夢七雑録

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帰途

2010-08-15 15:05:59 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 大正時代の欧米出張の旅を、絵葉書によりたどってきましたが、パリでの日程を終えた後は、マルセイユから帰国の途についたと思われます。大正13年頃、日本とヨーロッパを結ぶ欧州航路には、日本郵船が1万トン級の客船を揃えていましたので、そのどれかに乗船したのでしょう。

 欧州航路の所要日数はロンドンと横浜の間で約50日、途中の経由地は、ジブラルタル、マルセイユ、ポートサイド、スエズ、コロンボ、シンガポール、香港、上海、神戸でした。スエズ運河を通り、波の荒いインド洋を渡って、ようやくコロンボに着いたところで、一息ついたのでしょうか、絵葉書(ペラデニヤ植物園の写真)を購入しています。

 シンガポール、香港を経て上海まで来れば、日本はもうすぐ。蘇州の絵葉書は、この上海で入手したものでしょう。次の寄港地の神戸では、数日停泊することになるので、恐らく、神戸で下船し、鉄道で東京に向かったと思われます。マルセイユから神戸まで40日近い船旅でした。大正13年に、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、パリを視察して回ったとすると、4カ月近くかかったと思われます。そのうち、船旅の日数は延べで2カ月を越えていました。当時の海外出張は、多くの日数を海上で過ごしたということになります。それでは、その頃の船旅はどのようなものだったのでしょうか。次に、この点についてふれ、絵葉書による海外の旅を締めくくることにします。

 大正13年頃の日本郵船の欧州航路には、1万トン級の箱根丸、榛名丸、筥崎丸、白山丸が配備されていました。これらの船は、現在、横浜の山下公園に係留されている氷川丸より少し小さい船と考えれば良さそうです。歌人で医師でもあった斎藤茂吉(1882-1953)は、ウイーンとミュンヘンにおいて医学の研究に従事していましたが、大正13年11月30日にマルセイユから帰国の途につきました。その時の日記、日本帰航記が残されているので、この日記により、大正13年の頃の船旅をたどってみることにしましょう。

