夢七雑録

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東御苑から平河天満宮へ

2018-02-27 19:42:36 | 寺社巡拝

東御苑に梅を見に行く。大手門から入るとすぐ、三の丸尚蔵館近くに梅がある。東御苑を見て回るのであれば、尚蔵館に入ってから、本丸跡へと向かい、梅林坂を下って二の丸庭園を経て大手門に戻るのが良いのだが、今回は先があるので、尚蔵館は割愛し、同心番所から二の丸庭園へと向かう。冬枯れの季節、梅を探すのはさほど難しくない。遠目にも諏訪の茶屋の辺りに梅があることは分かる。茶屋の周辺には種類の異なる梅が植えられているようで、種類を一つ一つ確かめながら回るのが良いのだろうが、今回はそこまでは出来ない。

諏訪の茶屋から梅林坂へと向かう。途中にも梅はあったが、梅林坂までくると道は梅に囲まれるようになる。梅は20本近くもあるだろうか。ここも異なる種類の梅を植えているようだが、残念ながら紅梅と白梅の区別ぐらいしか出来ない。右へ曲がっていく平川門への道を見送って、左に上がる梅林坂を石垣と梅の対比を楽しみながら上がる。それから、天守台で周辺を見回し、北桔橋門から外に出る。

東御苑を出て平河天満宮に向かう。ランニングの邪魔にならぬよう歩き、半蔵濠に出たあとは濠沿いの公園内をたどる。半蔵門からはビルの間を通り抜けて、ビルに囲まれた平河天満宮にたどり着く。この天満宮は、文明10年(1478)、太田道灌により江戸城の北畔、平川に建立されたという。その後、道灌の築いた江戸城が、天下人に相応しい城郭へと改築された際に天満宮は城の外へと移され、天満宮の周辺にあった梅林は梅林坂の名として後の世に伝わることになった。現在の天満宮の境内は広くはないが、江戸三天神と呼ばれた頃の風格を今に残している。天保15年(1844)に奉納された銅鳥居は千代田区指定の有形文化財(建造物)で、境内にある力石、狛犬、百度石、常夜灯、石牛、筆塚は、千代田区指定の有形民俗文化財になっている。

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谷保天満宮

2018-02-21 19:02:10 | 寺社巡拝

谷保駅から関東三天神の一社である谷保天満宮に行く。甲州街道を渡って鳥居をくぐれば天満宮の社叢の内となる。ここの社叢も、杉の大木が枯死するなど樹木の種類は昔のままではないらしいが、全体として鎮守の森の姿をとどめていることから、都の天然記念物の指定を受けている。谷保天満宮の社地は立川段丘と青柳段丘の合わさる位置にあり、南側が低くなっている。古い甲州街道は南側の低地を通っていたが、江戸時代に天満宮の北側を通るように変更したため、甲州街道から入る参道は、神社では珍しい下り坂になっている。

参道を進み石段を下ると、数羽の鶏が集まっているのが見えた。神社の鶏ではなく、持ち込まれた鶏が放し飼い状態になっているらしい。ところで、石段のある辺りは立川崖線に相当するようなので、石段の下にある水路は崖線の湧水を集めて流れているという事になる。谷保天満宮には、このほかに常盤の清水があり、湧水が境内の西側を流れている。

谷保天満宮の社宝には、鎌倉時代の作と考えられている木造の獅子狛犬一対と、建治元年(1275)・藤原経朝の銘のある天満宮の扁額があり、何れも重要文化財に指定されている。本殿は寛延2年(1749)の建築、拝殿は嘉永4年頃(1851)の建築で、何れも市指定の有形文化財(建築)になっている。

 江戸名所図会の谷保天神社の挿絵には、段丘に上がる石段と観音堂が描かれているが現在は存在しない。挿絵の拝殿は建て替えられているが本殿は現存している。そのほか、現状と比べると多少の差異はあるが、全体としては、往時の姿を保っているのだろう。この挿絵は南側から見た図と西から見た図が組み合わされていて少し分かりにくいが、常盤の清水の位置は現在と同じと思われる。江戸名所図会では仮屋坂を安楽寺門前百歩ばかり西に上がる坂とし、新編武蔵風土記稿でも安楽寺の西としているが、挿絵で仮屋坂と記している坂は、安楽寺の東側に当たる甲州街道の天神坂のように思われる。天満宮の扁額を奉納するため勅使が訪れた時に建てたのが仮屋という事だが、当時の甲州街道は南側の低地を通っていたので、天神坂があったかどうかも分からない。

