夢七雑録

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山本有三記念館と古瀬公園

2015-05-23 08:28:06 | 公園・庭園めぐり

(1)山本有三記念館

三鷹駅から玉川上水沿いに風の散歩道を10分余り歩くと、山本有三記念館に出る。三鷹市下連雀2-12-27。洋風建築の記念館は柵の外からも見える。記念館の入館は有料だが、庭園だけなら無料である。この土地と建物の最初の所有者は、日本電報通信社(現在の電通)の部長から東京高等商業教授に転じた清田龍之介で、土地は大正7年に取得している。当時、一帯は雑木林の広がる別荘の適地であったから、別荘地としての購入だったかも知れない。しかし、関東大震災後の大正15年、清田は完成した建物に移住している。昭和11年になると山本有三がこの土地と建物を購入して吉祥寺から移住してくる。この時、数寄屋風の書斎を設けるなどの改修も行っている。やがて終戦。建物は米軍に接収される。返還後、この建物は国語研究所に提供され、その後、青少年文庫が開かれる。昭和60年、三鷹市に移管されて修復が行われ、平成8年には記念館として開館し、現在に至っている。

道路から少し引っ込んだ場所に、記念館の門がある。石を不規則に埋め込んだ漆喰の門柱と、その横の尖頭アーチの意匠は、建物のデザインと関連がありそうである。建物の北側には洋風の庭園があるが、南側にも庭園があり、有三記念公園として昭和62年に開園している。

記念館は地上2階、地下1階。台所周辺は鉄筋コンクリート造で、建物は木造との混構造になっている。1階外壁は赤褐色のスクラッチタイルを用いるほか大谷石を使用し、2階は漆喰仕上げになっている。この建物は大正12年に竣工した帝国ホテルの影響を受けるとともに、関東大震災後の鉄筋コンクリート造の流行を早くも取り入れている。設計者については諸説あるが確証は無く、今のところ不詳という。

 

建物の内部3カ所に、形の異なる暖炉が設けられている。暖炉外側の煙突基部は大谷石を組み合わせて使っているが、その形が面白い。建物の南面は左右対称のように見えるが、良く見ると窓の形などに違いがある。2階のベランダの上に窓が見えるが、屋根裏部屋だという。

 

建物の南側は芝生の庭になっており、その奥には日本庭園の区画が設けられている。南側から建物を眺めると、樹林で建物の2階から上が程よく隠れ、芝生の緑の向こうに、建物の1階と庭へのテラスが見えている。大谷石は建物の随所に使われているが、庭へのテラスの階段も大谷石が使われている。

 

南側の庭は施主と家族のための庭であり、施主の意向が反映された庭になっている。清田邸の時は南側の庭も洋風であっただろうが、山本邸になってからは、山本有三が好む竹林と、郷里の栃木から運んだ石による池が造られ、読書と休息の場所に変えられている。その一方で、建物の側から見た時、洋風建築に相応しい芝生の庭が目立つので、日本庭園はその背景のようになり、四阿も目立たず、洋風建築に相応しい庭としても違和感はあまり無い。

 

(2)古瀬公園

武蔵境駅をnonowa口に出て北に向かい、境二丁目第一の交差点でアジア大学通りを越える。道は左へ曲がっていき、間もなく仙川を横切るが、川には水が流れていない。武蔵高校前の交差点で左に折れて公団通りを進み、松露庵の案内板に従い右に入る。松露庵の門が左側に見えるが、この門は古瀬公園の入口でもある。武蔵野市桜堤1-4-22。駅から歩いて15分ほどである。古瀬公園は宮内庁御用達のタンス商人だった古瀬安次郎が昭和10年頃に建てた別荘を、武蔵野市が買い上げて公園としたものである。

杉柱の門を入り石畳の道を進むと松露庵に出る。当初の計画では、古瀬公園に美術館を建てる事になっていたそうだが、市民の要望もあり、旧古瀬邸を改修し庭を造り待合を設けて、松露庵という名の総檜造りの茶室にし、有料の施設として、昭和49年に公開している。旧古瀬邸は茶室にも転用可能な和風住宅であったのだろう。

