夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

18.鶴岡から酒田へ

2008-06-30 21:27:00 | 巡見使の旅
(51)享保2年5月17日(1717年6月25日)、半晴。
 この日は鶴岡から羽黒山を往復している。羽黒山は能除太子(蜂子皇子)により開かれた羽黒派修験道の霊場であるが、江戸時代は東叡山寛永寺の末寺の扱いになっていた。巡見使一行は、一の坂、二の坂、三の坂を上がって本社を参詣。休憩後、荒沢寺を訪れてから鶴岡に戻っている。上り下り八里の行程であった。ところで、古川古松軒によると、羽黒山の社領が故あって奪われたため衰退していた時期があり、将軍綱吉の時の巡見使にその旨訴えたところ、もとの社領千五百石に戻されたという。
 
(52)同年5月18日、晴。
 巡見使一行は鶴岡を出立。温泉地の湯田川を通り、坂下から鬼峠を越え菅野代に出て休憩。途中、岩穴の中にある千体地蔵を見ている。その先、ぶなの木峠を越え、温海川、木の俣を通って、小国で泊まる。この日の行程は九里弱である。

(53)同年5月19日、晴。
 番所のある小鍋から十四丁、越後出羽国境の堀切峠に上る。近くに二本岳(二本国山。現在名は「日本国」。555.4m)、芋沢峠が見え、南東の方角には朝日岳が見えている。小鍋(小名部)に戻り鼠ヶ関に出て休憩。弁財天に立ち寄る。ここからは海岸線に沿って西嶋、太郎島、平嶋を見ながら進む。唐松番屋からは、粟島や佐渡島を見ることが出来たという。温海から山側に入り、出湯のある湯温海で泊まる。行程は六里半である。

(54)同年5月20日、晴。
 温海に戻り海岸沿いの道を通行。暮坪から塩竃のある五十川に出る。ここでは塩焼について説明を受けている。飛ケ坂を越えると、飛島や鳥海山が見えてくる。さらに進み、大波渡、片苔沢を過ぎて笠取峠を越えると三瀬。暮坪からここまで、櫛岩、獅子岩、立岩、鬼ケ掛橋、義経馬乗場など奇岩奇勝が続く道である。三瀬は義経が宿泊したという伝承があり、義経が通った薬師堂、弁慶の錫杖清水があったという。三瀬で休憩後、海岸線から離れ大山宿に向う。入口に高舘という武藤左京太夫義氏の古館ありと記す。この日は大山に泊まる。七里の行程であった。

(55)同年5月21日、晴。
 大山を出立。馬町の椙尾大明神を参詣する。このあと、海岸に出て浜中で休憩する。海辺に干鰯あり、また塩焼処とも記す。宮ノ浦から最上川を船で渡り、酒田に入る。海際に公儀の御蔵が三つ建ち番人も居たと記している。酒田は大坂、江戸と結ぶ西回り海運の要であり、最上川舟運を利用した米の一大集散地でもあった。この日の行程は六里余、酒田に泊まる。なお、現存する本間家本邸は巡見使宿舎として建造されたとのことだが、享保の時はまだ存在していなかった。 

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17.山形から鶴岡へ

2008-06-25 21:16:52 | 巡見使の旅
(45)享保2年5月11日(1717年6月19日)、晴。
 山形から天童まで羽州街道なら三里半の距離だが、巡見使の経路は脇道を通り、志戸田で須川を渡り、見河(三川?)を通って山野辺に向っている。ここに山邊右衛門大輔の古舘ありと記す。また、出羽の郡司・良実(小野良実)の娘、小町の塚があったという。各地に残る小町伝説の一つであろう。ここから中野に出て休憩し、千手観音堂のある千手堂を経て、漆山で羽州街道に戻り、清池を通って天童に出て泊まる。行程は四里ほどである。

(46)同年5月12日、晴。
 天童では愛宕宮のある山上に登る。天童丸頼久の居城だったところで、本丸のほか、家臣の八森石見守、小畑山城守、湯村和泉守、安斉形部、成生伯耆守が守る五つの支楯で構成されていたと記している。天童からは、また羽州街道と分かれて西に向い経檀のある蔵増を通り、最上川を船で渡り、寒川(寒河江)で馬継をし、出羽越後国境の朝日岳を遠望しつつ、八鍬を経て白岩に出て休憩する。ここに大江備前守の古舘ありと記す。また、ここから三里ほど先に浮嶋のある大沼があると聞く。この後、巡見使三人同道し、寺領二千七百十二石の大寺、慈恩寺に立ち寄っている。この日は谷地で宿泊。六里余の行程である。谷地には八幡宮があり、また、白鳥十郎長久の古舘、里見薩摩守古館跡ありと記す。

