夢七雑録

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11.3 半田いなり詣の記(3)

2009-01-28 20:37:01 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 半田稲荷を出て東に行き、利根川(江戸川)の堤に出る。ここを南に行くと香取の社(葛西神社。葛飾区東金町6)に着く。その先、堤を半里ほど行き、江戸道の標石の所で堤を下ると題経寺・帝釈天(葛飾区柴又7)に出る。嘉陵は、寺の坊で僧が子供に読み書きを教えているのを知り、今の世にあって、この宗門の僧には珍しいと書いている。参詣後、西に行き本道に出て用水を渡ると新宿に着く。この日は、前述のように山王権現(日枝神社。葛飾区新宿2。平成20年改築)の祭礼であったが、地元の人が大勢集まり、神楽も出て、無礼講で酒を飲み、ものを食べ、楽しそうだったと書いている。

 新宿上宿から新宿の渡しを渡り、亀有から引舟に乗って世継(四つ木)まで行き、その少し先の渋江の西光寺(葛飾区四つ木1)に行く。ここに葛西三郎清重の墓があると聞いて来たのだが、嘉陵はそれと確認出来ぬまま拝んで立ち去っている。西光寺は、鎌倉幕府の重臣であった葛西清重が、居館の場所に創建したと伝えられる寺だが、この点は伝承の域を出ないようである。嘉陵が拝んだ墓も、江戸時代に建てられた供養墓だったのだろう。さて、西光寺を出た嘉陵は東に行き、客人(マロウド)大権現を参詣する。嘉陵は、越の白山から比叡の山に飛び移ったことから客人大明神と称したと書いているが、大津の日吉大社の摂社(本社に付属する神社)の一つ白山宮が他から来た神であり、客人(マロウド)と称していた事をさしていると思われる。権現の名は、日吉神社(日枝神社とも)の別称が山王権現であることに由来するのかも知れない。客人の神は、嘉陵にとって、父祖の地である岩国の鎮守であり、よその神と感じずに拝むことが出来たと記している。なお、現在の客人大権現は、白髭神社(葛飾区四つ木4)となり、白髭神社の祭神である猿田彦命のほか、日吉神社の祭神である大己貴命を祀っている。ここから、嘉陵は今朝来た道を帰り、家に着いたのは午後8時頃であった。

 嘉陵は、後書として、次のような話を記している。世継の舟で乗り合わせた男から、問わず語りに聞いたところによると、すべての両替商から日毎に永禄銭三銭づつ出させ、その半分を上納し半分を積み置き、それをもって城内郭の堀浚いを行うという話があり、必ずそう成るだろうという。また、松平安芸守は四年前に七万両の御手伝いを命ぜられたが、今年また河川修築のため七万両の御手伝いを命ぜられ、窮乏しているともいう。これが、この頃の世の姿である。また、昨日今日と寒い日が続いたが、後で聞いたところでは、甲斐や駿河や伊豆では霰が降り、日光では積雪があったということだ。
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11.2 半田いなり詣での記(2)

2009-01-22 22:41:22 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 新宿(葛飾区新宿)は川畔に近い方から上宿、中宿、下宿に分かれている。この日は丁度、中宿にある山王権現(日枝神社。葛飾区新宿2)の祭礼の日で、殊のほか賑わっていた。嘉陵は中宿の中川屋で昼食をとったあと、すすめられて夕顔観音に向う。中川の堤を2kmほど北に行くと、富士浅間の社に出る。その少し先に夕顔観音があった。元禄の頃には、夕顔観音を訪れる参詣者が昼夜を分かたずという状況であったが、嘉陵が訪れた時は、訪れる人もいなかったようで、格子戸も閉め切っているような有様だったという。現在、富士浅間神社は富士神社(葛飾区南水元2)と名称を変えて存続し、富士塚も健在であるが、夕顔観音の方は既に廃堂になっている。
 
 夕顔観音を出た嘉陵は、近くの民家で道を教えてもらうが、案内してくれた男から、この辺での漁の話を聞いている。3kmほど曲がりくねった畦道を行くと、半田稲荷(葛飾区東金町4。写真)の南側に出る。嘉陵は始めてここを訪れたわけだが、拝殿の天井に描かれていた香取栄広の龍について、筆勢といい墨色といい、なかなかの出来と感心している。また、尾張や紀伊の藩士、諸侯の家士のほか、江戸の町々の者が月参りすると知って驚いてもいる。半田稲荷は、文化年間の末頃から、願人坊主が疱瘡麻疹退散を唱えて、この稲荷を担ぎ出したことで繁盛するようになるが、嘉陵が訪れたのは、このような時期でもあった。なお、半田稲荷の社殿は弘化二年(1845)に新たに造営されているので、嘉陵の見たものが今に残っているわけではない。
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11.1 半田いなり詣の記(1)