松露庵から左に行くと池があり、人慣れしたカルガモが来ている。池はあまり大きくないが、それでも飛び石が設えられている。池の中にはU字溝のようなものもあるが、これは後から持ち込んだものだろう。戦前の航空写真からすると、付近一帯は畑地の中に雑木林や屋敷林が点在する場所だったようで、古瀬家がここを別荘とした時も、防風のための屋敷林を必要としたと思われる。それに加えて松、梅、モミジなどを庭園の一部として植樹したのだろう。

古瀬公園を一巡りして西側から外に出る。振り返って西側の入口を眺めると、小さな美術館があっても良さそうな雰囲気である。ここで公団通りに戻るが、古瀬公園だけでは物足りないので、もう少し歩く。団地を再生した賃貸型集合住宅に沿って西に向かい、仙川を渡る。くぬぎ橋通りを右に折れると、集合住宅の間を通り抜けてきた仙川にまた遭遇する。ここの仙川には水が流れている。駅から古瀬公園に来る途中の仙川は空堀であったし、浴恩館公園内を流れていた仙川の上流にも水は無かった。では、水はどこから来たのか。後で調べてみたところ、雨水と浄水場の砂洗水を溜めて流しているという事が分かったが、下流までは到達しないという事らしい。仙川を渡って北に進むと玉川上水に出る。右へ行けば国木田独歩ゆかりの地へと出る。今回は左へ、玉川上水に沿って江戸時代から続く桜の名所を見に行く。今の時期は当然のことながら、葉桜見物という事にはなるのだが。

<参考資料>「緑と水のひろば71」「山本有三記念館」「山本有三記念館館報8」「武蔵野ところどころ」

 

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静嘉堂文庫と瀬田四丁目広場(旧小坂家住宅)

2015-05-17 08:02:58 | 公園・庭園めぐり

(1)静嘉堂文庫

二子玉川駅で下車し厚木街道の下を潜る。二子玉川商店街を北に向かいNTT瀬田前の交差点で左折、丸子川に沿って西に向かうと、周囲を緑道で囲まれたパークコートという名のマンションがある。ここは幽篁堂庭園という名園の跡地で、ここにマンションを建てる際に、既存樹木の移植をはかり石造物や庭石などの再利用を行い周囲に緑道を造って庭園の面影を残そうとしたという。その事が評価されて受賞もしているようだが、その一方で、著名な造園家の庭園が消滅してしまっている。庭園の宿命というべき事ではあるのだが。

下山橋で右折するのが静嘉堂文庫へのルートだが、今回は、丸子川沿いにもう少し歩く。谷戸川の合流点を過ぎる辺りから、右側には岡本静嘉堂緑地の森が続いている。生物の森、そう呼ばれている森の中には湧水地があるに違いなく、森から溢れた水が丸子川に流れ落ちている。森が途切れると草原になっている。今はバッタの原と呼ばれているが、岩崎家の敷地だった時には温室があった場所だという。生物の森が岩崎家の庭園だった頃、この森は人によって維持されていた筈だが、すでに人の手が離れて久しくなっている。このままの状態で、生物の森が永遠の杜となるのには、あと、どれほどの年月が必要になるのだろうか。

 

下山橋に戻って左へ行くと旧小坂家住宅の裏門が見えてくる。道は左に曲がっていき、すぐに静嘉堂文庫の正門となる。世田谷区岡本2-23-1。二子玉川駅から静嘉堂文庫の正門までは、歩いて20分ほどの距離にある。門を入って右側に小さな池を見ながら進むと谷戸川に出る。谷戸川は、歴史と文化の散歩道の世田谷コースの記事の中でも書いているが、砧公園の中を流れ下ってくる川である。静嘉堂は国分寺崖線に位置し、台地上に静嘉堂文庫、納骨堂、美術館、庭園が配置されている。一方、台地の両側の丸子川沿いと谷戸川沿いは岡本静嘉堂緑地になっている。谷戸川を渡ると、右側に静嘉堂文庫に至る車道と、左側の道に分かれる。左側の道は納骨堂に上がる道と生物の森を通る道に分かれるが、生物の森を通る道は立入禁止になっている。

