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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

無人島に持って行きたいレコード、映画、本

2025-04-07 18:56:01 | 随想ほか雑記

「無人島セレクション」という本を図書館で借りて読んでみた。この本では、“無人島でひとりぼっちになるとしたら、何を持っていくかというテーマで、①1枚のレコード、②1本の映画、③1冊の本について、18人の著名人が自分の考えを述べている。レコードを聴いたり、映画を見る事が無人島で出来るかどうかという疑問もあるが、出来るとしたらという事なのだろう。無人島では、他人との関わりが全て断ち切られることになるのだが、同じような状況になるのは無人島に限らないかも知れない。

 

私が無人島に持っていくとしたらどうするか、以下にまとめてみた。

(1)1枚のレコード

・バルトーク「ピアノ協奏曲第三番」 ゲザ・アンダ(ピアノ)。フェレンツ・フィリッチャイ指揮、ベルリン放送交響楽団。

1945年、バルトークは病床にありながらこの曲を作り続けていたが、最後の17小節はスケッチのみ残して、亡くなったと伝えられている。この曲は当ブログの“クラシック百人一曲”の中に私のベスト盤として取上げられているが、昔はこのレコードを大事にしまい込み、落ち込んだ時だけ、このレコードをかけていた。最近は、このレコードを聴くことも無くなってしまったが、無人島で暮らすことになったとしたら、落ち込んだ時に聴くため、このレコードを島に持って行くことにしたい。

(2)1本の映画

・ウォルト・ディズニーの映画 「ファンタジア」:VHSビデオ。ストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団。

この映画は音楽と映像を結合した作品であり、オーディオ・ビジュアルアートの先駆けとなる作品である。この作品のワールドプレミア(試写会)は1940年に行われたが時代を先取りし過ぎていたこともあってか あまり評価されなかったらしい。なお、この試写会より前にディズニーは、映画フィルムの光学録音サウンドトラックを利用して録音し、映写機9台を同時に動かして9チャネル超ステレオ再生も行っていたという。ステレオLPが登場する19年も前のことである。

この映画で音楽に相当するのは 次のクラシックの作品、8曲である。

「トッカータとフーガ・ニ短調」「くるみ割り人形」「魔法使いの弟子」「春の祭典」

「交響曲第6番田園」「時の踊り」「禿げ山の一夜」「アヴェ・マリア」

このうち、「トッカータとフーガ・ニ短調」の映像は、ドイツの前衛映画作家、フィッシンガーの助けを借りて、抽象的図形や線などが動き回る映像になっており、その他の曲についてはディズニーらしい映像がつけられている。

 

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無人島に持っていきたい本

2025-03-06 16:42:05 | 随想ほか雑記

無人島に一人だけで暮らすことになった時、持って行く一冊の本は何か”という問いがある。無人島と言っても様々で、人跡未踏の地で生き残ることも難しい無人島もあれば、横須賀から船で渡れる東京湾内の猿島のような無人島もある。ここでは、絶海の孤島ではあっても暮らしていく事は可能な無人島を取り上げる。例えば、島の住人すべてが島を出てしまったため、無人となった島で、家や畑はあり、生活のための道具も残されていたとしよう。暮らしていく事は出来るが、この無人島ではテレビやラジオは受信できず、インターネットも使えず、島の外とは切り離された状態にあるとする。いつ帰れるかも分からぬまま、一人だけで無人島に暮らすことになり、持参できる本も一冊だけ。複数冊からなる本は、そのうち一冊しか持参できないとすると、持参する一冊の本を何にするか、迷うところである。

 

座右の書がある人なら、その中から一冊を選ぶことも可能である。例えば、座右の書である「論語」一冊を持参し、日々の反省を込めて読み返すことも考えられる。ただ、残念ながら、座右の書というべきものは持っていない。無人島に住むことになって、他人との関わりが途絶えてしまった時、人はどう生きるかを教えてくれる一冊の本があれば良いのだろうが、今は持参する気にならない。せめて退屈を紛らわせる本が無いか、本棚を探して、ようやく一冊を見つけた。それが「季語辞典」だった。

<大後美保編「季語辞典」東京堂出版 昭和54年版>

 

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年末年始(2024-2025)

2025-02-04 18:29:27 | 随想ほか雑記

コロナに感染したのは2024年6月の事だが、年末になってある程度は回復したようで、距離の長いウオーキングはともかく、散歩ぐらいは出来るようにはなった。12月にはやるべき事が多いが、今はその多くを省略し、正月の準備としては門松ぐらい。年賀状も出さなくなった。除夜の鐘を聴く事も今は止めにして早く寝ているし、近くの神社への初詣も元日はパスして何日か後に出かけるようになっている。気がつくと、もう2月。12月と1月の散歩をもとにした記事の投稿も何とかしなければ。

