夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

江戸名所記見て歩き(9)

2012-12-16 09:48:28 | 江戸名所記
<巻7>

7.1 小石川 伝通院
 無量山寿経寺伝通院は、応永年間に、了誉上人が小石川の地に草庵を結んだことに始まる。慶長7年に徳川家康の生母が死去すると、この地が埋葬地となり、法名に従って伝通院となる。「江戸名所記」は、この寺が浄土宗の一派で、談林すなわち学問所であると記している。

 「江戸名所図会」の挿絵には、広大な伝通院の敷地が描かれているが、明治になると徳川家の庇護を失い子院も独立して伝通院の規模は縮小される。伝通院の堂宇は戦災で焼失しており、現在のものは後の再建である。現在地は、文京区小石川3。最寄駅は地下鉄後楽園駅で、富坂を上がった少し先、右手に入り口がある。

 
7.2 渋谷 金王桜
 「江戸名所記」は、金王丸と金王桜について、次のように記している。金王丸は源義朝に仕え、度々手柄をたてていた。平治元年(1159)、源義朝は藤原信頼と組んで謀反を起こしたが、待賢門での戦いに負けて東国に落ち、尾張の野間内海の長田庄司忠宗のもとに身を寄せた。しかし、長田庄司の裏切りにあって討たれてしまう(平治の乱)。金王丸はこの事を口惜しく思い、手向かう者を切り伏せた後、都に上がって、源義朝の妾の常盤御前に事の仔細を話した。その後、金王丸は出家して諸国を修行して回り、源義朝の菩提を弔った。その途中、故郷の渋谷に帰って植えた桜が金王桜である(源頼朝が金王丸を偲んで桜を植えさせたという説もあり)。一説に、源頼朝の命令で義経を討つべく、堀川御所に夜討ちをかけた時の大将・土佐坊は金王丸であるという。金王桜は古木で、花が咲いてもちらほらと少なく、枝付きもまばらである。花の色は白である。

 「紫の一本」には、金王桜が枯れたとき、元の桜の種から生じた木を他から移して植えたという話が載っているが、現在の金王桜は、このような実生によって植え継いできたと言われている。これが確かなら、現在の金王桜は元の桜の子孫ということにはなるが、同じ特徴を示すとは限らない。「遊歴雑記」によると、花の見頃は他の桜より遅く、立春から75日目頃(4月20日頃)という事だが、現在の金王桜は4月初め頃に満開となる。一方、花の色は、「江戸名所記」や「江戸鹿子」では白としており、今も花の色は白で同じである。現在の金王桜の特徴の一つは、巻6で取り上げた右衛門桜と同じく、一重と八重が混じって咲くことだが、本来の金王桜と同じ特徴なのかどうかは分からない。「江戸名所図会」の挿絵には、境内の中ほど、鐘楼の脇に金王桜が描かれているが、現在の金王桜は、金王八幡の社殿寄りに移されている。一説に、幕末の頃、境内に多数あった桜が明治になって伐採され、そのうち一本だけ残った桜が、現在の金王桜ともいう。なお、金王桜は、長州緋桜の一種として渋谷区の天然記念物に指定されている。金王桜のある金王八幡宮の現在地は渋谷区渋谷3。最寄駅は渋谷駅で、明治通りを南に行き、並木橋交差点を左へ、金王神社前の信号を左へ入る。


7.3 金杉村 天神
 金杉村の天神については、次のような縁起が伝えられている。寿永元年(1182)、源頼朝が東国追討の際、この地の入江の松に船をつないで風待ちをした。その時、菅原道真が牛に乗って現れて二つの幸を告げるという夢を見た。目覚めて近くを見ると牛の形の石があった。その後、二つの幸が叶えられたことから、元歴元年(1184)に、源頼朝は天満宮を勧請したという。ただ、この縁起については、年代が合わないという指摘もあり、創建の時期については判然としないところがある。なお、江戸時代より前は、神社の下に小石川大沼があり平川で海に通じていたとされるので、これが縁起に反映されていると思われる。この縁起とは別に、北条氏康が関東を攻めた時、菅原道真が牛に乗って現れた夢を見て、北条氏康が天満宮を勧請したという話もある。巻1の牛天神(五條天神)の項で、金杉天神の縁起と混同していると書いたのは、この縁起のことである。ただし、北条氏康は、勧請したのではなく、再興したとする説もある。「江戸名所記」は、金杉村の天神(牛天神)を源頼朝の勧請とするとともに、社殿は5間と3間で、産土の人は忌み事として5間と3間の家は建てないとしている。また、社殿は山の上にあり、山の下に鳥居があって、神木は榎であると記している。

 「江戸名所図会」を見ると、牛天神(金杉天神)の表参道は南側にあり、上水堀を渡って石段を上がるようになっていた。山上には社殿のほか、茶屋や楊弓場があり、西側は裏門で石段があった。その北側の坂は牛坂で、坂の下には牛石があった。

 現在は、南側の表参道が無くなり、裏門からの石段が参道になっている。山上にあった茶屋や弓場はすでに無く、牛坂の下にあった牛石は、明治の頃には移されている。神社の呼称も、今は、牛天神という通称は残しながらも、公式には北野神社になっている。現在地は文京区春日1。最寄駅は地下鉄後楽園駅で、牛天神下の交差点で右の道を行き、次の信号を右へ入ると右手に入口がある。

7.4 白山町 白山権現 
 「江戸名所記」は次のように記している。白山権現は、加賀の霊神である。越の国の僧侶・泰澄が初めて白山に登った時、イザナギ(イザナミ)という天女が現れ、今は妙理大菩薩と名づくと告げ、たちまち十一面観音の姿となって、やがて姿を隠した。また、手に金の矢、肩に白銀の弓を横たえた小白山大行事という神に会ったが、たちまち聖観音の姿となり、やがて姿を隠した。次に大己貴尊という翁に会ったが、西方浄土の主(阿弥陀如来)と言い、やがて姿を隠した。このような事があったため、白山権現を崇めるようになった。佐羅早松神社の本地は不動明王、金剣宮は倶梨伽羅不動、白山権現は神代の昔には菊理姫尊であったという。この地に白山権現を勧請したのは元和元年(1615)のことである。当時の境内には名水の滝があったが、いつの頃か、右典厩公(徳川綱吉のこと)が、この社を移して、下屋敷に替えることがあり、滝を築いて山の前に落とそうとした。しかし、一滴の水も落ちなかったので、人々は、白山権現の威光で滝は落ちていたので、白山権現が住まなければ滝の水も絶えるとうわさした。しかし、水脈が変わるのは良くある事で、別に怪しい事ではないのだが。
(注)白山権現は、天歴年間に本郷の地に勧請し、元和年間に後の白山御殿の地(現在の小石川植物園)に移り、明暦の頃に現在地に移ったとする説がある。

 「江戸名所図会」の挿絵によると、白山権現(白山神社)の表参道は今と同じ東側にあり、南側の入口は裏門になっている。この挿絵には、裏門を入って石段を上がったところに旗桜が描かれている。「遊歴雑記」によると、この桜は、雄しべの先端(葯)が花弁のように変形して旗のような形になった桜(旗弁のある桜)で、その形から旗桜と名付けたとしている。また、旗桜の由来については、八幡太郎義家に結び付けた説など諸説あって、まちまちであると記している。なお、明治時代に立てられた旗桜記の碑には、出羽に赴く義家の通行を妨げた草賊を、石清水八幡に祈願をこめて桜に旗を掲げて退治したという伝説に因んで、名付けられたとする説が記されている。

 白山神社の境内は明治24年に白山公園となるが、現在は、神社の裏手が白山公園になっている。「江戸名所図会」に描かれていた旗桜は既に枯れてしまったが、白山旗桜という桜の種類として今に伝えられており、いまも境内に残る白旗桜と称する桜は同種の桜であるらしい。「江戸名所図会」の挿絵には、社殿の右手奥に八幡の祠が描かれているが、その背後の林の中に富士塚があり、文政9年(1826)の浅間神社の祠があった。この社の祭礼は6月3,4日で参詣者が大変多かったという。現在は、6月に開催される、あじさい祭の時に富士塚も公開され、多くの人で賑わっている。白山神社の現在地は文京区白山5。地下鉄白山駅下車、すぐである。

7.5 橘樹郡 栄興寺
 「江戸名所記」は、武蔵国ではあるが江戸からやや遠い橘樹郡(現・川崎市、横浜市の一部)の栄興寺(影向寺)を、江戸の名所の一つとして取り上げている。江戸から栄興寺へは中原街道を利用したと思われるが、「中原街道絵図」によりその道をたどると、大崎で目黒川を渡り、桐ケ谷、戸越、中延を経て、馬込で千束池を過ぎ、鵜木を経て下沼部で多摩川を渡り、上丸子から、将軍家宿泊所の小杉御殿を過ぎ、川崎用水(二ケ領用水)を渡り、上小田中、下小田中、新城を経て、岩川、清沢に出る。ここは後の千歳村で、街道右手の台地に上がれば栄興寺に出る。「江戸名所記」による縁起は次のようになっている。天平11年(739)、聖武天皇の妃の橘皇后が病にかかった時、僧が忽然として天皇の前に現れ、武蔵の橘樹の里に霊石があり、その地に伽藍を建て薬師如来像を安置すれば、皇后の病は平癒すると告げて姿を消した。そこで、勅使を遣わし伽藍を建立することにした。行基も東国に下り、霊地を訪れたところ、皇后の病は平癒した。行基は薬師如来像を造り、勅使は七堂伽藍を建てたが、少し離れた小倉の里から夜ごとに燈明を供えにくるという事があった。このような事を記録して都に送ったところ、天皇と皇后は、ともに喜び橘樹郡をこの寺に寄付するということになった。それから長い時を経て、寺も衰微し堂塔も傾いた。文徳天皇の時、慈覚大師は武蔵橘樹郡の薬師の霊地を再興すべしとの夢を見て、これを奏上したところ、天安元年(857)に勅使が派遣されることになり、翌年には七堂伽藍が再興された。慈覚大師は自ら作った本尊の薬師如来像とともに東国に下ったが、途中で本尊が消え、栄興寺の大石の上に先回りするという事があった。そこで、この大石を影向石と名付けた。寺の百坊は昼夜交代で本堂の番を務め、三ケ寺九院は常に天下太平を祈念している。

  影向寺の創建は、縁起の年代より古く7世紀に遡るとされる。近くに橘樹郡の役所・郡衙の施設と見られる遺構も発見されていることから、この近辺が橘樹郡の中心部にあたると考えられており、影向寺の下の中原街道は古代東海道に相当し、小高の駅も近くにあったとする説がある。影向寺は、橘樹郡の郡寺であったと言われ、大寺であったと思われるが、時代とともに衰えたと思われる。「江戸名所図会」の挿絵には、稲毛薬師堂として、茅葺の本堂が描かれているだけで、門は無く、全体としては質素な造りになっている。右手の隅、垣をめぐらした中には影向石が置かれており、本文には、病に霊験ある医王水のことが記されている。

 元禄年間に建立された本堂は、屋根を銅板葺きに代えただけで、現存している。影向石も現存しており、今では塔の心礎と考えられている。影向寺の現在地は川崎市宮前区野川。バス停・影向寺下車。梶ヶ谷駅から“たちばなの散歩道”を歩くのも良いが、道が少々分かり難いところもある。道標を見落とさないように。

7.6 日比谷 神明
 日比谷神明とは、現在の芝大神宮のことである。「江戸名所記」は、この神社の縁起について次のように記している。武州豊島郡飯倉日比谷村の神明は天照大神の宮である。寛弘2年(1005)、神幣と大牙が空から落ちてきたため、村人が集まってきた。すると、何処からか女の子が現れ、踊り狂いながら、“吾は伊勢の神なり。東国に戦いある故、常陸の鹿島に降臨し、兵を退治して帰る。この場所に跡を留めるべく下した2種の印を宮に収めよ。さすればこの地は栄える”と口走って姿を消した。村では小宮を作り弊と牙を納めた。建久4年(1193)、源頼朝が那須野に向かう途中で紛失した刀が、当宮の近くで発見される事があった。その刀は当宮の宝殿に収められ、頼朝からも寄進があって、それからは、この神社も賑わうようになった。明応3年(1494)、北条早雲が関東を従えた時、当宮の領地が削られたため、宮も衰えて参詣する人もいなくなった。天正年中、家康が関東を領地としてから、当宮にも寄進があり、社前も賑わうようになった。寛永11年(1634)、家光が当宮を再興し修造を行うと、人々が集まって市をなすようになった。

 日比谷神明は、もと飯倉の地にあったことから飯倉神明と称したが、芝神明とも呼ばれていた。また、関東のお伊勢様として、人々の崇敬を受けてきた神社でもある。「江戸名所図会」の挿絵によると、当時の境内は広く、茶屋や吹矢などのほか芝居小屋まであった。祭礼は9月16日だが、その前後11日から21日までが、だらだら祭で、名物の生姜や、藤を描いた檜の割籠(弁当箱)を“ちぎ”と称して売っている様子が、「江戸名所図会」の祭礼の挿絵に描かれている。

 現在の芝大神宮は社地が縮小され、社殿も人工の地盤の上に建てられているが、だらだら祭は今も存続しており、縁起物の生姜や、ちぎ(千木筥)も健在である。現在地は、港区芝大門1。最寄駅は地下鉄大門駅である。

7.7 王子 金輪寺
 江戸の郊外、王子村の金輪寺は、王子権現(現・王子神社)の別当をつとめた寺である。「江戸名所記」は、王子権現と金輪寺及び王子稲荷について、次のように記している。王子権現は、若一王子(熊野三山に祀られる五所王子の一)の宮で、熊野権現の別宮である。この神社を熊野から勧請したのは、元亀元年(1570)のことである(元亨年中(1321~)に豊島氏が勧請したとする説、文保2年(1318)以前に勧請したとする説がある)。この神社の中興は徳川家康で、社領200石を寄付している。寛永11年(1634)には家光が再興し、儒官羅浮氏道春(林羅山)に命じて王子権現の縁起(若一王子縁起)を作らせ納めさせている。金輪寺は万病に効く五香湯を出している。祭礼は7月13日で、寺中の12坊より踊り子を出すが、風流の踊りで見物客が多い。稲荷大明神は寺の内にあり、若一王子の社(王子権現)より1町ばかり先にある。この稲荷社は関東の所々に勧請されている稲荷明神の棟梁である。毎年12月晦日の夜に関八州の狐たちが、ここに集まって狐火をともす。人々はその燐火の様子で田畑の良否を知る。2月の初午は諸人参詣して祈るという。

 「江戸図屏風」には王子権現も描かれているが、祠が三か所描かれているだけで、「若一王子縁起」の絵巻に描かれた社殿とは異なる。絵師は再建された王子権現を見ていなかったのかも知れない。「若一王子縁起」絵巻には、神託により与えられた五香薬を僧が渡す場面が描かれている。また、この絵巻には、往古の境内で行われていた花鎮めの祭と、7月13日の祭礼で行われた田楽が描かれている。「江戸名所記」に、風流の踊りと書かれているのは、ビンササラで踊る、この田楽の事と思われる。絵巻を見ると、鎧兜の武者が舞台上で警戒にあたり、舞台の下では竹槍を持った一団が周りを取り囲んでいる。過去に何かあったかのような情景である。「江戸名所図会」の挿絵には田楽の様子が描かれているが、花鎮めの祭については既に途絶えていたため、挿絵は古図の模写によるとしている。

 「若一王子縁起」絵巻の下巻には、次のようなことが書かれている。“王子権現には末社の祠が数多くあるが、何時の頃からか稲荷明神を移し祭るようになった。すると、大晦日の夜に各地の狐が集まるようになり、狐の灯す火が連なるようになった。その様子で、来年が豊作か凶作かを知るのだという。”記述内容からすると、王子権現の霊験に狐火を加えるため、稲荷明神を王子権現の末社のように扱ったようにも思える。結局、稲荷明神の社殿の造営は幕府によって行われたが、稲荷の格式については気になるところであったろう。絵巻には、本文の後の下札(付箋)に、王子稲荷が関東三十三ケ国の総司と書かれているが、これが後になって問題となる。「御府内備考続編」の妻恋稲荷社の項によると、妻恋稲荷は、弘仁の年(810-)に関東総社・正一位を賜ったと伝えられ、古例に従い神階神霊を遷してきたが、万治年間(1658-)に妻恋稲荷が類焼したあと、王子稲荷が関東総社と唱えるようになり、「江戸砂子」も王子稲荷を関東総社と書くようになった。そこで幕府により、王子稲荷と妻恋稲荷に対して取り調べが行われる事になるのだが、寺社奉行から老中への進達文書によると、関東の惣司とする下札がいつ付けられたか分からず、本紙にもこの下札が無いことから、王子稲荷の主張は認められない事になった。しかし、世間の評価では、王子稲荷が関東の総司である事に代わりはなかったようである。狐に対する民間信仰は古くからあり、やがて稲荷信仰と結びつく。江戸の多くの人々にとって、王子の狐火は、王子稲荷が関東総司である印のように思えたのかも知れない。なお、前述の進達文書や若一王子縁起のほか、新編武蔵風土記稿や江戸名所図会にも記載されていないが、王子稲荷の社記には、源頼義が王子稲荷を関東の総司として崇めたと書かれているということである。

 金輪寺は明治になって廃寺となり、塔頭がその名を継いでいる(北区岸町1)。王子権現は王子神社と改称(北区王子本町1)。境内の殆どが戦災で焼失しているが再建されている。祭礼で行われていた田楽は一時途絶えていたが、今は古式のままに再興されている。

 王子稲荷(北区岸町1)は、江戸の稲荷番付で勧進元をつとめた稲荷であり、今でも人気のある稲荷である。特に、凧市の行われる初午の日は参詣者で大混雑する。金輪寺、王子神社および王子稲荷の最寄駅は王子駅である。


7.8 愛宕山
 愛宕山は、愛宕権現を祀る愛宕信仰の山であり、参詣の目的は戦勝祈願や火伏せなどであった。愛宕権現は太郎坊天狗の姿をとるとも言われているが、本地垂迹説によると、本地である勝軍地蔵が姿を変えて現れたとされる。「江戸名所記」は、京都の愛宕山について、役の行者と越の僧・泰澄が山に上がった時、日良、善界、太郎坊などの天狗が行法を妨げたので降伏させた事、慶俊僧都が愛宕山に引きこもり勝軍地蔵を安置した事を述べ、勝軍地蔵は闘争の憎しみをしずめ大平をもたらす守護神ゆえ、江戸に勧請したと記すとともに、別当寺(円福寺)は天台宗であったが、本山から難しい事を言われたため真言宗に変えたと書いている。

 本能寺の変のあと、家康は急いで三河に戻ったが、その途中、宿泊した多羅尾家から勝軍地蔵を献上されるという事があった。その後、家康はこの像を持仏としていたが、慶長8年(1603)、愛宕権現を勧請し、愛宕山に仮殿を建て、この持仏を安置した。これが江戸の愛宕権現の始まりという。「江戸名所図会」の愛宕権現社の挿絵によると、麓を流れる桜川を渡り総門を入ると、左手に別当寺(円福寺)があり、鳥居をくぐった先には男坂と女坂があって、男坂の上には二王門があった。この門は、「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」にも描かれている楼門である。二王門を入って、正面には社殿があり、左手には鐘楼があった。山上は東側の眺めが良く、崖沿いには茶屋が並んでいた。女坂の途中に勝軍地蔵堂が描かれているが、「御府内備考続編」によると、勝軍地蔵は愛宕山下の本地堂のほか、勝軍地蔵堂に2尺2寸の木像があり、ほかにも4尺8寸と3尺7寸の勝軍地蔵の像があったという。

 明治になると、愛宕権現は愛宕神社と改称し、火産霊命を主祭神とする神社となる。二王門や鐘楼や地蔵堂などは撤去され、別当寺(円福寺)は廃寺となったが、寺内では鏡照院が愛宕下に残ることになった。勝軍地蔵の行方だが、明治34年の真福寺の縁日の図から真福寺には大きめの勝軍地蔵像が移されていた事が分かるが、この像は後に焼失している。このほか、鏡照院には2体の小像が伝えられ、愛宕神社にも非公開ながら保存されている像があるという。愛宕権現の正月の行事としては、女坂上の茶店の主が扮した毘沙門天の使いによる強飯式があり、「江戸名所図会」のほか、広重の「名所江戸百景」にも取り上げられているが、明治以降は廃れてしまっている。男坂と言えば、曲垣平九郎が馬で上り下りした事でも知られるが、同じ事を試みた人物は、明治以降も含めて一人や二人ではないようだ。明治19年、愛宕神社の境内は愛宕公園となり、北側から上がってくる新坂も作られる。明治22年、浅草の十二階・凌雲閣に先立って、愛宕神社の南側に五階建ての愛宕塔が西洋料理店愛宕館と共に建てられる。明治30年の芝愛宕山公園之図を見ると、茶店はあらかた取り払われ、崖に面して柵が作られ、ベンチも置かれ、桜が多く植えられて、公園らしくなっている。愛宕塔は大正時代まで営業を続けるが、大正12年の関東大震災で倒壊する。