 

車道を上がる。途中で右に下る道があり、トンボの湿地に出るが、今の季節は至って静かである。再び樹林に覆われた車道を上がるが、特段の眺めも無い。上がりきって、ようやく、静嘉堂文庫の建物が現れる。外観はイギリスの郊外住宅だというが、専門図書館の建物である事に変わりは無く、他の別荘地とは性格を異にしている。

明治41年、この土地を岩崎家が取得し、明治43年には、コンドル設計の納骨堂を建てる。当初の静嘉堂は岩崎家の霊廟としての性格が強かったと思われる。岩崎彌之助は東洋の文化財の散逸を恐れて古典籍や古美術の収集を行ったが、岩崎小彌太はこれを引き継ぐとともに、大正13年には収集した書籍を収蔵する静嘉堂文庫を建てる。これらの書籍は一般公開していないが、美術品については、平成4年に開設した美術館で一般公開されている。ただし、美術館は現在、改修工事中のため閉館中である。前に来た時は、納骨堂を経て正門に出たが、今回は、もと来た道を正門まで戻る。

 

(2)瀬田四丁目広場(旧小坂家住宅)

 

旧小坂家住宅へは静嘉堂文庫正門近くの裏門から入る方が便利かも知れない。世田谷区瀬田4-41-21。今回は表門から入るべく、静嘉堂正門の前から北に馬坂を上がる。坂の途中には庭園への入口が作られている。さらに坂を上がると瀬田四丁目広場という看板があるが、要は旧小坂家住宅の事である。旧小坂家住宅は信濃毎日新聞社長で貴族院議員を務めた小坂順三の別邸である。敷地は3000坪近いが、国分寺崖線の斜面下が半ばを占める。台地上の主屋は100坪あまり。周辺の国分寺崖線沿いに建っていた数多くの別荘が、次々と消えてしまった今となっては、この別邸は貴重な存在であるとして、世田谷区の有形文化財に指定されている。

   

現在は瀬田四丁目広場の標札になっている表門から入るが、樹林に遮られて主屋は見えない。先に進むとようやく、木の間に古民家風の建物が姿を現す。古民家風の玄関を上がって庭を眺める。この別邸は国分寺崖線の縁に建てられている。今は周囲を樹林で囲まれているが、それでも富士が見えるそうである。昔はもう少し眺めが良かったかも知れない。

  

茶の間と居間の間は、家紋に良く使われる五三の桐の透かし欄間になっている。居間には床の間と書院があり、床の間には昭和12年10月の上棟式で使われた棟札が置かれている。主屋と茶室の完成は、翌年になってからだろう。西側の書斎は洋間になっているが、和の趣も多少はあるらしい。暖炉の上には壁がんと思われる壁面のくぼみが造られているが、ここには仏像が置かれていたという。主屋の東側には台所や浴室がある。蔵を主屋に取り込んだ内倉もある。その傍らに年代ものらしい冷蔵庫が置かれているが、今でも使えるのだろうか。廊下の奥は2階建てになっている。上からの眺望はどうなのか、上がって見たい気もしたが、立ち入る事は出来ないようである。

 

中門をくぐり、国分寺崖線の斜面を下りて庭園に行く。改修が行われたらしく、見違えるほど明るくなっている。不要な草木は取り除かれたのだろう、庭園は広場へと見事に変身している。園路も歩きやすく整備されている。それでも、湧水だけは、今も健在である。

 

横山大観が滞在した茶室は、とうの昔に失われてしまったが、その周辺を取り囲んでいた筈の竹林は、今も庭園の主たる景物になっている。庭園内を巡り歩き裏門に向かうと、2基の庚申塔が置かれている。本来は信仰の対象として然るべき場所に置かれていた筈の庚申塔も、何時しか幽篁堂庭園の景物となり、そして今は、この広場を終の棲家にしている。そっと庚申塔に頭を下げ、それから裏門を出る。

