夢七雑録

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山の歌・その3

2018-08-18 08:15:25 | 音楽、映画など

今回は、”金時山、6月と7月の尾瀬、木曽駒ケ岳、木曽御岳”と組み合わせる山の歌として、次の曲を選んでみた。「箱根八里」「夏の思い出」「この広い野原いっぱい」「いつかある日」「木曽節」

 (8)箱根八里・金時山

箱根の金時山(1212m)に登ったのは平成になってからで、仙石原から矢倉沢峠経由で頂上に出て乙女峠経由で仙石原に戻っている。上の写真は、その当時コダックから発売されたレンズ付きフィルムによるパノラマサイズのプリントである。

 金時山に組み合わせる山の歌として「箱根八里」を選んだ。この曲は「箱根の山」というタイトルで呼ばれていたが、「箱根八里」が正しいらしい。格調高い歌詞は東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授の鳥居忱の作詞で、当時はまだ学生であった滝廉太郎の作曲である。

“ 第1章 昔の箱根

 箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず

 万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う

 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす

 昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か

 一夫関に当たるや万夫も開くなし

 天下に旅する剛毅の武士

 大刀腰に足駄がけ 八里の岩ね踏み鳴らす

 斯くこそありしか往時の武士 “

 “ 第2章 今の箱根

 箱根の山は 天下の阻 蜀の桟道数ならず

 万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う

 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす

 昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か

 一夫関に当たるや万夫も開くなし

  山野に狩する剛毅の壮士

 猟銃肩に草鞋がけ 八里の岩ね踏み破る

 斯くこそありけれ近時の壮士”

 

(9)夏の思い出・6月の尾瀬

20数年前のことになるが、6月の尾瀬にミズバショウを見に行ったことがある。この時は大清水から三平峠を越えて尾瀬に入り一泊して尾瀬沼と尾瀬ケ原を歩いている。写真は至仏山を背景に池塘とミズバショウを撮ったものだが、尾瀬では定番の撮影ポイントになっている。

 尾瀬に組み合わせる山の歌は、むろん「夏の思い出」である。中田喜直作曲・江間章子作詞のこの曲は、NHKの委嘱によるもので、1949年に石井好子が歌っている。歌詞に出てくるミズバショウは夏の季語で仲夏の花である。最近は山に行かなくなっているため、尾瀬は歌詞にあるように、夏が来れば思い出す遥かな尾瀬になってしまった。

 

(10)この広い野原いっぱい・7月の尾瀬

7月の尾瀬にニッコウキスゲを見に行ったことがある。コースは鳩待峠から尾瀬ヶ原を経て三条ノ滝に立ち寄ってから一泊し、翌日は尾瀬沼から大江湿原を経て沼山峠に出ている。写真はニッコウキスゲの大群落である。ニッコウキスゲは夏の季語で晩夏に相当している。

 このコースに組み合わせる歌は、「この広い野原いっぱい」にしたい。小薗江圭子作詞で森山良子作曲のこの曲は1967年にリリースされているが、広い野原いっぱいに咲いているニッコウキスゲは、この歌詞にぴったりである。ただし、尾瀬では植物の採取は禁止されているので、小薗江圭子の歌詞の“この広い野原いっぱい咲く花を、ひとつ残らず”の後を、“あなたにあげない。だって尾瀬では採取は禁止”という替え歌にでもしないと、いけないかも知れないが。

 

(11)いつかある日・木曽駒ケ岳

木曽駒ケ岳にも登ったことがある。この時のコースは、ロープウエイ終点の千畳敷から乗越浄土を越え、中岳を経て木曽駒ケ岳(2956m)に至り、馬の背から濃ケ池を経て乗越浄土から千畳敷に戻っている。写真は木曽駒ケ岳山頂から見た鎗・穂高方面の眺望である。

 木曽駒ケ岳に組み合わせる山の歌は、「いつかある日」とした。この曲は昭和38年の「山のうたごえ」というソノシートに載っているが、フランスの登山家ロジェ・デュプラの詩をもとに登山家の深田久弥が訳詞、同じく登山家の西前四郎が作曲している。この歌は“いつかある日 山で死んだら”という一節で始まるが、ロジェ.デュプラ自身もヒマラヤのナンダデヴィ登頂中に若くして消息不明になっている。

 