 現在、愛宕山に上がる道には、男坂、女坂、車道を兼ねる新坂のほか、北西側から新坂を経て折れ曲がりの道で女坂の上に出る道、昭和7年に開通した愛宕隧道の西側から上がる石段の道、それと、近年になってトンネル近くに設けられたエレベータと、青松寺につながる遊歩道とがある。男坂を上がると鳥居があり、正面には丹塗りの門と愛宕神社の社殿がある。男坂の上の右手には池がある。ここの神社と清和源氏の祖・源経基とでは時代が違うが、それはそれとして、山の麓に児盤水と呼ばれた湧水があったという伝承があり、それに因んで新たに池を掘って滝を落としたという事なのだろう。境内には食事処が2か所ある。男坂の上の左側、以前は茶店だった場所に開店した和食処が、今はイタリアンのTになっている。北側の一段下がった場所には中華料理店・菜根があるが、昭和12年の愛宕山の平面図で茶店があった場所に相当している。愛宕神社の南側は、NHK放送博物館の敷地で、大正14年に最初のラジオ本放送を行った東京放送局の跡地である。本放送当日の番組表によると、天気予報に始まり、最後は山田耕作が日本交響楽協会を指揮し、自作の行進曲「JOAK」などを演奏して締めくくっている。愛宕山は23区内の自然の山としては最も高い山である。明治の初め、愛宕山には位置の基準となる三角点と、高さの基準となる水準点とが置かれた。明治17年の5000分の1の測量図には、愛宕山の三角点は25.9mと記されているが、池が造られたため当時の三角点は水没し、現在は位置を移動して、標高は25.7mになっている。水準点の一つは拳法の碑の台座に記され、標高26.2mであったが、この碑も場所を移動している。ほかに、石段下の鳥居にも水準点があったとされ、標高6.1mであったというが、今はどうなっているか分からない。愛宕神社の現在地は港区愛宕1。最寄駅は御成門駅か神谷町駅である。

7.9 傾城町吉原
 「江戸名所記」は、明暦の大火の後に浅草の北に移ってきた遊郭・新吉原について、大道より8町ほどの堤(日本堤)を行くと北向きに門があり、入口は一か所だけで三方は堀になっていること、門内には、江戸町、二町目、すみ町、新町、京町、あげや町、の六町が向かい合っていることを述べ、そのあとに続けて、傾城(遊女)に心を迷わし、名を失い、身を滅ぼすのは何処も同じであるとし、老いの繰り言ではあるがと断りつつも、手きびしい忠告を長々と綴っている。

 「江戸名所図会」は、元吉原について記すとともに、新吉原の賑わいは弥生の花の頃と書いている。現在は、植え替えられた見返り柳が吉原の痕跡を示すのみである。現在地は台東区千束4。三ノ輪駅からは、土手通りを少々歩く。 


【参考資料】
 今回の投稿にあたり、参考にした主な資料は次の通りです。

「江戸名所記」「江戸名所図会」「東海道名所記」「新編武蔵風土記稿」「御府内備考続編」「江戸城が消えていく」「江戸時代図誌4」「図説・江戸図屏風をよむ」「江戸名所図屏風の世界」「江戸図屏風の謎を解く」「図解・江戸城をよむ」「城郭侍屋敷古図集成・江戸城1城郭」「上野寛永寺」「江戸の外国公使館」「日本気象史料」「日本災異通志」「東京市史稿変災篇2」「江戸のおいなりさん」「狐」「広重の大江戸名所百景散歩」「るるぶ情報版・なるほどご利益ランド」「古板江戸図集成」「元禄江戸図」「古代の道」「紫の一本(新編日本古典文学全集)」「武蔵国柏木右衛門桜物語(仮名草子集成)」「兎園小説(日本随筆大成)」「北国紀行(新日本古典文学大系)」「慶長見聞集(江戸叢書)」「遊歴雑記(江戸叢書)」「嘉稜紀行(江戸叢書)」「江戸惣鹿子名所大全(江戸叢書)」「江戸名所花暦」「幕末下級武士の記録」「嬉遊笑覧」「若一王子縁起・同解説」「江戸城・図録」「日本橋・図録」「日本橋(中央区郷土天文館)・資料」「鼠山感応寺・図録」「古代東海道と万葉の世界・図録、展示解説」「中原街道・図録」「江戸図の世界・図録」「愛宕山・図録」「東京名所図会・下谷区上野公園、麻布区、ほか」「台東区、荒川区、文京区ほか、史跡散歩」「台東区史、浅草区史、蔵前史、港区史、麻布区史、豊島区史ほか区史」「葛飾区神社/寺院調査報告書」「江戸城の様子を読む(講座教材)」「江戸城の焼失と再建(講座教材)」「江戸城(講座教材)」。

 上記のほか、インターネットで閲覧したものは次の通り。「新板江戸大絵図」「江戸絵図(国会図書館)」「武州豊島郡江戸庄図」「日本国名風土記」「水野家文書・東叡山絵図」「慈眼大師縁起絵巻」「新燕石十種2」「江戸砂子」「正保国絵図」「秩父武甲山に関する一考察」「養玉院如来寺の歴史」「秩父神社、善光寺、神田明神、泉養寺、その他の各社寺についてのHP」、その他、各種のホームページなど。


コメント

江戸名所記見て歩き(8)

2012-11-17 10:51:30 | 江戸名所記
<巻6>

6.1 目黒不動

 「江戸名所記」は次のように記している。目黒というのは地名であって、本尊の名称ではない。昔、慈覚大師が比叡山に向かう途中、目黒で一泊した折、不動明王の夢を見て霊木にその像を刻み、この地に安置した。その後、慈覚大師が唐から帰朝して関東に下った時、この地において独鈷で地を掘ると滝水が湧き出した(独鈷の滝)。この滝水は炎天にも涸れることが無かった。元和元年(1615)、御堂が火災にあった時、不動明王は滝水の上に移って無事であった。これを見た人々は本堂を建て不動明王像を安置した。寛永元年(1624)、将軍家光が鷹狩に来た時、鷹が遠くに飛んでいってしまった事があった。別当に祈念させたところ、鷹が戻ってきて松の梢にとまった。そこで、呼んでみたところ手に移った。家光は感心し、その後、本堂などの伽藍を再興した。本堂は山の中腹にあり石段で上がる。鷹がとまった勾松(鷹居松)は左手にある。滝水は絶えることなく流れ続け、人々は滝にうたれて諸病を癒している。仁王門は前の方にあり、門前は大道で茶屋がある。

 「江戸図屏風」には、目黒追鳥狩の図や目黒御弁当之寺とともに目黒ノ不動も描かれている。家光は鷹狩などの際に目黒不動にも立ち寄っていたのだろう。独鈷の滝は今も絶えることなく流れているが、鷹居松はすでに枯れて跡だけになっている。目黒不動の本堂と仁王門は戦後の再建で、「江戸名所図会」の挿絵に描かれている建物のうち、現在も残っているのは 前不動堂と勢至堂ぐらいだという。現在地は目黒区下目黒3。最寄駅は不動前だが、目黒駅から行人坂を下って歩いて行っても良い。


6.2 入間郡赤坂 氷川大明神

 入間郡赤坂氷川大明神は、今の赤坂氷川神社にあたる。氷川大明神は、最初、一つ木村にあった。一ツ木村は、赤坂見附近くにあった地名で、一ツ木通りにその名を残している(港区赤坂3)。「江戸名所記」は、一ツ木村にあった頃の氷川大明神を取り上げ、次のように記している。天暦年中(947-)に蓮林僧正が東国で修行していた時、夢のお告げにより十一面観音を掘り出すという事があった。僧正が社を建ててこの像を安置したところ、一ツ木村の観音と名付けられて人々が参詣するようになった。治歴2年(1066)、関八州が日照り続きの時、この社に祈ったところ雨が降ったので、氷川明神と名付けた。

 「江戸名所図会」は、氷川明神について、享保15年(1730)に一ツ木から現在地(南部坂の近く。港区赤坂6)に遷座したとする。一方、元の社が古呂故宮であったとする説に対しては、寛文江戸図に、現在地の氷川明神とは別に、一ツ木に古呂故宮が記されている事から別の神社とし、古呂故宮の由緒については諸説紛々として良く分からないとしている。「元禄江戸図」によると、古呂故宮は氷川明神とも呼ばれていたらしく、さらに、天保14年の「御江戸大絵図」によると、氷川明神が現在地に遷座した後も、一ツ木には氷川明神が残っていたようである。現在の赤坂氷川神社の社殿は遷座当時のものであり、境内は今も昔の面影を残している。最寄駅は六本木一丁目駅。六本木駅からも遠くない。


6.3 永田馬場 山王権現

 永田馬場・山王権現とは、今の日枝神社のことである。「江戸名所記」によると、慈覚大師が武蔵の川越に星野山(無量寿寺)を開いた時に、比叡山の山王権現から、上の7社のうち二宮権現、中の7社のうち気比宮、下の7社のうち王子宮を選び、三所の神として勧請したことに始まり、文明年中(1469-)、太田道灌が川越から江戸城内に移して産土神としたという。さらに、延徳年中(1489-)に江戸城の西に移したとする。なお、年代は不明ながら、梅林坂辺りから紅葉山に移したという説もある。山王権現は、慶長の頃に麹町御門(半蔵門)外の貝塚の地に遷座したとされ、寛永年間の「武州豊島郡江戸庄図」にも、江戸城西側の堀端(千代田区隼町)に山王の社が記載されている。貝塚にあった時の山王権現は、「江戸図屏風」や「江戸京都絵図屏風」にも描かれているが、堀端の道に面して鳥居があり、楼門を潜った先で右に折れ、石段を上がった場所に社殿があった。「江戸天下祭図屏風」は、山王権現が貝塚にあった頃の祭礼の行列が描かれているとされるが、当時の祭礼の行列が、山王権現を出て麹町御門から江戸城内に入り、紀伊徳川家の屋敷を経て、天主を背に竹橋門を出て常盤橋門に至る経路を通っていたことが分かる。山王権現は、明暦3年の大火のあと、現在地(千代田区永田町2)に移っており、寛文6年の「新板武州江戸之図」では、ため池の横に山王が記されている。

 「江戸名所図会」は、江戸随一の大社として山王権現を取り上げている。当時の社号は日吉山王神社であったが、後に日枝神社となる。江戸時代の社殿は戦災にあって焼失し、現在の社殿は、その後の再建である。神社の表参道は東側にあるが、今は、江戸時代には溜池だった外堀通り側から入るのが一般的である。日枝神社の最寄駅は溜池山王駅。外堀通り側はエスカレータが利用できるので、参詣するのも楽になった。


6.4 牛込 右衛門桜

 「正保国絵図(武蔵国)」で、牛込橋から西へ西へと行くと、江戸の郊外である柏木村(新宿区北新宿の辺り)に出るが、ここに右衛門桜が描かれているので、この桜が当時から有名であったことが分かる。この桜は円照寺にあり、一重の桜に八重が混じって咲き、芳香が特にすぐれていたことで知られた名木であった。右衛門というのは人物名ではあるが、本来は、平安時代の役所の一つで、門の出入りを管理する右衛門府のことをさしていた。「江戸名所記」は、右衛門桜について、「源氏物語」の登場人物である、柏木・右衛門督(右衛門督は右衛門府の長官に相当する官職名)が、女三宮との許されざる恋の結果として武蔵国に流された時に、この桜を植えたと記している。もちろん、この話は事実ではないのだが、江戸時代の初期には、謡曲や芝居などで演じられた物語の内容が、事実として受け止められる土壌があったのだろう。

 右衛門桜の名は、右衛門佐頼季(右衛門佐は右衛門府の次官に相当する官職名)が植えた事に由来するという説がある。作者不詳の「武蔵国柏木右衛門桜物語」という仮名草子には、柏木右衛門佐頼季が、平忠常の乱の平定に功があり、柏木と角筈の地を賜って館を建て、桜を植えておいたので右衛門桜の名が出たという事が書かれているが、この仮名草子の内容自体は単なる作り話に過ぎない。「新編武蔵風土記稿」は、この話は後世に作られたもので、証拠にはならないとする。「江戸名所花暦」や「続江戸砂子」には、この桜が衰えていたのを惜しんだ武田右衛門が、接ぎ木をして復活させたことから、右衛門桜の名が出たとし、場所が柏木村であったので、「源氏物語」の柏木右衛門(柏木右衛門督)に因んで名高い桜になったという説が記されている。「遊歴雑記」は、古木が朽ちて枯れたあと若木が芽生えたと記し、「嘉稜紀行」は、接ぎ木の痕が見えないことから、接ぎ木のあと既に何代目かの桜になっていると記している。この桜は長く植え継がれてきたものの、すでに枯れて今は石碑を残すのみとなり、現在、別の桜が記念に植えられている。円照寺(新宿区北新宿3)へは、東中野下車、新開橋で神田川を渡って直ぐである。


6.5 牛込村 堀兼井

 牛込橋から堀に沿って進むと船河原町に出る。右手には逢坂があるが、その坂下にあったのが堀兼井である。「江戸名所記」は、牛込村の堀兼井を武蔵の名所とし、むかし、継母の告げ口により、父がわが子に井戸を掘らせたものの、幼かったので掘ることができぬまま死んでしまったため、この井戸を堀兼井と名付けたと記している。

 宝永5年(1708)、堀兼村の浅間宮(現・堀兼神社。狭山市堀兼)の傍らの窪地に、川越藩士によって石の井桁が置かれ、堀兼井の石碑が立てられる。しかし、碑文に、俗耳に従ってとあるように、自信はなかったようである。「江戸名所図会」は、この堀兼井(跡)を取り上げ、浅間堀兼と号していると記すとともに、6町ほど南にも堀兼井と称する窪地があり、北入間村(狭山市)にも七曲井と号する堀兼井があって使用されないまま雑樹が繁茂していたと記している。同書は、堀兼井と称する井戸がほかにもあることから、堀兼井は一か所に限るべきではないと書いている。堀兼井とは、掘ることが難しい井戸のことを言うようだが、武蔵野の台地では、地下水面が深く垂直に掘ることが難しいため漏斗状に掘った井戸があり、このような井戸を堀兼井と呼んでいたらしい。鎌倉街道上道沿いの七曲井は、そうした堀兼井の一つとされ、漏斗状の井戸の形が復元されている。浅間堀兼は、古代官道の東山道武蔵路のルート上に位置していると思われるので、「延喜式」に従って旅人のために掘られた古代の堀兼井があったとしても、おかしくはないが、確証はない。

 浅間堀兼が世に知られるようになったのは、石碑が建てられてからのようだが、牛込の堀兼井については、「紫の一本」や「江戸惣鹿子名所大全」にも記載があり、江戸では少しは知られていたと思われる。ただ、話の内容や井戸の形からすると、歌に詠まれた堀兼井とは別の井戸と考えた方が良さそうである。なお、逢坂の上の屋敷や赤坂御門内の屋敷にも堀兼井と称する井戸があったというが、名の由来は分かっていない。牛込の堀兼井は明治以降も利用されていたが、今は跡形もなく、逢坂の下の築土神社(新宿区市谷船河原町)の前の説明板に、その由来が書かれているだけである。最寄は飯田橋駅。


6.6 牛込 穴八幡宮

 「正保国絵図(武蔵国)」で、牛込橋から柏木村に行く途中に、穴八幡が記載されている。「江戸名所記」による穴八幡宮の由来は次のようになっている。武蔵国豊島郡牛込郷の戸塚村に、阿弥陀堂山という由緒ありげな山があり、木々は伐採されて松が二本だけ残っていた。寛永13年(1636)、弓大将松平直次が与力達と弓の稽古をするため的山を築き、弓の守護神である八幡宮を勧請しようとした。すると、三羽の山鳩が松の木に止まった。これを瑞祥とし、松を神木にして小さな社を建てた。その後、穴八幡宮の社僧として良昌僧都を招くことになり、草庵を建てるために山を崩したところ、穴が見つかった。入ってみると三尺の青銅製仏像と小さな瓶と人骨があった。良昌僧都は仏像を厨子に納めて祭ったが、これを聞きつけた人々がこの仏像を拝もうと集まってきた。この年の8月、良昌僧都が諸国行脚をしていた頃に見た夢のお告げが現実のこととなり、将軍家に若君が誕生した。同じ月、加賀藩の援助も受け、本殿を神木の松の近くに移して遷宮を行い、放生会を行った。松平直次は与力や同心を引き連れ、幕を張り桟敷を構え、的を立てた。この夜、松の木から光るものが飛び出したため、別当寺の名を光松山放生寺とした。

 「江戸名所図会」は、高田八幡宮の名で穴八幡宮を取り上げている。その挿絵では山の下に別当寺の放生寺が描かれ、穴八幡宮とは石段で結ばれていた。しかし、明治政府の神仏分離政策により、放生寺と穴八幡宮は分離され、今は一陽来復と一陽来福のお札を別々に出している。この挿絵では、石段の途中に、放生寺の山号の由来となった光松が描かれているが、戦災で焼失。今は、随神門の横に光松の記念植樹がある。挿絵には描かれていないが、昔は、仏像が出現した穴の前に出現堂が建てられていたという。その出現堂が、最近になって華麗な姿で再建されている。挿絵では、南側の麓に石清水が落ちる放生池も描かれているが、この池は既に埋め立てられて現存しない。穴八幡宮の現在地は、新宿区西早稲田2。早稲田駅からすぐである。


6.7 雑司ヶ谷 法明寺

 「江戸名所記」による法明寺の縁起は次のようになっている。威光山法明寺の開山は日源上人で、もとは天台宗(異説あり)であったが、日蓮聖人との問答に負けて弟子になり、寺も日蓮宗になった。本堂は3間四面、飛騨の匠の作で、日蓮の御影があり、ある人の話では楠正成妻室が願主という(諸説あり)。鬼子母神は、近くの村にあったものを、天正6年(1578)にこの寺に移して安置したものである。家康在世の時に10石の寄付があり、家光も当寺を訪れている。

 鬼子母神の人気が高まるのは、寛文4年(1664)に鬼子母神堂が建立されてからだろうか。「新板江戸大絵図」で、穴八幡から西に行き、馬場の西側から北に折れて、神田川を面影橋で渡り、南蔵院と金乗院を過ぎて先に進むと、鬼子母神堂の参道に出る。周辺には茶屋が記されており、すでに多くの参詣客が訪れていたことを窺わせる。実際、雑司ケ谷の鬼子母神は、浅草寺や目黒不動と並んで江戸三拝所の一つでもあり、「江戸名所図会」の挿絵にも、参道の周辺に茶屋が軒を並べ、賑わっていた様子が描かれている。現在は、昔のような活況は見られなくなったが、鬼子母神堂は昔のままに残っており、境内も当時の雰囲気を留めている。なお、法明寺の堂宇は、震災や戦災により失われたが、今は再建されている。法明寺の現在地は豊島区南池袋3、鬼子母神堂は豊島区雑司ヶ谷3。最寄駅は都電鬼子母神前か副都心線雑司ヶ谷駅。


6.8 小石川 金剛寺

 金剛寺は、波多野忠経により相模国に創建され、後に江戸庄小日向郷に移り、太田道灌が再興したが、その後、衰えていたのを用山和尚が中興したという。金剛寺は、「寛永江戸全図」にも記載されている由緒ある寺であったが、明暦の大火のあとの寺の再建は思うに任せなかったらしい。「江戸名所記」は、昔は境内も広く堂塔もきらびやかであったが、今はひっそりとしていると記すとともに、本堂は茅葺で、門の内には寺家の寮があり、鐘はあったが鐘楼がないため、松と柱の間に貫を渡して竜頭をかけていたと記している。

 「新板江戸大絵図」で、南蔵院の横を東に行き、神田川を駒塚橋で渡ると、神田川から上水堀が分水される関口大洗堰に出る。その少し先で神田川を渡り、上水堀に沿って先に進むと、左側に金剛寺がある(現在の金剛坂の西側)。「江戸名所図会」の挿絵を見ると、本堂は瓦葺になり、立派な鐘楼が本堂の横に建っている。寺の裏手には地蔵堂があり、寺の由緒を記した実朝碑も建てられていた。現在の金剛寺は、地下鉄工事に伴って現在地(中野区上高田4)に移転しており、旧地(文京区春日2)には金剛坂の名を残すのみとなっている。現在地へは落合駅が最寄りである。


6.9 関口村 目白不動

 「新板江戸大絵図」で、関口大洗堰の先で神田川と上水堀を渡り、目白坂を上がると目白不動に出る。「江戸名所記」は、目白不動について次のように記している。新長谷寺目白不動の本体は、弘法大師作の8寸の不動明王像であり、寺の開山は秀山僧正(秀算僧正。中興ともいう)である。むかし、弘法大師が湯殿山の荒沢で行をしていた時、大日如来が姿を現し、忽ち不動明王の姿に変じて、利剣で左手をはらうと火焔が燃えだした。大師はこの姿を写したが、類なき秘仏ゆえ開帳はせず、厨子の前に立つ不動明王を目白不動と号した。まことに奇特な本尊ゆえ、人々が崇め参詣した。