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「ようこそ瀬田四丁目広場へ」

 

 

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殿ケ谷戸庭園・日立中央研究所・浴恩館

2015-05-09 16:27:37 | 公園・庭園めぐり

前回に引き続いて、中央線沿線や国分寺崖線に沿って戦前に設けられた郊外型別荘庭園を取り上げてみる。今回はそのうち、国分寺市、小金井市の別荘庭園を対象とする。

 

(1)殿ケ谷戸庭園再訪

 

国指定名勝の殿ケ谷戸庭園については既に投稿しているが、今回は季節を変えての再訪となる。入口の手前の季節の野草の中にも桜草があるが、売札所前の園路では連休期間中に“さくら草展”が行われていた。

 

庭園に入って左へ行く。右手に大芝生を見ながら本館を過ぎ、秋の七草に代わるスズラン、シランを横目に、鹿威しの音に誘われて紅葉亭に急ぐ。見下ろすと次郎弁天池が、秋とは異なる爽快な姿を見せている。

 

滝の横を下って池に出る。滝は循環水を加えて必要な水量を確保しているらしい。湧水は今も健在だが、それだけで庭園の景観を維持するのは難しいのだろう。中島へは石を伝って渡れそうだが、今は島に上がる積りはない。

 

次郎弁天池を半周して竹の径に出る。孟宗竹の竹林と崖線の斜面との緑の対比が美しい。竹林の中を覗くと案の定、筍が顔を出している。

  

竹林の中には、筍から竹へと変わりつつある姿も見える。この先、放置したままなのか、それとも適当に間引くのか、どうするのだろう。探してみると、園路の右側にも筍らしきものがある。園路の両側を竹林とする事が認められなければ、やがて切られる運命にあるのだろう。

 

園路の南側の斜面にシャガの群落を見る。遠目には白だけが目立つシャガだが、よく見ると花弁は紫と黄色の模様に彩られている。斜面を上がる途中、少し変わった姿の花を見つける。シライトソウと言うらしい。場所を選べば、もう少し着目されても良い花なのだが。

  

坂を上がって藤棚に出る。フジは今が咲き始めだろうか。萩のトンネルは当然の事ながら、今は何も無い。ツツジの類も咲き始めているが、主役となるにはもう少し時間が必要である。

大芝生に沿って園路を歩く。今の時期の殿ケ谷戸庭園は緑が支配的である。この庭園のベストは紅葉の時期と思っていたが、若葉の頃の景観も悪くない。

 

(2)日立中央研究所庭園

 

国分寺市には、後に殿ケ谷戸庭園となる江口定條の別荘(大正4年)のほか、今村別荘(大正7年)、竹尾別荘(大正8年)、天野別荘(大正3年)、渡辺別荘(大正3年)、豊原別荘(大正1年)などがあった。これらの別荘の中で敷地面積が最も大きく、今も自然景観が残されている、今村別荘(後に日立中央研究所)を次に取り上げる。

 今村銀行(後の第一銀行)の頭取を務め成蹊学園の開設にも協力した今村繁三は、大正7年に国分寺花沢の土地を取得し別荘地(今村別荘)とした。別荘の建物は300坪あり、台地の上に建っていた。南側の低地は恋ヶ窪から続く水田で恋ヶ窪用水が流れ、敷地内の湧水を合わせて野川の源流になっていた。台地の上からは野川の流域方向の展望が得られていたと思われる。なお、恋ヶ窪用水は、玉川上水から分水された砂川分水から分かれ、さらに貫井村用水と国分寺用水を分けて南に流れ、姿見の池付近の湧水を入れて今村別荘の敷地内に流れ込んでいた。昭和17年、日立中央研究所が設立されると、今村別荘と周辺の土地は日立中央研究所の敷地となり、現在に至っている。