(47)同年5月13日、晴。
 谷地から最上川を船で渡り、大森という森のある郡山に出る。六反(六田)で羽州街道に戻り、東根で馬継をし、楯岡[村山]に出て休憩する。ここに楯岡甲斐守古館ありとし、また、江持?に江持播磨守の古舘、本枝(本飯田?)に飯田播磨守の古舘ありと記す。この日は尾花沢で泊まる。六里の行程であった。

(48)同年5月14日、晴。
 巡見使覚書には、芭蕉も訪ねたという向川寺について書かれた付箋が付けられているが、単に話を聞いて書き留めただけかも知れない。この日は、名木沢の先で、さはね(猿羽根)峠を越えて舟形で休憩。鳥越を経て新庄で泊まっている。六里余の行程であった。途中、山出?と名木沢に古舘、舟形に沼澤新左衛門の古舘ありと記す。

(49)同年5月15日、晴。
 新庄を出立。右手には鳥海山が姿を見せている。この日は、清水大蔵太夫の古館跡のある清水(大蔵)から、最上川を船で下る。新庄藩から供された馳走船に茶湯料理菓子などを積み込んでの出発である。船は最上川を進み本合海を過ぎる。本合海は、源義経上陸の地と伝えられ、芭蕉もここから最上川を船で下っている。この先、矢向明神、古口の番所、三の滝、甲明神、佐々木明神、たけくらへの滝、沓上(沓喰?)の馬爪の滝、大滝、大戸川の八幡太郎義家の八幡舘や仙人堂を見る。仙人堂に関しては、二千年以前この地に住んでいた仙人の伝説と伐採禁止の付近の山林についての伝承を聞いている。船はこの先、鎧明神のある高谷、白糸滝のある土湯、柏沢を過ぎて清川に到着。天明の巡見の時は暴風雨に見舞われ散々な目にあったが、享保の時は天候に恵まれ、快適な船旅を楽しめたことであろう。この日の宿泊は清川。清水まで二里。清水から清川まで八里の船旅であった。

(50)同年5月16日。
 狩川を経て藤嶋で休憩。船を百二十四揃えて筵敷きにした船橋で赤川を渡って、鶴岡に入る。城下を巡見。町外れに山王権現社ありと記す。この日の行程は四里半。鶴岡城下に泊まる。藩主の酒井左右衛門が御見舞のため旅宿を訪ねている。
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16.米沢から山形へ

2008-06-18 21:58:30 | 巡見使の旅
(41)享保2年5月7日(1717年6月15日)。
 一行は米沢を出立し、花沢を経て川井に出る。ここで、馬継(馬と人足の交代)を行い、武井(竹井)、長手、下和田を経て亀岡に向う。亀岡では大聖寺、文殊堂を参詣。本堂裏に桜の古木があり、虫食いの跡が獅子に乗った文殊の姿であったため御神体としていたという。そのあと、高畑に出て宿泊する。この日の行程は四里ほど。川井に最庭周防守の古館、竹井に網代伯耆守の古舘、下和田に飯坂左衛門の古館、塩森に塩森兵庫の古舘、高畑に水野蔵人の古館と小簗川氏の古館ありと記す。

(42)同年5月8日、晴。
 高畑を出立し、阿久津で正八幡宮を参詣。駄子町、新宿を経て貝吹山の横を上がり、仙台との境界に当たる屋代峠(二井宿峠)を越えて、湯原で休憩する。途中、新宿に志田殿の古舘、湯原に横尾氏の古舘ありと記す。湯原からは羽州街道となり、陸奥出羽国境の猿鼻峠(金山峠)を越える。羽州街道は、奥州街道の桑折から、湯原、楢下を通り、山形、久保田(秋田)を経て、青森近くの油川で奥州街道に合流する街道で、参勤交代の道筋としても利用されていた。巡見使がわざわざ峠越えして湯原に来たのは、この街道と国境の見分のためと思われる。巡見使一行は峠で藩の出迎えを受け、楢原下(楢下)に出て泊まる。この日は六里半の行程であった。なお、楢下には脇本陣格の家屋が現存しているとのこと。享保はともかく宝暦以降の巡見の際には、宿舎の一つとして利用されたのだろう。