(12)木曽節・木曽御岳

20年ほど前に木曽御岳に登ったことがある。コースは田の原から王滝頂上を経て木曽御岳山頂の剣ガ峰(3067)に登り、この日は二ノ池に泊まって翌日は御来光を拝んだあとロ-プウエの駅に下りている。上の写真は山頂から見た二ノ池である。

 木曽御岳に組み合わせるとしたら木曽節になるのだろう。この歌は御岳山節をもとにした盆踊り歌と言い、歌詞の中に木曽御岳が出てくる。

 

 “木曽のナー なかのりさん 

 木曽の御岳さんはなんじゃらほい

 夏でも寒いヨイヨイヨイ ”

 

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山の歌・その2

2018-08-15 19:27:22 | 音楽、映画など

今回は、阿蘇山、九重山、由布岳、富士山について、写真と山の歌をまとめてみた。

「フニクリフニクラ」「坊がつる賛歌」「山男の歌」「ふじの山」

 (4)フニクリフニクラ・阿蘇山

50年以上前に、阿蘇山ロープウエイの駅から、噴火口の横を通り、中岳を経て高岳(1592m)まで往復したことがあり、当ブログの「古いアルバムめくり」にも記事を書いている。上の写真は高岳の写真で、オリンパスペンで撮っている。

 阿蘇山に組み合わせる山の歌は、「フニクリフニクラ」だろう。この曲は、ナポリ近くのヴェスヴィオス火山に登山電車が出来た時の曲で、作詞はジュゼッペ・トゥルコ、作曲はルイージ・デンツァ。“赤い火を噴くあの山へ登ろう・・・”という日本語の歌詞は、青木爽・清野協の共訳による。この歌は、1961年にNHKの“みんなのうた”で取り上げられた。

 (5)坊がつる賛歌・九重山

「古いアルバムめくり」の記事にも書いたが、阿蘇山に続けて九重山にも登っている。この時のルートは長者原―すがもり越え―久住山頂―牧ノ戸峠―筋湯で、御池には行っているが、九州本土最高峰という認識が無かった中岳(1791m)には登っていない。上の写真は、オリンパスペンで撮った久住山である。

 九重山で山の歌と言えば、今では神尾明正作詞、竹山仙史作曲による「坊がつる賛歌」ということになるだろうが、久住山に登った当時は、坊がつるについての知識が無く、行ってもいない。「坊がつる賛歌」は広島高等師範山岳部の歌をもとに、九州大学生により1952年に作成されたという事だが、この歌を知ったのは1978年にNHK「みんなのうた」で芹洋子が歌ってからである。

(6)山男の歌・由布岳

大分県の由布岳は西峰(1583m)と東峰からなる円錐形の火山で豊後富士とも称されている。この山に登ったのはミヤマキリシマが咲いている頃で、鎖を伝って西峰に登ったあと、東峰に登っている。上の写真はオリンパスペンで撮った由布岳東峰である。

由布岳に組み合わせる山の歌として、「山男の歌」を選んでみた。この歌は神保信雄作詞、作曲不詳とあるが、海軍兵学校で歌われていた「巡航節」を戦後になって書き換えたものらしい。

例えば、“娘さんよく聞け 生徒さんに惚れるなよ 沖でドンと鳴りゃヨー若後家よ”という巡航節の歌詞を書き換えれば、“娘さんよくきけよ。山男にほれるなよ。山でふかれりゃヨ- 若後家さんだよ。”となり「山男の歌」になる。なお、ダークダックスは昭和37年の紅白歌合戦でこの曲を歌っている。

 (7)ふじの山・富士山

富士山には昭和40年代の中頃に一度だけ登ったことがあり、上の写真は、その時のものである。

 富士山の歌として一つ選ぶとすれば、やはり「ふじの山」になるのだろう。この曲は1911年の文部省唱歌で、巌谷小波作詞、作曲不詳である。

“1.あたまを雲の上に出し 四方の山を見下ろして 

かみなりさまを下にきく ふじは日本一の山“

2.青ぞら高くそびえたち からだに雪のきものきて

かすみのすそをとおくひく ふじは日本一の山 “

 