日立中央研究所は非公開だが、春と秋の年2回だけ庭園が公開されている。正門から入って先に進むと返仁橋に出るが、上から見ると割と深い谷のように見える。湧水量は少なくないと思われるが、北方にあると思われる水源への立ち入りは出来ない。この谷は、今村別荘の時代から、あまり変わっていないように思える。小平記念館の前から左に下って行くと大池(上の写真)に出る。面積1万㎡、周囲800m、池の深さは1m~1.5mという。大池は昭和33年に湧水を集めて造られた池で、今村別荘時代には無かった光景である。敷地内の樹木は、ミズキ、エゴ、ナラ、モミジ、サクラ、ケヤキなどの落葉樹と、サワラ、マツ、カシ、アオキ、ツゲ、スギ等の常緑樹、合わせて27000本。野鳥は40種ほどという。日立中央研究所では設立以来、自然環境の保全に取り組んで来たそうだが、その成果なのだろう。

 

(3)浴恩館公園

「続々小金井風土記」に紹介されている小金井市の別荘のうち、波多野邸(滄浪泉園)、前田邸(三楽の森)、小橋邸(美術の森)、岩村邸(美術の森に隣接)、富永邸(大岡昇平寄寓)については、前回の記事で取り上げている。同書では他に、小山邸、前田邸、芥川邸、渡辺邸、磯村邸、大久保邸、大賀邸、浜口邸が紹介されているが、ここでは、後に浴恩館となる渡辺邸を取り上げる。

大正末か昭和の初め、渡辺某が8000坪の土地を取得する。その後の経緯は不明だが、この地が日本青年館の土地となったらしく、昭和天皇御大典時の神官更衣所を下賜されたことに伴い、昭和5年に日本青年館の分館が開館する。昭和6年になると青年団指導者養成のため講習所が開設される。昭和8年から12年まで講習所の所長を務めた下村湖人は、講習期間中、敷地内の空林荘に寝泊まりして指導に当たったという。この講習所は、下村湖人の代表作となる「次郎物語」の舞台にもなっている。

戦後、浴恩館は小金井市の青少年センターとして使用されてきたが、老朽化に伴い平成5年に改修整備され、現在は文化財センターとして考古資料、古文書、民具などの展示保存を行っている。最寄り駅は東小金井駅で、北大通りに出て西に向かい、小金井北高の先の信号を右に入って浴恩館通りを進み、やや下って右へ折れ左に曲がって、緑小を過ぎれば間もなく浴恩館公園となる。歩いて20分ほど。文化財センターの入館は無料である。文化財センター内を一通り見たあと、公園内を見て歩く。園内には確か空林荘の建物があった筈なのだが、見当たらない。どうやら、その由緒ある建物は焼失してしまったらしい。

浴恩館公園にはツツジが多いが、昭和初年に新宿大久保のツツジ園から移植されたものという。江戸時代、大久保にあった鉄砲組の組屋敷では副業としてツツジの栽培を始め、これが評判を呼んでツツジ園が幾つも開かれる。しかし明治から大正、昭和と時代が進むにつれて衰退し、ツツジ園も姿を消してしまう。一方、大久保のツツジは館林や箱根に移植され、今では観光名所になっているが、浴恩館のツツジは、知る人ぞ知るの状態になっている。文化財センターの東側には池がある。池に流れ込む水路も造られているが、そちらの方には水が流れていない。浴恩館公園内には仙川も流れているが、こちらの方にも水は無い。雨降らば流れるという川になっているらしい。

 

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「殿ケ谷戸庭園」「日立中央研究所庭園開放(配布資料)」「続々小金井風土記」「小金井市歴史散歩」

 

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滄浪泉園・三楽の森・美術の森

2015-05-01 19:28:10 | 公園・庭園めぐり

明治の終わりごろから昭和の初めにかけて、まだ農村地帯であった中央線の沿線や国分寺崖線沿いに多くの郊外型別荘が建てられた。その大半は消滅してしまったが、一部は公園や緑地などとして今に残っている。今回は、小金井市の国分寺崖線に残る旧別荘庭園、滄浪泉園、三楽の森公共緑地、美術の森緑地を訪ねてみた。