2009-01-20 22:50:53 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十四年六月十五日(1817年7月28日)、朝食後、嘉陵(村尾正靖)は半田稲荷に詣でようと浜町の家を出る。大川橋(吾妻橋)を渡り、水戸屋敷(墨田区向島1。墨田公園)の脇から用水沿いに行く。広重の名所江戸百景の「小梅堤」に描かれているのが、この用水で、亀有上水(のちに四つ木通り用水)と呼ばれていた。この用水に沿う道が水戸街道の脇道で、嘉陵も、この道をたどったと考えられる。この道は途中で、右に木下川薬師への道、左へ木母寺への道を分けるが、どちらも曲がりくねった道である。さらに行くと、飲食店が並ぶ四つ辻に出た。ここを左後方に行くと橋場に出、右に行くと市川に出られた。また、道の右手に行けば西光寺(葛飾区四つ木1)に出られた。現在の道では、吾妻橋を渡り、墨田公園の南側を川に沿って進み、東京スカイツリーの建設地になっている押上から、かっての亀有用水であった曳舟川通りを進み、江戸時代には無かった荒川(放水路)を渡るのが、この道である。

 四つ辻の先に世継(葛飾区四つ木)の二軒茶屋があった。嘉陵は、ここの茶屋でしばらく休んでから、世継の引船に乗る。話には聞いていたが、初めて見る珍しい光景と嘉陵は書いている。その様子は廣重の名所江戸百景の「四つ木通り用水引ふね」に描かれているが、亀有上水に浮かべた舟を、四つ木と亀有の間の約3kmを人力により引いたのである。引舟の数は合わせて十四艘。料金は一人二十四銭であった。現在、この亀有上水は暗渠化され、道路の中央を亀有方面に続いている曳舟川親水公園になっている。

 この日、舟に乗り合わせたのは四人。夏なのに冷たい東風が吹き、舟に乗っている間中寒かったと、嘉陵は書いている。引舟の終点から、新宿(ニイジュク)の渡し場に出て、中川を渡る。その風景は、広重の江戸名所百景「にい宿のわたし」にも取り上げられているが、流れがゆるやかであったため、舟銭はとらなかったという。現在の曳舟川親水公園は、千住から来る水戸街道にぶつかる辺りで終わりとなるが、この辺りを亀有上宿といい、ここから水戸街道を東に少し行ったところに一里塚跡の碑がある。さらに行けば中川橋で、この辺(足立区亀有3。写真)に新宿の渡し場があったとされる。

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10.2 井の頭弁才天詣の記

2009-01-14 21:46:29 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 参詣を終えた嘉陵は、大宮八幡の裏門を出て西に向っている。その道は甲州街道の裏道にあたり、旧久我山道、現在の人見街道にも重なる道と思われる。道を2km余り行くと下高井戸となり、その先の石地蔵のある場所からは上高井戸となる。さらに行くと、久我山の入口に分かれ道があり、庚申塚があったと記す。この庚申塚と思われるものが現存しており、それには、「これよりみきいのかしら三ち(是より右、井の頭道)」「これよりひたりふちう三ち(是より左、府中道)」と彫られているが、嘉陵はこれを見落としたのか、左の道をとり、現在の久我山橋の上流の小橋で、井の頭上水(神田川)を渡っている。

 井の頭上水から少し上って行くと、玉川上水に出る。現在の玉川上水は、川底を音もなく流れているが、当時の上水は流れが早い川であった。嘉陵の書いた略図にある三つの橋のうち、最初の橋は石橋と記されている。この橋は、宝暦七年に石橋が架けられた旧久我山橋(現在は牟礼橋)と思われる。嘉陵はこの石橋を渡らずに、玉川上水に沿って西に向かっている。現在は上水に沿って遊歩道の細道が続いているが、当時は草が茂る道だったかも知れない。二つ目の橋は長兵衛橋で、渡れば牟礼に出る橋である。三つ目の橋は稲荷橋(現在は井の頭橋)で、ここからは上水を離れて、並木の道をたどる。800mほど行くと大門に出るが、ここには、「井の頭弁才天明静山大盛寺」という標識があったと記す。現在は、参道入り口に、大正時代に再建された黒門が立ち、「神田御上水源 井の頭弁財天」と記した石標が傍らに立っている。その先に石鳥居があり、坂を下れば石橋があったが、道が崩れていたため、池の畔を通って弁財天に行ったと嘉陵は記している。

 井の頭の池は湧水地が七か所あるため、七井の池と呼ばれ、江戸にとっては重要な水源の一つになっていた。井の頭の流れ(神田川)は、水源ではさらさらと流れるだけであったが、玉川の助水(正春寺橋の上流で玉川上水から分流し淀橋の下流で流入する)を入れ、石神井川(実は善福寺川と妙正寺川)も合流して、面影橋の下流では、川幅いっぱいに勢いよく流れていたという。なお、現在の井の頭池は、昔からの水脈が絶たれてしまったため、深井戸による揚水によって、池の水を確保しているとの事である。