【参考】 宝暦の巡見使が楢下で宿泊した時の、夕食と朝食の献立が記録に残っている(上山市史編さん委員会「巡見使関係資料集」)。
 それによると、巡見使に供された夕食は、「鱠 ます、うと、くり、しゃうか、けん青梅。御汁 つみ入、皮牛坊。御香物。御食。御平皿 あわひ、長いも、竹のこ、椎茸、かまほこ。御汁 たい、青なミやうか。水あへ。御猪口 くらけ、うと。御菓子。御焼物 味噌漬のたい」となっている。
 また、朝食は、「御平皿 かんひゃう、玉子はんへん、かうたけ、大和いも、石かれい切め。御汁 すすき、うと。御香物。御食」であったという。  
 
(43)同年5月9日、晴。
 皆沢、関根を通り、長清水で米沢への街道を分け上山に入る。途中、河原期に小簗川貞伴の古舘ありと記す。また、上山は出湯が三か所ある温泉地で、上と下の湯畑があり、湯守は四人であったと記す。上山で休憩したのち、四谷で羽州街道と分かれ、窪手(久保手)を経て長谷堂に向う。この日の行程は四里弱。長谷十一面観音のある長谷堂で泊まる。ここに、志村伊予守の後、坂紀伊守が居城とした山城跡ありと記している。また、平清水の村内にある千年山(千歳山)が見えたといい、千年山から続く瀧山と蔵王の峯についてふれるとともに、千年山に植えられている、あこやの松にまつわる伝説についても書き記している。

(44)同年5月10日、晴。
 柏を通り村木沢に出る。ここから西に向い峠を越え、畑谷郷の用水をまかなう人造湖の大沼に出る。ここでは、沼を築いた村木沢の開沼与左衛門にまつわる不思議な話を聞いている。この日の休憩地は畑谷。畑谷に江口五兵衛の古館ありと記す。畑谷から七曲坂を経て東に向い、簗沢、滝の平、若木を通り南舘に出る。若木に神保壱岐守の古舘、南舘に氏家尾張守の居城跡ありと記す。この日は山形城下に宿泊。七里余の行程であった。

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15.出羽越後国境の見分

2008-06-16 22:13:47 | 巡見使の旅
(35)享保2年5月1日(1717年6月9日)、曇。
 綱木から戻り米沢で休憩。鬼面川を船で渡り、成島、小菅、時田を経て小松で泊まる。途中、小菅の手前に安倍貞任の古城跡、上小松に原田甲斐守の城跡ありと記す。この日の行程は七里半ほどであった。米沢から小松を経て越後に向う街道を、米沢では越後街道と呼び、また峠の数から十三峠とも称した。この先、巡見使一行はこの街道を辿って、越後出羽国境の大里峠に向かっている。
(注)旧暦で、享保2年4月は29日で終わりなので、その翌日は5月1日になる。
  

(36)同年5月2日、晴。
 松原を経て白子橋を渡り手の子で休憩。柳清水を過ぎ、うつう峠(宇津峠)を越え、沼沢を経て白子沢で泊まる。この日の行程は五里半ほどである。途中、手の子に遠藤上野の城内館、また同村高峰に八幡太郎義家が安倍貞任を攻める際に使用した八幡舘、手の子沢に安倍貞任の館跡、うつう峠の先に永井殿(長井氏?)の古館ありと記す。天明の巡見使に随行した古川古松軒によると、普段は通る人も稀な山路を、巡見使をはじめ夥しい人数が通行したため、宿の亭主から村役人に至るまで、あきれ果てて正体なし、といった有様であったという。

(37)同年5月3日、朝小雨、昼より晴。
 桜峠を越えて市の野に出て、黒沢峠を越え黒沢に出る。その先、小国に出て泊まる。この日の行程は五里。途中で休憩はとらなかったようである。天明の巡見の時は、6月11日に小国に泊まっているが、山中を行くほど寒冷強くなり、人びとの中に病多くありという状況だったという。