(1)滄浪泉園

  

武蔵小金井駅で下車し、連雀通りを西に15分ほどで滄浪泉園(小金井市貫井南町3-2-28)に着く。滄浪泉園は三井銀行の役員で衆議院議員をつとめた波多野承五郎が大正元年に購入した別荘地に始まる。滄浪泉園は犬養元首相の命名で入口付近の石標の文字も犬養元首相によるものという。当初の敷地は一万坪あり、北は連雀通り、南は薬師通り、東は弁車の坂、西は新小金井街道の辺りにまで及び、現在の敷地の3倍ほどあったらしい。敷地内には200坪の池があり水車もあって道も通っていたという事なので、それらを含めてまるごと買い上げたようである。この別荘地は昭和になって川島三郎の所有となり、昭和50年頃にはマンション建設の計画も持ち上がるが、地元の反対運動の結果として、昭和52年に都が買収して現在に至っている。入口で入園料を払って中に入ると、石畳の車道が森の中へと続いている。別荘だった頃には入口近くに2部屋の門番小屋があったそうだが、現存しない。

 

石畳の道をたどると、小さな広場のような場所に出る。右側には滄浪泉園の説明版があり、左側には芝生を前にして休憩所がある。この場所に建っていた別荘の主屋は残念ながら取り壊されてしまったが、日野の名主の家を移築したという70坪ほどの茅葺の建物であったらしい。その高い縁側からは池が見えたと言う話だが、当時は木の高さが低かったので、雑木林越しに富士を望むことが出来たかも知れない。現在の滄浪泉園は特別緑地保全地区に指定され、建築行為などを制限して原状を凍結するかたちで緑地の保全を図っている。周辺の樹木を手入れして、大正時代のような眺めの良い場所に変える事は出来そうにない。

 

園路を下って行くと木々の間から水面が見えて来る。池に沿って右に行き木橋を渡る。杉や赤松のような針葉樹が目立つようになるのは昭和になってからで、別荘を構えた大正の頃の池の周辺は、落葉広葉樹の斜面林と低地の桑畑からなる、今より明るい雰囲気であったかも知れない。水車があったという事からすると湧水量も多かったと思われる。まさに、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭であったのだろう。今は、この池も淀んだままの憂鬱な表情を見せることがあり、曇天で訪れる人が少ない時は、清々しい雰囲気とまでは言いにくい。

 

池に沿って進むと湧水のある場所に出る。この池の湧水地はもう一カ所、板橋の下を流れてくるのが、それである。この湧水があった事が、この地に別荘を構える事になった理由の一つであったかも知れない。滄浪泉園の湧水は、東京の名湧水の一つに選ばれているが、小金井市では、この他に、貫井神社の湧水と、美術の森の湧水が名湧水として選定されている。

 

池の周囲を歩き土橋を渡る。橋の下から続く水路を追ってみると、滄浪泉園の外に出ていくようである。確認はしていないが、野川に流れ出ていると思われる。土橋を渡った先に赤い前掛けをした、おだんご地蔵が祭られている。滄浪泉園内には鼻欠け地蔵や馬頭観音も祭られているが、薬師通りが新小金井街道に出る辺りに石塔場があり、村内の石仏が集められていたという事なので、そこから滄浪泉園内に移したものらしい。なお、現在の新小金井街道は貫井トンネルを通るようになっているが、もともとは貫井大坂という曲がりくねった急坂で、府中から所沢方面に出る幹線ルートだったという。