 目白不動は神田川に臨む崖の上にあり、早稲田や高田を見渡す眺めの良い場所にあった(文京区関口2)。「江戸名所図会」を見ると、境内の崖に面する側には茶店や料亭が並んでおり、この寺が参詣を兼ねた行楽地であったことが分かる。新長谷寺は戦災で焼失し廃寺となるが、目白不動は金乗院に移され、現在は、宿坂沿いに不動堂が設けられている(豊島区高田2)。最寄駅は都電の面影橋か学習院下だが、雑司ヶ谷駅から宿坂を下っても良い。


6.10 小石川 極楽之井

 了誉上人が小石川に草庵を結んでいた時、傍らに清泉があり、これを吉水と名付けた。その後、草庵がもとになって伝通院が建てられ、吉水のあった場所には宗慶寺が建てられる。宗慶寺の内にあった吉水が、極楽之井である。「江戸名所記」は、極楽之井の由来について、了誉上人が吉水の寺に居たとき、竜女が姿を現して仏法の深き旨を求めたので、上人が弥陀の本願他力の要法を丁寧に説明した。竜女は、その恩に報いるため名水を出したが、これを極楽之井と名付けたと記している。その挿絵からすると、井戸ではなく湧水であったかも知れない。なお、「江戸名所図会」は、竜女の話をこじつけとし、下谷の幡随院に伝わる妙竜水の話と混同していると記している。

 その後、宗慶寺は移転させられ、極楽之井は松平播磨守の屋敷地に取り込まれることになる。後になって、移転先の宗慶寺(文京区小石川4)に掘られた井戸に、極楽水の名を付けることが許されたらしく、「江戸名所図会」の宗慶寺の挿絵には、境内の井戸に極楽水の名が付けられている。極楽之井は移せないが、極楽水の名を冠することは支障が無いということだろうか。現在は、小石川パークタワーの公開空地内(文京区小石川4)が、極楽水ゆかりの場所として庭園風に整えられ、弁財天の祠が祀られている。最寄駅は茗荷谷駅。



コメント

江戸名所記見て歩き(7)

2012-10-20 09:26:58 | 江戸名所記
<巻5>

5.1 芝瑠璃山遍照寺

 「江戸名所記」は、遍照寺について、次のように記している。武蔵の芝の山中に光を放つ石があった。弘法大師がこの石に向かって祈念したところ、薬師如来が忽然として姿を現した。そこで、薬師如来の姿を自ら刻み、伽藍を建ててその像を安置し、瑠璃山遍照寺と名付けた。その後、建長年中(1249-)に、俊英阿舎利が山の麓に七間四方の楼閣を建て、山上にあった本尊の薬師如来と十二神将を移した。

 「御府内寺社備考」の摩尼珠山真福寺の項には、真福寺は初め瑠璃山遍照寺と称したとする「改選江戸志」の説と、遍照寺に関する「江戸名所記」の記述が引用されている。また、真福寺については、下総の真福寺の住持であった照海上人が、天正19年(1591)に江戸に出て鉄砲洲に草庵を構えたことに始まり、慶長10年(1605)、愛宕下に土地を賜って、照海上人を開山として開創されたと記している。真福寺本尊の薬師如来像については、浅野幸長が等身大の薬師如来像を彫らせ、その胎内に浅野家伝来の弘法大師作の薬師如来像を納めたとしている。由緒の違いからすると、遍照寺と真福寺は別の寺のようにも思えるが、どのような関わりがあるのか判然としない。「江戸名所記」が、あえて遍照寺の名を用いた理由も不明である。

 真福寺は愛宕の薬師として古くから親しまれていたようで、「新板江戸大絵図」にも、愛宕下に薬師という記載がある。幕末、真福寺はオランダ、ロシア、フランスの公使館として利用されている。その後、震災などで焼失したが再建され、その建物も老朽化したため、現在は、ビルとして再建されている。真福寺は、愛宕山の北側、放送博物館に上がる車道の横にあり(港区愛宕1)、虎ノ門からもさほど遠くない。

5.2 窪町・烏森稲荷

 「新板江戸大絵図」で、烏森稲荷は、幸橋御門の南側に、鴉森宮として記載されている。浅井了意はこの稲荷について良い印象を受けなかったらしく、「江戸名所記」の中で次のような事を書いている。烏森は武蔵の名所と言うことだが歌枕などには見当たらない。古老の言い伝えでは、ここに昔から狐が棲んでいて、人が家を建てるのを妨害したといい、大名も館を建てることが出来ず、祈祷も役に立たなかったというが、本当だろうか。今も祠があって稲荷神を崇めているという。ここは稲荷神の霊地なのだろうが、繁盛するかどうかは分からない。

 「江戸名所図会」は、この稲荷について、往古からの鎮座ながら来歴などは分からないとし、神宝として元歴元年(1184)の鰐口があったと書いている。ただ、藤原秀郷が平将門を攻めた時に勧請したとする説については、信としがたいとしている。なお、明暦の大火の時に烏森一帯も焼けてしまったが、祠は無事だったという話もあって、江戸では結構人気のある稲荷であった。実際、江戸時代の稲荷番付では関脇の位置を占めていたのである。現在は、烏森神社と改称し、新橋駅西側の飲食店街の一角に鎮座している(港区新橋2)。


5.3 芝金杉村・西応寺

 寛文6年の「新板武州江戸之図」によると、増上寺の大門の前から南に行き、将監橋で水路(赤羽川。のちに新堀)を渡って、先に進むと西応寺に出る。西応寺の南側には水路(入間川)があり、ここを渡れば東海道に出る。「江戸名所記」では、応安元年(1368)に明賢上人が西応寺を開いたとしている。また、天正年中に家康が西応寺に立ち寄った際、寺領の寄進を受けたという。本尊は恵心作の阿弥陀如来像で、鎮守は熊野三所である。

 赤羽川と入間川は渋谷川の下流にあたる。江戸時代初期の渋谷川の流路が描かれている「寛永江戸全図」によると、渋谷川は、現・古川橋の近辺で東から北に向きを変え、二つの水路に分かれ、現・一の橋近辺から東に流れ、現・赤羽橋近辺で再び合流し、虎ノ門近くに発して愛宕山と増上寺の横を流れてきた桜川を合わせて、赤羽川として海に流れ込んでいた。また、現・赤羽橋近辺からは南に水路を分け、幾つかに分かれて各屋敷に水を供給したあと、西応寺近くで合流し、入間川として海に流れ込んでいた。寛文の頃になると、渋谷川沿いの農地が武家屋敷地や寺社地に代わるようになり、不要となった水路は埋め立てられる。また、舟が通れるよう川幅を広げるとともに、流路を変えて蛇行を少なくする河川改修が行われるが、「元禄江戸図」を見ると、元禄6年頃には、一の橋近辺まで河川改修が進んでいたようである。結局、四の橋までの河川改修が終わったのは元禄12年頃。下流は新堀と呼ばれるようになる。

 西応寺は、幕末に最初のオランダ公使宿館が設けられたとして、都史跡になっている。なお、オランダは高輪の長応寺や愛宕下の真福寺を宿舎として利用している。西応寺は、イギリス使節の宿舎にもなり日英修好通商条約が締結された場所でもあったが当時の建物は現存していない。現在地は港区芝2。地下鉄三田駅が最寄り駅だが、大門で下車し、芝大門、将監橋を経て南に向かえば、右側に西応寺の入口がある。

5.4.田町・八幡

 「新板江戸大絵図」で、東海道(現・第一京浜)を南に、海沿いの田町を進み、札の辻を過ぎた先、右側に八幡の社がある。「江戸名所記」は、この八幡について次のように記している。この神社は、昔は三田にあり、田町に移ったのは正保年中である。ある人の話では、この宮は渡辺の綱を神としているという事だが、当てにはならない。神事は8月15日。神さびた雰囲気の社である。

 「江戸名所図会」は、三田八幡宮のうしろは山林で、東は海に臨み風光秀美であると記している。また、地元の人の話として、延喜式神名帳にある武蔵国荏原郡御田郷の稗田神社は、この神社であると記している。

 現在、三田八幡宮は御田八幡神社と改称している。今は海も遠のき、風光秀美とはいかないが、現在も交通量の多い道を見下ろす場所(港区三田3)に建っている。なお、延喜式神名帳の稗田神社に該当するかどうかについては異論もある。田町で下車し、第一京浜を南に行くと、札の辻の先、右側に神社の入口がある。

5.5 芝・大仏

 「新板江戸大絵図」で、東海道を田町から先に進むと牛町に出る。泉学寺(泉岳寺)に入る道を見送って先に行くと、右側に芝の大仏オオボトケがある。「江戸名所記」によると、芝の大仏は寛永12年(1635)頃に、但唱木食により建立されたという。大仏は五体の木像(五智如来)で金箔を貼っていたと思われる。大仏の門前には仁王の石像があり、これも但唱木食の作である。「東海道名所記」によると、大仏は身の丈一丈の立像で、仁王は身の丈7尺余であったという。

 如来寺の諸堂は元禄年間に完成をみたが、享保10年(1725)と延享2年(1745)に焼失し、仁王と地蔵の石像も焼損した。その後、諸堂は宝暦年間に大仏も含めて再建される。「江戸名所図会」の挿絵は、再建後の如来寺を描いているが、二王礎との記載があるので、仁王門は再建されなかったと思われる。如来寺は明治になって移転し、如来堂は裳階を外して移築され瑞應殿となる。この時、仁王や地蔵の石像も移したという。大正15年に養玉院と合併し帰命山養玉院如来寺となる。現在地は品川区西大井5。最寄駅は西大井駅である。なお、旧地は泉岳寺の隣(港区高輪2)にあった。


5.6 芝・閻魔堂
 
 「新板江戸大絵図」によると、閻魔堂は如来寺門前の北側にあった。「江戸名所記」は、閻魔堂の前に茶屋があり、門前は東海道で、海面はるかに見え渡ると記している。また、地蔵菩薩の石像のほか石仏が五体あったとする。

 享保10年か延享2年の火災の際、閻魔堂も焼失したと思われる。「江戸名所図会」には、閻魔堂は描かれておらず、また、「御府内備考」にも如来寺境内に閻魔堂跡ありと記されているので、閻魔堂は再建されなかったのであろう。旧地は、現在の高輪神社の北側にあたる。(港区高輪2)

5.7 芝・泉学寺

 如来寺の北隣が泉学寺(泉岳寺)である。「江戸名所記」は、泉学寺と牛町について、次のように記している。この寺は、門庵和尚の開基で、昔は麻布の台にあったが正保年中に今の場所に移る(慶長17年に外桜田に創建され、寛永18年の火災で焼失して移転したという説あり)。寺の山門は高く、門内は松並木になっている。東南を見れば帆かけ船が走り、夜は漁火が沖に浮き沈みするのが見える。ここは品川の入口にあたり、門前の東海道は、上る人、下る人、馬や籠が絶えず通る。門前に続く四町は牛町で、牛車のための牛の数は千疋にも及ぶ。しかし、この頃は、牛を使わずに人が引く地車が使われるようになった。牛の代わりに八人で引くので代八と呼ばれているが、江戸中の馬子などは、この地車を憎んで代八を引く人を人畜生と呼んでいる(牛車大工五郎兵衛と倅の八左衛門が作ったので代八車と呼ばれたという説もある)。

 泉岳寺は忠臣蔵ゆかりの寺として知られるが、本来は曹洞宗の学問所であった。「江戸名所図会」の挿絵には、赤穂四十七士の墓所が小さく描かれているが、挿絵の中心となるのは、本堂や九つの学寮などから成る、本来の寺の姿である。現在の泉岳寺の姿は江戸時代と同じではないが、学問所としての伝統は引き継がれているという。しかし忠臣蔵との関係は深く、義士祭が春と冬の二回行われている。現在地は港区高輪2。泉岳寺駅下車すぐ。


5.8 品川・東海寺

 ここで、浅井了意の「東海道名所記」と、元禄3年の「東海道分間絵図」を参考にして、江戸の入口である芝口(札の辻)から、東海道を辿ってみる。三田八幡を過ぎると、車町(牛町)が四町続く。その先の右手に芝の大仏オオボトケがあり、門の外には閻魔堂と太子堂がある。東海道の海側は石垣になっていて、安房や上総が残らず見え、また、西国などから来た舟も見えた。遠浅の海に沿った道を進むと、右側に御殿山が見えてくる。山上は海の眺めが良く、山中(御殿山)には御茶屋(将軍の休息所などとして使われた御殿)があった。その先、右に入るのが東海寺への道である。東海寺(東海禅寺)を開いたのは、沢庵和尚である。沢庵和尚は故あって出羽の上山に流罪となったが、後に許され、寛永15年頃に東海寺を建ててひきこもる。その風儀を慕う好事家たちが門前に市をなしたと、「江戸名所記」は記している。

 東海禅寺は、5万坪の敷地を有し17の塔頭のある大寺であった。「江戸名所図会」の挿絵を見ると、敷地内に目黒川が流れ、要津橋が架かっていた。この橋を渡った北側に本堂があり、西側の山の上には沢庵和尚の墓所があった。明治になると、広大な敷地の大半は接収され、東海禅寺は廃寺に追い込まれる。その名を継承した塔頭が、現在の東海禅寺である。今は往時の面影は無いが、沢庵和尚の墓所だけは当時のまま今に伝えられている。東海禅寺は、新馬場駅下車。交差点を渡ってすぐ(品川区北品川3)。


5.9 品川・水月観音

 「東海道分間絵図」で、東海道を先に進み、目黒川を渡ると右側に妙国寺(天妙国寺)の五重塔が見えてくる。この塔は「江戸京都絵図屏風」にも描かれており、寛文の頃には存在していたが、現存していない。その先、池上道が右に分かれる。池上本門寺の参詣道である。東海道を先に進むと右側に品河寺(品川寺)がある。「江戸名所記」による、品川寺の水月観音の由緒は次のようである。武州荏原郡品川郷の押領使(治安維持を担当する役職)の某は、弘法大師から渡された観音像を家に伝えて崇めていた。この観音像は品川左京亮の時まで代々伝えられ、品川一門の討死後も草堂に安置されて残された。太田道灌が品川を知行した時は、道灌もこの像を信仰し、観音堂も建てられた。その後、品川は北条家のものになるが、武田信玄が北条家と争った際、品川の観音堂も焼き払われ、観音像も甲州に持ち去られる。しかし持ち去った者が狂気のように品川に返せと叫んだため、観音像は戻されて、藁屋に安置された。承応元年(1652)、寺地を拝領して観音堂を修造し、寺を海照山品川寺普門院とした。観音像は水月観音と名付けられた。

 「江戸名所図会」の挿絵によると、寺に入ってすぐ左に、宝永5年(1708)建立の江戸六地蔵の一つがある。この地蔵尊は今も残っている。挿絵では、寺の門をくぐると正面に本堂があるが、今は右手の奥が本堂になっている。なお、水月観音は秘仏になっている。挿絵の左手には鐘楼が見える。その大梵鐘は明暦3年(1657)の鋳造だが、海外に搬出されたまま行方不明になっていた。ところが、ジュネーブにあることが発見され、昭和5年に返還されて今に残る。品川寺へは、青物横丁で下車して東に行き、旧東海道を南に入るとすぐである(品川区南品川3)。


5.10 池上・本門寺

 「東海道名所記」によると、鈴が森を過ぎた辺りから池上の本門寺が遠くに見えたという。本門寺への参詣道は幾つかあるが、品川寺近くの池上道をたどれば、本門寺の前に出ることが出来た。池上本門寺について、「江戸名所記」は、次のように記している。昔、日蓮聖人が安房小湊から舟で鎌倉に通った時、品川の浦で舟から上がり、池上村に入って、関東番匠棟梁・右衛門尉宗仲の家に宿泊した。聖人は山の景色を見て、ここは遷化(高僧が死去すること)の場所であると心に決めた。後に、身延山よりこの地に移り、宗仲の家に弟子を集め遷化の時が来たことを告げ、弘安5年に遷化した。宗仲は聖人の弟子となり家を寺としたが、これが大坊である。やがて本門寺は繁盛し境内も広くなった。祖師堂には日法作の聖人御影があり、長栄山、本門寺、祖師堂の額は光悦の書である。寺中16坊のうち古跡は、宗仲の家・日澄の寺(大坊本行寺。大田区池上2)、日朗の寺・照栄院(大田区池上1)、日像の寺・覚蔵坊(廃寺)、日昭の寺・南坊(南之坊。大田区池上2)の4か所である。寺の什物には日蓮自筆の注法華経などがある。

 池上本門寺は戦災により多くの堂宇を失っている。「江戸名所図会」の挿絵にある建造物のうち現存しているものを上げると、まず、元禄年間に建立された総門がある。次に慶長12年造立の五重塔がある。この五重塔は「江戸図屏風」や「江戸京都絵図屏風」にも描かれ、寛文の頃にも存在していたが、位置は異なっていた。天明4年の輪蔵(経蔵)も現存している。正徳4年に改鋳された梵鐘は現存しているが、戦災で損傷を受けたため、今は新たに鋳造された梵鐘が使用されている。このほか、江戸時代の建造物として宝塔があるが、「江戸名所図会」には描かれていない。池上本門寺へは、池上駅で下車して10分(大田区池上1)ほどで着く。
コメント

江戸名所記見て歩き(6)

2012-09-23 13:11:59 | 江戸名所記
<巻4>

4.1 廻向院

 「江戸名所記」は、回向院について、ものの哀れを留めていると記すとともに、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火(振袖火事)の惨状を詳細に記述し、武蔵と下総の境である牛島の堀を埋め立て、塚を築いて死者を埋葬し、寺を建てて諸宗山無縁寺回向院と名付けたと記している。「江戸名所記」の挿絵には、露座の仏像が描かれている。銅造阿弥陀如来座像は延宝3年(1675)に造立されたという説があり、これが正しいとすれば、それ以前に露座の座像があったのかも知れない。

 天保の頃の「江戸名所図会」の挿絵を見ると、回向院の境内には茶屋があり、参詣客の姿も見られる。江戸時代の後期、回向院では勧進相撲や出開帳がしばしば開催されており、また、札所でもあったので、参詣する人が多かったのだろう。同書の挿絵に、露座の仏像が本堂前に描かれているが、宝永2年(1705)に再鋳された銅造阿弥陀如来座像と思われる。現在、この坐像は本堂内に移され回向院の本尊になっている。

 天保の頃の回向院の山号は豊国山であったが、現在は、諸宗山無縁寺回向院に復している。所在地は墨田区両国2。最寄駅は両国駅である。 

4.2 三俣

 三俣について、「江戸名所記」は次のように記している。三俣は、浅草川、新堀、霊岩島の三方に通じて水が流れるので、この名があり、絶景の地である。北は浅草寺、深川新田、東叡山寛永寺。西は江戸城や愛宕山。南東に伊豆大島、南西に富士山、東は安房や上総が見える。何より面白いのは8月15日の舟遊びである。世の好事家や大名のほか、貴賎上下の人々が舟を飾り、幕をはって、三俣から鉄砲津を目指して漕ぎ出していく。或いは歌い、或いは吟じ、笛太鼓で囃したてて騒ぎ、三味線や胡弓を弾く。普段は許されない事だが、今宵ばかりは三俣でも花火が許され、舟ごとに競い合って種々の花火を出す。春宵一刻値千金の心地がする。花火は、しだれ柳、糸桜、牡丹花、白菊など様々である(挿絵からすると、当時の花火は今の玩具花火の類だったらしい)。三俣の月は、月の名所の須磨明石にも勝るという。

 寛永年間の「武州豊島郡江戸庄図」や寛文6年の「新板江戸庄図」では、箱崎の西を流れて浅草川(隅田川)に通じる水路(箱崎川)と、霊岸島と箱崎の間を流れる新堀と、霊岸島の西を流れる水路(亀島川)とに、日本橋川が三分岐する地点を、“三つまた”と記している。浅井了意の「東海道名所記」には、海から江戸の地に入るには、“新堀、ミつまたより日本橋にこぎ入るもあり”とあるので、日本橋川が三分岐する地点を、「江戸名所記」も三俣と呼んでいると考えられる。眺望についての記述は、日本橋から新堀、浅草川(隅田川)を経て鉄砲洲に至る舟遊びのコース途中の眺めであろうか。当時は両国橋下流の隅田川に架かる橋は無かったので、見通しは良かったと思われる。18世紀になると、隅田川が舟遊びの中心になり、「隅田川風物絵巻」でも、両国橋から箱崎にかけて行楽の舟が多く見られるようになる。19世紀の「江戸名所図会」では、隅田川が箱崎島で分流する地点を、三派(三俣)と呼んでいるが、舟遊びの拠点が、呼称とともに隅田川に移ったように思える。