●大正13年11月30日(日)。榛名丸に乗船。マルセイユを出帆。
●12月1日(月)。夜、ストロンボリ火山の火が見える。
●12月2日(火)。朝、シチリア島のエトナ山の白雪を見る。
●12月3日(水)。クレタ島を見る。
●12月4日(木)。見渡す限り海。茂吉の妻は船酔いとなる。茂吉は読書、雑談、昼寝で過ごし、夕食のあと風呂に入る(茂吉は、しばしば風呂を利用している)。
●12月5日(金)。早朝、ポートサイドに到着。小舟に乗って上陸し、町を歩いて買い物をする。出航は11時頃。スエズ運河を通る。夕食後、トランプ遊びを見物したり、読書をして過ごす。夜、船は大きな湖水(ビーター湖?)を通る。
●12月6日(土)。荒涼とした風景のスエズ運河を通り、紅海に入る。茂吉は、写生や読書で過ごす。茂吉の妻が、する事が無く退屈だと訴える。
●12月7日(日)。紅海を航行。海は静かで、陸は全く見えない。イルカを眺めたり、読書や輪投げで過ごす。茂吉は、短歌を詠もうとしたが思うように出来なかったこと、夕食に鰻丼が出たが期待したほどでなかったこと、蓄音機で浪花節を聞き久しぶりに日本の気持ちになったこと、夜は相変わらず寝苦しく汗が滲んで度々目が覚めたこと等を日記に書いている。
●12月8日(月)。紅海を航行。太陽の光が強く昼寝をしても暑くて目が覚める。
●12月9日(火)。紅海を航行。11時半頃、前方に島(ペリム島?)が見える。風も強くなり、凌ぎやすくなる。午後4時頃、モカの町が見えてくる(コーヒー発祥の地とされ、コーヒーの積出港でもあった町)。夕食は鋤焼で竹の子や卵も入っていた。食事が終わる頃、榛名丸は、紅海の入口、バベルマンデブ海峡を通過するが、箱根丸と行きあい、沢山の明かりをつけ、汽笛を鳴らしてすれ違う。
●12月10日(水)。アラビア海を航行。天気晴朗。波はやや低い。茂吉は医局に行き、床屋にも寄る。小説を読み、夕日を眺め、雑談して過ごす。
●12月11日(木)。アラビア海を航行。朝、ソコトラ島を見る。デッキゴルフや読書で過ごす。夕食は刺身に白飯で、貪り食ったと茂吉は書いている。
●12月12日(金)。インド洋を航行。天気晴朗。波はやや高い。海のほかは何も見えない。デッキゴルフ見物や雑談、読書で過ごす。茂吉の妻は船酔いとなる。
●12月13日(土)。インド洋。一面の雲。デッキゴルフ見物と読書で過ごす。午後、小雨。乗客同士の陰口。トランプや花合の遊びに船長や事務長も付き合う。
●12月14日(日)。インド洋。蒸し暑くて目が覚める。裏話、洒落、悪口で船中は持切りになる。夕食は鳥飯で、食後に船長が船について色々の話をする。
●12月15日(月)。インド洋。暑気激しい日。久しぶりに樹木の茂る島、ミニコイ島が見えてくる。夜の食事の後、船員による芝居や歌や合奏が行われた。
●12月16日(火)。蒸し暑い日。夜、コロンボに到着。デッキ・パッセンジャー(甲板を居所とし食事も自炊する、料金の安い乗船客)が乗船。午後10時半頃にコロンボに上陸して買い物をしたあと、午後11時半に船に戻る。
●12月17日(水)。7時半に上陸。コロンボ市内を見物、9時半に戻る。10時半出帆。遠く雨が柱のように降るのを見る。夕食のときパイナップルを食べる。
●12月18日(木)。ベンガル湾。天気晴朗。風は強い。パパイアを食べる。昼食はセイロン風カレーを食べる。夕食には刺身が付く。
●12月19日(金)。ベンガル湾。雑談したあと、脚本を読んで過ごす。非常に蒸し暑い晩で寝苦しく、窓を開けて寝る。
●12月20日(土)。ベンガル湾。ゴルフ見物や雑誌を読んで過ごす。午後、スマトラの前の島が見えてくる。富士山のような山も見える。風は強いが蒸し暑い。夕食後にスコール。午後9時、船員による仮装行列が行われ投票用紙が配られる。
●12月21日(日)。スマトラ海峡(マラッカ海峡)。朝、スコール。船員の消火訓練がある。右にスマトラの一部が見える。午後、雨が上がる。日が沈み、海は鉛のようになる。夕食は鋤焼であった。
●12月22日(月)。11時頃から島が見え始める。シンガポールに到着。午後2時に上陸して町を見物し船に戻るが、夕食後にまた出かけ、午前1時に戻る。
●12月23日(火)。朝食もとらずに町に出かけ、在留邦人の案内で町を見て回り、午後3時に船に戻る。午後4時頃に出帆。
●12月24日(水)。南シナ海。快晴だが、モンスーンの影響で波は高く、船は上下動やローリングをくりかえす。茂吉の妻が船酔い。
●12月25日(木)。南シナ海。波が高く、船の上下動が続く。デッキゴルフや、新聞を読んで過ごす。
●12月26日(金)。南シナ海。波は荒い。晴れたり曇ったり。船客のうちに元気のない者が居る。夕食は、うどん。驟雨。熱帯の暑さは無くなってきた。 
●12月27日(土)。海はやや凪ぐ。無線電報のニュースを読む。読書、雑談で過ごす。昼寝の後の茶の時間に汁粉を食べる。
●12月28日(日)。曇り。海は凪ぐが風は強い。すこし涼しい。
●12月29日(月)。曇りのち晴れ。香港に到着。市内を見て回る。
●12月30日(火)。市内見物。11時半に船に戻る。12時10分出帆。この日の夜、茂吉は、養父の青山脳病院が焼失したとの電報を受け取っている。
●12月31日(水)。台湾海峡を通る。海上は霞。茂吉は何も手につかなかったようで、夕食のソバを食べ風呂に入ったあと、茶話会にも出ず、早く寝ている。
●大正14年1月1日(木)。モーニングを着て食堂に行き、屠蘇や日本酒を飲み、雑煮や赤飯を食べ、船長の音頭で天皇陛下万歳を唱え、新年おめでとうと言う。サロンではカルタ会も行われた。茂吉は欠席。冷静では居られなかったようだ。
●同年1月2日(金)。上海到着。茂吉は市内見物のあと、上海歌人の会に出席。
●同年1月3日(土)。朝6時半、出帆。長江に雪が降る。荷物を片づけ始める。
●同年1月4日(日)。朝、済州島が見える。午後3時半、壱岐か対馬が見える。九州の島も見えてくる。ボーイなどに渡すチップの額を考え始める。
●同年1月5日(月)。瀬戸内海を通る。荷物を片づける。そのうち検疫船が来る。税関吏も来る。午後5時、神戸到着。迎えの人々が来る。荷物を手配する。 
*茂吉は帰朝歓迎会に出席したあと、1月7日朝に汽車で東京に向かっている。