(38)同年5月4日。
 朴峠を越えて足水に出る。戸板を立てたような戸板かけ山や、龍が住んでいたという龍ガ岳を眺め、かやの木峠(萱の峠)を越えて玉川で休憩。ここから大里峠に上がり、越後と出羽の国境を見分する。玉川が海に流入する辺りが見えたという。大里峠の辺りには、蛇が多く棲むため、蛇骨が出ると言う話を聞く。また、山を七巻きしたという大蛇の話も聞いている。古川古松軒はさすがに石についての知見があったようで、蛇骨は石なりと述べているが、享保の巡見使は、聞いた事をそのまま記している。この日は、小国に戻って宿泊。七里の行程であった。

(39)同年5月5日。
 小国から、来た道を戻り、沼沢で休憩、手の子に泊まる。行程は八里。

(40)同年5月6日。
 手の子を出て小松で休憩し、米沢に戻って泊る。行程は五里半余。

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14.米沢と出羽陸奥国境の見聞

2008-06-10 19:37:58 | 巡見使の旅
 当ブログでは、江戸幕府により東北各地と北海道松前に派遣された巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、この旅も山形県に入ります。一行は米沢に出て国境を見分し、山形、新庄、鶴岡を経て、鼠が関から酒田に向っています。 

(31)享保2年4月26日(1717年6月5日)、雨天。
 巡見使一行は庭坂を出立し、李平にて休憩したあと、蛤坂を下って境界となる産ケ沢に出る。途中、鬼ころがし、座頭ころがしという深い谷を通り過ぎる。産ケ沢から板谷の嶺を越え、大沢で泊まる。この日の行程は七里余。雨天の難所越えであった。

(32)同年4月27日。
 日記役の記録によると、山上村、金山銀山御見分場とある。その後、米沢に出て宿泊している。この日の行程は五里である。

(33)同年4月28日、雨降。
 弘法の袈裟掛松のある李山を経て、関で馬継となり、松坂峠を越えて綱木に出る。この先、石ころび坂という急坂を上がれば、出羽陸奥国境の檜原峠。国境の印であるブナの木があったという。巡見使三人は同道して境界を見分したのち、綱木に戻って泊まっている。行程は六里半余である。なお、檜原峠を越える街道は会津街道または米澤街道と呼ばれ、参勤交代のルートとしても使われたことがある重要な街道であった。ちなみに、第一回の巡見の時は、会津から檜原峠を越えて米沢に出たのである。

(34)同年4月29日、晴。
 この日は、前の将軍、家継がわずか八歳で亡くなってから一周忌に当たり、服喪のため綱木に逗留している。ところで、巡見使の旅には休日が無い。多少体調が悪くても、翌日は予定の経路を先へ進まなければならない。江戸を出立して一月余。そろそろ疲れが出てくる頃である。たとえ服喪とはいえ一日の逗留は、一行にとって多少の骨休みになっていたかも知れない。

【参考】今回の巡見にあたって、前の将軍の一周忌が旅の途中にある事は分かっていたので、江戸を出立する前に服喪についての指示を受けていたと思われる。では、旅の途中で訃報を聞いた場合はどうなるか。宝暦11年の陸奥出羽松前の巡見使が、松前の巡視を終えて青森に着いた時、前の将軍が崩御したとの知らせを二週間遅れで受け取っている。本来は、江戸に中陰(四十九日)の勤めについて問い合わせを行い、その指図に従うべきだが、それでは時間が掛かり過ぎる。そこで現地での判断ということになり、二日間を服喪の日と定めて青森に逗留し、三日目からは通常どおり巡見を行っている。

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13.福島周辺の巡視

2008-06-04 19:20:47 | 巡見使の旅
(26)享保2年4月21日(1717年5月31日)、晴。
 二本松からは奥州街道を福島に向う。日記役の記録には、二本柳の次に安達原と記されているが、もともと阿武隈川の西側の平坦地を安達原と呼んでいたので、間違いというわけではない。その後、渋川、八丁目、清水、伏拝を経て福島に出る。覚書では、渋川の園東寺、清水の清水井、伏拝の羽黒山を望む坂と沼、福島入口の白竜の児塚と児淵についてふれている。また、二本松では矢筈森、清水では東岳(吾妻岳)、福島では信夫山を望見している。城跡については、八丁目の山城跡について城主は清野備前、堀越、伊達安房守と記す。また清水の先、左側の大森に安達淡路守の城跡ありとし、福島の手前右手には岩城判官兼村の城跡ありとする。椿ガ城(椿館)については、持地近江守のあと岩城判官正氏が住んだと記す。この日は福島に泊まる。五里ほどの行程であった。