池から石段を上がって休憩所に戻る。その裏手に三宅島友好都市記念碑が置かれているが、緑地保全地区に指定される前に設置されたのだろう。近くには水琴窟があるが、別荘だった頃からあったのだろうか。滄浪泉園には石仏のほかに燈籠や井筒が置かれ日本庭園風の造作もされているが、全体としては自然のままの庭になっている。波多野承五郎はその随筆の中で、日本の庭園を、実景を縮写した縮図式の庭と、京都桂御所のような天然にあり得る形の等身式の庭に分け、等身式の庭が最近の流行と記すとともに、庭は建築の延長であると書いている。また、表門と玄関の間を庭園風に造る事については批判的で、瓢亭のように表を粗に裏を美にするのが良いとも記している。滄浪泉園は、このような考えのもとに、等身式で茅葺の主屋に調和する庭として造られたのだろう。

 

(2)三楽の森

滄浪泉園を出て連雀通りを西に向かい、小金井四小の手前を左に入る。左に三楽公園を見て、その先の三楽集会所の横を入ると庭門が見えてくる(小金井市貫井南町3-6-18)。庭門から先が三楽公共緑地で、NECの設立発起人の一人であった前田武四郎の、三楽荘という名の別荘の跡である。

  

庭門を入ると、今は周辺を雑木林で囲まれた芝地だけがあり、別荘時代の建物らしきものは見当たらない。入園は無料だが昼間のみ開放、火曜は休園になっている。ここは、国分寺崖線上にあり、貴重な自然環境を保存するため、芝地以外への立ち入りは禁止されており、昆虫や小動物のための仕掛けも設けられている。

前田武四郎は大正8年にこの地を入手したが、郷里新潟の醤油醸造の旧家を買い取って、巨大な梁を使った別荘を建てたのは大正13年になってからである。当時の敷地は1万坪あり、北は連雀通り、南は斜面の途中まで、西は三楽坂辺りまでが敷地の範囲であったという。主屋は東向きで台地上の西側にあり、連雀通りの表門から針葉樹の中を車道が弧を描くように主屋の玄関に通じていたようである。南側は斜面まで芝生でおおわれた明るい庭で、東南には築山が設けられ四阿が建てられていた。ここから南を望むと、多磨霊園西側の浅間山が見えることになるが、四阿のある築山を浅間山の標高80mに合わせようとしたらしい。眺望に優れていること。それが、この地を別荘地に選んだ理由だったかも知れない。

 

(3)美術の森

 

はけの道を東に進むと、小金井二中の先に中村研一記念はけの森美術館(小金井市中町1-11-3)がある。武蔵小金井駅からは15分ほどで着く。美術館の東側に“美術の森緑地”の入口がある。東京の名湧水の一つでもある美術の森緑地の湧水の流れは、道路の下を潜って南に続いていて、水路沿いに径がある事を示す“はけの小路”の石標が、道路の向こう側に置かれているが、今回は割愛して美術の森緑地に入る。

 

美術の森緑地は美術館の東側から裏手にかけての緑地で、入園は無料、開園は昼間だけで、年末年始と月曜は閉園となる。美術の森緑地は国分寺崖線の斜面と湧水地からなり、武官であった小橋寿が明治42年に別荘地とした事に始まる。戦後は画家の中村研一がこの地に移住してアトリエを構える。門を入って間もなく左側に見えてくるのが旧中村研一邸である。

 

先に進むと小さな池があり、石舛からは水が湧き出ているように見える。この緑地の水源は竹林の中にあるそうだが、立ち入る事は出来ない。池の向こうの旧中村邸は、現在、オーブン・ミトンというカフェになっている。

 

竹林の中を上がると北側の門に出る。門の外側の“おお坂”を右に上がると連雀通りで、この通りを西に行き前原坂上の交差点を右に行けば武蔵小金井駅に出る。なお、美術の森緑地の東側は、岩村海軍中将が大正3年に別荘地とした場所で、1500坪の敷地内には池もあったという。その東側のムジナ坂沿いには、昭和23年に大岡昇平が寄寓していた富永邸があるが、富永邸自体は大正時代からあったようである。大岡昇平の「武蔵野夫人」は小金井から国分寺にかけての国分寺崖線が舞台になっているという。

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「滄浪泉園リーフレット」「続々小金井風土記」「古渓随筆」「東京の公園と原地形」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「多摩文学紀行」

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