  以上が、マルセイユ・神戸間、37日間の斎藤茂吉の船旅のあらましです。もちろん、これは一例に過ぎないわけですが、大正時代の欧州航路の様子をうかがい知る事はできます。この日記からすると、欧州航路は、船でのサービスが良く、食事も日本人向きのものが用意されていて、当時としては上質な船旅が出来たようです。それでも、長旅ゆえの憂さがあったかも知れません。 (完)

 今回の連載にあたり、次の資料を参考とさせていただきました。

「絵はがきの時代」「北太平洋定期客船史」「近代欧米渡航案内集成7」「ニューヨーク・摩天楼都市の建築を辿る」「100年前のニューヨーク」「路面電車の技術と歩み」「よみがえるロンドン・100年前の風景」「バスの文化史」「ロンドンから行く田舎2」「図説・地図で見るイギリスの歴史」「ブリュッセルの歴史散歩」「世界歴史の旅・パリ-建築と都市」「100年前のパリⅠⅡ」「観覧車物語」「斉藤茂吉全集第29巻」、その他の資料、各種ホームページなど。
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パリ(6)

2010-08-12 19:18:57 | 大正時代の絵葉書による海外の旅


 上は、裁判所とサント・シャペルを描いたTUCKのポストカードです。今との違いは、行きかう人々と車ということになるでしょうか。

 上のカードは、サン・ジャックの塔の写真で、YVON社製です。前景になっているのは、シャトレ広場にある、ナポレオンのエジプト遠征記念円柱の下部、パルミエの泉のようです。その説明書きによると、13世紀半ばから1357年まで、この場所には上流市民の拠点であった会議場があったということです。

 上のカードは、ルイ・フィリイップ橋の写真で、YVON社製です。この橋は1862年に架けられました。

 上は、メディチ広場(現在はエドモン・ロスタン広場)とパンテオンを描いた、TUCKのポストカードです。この絵では人通りが少ないように見えますが、ここは、100年前から人通りの多い場所であったそうです。

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パリ(5)

2010-08-09 20:14:40 | 大正時代の絵葉書による海外の旅


 上のYVON社のカードは、ノートルダム寺院の上のキメラと、上から眺めた寺院前の広場とセーヌ川の写真です。サント・シャペルの尖塔も見えています。

 上のYVON社のカードは、ノートルダム寺院の上のキメラの写真ですが、右側にサン・シュルピス教会の塔が見えています。

 上のYVON社のカードは、ノートルダム寺院の上のキメラと展望写真です。中央に商事裁判所のドーム、左側にサント・シャペルの尖塔が見えています。

 上のYVON社のカードは、ノートルダム寺院の上のキメラと展望写真です。近くにサン・ジャックの塔が見えていますが、遠くに見える筈のサクレ・クール寺院は、この写真ではかすんでしまって、識別できません。