 現在、箱崎川は埋め立てられ、箱崎島(中央区日本橋箱崎)は陸続きになり、箱崎の上流にあった中洲(中央区日本橋中洲)とも陸続きとなる。新堀は日本橋川下流の扱いとなるが、亀島川とともに、水路として現在も残っている。往時の三俣の景観は失われてしまったが、舟遊びは、水上バスや屋形船として今も存続している。

4.3 永代島八幡宮
 
 永代島八幡宮とは富岡八幡のことである。創建は寛永4年とされるが、寛永元年に長盛法印が祠に神像を安置したのが最初とする伝承もあり、元八幡と称される富賀岡八幡宮(江東区南砂7)に安置していたという伝承もある。「江戸名所記」では、ご神体(神像)は、菅原道真作で源頼政から千葉氏、足利氏などを経て伝わったとする。「江戸名所記」は、さらに、寛永20年から8月15日が祭礼日になった事、慶安4年に永代寺を八幡宮付属の寺とした事、同5年に弘法大師の堂を建て真言三密の秘蹟を講じた事、同年に流鏑馬を鶴岡八幡の法式により始めた事などを記している。また、永代島の景色は類まれで、東は安房や上総の山、南は品川、池上も近く、南西に富士、北西に江戸城、北に筑波、北東に下総が見えると書いている。

 富岡八幡宮の別当寺であった永代寺には、広重の名所江戸百景にも取り上げられた評判の庭園があった。この庭園は山開きと称して期間を定めて公開していたが、多くの人が訪れたと、「江戸名所図会」は記している。また、富岡八幡宮の門前には、茶屋や料理屋が軒を並べ、行楽客が絶えることは無かったという。明治になると、その永代寺も廃寺となり庭園も失われるが、その後、永代寺の跡に成田山東京別院として深川不動が建てられ、永代寺の名称は塔頭が引き継ぐことになる。富岡八幡宮の祭礼は、今も変わらず8月15日を中心に開催され、八幡宮の門前町である門前仲町は、今も八幡宮や深川不動への参詣客で賑わっている。


4.4 禰宜町・浄瑠璃
  
 禰宜町というのは古い町名で、寛文の頃に浄瑠璃小屋があったのは、堺町、葦屋町であったという。「江戸名所記」は、この町について、次のように記している。ここには、浄瑠璃、歌舞伎、曲芸など色々見物するものがあり、木戸を並べて、太鼓を打っている。貴賎老若で込み合う中に、異様な格好をした連中も居て、傍若無人の振る舞いをしている。町人は恐れて色を失い、女や子供は逃げ帰ることもある。「江戸名所記」は、さらに続けて浄瑠璃の歴史にふれ、三味線を伴奏に人形を操る人形浄瑠璃について、曲節も面白く人形操りも珍しいとし、大薩摩(薩摩浄雲)、小ざつま(浄雲の子、または外記か)、丹後拯(杉山丹後掾)などと名乗って、鼠木戸を構え太鼓を打って営業していると記している。仏教的な題材を扱う説経節も、この頃には人形浄瑠璃に近い演じ方で人気を集めるが、「江戸名所記」は、天下一大さつまの看板をかかげる人形浄瑠璃の小屋のほか、説経節の第一人者であった天満八太夫が「小栗判官」を演じていた小屋を挿絵に取り上げている。

 人形浄瑠璃も、一時は歌舞伎を凌ぐ人気を博するが、次第に歌舞伎人気に圧倒されるようになる。「江戸名所図会」は、堺町と葦屋町の間に人形操りの小屋があると書いているが、すでに歌舞伎に比べ扱いは小さくなっている。明治以降、人形浄瑠璃は文楽の名で受け継がれる。現在、都内では、国立劇場・小劇場で公演が行われている。

 
4.5 禰宜町・歌舞伎

 明暦大火より前の江戸を描いたとされる「江戸名所図屏風」は、歌舞伎芝居、人形浄瑠璃、軽業の小屋が軒を並べる芝居町の様子を取り上げている。歌舞伎芝居として描かれているのは、寛永6年(1629)に禁止された女歌舞伎に代わって台頭してきた若衆歌舞伎である。しかし、承応元年(1652)には若衆歌舞伎も禁止されてしまう。その後、野郎歌舞伎として興業が許される事にはなるのだが、当時はまだ悪い印象の方が多かったらしく、「江戸名所記」でも、歌舞伎に対し批判的な記述になっている。寛文の頃、上方で職を失った歌舞伎役者などが江戸に移り住むようになるが、「江戸名所記」では、そのような人物として、大坂(?)庄左衛門、小舞庄左衛門、杵屋勘兵衛、又九郎(坂東又九郎)、千之丞(玉川千之丞)の名をあげている。

 「江戸名所図会」では、堺町の中村座と葦屋町の市村座が競い合っている様子を挿絵に取り上げている。やがて、天保の改革。芝居小屋は浅草に移転を命ぜられ、堺町と葦屋町から芝居小屋が姿を消すことになる。歌舞伎は、移転先の浅草猿若町で盛況をみせることになるが、明治になると、他への移動を政府から命ぜられる。その後、江戸時代からの芝居小屋は相次いで廃座に追い込まれ、明治時代に創設された歌舞伎座のみが生き残る。現在、歌舞伎と言えば、歌舞伎座ということになるが、今は工事中である。一方、ゆかりの地である浅草の隅田川の畔には、平成中村座が仮設され、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を今に伝えている。


4.6 西本願寺

 「江戸名所記」は、本願寺が東と西に分かれてからというもの、宗風も作法も同じであるのに、対立を続けている事態に苦言を呈し、末寺の坊主などは、東から西に、西から東にと宗派を変えるので、明星房という異名がついていると記している。西本願寺はもと浅草御門のうち(横山町)にあったが、明暦の大火の後、鉄砲洲に移っている。「江戸名所記」は、海に突き出した土地で、初めは寂しい場所であったが、江戸が繁盛するにつれ人家が続くようになり、絶景の地になったと書き、また、本堂は海に向かって建てられていて、安房や上総、伊豆の大島、富士が見えるとし記している。伊豆大島は、見えたとしても山頂が見える程度であったろうが、それはそれとして、当時の西本願寺は海に近く、景勝の地であったのは確かだろう。

 「江戸名所図会」の挿絵から、江戸時代後期の西本願寺には、多くの参詣客が訪れていた事が分かる。その後、西本願寺は関東大震災の際に焼失。昭和に入ってから、インド様式で再建される。西本願寺は、現在、築地本願寺に改称している。


4.7 増上寺

 三縁山増上寺の開山、大蓮社酉誉聖聡上人について、「江戸名所記」は、次のような話を記している。酉誉上人が江戸の貝塚(千代田区平河町)にあった光明寺に居住していた時のこと、光明寺内で経文の解釈をめぐり議論があった。これを聞いていた托鉢僧が、にっこり笑って帰っていったので、酉誉上人はその後を追い、その訳を尋ねた。その托鉢僧・聖冏和尚がその理由を答え、それから、互いに問答するうちに、酉誉上人は深い感銘を受け、それまでの真言宗を捨てて浄土宗に変え、寺の名も三縁山増上寺と改称して、聖冏和尚の弟子になったという。時が移り、江戸に家康が入府した時、増上寺の和尚であった源誉上人に家康が帰依するという事があった。その後、増上寺は現在地(港区芝公園4)に移り、徳川家の菩提寺となり、また学問寺となる。「江戸名所記」は、増上寺について、寺の後ろに将軍家の御霊屋があり、その後は山になっていること。前には僧の寮があり、山門が高く聳えていること。門の外は東海道で上り下りの往来する人で市のようになっていること。東方には海上に舟が行き交う様が眼下に見え絶景であることを記している。

 「江戸名所記」には増上寺内の五重塔についての記述は無いが、「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」には五重塔が描かれているので、寛永の頃から五重塔が存在していた可能性がある。五重塔は承応年中(1652-)に建てられたほか、文化年中(1804-)にも再建されているが、戦災で焼失して現在は無い。増上寺の建造物の多くは戦災などで焼失したが、三解脱門、経蔵、黒門は現存している。

コメント

江戸名所記見て歩き(5)

2012-09-08 18:01:44 | 江戸名所記
<巻3>

3.1 神田 天沢寺
 寛文11年(1671)頃の「新板江戸大絵図」の上で、不忍池から湯島天神の裏手を通る道(現在の春日通り)を西に向かうと、右手に天沢寺がある。天沢寺は、寛永元年(1624)頃、春日の局の隠棲所として現在地(文京区湯島4)に建てられており、寛永11年(1634)には、改称して麟祥院となっている。「江戸名所記」によると、万治元年(1658)、隠元禅師が江戸に来た時は、この寺に70余日の間逗留したが、貴賎を問わず僧も俗人も参拝に訪れて市のようになったという。春日の局は寛永20年(1643)に没したが、家光は忌日に無遮の大会を開いて供養し、一周忌に稲葉美濃守が一切経を寄進したという。

 天保の頃に刊行された「江戸名所図会」によると、家光が命じて生前の春日の局を写させた像が影堂に置かれており、忌日には参詣を許していたという(画像は現存している)。なお、明治20年には、井上円了が、麟祥院内に東洋大学の前身となる哲学館を開設している。


3.2 浅草町・西福寺


 東光山良雲院松平西福寺と称し、松平の呼称は家康から与えられたという。「新板江戸大絵図」で、東本願寺の西側を流れている新堀川沿いに南に行く(現在の道では、浅草通りの菊屋橋交差点から新堀通りを南に行く)と、東側にあるのが西福寺である。開山は心蓮社貞誉(真蓮社貞誉)上人であり、「江戸名所記」では、西福寺は、もと駿府にあったが後に江戸に移ったとする。「江戸名所図会」では、もと三河にあり、後に江戸駿河台に移り、寛永15年(1638)に現在地に移ったとする。本尊は安阿弥作の弥陀如来で、鎮守として弁財天(江の島の弁財天)を祭っていた。「江戸名所記」の挿絵には、屋根付きの鐘楼が描かれているが、実は屋根が無かったようで、鐘の竜頭に藤が巻きついていたと記している。

 新堀通りから東に少し入ったところに精華公園があるが、その近くに現在の西福寺がある(台東区蔵前4)。江戸時代に比べると、敷地はかなり縮小されている。

3.3 森田町・大六天

 「新板江戸大絵図」では、大六天の位置は判然としないが、「元禄江戸図」では、西福寺の南側に大六天が記載されている。西福寺から東に行き、浅草御蔵の前を通る奥州街道(現在の江戸通り)に出て南に折れると、右側に森田町(台東区蔵前4)がある。大六天はここから入った。「江戸名所記」は大六天について、古老の言い伝えでは開基以来800年に及ぶとし、2月9日が神事であると記している。また、縁起は分からないとしながらも、大六天はマケイシュラ王の尊像だろうとし、欲界第六の他化自在天の主としている。仏教では世界を欲界・色界・無色界に分け、欲界の天を六つに分けるが、欲界の最上位の天である他化自在天の主(大六天魔王)に対する、民間信仰に由来すると思われる。

 大六天は鳥越神社の境内社であったが、正保2年(1645)頃に森田町に移っている。さらに、享保4年(1719)頃、火災により浅草橋近く(台東区柳橋1)に移る。「江戸名所記」から170年ほど後の「江戸名所図会」は浅草橋近くに移った後の社を、第六天神社として取り上げるが、祭神は、神代七代のうち六代目にあたる男神・面足尊(オモタルノミコト)と女神・惶根尊(カシコネノミコト)に代わっており、祭礼も6月5日になっていた。

 明治6年、この神社は榊神社に改称する。祭神は面足尊と惶根尊である。昭和3年には、江戸時代の浅草御蔵の跡地である現在地(台東区蔵前1)に移転する。江戸通りの須賀橋交番交差点を東に入ったところに、現在の榊神社がある。

3.4 浅草・閻魔堂、付 十王

 「新板江戸大絵図」で、奥州街道(現在の江戸通り)を南に行き、新堀川と合流した鳥越川の下流を鳥越橋で渡ると、その先の右側に閻魔堂があり、その隣に十王堂がある。「江戸名所記」は、本堂は宝形造りで、本尊は閻魔大王、左に地蔵、右に三途の川の老婆があり、本堂の左側に不動堂があると記している。「江戸名所記」の作者・浅井了意は、いつ頃に誰が建てたのか、寺の留守居に聞いたようだが、相手は知らん顔をきめこんでいた。了意は趣旨を話して重ねて尋ねたらしいのだが、無作法な返事しか返ってこなかったため、よほど腹にすえかねたのか、非難の文言を書き連ねている。結局、「江戸名所記」には、閻魔堂ばかりか、隣の十王堂の縁起についても書かれない事になった。

 「江戸名所図会」によると、閻魔を本尊とする長延寺は慈覚大師の草創で、昔は下野国にあったが、文永年中に武蔵国に移されたとし、霞が関から馬喰町に移り、後に今の地に移ったという説を紹介している。また、閻魔堂の隣にある祇園社について、この社の牛頭天王は天歴年中の鎮座で、別当は大円寺とし、境内の十王堂は慶長18年の建立で、地蔵菩薩の左右に冥途の十王を安置していると記している。

 閻魔を本尊とする長延寺は、後に華徳院と改称している。閻魔堂は他の堂宇とともに関東大震災で焼失し、今は閻魔堂跡の碑(台東区浅草橋2)が残るのみである。また、華徳院は新高円寺駅近くの五日市街道沿い(杉並区松ノ木3)に移転している。閻魔堂の隣の牛頭天王社(祇園社)は、須賀神社と改称して今に残るが(台東区浅草橋2)、十王堂は現存しない。現在の須賀神社は、須賀橋交番の交差点から江戸通りを南に行ったところにある。


3.5 浅草駒形堂

 「江戸名所記」は駒形堂について次のように書いている。駒形堂は浅草寺の門口にあり(総門があったと伝える)、馬頭観音を安置している。平公雅の建立である。人々はここで手水をとり口をすすぎ、心身を清めて浅草寺本堂を参拝する。駒形堂は、浅草川(隅田川)の船着き場で、吉原に行く者もここで船に乗る。駒形堂の前には茶屋がある。ここの名物は鯉で、その味は淀川の鯉に勝るという。鯉は川端で売っている。

 17世紀の「江戸名所記」の挿絵では、駒形堂は東向きで隅田川に面しているが、18世紀の「隅田川風物図巻」では、隅田川を背にした西向きになっている。19世紀の「江戸名所図会」の挿絵では南向きのようにも見えるが、現在の駒形堂は、西向きになっており、駒形橋の傍らにある。


3.6 浅草・文殊院

 文殊院は慶長5年(1600)駿府に開創。寛永4年(1627)浅草に移る。「新板江戸大絵図」で、駒形堂から南に行くと、右側に文殊院が記されている。文殊院について、「江戸名所記」は、高野山行人方の頭(触頭)で、堂は東向き、本尊は不動明王と記している。また、この寺には何故か公事訴訟が絶えないという事についても取り上げている。近世の高野山は学問を修める学侶方、寺の雑務を行う行人方、布教活動を行う聖の三派間でしばしば対立し、公事訴訟にまで発展する事があった。

 延宝元年(1673)、高野山学侶方の江戸在番所として芝二本榎に正覚院が建てられる。一方、文殊院は学侶方との論争に敗れて寺領を没収され、跡地には学侶方の寺を別当として石清水八幡が勧請される。元禄9年(1696)、文殊院は行人方江戸在番所として白金台に再興する。天保の頃の刊行である「江戸名所図会」に文殊院の記事は無いが、挿絵には正覚院と文殊院の両方が載せられている。現在、正覚院は高野山東京別院(港区高輪3)として残り、石清水八幡は蔵前神社(台東区蔵前3)として残っている。

 一方、文殊院は、大正9年に、現在地(杉並区和泉4)に移転している。最寄駅は地下鉄の方南町になるが、神田川に近い住宅地にあり、道は少し分かりにくい。

  
3.7 角田川

 角田川(隅田川)は、江戸時代の初期まで武蔵と下総の境であったので、「江戸名所記」でも、隅田川の東岸を下総の名所として取り上げ、隅田川について詠んだ歌を幾つか紹介している。在原業平の「伊勢物語」に、“名にし負はば・・・”と詠まれ都鳥は、“白き鳥の嘴と脚の赤き、鴨の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ”と書かれているので、カモメ類のユリカモメを指していると考えられる。「江戸名所記」では、都鳥について、隅田川に限らずどこにでも居る鳥で、美しい鳥なので籠に入れて飼うと記している。また、蛤を餌にすると書いているので、ミヤコドリ類のミヤコドリを指しているのかも知れない。「江戸名所記」は、岸近くの梅若丸の墓(木母寺)も取り上げており、印の木は柳で、縁日は3月15日と記し、この寺に詣でた人々は、昔の事を聞き伝えて、みな哀れを催し、歌を詠み詩を作ると記している。また、付近は一興ある景地で、茶屋もあり、将軍家も折々遊覧すると書き、五智如来を造って寺の本堂に置いているとしている。
 
  木母寺は明治になって廃寺となるが、明治21年に再興する。昭和51年、防災団地の建設により現在の場所(墨田区堤通2・東白髭公園内)に移動している。最寄駅は東武伊勢崎線の鐘ヶ淵である。


3.8 西葛西・浄光寺薬師

 浄光寺薬師とは、当時、西葛西・木下川村にあった青竜山浄光寺薬王院の事である。「江戸名所記」によると、慈覚大師が青竜の棲む霊地としてこの地に仏殿を建てたのが浄光寺の始まりで、本尊は伝教大師作の薬師医王像であった。また、本堂は東向きで、東北に鐘楼があり、東方に山王権現が鎮座。東南方には弁財天、南方に白髭明神と稲荷があったとし、家康から朱印の田地を寄付されたとしている。

 「江戸名所記」には、浄光寺(木下川薬師)で毎月8日と正月に竜燈をあげると書かれているが、170年ほど後の「江戸名所図会」によると、この習わしは途絶えていたという。なお、同書では、木下をキゲと読んでいるが、地元ではキネと呼んでいたと記している(現在はキネ)。

 大正8年、木下川薬師・浄光寺は、荒川放水路工事に伴い、現在地(葛飾区東四つ木1)に移転している。最寄駅は京成押上線の四つ木駅である。

3.9 葛西郡・東照院若宮八幡

 「江戸名所記」によると、源頼朝が奥州征伐の途中、若宮八幡宮に立ち寄って戦勝祈願を行った際、榎のむちを地に差したが、これから生じた榎の木が今も残っているとし、鎧の裾を濡らさないよう竹林は低くなっているとしている。また、奥州征伐を終えて戻った源頼朝が建立した社殿も、長い年月の間に朽ちかけていたため、伊奈備前守が再興したと記している。なお、別当をつとめていた東照院は、後に善福院に改称している。

 170年ほど後の「江戸名所図会」によると、榎のむちから生じた木は既に枯れ、古松老杉も繁るにまかせ、もの寂しい境内になっていたという。

 大正元年、荒川放水路の工事により、若宮八幡の別当であった善福院は、現在地(葛飾区四つ木3)に移転する。若宮八幡は、この頃、隅田川神社(台東区堤通2・東白髭公園内)に合祀されたと思われる。隅田川神社は木母寺の近くにある。

 昭和7年、善福院の移転した地域が本田若宮町として独立するが、恐らく、地名の由来となった若宮八幡を再興しようとする動きが出てきたと思われる。昭和4年頃の地図には、当該地域に神社記号は見られないが、昭和12年の地図には、現在の若宮八幡(葛飾区四つ木3)に相当する位置に神社記号が見られる。神社の石標からすると、若宮八幡は昭和11年に建立されたと考えられる。ただし、昭和54年の「葛飾区神社調査報告」に当社の記載はない。最寄駅は京成押上線の四つ木駅である。


3.10 東葛西・善導寺

 「江戸名所記」に善導寺とあるのは善通寺のことである。同書によると、当寺には中将姫が織ったという弥陀の形像が一幅あり、地は蓮の糸で、如来は中将姫の黒髪で織ったと伝えられていたという。また、中将姫の忌日にあたる4月15日には、人々に拝ませていたと記している。むかし、泥棒がこれを盗んで逃げたが、外に出ることが出来ずに立ちすくんでいたため、取り返したという話も書かれている。なお、中将姫は、奈良当麻寺に伝わる曼荼羅を織ったという伝説上の女性だが、この伝説が各地に流布する過程で、種々の伝承が生み出されたと思われる。