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コロナに感染

2024-12-06 16:33:51 | 随想ほか雑記

コロナのワクチンは2021年6月から2022年9月まで4回接種した。5回目は去年の7月に接種する積りだったのだが、体調が悪く外出できなかったため接種しなかった。そして,今年の6月下旬。体温が38度あったので解熱剤を飲んだが、咳が止まらなかったため病院で診察してもらったところ、コロナに感染していたことが分かった。処方された薬は7日分で、この期間には夢遊病のような状態や幻覚のような症状があったものの、体温は7日後には平熱になった。ただ、7日過ぎても体調は良くならず、あまり食べられない事もあってか、体重はかなり減ってしまっていた。感染から二週間ほど過ぎて、三度の食事が出来るようなってからは体重も増加に転じ、近所を散歩する位の事は出来るようになった。そして現在、数時間程度ならウオーキングも出来るようになったが、老化は進行していたらしく、記憶力は多少衰えてしまったような気がしている。

 

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85歳+1歳・ 長崎富士塚

2024-09-24 13:47:00 | 随想ほか雑記

国の重要有形民俗文化財である長崎富士塚の山開きは、年1回だけで7月1日と2日に行われるが、去年は体調を崩して行けなかった。今年こそはと思っていたのだが、今度はコロナに感染して体調不調となり、今年も山開きに行けなかった。今は体温も平熱に戻ったが、二度ある事は三度ありそうなので、来年の山開きも行かないことにした。

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辰年・1952年

2024-06-02 07:52:05 | 随想ほか雑記

本箱を整理していたら辰の木版画が出てきた。1952(昭和27年)の年賀状に使う積りだったようだが、途中で彫るのを止めている。何故そうしたのかは覚えていない。ところで、木版画の裏には「ジャングル大帝」の図の写しのようなものが描かれている。当時、近所の少年から「漫画少年」という雑誌を見せてもらったことがあったが、「ジャングル大帝」もこの雑誌に掲載されていたのである。1952年は私が中学を卒業した年に当たる。当時は進学しない人も少なからずおり、進学した人も高校は別々であったので、卒業とともに同級生はばらばらになってしまった。そして、「漫画少年」を読むことも3月で終わりという事になった。

 

1952年は吉田内閣の時代で、戦後の復興がほぼ終わった年でもあり、3月には米国との平和条約が批准され、4月には日本が主権を回復している。ただ、5月にはメーデーで死傷者が出るなど各地でデモ隊と警官隊との乱闘が生じた年でもあった。スポーツの面では、5月に白井義男が世界チャンピオンになり、7月には日本もヘルシンキ・オリンピックに戦後初めて参加している。

 

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令和の年末年始

2024-01-29 18:07:38 | 随想ほか雑記

平成30年(2018)までは、NHKの紅白に続いて「ゆく年くる年」を見て過ごし、遠くの除夜の鐘の音を聞きながら0時0分に一陽来復の御札を貼り、年が明けてからは例年通り虎ノ門や浅草に初詣に出かけ、また近くの神社にも初詣に出かけていた。平成31年(2019・令和元年)になってからは、NHKの紅白は見なくなったが、それでも、一陽来復の御札を貼ることは続けており、令和2年(2020)の初詣も例年通り続けていたが、新型コロナによる緊急事態宣言が出され外出を自粛したため、一陽来復の御札を戴くことは取りやめ、大晦日に遅くまで起きていることも無くなった。そして、令和3年(2021)、令和4年(2022)、令和5年(2023)も、一陽来復の御札を貼ることは無くなり、虎ノ門や浅草への初詣もやめてしまったが、近くの神社への初詣は続けていた。そして、令和6年(2024)の正月。おせちは止め、年賀状も出さなくなったが、近くの神社への初詣と門松だけは続けている。

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85歳の壁

2023-12-23 07:47:46 | 随想ほか雑記

 

今年(令和5年)、85歳の誕生日を迎えることになった。年の割に元気だと思ってはいるのだが、長い距離を歩くウオーキングに参加するのは諦めることにして、散歩に近いウオーキングだけを続けることにした。6月のある日、国の重要有形民俗文化財である長崎富士塚を見に行ったときに、7月1日と2日に山開きの行事があることを知り、行ってみる積りでいた。しかし、6月の終わり頃に体調を崩してしまい、入院には至らなかったものの、1ヶ月近く外出を控えざるを得なくなった。