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パリ(4)

2010-08-06 21:42:46 | 大正時代の絵葉書による海外の旅


 上のカードは、新橋という名の古い橋、ポン・ヌフの写真でYVON社製です。橋の向こうにアンリ4世の像が見えています。

 次のカードもYVON社の写真で、グランゾギュスタン河岸の古道具市、ブリック・ブラッカを写したものです。サンミッシェル橋の向こうにノートルダム寺院が見えています。

 次のカードもYVON社で、アルシュヴェシェ橋とノートルダム寺院の写真です。釣りをしている人が居て、それを眺めている人もいる、そんな、のどかな風景。

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パリ(3)

2010-08-03 19:40:39 | 大正時代の絵葉書による海外の旅


 上の写真は、ルーヴル美術館のフロール館を、テュイルリー庭園から眺めたものです。YVON社製のカードですが、ポストカードとしても使えそうです。

 上の絵葉書は、ナポレオンの円柱のあるヴァンドーム広場の写真です。今とあまり変わらない光景ですが、車には年代を感じます。

 上の絵葉書は、1875年に開場したオペラ座の写真です。オペラ座はパリ社交界の殿堂でしたが、そんな雰囲気を感じさせる写真です。

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パリ(2)

2010-07-31 08:38:50 | 大正時代の絵葉書による海外の旅


 上の絵葉書は、1900年のパリ万国博の際に建てられたグラン・パレとプティ・パレを北側から描いた絵で、TUCKのポストカードです。右側のガラス天井のグラン・パレ(現在は美術館、博物館など)と、左側のプティ・パレ(現在は美術館)の間に、よく見ると、自動車に混じって馬車の姿も見えています。

 次の絵葉書は、アレクサンドル3世橋の写真です。大広場の向こうにアンヴァリッドの建物(廃兵院)と、その後にあるアンヴァリッド教会のドームが見えています。この写真では見難いのですが、橋の上に荷物を運んでいる馬車が見えています。

 次の絵葉書は、コンコルド広場の絵ですが、今と違うのは、行きかう人々と自動車の型式、それに騎馬の人ぐらいでしょうか。

 次の絵葉書は、ロワイヤル通りと、その奥にあるマドレーヌ寺院の写真です。通りの建物や寺院の姿も、交通渋滞している通りの風景も、今と同じようですが、よく見ると、通りは自動車と馬車で渋滞しているようです。当時、すでに時代遅れになっていた馬車を、ステイタス・シンボルとして使用する人も居たのでしょう。

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パリ(1)

2010-07-28 21:38:12 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 絵葉書により、大正時代の海外出張の旅をたどってきましたが、今回からパリに入ります。そこで、今も昔のままに残るパリの、そして、今は変わってしまったパリの風景を、1924年に現地で買い求めた絵葉書で見ていきましょう。

 最初のカードは、トロカデロ庭園から見たエッフェル塔の写真です。この庭園は、象やサイ、雄牛、馬の像がアクセントになっていました。このカードはYVON社が制作したものですが、ポストカードの表示は無く、切手を貼る枠も記されていません。同社は、単なる観光絵はがきではなく、観賞用の写真のカードとして出版したのかもしれません。もっとも、宛名を書いて切手を貼れば、葉書として通用したのでしょうが。

 次の絵葉書は、1876年に建てられたトロカデロ宮殿の絵です。この宮殿には6000人収容のホールがあり、地上80mの塔にはエレベータで上がることができました。しかし、1937年に取り壊されて、現在のシャイヨ宮が建てられました。なお、この絵葉書の出版は、飛び出す絵本を出版したことでも知られるラファエロ・タック&サン社(TUCK)ですが、この会社はポストカードの普及にも熱心な会社でした。