 善通寺は、大正時代の荒川放水路工事のため、現在地(江戸川区平井1)に移転している。最寄駅は総武線の平井駅である。


3.11 牛島・業平塚

 「伊勢物語」には在原業平が東下りした話が載っているが、「江戸名所記」は、この事を取り上げて、「伊勢物語」には、東国から京に上がったという記述は無く、どこで死んだかも書かれていないとしている。その一方で、都に上がるために乗った舟が破損して在原業平が亡くなったため塚に埋めたという古老の話を紹介し、今も舟の形の塚が残っており、地名も業平村であると書いている。「江戸名所記」の挿絵に、田畑の中に描かれている塚のようなものが業平塚ということのようである。「新板江戸大絵図」で、横川(大横川)に架かる業平橋の西側にナリヒラ天神とあり、業平塚はその敷地内にあったと思われる。 

 「江戸名所図会」では、地名について、成平とする説や業衡とする説も紹介し、業平天神の由緒については諸説あって分からないとしている。また、在原業平の事は、「伊勢物語」を単なる物語とも知らずに、こじ付けたのではないかと書いている。

 「伊勢物語」は、在原業平の歌をもとにした物語で、業平の実像とは異なるという。東下りの話もフィクションという事になるだろうか。業平塚があった業平天神は南蔵院の境内にあったが、南蔵院が移転した際に廃止されている。いま、その跡地(墨田区吾妻橋3)に業平塚はない。現在の南蔵院(葛飾区東水元2)は、水元公園近くにある。最寄駅は常磐線の金町である。

3.12 西葛西・本所太神宮

 「江戸名所記」には次のような話が書かれている。寿永年中(1182-4)のことだが、本所の人々は、空をかけて飛ぶ伊勢大神宮の夢を見た。光輝く空のうちに、法華経寿量品を唱える声がし、我は伊勢の神明なりという声も聞こえた。誰もが同じ夢を見たので、不思議に思い伊勢大神宮を勧請した。

 「新板江戸大絵図」や「元禄江戸図」で、神明と記されているのが本所大神宮に相当すると思われる。「江戸名所図会」では牛島神明宮として取り上げているが、後に朝日神明とも称していたようである。現在は、旧地(墨田区東駒形2)から西に少し移動するとともに(隅田区東駒形1)、船江神社と改称している。最寄駅は本所吾妻橋駅である。


3.13 牛島・太子堂

 「江戸名所記」は、西葛西の牛島・中の郷にある太子堂について、慈覚大師が関東修行の時に建てた堂であり、聖徳太子自作の太子像を安置していると記している。また、堂のほとりに光り物が出るので掘ったところ文明2年の石塔を発掘したこと、天文の頃に火災にあったが太子の木像が堂の外に出て無事だったので堂を建てて安置したことが書かれている。ただ、事のほか荒れているのが悲しいとも書かれているので、寛文の頃には、かなり衰退していたらしい。「新板江戸大絵図」には、太子堂の別当であった如意輪寺は記載されているが、太子堂自体は記されていない。

 「元禄江戸図」には、如意輪寺と太子堂が記載されている。また、「江戸名所図会」には牛島太子堂として取り上げられており、その挿絵には、如意輪寺内に太子堂と鳥居が描かれている。現在、如意輪寺は存在しているが(墨田区吾妻橋1)、太子堂はすでに無い。最寄駅は本所吾妻橋駅である。


3.14 深川・泉養寺、付 神明

 「江戸名所記」には、医王山泉養寺は天台宗で薬師如来を本尊とし、慶長年中に秀順法印を開山として草創されたと記されている。また、寺から4町ばかり離れた松林の中の神明社は当寺の境内であり、祭礼は9月13日であるとしている。「新板江戸大絵図」に泉養寺の記載はないが、「元禄江戸図」には小名木川沿いに泉養寺が記されており、その北側に神明も記されている。寛文2年刊行の「江戸名所記」に取り上げられているのは、小名木川沿いの旧地(江東区常盤2)にあった頃の泉養寺である。

 元禄年間になって、泉養寺は猿江に移る。この時、神明社は移らなかったが、泉養寺が別当を引き続きつとめている。泉養寺の移転先は、天明元年の「本所深川割絵図」に、幕府の御木材蔵(跡地は現・猿江恩賜公園)の南側(江東区猿江2)に記されている。天保の刊行の「江戸名所図会」によると、猿江に移った後の泉養寺の池には、牡丹の形の蓮の花があり、開花期には訪れる人が少なくなかったという。同書には、この辺が原野だった頃から居住していた深川八郎右衛門が、その宅地内に伊勢神宮を勧請し、泉養寺開山の秀順法印に奉祀させたこと、および、徳川家康から、苗字の深川を地名に当てるよう命ぜられた事が記されている。

 現在、神明社は深川神明宮として深川発祥の地(江東区森下1)に祭られている。最寄駅は地下鉄森下駅である。泉養寺は昭和に入ってから、現在地(市川市国府台3)に移転している。寺紋は深川家の家紋である“いも洗い”を使用しているという。最寄駅は北総線矢切駅である。

コメント

江戸名所記見て歩き(4)

2012-08-11 15:46:51 | 江戸名所記

<巻2>

2.1 駒込村吉祥寺

 太田道灌が江戸城を築城した際、掘った井戸から吉祥増上の金印(銅印)が出た事から、長禄2年(1458)に吉祥庵を建てたのが吉祥寺の始まりと伝えられている。諏訪山吉祥寺としての開創は大永年間(1521-1527)、開山は青巌周陽和尚(?-1542)という(文京区史跡散歩)。江戸城が北条氏に攻められ開城した後のことだろうか。その後、江戸城の城代となった遠山氏により、吉祥寺の寺領の安堵も行われている。当時の吉祥寺の位置は、現在の和田倉門の辺りとされるが、徳川家康が江戸に入った翌年、天正19年(1591)に、吉祥寺は神田の台に移る。「寛永江戸全図」や「江戸図屏風」には、現在の水道橋に相当する吉祥寺橋の近くに吉祥寺が描かれている。明暦の大火(1657)のあと、吉祥寺は、駒込の現在地(文京区本駒込3)に移るが、「江戸名所記」に取り上げられているのは、駒込に移ったあとの吉祥寺である。

 「江戸名所記」によると、吉祥寺が神田の台に移った時、住持の用山玄照和尚に対して、移転先は辺鄙な場所だが寺にとってはどうなのかと、ご下問があった。そこで玄照(元照)が答えて曰く、江戸の様子を見ると、これから大いに繁盛して市をなし人の住処も広まるだろうから、敷地を移された寺もまた他の場所に移るようになるのではと申し上げた。これを聞いた家康は感心して直ぐに寺領を寄付した。そして、同安洞察和尚が住持の時に吉祥寺は駒込に移る事になった。
 「江戸名所図会」の挿絵を見ると、何といっても学寮の多さが目につくが、これは、吉祥寺が曹洞宗の学問所であり、栴檀林と号していたことによる。学寮を設立したのは、用山元照と伝えられるが、駒込に移った後も、多くの学寮が建てられたという。

 吉祥寺は戦災により大半を焼失し、現存しているのは山門と経蔵だけである。吉祥寺の学問所としての機能は、現在、駒澤大学に引き継がれている。なお、武蔵野市吉祥寺は、吉祥寺門前町の住人が移住して開拓した土地ゆえ、吉祥寺と称したという。

2.2 駒込村富士社並びに不寝権現

 「新板江戸大絵図」で、吉祥寺から北に向かうと富士権現に出るが、この神社が駒込村富士社であり、現在の富士神社である。富士神社は、もとは本郷(加賀藩屋敷内、現在の東大構内)にあったが、後に駒込の現在地(文京区本駒込5)に移っている。
 「江戸名所記」は富士社について、次にように記している。この社は100年ほど前に本郷にあったが、山の上の大木のもとに6月1日(旧暦)に大雪が降った。近くに寄ると祟りがあったので、人々は恐れて小社を造り、富士権現を勧請した。それからは、6月1日に富士まいりとして貴賓上下が参詣するようになった。この場所は寛永の初めに加賀藩の屋敷になったが、今も社の跡が残っていて毎年6月1日に神事がある。山は富士の形で、その前に富士書院という書院がある。山上の社には今も6月1日に老若の群衆が集まっている。社の別当は真光寺昌泉院がつとめている。

 「新編武蔵風土記稿」は、寛文の頃の神社縁起をもとに、天正元年(1573)に村人が富士浅間神社を勧請したとしている。「社記」は、社殿造営の翌年(1574)6月1日に江戸に雪が降ったため、富士社を祭る霊場として参詣者が増えたとする。「江戸惣鹿子」は、100年ばかり前の6月に雪が積もり富士浅間を勧請したと記し、「兎園小説」は、慶長8年(1603)6月1日に雪が降り、その場所に浅間宮を造ったとする。また、慶長20年6月1日に雪が降ったという話もある。何れにしても、「日本の気象史料」、「日本災異通志」、「東京市史稿変災篇2」に該当する記事は見当たらない。ただ、ヒョウやアラレも雪とすれば、夏に雪が降る事はあり得ない話では無く、「日本の気象史料」には、夏(立夏から立秋前日、新暦で5月6日~8月7日頃)に雪が降った例として、慶長19年、元和3年、正保4年、安永8年、嘉永6年、文政元年の事例が記されている。なお、富士神社が駒込に移ったのは、加賀屋敷の造営が始まった頃とされるが、それより前に、本郷とは別に駒込にも富士社があったようである。

 「新板江戸大絵図」で、富士神社から東に向かい、天祖神社の先から、南に向かう道をたどると、千駄木坂(団子坂)の上に出る。団子坂の手前に子ズノゴンゲンと書かれているのが不寝権現に相当し、現在の根津神社の旧地にあたっている。もとの不寝権現は団子坂の南側にあったが、太田備中守の屋敷地になったため、団子坂の北側に移されたという。「江戸名所記」に取り上げられているのは、団子坂の北側に移ったあとの不寝権現である。同書では不寝権現について、栴檀の林の中の小社で、太田備中守が新たに社を作ったと記し、来歴については不明としながらも、不寝権現は番神なのだろうと述べている。「江戸惣鹿子」では、子ズノ権現の呼称からネズミに関係あるとして大黒天を祭ったのではないかとしている。縁起については他にも説があるが、何れも判然としない。不寝権現は千駄木の鎮守で、近くにあった甲府藩邸にとっては産土神であったため、甲府藩主の子で、後に五代将軍綱吉の養子となり六代将軍となった徳川家宣が、お宮参りをした神社でもあった。その縁で、この神社は後に甲府藩邸の場所に社地を移すことになり、宝永3年(1706)には幕府により社殿が造営される。「江戸名所図会」に取り上げられているのは、この時に造営された社殿であり、スサノオを祭神とする根津権現社である。

 現在、この神社は改称して根津神社(文京区根津1)となり、主祭神をスサノオとしている。宝永3年に造営された社殿は現存し、重要文化財に指定されている。現在の縁起によると、ヤマトタケルが千駄木に創祀したとされ、文明年間に太田道灌が社殿を奉建し、世継ぎが決まった時に五代将軍綱吉が社殿を奉建し遷座したとしている。

 
2.3 西新井惣持寺

 西新井惣持寺、すなわち總持寺(足立区西新井1)、通称・西新井大師は、千住宿の先にあり、江戸の郊外ということになる。しかし、歩いて日帰りできる場所でもあった。惣持寺の縁起について、「江戸名所記」は、弘法大師が行をしようとしたところ、閼伽の水が無かったので、地に向かって加持したところ、忽ち水が涌いたため新井と名付けたと記している。これとは別に、弘法大師が病魔退散のため加持祈祷を行い、像を井戸に投げ入れたという縁起も伝えられている。当時の惣持寺は真言宗の談林、すなわち学問所であり、修行僧が多く集まる寺であった。この寺が江戸の名所として、多くの参詣客を集めるようになるのは、江戸の後期になってからのようである。

 「江戸名所図会」は茅葺の惣持寺を挿絵としているが、茶屋も一軒描かれており、毎月の御開帳の際には参詣すこぶる多し、と記している。惣持寺が瓦葺になるのは天保年間になってからであり、三匝堂もこの頃に建てられている(明治時代に再建)。

 現在の西新井大師は、川崎大師と並ぶ関東の弘法大師霊場として、多くの参詣客を集めるようになった。江戸時代の建造物としては、江戸後期の仁王門が現存している。

2.4 浅草観音

 「江戸名所記」による浅草観音、すなわち浅草寺の縁起は、次のようなものである。推古天皇の36年、檜熊、浜成、竹成の兄弟が下ろした網に観音像がかかった。兄弟は驚き、家に帰ってから仲間を集めて相談したが、早く宮を作って観音を奉安すべきという事になった。翌日、兄弟が漁に出たところ多くの魚が獲れたので、これを売った儲けで観音堂を建てた。兄弟が亡くなったあと、子孫が三つの社を建て兄弟を祭った。これが三所の護法神である。また、夜毎に光を放つ観音を尊んだ十人の草刈が協力して観音堂を建てたが、これが後に十社権現となり、最初の宮が一の権現となる。大化元年に勝海上人がこの地に詣で奇特のお告げを得て以来、本尊を直接拝んだ人はいない。天慶5年、平公雅が観音堂を再興して仏堂や五重塔などを建てた。その後、地震や兵火で度々堂塔が破壊されたが、その都度再建されている。
 浅草寺の草創にかかわる縁起は、伝説に過ぎないとはいえ、浅草寺一帯は古代から中世にかけての遺跡地でもあり、伝説が生まれる土壌があったと思われる。

 明暦以前の景観を描いたとされる「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」には、本堂の西側に三重塔が描かれるとともに、仁王門や本坊、それと位置は異なるが鐘楼も描かれている。「江戸名所図屏風」には、浅草橋から浅草寺に至る祭りの行列も描かれている。当時の三社祭のルートは、浅草寺から駒形堂に出て船に乗り、浅草橋で陸に上がって浅草寺に戻っていたという。「新板江戸大絵図」には、仁王門を入って右側に五重塔が描かれているが、三重塔は描かれていない。また、三所の護法神に相当する三社権現が本堂の東側に、十社(権現)が本堂裏手に記されており、随神門(現在の二天門)の東側、隅田川近くには、一の権現も記されている。

 明治の神仏分離の結果、三社権現は浅草寺から分離され、今は浅草神社と名を変えている。ただし、江戸時代の社殿は現存している。十社権現は浅草神社に合祀され、一の権現は千勝神社に合祀されたという事だが、現状についてはよく分からない。

 浅草寺の本堂、宝蔵門、雷門、五重塔は戦後の再建であり、五重塔は位置を西側に移している。随身門は神像を仏像に変えて名称も二天門に変更したが、江戸時代の姿で現存している。最近、本堂は改修工事が行われていたが、2010年末に終了し、今は新装なった本堂になっている。浅草寺は古くから庶民の寺であり、江戸時代は神仏を祭る聖なる場所であるとともに歓楽地でもあった。その状況は今も変わらない。

2.5 浅草明王院 付、明王院の姥淵

 浅草寺の子院であった浅草明王院(妙音院)と、この寺の内にあった姥淵(姥ケ池)について、「江戸名所記」には、次のような話が書かれている。昔、この辺りが人里離れた土地であった頃、野の中に柴の庵があり、年老いた姥と若い娘が住んでいた。旅人がこの庵に宿を借りると、姥はその旅人を殺して持物を奪った。その数は999人に及んだ。浅草の観音はこれを哀れに思い、草刈りの姿で笛を吹き、宿を借りるなと伝えた。それを聞いた旅人は、夜のうちに庵を逃げ出して助かったという。用明天皇の時、浅草の観音は美しい稚児の姿となって、この庵に宿を借りた。すると、娘が稚児の寝床に忍んできた。姥はひそかに稚児を殺そうとして、娘を殺してしまった。姥は嘆き悲しみ、大竜の本体を現わして竜宮へ帰っていった。姥が帰っていった場所が姥淵(姥ケ池)である。今は、この土地にも家が軒を並べるようになって、賑やかになった。浅草寺にも、明王院(妙音院)を含め多くの子院が作られるようになった。

 「新板江戸大絵図」において、随身門(二天門)の東に明王院が記されており、ウバガ池と書かれている。姥ケ池は隅田川に通じる大きな池であったと伝えられているが、「江戸名所図会」では小池としており、当時はそれほど大きくはなかったようである。この池は明治になって埋め立てられてしまったが、今は旧跡として形ばかりの池が残されている。明王院(妙音院)は浅草寺の子院の一つとして本堂の裏手に残っており、旅人を殺すために使った石枕も保存されているという。


2.6石浜村総泉寺 付、妙亀山

 「新板江戸大絵図」で、浅草寺随身門から東へ行き、明王院を過ぎて、隅田川沿いの街道に出る。ここを北に行き奥州街道と別れ、金竜山の横を通って、山谷堀を渡る。絵図からすると、当時の山谷堀の下流は池のようになっていたようである。さらに隅田川沿いを進み、左に入ると総泉寺の境内となる。総泉寺は曹洞宗の大寺で、石浜を居城とした千葉氏の菩提寺でもあった。「江戸名所記」では、この寺の内に千葉氏の石塔があり、軍配団扇があると書いている。また、「江戸名所図会」にも、千葉氏の墓所があったことが記されている。

 総泉寺は、関東大震災で罹災し、昭和3年に旧地(台東区橋場1、2)から現在地(板橋区小豆沢3)に移り、大善寺と合併して現在に至っている。

 「江戸名所記」は総泉寺南側の浅茅原にある妙亀塚について次のように記している。妙亀塚は武蔵国の名所ということだが、歌枕などには見当たらない。古老の話では、妙亀とは梅若の母の法名ということだが、別の説では、斑女という人で梅若の母かどうか分からないともいう。昔、梅若が、かどわかされて隅田川まで来たが、ここで亡くなり、梅若を尋ねてさまよっていた梅若の母は、この事を聞いて悲しみ、総泉寺で髪を剃り妙亀尼と法名をつけ念仏を続けた。ある日、妙亀尼は鏡ケ池に梅若の姿を見て池に飛び込んでしまった。そこで、人々が塚を作り妙亀堂を建てた。

 「江戸名所図会」の挿絵には、浅茅原近くの妙亀庵、塚の上の妙亀堂、南側の鏡ケ池が描かれている。また、妙亀堂の下にあった古碑について、千葉胤頼の墓碑ではないかと記している。現在、妙亀塚は小公園(台東区橋場1)となり、都史跡になっている。塚の上には、妙亀尼とは無関係だが、妙亀堂の下にあった古碑が置かれている。

2.7浅草金竜山 付、真土山

 浅草金竜山とは金竜山本龍院・待乳山聖天のことである。「新板江戸大絵図」では、奥州街道との分岐点の先、山谷堀の手前の西側に金竜山と記され、別当の本龍院の名と、聖天の鳥居が記されている。「江戸名所記」は、昔、この山より金竜を掘りだしたため金竜山と名づけたとし、真土山(待乳山)は武蔵の名所で、聖天宮があり、全体が大きな松山で、山上からは浅草川(隅田川)や牛島新田が見えると記している。

 江戸時代後期まで、金竜山はそれほど変わらなかったようだが、明治になると、聖天宮は仏教系とされて鳥居も廃され、本龍院の内となって現在に至っている。


2.8 浅草三十三間堂

 江戸時代、京都の三十三間堂の軒下で、端から端まで矢を射る通し矢が流行した。そこで、江戸にも同じものを作ろうということになり、寛永19年(1642)、浅草に三十三間堂が建てられた。「新板江戸大絵図」で新堀川の西側に三十三間堂が記されているが、現在の場所でいうと、かっぱ橋道具街通りの西側にあたり、矢先神社(台東区松ケ谷2)の社名は、矢の的にあたる場所が、社地に隣接していたことに由来するという。「江戸名所記」によると、浅草の三十三間堂は、京都とは異なり千手観音が一体だけだったという。矢は北に向かって射るようになっていたが、100本射ればすべて通り、終日射れば数千本は通ったと書いている。

 浅草三十三間堂は、元禄11年(1698)の大火で焼失し、深川に再建されている。「江戸名所図会」に取り上げられているのは深川移転後の三十三間堂だが、これも明治になって破却され、今は記念の碑(江東区富岡2)を残すのみである。


2.9 東本願寺

 「新板江戸大絵図」で、三十三間堂から新堀川(かっぱ橋道具街通り)に出て、橋を渡り南に行くと、東側に東本願寺がある。「江戸名所記」は東本願寺について次のような経緯を記している。京都の本願寺の住職であった教如上人は、秀吉によって隠居させられ、弟が本願寺を継いだ。教如上人は裏屋敷に押し込められていたが、その後、家康に召し出され、別に屋敷地を拝領した。これにより、本願寺は西本願寺(もとの本願寺)と東本願寺(教如上人が拝領地に開いた寺)に分かれることになった。後に、東本願寺からの訴えが入れられて、神田に拝領した寺地に東本願寺の末寺が建てられた。この寺は大いに繁盛し、京都の本願寺から輪番で江戸に下るようになり、江戸中に教えを広める活動を行っていたが、明暦の大火のあと、浅草に移った。