(27)同年4月22日、晴。
 福島から奥州街道を離れて阿武隈川を渡り川俣に向う。移ガ岳を遠望しつつ、いぼ石峠を越え飯野に出て休憩。途中、北浦城という石橋九一郎の古館ありと記す。松沢[川俣町鶴沢]では、悪源太義平を祭る甲大明神を参詣している。その後、福島から五里余の川俣に出る。ここでは、春日大明神を参詣している。この日は川俣と小綱木に分れて宿泊。実は隣接する町小綱木と町飯坂の中間部を川俣として独立させていたので、宿泊地が異なるとはいえ、さほど離れてはいなかったのだろう。ちなみに、巡見使の宿が一か所に三軒無い時は、他の場所に宿泊しても良い事になっていた。

(28)同年4月23日、小雨、曇。
 川俣から、小嶋、手土(手渡)を経て下糠田に向う。途中、飯坂に伊達輝宗の古舘、手土に手土周防守の古館ありと記す。下糠田には小柳川太郎左衛門の古館があり、この古館をコギリスと称し、佐藤氏郷の古跡、また、須田伯耆守・須田氏郷の古跡でもあったと記している。ここから、御代田、小国を経て掛田に出て休憩する。途中、御幸山に十一面観音ありと記し、小国に伊達後宗の陣場跡、武館または並館という伊達備中守の古館ありと記す。この辺りからは北畠顕家の古城跡のある霊仙岳(霊山)が東に見えてくる。伊達後宗の古跡のある掛田を出て、保原を経て梁川に出る。梁川にはクレツボ城という、山陰中将友宗の子・村家の居城跡ありと記す。この日は梁川に泊まる。七里の行程であった。

(29)同年4月24日、半晴。
 梁川から阿武隈川を船で渡り、大枝を経て貝田に向う。途中、須田大炊の古舘、大枝孫三郎の古舘ありと記す。貝田から奥州街道を南へ向かうと、アツカシ山[厚樫山]の古戦場に出る。奥州藤原氏が、この地に防塁を築き兵力を投入して、源頼朝の軍勢を防ぎ止めようとしたが果たせず、結局、ここでの敗退が奥州藤原氏滅亡の契機となったという合戦場である。この付近には、伊達大木戸、国見峠、頼朝の陣場、経の岡、下紐関、義経腰掛松、弁慶母衣掛松、弁慶硯石など史跡が多く、巡見使一行もそれらを見て回っている。ほかに、佐藤秀衡の子息伊達二郎の古館があり、また、万正寺には中村常陸入道宗村の居城跡と墓所があったと記す。宝暦と天明の巡見では、この後、半田で休憩し半田銀山を見分しているが、享保の時は半田銀山についての記述が無い。この日は途中休憩無しに直接桑折に向ったのかも知れない。半田に立ち寄らなかったとすると、この日の行程は四里ほどになる。

(30)同年4月25日、少し雨。
 桑折を出立。瀬の上で馬継(馬と人足の交代)となる。ここで、佐藤庄司家臣の家柄という佐藤庄右衛門なる者が、庄司の甲、鎧、鞍を持参したので、巡見使はこれを見分した。また、佐藤庄司の古舘が飯野(飯坂?)にありと記す。このあと、巡見使一行は鎌田を経て元内(本内)で松川を渡り、福島で休憩する。天明の巡見の時は、阿武隈川を船で渡り、山口で文字摺石を見物してから福島に戻って宿泊しているが、享保の時は山口には行かずに、文字摺石について話を聞いて書き留めただけのようである。このあと一行は庭坂まで行き宿泊している。六里の行程であった。なお、大笹生に銀山跡ありと記している。