 上の絵葉書は、1836年に建てられたエトワール広場の凱旋門の上からの展望写真です。右側のクレベール通りの先に二本の塔が見えていますが、トロカデロ宮殿の塔です。また、エッフェル塔の左側に、微かに丸い輪のようなものが見えますが、1900年のパリ万博の際にシュフラン通りに建てられた、ラ・グラン・ルー(大観覧車)のようです。何れも後に取り壊されて、現在はありません。

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ブリュッセル

2010-07-25 10:12:26 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 イギリスでの日程を終えたあと、ベルリンに向かったと考えられますが、ドイツの絵葉書が無いのでパスして、ベルギーのブリュッセルを取り上げることにします。

 上の絵葉書は、ブリュッセルの大広場(グラン・プラス)の写真です。左側は市庁舎、右側が王の家と呼ばれている建物(現・市立博物館)、中央の奥がギルド・ハウスです。この写真では少々分かりにくいのですが、大広場で花市が開かれているようです。

 次の絵葉書は、ギルド・ハウスの写真ですが、花市の様子が写されています。ギルド・ハウスとは、昔、同業者組合が入っていた建物のことで、絵葉書の説明書きによると、一番左が小間物商、その右が船頭、その右にある雌狼という名の建物が射手(治安維持・警備を担当していた人達という)、四番目が家具屋と樽屋、五番目が油脂業者、そして一番右がパン屋の、それぞれの組合が入っていた建物ということになります。

次の絵葉書は、1873年に建てられた証券取引所(現在はユーロネクスト・ブリュッセル)の写真です。路面電車の通っている道路は、アンスパッハ大通りで、証券取引所の右側には市庁舎の塔が見えています。

 次の絵葉書は、1924年以前のアンスパッハ大通りの写真です。この写真には写っていませんが、証券取引所は写真の右側です。

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イギリス田園風景(2)

2010-07-22 19:55:29 | 大正時代の絵葉書による海外の旅

 上の絵葉書は、ワイト島のオールド・ヴィレッジ、シャンクリンを描いたクイントンの水彩画です。ワイト島は避暑地として古くから利用されていた場所で、この絵でも、道の奥の、古い村に相応しい造りのホテルの前に、避暑客らしい婦人の姿が見えています。

 次の絵葉書は、デボンの道という題で、リントン付近を描いたクイントンの水彩画です。19世紀の末には、河口のリンマスから山上のリントンまでケーブルカーが開通していましたが、クイントンも利用したのでしょうか。

 次の絵葉書は、英国王室の属国で、オートバイのレースでも知られているマン島の、サルビー・グレンの風景を描いたクイントンの水彩画です。

 絵葉書の束の中には、キツネ狩りと思われる絵が入っていました。海外出張の途中で、このような場面に遭遇したとは思いませんが、イギリスの風習の一つとして興味をひかれて入手したのでしょう。このカードは、ポストカードではなく印刷物となっていますが、切手を貼って宛名を書けば絵葉書として使えそうです。

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イギリス田園風景(1)

2010-07-19 09:23:22 | 大正時代の絵葉書による海外の旅
 持ち帰った絵葉書の中には、イギリスの村を描いたものが幾つか含まれていますが、大正13年の海外出張の折に、これらの村をわざわざ訪ねたとは考えにくいので、恐らく、風景画の絵葉書として買い求めたのでしょう。

 上の絵葉書は、ケントのチディングストーンを描いたバートンの水彩画です。現在、この場所はナショナルトラストの管理下にあるということです。

 次の絵葉書は、今も昔の景観を残している小さな村、ケントのビデンデンを描いたクイントンの水彩画です。道の奥にオール・セインツ教会が見えています。

 次の絵葉書は、サリーのドーキングを描いたクイントンの水彩画です。橋の名はボックスヒル橋です。

 次の絵葉書は、サセックスのブランバーを描いたクイントンの水彩画です。絵を良く見ると、家の背後に古城のようなものが見えますが、ブランバー城でしょうか。この城はハワード家の本拠でしたが17世紀に放棄されて廃墟になっていたといいます。今は、この絵が描かれた当時より廃墟化が進んでいるかも知れません。

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