 嘉陵が訪れた当時、弁財天の社はまだ整備されておらず、池の周囲の沼地は芦と薄で覆われ、水面も見えないほどだった。将軍家光がこの地に来た時に、自ら小柄で井頭と刻んだコブシの木は既に枯れていたが(枯れた木は、大盛寺に保存されていたが焼失)、家光が挿した楊枝から生じたと伝えられる柳の大木が、社の東側の池の畔にあった。嘉陵はここで、玉川上水で掘ってきた小松を植え、詠んだ歌を拝殿右の板障子に書き付けている。今なら、文化財を損傷したという事にはなるが、当時は咎める人も居なかったのだろう。もっとも、嘉陵の書き付けたものが残っていれば、それも文化財ということになるのかも知れないが。井の頭からの帰りの経路は記載がないが、家に帰り着いたのは、午後10時ごろであった。歩いた距離は50kmほどであったろう。時に嘉陵、数えで57歳であった。

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10.1 井の頭弁才天詣の記(1)

2009-01-08 22:21:42 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文化十三年九月十五日(1816年11月4日)、井の頭弁才天に詣でるため、嘉陵(村尾正靖)は浜町の賜舎を午前10時に出ている。経路は、市谷御門、尾張殿屋敷前(市谷本村町)、自性院(市谷富久町・自証院)前、三光院稲荷(花園神社)前を通り、左に折れて成子町の通りから青梅街道を中野に向かうルートである。つまり、甲州街道を通らず、内藤新宿も通らずに青梅街道へ出ている。その方が距離も短く、通りやすかったのかもしれない。

 嘉陵は、中野から左に折れて妙法寺に向かうと記しているが、鍋屋横丁から入る妙法寺道を辿ったと思われる。妙法寺の祖師堂には日蓮上人の像が安置されているが、元禄の頃から厄除けに霊験あらたかという評判が立ち、妙法寺に向う参詣客が増えたため、青梅街道から妙法寺へ向かう参道入り口に、茶店が並ぶようになった。中でも鍋屋という店が繁盛していたが、鍋屋横丁の名はそれに由来するという。現在、鍋屋横丁交差点の南東側に由来の碑と説明板が置かれている。現在の妙法寺への参道は、この交差点を南に行き、次の信号で西に行くことになる。現在の道には、参詣道らしい雰囲気はないが、昔の道らしく、うねうねと続き、上り下りも二か所ある。午後1時、嘉陵は堀の内の妙法寺(写真。杉並区堀ノ内3)に着く。まず妙法寺を参詣し、それから、大宮八幡に向ったのだろう。

 嘉陵は妙法寺の門を出て南に行く道をたどっている。村絵図で南に行く道は、左に代田へ向かう道と、右に熊野神社の横を通る道に分かれるが、大宮八幡に行くのは右の道である。坂を下って善福寺川を渡り、田圃の畦道をたどって大宮道に出る。ここに、源義家が鞍を懸けたことから、鞍懸松と称されるようになった変わった形の松があった。松は根元から3mほどで東に曲がり、6mほどで直立しており、枝は梢にしかなかったという。現在は、代替わりの松が、それらしく仕立てられ、大宮八幡の参道途中に聳えていて、下には説明板も置かれている。大宮八幡(杉並区大宮2)の境内は、松や杉の古木が多く、神さびた雰囲気であった。ここで、嘉陵は八幡宮を参拝しているが、この日は十五日にもかかわらず、参詣する者はいなかったと記している。

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9.2 吹上観音道くさ(2)

2009-01-02 22:27:35 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 溜池から山の裾にそって進めば、吹上観音の下に出る。石段を上がれば東明寺・吹上観音(埼玉県和光市白子3。写真)である。吹上観音は江戸名所図会にも取り上げられており、その図には、参詣者の姿も何人か見えているが、嘉陵が訪れた時は、人の気配も無かったという。また、戸が閉ざされていたため観音を拝むことも出来ず、堂守の僧に由来など聞いてみたが満足な答えも返ってこない有様だった。仕方なく、帰りの道を教えてもらって、吹上の山を下り、徳丸の原を横切って戸田の川(荒川)に出て、早瀬の渡し(笹目橋付近)から舟で北岸に渡り、堤を歩いて戸田に出ている。

 戸田の川(荒川)の南側は徳丸の原と呼ばれ、荒川の氾濫で度々浸水する不毛の地であった。嘉陵は、この原について、四日ほど前の大雨で水かさが増し、そこら中に水溜りがあり、広い所では、幅800m、長さ数kmにわたって見渡す限り水溜りになっていると書いている。徳丸の原を通る適当な道などはなく、回り道のようだが、対岸に渡って、戸田の渡しで渡り返すしかなかったのだろう。徳丸の原付近は、昭和40年代に宅地開発が進み 大規模団地が建設されるに及んで、その様相は一変した。なお、この地域の地名である高島平は、天保12年(1841)に、高島秋帆による西洋式砲術の演習が、この地で行われたことに由来している。

 嘉陵は、戸田では夕食をとるが、すでに黄昏。急いで戸田の渡し(戸田橋付近)を渡る。ここからは中山道を行くことになる。春には桜草が茂るという志村の原(板橋区舟戸)を通り、蓮沼を経て午後6時頃に梓(板橋区小豆沢)を通過。板橋を過ぎて、鶏声ケ窪(文京区本駒込1)で鐘の音を聞く。すでに午後8時になっていた。家に帰り着いたのは、半刻ほど後のことである。この日は、嘉陵にとって少し不満が残る旅であったかも知れない。

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