谷保天満の東側は梅林になっている。訪れた時がやや早かったのか、まだ咲いていない木の方が多いようであった。梅林内を歩きまわり東屋から外を見てから、参道を戻る。城山公園を経て矢川緑地に至るコースは、以前歩いたことがあり中々良いコースなのだが、またの機会にとっておく事にして、本日は谷保駅へと戻る。

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成子天神と西向天神

2018-02-18 09:17:21 | 寺社巡拝

当ブログのカテゴリー“富士塚めぐり”の中には、天神社に築かれている富士塚が二カ所取り上げられているが、その二カ所、成子天神から西向天神まで歩いてみた。

中野坂上から青梅街道を下り、淀橋で神田川を渡り、坂を上がって成子天神に行く。御府内場末往還其外沿革図書によると、柏木村のうち青梅街道沿いの町屋が成子町となり、その鎮守に相当する天満宮の社地は、青梅街道から入る細長い参道とその先の境内になっている。この社地は現在まで受け継がれてきたと思われるが、2014年に社殿などを建て替え境内を整備した代償として、住宅棟が建つことになった。都会の神社が存続するためには仕方がないことかも知れない。新しい植栽はまだ神社の杜には程遠いが、何れは都心に相応しい緑を供することになるのだろう。

天神山という小山を崩して富士塚を築いたのは大正9年。富士講による富士塚としては新しいものになる。この富士塚は、全体としては当初の姿を残しているとして、区の史跡に登録されている。築造された当時、遥かに富士を望み町を見下ろしていたであろう富士塚も、今は住宅棟から見下ろされる身とはなったが、史跡としての価値はまだ残されている。

青梅街道沿いの道を適当に歩き、大ガードを潜って雑踏をすり抜ける。日影になった四季の道を通り抜け文化センターの先を右に入ると、斜面を利用して天保13年(1842)に築かれた富士塚が見えてくる。この富士塚は、江戸名所図会の西向天神の挿絵には、まだ描かれていない。挿絵には西向き天神の下に弁天の池が描かれているが、この池は既に無い。

石段で西向天神に上がる。境内の大半は日影。都心の喧騒も遠のいている。境内には梅の木が何本か。紅梅はすでに咲いているが、白梅は咲始めといったところ。心静かに参拝し、都心の喧騒の中に戻る前に、境内を見て回る。先ほど見かけた参詣の人たちは帰ったのか、境内にはもう人影は無い。

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牛天神と小石川後楽園

2018-02-16 19:20:07 | 寺社巡拝

飯田橋から牛天神下の交差点を経て牛天神に向かう。江戸名所図会の挿絵を見ると、牛天神の南側には関口大洗堰で分けられた神田上水が流れていて、牛天神へは神田上水に架けられた橋を渡り、南側の急な石段を上がるようになっていた。今や神田上水は消え去り南側の石段も姿を消して、西側にある牛天神の裏門からの石段だけが残って、参道として使われている。牛天神は金杉天神とも呼ばれていたが、今は北野神社が正式な呼称である。梅まつりは始まっていて、石段の上の梅はすでに開花して、メジロもきていた。

江戸名所図会の挿絵からすると、牛天神の境内には富士を望む茶店があり、楊弓の場所もあったが、すでに無い。今は境内社として太田神社や高木神社が祀られており、境内はやや手狭な感じである。挿絵には、牛天神創建の由来となった牛石が牛坂の下に描かれているが、今は境内に移されている。境内には梅が咲いているが数は多くない。おみくじを梅の枝に結ぶのは厳禁というわけで、牛の形を切り抜いた結びどころが置かれている。

牛天神からの帰りは、当然のように小石川後楽園に寄り、園内を半回りして梅林に行く。まだ満開には至っていないのだろうが、人は来ている。梅の花もいいが、樹形もそれなりに面白い。その中から大空に向かって背伸びしている梅を1枚。

 