 新堀川は、かっぱ橋道具街通りに代わってしまったが、本山東本願寺は今も昔の場所(台東区西浅草1)にあり、広い敷地を占めている。


2.10 浅草報恩寺

 「新板江戸大絵図」で、東本願寺の東側に法ヲンジと書かれているのが、報恩寺である。「江戸名所記」は、報恩寺の縁起を次のように記している。親鸞聖人の弟子の聖心坊(性信)が下総の飯沼に寺を建てたのが、報恩寺の始まりである。その頃、飯沼の天神の夢のお告げにより、正月11日に池の鯉を報恩寺に納めるようになったが、これに倣って今も在所の門徒から報恩寺に鯉を納める習わしがあり、報恩寺からは正月の鏡餅を返礼として渡していた。寺宝には、親鸞聖人御寿像、親鸞直筆の教行信証6冊、親鸞の笈や団扇などのほか、蛇返という脇差があった。この脇差は木枯しと呼ばれていたが、これを手に入れた平忠盛が昼寝をしていた時、大蛇が現れ忠盛を襲おうとした。すると、刀が抜けて切っ先を大蛇に向けたため、大蛇は戻っていった。それからは、刀を蛇返と呼ぶようになったという。また、ある説に、聖心坊(性信)が佐渡島に渡った時、海中より大蛇が現れ聖心坊を呑もうとした。すると刀が抜けて大蛇を追い返した。そこで、蛇返と名をつけ、家に伝えていたともいう。

 報恩寺は後に下総の飯沼から武蔵国の桜田へ移り、さらに八丁堀に移り、明暦大火のあと浅草に移っている。「江戸名所図会」は東本願寺の東に隣ると記し、挿絵では清光寺(台東区西浅草1)の北隣に報恩寺を描いている。なお、報恩寺は後に現在地(台東区東上野6)に移っている。現在、飯沼天神は大生郷天満宮(常総市大生郷町)と名を変えているが、正月に鯉を納める習慣は現在も続いており、旧地に残る報恩寺に鯉が納められたあと、浅草の報恩寺に送られてくる。この鯉を用いて俎板開きが行われているという事である。


2.11 浅草日輪寺


 「新板江戸大絵図」で、報恩寺から北に行くと日輪寺に出る。「江戸名所記」は、日輪寺について、時宗の寺で本尊は安阿弥作の阿弥陀如来立像と書いているが、縁起については触れていない。「江戸名所図会」によると、一遍上人第二世の真教坊が諸国遊行の折に武蔵国豊島郡芝崎村に至り、神田明神の祠の傍らに草庵を結んで、芝崎道場と称したのが日輪寺の始まりだという。真教坊は、また、神田明神に平将門の霊を加えて二座にする事があり、このような縁から、神田明神の祭りに際しても、日輪寺から僧を出して誦経念仏を行っていたと記している。一説に、真教坊は、荒廃していた将門塚を修復し、碑を建てたともいう。日輪寺は、後に柳原に移り、明暦の大火後は現在地(台東区西浅草3)に移っている。


2.12 大雄山海禅寺

 「新板江戸大絵図」で、日輪寺から西に行くと新堀川の四つ角に出る。その北西側は海禅寺、北東側は東光院、南西側は清水寺である。「江戸名所記」による海禅寺の縁起は次のようになっている。平将門が下総国相馬郡に草創した海禅寺は、平将門が誅伐されたあと、堂塔仏閣の全てを大破され、狐や兎の棲家になっていた。覚印長老はこの地に住んでいたが、やがて湯島に移住した。家康が湯島を訪れた時、住僧は誰かと聞いたところ、覚印ということであった。家康も学識者である覚印の名に聞き覚えがあり、それからは、大いに尊重するようになったという。

 覚印は、平将門が創建した海禅寺を再興したのではなく、別の寺を建てて、海禅寺の名を継承したということのようである。海禅寺は明暦大火で被災したあと、現在地(台東区松が谷3)に移転している。


2.13 浅草薬師

 「江戸名所記」は、浅草薬師(東光院)の縁起について、次のように記している。薬王山医王寺東光院は慈覚大師の草創で、天台宗108ケ寺の総本寺であった。太田道灌は本尊の薬師像を崇め、江戸城の鬼門の守りとした。家康も毎年、大般若経を転読して江戸城の長久を祈祷した。当時の寺は常盤橋の北にあったが、後に伝馬町に移り、明暦の大火で浅草の新寺町に移った。特に当寺は尊敬親王(東叡山貫主・守澄法親王)が賢海法印に命じて再興させている。

 東光院は、上野の戦争の際、東叡山貫主だった公現法親王が逃れた場所でもあった。江戸時代は新堀川の端にあったが、現在地(台東区西浅草3)は少し東になっている。


2.14 浅草清水寺

 「江戸名所記」によると、江北山清水寺は、慈覚大師が江戸城の北に勝地を求め天台宗の一寺院を建立して、自作の千手観音を安置したことに始まるという。しかし、年が経つにつれて堂塔も破れ傾き、この寺を知る人もいなくなった。その頃、この寺の慶円法印がある夜の夢に寺の再興を老翁から要請されることがあり、文禄年中に比叡山に上った際、正覚院探題の豪感僧正に夢の話を語ったことから、昔の寺号、山号、寺号により寺を再興することになったという。

 その後、清水寺は馬喰町に移り、明暦の大火で現在地(台東区松が谷2)に移っている。

2.15 浅草誓願寺

 「新板江戸大絵図」で、新堀川に沿って南に行き、東本願寺の裏手を東に入ると、誓願寺がある。「江戸名所記」によると、誓願寺は相模国小田原にあった寺で、開山は見蓮社東誉上人、本尊は武蔵国秩父より移した三尺の阿弥陀像であった。家康在世の時、誓願寺は小田原から江戸に移されたが、はじめ本銀町にあり、その後、神田須田町に移った。しかし明暦の大火で被災したため、浅草に移っている。

 浅草の誓願寺は、関東大震災後に現在地(府中市紅葉ケ岡1)に移っている。場所は、多摩霊園正門の近くである。なお、誓願寺の塔頭のうち11ケ寺は、まとまって練馬区に移転している(練馬区練馬4)。


コメント

江戸名所記見て歩き(3)

2012-07-15 10:00:47 | 江戸名所記
1.5 不忍池

 「江戸名所記」は、忍岡(上野の山)に続く不忍池について、もとは、しのばずが池と言ったが今は篠輪津池と呼ぶと書き、池の大きさを五町四方としている。不忍池を琵琶湖に見立て、池の中の小島を竹生島になぞらえたのは天海僧正だったのだろう。その意を受けたであろう水谷伊勢守によって中之島が築かれ、小島との間に橋が架けられる。初め、竹生島の弁財天は小島に勧請されたが、寛文より前に中之島に移されている。ただ、中之島には、竹生島と同様、船で渡るようになっていて、「江戸名所記」の挿絵も、陸地とはつながっていない中之島と小島を描いている。

 中之島は寛文年間に陸続きになっている。寛文11年の「新板江戸大絵図」には、東側の岸から中之島までの道と橋、中之島の弁天堂が書かれており、北側の小島には、役の行者、摩利支天、稲荷が記されている。また、南側に新たに造られた島には、経堂と記されている。薬の販売で財をなした勧学屋大助が、買い集めた書籍を納めたのはこの経堂かも知れない。南側の島は、天和の頃(1681-1683)に壊されたが、勧学屋は書籍を全て寛永寺に納めるとともに、書籍を納める経蔵を建て、また学僧の為に寮を建てたという。

 天保の頃の「江戸名所図会」には、中之島の弁天堂のほか、北側の小島に聖天が書かれている。ただし、聖天が寛文の頃から小島にあったかどうかは定かではない。「江戸名所図会」には、役の行者、摩利支天、稲荷についての記載はないが、天保の頃には無くなっていた可能性もある。

 江戸時代は生池院が弁天堂の別当をつとめていたが、今は寛永寺の弁天堂になっている。現在の弁天堂は戦後の再建だが、手前の手水舎は江戸時代からのものである。ただ、屋根などは改修されているようである。北側の小島は聖天島の名で現存しており、鳥居付きの聖天が祭られている。島の入り口は閉鎖されているが、「台東区史跡散歩」によると、役の行者像、鳥居清忠の鶏図の碑、清水浜臣の碑、般若心経の碑が置かれているという。


1.6 牛天神

 牛天神と言うのは五條天神のことである。天神と言っても菅原道真の事ではなく、大己命と少彦名命の医薬祖神の称である。堯恵法師は「北国紀行」に、文明19年(1487)の1月末、武蔵野の東の境の忍岡に遊んだ時のことを、“鎮座社は五條天神と申しはべり。折節、枯れたる茅原を焼はべり”と書いており、古くから忍岡に鎮座していた事が分かる。草創の時期は不明だが、京都の五條天神をうつし祭ったという。もとの五條天神は、天神山またの名を摺鉢山と呼ばれた山の上にあったが、明暦3年(1657)に黒門の右前に移される。「江戸名所記」に書かれているのは、この頃の五條天神であり、「新板江戸大絵図」にも黒門の南に牛天神と記されている。

 五條天神は、何時の頃からか、牛天神と呼ばれるようになるが、一説に医師天神から転じたともいう。ところが、小石川の金杉天神も牛天神と呼ばれていたため、混同される事があったらしく、「江戸名所記」も、金杉天神の縁起を五條天神の縁起と取り違えている。寛永時代の末の頃だが、五條天神に菅原道真の像を奉安するという事があった。連歌の守護の為に菅原道真を祭ったという事なのだが、天神と言えば菅原道真という世間の考え方に配慮したのかも知れない。

 五條天神の別当を兼ねていた連歌師の瀬川家は、もとは天神山の下に居住していたが、明暦3年の五條天神の移設の際、黒門近くの拝領屋敷に移住している。明暦大火以降に各所に設けられた火除け地の一つが現在の上野駅の南側にあり、上野山下と呼ばれていたが、瀬川家が拝領した屋敷は、上野山下の少し南側にあった。元禄時代、黒門の前の五條天神を移すよう命ぜられたが、適当な場所が見つからなかったため、瀬川家の屋敷内に五條天神を祭ることにした。「江戸名所図会」に取り上げられている五條天神は、瀬川屋敷に祭られた後の五條天神だが、茶屋や見世物で賑わう上野山下の広場に通じる道沿いにあった。

 五條天神は昭和になって、旧地の天神山にも近い、花園稲荷下の現在地(上野公園4)に移転している。
     
1.7 忍岡稲荷

 忍岡稲荷とは、現在の花園稲荷のことである。忍岡稲荷は、東叡山の開創時に天海により建立されたという伝承があるが、「江戸名所記」では、太田道灌が勧請したという説をとっている。その文章と挿絵からすると、当時の稲荷社は、洞の内を本社とし、洞の上に祠を建て、社の前に穴を掘り抜いた石を建て、その前の左右に白狐の像を置いていたようである。また、神木は榎で、糸桜が美しく、石段の下には池があり、西には不忍池が見えて、捨てがたい景色と書いている。 

 天和・貞享(1681-1687)頃の上野の図(還魂紙料)によると、入口は不忍池の側にあって、池を渡って石段を上がったところに拝殿があった。この図には、弥左衛門きつねと書かれているが、別に祠があったかどうかは分からない。

 「江戸名所図会」の挿絵によると、石段の下の池は既に無いものの、全体は天和貞享の頃とあまり変わっていないように見える。なお、忍岡稲荷は穴の上にあったため、俗に穴稲荷と呼ばれていたと記している。

 忍岡稲荷は、明治になって花園稲荷と改称し、昭和になって五條天神が移ってくると、南向きに新たな社殿を造営している。旧社殿の跡は、お穴様と呼ばれている場所である。

 「江戸名所記」では、明神(忍岡稲荷)の霊夢により建てられてとして、護国院を取り上げ、松桜竹の林があり鳥居の中に茶屋があると書いている。護国院は寛永の初めに寛永寺の子院として建てられ、根本中堂造営以前に本堂として使われた釈迦堂の別当寺となっている。当初は本坊(跡地は国立博物館)の北東にあったが、その後は何度か移転し、寛文の頃は本坊の北西に位置していた。宝永6年(1709)に現在地に移転。「江戸名所図会」の挿絵には正月の大黒講の賑わいが描かれている。現在の敷地(上野公園10)はかなり縮小されているが、現存する釈迦堂を本堂として使用し、谷中七福神の一、大黒天を祭っている。


1.8 神田広小路薬師


 上野の黒門の南、不忍池から流れ出て東流する忍川の南側は、下谷広小路(上野広小路)と呼ばれ、明暦の大火以降に各所に設けられた火除け地のひとつであった。「新板江戸大絵図」には、この広小路の西側に神田広小路薬師・東福寺が記されている。「江戸名所記」は、神田広小路薬師の本尊について、伝教大師が刻んだ七仏薬師のうちの一体で、慈覚大師により伝えられ、太田道灌が城内に祭っていたが、後に神田に移り、さらに広小路に移ったと記している。

 天和2年(1682)に東福寺は焼失し、本尊の薬師如来や十二神像は麻布薬園に移される。貞享元年(1684)、麻布本村町の薬園坂東側に東福寺が再建される。「江戸名所図会」に七仏薬師として取り上げられているのは、麻布本村町に移ったあとの東福寺七仏薬師である。

 明治になって東福寺は廃寺となり、薬師像などは安養院に移されたが、戦災で焼失している。東福寺の土蔵造りの本堂(薬師堂)は、明称寺(港区南麻布3)に引き継がれて現存しているが、瓦に葵の紋があり、本堂の格天井に薬草の絵が描かれていることから、もとは麻布薬園にあった薬師堂ではないかとする説がある(港区史)。寛永時代に設けられた麻布薬園は、「新板江戸大絵図」によると、本村町から四の橋に下る坂(薬園坂)の西側にあった。東福寺の薬師如来像は、麻布薬園内の栄草寺薬師堂に納められていたと思われるが、貞享元年(1684)、白銀御殿拡張のため麻布薬園が廃止された時、栄草寺薬師堂が東福寺の本堂に転用され、明治になって東福寺が廃寺になると、この本堂(薬師堂)が明称寺に売却されたという事になるのだろうか。多少の高低差がある点は気になるが、それでも、土蔵造りの本堂を曳屋により移動させたのであろう。  

 

1.9 湯嶋天神

 「江戸名所記」によると、太田道灌は文明10年(1478)の夏に北野天神を江戸城内に勧請していたが、その年の秋、太田道灌が菅原道真の夢を見た翌日に道真の自画像を持参して来た人が居たため、これを奇特な事と思い、江戸城の北に社を建てて梅を植え、社領を寄進して崇め祭ったとし、これが湯島天神(湯島天満宮)で、次第に繁盛して景勝の地になったとしている。別の説に、社を建てて梅を植えたのは湯島ではなく、江戸城内であったとし、この社が後に移転したのが麹町の平河天神であるとする。「江戸名所図会」では後者の説をとり、平河天神が道真真筆と称する自画像を伝えていることをあげている。堯恵法師の「北国紀行」によると、文明19年(1487)に武蔵野を訪れ時の記述に、“忍岡の並びに湯島という所あり。古松遥かにめぐりて注連の中に武蔵野の遠望をかけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず。これ北野の御神と聞きしかば”とあるので、当時から湯島に菅原道真を祭る社があったのは確かである。一説に、湯島には古くから天之手力雄命を祭る戸隠神社があったが、正平10年(文和4年(1355))に土地の人が菅原道真を祭ったということがあり、これが湯島天神の始まりともいう。

 文明の頃の湯島はまだ寒村で、不忍池の周辺は茅原であったようだが、江戸時代になると茅原が埋め立てられて町が作られ、湯島もまた賑わいを増すようになる。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」には湯島天神を参詣する老若男女や、参詣客相手の店が描かれている。「江戸図屏風」には、境内で弓の練習をする武士の姿も描かれている。

 江戸時代も後期になると、湯島天神は庶民の娯楽場へと変貌する。「江戸名所図会」を見ると、境内には茶屋が設けられ、鳥居の内側には芝居小屋や楊弓の遊戯場がつくられる。表通りには料理茶屋も並んでいる。

 現在の湯島天満宮は娯楽場としての性格が薄れ、学業の神という本来の姿になっており、合格祈願の参詣者が多く訪れている。
 
1.10 神田明神

 神田明神は、天平2年(730)、武蔵国豊島郡江戸芝崎(現在の千代田区大手町1付近)に創建されたと伝えられ、伊勢神宮の田(神田)を鎮める社ゆえ神田の宮と称したという。神田明神の祭神は大己貴命であったが、延慶2年(1309)、近くにあった平将門の首塚の祠を遊行僧が修復した際に、平将門命も合祀するという事があった。神田明神は、慶長8年(1603)、駿河台に移り、さらに、元和2年(1616)には現在地に遷座して、江戸総鎮守として崇敬されるようになるのだが、平将門を合祀してからは、一般に平将門を祭る神社と思われていたらしい。「江戸名所記」では、神田明神を平将門の霊とし、藤原秀郷に討たれた平将門の首がこの地に落ちたので、京都に送って獄門にかけたものの、祟りをしたため、ある人が歌を詠んだところ祟りが無くなった。そこで、この地に首を送り、託宣により神社を建てたと書いている。

 「江戸名所図屏風」には、神田明神境内で行われている神事能が描かれており、周りを筵で囲んでいるので、木戸銭を払って入るようになっていたらしい。「江戸名所記」の挿絵にも筵らしきものが見えるが、神事能を描いたのであろう。神事能は隔年ごとに行われていたが、享保の頃には断絶してしまったという。ところで、「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」には、神田明神の楼門を入って右側に三重塔が描かれているが、時代の下る「江戸絵図(屏風)」には見当たらない。江戸時代後期の「江戸名所図会」の挿絵には、神事能を行う舞台や三重塔は描かれていないが、その代わりに茶屋や楊弓場が境内に描かれている。隔年に行われる祭礼は、山王社の祭に次ぐ江戸の天下祭であり、「江戸名所図会」でも、庶民が桟敷で祭りを見物する様子が描かれている。

 今の神殿は昭和初期の鉄骨鉄筋コンクリート造、随身門は昭和50年再建の総檜造りである。江戸三大祭りの一つ神田祭は、去年が自粛、今年は陰祭で少々寂しかったが、来年を期待したい。

1.11 谷中清水稲荷

 「江戸名所記」には次のような話が記載されている。“昔、弘法大師がここを通った時、老女が水を運んでいるのを見てその水を所望した。すると老女は、この辺りには水が無いので遠くから運んでいると言い、子が一人居るが患っていると話をした。そこで、大師が独鈷で土を掘ると清水が湧きだした。この水で老女がその子を洗うと病が癒えた。大師は自ら稲荷を勧請した。”
 この稲荷が清水稲荷である。池の端から上野高の横を上がって行くと護国院の前に出るが、この坂を清水坂と言い、護国院の前にあった寛永寺の門を清水門と呼んだ。当初の清水稲荷は、清水門近くの清水坂の西側にあったが、「江戸名所記」は、この頃の清水稲荷を取り上げている。 

 清水稲荷は元禄時代になって近くに場所を移している。さらに、宝永7年(1710)頃に浅草の駒形堂近くに移転しているが、「江戸名所図会」に取り上げられているのは、駒形堂近くに移った後の清水稲荷である。江戸切絵図で、駒形堂の近くに清水稲荷屋敷と書かれているのがそれで、その呼称は、清水稲荷ごと屋敷が移転してきたことによる。清水稲荷のご神体は弘法大師の如意宝珠だが、実際には自然石で、この石を移したと思われるが、移転後の氏子は無かったという。その後、清水稲荷屋敷は駒形町に吸収され、清水稲荷は榊神社の境内社になったという事なのだが、清水稲荷の名は失われてしまっている。


1.12 谷中法恩寺

 法恩寺は、太田道灌が江戸城築城に際して日住上人を開山として建立した本住院に始まる寺であり、孫の資高の代になって法恩寺に改称している。法恩寺は、当初、平河にあったが、後に神田柳原に移り、さらに谷中清水町に移る。「江戸名所記」に取り上げられているのは、谷中清水町にあった時の法恩寺であり、次のように記している。大門を入ると左側に三十番神の社があり、拝殿の前には魂屋があった。鐘楼はあるが屋根は無い。本堂の両側には桜があった。
 「江戸名所記」は法恩寺について、今は不受不施(日蓮宗以外からは施しを受けず施しもしない)の門流をくむと書いている。法恩寺は京都本国寺の触頭として、幕府の通達を傘下の寺院に伝達し、また各寺院からの願書を取り次ぐ役目を担っていたが、本国寺の住職に不受不施を主張した住職が居たことを指して、その門流をくむと書いたのだろうか。日蓮宗不受不施派は幕府の命令にも服さない事があり、幕府は後に禁制の宗派として弾圧する事になるのだが、「江戸名所記」の刊行当時はそれほどではなかったらしく、「江戸名所記」も好意的な記述をしている。

 法恩寺は、元禄時代に現在地(墨田区大平1)に移る。「江戸名所図絵」は、この時代の法恩寺を扱っているが、当時の境内には、三十番神の社、鐘楼、平川清水稲荷の祠があった。