8月になって、近くの公園まで何とか歩けるようになった。それからは少しずつ距離を伸ばし、9月、10月、11月と歩く距離を増やすようになり、12月には長崎富士塚を見に行く事が出来た。ただ、長崎富士塚の開山は年に一度だけなので、今年は眺めるだけ。富士塚に登るのは来年にまわすことにした。今年もあと九日。この一年、85歳の壁かも知れぬものもあったが、何とか壁を越えられそうなところ迄は来た。果たして・・・・。

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70歳、80歳の壁を越えて

2023-11-30 16:52:41 | 随想ほか雑記

(1)50歳は曲がり角

老後の事を考えるようになったのは、50歳になってからだったと思う。当時は60歳が定年であったので、このまま仕事を続けて60歳になったら、のんびり暮らすという選択肢もあるにはあったが、そんなことは考えたくなかった。その後、60歳から先も働き続けられる職場がある事を知り、定年まで待たずに退職して転職することにした。給与は減る事にはなったが、それでも、長く働き続ける方を選んだのである。

       

(2)70歳の壁を越える

転職先の定年は65歳であったが、その後も非常勤の嘱託として67歳まで働いた。嘱託を辞めてからは年金暮らしになったが、老後の備えとして預貯金については早くから準備していたので、贅沢をしなければ日々の暮らしを続ける事が出来た。退職後、勤め先の行事にOBとして参加する機会はあった。また、勤め先の同好会はOBも参加が可能だったので、ウオーキングの同好会にOB会員として加入する事にした。実は、歩いた距離の累計が所定の距離に達すると表彰されるという事があり、それが目的の一つでもあった。

69歳の時、江戸時代の歴史について興味を持つようになり、江戸東京博物館の友の会に入会した。また、このブログ「夢七雑禄」を始めたのも、この年である。その翌年、平成20年(2008)、70歳の壁を、壁と思わずに乗り越えていた。

 

(3)80歳の壁を越える

このブログ「夢七雑禄」を始めた頃は、ブログの訪問者はまだ居なかったと思う。何年か経ち携帯からもアクセス可能にした頃から訪問者は少しずつ増えるようになり、そして現在は一日当り3桁の訪問者が居る。内容的にはアクセス数の多いブログとは言えないのだろうが、現在の訪問者数は作成者として有り難い数である。仕事が無くなった今は、ブログが仕事の代わりになっているのかも知れない。そしてウオーキングがそれを支えているのだろう。

平成25年(2013)、今までの保険証に代わる後期高齢者保険者証が送られてきた。この年、この保険証を使う必要が生じ一週間ほど入院したが、退院して暫くしてからは、旅行はともかく、散歩するぐらいの事は出来るようになっていた。

 それから5年。ブログの記事を書くため都内の各所を歩き回り、時にはウオーキングの会に参加し、時には博物館や美術館、公園や寺社を訪れることもあった。そして、気がついたら、80歳の壁を、壁と思わずに乗り越えていた。

それから5年が経ったが、85歳の壁を乗り越えられたかどうか、今はまだ分からない。

 

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雪中四友

2023-02-28 17:27:47 | 随想ほか雑記

“雪中四友”という言葉がある事を知り、広辞苑で調べてみたところ、“画題:玉梅・臘梅・茶梅(さざんか)・水仙の称”とあった。描きたいものが見つけにくい雪の季節であっても、冬に花を咲かせる梅や臘梅、サザンカや水仙は画の題材として使えるので、困った時に助けてくれる友人のような存在なのだろう。そこで、今まで撮った写真の中から、冬に花を咲かせる、梅、臘梅(ロウバイ)、山茶花(サザンカ)、水仙の写真を探してみた。

 

(1)梅

写真は目白庭園でのもので、2016年1月の撮影。庭園内には雪がまだ残っていた。

「梅つばき早咲ほめむ保美の里」:芭蕉

 

(2)臘梅(ロウバイ)

この写真も目白庭園でのもので、撮影は今年の2月。この日、雪は無かった。

「臘梅や雪うち透す枝のたけ」:芥川龍之介

 

(3)山茶花(サザンカ)

今年2月10日、都内に大雪警報が発令された日の写真である。写真の花は寒椿(カンツバキ)かも知れないが、寒椿をサザンカの園芸品種の一つとする考えもあるようなので、サザンカとして取り上げることにした。

「山茶花のここを書斎と定めたり」:正岡子規

 

(4)水仙

今年の2月、目白の森での撮影。園内には他にも水仙があった筈だが、この日は見当たらなかった。

「水仙や寒き都のここかしこ」:蕪村

 

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