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山の歌・その1

2018-08-12 21:18:47 | 音楽、映画など

8月11日は山の日だったので、これを機に、歌ったことのある山の歌と、登ったことのある山とを適当に組み合わせてみた。

「アルプス一万尺」「山の大尉」「雪山賛歌」

 (1)アルプス一万尺・白馬岳

50数年前に北アルプスの白馬岳(2932m)に登ったことがあり、当ブログの「古いアルバムめぐり」にも記事を書いている。その時のコースは、猿倉―大雪渓―白馬岳―白馬山荘(泊)―不帰ノ嶮―唐松山荘(泊)―八方尾根で、当時は35mmフィルム・ハーフサイズ版のオリンパスペンにスライドフィルムを入れて写真を撮っていたが、上の写真はその中の一枚である。

 白馬岳に組み合わせる山の歌としては、「アルプス一万尺」はどうだろう。「アルプス一万尺」はアメリカ民謡のヤンキードゥードゥルのメロディに歌詞が付けられたもので、昭和36年の緑の歌集では歌詞が14番まであるが、歌詞は次々と追加されたらしく、今では29番まであるらしい。全部は歌いきれそうにないので、その中から適当に選んで歌っているのだろうか。ただ、歌われなくなって消えてしまった歌詞が他にもあった筈である。例えば、「山のうたごえ」というソノシートには、“裕ちゃんタフガイ 旭はマイトガイ そこに居る奴 問題外”という歌詞が載っているが、現在の歌詞には見当たらない。裕ちゃんとは石原裕次郎、旭は小林旭のことだが、この歌詞を歌う人はもう居ないのかも知れない。なお、「アルプス一万尺」は手遊び歌として童謡に分類される場合があるようだが、歌詞からすれば明らかに山男の歌なので、童謡として扱うのには違和感がある。

(2)山の大尉・瑞牆山

百名山の一にもなっている奥秩父の瑞牆山(2230m)に登ったのは、白馬岳の少し後のことである。「古いアルバムめくり」にも記事を書いているが、この時は増冨から瑞牆山まで往復している。上の写真はオリンパスペンで撮ったスライドを補正したものである。この時は夜行日帰りだったが、仮に増冨温泉に一泊したとしたら、「山の大尉」を歌ってみたい。

 「山の大尉」はイタリー民謡で、山岳兵と呼ばれる守備兵のことを歌っている。イタリー映画の「苦い米」の中でシルバーナ・マンガーノが歌っているそうだが、確認はしていない。現在は、牧野文子の訳詞が知られているようだが、昭和36年の緑の歌集には、これとは異なる、三沼太郎による下記のような訳詞が収められている。

 “1.山の隊長は傷ついた 苦しみこらえながら

   アルプス隊にあいたいと 息もたえだえに ことづけた

 2.部下の兵士は たちあがり 「行くには靴がない」と

   「靴がなくとも山越えて ここに来てくれ わが部隊」

 3.静かな山に朝陽さして 登りて つどう兵士

  「山の大尉よ 命令は」「われら山につきました」

 4.わたしが死んだ その時は 五つに ほねをわけて

   その一ひらを皇帝に いのちささげたかたみゆえ

 5.その二つめは連隊に アルプス隊のしるし

   三番目には わが母に 山の息子の 思い出に

 6.四つめのそれは 恋人に わが初恋のために

   のこりはすべて わが山に アルペンフローラの 咲く尾根に “

 

この歌詞は原詩の意訳のようだが、大尉と兵士の会話と情景描写が組み合わされて臨場感ある内容になっており、歌詞のラストにも心動かされるところがあるので、個人的にはこの歌詞で歌いたい。

 

(3)雪山賛歌・丹沢表尾根

丹沢表尾根をヤビツ峠から鍋割山まで縦走したことがある。3000m級の高山を歩くに当たって、足慣らしとして歩かれていたコースでもあったので、白馬岳に登る前に歩いていたかも知れない。上の写真は塔ノ岳(1491m)より手前の表尾根の写真で、オリンパスペンで撮ったスライドフィルムである。

このコースで歌うとしたら、「雪山賛歌」だろうか。この歌はアメリカ開拓当時の歌「いとしのクレメンタイン」のメロディに、後に第一次南極観測越冬隊隊長となる西堀栄三郎が歌詞をつけたもので、昭和34年の紅白歌合戦ではダークダックスが歌っている。“雪よ岩よ”で始まり、“山よサヨナラ ごきげんよろしゅう 又来る時にも笑っておくれ”で終わるこの曲は、山の歌の中では定番中の定番と言えるのだろう。

 

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