 現在は、江戸時代に比べて寺域も縮小されているが、今なお大寺だった頃の面影を残している。三十番神は存在しないが、鐘楼は堂々たる三重塔となっており、平川清水稲荷の祠も境内にある。

1.13 谷中善光寺

 善光寺は慶長6年(1601)、谷中に創建され、後に青山に移った尼寺である。「江戸名所記」が取り上げているのは谷中にあった頃の善光寺だが、当寺の本尊は秘仏で開帳がなく、両脇に善導と法然の絵像が掛っていた事。比丘尼寺である事。何れの時いかなる事で建てられたか定かには分からない事。門の内には両方に桜並木がある事を記している。善光寺は、「江戸図屏風」にも描かれているが、当時の格式の高さを物語っている。江戸の切絵図を見ると、上野の山内から根津方面に行く道沿いに善光寺前町と書かれているが、この町名も善光寺に由来する名であり、善光寺が青山に移った後も町名としては残っていた。現在の道でいうと、言問通りを根津方面に下る坂に善光寺坂の名があり、谷中善光寺の跡地は、この道の途中の北側ということになる。

 長野の善光寺は、天台宗の大勧進と、浄土宗の尼寺である大本願から成っている。大勧進の住職である貫主は僧侶の中から選ばれるが、大本願の住職である大本願上人は勅許による称号であり、宮家や公家が務めてきた。谷中の善光寺は、大本願上人の江戸における宿舎として建てられた格式のある尼寺であり、善導と法然の絵像が掛けられていたのは、浄土宗のゆえである。
 谷中の善光寺は後に焼失し、宝永2年(1705)に青山の現在地(港区北青山3)に移っている。「江戸名所図会」は、青山に移ってからの善光寺を取り上げているが、その挿絵によると、仁王門を入った正面に阿弥陀如来を本尊とする本堂、その左手には観音堂があり、本堂裏手には客殿と庫裏があった。観音堂の本尊は聖観音で、谷中で火災に遭った時、自ら逃れて榎に飛びついたので、火除け観音とか榎観音と呼ばれていたという。

 現在の善光寺は、表参道駅の近く、青山通りから少し入った、江戸時代と同じ場所にある。昨年は工事中だった仁王門と本堂は、すでに改修を終えたらしく、今は真新しく見える。繁華街が近い割に境内は静かで、参拝する人もちらほら。傍らには高野長英の碑がひっそりと建っている。

1.14 谷中感応寺

 谷中感応寺は、現在の谷中の天王寺の前身となる寺である。感応寺は、14世紀末頃の草創と伝えられる古刹で、中興は日長上人という。「江戸名所記」は、当代に至るまで法華読誦の声が続いて絶える事が無いとし、10月13日の御忌には人々が集まって市をなすと記している。また、当寺には日蓮聖人自作の御影があり、常には開帳しないが、立願のことあれば草履一足を御影の前に掛けて祈ると願が成就すると書いている。その一方で、常日頃は信心する気も無いのに、難しい事があった時だけ祈願するというのは恐ろしい事だとも述べている。
 「江戸図屏風」に谷中として描かれているのは、谷中感応寺と思われるが、当時から周辺に桜が多かったようである。「江戸名所記」の挿絵には、正保元年(1644)に建立された五重塔が描かれているが、景観年代が古い「江戸図屏風」には、五重塔は描かれていいない。この五重塔は明和9年(1772)に焼失し、寛政3年(1791)に再建されている。

 谷中感応寺は古くから不受不施派に属していた。日蓮宗以外には施しを受けず施しもしないという不受不施派は後に幕府から禁制の宗派として扱われ、谷中感応寺も元禄11年(1698)に天台宗に改宗させられる。その後、谷中感応寺は毘沙門天を本尊とする天台宗の寺として存続し、元禄時代の末には富くじ興業も行われるようになる。天保4年(1833)になると、谷中感応寺の日蓮宗帰宗の願書が出され、幕府もその受け入れを検討するが、寛永寺の反対があったため、谷中感応寺は天王寺と改称して天台宗のままとし、別に日蓮宗の感応寺を立てる事で決着する。日蓮宗の感応寺は、天保7年(1836)に、雑司ヶ谷の外れの鼠山に建立されるが、天保12年(1841)には廃寺になっている。

 「江戸名所図会」の感応寺に関する内容は、天王寺改称以前に記述されたと思われ、谷中感応寺を天台宗と記している。「江戸名所図会」の挿絵には、寛政3年(1791)に再建された五重塔が描かれている。また、九品仏と書かれた大仏も描かれているが、元禄3年(1690)頃に建立された銅造釈迦如来座像と思われる。

 谷中の天王寺の大仏、銅造釈迦如来坐像は現存しているが、五重塔は昭和32年に焼失し、今は跡を残すのみである。
 (注)鼠山の感応寺についての経緯は、当ブログの「夢まぼろしの鼠山感応寺」を参照のこと。

1.15 新堀七面明神

 新堀七面明神は、万治3年(1660)に日長上人が身延の七面明神を勧請したと伝えられるが、家綱乳母の三沢局の建立という説もある。別当の延命院は、慶安時代(1648―1651)の開創、開山は日長上人という。「江戸名所記」には、次のような縁起が記されている。
 身延に七つの峰からなる七面山という山がある。日蓮聖人が身延山で法華経を読経していた時、一人の美女が現れて七面山の神と名乗り、七つの峰の各々に面を向けて住んでいるが、今よりは守護神となると言い大蛇の姿を現した。日蓮聖人はこれを崇め身延山の守護神とした。延命院の住持であった日長上人は、妙見大菩薩と七面明神の何れを勧請すべきか迷っていたが、万治3年のうたたねの夢に老僧が現れ、七面明神を勧請せよと告げられたので、七面明神を勧請した。七面明神の本地は妙見大菩薩で、七面明神を崇めれば妙見菩薩もその間に籠るという事である。

 「江戸名所図会」の挿絵を見ると、延命院の敷地は三段になっていて、上の段には七面の宮が敷地の西北側にあり、東南の入口から伸びる参道には、鳥居が建っていた。中段には延命院の方丈があり、下段の西南には門があった。延命院の下段は台地の裾を南北に通じる六阿弥陀道に接していた。延命院の南側には七面坂があり、六阿弥陀道に下っていた。

 明治になって、仏教系の七面明神は延命院に吸収される。現在の延命院の場所(荒川区西日暮里3)は江戸時代と同じだが、敷地は縮小されて、上の段に延命院本堂、玄関、七面堂が並んで建っている。「江戸名所図会」の挿絵で入口近くに描かれていた椎の大木は、樹木の勢いは衰えたものの、今もまだ頑張って残っている。




コメント

江戸名所記見て歩き(2)

2012-06-13 20:33:21 | 江戸名所記
1.3 日本橋

 「江戸名所記」は、江戸の中心であり、街道の起点でもある日本橋を、江戸城の次に取り上げている。日本橋の最初の架橋は慶長8年(1603)という。その後、元和4年(1618)に再架橋が行われているが、「慶長見聞集」は、川の両方から石垣を突き出して橋を架けたとし、橋の長さは37間4尺5寸(69m)、広さは4間2尺5寸(8m)としている。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」に描かれた日本橋は、この時の橋と思われる。この橋は明暦大火で焼失し、万治元年(1658)に架け替えられているが、この橋が「江戸名所記」に書かれている橋である。「江戸名所記」では、橋の長さを百余間と書いているが、実際の長さは三十間ほどであったろう。橋の上からの眺めは優れていて、「江戸名所記」は、その眺めを、北は浅草、東叡山(上野寛永寺)、南は富士、西は御城、東は海面近く行き交う舟も見えると書いている。特に富士と江戸城の眺めはよく知られていたようで、日本橋を描いた多くの絵画が画面の中に富士と城を取り入れている。

 「江戸名所記」の挿絵には、橋の上を行く武士とお供が描かれている。橋の上から景色を眺めている人も居れば、重そうな荷物を運んでいる人も居る。橋の下には魚や米俵を積んだ舟が見え、それに交じって、遊興の舟も描かれている。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」の描く日本橋には、多種多様な人物が登場する。武士も居れば、町人も居る。馬に乗る人、駕籠の人。物見遊山の人、商人、力仕事の人、荷揚げの人、飛脚、寄付を集める勧進の僧、歌念仏の比丘尼、大道芸もあれば八卦見の姿も見える。老若男女。実にさまざまな人が、ここに集まっている。日本橋付近の混雑ぶりを、「江戸名所記」は次のように書いている。

 “橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。橋の上は、貴賎上下、上る人・下る人、行く人・帰る人、馬や駕籠や人が、蟻の熊野参りのように、ひっきりなしに通る。朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。うかうかしていると、踏み倒され蹴倒され、或いは、帯を切られ刀脇差を失い、また、巾着を切られ、手に持つ物をもぎ取られ、その事を言おうとしても、人込みの中に紛れて跡を見失ってしまう。すべて西国から東国の末まで、諸国の人の往来する日本橋であれば、込み合うのも当然である。橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。”

 日本橋の南側には高札場があり、「江戸名所記」の挿絵にも高札場が出てくる。実景を見て描いたかどうかは不明だが、描かれている高札場は、柵の中に3本の高札を立てただけの簡素なもので、「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」の高札場の図柄とほぼ同じである。高札場は時代とともに進化し、18世紀中頃の「隅田川風物図巻」には屋根付きの高札場、19世紀前半の「江戸名所図会」には石垣の上に置かれた高札場、そして、明治3年の「東京日本橋風景」には、見上げるほど高い石垣の上に瓦屋根付きの堂々たる高札場が描かれている。明治6年になると、高札は時宜に合わないとして撤去され、現在は、日本橋の南側に高札場跡の記念碑が建つのみである。

 日本橋の欄干の柱には擬宝珠が付けられていた。「江戸名所記」の挿絵は、橋の半分しか描かれていないにもかかわらず、6ケの擬宝珠が確認される。元和4年に架けられた橋を描いたと思われる、「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」では、擬宝珠の数にかなりの違いがある。他の絵をみても擬宝珠の数にはバラツキがあるが、時代によるのか、描き方によるのかは分からない。ところで、「江戸名所図会」に取り上げられている日本橋は、弘化3年(1846年)頃の架橋と思われるが、擬宝珠には万治元年の銘があったという。橋は架け替えても擬宝珠は使いまわしをしていたらしい。明治6年、日本橋が洋式の平らな橋に架け替えられた際、擬宝珠も不用品として廃棄されてしまったが、幸い、万治元年の銘の擬宝珠が一つだけ保管されていた。江戸東京博物館に展示されている日本橋に使用されている擬宝珠は、現存している万治元年銘の擬宝珠の複製という事である。 

 「江戸名所記」の挿絵には川岸で行われている魚の売り買いの様子も描かれている。魚市場は、慶長年間、本小田原町河岸に魚市場が開かれたことに始まり、江戸城下の発展とともに、日本橋周辺に魚河岸が拡大していったという。「江戸図屏風」を見ると、川岸は魚や米の陸揚げ場所として使われており、魚介を商う店は川からやや離れた場所に置かれていた。ところが、18世紀中頃の「隅田川風物図巻」では、川岸に近い場所に魚を商う店が並ぶようになる。19世紀の「江戸名所図会」は、川に近い魚市の活況ぶりを描き、船町、小田原町、安針町等の間がすべて鮮魚店となり、あちこちから、海魚、川魚の区別なく運び込まれ、日夜、市が立って大変賑わっていると書いている。魚市場は明治以降も存続していたが、関東大震災のあと芝浦に移り、さらに築地に移転している。今は、日本橋北詰に、日本橋魚市場発祥の碑と乙姫像が置かれるのみである。

 日本橋は物流の経路の一つであり、「江戸名所図屏風」にも、駄馬や牛に荷を乗せて運んでいる様子が描かれている。18世紀中頃の「隅田川風物図巻」には、人が引く大八車が登場する。大八車は江戸時代を通じて活用されていたようで、19世紀初め頃の「熈代勝覧」や「江戸四時勝景図巻」にも、荷車を引く人・押す人が描かれている。明治になると、様々な乗り物が登場するようになり、明治3年の「東京日本橋之景」には、馬車や人力車、自転車が描かれる。明治6年、日本橋は洋式の平らな橋に架け替えられ、明治15年には鉄道馬車、明治36年になると路面電車が走るようになる。日本橋は、焼失及び半焼が10回ほど、老朽化などによる改修を含めると、改架修復は20回を越えている。そして明治44年(1911年)、日本橋は石橋に架け替えられる。それ以来、関東大震災を乗り越え、戦争も乗り越えて、現在に至る。昭和38年(1963年)、日本橋の上に高速道路が完成し、眺めの良さを誇った日本橋の景観も一変して、日本晴れの日も、高速道路の影の下になってしまったが、橋自体は今なお健在である。

 2011年、石橋として開橋した日本橋は百周年を迎えることになったが、重要文化財である日本橋も汚れが目立ってきたため、洗浄再生が行われた。10月30日、三代三夫婦による渡り初めに続いてパレードが行われた。このパレードには、福島県から相馬野馬追も参加した。


 江戸の中心であった日本橋付近を克明に描写した「熈代勝覧」という絵巻物が、ベルリンのアジア美術館に保存されている事が発見され、2003年に里帰りしたことがある。この絵巻物は江戸東京博物館で行われた、江戸開府四百年記念の大江戸八百八町展で公開されたが、この絵巻を複写したものが、地下鉄・三越前駅の地下コンコースで展示されている。文化2年(1805)頃の、日本橋と日本橋通りの様子が良く分かる絵巻である。


1.4 東叡山

 「江戸名所記」には、東叡山(上野寛永寺)が慈眼大師(天海)の開基であること、江戸城の鬼門を守る鎮護国家の霊場であること、京都の比叡山に対して東国の比叡山であることから東叡山と称したという事が記されている。また、山の上からは江戸中が残らず眼下に見えると書いている。ところで、上野は忍岡という歌枕の地でもあったが、「江戸名所記」でも、その事を意識し、藤原俊成や俊恵法師の和歌を取り上げている。ただ、あまり自信はなかったらしい。

 寛永寺は寛永2年(1625年)の本坊建立に始まる。しかし、寛永寺の伽藍がほぼ整うのは元禄時代になってからであり、「江戸名所記」が刊行された寛文2年(1662年)の頃は、本堂に相当する根本中堂もまだ建立されていなかった。「江戸名所記」の挿絵にも、屋根のある黒門と、仁王門のほか、輪蔵らしきものが描かれているだけである。以下、寛文11年に刊行された「新板江戸大絵図」をもとに、明暦大火(1657年)以前の寛永寺が描かれているとされる「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」、天和から元禄初年(1681~1688年)頃の寛永寺が描かれている「江戸絵図(屏風)」などを参考にして、当時の寛永寺の状況を見ていくことにする。

 「新板江戸大絵図」によると、寛永寺の総門にあたる黒門①は、上野の山の南端、袴腰にあった。「江戸名所図屏風」や「江戸図屏風」では黒門は見当たらないが、「江戸絵図」や、天和貞享(1681-1687)頃の上野の図から、元禄より前に、屋根付きの黒門があったようである。仁王門②は、時の鐘近くの、道の交差する場所にあった。仁王門の先、西側の山上に露座の大仏③があり、「江戸図屏風」や「江戸絵図」にその姿が描かれている。また、仁王門の東、摺鉢山の上には清水観音堂④があり、「江戸絵図」や「江戸名所図屏風」にも描かれている。東照宮⑤について、「新板江戸大絵図」はその場所を示すにとどまっているが、一般の立入が禁止されていたためと思われる。「江戸図屏風」を見ると、仁王門の先に石灯籠があって、本坊への道と東照宮への道の分岐点になっていた。

 東照宮への道をたどると、右手に儀礼用の鐘楼があり、その先、左手に二重塔、右手に別当寺らしき建物がある。さらに進むと正面に鳥居、右手に五重塔がある。左手の堂宇は薬師堂であろう。鳥居を潜ると、連子の透塀に向唐門がある。この透塀は東照宮の外側の玉垣に相当し、正面以外の玉垣は柵のような簡素な造りになっている。中に入ると、内側の瑞垣に相当する菱格子の透塀があり、平入りの門を入ると権現造りの社殿に出る。「江戸図屏風」では黒漆塗で金色輝く華麗な社殿を描いているが、「江戸名所図屏風」では、平唐門のある連子の透塀の瑞垣の内に、朱塗りの社殿を描いている。この違いについては、年代の差とする説と、描き方の差とする説がある。なお、「江戸名所図屏風」には外側の玉垣が描かれていないが、単に省略しただけであろう。「慈眼大師縁起絵巻」や、時代は下るが「東叡山絵図(水野家文書)」には外側の垣も書かれている。

 石灯籠の場所から本坊への道をたどると、左手に輪蔵⑥がある。「江戸名所記」の挿絵にあるのは、この経蔵であろうか。右手には雲水塔⑦があり、近くに番神の社も見えている。先に進むと、常行堂と法華堂を渡り廊下で結んだ荷担堂⑧があり、その先には本坊⑨がある。

 元禄11年(1698年)、寛永寺の荷担堂が南に移され、江戸最大の建造物であった根本中堂が造営される。仁王門は黒門の隣に移され、その跡に文殊楼が建立される。元禄時代、清水観音は現在地に移され、本覚院にあった山王社は清水観音の南側に移される。大仏は既に唐銅(青銅)製になっていたが、元禄期には大仏殿に安置される。享保17年(1732年)刊行の「江戸砂子」の図によると、黒門は簡素な冠木門に変わり、その横に仁王門が建っている。仁王門は後に南側に移され、その後焼失したまま再建される事はなく、天保の頃には跡だけになっていた。「江戸名所図会」の挿絵は、この頃の寛永寺を描いたものである。やがて幕末。彰義隊など旧幕府軍と新政府軍が戦った上野戦争の際に、寛永寺の多くの建造物が焼失している。

 幕臣の山本政恒が、上野戦争で多くの堂宇が焼失する以前、上野で花見をした時の事を、後に思い出して書いた記録が残っている。その記録により、当時の寛永寺をたどってみる。

 “上野の山には、紺の股引に山の字の半纏を着て赤い房の十手を腰に差した山同心が居て、喧嘩などあれば直ぐに取り締まった。山同心は役得として、薄縁を貸し、茶や菓子などを売っていた。花見客は薄縁を借り、飲んだり食べたりして楽しんだ。取り締まる人が居たので、悪い奴も少なく、女子供の行楽地としては最適な場所であった。上野には黒門の他にも門があったが、どれも番人が居たので、花を折って持ち出すような悪戯は起きなかった。ただ、三味線を弾くことは許されなかったので、時には飛鳥山へ花見に行くこともあった。八重桜が過ぎると、桃の花が盛りとなり、実に見事だった。南側の広小路からは、松の間に桜花の紅白が見えた。正面の黒門は、将軍家の御成門と一般の門とが並んでいた。左右の土手を袴腰と言った。黒門を入って右手の坂を上がると、朱塗に金箔、彫刻を施した山王の社があり、山上からは下谷、浅草、本所などが見晴らせた。山続きには清水観音堂があり、その周りには彼岸桜が多かった。左の方の道を行くと、樹木の間から不忍池、弁天堂や生池院、蓮飯茶屋が見え、その周りにも桜が多かった。その先の正面に、山門とも呼ばれた文殊楼があった。文殊楼は朱塗りで吉祥閣という勅額が掛っていた。その左に、時の鐘の鐘楼があり、右手には摺鉢山と寺院があった。少し進むと左に、朱塗りの大仏殿があり唐金の仏像を安置していた。その続きは東照宮で、入口は小砂利を敷き詰めた黒塗りの柵があって、将軍や諸侯以外の立ち入りは許されなかった。その続きに鐘楼があり、欄間の隅々には左甚五郎作の龍の彫刻が施されていて、夜毎に不忍池の水を飲むため、眼中に釘を打ったという伝説があった。この鐘は将軍家の法事か大法会の時に突いたが、今は台石のみが残っている。さらに行くと、法華堂と常行堂に橋を掛けた二つ堂が正面にあり、橋の下を通るようになっていた。そこより一丁ほど行くと三十間四方の中堂があり、勅額門や回廊があった。門と堂の間は敷石と小砂利が敷き詰められていて、金色の燈籠が数本あった。中堂には薬師如来が安置され、瑠璃殿という額があった。堂の右には三重塔、左に経蔵があった。平常、庶民の参詣を許していたので、老婆や子供が回廊から本堂へとめぐり歩く遊び場所としていた。中堂のうしろ、道を隔てて寛永寺門主の御門があった。今の博物館の門がそれである。上野の山は朱色の御堂や御宮が所々にあり、松や桜もあって、風致に富む場所であったが、慶応4年の彰義隊の戦争で悉く焼失し、今は見る影も無くなってしまった。”

