス・ペンで1961年に撮影した、仙台のモノクロ写真が今も残っている。その一部は、当ブログの「竜の口渓谷から太白山へ」と題する記事の中で使用しているが、公開していなかった他の写真も含めて、今回まとめて投稿することにした。

「愛宕山・大年寺山・経ケ峯・青葉山」

 下の3点の写真のうち、上の2点は愛宕山近くの愛宕橋(愛宕大橋)の上流、愛宕山の下の広瀬川を写したもので、50年前には河原で牛が放牧されていたという証拠写真でもある。その下の写真は愛宕山から経ケ峯方面を眺めた写真である。



 次の2点の写真は大年寺山付近からの展望であり、上は北側の空き地から経ケ峯方向を望んだもの、下は西方を見た写真で、遠方に小さく見える三角形の山は太白山である。


 経ケ峯には瑞鳳寺のほか瑞鳳殿など伊達家三代の廟があったが戦災で焼失している。次の写真は、再建される前の、木の墓標が立っているだけだった頃の写真である。


 経ケ峯の裏手は広瀬川に面して崖になっているが、次の写真は、その崖の上から撮ったと記憶している。上は広瀬川を俯瞰したものであり、下は自動車教習所を手前に青葉山を望んだものである。


 次の写真は仙台城址から広瀬川沿いを俯瞰したものである。

 次の写真のうち、上は東北大学の植物園の写真であり、下は八木山の放送局の方向を見た写真である。




(注)8月31日の投稿で、仙台市街として間違った写真を使用したため、削除しました。
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みずがき山に登る

2011-08-13 09:14:35 | 古いアルバムめくり
 日本百名山の一つ、山梨県のみずがき山(2230m)に登ったのは、白馬岳に登ってから後のことであったと思う。この時、オリンパスペンで撮ったカラースライドが今も残っている。

 当時は増富までしかバスが入らなかったので、みずがき山へは増富から往復する事になる。橋を渡った先で朝食をとったあと、本谷川沿いに歩き始める。しばらく歩くと、谷が開けてくる。金山である。ここまで来ると、みずがき山の岩峰が見えてくる。


 川を渡って富士見平に向かう。展望台があり、みずがき山の全容が眺められる。富士見平までは、ピクニック気分で来られる道だが、ここから先は山登りの道になる。


 富士見平から樹林の中を天鳥川に下る。川を渡り、桃太郎岩という岩の傍で小休止する。ここから、みずがき山の山頂までは、直登、直登の可愛げの無い道が続く。

 カメラをリュックに入れ、ただひたすら登り、疲れ果てる前に何とか、みずがき山の山頂部に飛び出す。北には、姿も名前も優しげな小川山が見えている。


 みずがき山の頂上で昼食をとる。東側には金峰山に続く稜線が見える。頂上一帯の岩の間にはシャクナゲが点在している。開花期は見事なのだろうと思う。



 昼食を終え、頂上から大ヤスリ岩を見下ろし、それから、やおら、山を下り始める。上から見た大ヤスリ岩は、それほど大きさを感じないが、下山の途中、近くで見た大ヤスリ岩は、なるほど巨岩なのだと実感させられる。


 帰路は、来た道を戻るだけである。時々、金峰山を眺めながら、のんびり歩き、増富に着く。ここで登山者を待ち受けていたのは、小さいバスが1台だけだった。朝は、2台の大型バスで登山者を運んだのに、帰りは何でバス1台だけなのだと思いながらも、後続のバスは当分来そうもなく、仕方なくバスに乗り込む。明らかに定員オーバーとなったバスは、山路を右に左に曲がりながら走っていく。車内は満員すし詰め。身動きできない状態で、ただ耐える。山登りの帰りに、こんな難行苦行が待ち構えていようとは思わなかった。
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白馬・唐松縦走の思い出(2)

2011-08-03 19:43:46 | 古いアルバムめくり

 早朝、御来光を見るために白馬岳の山頂に上がる。やがて日の出。山荘から山頂まで、すでに行列が出来ている。右手、剣と立山の頂上一帯は、既に日差しの中にある。今日行く筈の縦走路の、その遥か先に姿を見せているのは、槍、穂高だろうか。

 遠くには、南アルプスの山々も姿を見せている。その左手に連なるのは八ヶ岳。そして、その右の肩から富士山が顔をのぞかせている。富士が見えると、何故かほっとする(上の写真はスライドの画面の中央部を取り出したもの)。不思議なものである。

 振り返ると、影富士ならぬ影白馬が出来ていた。その影の一辺が横切る、形のよい山の名を、その時は知らなかったのだが、毛勝三山というらしい。

 白馬山荘から暫らくは下りとなる。途中で振り返ると、小雪渓の上に白馬山荘、そのすぐ上に鋭角の白馬岳が聳えていた。

 白馬鑓ケ岳を望みながら、さらに下り、それから、杓子岳へと登っていく。ここまでの間、注意して渡る場所が一か所あったが、それ以外は、快適に歩ける道である。右手には剣岳が、日の光の中にその全容を現している。日差しは強く、思わずジャンパーを脱いでみるが、大気はまだ寒く、また着直す。もう一度、白馬岳を眺めてから、影の中の杓子岳の巻道をたどる。

 巻道を過ぎると、白馬鑓ケ岳への登りとなる。小鑓の上で小休止。紺碧の大空に向かって思い切り深呼吸する。小鑓からさらに進んで、白馬鑓ケ岳の山頂に上る。

 これから辿る予定の天狗尾根を見下ろし、その先の、唐松岳方面を望む。遥か先、かすかに槍や穂高が見えている。

 白馬鑓ケ岳を下り、鑓温泉への分岐に出る。ここから先、天狗尾根をゆったりと歩き、それから、一気に下る。不帰剣の入り口には、先行のパーティが小休止していた。こちらも、一休みして息を整える。