【参考】佐藤庄司とは、信夫・伊達を支配した佐藤基治のことである。基治の子息、継信と忠信は、当時平泉に居た源義経の有力な家臣で、源頼朝の挙兵に呼応して馳せ参じる義経につき従った。基治は二人を旗宿で見送ったが、この時、持っていた杖を地に刺したところ芽吹いたのが、旗宿の「庄司戻しの桜」であるという伝承がある。享保の巡見使覚書には記載が無いが、宝暦の巡見使随行者の日記は、この桜についても言及している。

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12.郡山から二本松へ

2008-06-01 08:47:36 | 巡見使の旅
(22)享保2年4月17日(1717年5月27日)、雨降。
 巡見使一行は郡山からは奥州街道を南に進み、笹川を経て十貫内まで行き、奥州街道から分かれて阿武隈川を船で渡り、御代田、正直を経て守山に出る。ここでは大元明王の宮を参詣。また、田村大膳太夫清顕の古館ありと記す。守山で休憩後、江持原を経て奥州街道の宿場、須賀川に出る。須賀川には守屋筑後守の古館、愛宕山の栗田刑部の城跡、須田源蔵の古館ありと記す。また、歌枕の地、西川(釈迦堂川)の岩瀬の渡し、蝦夷穴(蝦夷穴古墳?)についてもふれている。この日は須賀川で宿泊。四里半ほどの行程である。

(23)同年4月18日、雨降。
 須賀川からは奥州街道を離れ東に向かう。神明坂の先、唐久野の原を過ぎ、谷田川を経て栃本に出る。栃本の近くに、北畠顕信が守永王を奉じて北朝方と戦った古跡の宇津峯があるが、巡見使もこの雲水峯(宇津峯)について言及し、山の頂上に星ケ城という田村氏の城跡ありとし、ここに八幡太郎の陣場があったと記している。この日は糖墳(糠塚?)で休憩し、田母神、七曲坂、皮籠石を経て小野新町に出て宿泊。ここには塩釜大明神がありと記している。この日は七里の行程であった。

 ところで、巡見使は古城・古舘に関心を持っていたようで、この日の記録にも、雲水峰の星ケ城のほか、会田遠江守の切戸館、田母神に田母上玄蕃の古館、小野新町に田丸右馬頭の古館ありと記している。ただ、近くまで行く時間的余裕は無かったと思われるので、その場所を遠望しただけ、時には、話を聞いて書き留めただけであったかも知れない。

(24)同年4月19日、晴。
 小野新町からは北に向かい、下廣瀬に出る。ここでは、大岳丸(多田鬼丸?)という鬼神が住んでいた岩穴(大滝根山の鬼穴?)について記し、早馬岳、地獄沢、馬掴場、鞍骨など戦いの跡を示す地名についてもふれている。その先、上股(神股)を経て、馬の背のような鞍掛山を見ながら菅谷に出る。近くに小野小町の守本尊の観音ありと記し、また、先年まで水晶を出していた水晶山についても言及している。菅谷からは鎌倉山を望みつつ常葉に出て休憩。その後、三春に出て泊まる。この日の行程は九里余。三春藩の家老が御見舞のため宿舎を訪れている。 

 この日、巡見使は多くの古館城址を見聞きしている。下広瀬の田村麿の古館、神股の常葉久四郎古館、下大越の大越紀伊守古館、上大越の山城守古館、石沢の赤石沢修理介古館、常葉の常葉五郎左衛門古館、西向の三好中納言の新城、石沢の石沢佐渡守古館、船引の田村大膳太夫清顕(の後室?)隠居の古館が、それである。

(25)同年4月20日。
 三春から七草木に出るが、ここに七草木新介の古館ありと記す。その先、稲沢で馬継(荷物を運ぶ馬と人足の交代)を行い小浜に向う。小浜には、蓬田紀伊の高野館、殿池信濃守の後に稲田数馬の居城となった城、石橋久吉の居城で大内備前が後見を務めた上館がありと記している。小浜で休憩したあと二本松に向う。巡見使の覚書には安達原黒塚についての記述があるが、鬼婆伝説のある安達原黒塚は、小浜から二本松へ向かう途中にあるので、黒塚の近くを通ったか、または立ち寄ったと思われる。その後、阿武隈川を船で渡り、二本松に出て泊まる。この日の行程は六里ほどである。なお、覚書では杉田の七夜桜についてもふれているが、案内者の話を書き留めただけかも知れない。

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