 江戸時代の寛永寺の様子を思い浮かべながら、現在の上野公園を歩いてみた。公園南側の袴腰広場から右手の石段を上がると西郷銅像のある山王台に出るが、江戸時代には無い道なので、今回は左手の桜通りを進む。黒門は、袴腰広場から桜通りに入る場所にあったが、明治になって大仏近くに移され、後に南千住の円通寺に移設されている。計画では、そのうち、黒門跡地にモニュメントが立つらしい。江戸時代、黒門を入ってすぐ右に山王台に上がる坂があったが、その名の由来となった山王社は、明治時代に焼失したか取り壊されたかして現存していない。山王台の付近は桜が多く江戸時代には桜ケ峰とも呼ばれていたが、今後は、花見の名所、桜ケ丘の名で親しまれる事になるのだろう。

 桜通りをさらに進むと右手の山の上に清水観音堂があり、元禄時代に移設された当時の姿を今にとどめている。桜通りを先に進むと、左に花園稲荷の道と精養軒への道、右に摺鉢山への道がある。寛文の頃には仁王門、元禄以降には文殊楼が、この場所に建っていたが、今は跡かたもない。精養軒への道に入ると、時の鐘の鐘楼が見えてくる。寛文6年の鋳造なので、「江戸名所記」の刊行時には、鐘は存在していなかったことになる。

 時の鐘の前からパゴダのある山に上がる。山上にあった大仏殿は明治時代に取り壊され、関東大震災で大仏の頭が落ち、大仏の胴体は戦時中に供出されたが、お顔の部分だけは残って、パゴダの横に今もある。なお、パゴダに安置されているのは、東照宮の薬師堂にあった薬師如来という。

 パゴダから桜通りを先に進んで、角を左に入ると、巨大な燈籠、通称お化け燈籠が立っている。「江戸図屏風」に描かれている、本坊と東照宮の道の分岐点にある燈籠は、この石燈籠と思われる。桜通りを先に行き、次の角を左に入ると、東照宮の大石鳥居がある。この鳥居、寛永時代に建てられたあと一旦埋められたが、享保年間に掘り起こされ現在地に建てられたという。

 鳥居をくぐり、水舎門を入ると、左手にぼたん園がある。その先、右手に五重塔が見えてくるが、今は動物園の敷地内になっている。江戸時代、左側には薬師堂があった筈だが現存していない。さきに進むと黒い柵がある。東照宮の外側の玉垣はこの位置にあり、勅額門が建っていたが、慶応3年(1867)の火災により焼失している。幸い、勅額は運び出され、今は社殿内に掲げられている。現在、社殿は修復工事中で、社殿の写真を印刷した幕が掛かっている。工事は来年いっぱいかかるという。上野の東照宮は寛永4年(1627)に建てられた東照社に始まり、慶安4年(1651)には造営替えされ、明治期に修復されたあと、現在に至っている。
 「江戸図屏風」や「江戸名所図屏風」に描かれている門は、現在の唐門の屋根と90度向きが異なる平入りの門であり、現在の門とは別物かも知れない。唐門にある龍の彫刻については、左甚五郎作と伝えられ、また、この龍が不忍池の水を飲みに行くという伝説があるが、儀式用鐘楼の龍の彫刻と取り違えた話であろう。一般の人が上野の東照宮を拝観出来たのは明治以降のことであり、すでに焼失していた儀式用鐘楼の龍についての伝説が誤り伝えられたと思われる。

 桜通りに戻って先に行く。左側に小松宮像があるが、江戸時代には儀式用鐘楼があった場所である。その先の広場には、荷担堂や輪蔵、雲水塔、番神社などがあったが、上野戦争で焼失し今は跡形もない。上野公園の大噴水付近は最近改修され、南側の広場は広くなったが、北側の噴水の池は縮小されている。江戸時代、ここには江戸最大の建造物、寛永寺の根本中堂があったが、上野戦争で焼失し今は広場の西側に案内板を残すのみである。

 寛永寺本坊は現在の国立博物館の場所にあったが上野戦争で焼失し、表門だけが焼失を免れて、国立博物館の表門として使われた。その後、開山堂(両大師)の隣に移設。現在は修復工事中である。国立博物館の庭園は、本坊の庭園の面影を残しているということである。

 現在の寛永寺根本中堂は、川越喜多院の本地堂を移築したものだが、上野戦争の際に根本中堂から運び出された薬師如来を本尊として安置しているという。現・根本中堂に掲げられている「瑠璃殿」の額は本物の勅額と思われる。元禄時代、寛永寺の根本中堂に掲げるため、京都から「瑠璃殿」の勅額を江戸に運び込んだが、その日に大火が発生し、寛永寺も罹災した。この大火で根本中堂も焼失したという説があるが、江戸時代の文献では、本坊や霊廟は焼失したものの、根本中堂は防ぎ止めたとしている。幕府は勅額の複製を造り、根本中堂には複製を掲げ、本物は土蔵に格納した。上野戦争の時、複製の勅額は根本中堂とともに焼失したと思われるが、本物の勅額は残ったのではなかろうか。 

コメント

江戸名所記見て歩き(1)

2012-05-26 11:44:20 | 江戸名所記

 明暦3年(1657年)、明暦の大火または振袖火事と呼ばれる、江戸最大の火災が発生した。火元は三か所。折からの強風にあおられて、二日間に渡って燃え広がり、江戸の大半を焼失。焼死者は10万人という大惨事となった。幕府は直ちに復興に着手し、両国橋を架け、本所深川の開発をすすめ、大名・旗本の屋敷や寺社などの移転を図り、火除けのため広場の設置や、道幅の拡大など防火のための対策を行った。

 寛文2年(1662年)、復興後の新しい江戸についての案内書が出版された。江戸の案内書としては最も古い部類に属する「江戸名所記」である。著者は浅井了意で、京都で出版されている。「江戸名所記」は7巻から成り、80項目に渡って江戸の名所を取り上げ、項目ごとに本文と狂歌、さらに、京都の絵師の手になると思われる、様式化された挿絵を付けている。

 「江戸名所記」に取り上げられた江戸初期の名所は、その後どうなったか。江戸の終わりごろの様子は、天保7年(1836年)刊の江戸名所案内の決定版「江戸名所図会」により、ある程度は知る事が出来る。そして、今はどうなっているか、訪ね歩いてみるしかない。

 「江戸名所記」は、二人づれで名所を巡る形式をとっていて、次のように始まっている。
“うららかな春の日に誘われるように家を出て、何処へとも決めずに歩いていると、同じような気持ちの友人と行きあった。しばらく、立ち話をしていたが、このまま別れて帰るのも心残りなので、思いつきで、江戸の名所巡りの話をしたところ、江戸に長年住んでいるのに、人に名所を尋ねられて、まともに返事が出来ないのも変だし、話の種にもなる事なので、それは良いという事になった。早速、近くの茶屋に行き、酒を酌み交わしながら、名所めぐりの道筋を相談した。”

 それでは、今から、江戸の名所を見て歩く小さな旅に、出かけるとしよう。

<巻1>
1.1 武蔵国


 「江戸名所記」では、最初に武蔵国を取り上げ、国名の由来を紹介している。その由来だが、武蔵の国のうちに祖父が岳という、鎧武者が怒って立っているような姿の山があり、この山を見たヤマトタケルが、この国の人が猛々しいのも当然だと言い、この山の神が自らの軍を守るよう願って武具を山の岩蔵に納め山の神を祭ったため、武蔵と書くようになったとし、国中を平定したあと武具を差し置いたので、むさしの国となったとする。寛文5年(1665年)に京都で刊行された「日本国名風土記」にも同様な由来が載っているが、ほかにも、「大和本記」「風土記抄」「武蔵風土記」などという書にも同様な話があり、このような説が当時は流布しいていたと思われる。しかし、時代が下がるにつれて反論も出てきたようで、たとえば、武具を納める理由はないとする意見や、武蔵の国号は和銅の頃から後の話でヤマトタケルの時代には文字が無いとする批判、武蔵風土記などは後世の偽書で信ずるに足らぬとする見解、さらにヤマトタケルが武具を納めたのは青梅の武蔵御岳で秩父ではないとする説も出るようになる。歴史についての知識がさらに深まると、見狭下や下佐斯や総下から転じたとする説や、アイヌ語が語源とする説なども登場してくる。ただ、現在のところ、国名の由来についての定説といえるものはないようである。

 武蔵国は、7世紀半ばの大化の改新で、胸刺ムネサシ、无邪志ムサシと知々夫チチフが統合されて成立し、国府は現在の府中市に置かれたという。「続日本紀」では、768年に白雉が献上された際に武蔵の国号が定められたとする。江戸時代の初めまでは、武蔵国と下総国の境界は隅田川になっていたが、明暦の大火の後、隅田川の東側にまで江戸の市街地が拡大したこともあって、隅田川の東側、現・江戸川から西側が武蔵国に編入されることになった。編入の時期は、貞享3年(1686年)というが、もっと早いとする説もある。ただし、「江戸名所記」では、隅田川を武蔵と下総の境界と書いているので、編入以前の記述と考えられる。武蔵国には、現在の地名でいうと、島を除く東京都、川崎市、横浜市の一部、それに埼玉県のほとんどが含まれている。

 「江戸名所記」に祖父が岳とあるのは現在の武甲山のことであり、武光山、秩父が岳、妙見山などとも呼ばれていた。「江戸名所記」では、弘法大師が妙見大菩薩を勧請したので妙見の御岳と呼ばれるようになったと記しているが、鎌倉時代に秩父氏が妙見大菩薩を秩父神社に合祀した事から、神社の御神体である武甲山が妙見山と呼ばれるようになったという事のようである。武甲山は都内からも遠望することが出来るが、秩父市内からは間近に眺める事が出来る。ただ、セメント原料としての石灰岩の採掘のため山容が変わってしまったのが少々残念な気もする。芝桜の季節には羊山公園から眺める武甲山がベストで、以前、横瀬駅から芝桜の丘を経て西武秩父駅まで歩いたこともある。ただ、最近は、花時に限り入園料を取る事になったらしい。

1.2 江戸御城
 「江戸名所記」では、江戸城は大田道真が築城したあと、道灌が居城としたとする説をとっている。「江戸名所図会」では、築城を道灌としているが、今は、これが定説になっている。道灌が築城する以前にも、江戸氏の居館が江戸にあったと考えられているが、その場所は分かっていない。

 「江戸名所記」には、大手は東向きで大手門は南向き、本丸と南側の西の丸の間に紅葉山があり、城のまわりは大名小名の屋敷が軒を並べ、出入りの侍たちは大身も小身も礼法がきちんとして威儀正しく穏やかに見えると書かれている。また、五層の天守の挿絵が付けられ、鯱鉾の鱗の輝きが雲間に輝き海原に写ると書かれてもいるが、実際には、江戸城の天守は明暦の大火で焼失したあと、再建される事はなかった。

 「江戸名所図会」は、太田道灌の時代についての記事を中心としており、吹上御庭、松原小路、梅林坂についての記述はあるものの、江戸期の城については記載していない。図版の中にも、江戸城の遠望が描かれているだけである。おそらくは、幕府の意向に配慮した為であろう。

 浅井了意は、当然のことながら、外から江戸城を見ていたわけだが、現在では、江戸城の本丸と二の丸の跡地が皇居東御苑として無料で公開されているので、浅井了意に代わって、江戸時代の様子を思い浮かべながら歩いてみることにした。江戸時代、大手門には濠に架かる橋を渡って入ったが、この橋より少し手前に下馬所があり、大名や一部の重臣などを除くと、ここで馬から下りる必要があった。また、城内に入れる従者の数にも制限があったので、多くの従者は敷物を敷いて主人を待つことになった。「江戸城年始登城風景図屏風」には、登城の列や主人を待つ従者たちなど、濠の手前の広場の混雑ぶりが描かれているが、よく見ると天秤棒を持った物売りらしい姿も見える。人集まるところ商売ありである。それにしても、主人が城から出るまで待っていなければならない従者も大変である。

 大手門は高麗門、石垣の間に櫓を渡した櫓門、石垣、土塀で構成される枡形門である。高麗門を入って右に直角に折れると再建された櫓門がある。江戸時代には門の中に番所があり、櫓門の先にも番所があった。また、櫓門の先には幕府の財政を担当した下勘定所もあったが、これらの建物は現存していない。櫓門から左に行くと発券所があり、右手には、皇室から移管された美術品を展示する尚蔵館がある。その先、右手に大手休憩所がある。休憩所の先の石垣の場所は、大手三の門跡で、同心番所の建物が今もある。三の門は大手門と同じ形式の枡形門であった。

 江戸時代、三の門の手前は濠になっていて下乗橋が架かり、橋の手前と門の内に番所があった。大手門から入った大名のほかに、桔梗門(内桜田門)から入った大名も三の門を通ったが、ここから先、御三家以外の大名は駕籠から下りて歩く事になっていた。三の門跡を直角に曲がると、広場のような場所に出る。右手には石垣があり、修復についての説明板や石材が展示されている。左手には鉄砲百人組が昼夜交代で詰めた百人番所の建物が今も残っている。

 百人番所のある広場から北に行くと二の丸跡に出られる。江戸時代、二の丸との境にも門があったが現存していない。二の丸跡には後で行くことにし、石垣の間にある中之門跡に入る。その先には、与力が詰めていた大番所が今も残っている。一般の大名は三の門で駕籠から下りたが、御三家は中之門まで駕籠で入ることができた。中之門は櫓門であったが、枡形門ではなかった。

 中之門跡を通って左に行き、中雀門跡の坂を上がる。中雀門は、玄関前門または書院門と呼ばれ、石段を設けた枡形門である。江戸時代、中雀門を出た先には1万坪を越える本丸の殿舎が所狭しとばかり建っていた。本丸は、儀式や行政の為の場所である「表」、将軍の執務及び日常生活の場としての「中奥」、将軍の私邸である「大奥」から構成されていた。中雀門に近い側にあるのは「表」で、中雀門を出て正面やや左手に御玄関があった。御玄関の位置は、現在の本丸大芝生にそびえる二本のケヤキの辺という。登城した大名は御玄関から入って所定の殿中席に行き、老中など幕府の諸役人は玄関の右側を通って別の入口から下部屋(控室)に入り、そのあと殿中席や詰所に向かったという。中雀門を出て左側には塀があって、門を入ると御白州があった。御白洲の北側には、儀式を行う場として使用された格式の高い大広間があり、御白州を挟んだ南側には能舞台があって、慶事などの際には、町人も能を見る事が許されていた。

 中雀門跡を出て左に行き、富士見櫓を見に行く。この櫓は、八方正面の櫓と呼ばれた形の良い三重の櫓で、天守の代用をつとめた櫓でもある。富士見櫓を眺めてから北に行くと、本丸絵図を彫った石が置かれている。その位置は大広間北側の中庭の角にあたっている。西側の土手に沿って北に進むと、松之廊下跡に出る。ご存じ忠臣蔵の発端となった廊下だが、大広間から白書院に通じる廊下で、東側は中庭に面し、西側には御三家などの殿中席があった。松之廊下跡から先に進むと、富士見多聞に向かって土手を上がっていく道がある。江戸時代、この土手の下に池が作られていた。池の東側には白書院と黒書院があり、竹之廊下で結ばれていた。白書院と黒書院は「表」における応接間に相当し、将軍の謁見の場でもあった。黒書院の北側には「表」と「中奥」の境となる錠口があり通常は閉鎖されていた。

 富士見多聞は蓮池濠に面して建てられた、鉄砲や弓矢をおさめた防御の為の建造物である。富士見多聞の土手下から東側は、将軍の執務や生活の場である「中奥」に相当し、御座之間や御休息之間などが設けられていた。「中奥」は「表」と異なり、将軍の意向が強く反映されるため、代替わりごとに模様替えがあったという。五代将軍綱吉の時には、耐震性を考慮した地震の間が、本丸中奥のほか西の丸にも設けられていたが、活用されたかどうかは分からない。

 富士見多聞から道を下っていくと、その先に石室がある。「中奥」と「大奥」の境は、石室の南側になる。石室は「大奥」の御納戸に近かったため、石室に大奥の調度品を収めたという説があるが、抜け穴という説もある。石室から本丸休憩所に行き、小休止したあと、白鳥濠に面した展望台に上がり、二の丸方面を眺める。

 現在の展望台は、台所前三重櫓の跡地にあたる。櫓の名前にもあるように、櫓の土手下から西側は本丸の台所があった場所で、食料品や日用品を購入する賄方や、食品を調理し膳を用意する台所方が詰めていた。台所の北側には風呂屋門があり、その北側には奥坊主部屋などがあって、大奥との境になっていた。田安、一橋、清水の徳川御三卿は、将軍家の近親扱いであったため、登城する時は御三家とは異なり、平川門から入り風呂屋門を経て、ひかえ所に入ったという。展望台から下りて、今度は大奥跡の芝生を歩く。正面に天守台、右手には桃華楽堂が見える。楽部の庁舎の横から二の丸に下る坂は汐見坂である。

 天守台に上がって南を眺めると、今は芝生が見えるだけだが、江戸時代には、手前に「大奥」、その先に「中奥」と「表」の多くの殿舎が建てられていた。「大奥」は、将軍の寝所や御台所などの居室がある「御殿向」、奥女中の住居となる「長局向」、大奥の事務や警備を担当する男性の役人の詰めた「広敷向」から構成されていた。天守台から見て右の方向が「御殿向」であり、左の方向が「長局向」、左側の奥が「広敷向」になる。「長局向」は時代とともに変化し、後には天守台の左側まで拡大されるようになった。「大奥」と「中奥」との境は銅の塀で仕切られ、「大奥」には御鈴廊下が通じていた。「大奥」は将軍以外男子禁制であったわけではなく、必要とあれば男も立ち入ることがあった。例えば、病人を診察するために医師が入ったし、畳替えをする時は畳職人が入った。広敷の役人のほか幕府の一部の役人も、用事があれば中に入る事があった。大奥から城外に出る場合は、「広敷向」の広敷門を出て梅林坂を下り平川門から外に出た。

 天守台の北側から、江戸城の搦め手にあたる北桔橋門の一部が見えている。今は、皇居東御苑の入場口の一つになっているが、江戸時代には、幕府御金蔵に近く、天守や大奥に近いこともあり、深い濠、跳ね上げ可能な橋、枡形門によって、堅固な防備を誇っていた。

 江戸城の天守が明暦の大火で焼失した後、天守台は再建されたものの、天守が再建される事はなかった。幕府は復興のために莫大な資金を必要としていた。それにもかかわらず、眺めるだけの天守に金と時間をかけるのは如何なものかという意見が出たからという。まさに卓見というべきであったろう。いまや天下泰平の世。前時代の遺物とでも言うべき天守は、無用の長物にしか過ぎなかったのである。江戸城に天守が存在したのは初期の51年間に過ぎず、明暦以降の江戸城にはあえて天守が設けられなかった。長きにわたり政権の座にあった江戸幕府は、その存在自体が権威であったが故に、江戸城も、権威の象徴である天守を必要としない城として存続していたのである。ついでに言うと、江戸城は度々火災に見舞われており、現在の天守台にも後世の火災の影響が見られるので、仮に天守が再建されていたとしても、後に焼失した可能性がある。

 天守台を後にして、梅林坂を下る。坂の名は、太田道灌が天神を祭り、梅を植えた事に由来するという。二の丸庭園に行く前に、天神濠の先の平川門を見に行く。この門は「大奥」の通用門として使われた門であり、鑑札を交付された商人も、この門を通り、「大奥」の広敷向で御用を承った。なお、罪人や死人も平川門から出されたので、この門は不浄門とも呼ばれていた。

 二の丸庭園は何度か改修されているが、現在の二の丸庭園は、第九代将軍家重の頃の庭園を再現したものという。二の丸御殿は第三代将軍家光により別荘として使われたが、後に世継ぎの住居や将軍の隠居所などとして使用され、幕末には、天樟院(第13代将軍家定御台所・篤姫)の居所となる。天樟院が二の丸御殿に移る数日前、江戸に陳情に来ていた村役人が、江戸城に出入りしていた者に連れられて平川門から入り、老女(御年寄)の許しを得て、建て替えられたばかりの二の丸御殿を見て回ったという話がある。江戸城は警戒厳重で、城内を見物する事など出来る筈もないように思えるが、不可能なことではなかったらしい。江戸城には、門番、運搬、使い走り、修繕、お供など、身分の軽い下働きの者が多数働いており、彼らには鑑札が交付されていた。この鑑札さえ持っていれば、城内を通行することが可能だったようである。

 江戸城には、本丸と二の丸のほかに、三の丸、西の丸、紅葉山、北の丸があり、石垣や濠は江戸時代の姿がかなり残されている。しかし、建造物については、門や櫓や番所の一部が残されているに過ぎない。理由の一つは火災にある。本丸は5回、二の丸は4回焼失しており、再建されることなく明治を迎えている。西の丸は4回焼失したあと再建されたが、明治に入って焼失している。江戸城は難攻不落の城として造営されたが、実は火災という弱点を抱えていたのである。

コメント