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亀戸天神と亀戸散歩

2018-02-14 18:43:00 | 寺社巡拝

亀戸天神は、湯島天神と同じく、関東三大天神の一つになっている。亀戸天神については“亀戸天神と香取神社の梅まつり”という記事を以前に投稿しているので、今回はルートを変えて歩く。錦糸公園を通りオリナスを抜け蔵前橋通りに出て、横十間川を天神橋で渡る。船橋屋の少し先が亀戸天神の入口となる。

梅まつりは始まったばかりで、まだ開花していない梅の木が多数派を占めるが、正面の鳥居近くの紅梅は咲始めており、大宰府の飛梅の実生に由来する紅梅殿の梅もすでに咲いている。白梅は本殿の横のほか、境内の所々で咲き始めている。

亀戸天神は、菅原道真の末裔であった大宰府天満宮の神官が、亀戸村の祠に神像を祀ったことに始まる。明暦の大火後、亀戸は江戸に組み込まれていき、鎮守の役割を担った天神社は、寄進された土地に大宰府の天満宮を写して、東国の天満宮の宗社となる。今は往時の姿を留めているわけではないが、格式のある天満宮として、東京十社の一つになっている。

蔵前橋通りを先に進むと、明治通りとの交差点の角に、亀戸梅屋敷という施設があった。むかし、北十間川近くにあって臥龍梅で知られた梅屋敷の名を利用したらしい。この施設は平成25年の開館で、観光案内所、物産店、ギャラリー、寄席が並んでいる。この日は閑散としていたが、イベントのある日は混雑するのだろう。

亀戸駅を通り過ぎて京葉道路を左に行く。以前に投稿した“気ままに亀戸散歩”という記事でサンストリート亀戸を取り上げたが、行ってみると既に解体工事が進んでいた。それでは、サンストリート内に祀られていた貧乏神さまは何処に移られたのだろう。

サンストリートの横にある都電軌道跡の亀戸緑道公園を歩き、人道橋に出て堅川河川敷公園に下りる。頭上の高速道路は見ない事にして公園内を進むと、赤い太鼓橋が見えて来る。平成24年に開園した三代豊国五渡亭園という庭園で、高速道路下の河川敷ゆえ緑は少ないが、想像で補えば日本庭園になる。五渡亭とは浮世絵師の三代豊国の画号で、堅川の五つ目の渡しの株を持っていたからという。

五之橋の下にはプリントした浮世絵を並べたギャラリがある。自転車に注意しながら見て回り、それから橋の上に出る。ここから、少しばかり歩けば亀戸駅となる。

 

 

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湯島天神と五條天神

2018-02-11 11:27:26 | 寺社巡拝

聖橋を渡り右手の湯島聖堂は今回パスして、坂を下り坂を上がる。息を整え休まずに歩けば、関東三大天神の一つ湯島天神の銅製明神鳥居が見えてくる。湯島天神、正しくは湯島天満宮というべきだが、これからの時期は混雑する。露店の間を通り抜け、本殿に進んで参拝を終えてから境内を一回りする。梅まつりは始まっていて、すでに咲いている梅もあるが、男坂と女坂の間にある梅林の開花はもう少し先のようだ。

 湯島天神の創建は雄略天皇の頃で、天之手力雄命を祀っていたと言う。中世になって村人により菅原道真が祀られるようになる。法印堯恵の「北国紀行」には、文明19年(1487)に湯島を訪れた時の記述に、“古松遥かにめぐりて注連の中に武蔵野の遠望をかけたるに寒村の道すがら野梅盛んに薫ず。これ北野の御神と聞きしかば”とあるので、湯島には天神社があり、梅林もあったのだろう。

湯島天神から不忍池に出て、弁才天を回り込んで清水観音堂の下に出る。月の松が気になるが、石段を上がるのは止めにして五條天神に行く。天神というのは医薬祖神のことで、大己貴命(大国主)と少彦名命を祀っているが、寛永18年(1641)に菅原道真を合祀している。創建年代は定かでないが、法印堯恵の「北国紀行」には、“武蔵野の東の境、忍岡に優遊し侍り。鎮座社五條天神と申し侍り”とあるので、文明19年(1487)には五條天神として鎮座していたことが分かる。五條天神は天神山の山上にあったが、後に黒門近くに移り、昭和3年に稲荷社に隣接する現在地に移っている。参拝を終えて外に、今日の目的はこれにて終り。伊豆栄の横を上がり東照宮の牡丹を横目に、行楽客に紛れて駅へと向かう。

 

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