 不帰剣はこの縦走路の核心部にあたる。重いリュックに振られて落ちた人があったという話も聞く。ここからは、カメラもリュックに収め、ひたすら慎重に進む。不帰剣の足場はしっかりとしている。油断は禁物だが、注意して歩けば、見た目ほどの危険は無い。周囲を見回す余裕は無いが、慎重の上にも慎重に一歩一歩進んでいき、そして、気がつくと通り抜けている、そんな場所である。ただし、荒天の日には通りたくない場所でもある。不帰剣を抜ければ、後はのんびりと歩き、唐松岳を過ぎれば、今夜の宿、唐松山荘はすぐそこにある。予定より早めの到着である。

 唐松山荘は好ましい雰囲気の山小屋である。入口の鐘が印象的で、早速、写真に撮ろうとカメラを取り出す。その時になって初めて、フィルムが終わりになっている事に気が付いた。余分にフィルムを持参すれば良かったのだが、仕方がない。夕食まで時間があるので、山荘の近くを散歩する。ここにも、規模は小さいが美しい花畑がある。近くには雪田もある。山荘で使う水は、この雪を溶かしたものだという。唐松山荘にとって水は貴重品なのだ。しばらくして戻ると、山荘の人が「どなたか、ウイスキーを持っている方、居られないでしょうか」と聞いて回っている。何でも、ウイスキーを飲ませて欲しいという登山客が、約1名、入って来たらしい。山ではウイスキーも貴重品のようだ。

 翌日も晴天。名残惜しくはあるが、予定は変えられず、唐松山荘を出て八方尾根を下る。やがて、絶好の撮影ポイントである八方池。ケルンと池と白馬を、フィルム代わりに、頭の中に焼き付けて通り過ぎる。下るに従って、アルペン的風景は薄れていき、さらに下ると、周囲は普通の山になっていく。登山道のまわりの茂みを縄で囲った場所がある。マムシが居るらしいというので、急いで通り過ぎる。まもなく、ロープウエイの駅。しばらく休んでから、下界に下る。信濃四ツ谷駅に行く途中、見上げると、白馬の稜線に雲がかかっていた。「上は雨だな」と、誰かがつぶやいている。不帰剣で雷に遭遇したらどうなるのだろう。運を天に任すしかないのだろうか。ふと、そんな事を考えた。

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白馬・唐松縦走の思い出(1)

2011-07-31 09:18:32 | 古いアルバムめくり
 今は昔、白馬岳から唐松岳へ縦走したことがある。私の記憶もあまり当てにはならなくなっているが、多分、1962年のことではなかったかと思う。その時は、オリンパス・ペンにカラー・スライド・フィルムを入れて出かけたのだが、そのカラー・スライドが今も残っている。その画面を眺めていると、昔の事が少しずつ蘇ってくる。

 信濃四ツ谷駅(現在は白馬駅)から猿倉まではバス。身支度を整えてから、ゆっくりと歩き始める。快晴。白馬の山々が姿を見せている。夜行列車では、あまり寝むれなかったが、それでも、今の気分は上々である。1時間ほどで白馬尻に到着。白馬大雪渓は、もう少しのところにある。




 大雪渓の入口には、アイゼン貸し屋が待ち構えていた。折角なので、キャラバン・シューズにアイゼンを付けて登ろうかと思ったが、連れは付けないという。それならばと、こちらも付けずに登る。雪渓は思いのほか汚れているが、吹き下ってくる冷気は清々しく、気分がいい。この年、雪は例年より少なく、雪渓の一部は溶け始めているという。まさか、クレバスに落ちることは無いだろうが、落石には注意しながら、雪渓の中央を一歩一歩のぼる。両側の絶壁を覆う緑と、頭上の空の青が、想像していたより鮮やかに見える。



 大雪渓を過ぎ葱平に入る。やはり、歩くなら大地の上がいい。ここからは、お花畑が始まるが、花の名はさっぱり分からない。分らぬ花の横を、ただ黙々と上る。そういえば、バスを下りた時、ズック靴姿の登山客が居たが、彼も雪渓を上がったのだろうか。



 稜線が近づいてくると、まもなく小雪渓となる。横断には少し気を使うが、ここを過ぎてしまえば、今夜の宿、白馬山荘が間近に見えてくる。





 荷物を山荘に置いて頂上に向かう。山頂を目指しているのは我々だけではない。中には、せっかく解いた靴の紐を結ぶのが面倒なのか、紐を両手に持ちあげて歩いている者も居る。左手に西日を隠すかのように座り込んでいる山がある。その時は、雪倉岳と思い込んでいたのだが、本当は旭岳というらしい。すでに日は傾き、雲も出てきて、山荘の辺りは既に夕景になっている。白馬岳の頂上は東側が崖となって下界に落ちている。上から四ツ谷方面(白馬村)を見下ろし、それから、白馬大雪渓を俯瞰する。来た方を振り返り、杓子岳と白馬鑓ケ岳を眺める。その後ろに、霞んで見えるのは八方尾根だろう。

 白馬岳頂上に着く頃、黒い雲が近づいてくるのが見えた。「大丈夫ですかね」と、近くに居た人に聞くと、「そのうちワッサワッサと降ってきたりして」と言い、平然としている。白馬山荘はすぐ近く。雷は困るが、雨に濡れるぐらいは、大したことではない。この日の夕食は定番のカレー。これで十分である。夕食後、明日に備えて少しばかりの準備をする。白馬山荘には個室もあるという。ズック靴で登ってきた登山客も、今夜は個室泊まりにしたらしい。こちらは、一人分のスペースを断固確保する事に専念する。やがて消灯時間。何も考えずに、ただ眠る。


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